古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下広谷白山神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市下広谷1155
             
・ご祭神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理姫尊
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元旦祭 春祈祷 43日 天王様 714日 
                  御日待 
1014
 川越市下広谷地域は同市北西部にあり、大谷川流域の低地および台地に立地している。嘗ては鶴ヶ島市の上広谷、並びに五味ヶ谷両地域とで一村を成していたという。
 小堤八幡神社から一旦埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線に戻り、「小堤」交差点を右折する。その後、鶴ヶ島市方向に850m程進んだ、押しボタン式信号のある交差点のすぐ先の丁字路を右折、そのまま道なりに北行すると、つきあたりとなり、ほぼ正面に下広谷白山神社が鎮座する場に到着できる。敷地内に専用駐車場が数台分完備されているのは有難い。
        
                 
下広谷白山神社正面
『日本歴史地名大系』 「下広谷村」の解説
 小堤村の北西、大谷川流域の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上広谷村・五味ヶ谷村(現鶴ヶ島市)と一村であったが、まず五味ヶ谷村が分村し、次いで広谷村が慶安元年(一六四八)の検地により上・下に分村したという(風土記稿)。小田原衆所領役帳に小田原衆の御宿隼人佑の所領として「廿六貫五百卅六文 入西勝之内広野」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿に広谷村とみえ、田高三〇六石余・畑高二七八石余・野高六石、ほかに野銭永二貫六八〇文、川越藩領と旗本三家の相給。

 下広谷地域の北東部には、県指定記念物である「大堀山館跡」があり、室町期から戦国期にかけての館跡と考えられる史跡である。現状は、山林及び宅地となっている。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には、「下広谷村古跡三ケ所」の項に「土人城の跡と唱えて何人の居跡なることを伝へず」との記載があり、当館跡はそのうちの一つと考えられる。周辺には戦国期の城館跡がいくつかあり、隣接する首都圏中央連絡道の建設に伴う発掘調査によって、15世紀中葉から15世紀後半、及び16世紀代と推定される遺構が検出されているが、築造年代・築造者・城主とも明らかではない。
 大堀山館跡は、面積は約396,000平方メートル(約9,160坪)程で、三重の堀・土塁に囲まれた「方形館」と考えられる。本郭とされる部分は東西約90メートル、南北約55メートルで、堀の上幅は約3メートル、深さ約1.5メートル、土塁上端までは2.3メートルを測る。出土した陶磁器などの遺物は15世紀後半とみられ、そのころ武蔵北部を戦場とした山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争乱に関係する城館跡群の一つとして、重要な史跡であるという。
        
             入り口付近に設置されている案内板
 白山神社
 所在地    埼玉県川越市大字下広谷一一五五番地
 社 名 白山神社
 御祭神    伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理媛尊
     
徳川時代の作と言われる観音様一体
 社 殿 本殿 拝殿 幣殿
 境内地 100.9
 祭 儀 一月一日 元旦祭 四月三日 春祈祷
     
七月一四日 天王様 十月十四 日御日待
 当白山神社は神代より降り積る雪のいや自く、古より越のしらやま、と詩や歌に詠まれた富士山、立山と並んで日本の三名山と仰がれる霊峰白山に鎮まります白山比咩大神、石川県石川郡鶴来町に奉斎されている白山本宮加賀一の宮白山比咩神社より分社されて当地に祭られて今日に及んで居ます。(中略)
 奈良時代霊亀二年(一二六三年前)に駿河など七ヶ国に住む高麗人千七百九十九人を武藏に移して入間郡を分割して高麗郡となるに及んで、広谷村も武蔵国高麗郡となる。従って霊亀以前すでに集落を形成して居た事が明らかで、当時より産土神として村人たらに崇められていた。又、暦応元年当時の板石塔婆(六四〇年前)、正保年間の地蔵様(三三四年前)、元禄時代の位碑 等、その後の資料は続いて出ています。
 慶安元年広谷村が上広谷、下広谷に分かれて居りますが、享保年間に立て替え棟札があり(二六二年前)其の後、文政年間(一五七年前) 再建と梁に刻み込まれて居り更に明治十六に立て替えられた。
 当白山神社も昭和二十七年二月宗教法人として発足した。なお現在の本殿を除き拝殿、幣殿を五十三年に新しく立て替えました。祭儀には御祈願を執行し御神楽を奉奏して邪気悪風を除き災害を防御し熱病を祓い給い天下の逆乱を治め家内安全、福禄寿徳を蒙る事枚挙に遑あらず、蒼生の作物、草木の片葉に至るまでその恩澤に浴し、神徳無量に遠近より参拝者の多きをもって、右の記録を後世に伝える由縁であります。
 平成十一年十二月吉日  氏子中
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 白山神社  川越市下広谷一一五五(下広谷字子ノ神前)
 当社の鎮座地である下広谷は川越市北部に位置し、古くは鶴ヶ島町の上広谷、並びに五味ヶ谷とで一村を成していた。
 村の開拓にかかわる口碑に、鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着き、その時、当地には腹の中の子を入れても一三人しかいなかったという。坂本一族の末裔である小林家は江戸期名主を務め、当社は同家の屋敷鎮守であったこと、更に現在でも同家が永代総代を務めていることなどから、当社の創始は、坂本一族がこの地の開拓に際し、加賀一の宮白山比咩神社の分霊を祀ったことによると思われる。
 祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・菊理姫尊の三柱で、内陣に江戸期の作であるといわれる聖観音像(二一センチメートル)を安置している。
 社殿は享保年間と文政年間に建て替えたと伝えられ、更に下って明治一六年に再建している。また、昭和五三年に総工費二千万円を費し拝殿・幣殿を再建している。
 明治四一年に字子ノ神前の八坂神社・稲荷神社及び字庚申塚の白山神社を合祀している。『明細帳』には字庚申塚の熊野神社、字大前の八幡神社もそれぞれ合祀したことを載せているが、熊野神社は元地に社殿が現存し、前野・大畑両家が管理しており、八幡神社の本殿及び神体は野崎家が保存している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 白山信仰(はくさんしんこう)は、加賀国、越前国、美濃国(現石川県、福井県、岐阜県)にまたがる白山に関わる山岳信仰であり、加賀国白山比咩神社を総本社とする白山神社は各地に鎮座し、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としている。
 白山が信仰の対象として仰がれるようになったのは、大化(645650)前代のことであろう。つまり白山信仰は、白山に源を発する九頭竜(くずりゅう)川(福井県)、手取(てどり)川(石川県)、長良(ながら)川(岐阜県)流域の人々の間から、また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したものと考えられる。
 奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。
 現在、
白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。
 
   左より境内社・稲荷神社・八坂神社             本 殿

 ところで、「埼玉の神社」によると、「鎌倉期に坂本と名乗る一族が当地に流れ着いた」と載せているのだが、この「坂本」苗字のこの一族はどこの出身であったのであろうか。もしかすると、この一族は滋賀県大津市坂本地域の出身で、白山修験者ではなかったかとも考えられる。
 大津市坂本は延暦寺のすぐ東側にあり、中世には加賀白山比咩神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請されたという。但し決定的な物的証拠はなく、あくまで筆者の推測の域を出ない点はお断りしておこう。
        
                 社殿から境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
川越市HP」
     「
Wikipedia」「日本大百科全書(ニッポニカ)」等

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小堤白山神社


        
             
・所在地 埼玉県川越市小堤785
             
・ご祭神 伊弉諾命・伊弉冉命・菊理姫命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 元日祭 神楽奉納 44日 御日待 1014
 小堤八幡神社から埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線を西行し、「小堤北」交差点を北上する。セブンイレブン川越小堤北店を過ぎて250m程先の丁字路を右折すると、進行方向左手に小堤白山神社が見えてくる。小堤地域の最北部に位置し、鶴ヶ島市との境に近い。
「川越市役所 小堤集会所」が道路の向かい側にあり、そこの狭い駐車スペースをお借りして、急ぎ参拝を行う。
        
                  小堤白山神社正面
              住宅が立ち並ぶ中の一角に鎮座する社。
     規模は決して大きくはないが、社殿は立派で境内も綺麗で手入れが行き届いている。
              
                小堤白山神社 社号標柱
   小堤白山神社は、慶長2年に越前加賀一の宮白山比咩神社を勧請して創建したという。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 白山神社由来
 白き山の白き神々の座、霊峰白山は、富士山・立山と共に古来日本の三名山の一つとうたわれている。
 最高峰、御前ヶ峯(標高二七〇二米)の頂上に奥宮があり、白山比咩大神(菊理媛尊)を祀る。
崇神天皇七年山岳信仰として、全国の崇敬を受け、養老年間(一二六〇年前)奉證大師の登嶺によって開かれ、それまでの山岳信仰から、神佛習合の信仰にかわっていった。
 平安時代(天長九年一一五〇年前)加賀一の宮に、奥の宮遙拝所として白山比咩神社が創建され御祭神は天照大神の玉母菊理媛尊(白山比咩大神)、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三柱である。
 小堤白山神社は、慶長二年(三八四年前)九月加賀一の宮から白山比咩神社の神霊を勧請して奉祀し郷土の信仰を得たという。

 江戸時代には産土神として、多くの人々ら崇敬される。
 安政四年(一二〇年前)には、社殿が再建され、明治・昭和と再度にわたり、修理を施しておりましたが、近年社殿の老巧化が進み、昭和五十五年六月再建の話が出るや、氏子中にて六阡参百萬円の多額の寄附申し込みがあり、社殿四阡五百萬円境内整備壱阡萬円その他にて建設されたのである。
 白山神社の祭日
 一月の元日祭 四月四日神楽奉納 十月十四日御日待
 八坂神社の祭日
 四月十五日春祈祷 七月十五日夏祭(御輿渡御)
 昭和五十七年四月四日  氏子中
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 白山神社  川越市小堤七八五(小堤村字白山西原)
 当地は『風土記稿』によると古くは上小坂村と呼ばれていたが、寛永のころ南側にある鯨井村の境を流れる小畦川の縁に堤を築いたことから、小堤村と改めた。
 当社は小堤の北に位置し、慶長二年、越前加賀一の宮白山比咩神社よりの分霊と伝える。
 村の草分けは、口碑によると宮本・三吉・大久保の三家で、中でも宮本家は代々名主を務めた家柄である。当社はもと宮本家の屋敷鎮守で、これが後世村鎮守となったものである。
 現在、宮本家は姓を宮根としているが、これは川越城に宮本という家老がいたので同姓では無礼だということから改めたという。宮本の名は、社のそばであったことに由来する。
 祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命・菊理姫命である。本地は、十一面観音で、厨子の墨書には「慶長二丁酉年九月吉日建立 宮本長右衛門惣村中 安政六未年六月再色願主傳七」とある。本殿は棟札によると、安政四年の再営とある。また、その後、社殿は明治、昭和と再度にわたり修理を施したが、近年老朽化が進み、昭和五五年に再建を決議し、氏子一同より浄財を集め造営を行う。現在の社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなり檜材を多く使用した立派なものである。
                                  「
埼玉の神社」より引用
 
          本 殿                境内社・八坂神社



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「境内案内板」等
 

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小堤八幡神社

 小堤八幡神社の創建年代等は不詳ながら、正治元年(1199)現在の奈良県山辺郡より勧請して創建したと伝えられ、小堤村の鎮守社だったという。
『新編武蔵風土記稿 小堤村』
 此村往古は上小坂村なりしが、寛永の頃當村の南、鯨井村の界を流るゝ小畔川の縁通りに堤を築し故に、小堤村と唱へ改しと、按に郡中に下小坂村あり、入間郡に中小坂村接比すれば、恐くは上小坂村なりしなるべし(中略)村内に一篠の往還二町許係れり、路幅二間、西の方吉田村より、南の方鯨井村に達す、川越より越生へ通ふ路なり、【小田原北條家人役帳】に富島彦左衛門知行二十九貫五百二十五文小堤卯檢地辻と見へたるは、即ち當村のことなるべし、
 八幡社 村の鎭守なり、例祭八月十五日なり、能満寺持下同じ、 山神社
 能満寺 妙星山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊大日を安ず、開山詳ならず、開基は當村の里正長兵衛先祖のよし云傳ふれども、さだかならず、境内に淸水あり、淸冷愛ずすし。虚空蔵堂

 当社のそばには泉が湧き出ており、それが当社の創建に深くかかわった可能性がある。隣の能満寺が別当寺であった。
1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列格、字山神北の山の神と八幡橋の下手の戸隠神社とを合祀している。
        
              
・所在地 埼玉県川越市小堤286
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧小堤村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明
 平塚天満天神社から一旦南西方向に向かい、埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線に達した交差点を右折し、坂戸市方面に進路をとる。その後、小畔川に架かる「八幡橋」を渡った先で、進行方向斜め右手にこんもりとした小堤八幡神社の社叢と鳥居が見えてくる。
        
                  
小堤八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「小堤(こづつみ)村」の解説
 [現在地名]川越市小堤・鯨井新田
 下小坂(しもおさか)村の南西、鯨井・上戸(うわど)両村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した。もと上小坂村と称したが、寛永(一六二四―四四)頃小畔川に堤が築かれ、小堤村と改称と伝えるが(風土記稿)、小田原衆所領役帳に諸足軽衆の富島彦左衛門の所領として「廿九貫五百二十五文 小堤」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施された。
 
 社は、小畔川が作った段丘面に位置し、参道のある斜面は、鬱蒼とした斜面の森となっていて、遠くからも良くわかる。麓にある鳥居の脇には、古くから湧き続ける清水があり、水と緑がおりなす景観が楽しめる(写真左・右)。段丘面の崖下からは湧水が滾々と出てきていて、透明度も高く、その湧水は道路側に出る程豊富である。
 この神社を囲む森は、保存を目的とした「川越景観百選 ふるさとの森」に指定されている
        
          鳥居の先は石段が続き、その先に社殿が見えてくる。
 神社鳥居を一歩踏み入れると、そこは静まり返った社叢林が広がる。どこか日常を遠ざける神域のような雰囲気が感じられる。社を覆う森は、ヒノキ、杉、サワラなどで構成された「ふるさとの森」。鳥居の先の階段を上がると社殿が見えてくる。
 
石段を上り終えるとすぐ先に社殿が見えてくる。     参道右側に祀られている境内社                         
        
                    拝 殿
 八幡神社  川越市小堤二八六(小堤字八幡)
 当地は往古、上小坂村と呼ばれていたが、寛永のころ当村の南、鯨井村の境を流れるや小畦川に沿って堤を築いたことから、小堤村と名付けられた。
 当社は小畦川に近い段丘上で、小畦川に向き、川の氾濫から集落を守るように鎮座している。
社記によると、正治元年、現在の奈良県山辺郡より勧請したものと伝え、社殿は寛永一二年に再建されている。また、当社のすぐ下には古くから涸れることのない泉が湧き出ており、これは、村で最も古い開発である字八幡・字神明の水田を潤す貴重な水源であった。このため、古くからここに湧き出る泉と村人の信仰生活とが結び付き、社の創立もこれにかかわるものであったと思われる。
 祭神は、誉田別命で、本殿には白幣を祀っている。また、神璽があり、これは別当寺で納めたものと思われ、「南無八幡大菩薩」の神号が墨書されている。
 別当は幕末まで、真言宗妙星山能満寺であったが、明治に入り神仏分離により廃され、明治六年に村社となった。
 合祀は、字山神北の山の神と八幡橋の下手の小堤側にあった戸隠神社が行われた。
                                  「
埼玉の神社」より引用
        
                崖上面から鳥居方向を撮影 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越市HP」Wikipedia」等   

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平塚天満天神社


        
               
・所在地 埼玉県川越市平塚96
               
・ご祭神 菅原道真公
               
・社 格 不明
               
・例祭等 天王様 725日頃の日曜日
 川越市平塚地域は、同市北西部に位置し、東側には入間川、そして西側には越辺川支流小畔川に挟まれた低地に立地しており、水田と畑の広がる農業地帯である。
 途中までの経路は下小坂白鬚神社を参照。一旦埼玉県道256号片柳川越線に戻り、その後小畔川に架かる刺橋(とげばし)を渡り、南東方向に700m程進むと進行方向左側に平塚天満天神社が見えてくる。
 社の西側には「平塚自治会館」が隣接しており、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 平塚天満天神社正面
           社殿の後ろ側には埼玉県道256号片柳川越線が走る。
『日本歴史地名大系』 「平塚村」の解説
 鯨井村の北、入間川左岸で同川と小畔川に挟まれた低地に立地。高麗郡に属した。検地は慶安元年(一六四八)に実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高一六九石余・畑高一三八石余、ほかに野銭永三貫五〇〇文、川越藩領(幕末に至る)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二五〇石余、反別田一四町四反余・畑二七町三反余、ほかに開発分高三八石余(反別田二町二反余・畑四町二反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では高二三八石余・外高三五石余。秋元家時代郷帳では反別田一七町余・畑三一町一石余・野二町七反余、ほかに見取場田一畝余・畑一町一畝余、野永三貫一八一文、並木一ヵ所がある。
 
       鳥居に掲げてある社号額       規模は小さいながらも手入れの行き届いた社
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平塚村』
 天神社 正光寺の持、
 正光寺 梅香山と號す、新義眞言宗、入間郡石井村大智寺末、本尊藥師を安ず、辨天社

 天満天神社  川越市平塚九六(旧平塚字天神後)
 当所は、入間川と小畦川とに挟まれた低地で水田と畑の広がる農業地帯である。古くは平塚村として一村を成し、隣村の平塚新田に鎮座する氷川神社が両村の鎮守となっていた。鎮守が新しく開けた平塚新田にあるのは、入植時に平塚よりも新田の方が戸数が多かったことによる。
 口碑によると昔、当社は村はずれの畑中にあり、川が増水すると神社が浸水するため、その都度本殿を担いで、村の中央にある真言宗梅香山正光寺の庫裏に移し、水が引くと元に戻していた。そのため本殿は一間社向唐破風造りの神輿型である。内陣には天神座像を安置している。
 明治初めの神仏分離後も当社は庫裏に留まったままとなり、畑中の社は空宮となっていたために“野良天神”“留守天神”と呼ばれ、別の天神であるかに思われるようになった。明治五年、正光寺は無住無檀を理由に廃寺となり庫裏は小学校として大正一二年まで利用されていたが、小学校の統合に伴い庫裏は取り壊され、本殿はその跡地に祀られるようになった。
 昭和五一年留守天神周辺の土地が県立川越農業高校の実習地として買収されるに当たり、留守天神が正式な社であることが確認されたのを機に、翌五二年、現社殿に改築し、正式に鎮座地を当地に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             社殿左側に祀られている境内社や石祠
            左側の石祠は道祖土神社。その隣は三峰社
        
                       社殿の右側に祀られている境内社・八坂社

 当社は725日頃の日曜日の天王様にて「平塚の獅子舞」を奉納しているという。
 市の指定は受けていないようだが、この「平塚の獅子舞」は、『川越の民俗芸能(2)』のよると、明治初年に平塚大火があり、獅子道具もすべて焼失したのだが、現在の獅子頭は明治77月に作りなおしたものなので、ここの獅子舞は明治以前からのものと思われる。
 嘗ては715日だったのが、田の仕事がばかに忙しかったので10日遅らせたのだという。
 獅子頭は大獅子・中獅子・女獅子。725日は、天王さまの前から行列を組んで村廻りに出る。笛は道下りの曲、1軒ずつ、庭まで入る。途中、馬頭観音の前と区長の家で舞うとの事だ。
        
                   境内の様子
           集会所近くにある松の木が不思議と印象的な社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「川越の民俗芸能(2)」等

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下小坂白鬚神社

 下小坂地域は、川越市北西部で入間川支流の一級河川である小畦川左岸に位置する。この地域は、『新編武蔵風土記稿 下小坂村』に「東西凡十三町、南北七町許、平坦の地なり」と記されているようにそのほとんどが低地である。但し、小畔川と入間川の合流地点を臨む地域南西部は台地面となっており、ここには弥生時代中期から人々が定住し、開発の進んだ地で、6世紀前半から7世紀にかけて「下小坂古墳群」と呼ばれた古墳が前方後円墳2基、帆立貝形古墳1基、円墳17基築造されたという。
 現在、下小坂
1号〜4号墳は破壊され既に存在はしていないが、これら古墳から出土された遺物が1988年(昭和63年)129日付で川越市指定有形文化財(考古資料)に指定されている。
        
              
・所在地 埼玉県川越市下小坂1002
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧高麗郡下小坂村鎮守
              
・例祭等 例祭 715日前後の日曜日(下小坂の獅子舞)
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社から一旦南下し、埼玉県道256号片柳川越線を600m程進んだ小畦川に架かる「刺橋(とげばし)」の手前にあるY字路を左折し、小畦川に沿って北東方向に暫く進むと進行方向左手に下小坂白鬚神社が見てくる
*「刺橋(とげばし)」には興味深い伝説があるが、これは後ほど。
『日本歴史地名大系』 「下小坂村」の解説
平塚村の西、小畔川左岸の低地および台地に立地。高麗郡に属した(寛文四年の河越領郷村高帳ほかでは入間郡)。小田原衆所領役帳に小田原衆の松田筑前守の所領として「六拾二貫六百六拾壱文 下小坂」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。
 慶安元年(一六四八)の検地帳(平野家文書)が残り、田三九町一反余・畑三五町余・屋敷二町五反余、ほかに葭野など三町五反余。田園簿に村名がみえ、田高二一二石余・畑高一三五石余、ほかに野銭永二貫一二文、川越藩領。

        
                 下小坂白鬚神社正面
 参道を進み、社の鳥居のすぐ先には、二柱のご神木が聳え立つ。まるで寺社でいう随神門の如く、神域に邪気・邪悪なものが入るのを防ぐ阿吽の像、または門番のようで、両方とも幹周6m程あり並びたつ姿は圧倒的な存在感・重量感がある。樹齢500余年もある老木にも関わらず、樹勢は旺盛で隆起した根本はほとんど参道を塞いでしまっている。
             
 案内板によれば、社殿に向かって右側が「赤欅」で幹周り
600cm、高さ33m、左側は「青欅」と言われ幹周り595cmで、高さ26m。昭和47年(19722月に天然記念物の指定を受けた時、樹齢500余年と推定されたということから、現在は550余年となり、室町時代中期にはこの木は存在していたという事になろう。まさに下小坂のシンボル的な存在。
        
                 参道の先にある鳥居
           ケヤキのご神木の僅かな隙間から社殿か見える。
 因みに鳥居の左側には「下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)」と「下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)」の案内板があるのだが、字が薄くて撮影してもはっきり見えないので、活字にて紹介する。
 下小坂の大ケヤキ(市指定天然記念物)
 神社境内にある二本のケヤキは、社殿に向かって右側が赤欅といわれ幹周り六〇〇センチで高さ三三メートル、左側は青欅といわれ幹周り五九五センチで高さ二六メートルである。昭和四七年に指定を受けた時、樹齢五〇〇余年と推定され、下小坂のシンボルといえよう。
 ケヤキは斎槻と呼ばれ、神聖な木として尊ばれてきた。
 昭和四十七年二月八日指定
 下小坂の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 現在は七月十五日前後の日曜日に行われる。悪疫退散を祈る天王さまの行事である。起源は元禄三年(一六九〇)とも、寛政年間(一七八九〜一八〇一)とも伝えられている。
 獅子は大獅子・女獅子・中獅子の三等で、仲立に先導され、その他花笠四人・棒使い二人など、全て男子によって演じられる。「トロヒャリホ」と呼ばれる女獅子隠しの曲目や小唄もあり、最後に獅子が走りぬけた後、千秋楽の歌を歌いながら、関係者が境内を一回り回って終了する。
 平成十四年二月二十五日指定                         案内板より引用

        
                   境内の様子
 参道付近は差し込む日光により眩しく感じられるのだが、目を転じて境内周囲一帯を眺めると、ここにも緑豊かな社叢林に覆われていて、村の鎮守様を連想するような社である。当初、ご神木である二基のケヤキの巨木・老木の存在感に圧倒された後に境内に入ったわけで、努めて冷静に参拝を行なおうと心に言い聞かせ、一呼吸した後に境内に入ったのが良かったのか、境内も静かに時間は流れ、なかなかの雰囲気ある社であることは確かである。
 
  参道左側に祀られている「石尊様」の石祠       石尊様の並びにある力石三基
                      左から45㎏(12貫)・80㎏(21貫)・101㎏(29貫)
        
               参道右側に祀られている(左より)神徳碑・大六天神・天神社
        
                                        拝 殿
 白鬚神社  川越市下小坂一〇〇二(下小坂字前谷)
 当地は川越市の北部、入間川支流の小畦川左岸に位置し、坂戸市と境をなす。そのほとんどが低地であるが、一部段丘となりこの上には市の文化財となっている鏡・刀子・馬具などが発掘された下小坂古墳群がある。
 当社は下小坂の東部に鎮座し、ここから西へ民家が広がっている。特に当社と並ぶ八軒は旧家で、八軒家と呼ばれている。
 また、地内を貫く秩父・川越・江戸を結ぶ街道が、小畦川を渡る荊橋の辺りには、小坂の河岸と呼ばれる船着き場が明治八年まであったという。
『風土記稿』には「白髭社 村の鎮守なり、永命寺の持」とあり、江戸時代真言宗薬樹山瑠璃光院氷命寺が別当であったことがわかる。
 当社創立にかかわる史料は、夕立ちが降ると水が出るほどの土地柄のためか残されていない。しかしながら、参道入口を挟んで、そびえるように並び立つ欅の大木があり、それぞれ目通り一六〇センチメートルあまり、樹齢五〇〇年といわれることからも当社創立の古さを物語っている。
祭神は猿田彦命であり、本殿は一間社流造り板葺きで、白幣を祀る。
『明細帳』には、境内社として八坂神社・三峰神社・稲荷神社・大六神社が載るが、現在三峰神社の所在が不明となっている。このほか明治四一年に字西尻より合祀した天神社が祀られている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 
 社殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社  本殿の左側脇に祀られている境内社・御嶽神社
        
      社殿右側に鎮座する境内社。「埼玉の神社」に載る八坂神社であろうか。

 嘗て小畔川は現在と違って屈曲が多いうえに流れが非常に速く、川を渡るのがたいへん難しかった。また、周辺の田も湿田が多くて、ちょっとした雨でもすぐ冠水してしまう状態だったという。
『川越の伝説』には小畔川に架かる「刺橋(とげばし)」に、伝承・伝説の類であるお話が残っている。
 刺橋(とげばし)のいわれ
 むかし、むかしのおはなしです。「でえだらぼう」といいます、山をつくることが得意な大男の神さまがおったそうです。富士山に腰をおろして、ひとやすみしたり、筑波山の男体女体をつくったり日本中を歩いておりました。ある時、秩父の方で山をつくることになり、川越の名細(なぐわし)あたりを通りかかりました。ドシッ! ドシッ! おおきな窪地をこさえながら歩いておりました。ちょうど小畔川(こあぜがわ)の近くまできたときです。とつぜん「いてて……!」とでえだらぼうがうずくまりました。なんと、足のうらに小さな刺がっさっていたのです。さすがのでえだらぼうもこれでは歩けません。すぐ刺をぬきまして小畔川の中ほどにつきさして、秩父へと向かいました。まだ、このころの小畔川は曲がりくねっておりまして川はばも広く、たいへんなあばれ川で、人々はなんとか、うまく渡れるように橋をかけようとおもっていました。ところが川のまん中におおきなクイがうってあるのでびっくり、すぐ村人を集め、りっぱな橋をかけました。あとで、これがでえだらぼうの刺だということがわかり、ありがたいことだと橋の名まえを「刺橋」とつけました。この刺のクイだけは、どんなに大水がでても、けっして流されはしませんでした。
            
 この伝承・伝説に出てくる「でえだらぼう」は、日本全国に伝承が残っている「ダイダラボッチ」に関連した説話と思われる。
 この「ダイダラボッチ」は、日本の各地で伝承される巨人で、山や湖沼を作ったという伝承が多く、元々は国づくりの神に対する巨人信仰がダイダラボッチ伝承を生んだと考えられたり、別説では、鬼や大男などの妖怪伝承が巨人伝承になったという説もある。
 名称の「ダイダラボッチ」も類似の名称が数多く存在し「でいらんぼう・でいだらぼっち・だいだらぼう・だいらぼう・デエダラボッチ・デイラボッチ・デイラボッチャ等」、漢字名としては、大太法師(だいだらぼっち)、大太郎坊(だいだらぼう)とも表記し、九州では大人弥五郎(おおひとやごろう)と呼ばれてもいる。
 また埼玉県内には、ダイダラボッチの伝説が秩父地方を中心にして、たくさん残っている。
 一説によると、「ダイダラボッチ」伝説とタタラ製鉄を行っていた「古代鍛冶集団」との関係を述べる方々もいるようだが、今のところその真相は筆者にも分からない。
             
                境内から見たご神木の威容


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「川越市HP」「川越の伝説」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等

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