古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

金窪八幡神社

  神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵及び上野国境の神流川を舞台としておこなわれた、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いで、別名「金窪原の戦い」ともいわれる。
 そもそもこの戦いの原因は6月2日未明、滝川一益が仕えた織田信長が、一益の同僚でもある明智光秀によって殺害された本能寺の変で、6月9日早飛脚によってこの報を聞いた滝川一益は、逆賊明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうとしただけであり、同盟国であったはずの関東小田原後北條氏とは戦うつもりはなかったろう。つまりこの戦いの主導権は最初から後北條氏側にあり、関東覇権の野心をひた隠し、表面上は信長側と同盟しただけの後北條氏側にとって信長の死はまさに「時は今」の状況下であったことだろう。
 この神流川の戦いの主要舞台となった地が上里町金久保地域周辺と言われていて、時は真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であったという。
所在地    埼玉県児玉郡上里町金久保1052
御祭神    誉田別命
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日 祈年祭  7月18日 例大祭     

        
 金窪八幡神社は国道17号線を上里町方向に進み、神保原(北)交差点のY字路を右側に進む。この道路は旧中山道で、現在埼玉県道392号勅使河原本庄線という名であり、そのまま直進すると約1km位で右側に金窪八幡神社が鎮座している。道路沿いで、一の鳥居の手前周辺には比較的広い駐車スペースが確保されていて、そこに車を停めて参拝を行った。
            
              道路沿いにある「金窪之郷 八幡神社」と刻まれた社号標石
            
                   社号標石の前にある金窪八幡神社の案内板
 金窪八幡神社はは大永五年(1525年)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(1582年)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。

          金窪八幡神社境内                         案内板

金窪神社 御由緒    
御縁起  上里町金久保1511-八

 神流川と烏川が合流する金久保は「金窪」とも書き、その地内には秩父郡の土豪で、南北朝時代に新田義貞と共に転戦した畑時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に德川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斉藤氏の居城であった。
 『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に口碑によれば、元和年間(一六一五~二四)に中山道の開通により現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇㍍ほどの東にある旧地は「元八幡」と呼ばれている。
 江戸時代には天台宗の長命寺が別当であったが、神仏分離によってその管理を離れ、明治五年に村社になった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後明治四十一年に字松原の無各社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には字西金の村社丹生神社、その境内社三社、大字内の無各社七社の計一一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。
                                                          案内板より引用
         

           
                             拝      殿
                
                     拝殿の左側手前にある銀杏の御神木
             
           
                             本      殿
 この金窪(金久保)地区は案内板の説明にもあったように、神流川と烏川の合流地点のすぐ南側に位置し、この地名通り「窪地」であったのだろう。この二つの河川の乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地の一角に金窪八幡神社は鎮座している。
 金窪八幡神社の近隣には金窪城が嘗て存在していた(その遺構は埼玉県指定史跡)。今はその城址には石碑がある程度で、わずかに土塁が残っているだけだが、その歴史を見ると、治承年間(1177~81)に武蔵七党の丹党に属した加治家季によって築かれたとされているというので、かなり古くまで遡るらしい。

 この加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、綱房は新里氏、成房は榛原氏、重光は小島氏、そして経家の子の家季が加治氏を称したとされる。
 加治氏は飯能市から秩父地域にかけて活動した武士団で、拠点は飯能市付近と言われているが、金窪城の案内板を見る限りではこの金久保地域にも加治氏が存在していた痕跡が見られることから、加治氏の一派がこの地域を治めていたことは確かなようだ。
 ところで丹党の「丹」は、朱砂(辰砂・朱色の硫化水銀)とも言われ、水銀の採掘に携わる一族とも言われている。上里町と神川町の西側には神流川が流れているが、この神流川の「神流」の語源は「鉄穴」にあるといわれているし、武蔵二ノ宮の金鑚神社は延長5年に編集された「延喜式神名帳」では「金佐奈神社 名神大」と記載され、「金佐奈(かなさな)」の語源は「金砂」にあると考えられているように、採鉱・製鉄集団によって祀られたのが当社の実際の創祀と見られ、古代のある時期、この地域と製鉄業との関係は根深い所で結ばれていたと思われる。
           
                           社殿奥にある境内社

 もしかしたらこの「加治氏」も嘗ては文字通り「鍛冶氏」だったのではなかろうか。また金窪八幡神社の「金」も金属加工を意味するとも考えられる。丹党は武蔵七党の一派として、秩父地域から賀美郡、また飯能市地域にわたって繁栄した一族でもあり、その先祖は第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔と言われているが、史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾することも多く指摘されていて、実は多くの謎を秘めた一族でもある。宣化天皇の御名代の一つ檜前舎人の伴造家であった檜前一族がその祖ではないかという説もあり、実際賀美郡には檜前一族が存在していたことは、古文書等にも記載されている。
           
           参道の右側には社務所があり、そこの一角には鬼瓦が展示されている。

 前出の神流川の戦いはかなり広範囲で戦われたようで、この戦いによりかなりの社が戦火の被害にあい、焼失し古文書等が失われている。古文書等には当時の人々の歴史や文化を考察する重要な資料の一つでもあり、非常に残念な思いだ。

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