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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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長幡部神社

 長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は,JR八高線群馬藤岡駅の東南東約2.5kmの田園地帯の中に鎮座する。
創立年は不詳。「延喜式」所載の武蔵国賀美郡の「長幡部神社」だと考えられているが,天正年間(1573-1591)の兵火によって古記録が失われている。伝承では,神流川の洪水のため天永年間(1110-1112)に現在地に遷したという。
 祭神の天羽槌雄命は機織の神である。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。
所在地   埼玉県児玉郡上里町長浜1370
御祭神   天羽槌雄命 埴山姫命、『巡礼旧神祠記』岡象女命
        『武藏国式内四十四座神社命附』姫大神、『神社覈録』比咩大神、『地理志料』大根王
社  挌   延喜内式内社 旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

      
 長幡部神社は当初は神流川沿岸の西的場に鎮座していたという。藤武橋の東詰下流の、水天宮と刻まれた石碑が旧地との説もある。平安期の洪水(1110年)で社地が流失し現在地に遷座した。天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した。
           
                        長幡部神社正面鳥居
 この社は神流川西岸に鎮座している。神流川は群馬県及び埼玉県を流れる利根川水系烏川の第2支流であり一般河川である。群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、流域面積407.0km2、幹線流路延長87.4km、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻である。神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、太古の恐竜の足跡の化石、三波石峡など観光資源が多い。
 神流川という名前も神秘的な名だ。武蔵20余郡の北の果て、「上」の国から流れる川の意と言われ、昔は感納川、甘奈川ともかかれることがあるそうだ。神(カム)の川という意味で、古くはカミノ川と呼ばれ、やがて神名川と変わり、そして、字が変化して神流川になったといわれている。

        鳥居の左側にある案内板                  右側にある社号標石 
長幡部神社    上里町大字長浜字長幡前1370
神流川流域に位置する古代の賀美郡内には、『延喜式』神明帳に登載されている神社として、当社「長幡部神社」と「今城青坂稲実神社」「今木青坂稲実荒御魂神社」「今城青八坂池上神社」の四社がある。これらは、いずれもこの地に進出してきた渡来系氏族が奉斎した神社として考えられている。長幡部は機織りの技術を持った集団が祀った神社を社名で表したと考えられる。
            
                            覆堂形式の社殿
            
                              内部撮影
 祭神は,大根命,姫大神,罔象女命の三説がある。昭和初期まで「丹生様」「長幡五社宮」などとも呼ばれていた。なお,当社を「延喜式」の今城青八坂稻實神社〈いまきあをやさかいなみのじんじゃ〉に比定する説,今城青八坂稻實荒御魂神社〈いまきあをやさかいなみあらみたまのじんじゃ〉に比定する説,今城青坂稻實池上神社〈いまきあをさかいなみのいけがみのじんじゃ〉に比定する説がある。いずれも同じ武蔵国賀美郡の神社である。現在の祭神は,天羽槌雄命,埴山姫命,菅原道真,倉稲魂命,建御名方命,大日孁貴命である。
            
                           境内社 稲荷社等
     大正二年(1913)に稲荷神社(海老ケ窪),諏訪神社(中長),皇大神社(柳町)を合祀した。

 長幡部神社を含む賀美郡の4座はいづれも渡来系氏族によって信仰されたものと思われる。この社名の長幡部は紡織集団(幡部)を示し、他の3座の今城は稲作集団を示していると思われる。
 この帰化系氏族集団の一つ「東漢氏」は、「記紀」によると応神天皇の20年(289年と言われている)9月に渡来したと記されている。

「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」

 
また『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・ 高)およびその子孫、桑原氏、佐太氏等を連れてきたとある。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している。
 
 誉田天皇
諡応神の御世、本国の乱を避けて、母並びに妻子、母弟・遷興徳、七姓の漢人等を率ゐて帰化す。七姓は第一段古記、段光公字畠等、一に云ふ員姓是、高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首等の祖なり。次に李姓。是、刑部史の祖なり。次に皂郭姓。是、坂合部首、佐大首等の祖なり。次に朱姓。是、小市佐、秦、宜等の祖なり。次に多姓。是、檜前調使等の祖なり。次に皀姓。是、大和国宇太郡佐波多村主長幡部等の祖なり。次に高姓。是、檜前村主の祖なり。

 桧前(ひのくま)氏は『続日本紀』光仁条は、東漢の後裔である坂上苅田麻呂の奏上をこう記されている。
 「檜前忌寸(いみき)の一族をもって、大和国高市(たけち)郡の郡司に任命しているそもそもの由来は、彼らの先祖の阿知使主(あちのおみ)が、軽嶋豊明宮に天下を治められた応神天皇の御世に、朝鮮から17県の人民を率いて帰化し、天皇の詔があって、高市郡檜前村の地を賜り居を定めたことによります。およそ高市郡内には檜前忌寸の一族と17県の人民が全土いたるところに居住しており・・・」
 

 檜前舎人や檜前君を称した人々は、後の史からみて上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 例えば武蔵国賀美郡 の檜前舎人直 中加麿の存在がそれを物語る。賀美郡の対岸 利根川に面して上野国 佐位郡(現伊勢崎市)があり、上野国那波郡の檜前公は、後に上毛野 朝臣(かみつけの あそん)になったことが確認され、佐位郡の檜前君老刀自も、上毛野一族となったことがわかる。またそのとなり那波郡に一例の檜前氏が確認できるので、檜前氏はこの北武蔵に一大根拠地を持っていたことになる。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも]、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。ただこの伝承はかなりの無理があるように見え、仏教普及の方便として流布したものと考えられる。
 では事実はいかなる経緯があったのだろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏は同族関係にあったと推測される。

 長幡部に関して文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記されている。また皇別氏族として『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、(三野国之本巣国造・長幡部連之祖)つまり美濃の本巣国造と同族であるという。
 常陸国、現茨城県常陸太田市に同名の長幡部神社が鎮座している。式内社で、旧社格は郷社。御祭神は綺日女命(かむはたひめのみこと)、多弖命(たてのみこと)。当社の創建について、『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。これによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命が従い、日向から美濃に至ったという。そして崇神天皇の御世に長幡部の遠祖・多弖命が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝えている。、『常陸国風土記』の記述からは皇別氏族として長幡部の由緒が記されていて、渡来系の逸話が見えてこない。

 賀美郡の長幡部神社は元々は渡来系氏族である長幡部氏が桧前氏と共に賀美郡に移住し、その地域の守護神として祀った社であろう。御祭神の天羽槌雄命や罔象女神 、埴安姫命等はその系統に入ると思われる。しかしある時期、少なくも天正年間に滝川一益の戦乱の際に兵火にかかり、社殿及び古文書のことごとくを焼失した1582年以降に茨城県常陸太田市の長幡部神社が賀美郡に同名の社を造ったのではないだろうか。この祭神の姫大神は綺日女命とも言われていて、また大根王は多弖命との説(多弖命の文字が、多尼命の誤字で、「おおね」に通じる)もある。常陸国長幡部神社の平成祭データには以下の記述がある。

 長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます。

 ここではハッキリと倭文織と織り方の区別がされて、関東一円の織物の源流がこの常陸国長幡部にあることが記されている。上記の真偽の程はともかく、織物の伝播とともに長幡部という名前もその御祭神もこの地に移った可能性もあるのではないだろうか。
 

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五明天神社

 五明天神社は上里サービスエリアの南西側に鎮座している。
 「いまき」が「今来」で新米の者、つまり渡来系氏族をあらわし、渡来系氏族が当地に高度な稲作技術を導入し「稲魂」をまつる神社を建立したのが「稲実」であろうとされている。御神体である神代石(高さ67cm、太さ13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれているという。
所在地   埼玉県児玉郡上里町五明871
御祭神   稚産靈神 豊宇気毘売神 大山祇命 日本武尊
社  挌   旧指定村社
例  祭   10月19日 秋祭り

       
 創立年代不明。旧社格は村社。從來村の鎭守にして當村内大輻寺持なりしを、維新の際、神職の受持となり、往古より圓形の神代石に古文を以て刻したる者傳來し居りしが、文學に疎く之を解する事を得ざりしが、今日に至り漸く延喜式内今城青坂稲實神社と明瞭し、且亦境内を今城林と云ひ傳來りしを、天正年中(1573~92)神流川合戦の際瀧川一益此地に陣を転し、大に勝利ありしを以て転陣林と称し來たれり。
                                                   昭和27年神社明細帳
             
                           正面一の鳥居
 
 一の鳥居から真っ直ぐ参道を進むと五明集会所があり、そこを左に90度曲がると二の鳥居がある(写真左)。その二の鳥居の向かって右側に案内板(同右)がある。

天神社  所在地 児玉郡上里町五明871
 天神社の祭神は稚産霊神、豊受氣毘売神、大山祇命、日本武尊の四神である。
 当社の創立年代は不明であるが、延喜5年(905)に藤原時平らが勅を受けて編集した廷喜式神明帳に載る賀美郡(児玉郡)四社の一つ今城青八坂稲実神社であると伝えられているので、かなり古い社であると思われる。なお、御神体である神代石(高さ67cm、太さ約13.5cmの安山岩)には「えむぎしきない」「いまきあおやさかのかみ」と刻まれている。
 現在ある社殿は享保7年(1722)の再建で、天保年間(1830~44に書かれた中岩満次郎道純の祈願書が残されている。
 明治10年に白山神社を、同42年に丹生神社を若宮より遷し合祀した。
 また、境内神社として諏訪神社、稲荷神社、八坂神社、市杵島神社が祀られている。
 なお、当社には神楽が伝承されていたが、現在は中断されている。
 昭和60年3月 埼玉県 上里町
                                                        案内板より引用
          
 現在の境内は決して広くはないが一の鳥居から集会所までにある程度の空間もあり、往時はかなりの大きな社だったろうと推測できる。また社全体が綺麗に整備もされ、参拝の時期も新緑が広がる季節でもあってゆっくり参拝を楽しむことができた。居心地の良い雰囲気の社。

             
       参道の途中右側には貴船大神、大己貴命、素戔嗚命、国嶽霊神等の石碑群が並ぶ。
          
                             拝    殿
            
                         本殿裏には丹生社あり。 

       社殿手前左側には神楽殿                 社殿の右側には境内社
                               諏訪神社・稲荷神社・八坂神社・市杵島神社等が並ぶ。

 『明細帳』に「創立不詳、本社ハ延喜式内当国四十四座ノ一ニシテ今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ」
と載せられている。また、当社に伝わる文書から、天保三年(1832)に上州新田郡の岩松満次郎が、同家の家紋である中黒紋の付いた幕と高張提灯を今城青八坂稲実大明神(当社)に寄付したことが知られる。今城青八坂稲実神社の社名は、稲霊を賛美した名称で、稲作信仰に基づくものであるとされる。ただし、児玉郡内には式内社の今城青八坂稲実神社に比定される神社が当社を含めて六社あり、定かでない。
 『風土記稿』五明村の項には、「丹生社・天神社 以上ニ社を村の鎮守とす、大福寺持なり」とある。
 明治初年の神仏分離により大福寺の管理を離れ、明治五年に村社となった。また、明治四十一年には丹生社を合祀した。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁より引用

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七本木神社

  上里町は、神流川扇状地、本庄台地、沖積低地の三区の地形上に立地し、東西6km南北5,5kmのやや菱形を成し、海抜最高85m最低50mで、標高差35mの非常に緩やかな傾斜をしている平坦地である。首都圏から85kmに位置しており、菱形の本町を囲むように神流川と烏川が接している。
 埼玉県地震被害想定調査によるとプレート境界の地震は西埼玉地震、活断層の地震は深谷断層、神川断層、平井断層、櫛引断層等が想定されているが、本町では地盤が比較的堅固なため全体的に液状化の可能性は低い状況である一方、沖積粘性土地盤である町域の北部に液状化の可能性のやや高い区域が分布しているという。
 七本木地区は本庄台地上に位置し、埼玉県道23号線を通して本庄市との交通の便もあり、新しい家屋も並ぶ綺麗な地区だ。この七本木地区に当社は鎮座している。
所在地   埼玉県児玉郡上里町七本木3237
御祭神   誉田別尊 倉稻魂命 菅原道真
社  挌   式内社今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社
        今城青八坂稲実池上神社論社
        旧村社
例  祭   10月19日 例祭

       
 七本木小学校東側に接して鎮座している。片側2車線の本庄市から群馬方面に向かう群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線に沿って家並が続き、結構交通量も多い。以前聞いた話だが、群馬県は道路状況が埼玉県より充実していると聞いたことがある。さすが総理大臣を3名輩出した県だと羨ましく思ったものだ。
 それはさておき、この七本木神社の由来は、嘗て江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。

           入口正面を撮影                 鳥居を過ぎると比較的広い境内
 この七本木地区は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった。七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。

        境内にある庚申塚案内板                頂上に猿田彦を祀る庚申塚
 この旧家金井家は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。 
 また七本木神社東側には低い土塁が残されている。境内の庚申塚は、櫓台跡の土塁かもしれないという説もあるが、いかがなものだろうか。
           
                             拝   殿
 七本木神社の創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたという。

 社殿の奥には数多くの境内社があり(写真左)、また社殿の向かって右側には合祀された7社の本殿(同右) を収めてたと伝えている。 
                                                                    

 ところで延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には武蔵国旧賀見郡の式内社が4社記されている.長幡部神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社、今城青八坂稲實神社、これら4社中長幡部神社を除く3社ははなぜか長く読みづらい社名で明記されている。断っておくがこの4式内社は延喜式が編集された10世紀に確かに存在した社であり、時の朝廷の許可と承認を受けた歴としたお墨付きの神社なのである。
  延喜式神名帳がまとめられる200年前、時の朝廷、正確には元明天皇の時代に出された勅令で諸国郡郷名著好字令がある。この諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で表記しなさいという命令であり、好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。『続日本紀』によると和銅六年「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」)と記載されている。
 それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉や万葉言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのがこの勅命である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされている。
 つまり、誰でも読むことができるように表記しようとする時の朝廷の思惑からきたものであろうが、それに逆行するかのようなこの長たらしい神社名は、逆説的に解釈すると、このような社名を許可すること自体歴史があり、由緒ある社なのだろう・・・か。
 神社に興味を持ち始めたころには考えもしなかったことだが、ホームページも開設し、数年を経て知識も深まると、逆に新たな疑問も噴出するものだ。冒頭の疑問がまとまり切れない頭の中で渦のように蠢きながら、また一方の頭では、ある種不思議でミステリアスな何かが、この広大な穀倉地帯である武蔵国最北部利根川南岸周辺には存在していたのではないかと勝手に解釈しながら何回目かの参拝を行った次第だ。

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今城青坂稲実池上神社

  今城青坂稲実池上神社が鎮座する児玉郡上里町は、古代律令時代武蔵国賀美郡と言われた。賀美郡,美しい名称だ。賀美郡は武蔵国の最北端に位置し、東南は児玉郡、西北は利根川を挟んで上野国に接している。おおむね現児玉郡上里町、神川町の地域で、『和名抄』は「上」と訓じている。ちなみにこの「かみ」は、当初武蔵国が東山道に属していたとき、畿内にもっとも近い郡であったことによるとする説があるそうだが真相は不明だ。
 賀美郡は現在の上里町全域と神川町北部が行政区域に相当され、その郡内には式内社が4社存在していたという。地形的にも上野国と利根川、神流川という2大河川を通じて接している関係から、上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。また賀美郡は上古代から地理的に恵まれたようで遺跡から出土した様々な土器の豊富さから、当時としては、比較的豊かな生活を送っていたことがうかがえる。

 この地域は不思議なことに縄文時代、弥生時代の遺物が数多く出土しているが、何故か縄文人、弥生人が生活をしていた住居の跡は見つかっていない。古墳時代後期(六世紀)になると、上里町全域に大規模な集落が営まれ、上里町の数々の古墳はこの頃造営された。この地域の古墳は、小さい古墳がまとまって作られているのが特徴である。

所在地     埼玉県児玉郡上里町忍保225
主祭神     気吹戸主命  (合祀)豊受姫命
社  格      旧県社
例  祭          9月29日 例大祭
由  緒     和銅4年(711)創立
          正慶年中(1332~34)新田義貞造営
          大永年中(1521~28)齋藤盛光造営
          天正10年(1582)神流川合戦で社殿焼失
          同年川窪與左衛門尉信俊再造
          元禄年中(1688~1704)同氏の孫信貞丹州に転領となり以後頽破
          明治32年2月7日県社

                        
明治40年1月12日神饌幣帛料供進神社指定
                     
地図リンク
  神保原駅からは約2キロ北上の地に鎮座する。さすがに埼玉県最北部に位置する場所なので周りは田園風景ばかり。すぐ北は烏川なので氾濫があったらどうなるのだろうと変なところを心配してしまった。(事実元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた、との記録もある。)
  この地域は過去において現在ののどかな田園風景とは別の顔を持っており、有名な神流川の戦い(1582年6月18日~19日)では、織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との戦いにより社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された、とのことだ。

 
         一ノ鳥居 手前にある橋は御神田橋                         二の鳥居の手前にある掲示板

池上神社(社頭掲示板より
  所在地 上里町忍保225
  池上神社は、和銅年間(708~715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。
  忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。
  正慶年中(1332-34)には新田義貞、大永年中(1521-28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。
  また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。
  なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。
                                                                      昭和61年3月埼玉県 上里町                                                            

                      
                                                          二の鳥居と扁額
                      
                                                    拝 殿  南側に鎮座
                                    洪水対策で地盤基礎部分が高くなっている。
                      
                                                               本   殿
 本殿は土塁等で土盛りをし、拝殿の基礎部分より高くして洪水対策をしているようでもあり、元々あった古墳上に本殿を造ったようにも見える。


 今城青坂稲実池上神社の祭神である伊吹戸主命は祓戸四神のひとつで、速開津媛命の飲み込んだ禍事・罪・穢れを確認して根の国・底の国に息吹を放つ神である。ところで祓戸大神の四神とはどのようなの神であろうか。
 この神々は記紀神話に登場せず、大祓詞にその名が記されるその名の通り、穢れを祓ってくれる神様だ。

【祓戸大神】
 祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
 神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。
 なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

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瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
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速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
・ 
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
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速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
        
                  今城青坂稲実池上神社 拝殿と本殿

 祓戸大神の4神の役割には順番があり、① 世の諸々の過事と罪、穢れを瀬織津比売が川に洗い流して→② 速開都比売が河口で受け取って海底に沈めて→③ 気吹戸主海底から根の国・底の国に禍事・罪・穢れを送り込んで→④ 速佐須良比売穢れ等全て一網打尽に浄化し、世の中をリセット(再生)する、という一連のプログラムを実行することによって常に世の中の秩序、道徳等が守られるというものらしい。
 祓戸の大神のうち三神が生命を育む女神であり、川は飲み水、海は生命の根源として、また、呼吸は人間に不可欠なものであり、霊界はこの世を裏で支える存在として、それぞれが私たちにとって大切なものだ。まさしく人間だけでなく、地球上の生命にとっても根源的なご神徳を備えた神々が祓戸の大神で、いわば自然の自浄作用のようなものを具現化した神なのではないだろうか。

 ところでこの祓戸大神の神性、神格は世界中の神話で登場する洪水伝説に似ていると感じるのはいささか飛躍した考えだろうか。


 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。

 「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 
今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない。金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もあるそうだ。今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。
 近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。

 

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