古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大御堂三嶋神社及び大御堂浅間神社

大御堂三嶋神社】
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂1131
            ・ご祭神 事代主命 ・大山祇命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2290417,139.1189839,17z?hl=ja&entry=ttu
 上里町大御堂地域は町南端に位置し、児玉町の真北にある。筆者は熊谷市西端に居住している為、児玉町方向に向かう際には、ほぼ埼玉県道75号熊谷児玉線を使用する。今回も同県道のルートで児玉町方向に進み、「大天白」交差点を右折、国道254号線合流後は道なりに神川町方向でJR八高線に沿って進路をとる。その後4㎞進んだ「元阿保」交差点を右折し、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を上里町市街地方向に進む。静かな田園風景が周辺一帯広がる中、1㎞程先に「児玉三十三霊場 吉祥院」の看板が見え、そのすぐ左側に大御堂三嶋神社が静かに鎮座している。後日地図を確認すると社の鎮座地は大御堂地域の集落西端にあたるようだ。

 駐車スペースは広く確保されている。境内に「西大御堂集落農業センター」があり、一旦社を通過し、すぐ先の十字路を左折するとすぐ左側に社の境内入口があるので、集落農業センター近くの一角に車を停めてから参拝を行う。
        
              県道沿いに鎮座する大御堂三嶋神社

 大御堂地域にある吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、武蔵七党の丹党に属した有力武将安保実光が再興したといわれている安保氏の氏寺で、中世の館跡といわれており、周りには堀があって、土塁の一部も残っている。
 古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『新編武蔵風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。

             
                     社号標柱
        
                                      鳥居を過ぎてすぐ参道左側に設置されている案内板

 三嶋神社 御由緒
 □御縁起(歴史)  上里町大御堂一一三一一
 当社は、西大御堂集落の西端の字三島西に鎮座する。祭神は、事代主命・大山祇命の二柱で、境内の欅や杉などの木々が、鎮守の杜にふさわしい景観をなしている。
 当社の創建年代は明らかでないが、吉祥院の境内にあったものを明治初年の神仏分離に際して現在地に移転したという。吉祥院は大同元年(八〇六)の創建と伝える真言宗の古刹で、阿保山真光寺と号し、開基は小野氏で、後に安保城主安保肥前守忠実が中興したと伝える。
古くから阿弥陀堂・薬師堂・大師堂・十王堂・大黒堂・経蔵・二天門等を完備し、特に阿弥陀堂は『風土記稿』に「村内吉祥院の境内に立る阿弥陀堂、古へ大伽藍なりし頃、大御堂と呼しより村名にもおはせしと云伝ふ」と村名の由来になったことが記されている。更に、同書の大里郡久下村(現熊谷市)の項などによると、同村東竹院の嘉禄三年(一二二七)五月日の年紀をもつ鐘銘に「奉鋳 武州賀美郡阿部村真光寺鐘右志者為信心大壇那小野氏沙弥妙阿弥陀仏」とあり、この鐘は戦国期に軍勢により奪取され、のち久下村で掘り出されたものという。この吉祥院の創建の古さから推して、その境内に村の鎮守として祀られていた当社も同様に古い勧請をうかがわせる。
 明治三年に覆屋を再建し、同五年に村社となり、大正四年には御即位記念として拝殿を新築し、昭和二年には社務所を新築した。
 □御祭神 事代主命・大山祇命
                                      案内板より引用

        
          広く静かな境内である。その先には大御堂三嶋神社が鎮座している。
       
                           境内に聳え立つご神木
        
                                    拝殿覆堂
 
   社殿左側に鎮座する石祠、石碑等。       社殿右側にも多くの石祠等が鎮座。

 大御堂三嶋神社が鎮座する大御堂地域は、地形上本庄台地に属する。この本庄台地は北武蔵台地を構成する台地群の一つであり、他には児玉丘陵、櫛挽台地、松久丘陵、江南台地も含まれ、今から約3万年前に神流川によって運ばれた土砂が堆積(たいせき)した後に浅間山などから噴出された火山灰が積もってつくられたと考えられている。
 この北武蔵台地一帯は渡来人による文化伝承も早く、利根川を挟んで毛国とも接している地域からか、重要な古墳や城が多い地域であり、また緑泥片岩の産地(長瀞・小川)が近い為、県内の殆んどの板碑がここに集中して存在している。



大御堂浅間神社】
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡上里町大御堂736
             ・ご祭神 木花開耶毘賣命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1111日
 大御堂地区にはもう一社、旧村社が存在する。三島神社が鎮座する十字路を東側に進み、埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線と交差する信号のある十字路を右折する。250m程南下すると左側に大御堂浅間神社が左側に見えてくる。
        
                                           大御堂浅間神社正面
        
                                       鳥居の左側に案内板あり
 浅間神社御由緒   上里町大御堂七三六
 □御縁起(歴史)
 大御堂は、神流川右岸の洪積台地に位置し、地名は地内の吉祥院真光寺がかつては大伽藍で、境内に建つ阿弥陀堂が「大御堂」と呼ばれていたことに由来する。
 当社は、塚の上に奥宮、その東麓に本社をそれぞれ祀っている。その創建の年代は明らかでないが、『風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。宝蔵寺は京都醍醐三宝院末の真言宗の寺院で、富士山威徳院と号し、当山派修験を兼帯して近郷三十余ヶ寺を支配したとされる。開山は不詳であるが、開基は八幡山城主松平玄蕃頭清宗で、中興開山は寛永十二年(一六三五)一月に入寂した法印盛胤である。富士山の山号から推して、当社の勧請は宝蔵寺の草創からさほど下らない時期に行われ、遅くとも中興開山の盛胤の代には既に祀られていたものであろう。
 神仏分離を経て、当社は明治五年に村社となった。更に、大正五年には字雷電林にあった雷電神社を合祀した。この時、雷電神社の本殿が壮厳な造りであったことから同社の社殿一切を塚の東麓に移築して当社の新たな社殿とし、従来の塚上の本殿は奥宮と改称した。
 この社殿の移築に際しては、横に並べた二台の大八車の上に載せて、挟い農道を運ばなければならなかったため、大八車の車輪を補強したり、農道を補修したりと大変な苦労であったという。
 □御祭神 木花開耶毘賣命…安産・子育て
                                      案内板より引用
 
 
          拝 殿                 拝殿の右側には塚があり、
                          その墳頂に奥宮が鎮座している。
 
 元々は14m程の古墳であったが、江戸時代に富士山を信仰する富士浅間講の富士塚として現在の形に改められたという。頂上には浅間神社奥宮が鎮座しているが、ここが上里町でもっとも標高が高い地点でもある。
 
 道路を挟んで西側には「不二山宝蔵寺」があり、『新編武蔵風土記稿』大御堂村の項を見ると、宝蔵寺の境内社として「浅間社」と見える。塚の中腹に鐘楼(写真左)があるのはその名残りであろう。また拝殿手前、右側には境内社が鎮座する(同右)。
       
        拝殿左側には社号標柱が立つ。    拝殿左側奥にも境内社・石祠等が見える。
       
                社号標柱近くに聳え立つご神木

            

 県道西側には宝蔵寺があり、道路沿いには町指定文化財である「マキの大木」が聳え立つ。宝蔵寺管理。樹齢は約800年と推定。昭和37222日指定。
 今でも幹回り5m程、高さ14m程の大木だが、昔はもっと大きかったという。そのため、戦争中、児玉飛行場の飛行機の発着に支障をきたすということで、上部を切って短くしたという経緯がある。木の下には、槇木大明神の碑が建てられている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
上里町公式HP」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」
    「境内案内板」等
         

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勅使河原丹生神社

 勅使河原氏は武蔵七党の一派丹党の出で、秩父丹五基房の嫡男直時が1075年頃、武蔵国賀美郡勅旨河原に本拠地を置き、勅使河原という地名を家号として称したのが始まりという。この勅使河原氏は四字の苗字では日本一に多く、日本全国に3,000人いると推定されているが、そのルーツはこの武蔵国賀美郡(現埼玉県児玉郡域内)勅使河原とのことだ。
所在地   埼玉県児玉郡上里町勅使河原1368
御祭神   埴山姫命
社  挌   旧村社
例  祭   大祓 7月13日  秋祭り 10月20日   

       
 勅使河原丹生神社は国道17号線を金久保地区から西方向に進み、勅使河原交差点を左折し、関越自動車道を抜けると西側に約200m程の場所に鎮座している。この勅使河原地区はすぐ西側に神流川が流れ、まさに武蔵国と上野国の境に位置する地域で、現在は閑散とした田園風景が続く地域だ。
           

                      勅使河原丹生神社正面の一の鳥居
 この社の創建時期について『明細帳』は「古老の口碑」として、応永年間(1394年~1427年)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(1559年)に現在の所に遷座したと伝える。ちなみにこの応永年間は日本の元号の中で、昭和、明治に続いて3番目に長い元号で(35年間)、一世一元の制導入以前では最長と言われている。
           
                            神      門

   「正一位丹生大明神」と記された神門の扁額     神門上部には未だ色彩鮮やかな彩色が残り、
                                         彫刻も見事に施されている。
           
                   神門天井部にも鮮やかな絵が残されている。
           
                        神門の手前右側にある案内板

丹生神社  御由緒
御縁起(歴史)    上里町勅使河原一三六八
 勅使河原は、武蔵七党の丹党に属した勅使河原氏の名字とされる。丹党系図によれば、丹党の祖とされる武信から七代目の子息武時が勅使河原氏を称しており、また、長野勅使河原系図にも、承保二年(一〇七五年)四月二日に「ト地同国賀美郡勅使河原邑移居、則以地名為家号」とあることから、平安時代末期には勅使河原氏がこの地に住していたことがわかる。当社は勅使河原の鎮守である。
 当社の創建について、「明細帳」は「古老の口碑」として、応永年間(一三九四-一四二六)に神流川の辺に創立されたが、その後、出水で社地が流出したため、永禄二年(一五五九)に現在の所に遷座したと伝える。一方、『児玉郡誌』も同様の話を載せているが、創立は大永年間(一五二一-二八)、遷座は永禄二年と、創建の年代が異なる。しかし、『風土記稿』勅使河原村の項に「丹生社 村の鎮守なり、昔は神流川辺にありしが、川欠にて元禄年中(一六八八-一七〇四)今の地へ移せり」と載り、当社も元禄十六年(一七〇三)の年紀のある幣束が現存することから、遷座の時期は元禄年間と思われる。
明治に至り、神仏分離が行われるまで、当社の西隣にあった当山派修験の文殊院が別当として当社の祭祀を行ってきた。大正年間まで神職を務めていた下山家はその末裔で、現在は神社の祭祀とは直接かかわりはないが、今も神葬祭を続けている。(以下中略)
                                                          案内板より引用
           
                   平成24年春の改修竣工で新しくなった社殿。

          社殿改修の記念碑                         拝殿内部
        
                          社殿の手前にある御神木
 しかしこの「勅使河原」という地名は考えてみると不思議で、何故に「勅使」という言語の入った地名が存在するのだろうか。11世紀中ごろには、秩父丹五基房の嫡男直時がこの地名を家号にしたというのだから、「勅使河原」という地名は1075年よりも遥か以前に存在していたことになる。通説では勅使田のあった河原が語源であり、東日本により多く存在していて、勅使によって開発された田で、多くは皇室の諸費用にあてられたらしいが、それならば東日本広域でも、もう少し、より多く、その地名があっても不思議ではないと思われるのだが。

                          社殿の近くにある境内社

        神門の東側にある神楽殿          神楽殿の近くにも多くの境内社が祀られている。


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金窪八幡神社

  神流川合戦は、天正10年(1582)6月18・19日の両日にわたって、武蔵及び上野国境の神流川を舞台としておこなわれた、上野厩橋城主滝川一益と武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直との戦いで、別名「金窪原の戦い」ともいわれる。
 そもそもこの戦いの原因は6月2日未明、滝川一益が仕えた織田信長が、一益の同僚でもある明智光秀によって殺害された本能寺の変で、6月9日早飛脚によってこの報を聞いた滝川一益は、逆賊明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうとしただけであり、同盟国であったはずの関東小田原後北條氏とは戦うつもりはなかったろう。つまりこの戦いの主導権は最初から後北條氏側にあり、関東覇権の野心をひた隠し、表面上は信長側と同盟しただけの後北條氏側にとって信長の死はまさに「時は今」の状況下であったことだろう。
 この神流川の戦いの主要舞台となった地が上里町金久保地域周辺と言われていて、時は真夏、河川以外の障害物がない平原での大激闘であったという。
所在地    埼玉県児玉郡上里町金久保1052
御祭神    誉田別命
社  挌    旧村社
例  祭    3月15日 祈年祭  7月18日 例大祭     

        
 金窪八幡神社は国道17号線を上里町方向に進み、神保原(北)交差点のY字路を右側に進む。この道路は旧中山道で、現在埼玉県道392号勅使河原本庄線という名であり、そのまま直進すると約1km位で右側に金窪八幡神社が鎮座している。道路沿いで、一の鳥居の手前周辺には比較的広い駐車スペースが確保されていて、そこに車を停めて参拝を行った。
            
              道路沿いにある「金窪之郷 八幡神社」と刻まれた社号標石
            
                   社号標石の前にある金窪八幡神社の案内板
 金窪八幡神社はは大永五年(1525年)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(1582年)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。

          金窪八幡神社境内                         案内板

金窪神社 御由緒    
御縁起  上里町金久保1511-八

 神流川と烏川が合流する金久保は「金窪」とも書き、その地内には秩父郡の土豪で、南北朝時代に新田義貞と共に転戦した畑時能の居城である金窪城があったことで知られる。金窪城は戦国時代には小田原北条氏の勢力の北限の守りとして、天正十八年(一五九〇)に德川氏の支配下に入るまで氏邦の臣の斉藤氏の居城であった。
 『明細帳』によれば、当社は大永五年(一五二五)に金窪城主の斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請したことに始まり、武運長久の神として斎藤氏の崇敬を受けてきたが、天正十年(一五八二)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものという。更に口碑によれば、元和年間(一六一五~二四)に中山道の開通により現在地に遷座したと伝えられ、金窪城跡の三〇〇㍍ほどの東にある旧地は「元八幡」と呼ばれている。
 江戸時代には天台宗の長命寺が別当であったが、神仏分離によってその管理を離れ、明治五年に村社になった。ちなみに、長命寺は廃寺になり、今では堂の痕跡はないが、当社のすぐ北東にあったという。その後明治四十一年に字松原の無各社菅根神社を境内に移転し、続いて同四十四年には字西金の村社丹生神社、その境内社三社、大字内の無各社七社の計一一社を合祀した。これは政府の合祀政策に従ったものであり、合祀を機に当社は八幡神社の社号を金窪神社と改めた。
                                                          案内板より引用
         

           
                             拝      殿
                
                     拝殿の左側手前にある銀杏の御神木
             
           
                             本      殿
 この金窪(金久保)地区は案内板の説明にもあったように、神流川と烏川の合流地点のすぐ南側に位置し、この地名通り「窪地」であったのだろう。この二つの河川の乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地の一角に金窪八幡神社は鎮座している。
 金窪八幡神社の近隣には金窪城が嘗て存在していた(その遺構は埼玉県指定史跡)。今はその城址には石碑がある程度で、わずかに土塁が残っているだけだが、その歴史を見ると、治承年間(1177~81)に武蔵七党の丹党に属した加治家季によって築かれたとされているというので、かなり古くまで遡るらしい。

 この加治氏は、秩父から飯能にかけて活動した武蔵七党の丹党の一派で、平安時代に関東に下った丹治氏の子孫と称している。丹党の秩父五郎基房(丹基房)の嫡子直時が勅使河原氏、綱房は新里氏、成房は榛原氏、重光は小島氏、そして経家の子の家季が加治氏を称したとされる。
 加治氏は飯能市から秩父地域にかけて活動した武士団で、拠点は飯能市付近と言われているが、金窪城の案内板を見る限りではこの金久保地域にも加治氏が存在していた痕跡が見られることから、加治氏の一派がこの地域を治めていたことは確かなようだ。
 ところで丹党の「丹」は、朱砂(辰砂・朱色の硫化水銀)とも言われ、水銀の採掘に携わる一族とも言われている。上里町と神川町の西側には神流川が流れているが、この神流川の「神流」の語源は「鉄穴」にあるといわれているし、武蔵二ノ宮の金鑚神社は延長5年に編集された「延喜式神名帳」では「金佐奈神社 名神大」と記載され、「金佐奈(かなさな)」の語源は「金砂」にあると考えられているように、採鉱・製鉄集団によって祀られたのが当社の実際の創祀と見られ、古代のある時期、この地域と製鉄業との関係は根深い所で結ばれていたと思われる。
           
                           社殿奥にある境内社

 もしかしたらこの「加治氏」も嘗ては文字通り「鍛冶氏」だったのではなかろうか。また金窪八幡神社の「金」も金属加工を意味するとも考えられる。丹党は武蔵七党の一派として、秩父地域から賀美郡、また飯能市地域にわたって繁栄した一族でもあり、その先祖は第28代宣化天皇の子孫である多治比氏の後裔と言われているが、史書上に掲載されている系図の記載内容が史実と矛盾することも多く指摘されていて、実は多くの謎を秘めた一族でもある。宣化天皇の御名代の一つ檜前舎人の伴造家であった檜前一族がその祖ではないかという説もあり、実際賀美郡には檜前一族が存在していたことは、古文書等にも記載されている。
           
           参道の右側には社務所があり、そこの一角には鬼瓦が展示されている。

 前出の神流川の戦いはかなり広範囲で戦われたようで、この戦いによりかなりの社が戦火の被害にあい、焼失し古文書等が失われている。古文書等には当時の人々の歴史や文化を考察する重要な資料の一つでもあり、非常に残念な思いだ。

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帯刀 菅原神社

 上里町帯刀地区の「帯刀」の地名の由来は古く、平安時代末期まで遡る。
 源 義賢は、平安時代末期河内源氏の武将で源為義の次男。源義朝の異母弟にあたり、源義仲(木曾義仲)の父である。保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では義朝に代わって河内源氏の嫡流を継承する権利を有していた人物だった。
 その後父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下り、上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵に館を構え、近隣国にまで勢力をのばしたが、久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。
 
上里町帯刀地区の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。そんな地名の由来の意味会いを感じながら厳粛な気持ちで菅原神社の参拝を行った。
所在地   埼玉県児玉郡上里町帯刀235
御祭神   菅原道真公、武夷鳥命、火雷神
社  挌   旧郷社
例  祭   3月25日  例大祭

       
 帯刀菅原神社は長浜地区にある長幡部神社から北東方向約1kmの場所に鎮座している。この地域では珍しい神明系の社で、旧郷社という社挌に不釣り合いなほど立派だ。古社独特の社叢に囲まれた雰囲気はなく開放的で、境内も良く整備されている。また駐車場も完備されており、厳粛な気持ちの中での参拝ではあったが一方では気持ちよく行うことができた。

       (旧)郷社菅原神社の社号標                                                  案内板
           
                    大鳥居。また綺麗に参道も舗装されている。
 帯刀菅原神社の創建は延喜5年(905年)で、延喜3年(903年)、菅原道真公の没後、陰陽博士(おんようはかせ)である紀友成(きのともなり)は、道真公の御意を全国に広めるために、全国行脚の旅に出たという。そして、延喜5年(905年)に、友成公は、当村に立ち寄られ、道真公の絵姿を与え、村内に道真公を祀る小さな祠が建てられたという。そして、神代の神々より武夷鳥神、火雷神をお迎えし、現在の形となったとする。その後、幾多の興廃を繰り返し、新田義貞が挙兵された際は、社殿をも焼失してしまうこともあったが、それも村民の力によって再興されている。

 この由来から考えると、延喜5年(905年)創建という時代の真偽はともかく、菅原道真の絵を祀る前の元々のこの社の祭神は武夷鳥神、火雷神の2柱だったのだろう。火雷神も京都府加茂に鎮座する賀茂別雷神社の神を勧請したものではなく、板倉雷電神社系の素朴に雷の猛威に対する畏れや、稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対するこの地域に住んでいた人々の信仰から生まれた昔からある地主神ではなかったろうか。
           
                               拝    殿

 菅原神社の社殿の奥には古墳(直径14mの円墳)がある。元々この帯刀地区には小円墳が多数あり、帯刀古墳群を形成しているという。この帯刀古墳群は関越道上里SA南方の台地上に分布していて、32基以上の古墳からなり6世紀中葉から7世紀にかけての築造と推定されている。菅原神社の奥にある古墳は菅原神社古墳いうが、墳頂に社殿を構えていない。古墳の規模が小さすぎたためか、それとも大昔の一族の墓の上に神社を築造することを末裔として憚ったためなのだろうか。

 

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神保原 石神社

 古の日本人は天、海、大地、山など、荘厳な自然の中に神を見出していた。俗にいう「八百万の神」という自然物や自然現象、思考、災い、人物、創造主、王権などを神格化し「多くの神様」を祀ってきた。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。
 石信仰も自然崇拝の一つであり、石や岩に心霊が宿るという信仰で、磐座(神社が建築されるより前の時代、山や木、石などの自然物を、神の依り代として祀っていた。その名の表す通り、「磐=岩」「座=座席の座」で、神の座る岩である)、磐境(神石の上に神が顕れる。その点では「磐座」と同様、依り代的な役割)、そして石神の大体3種類に分かれるという。
 古代日本人の死生観として、魂(タマ)は海のかなたにある他界からやってきて(生)、他界へ去ってゆく(死)というものがあった。タマが流動的だと考えられていた。人の体もともとタマ(魂)の入れ物と考えられていた。石もタマの入れ物・宿る物として考えられていたのだ。
 そういう意味において古代日本の石信仰は物理的な「個」を祀る信仰には違いないが、その根本には精神的な「魂」にも関係があるのではないだろうか。
所在地   埼玉県児玉郡上里町神保原965
御祭神   高御産巣日神、神皇産霊神、大己貴命、少彦名命
社  挌   不明
例  祭   11月2、3日 例大祭

        
 神保原石神社は国道17号を本庄、高崎方面に北上し、神保原交差点を右折して進むと正面突き当りに石神社が鎮座している。ちなみに「石」と書いて「せき」と読む。石神社の具体的な創建時期は不明となるが、元弘3年(1333年)に、新田義貞が上州より鎌倉に攻め上がる際、当社にて、戦勝を祈願したとされており、以来、当地の鎮守の森を「勝の森」と称するようになったという。
            
                                正面参道

     「日本惣社」と彫られた鳥居の神社名碑             鳥居を過ぎて右側にある手水舎
 石神社が鎮座する上里町神保原字石神の「石神」は中世の石神郷がその諸元となっている。烏川(からすがわ)から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名である。全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。一般にこのような石棒は、縄文時代中期に関東、中部地方を中心に発達した古代の石神信仰の信仰物であると考えられている。

 参道を進むと左側に石仏のような物が2体納められている祠があり、元来養善寺の薬師堂で境内社の磯崎社のようだ(写真左)。またさらに進むと山車のような建造物がある。(写真右)今では山車を覆う建物によって上部のみしか見られないが、記録によると日露戦争の戦勝記念に曳行したのが最後で、現在は石神社境内に常時飾り置きしているらしい。
             
                           白が基調の石神社拝殿
           
                               本    殿

  当地は中世の石神郷と考えられる。『風土記稿』では、烏川から引き揚げた石剣(石棒)を祀って鎮守としたことによる地名と伝える。
  全国の石神の総社とされ、日本総社石神大明神と称す。主祭神は高皇産霊神・神皇産霊神であり、大己貴命・少彦名命が合祀されている。
  元弘3年(1333)に新田義貞が上州より鎌倉に攻め上る際、戦勝を祈願し、以来この鎮守の森を「勝の森」と称するようになったという。また天正10年(1582)に北条氏邦・氏直と滝川一益が戦った神流川合戦の際、氏直が参拝して戦勝祈願したとも伝えられる。
  社殿は元禄16年(1703)9月に再建、昭和2年9月拝殿改築、幣殿新築された。昭和38年11月、不審火により社殿をぜんしょうしたが、神体の石棒は難を逃れた。社殿は昭和54年に再建された。

  境内社は八坂神社・磯崎社・勝盛神社・富士浅間神社で、八坂神社には境内社の白鳥明神社・天王社及び村内の天王社一社・稲荷社三社・白山社一社が合祀されている。磯崎社は石体二座の背面に嘉応元年(1169)7月銘があり、元来養善寺の薬師堂で、神仏分離の際に当号に改称した。勝盛神社は明治40年8月に字柿ノ木の三社神社・字中浦の琴平神社を合祀し、勝の森にちなんで勝盛神社とし、天手長雄社(あめのたながお)・稲荷社・琴平社を祀っている。富士浅間神社は明治40年8月に字東台に祀られていた社を境内社として移転したものである。
                                           埼玉の神社・埼玉県神社庁発行より引用

            石神社に並んで鎮座している境内社富士浅間神社(写真左、右両方とも)

       社殿の奥にある境内社 富士塚か                   同じく合祀社群
                                  八坂神社・白鳥明神社・天王社及び村内の天王社一
                                    社・稲荷社三社・白山社一社が合祀されている。

                                     

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