古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

七本木神社

  上里町は、神流川扇状地、本庄台地、沖積低地の三区の地形上に立地し、東西6km南北5,5kmのやや菱形を成し、海抜最高85m最低50mで、標高差35mの非常に緩やかな傾斜をしている平坦地である。首都圏から85kmに位置しており、菱形の本町を囲むように神流川と烏川が接している。
 埼玉県地震被害想定調査によるとプレート境界の地震は西埼玉地震、活断層の地震は深谷断層、神川断層、平井断層、櫛引断層等が想定されているが、本町では地盤が比較的堅固なため全体的に液状化の可能性は低い状況である一方、沖積粘性土地盤である町域の北部に液状化の可能性のやや高い区域が分布しているという。
 七本木地区は本庄台地上に位置し、埼玉県道23号線を通して本庄市との交通の便もあり、新しい家屋も並ぶ綺麗な地区だ。この七本木地区に当社は鎮座している。
所在地   埼玉県児玉郡上里町七本木3237
御祭神   誉田別尊 倉稻魂命 菅原道真
社  挌   式内社今城青八坂稲実神社、今木青坂稲実荒御魂神社
        今城青八坂稲実池上神社論社
        旧村社
例  祭   10月19日 例祭

       
 七本木小学校東側に接して鎮座している。片側2車線の本庄市から群馬方面に向かう群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線に沿って家並が続き、結構交通量も多い。以前聞いた話だが、群馬県は道路状況が埼玉県より充実していると聞いたことがある。さすが総理大臣を3名輩出した県だと羨ましく思ったものだ。
 それはさておき、この七本木神社の由来は、嘗て江戸時代七本木村字本郷原に鎮座する榛名宮神社が比定された。現在の鎮座地は旧家である金井家(当地を開発した家)が邸内社として祀っていた八幡神社を村の鎮守社とした。
 明治42年に近隣社を合祀し七本木神社と称した。この時榛名宮神社も移転合祀された。

           入口正面を撮影                 鳥居を過ぎると比較的広い境内
 この七本木地区は、旧家金井家が開発した土地であり、地名の由来は、村内に七本の古木があったことによる。『児玉郡誌』(昭和二年刊)には、久保田新田の旧八幡神社境内に、「八幡の大欅」と称される樹齢670年ほどの大木があり、地名の由来となった。七本の内の一本であり、他の六本は枯れてしまったと記されている。

        境内にある庚申塚案内板                頂上に猿田彦を祀る庚申塚
 この旧家金井家は『武蔵國兒玉郡誌』によれば新田義重の後裔であるといい、新田蔵人の子三郎長義が金井を称したのが始まりだという。淡路守頼義になると新田庄由良郷(群馬県旧新田郡新田町金井)に住み、以後経政・政時を経て三郎政経と続く。
 政経は筑前守を称して、金窪城主斉藤摂津守定盛の娘を娶りこの地に館を構えたのだという。
 以後江戸期に至ってもこの地に住んでいたといい、金井三郎衛門義澄には名主役を勤めて万治元年(1658)に岡上次郎兵衛景能が縄入(田畑の測量)をする際に土地の案内をして水帳を管理したという。 
 また七本木神社東側には低い土塁が残されている。境内の庚申塚は、櫓台跡の土塁かもしれないという説もあるが、いかがなものだろうか。
           
                             拝   殿
 七本木神社の創建については、金井家の火災により古文書を失い不詳であるが、邸内社として祀っていた八幡神社が村の鎮守となったものである。『明細帳』によると、明治四十二年に、榛名大神社・愛宕神社・白岩神社・稲荷神社二社・八幡神社二社を合祀して、社名を七本木神社と改めたという。

 社殿の奥には数多くの境内社があり(写真左)、また社殿の向かって右側には合祀された7社の本殿(同右) を収めてたと伝えている。 
                                                                    

 ところで延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には武蔵国旧賀見郡の式内社が4社記されている.長幡部神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社、今城青八坂稲實神社、これら4社中長幡部神社を除く3社ははなぜか長く読みづらい社名で明記されている。断っておくがこの4式内社は延喜式が編集された10世紀に確かに存在した社であり、時の朝廷の許可と承認を受けた歴としたお墨付きの神社なのである。
  延喜式神名帳がまとめられる200年前、時の朝廷、正確には元明天皇の時代に出された勅令で諸国郡郷名著好字令がある。この諸国郡郷名著好字令とは、全国の地名を漢字2文字で表記しなさいという命令であり、好字二字令、または単に好字令とも呼ばれる。『続日本紀』によると和銅六年「五月甲子。制。畿内七道諸国郡郷着好字。」)と記載されている。
 それまで旧国名、郡名や、郷名(郷は現在で言うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉や万葉言葉に漢字を当てたもので、漢字の当て方も一定しないということが多かった。そこで地名の表記を統一しようということで発せられたのがこの勅命である。
さらに、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字。佳字ともいう)を用いることになった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされている。
 つまり、誰でも読むことができるように表記しようとする時の朝廷の思惑からきたものであろうが、それに逆行するかのようなこの長たらしい神社名は、逆説的に解釈すると、このような社名を許可すること自体歴史があり、由緒ある社なのだろう・・・か。
 神社に興味を持ち始めたころには考えもしなかったことだが、ホームページも開設し、数年を経て知識も深まると、逆に新たな疑問も噴出するものだ。冒頭の疑問がまとまり切れない頭の中で渦のように蠢きながら、また一方の頭では、ある種不思議でミステリアスな何かが、この広大な穀倉地帯である武蔵国最北部利根川南岸周辺には存在していたのではないかと勝手に解釈しながら何回目かの参拝を行った次第だ。

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今城青坂稲実池上神社

  今城青坂稲実池上神社が鎮座する児玉郡上里町は、古代律令時代武蔵国賀美郡と言われた。賀美郡,美しい名称だ。賀美郡は武蔵国の最北端に位置し、東南は児玉郡、西北は利根川を挟んで上野国に接している。おおむね現児玉郡上里町、神川町の地域で、『和名抄』は「上」と訓じている。ちなみにこの「かみ」は、当初武蔵国が東山道に属していたとき、畿内にもっとも近い郡であったことによるとする説があるそうだが真相は不明だ。
 賀美郡は現在の上里町全域と神川町北部が行政区域に相当され、その郡内には式内社が4社存在していたという。地形的にも上野国と利根川、神流川という2大河川を通じて接している関係から、上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。また賀美郡は上古代から地理的に恵まれたようで遺跡から出土した様々な土器の豊富さから、当時としては、比較的豊かな生活を送っていたことがうかがえる。

 この地域は不思議なことに縄文時代、弥生時代の遺物が数多く出土しているが、何故か縄文人、弥生人が生活をしていた住居の跡は見つかっていない。古墳時代後期(六世紀)になると、上里町全域に大規模な集落が営まれ、上里町の数々の古墳はこの頃造営された。この地域の古墳は、小さい古墳がまとまって作られているのが特徴である。

所在地     埼玉県児玉郡上里町忍保225
主祭神     気吹戸主命  (合祀)豊受姫命
社  格      旧県社
例  祭          9月29日 例大祭
由  緒     和銅4年(711)創立
          正慶年中(1332~34)新田義貞造営
          大永年中(1521~28)齋藤盛光造営
          天正10年(1582)神流川合戦で社殿焼失
          同年川窪與左衛門尉信俊再造
          元禄年中(1688~1704)同氏の孫信貞丹州に転領となり以後頽破
          明治32年2月7日県社

                        
明治40年1月12日神饌幣帛料供進神社指定
                     
地図リンク
  神保原駅からは約2キロ北上の地に鎮座する。さすがに埼玉県最北部に位置する場所なので周りは田園風景ばかり。すぐ北は烏川なので氾濫があったらどうなるのだろうと変なところを心配してしまった。(事実元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた、との記録もある。)
  この地域は過去において現在ののどかな田園風景とは別の顔を持っており、有名な神流川の戦い(1582年6月18日~19日)では、織田信長の家臣である厩橋(うまやばし、前橋の古称)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との戦いにより社殿を焼失した。その後天正19年(1591)に川窪信俊が社殿を再建し、神田が寄進された、とのことだ。

 
         一ノ鳥居 手前にある橋は御神田橋                         二の鳥居の手前にある掲示板

池上神社(社頭掲示板より
  所在地 上里町忍保225
  池上神社は、和銅年間(708~715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。
  忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。
  正慶年中(1332-34)には新田義貞、大永年中(1521-28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。
  また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。
  なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。
                                                                      昭和61年3月埼玉県 上里町                                                            

                      
                                                          二の鳥居と扁額
                      
                                                    拝 殿  南側に鎮座
                                    洪水対策で地盤基礎部分が高くなっている。
                      
                                                               本   殿
 本殿は土塁等で土盛りをし、拝殿の基礎部分より高くして洪水対策をしているようでもあり、元々あった古墳上に本殿を造ったようにも見える。


 今城青坂稲実池上神社の祭神である伊吹戸主命は祓戸四神のひとつで、速開津媛命の飲み込んだ禍事・罪・穢れを確認して根の国・底の国に息吹を放つ神である。ところで祓戸大神の四神とはどのようなの神であろうか。
 この神々は記紀神話に登場せず、大祓詞にその名が記されるその名の通り、穢れを祓ってくれる神様だ。

【祓戸大神】
 祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
 神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。
 なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

・ 
瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
・ 
速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
・ 
気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
・ 
速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

 速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
        
                  今城青坂稲実池上神社 拝殿と本殿

 祓戸大神の4神の役割には順番があり、① 世の諸々の過事と罪、穢れを瀬織津比売が川に洗い流して→② 速開都比売が河口で受け取って海底に沈めて→③ 気吹戸主海底から根の国・底の国に禍事・罪・穢れを送り込んで→④ 速佐須良比売穢れ等全て一網打尽に浄化し、世の中をリセット(再生)する、という一連のプログラムを実行することによって常に世の中の秩序、道徳等が守られるというものらしい。
 祓戸の大神のうち三神が生命を育む女神であり、川は飲み水、海は生命の根源として、また、呼吸は人間に不可欠なものであり、霊界はこの世を裏で支える存在として、それぞれが私たちにとって大切なものだ。まさしく人間だけでなく、地球上の生命にとっても根源的なご神徳を備えた神々が祓戸の大神で、いわば自然の自浄作用のようなものを具現化した神なのではないだろうか。

 ところでこの祓戸大神の神性、神格は世界中の神話で登場する洪水伝説に似ていると感じるのはいささか飛躍した考えだろうか。


 『延喜式』「神名帳」武蔵國賀美郡四座の三座、「今城青八坂稲実神社」「今城青坂稲実荒御魂(いまきのあおさかいなのみのあらみたま)神社」「今城青坂稲実池上神社」の一座に比定されている。この三座について吉田東伍は『大日本地名辞書』のなかで次のように述べている。

 「社号に因りて之を考ふるに、一神を三霊に分かちたるにて、青と云ふは地名なるべし、即ち後世アホに訛りアボとも転りたる者とす。八坂は弥栄にて(坂とのみあるは栄なり)稲の実成に係けたる語とする。されば青の弥栄稲実の神なり。また其の荒御魂を本祠に分かちて祭る者一所、又特に池上に祭る者一所、合三所なりし也。而も其今城の名を負ふは詳らかならず。今木は山城國、大和國には地名にもあり。又新墓(ニヒハカ)を今城と云ふことあり。又新帰、新米の蕃人異族を今来と云へりとも想はる」

 
今城青八坂稲実神社は現在は埼玉県児玉郡神川村元阿保の地にある。この阿保は青に通じる。そして阿保から西南へ五キロ行くと金鑽神社がある。金山彦命を祀る金鑽神社が銅や鉄の精錬と関係があることはまぎれもない。金鑽神社の東には金屋集落があり、鋳物業をしていた家が今もあるそうだ。今城青八坂稲実神社もまた、銅や鉄の採鉱冶金に関係のある人たちの神社ではなかったろうか。賀美郡一帯にさかえた武蔵国造一族のうち、檜前舎人直の勢力がもっとも抜きんでていたというのは、大和国の檜前の廬入(いおいり)宮に仕えていた舎人の後であることを思わせる。
 近年、神川町大字元阿保字新堀北の金糞遺跡から、金属精錬工房跡が発掘されている。

 

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