古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

七輿山古墳

 七輿山古墳(ななこしやまこふん)の名称の由来には次のような悲しい伝承が伝わっている。
 七輿山古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる「多胡羊太夫」の伝承・伝説に基づいている。
 天児屋根命の子孫、大織冠鎌子5世の孫である藤原将監勝定の嫡男である八束羊太夫宗勝は、和銅7年(714年)に元明天皇より片岡・緑野・甘楽郡より300戸を賜った。
 それまでに毎日、奈良まで(和銅を持って)天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復していた。それは斉明天皇の御代から元正天皇の養老元年(717年)まで63年間に及んだ。
 太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣した。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と呼ばれるに至ったという
        
               
・名 称 七輿山古墳
               
・所在地 群馬県藤岡市上落合8311
               
・規 模 全長145m 高さ16m 形 状 前方後円墳
               
・築 造 6世紀前半
               
・指 定 国指定史跡 昭和21927)年614
                    
*追加指定 平成81996)年926
 七輿山古墳は、上落合地域西境から北境を流れる鏑(かぶら)川と、同地域東境を北流する鮎(あゆ)川に形成された河岸段丘上に造られた三段築成の大型の前方後円墳で、全長150m、前方部幅106m、後円部径87m、前方部と後円部の高さは16mを計る
 藤岡市上落合地域は、藤岡市の北西寄りに位置し、古墳の東側には鮎川に沿って南北方向に群馬県道173号金井倉賀野停車場線が延びていて、また美土里・小野地区と高崎市吉井町を繋ぎ甘楽方面へ抜ける同県174号道下栗須馬庭停車場線が「上落合」交差点にて交わっている。その交差点からすぐ南側にある「上落合南」交差点を西行し、暫く進むと、左側に「七輿の門」という専用駐車場があり、七輿山古墳はその専用駐車場から正面に見えてくる。
        
        「
七輿の門」駐車場のすぐ東側にある「七輿山 宗永寺」の社号標柱
               正面参道から徒歩にて出発する
『日本歴史地名大系』 「上落合村」の解説
 鏑(かぶら)川が西境から北境を流れ、東境を北流する鮎(あゆ)川を東北端で合する。南は三木村・白石村、西は多胡郡岩井村(現多野郡吉井町)と接する。村名は両河川の合流(落合う)地にちなむといい、東方の烏川と神流川が合流する落合村(落合新町、現多野郡新町)に対し上落合としたという(「国志」など)。南部に国指定史跡の七輿山古墳、北部に県指定史跡の伊勢塚古墳があり、ほかに六〇基余の古墳が確認されており、南接する白石にも多数の古墳があるので、古代豪族が居住していたと推定される。
 
    宗永寺参道から七輿山古墳を撮影           後円部に近づく。        
    写真の左側は後円部にあたる。             
 墳丘には自由に登る
ことは出来たのだが、今回は時間の関係で周濠付近の散策のみ。それでも、河岸段丘という地形を利用して造られた三段築成の大型の前方後円墳は、周囲一面周濠を巡らせているため、その大きさを認識しやすい。
        
                      後円部に設置されている案内板
 国指定史跡 七輿山古墳
 所在地 群馬県藤岡市上落合八三一-一ほか
 所有者 国ほか
 この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。 大きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部高さは16mです。 四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴輪列が明らかになりました。 また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。 出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに人物・馬・盾などの形象埴輪があります。 特に、円筒埴輪は七条凸帯を融資、径50㎝、高さ1.1mの大型品です。
古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
        
   後円部の中腹で、先端部にあたる場所は古墳が削られていて、石仏が安置されている。
       よく見るとどの石仏の首はない状態で、近くで撮影しようとしたが、
           薄気味悪さも手伝い、この位置からの撮影となった。
        
                             後円部から前方部を撮影
 群馬県藤岡市が県立歴史博物館と早稲田大学との合同調査を行っていた七輿山古墳について、墳丘の長さは6世紀代の古墳としては全国3位規模の150mだったことが判明した。合同調査は平成30年、最先端のGPS(衛星測位システム)測量と地下探査レーダーを駆使して実施。2日には、正式な学術報告が公開されている。
 七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、規模はこれまで145mとされていたが、27万ヶ所を測定するなどして5m長かったことが明確になったという。
        
         前方部。この古墳が三段築成の大型の前方後円墳であることが分かる。
        
                        前方部から後円部を撮影。
 古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われていて、地元の協力により美観が保たれ、「藤岡八景」の一つになっている
 昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀・中堤・外堀・外堤・葺石・埴輪列が確認されている。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていた。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されているという。
        
                       「七輿の門」付近に設置されている案内板

『武蔵国造の乱』は、『日本書紀』安閑天皇元年(534?)条の記載によれば、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていて、小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
 更に、『日本書記』によれば、安閑天皇2年(5355月には大和朝廷から上毛野国の「緑野屯倉」を設置したと載せていて、この「緑野屯倉」は現藤岡市緑野・倉屋敷付近と推測されている。
 
 
         「七輿の門展示室」に解説・展示されているパネル板

 当時、「上毛野君氏」の勢力の中心地であったと推定される高崎市周辺の南東約10㎞の地内にあたり、これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであるという説もあるが、ハッキリとは解明されてはいない。

 というのも『日本書記』では、上毛野君小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなく、むしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないこと等の反論もある。
               

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朝子塚古墳

 群馬県は、嘗て「上毛野国(かみつけぬのくに)」と称し、東国有数の古墳王国であった。群馬県教委が2012年度から実施してきた古墳総合調査の最終報告が纏めた県内の古墳の総数は13249基で、そのうち2434基(速報値)が現存していることが分かった。県教委によると、古墳総数は、東日本では千葉県に次ぎ2番目に多く、規模などの「質」では「東日本随一」という。特に、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた埴輪に関して、唯一の国宝埴輪である「武装男子立像」は、太田市飯塚町から出土していて、国宝・国指定重要文化財の埴輪全42件のうち19件(45%)が群馬県から出土しているように、群馬県は「埴輪(はにわ)王国」と呼ばれ、日本における埴輪研究の「メッカ」とされているという。
 このように東国(東海・甲信・関東地方)では、圧倒的な質と量を誇り、古墳時代から平安時代にかけて、現在の関東地方で栄えた「東国文化」の中心地でもあった。
             
            ・名 称 朝子塚古墳
            ・所在地 群馬県太田市牛沢町11102
            ・規 模 全長123m 高さ11.8m 形 状 前方後円墳
            ・築 造 4世紀末〜5世紀初頭頃(推定)
            ・指 定 県指定史跡  昭和54年(1979年)102日指定
 熊谷市・小島神明神社から直線距離にして1.3㎞程北側で、群馬県道142号綿貫篠塚線沿いに朝子塚古墳はある。駐車スペースは残念ながらない。
 この古墳は、利根川左岸から1.5㎞北方の沖積地内にあり、低台地上に位置する。東毛地域に所在する前期古墳のうちでは最大級の規模を誇る前方後円墳。墳丘は三段築成で主軸を北西から南東にとる。全長123m、後円部径65m、前方部前幅48m、高さ後円部11.8m、前方部7.5mの規模を有し、後円部の発達した典型的な柄鏡式(えかがみしき)古墳である。
 因みに柄鏡式古墳とは、前方後円墳の一形態であり、古墳時代初期に多い古墳の形で、後円部の直径に比べて、前方部が細長く、あたかも柄のついた鏡のような形の墳形である古墳の事である。
        
                           石段の手前に設置されている案内板
 群馬県指定史跡 朝子塚(ちょうしづか)古墳
 指 定 昭和五十四年七月十一日
 所在地 太田市大字牛沢字朝子塚
 墳丘の全長約一二四mの大型前方後円墳で、後円部に比較し前方部が約五m程低く細長い形態を示している、このため古墳の造形は非常に優美である。周溝は墳丘にそって一周していると推定され、又、墳丘には川原石による葺石が全面にしかれている。
 墳丘裾部には古式の大型円筒埴輪の方形配列が認められ、その列中に埴輪の祖型と見られる底に孔をあけた壺形土器が発見されている。埴輪の種類には、円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪・家形埴輪等が認められている。
 主体部は竪穴式石室系のものと考えられ、群馬県における古式古墳の典形と見られている。古墳の築造年代は四世紀末~五世紀初頭頃であろうと推定されている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                          「後円部」にある真っ直ぐな石段を登る。
 群馬県における古墳の出現時期を時系列に考察すると、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)最初に出現した王者は前橋市・朝倉八幡山古墳(全長130m)の埋葬者である。同時期には元島名将軍塚古墳(全長96m)と藤本観音山古墳(全長117m)の埋葬者も勢力を得るが、後が続かす衰退。この時期の古墳は3基ともなぜか前方後方墳で、それ以降は前方後円墳となる。朝倉八幡山古墳→前橋天神山古墳と続いた後、この勢力は力を弱めたようで、その後の古墳は規模が小さくなる。
        
                               墳頂部に鎮座する雷電神社
 その後、盟主権を得たのが、距離的には前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方で、少し遅れて群馬県東部の太田市で勢力を持つ朝子塚古墳(全長123m)や宝泉茶臼山古墳(全長168m)の豪族である。4世紀末、5世紀初頭はこの勢力が東西を二分していたと思われる。
 佐野町、倉賀野町地方は浅間山古墳後、何故か
5世紀初頭に古墳築造がストップする時期があり、藤岡市・白石稲荷山古墳(全長175m)や高崎市綿貫町・岩鼻二子山古墳(全長115m)の地域に新たな勢力が誕生する何かがあったのかもしれない。
 実は、太田市強戸町には寺山古墳(全長約60m 前方後方墳)という太田市内における最古式の古墳(4世紀前半)が出現していて、古墳時代前期から中期まで一貫して勢力を維持してきた地域であったのであろう。 
        
                後円部から前方部にかけての墳丘とそれを巡る周堀跡が続く

 太田市地域の勢力は益々力を持ち、ついに太田天神山古墳の王者に至るとその絶頂期を迎える。また太田市近郊の伊勢崎市に御富士山古墳(全長125m)があり、共に5世紀中頃の築造であること、この2基の古墳のみ長持形石棺が確認されていることから、この2基の古墳は親密な関係があったと思われる。
 太田天神山古墳の埋葬された王者の後、急速に衰退し、その後古墳の勢力図は群馬県中央部と、西部藤岡市に分散し、古墳の規模も6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)を最後にせいぜい100mクラスの古墳に縮小されていく。



参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP国立歴史民俗博物館研究報告 211 20183PDF
    「
Wikipedia」「現地案内板」等
    

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中条大塚古墳

 埼玉県の北東部に拠点を置いたと思われる「さきたま古墳群」の王族たちは、5世紀後半から 7 世紀の中ごろまで約150年の間、現在の行田市埼玉の地に連続して大型古墳を造り続けたと考えられている。「オワケノオミ」の名を刻む金錯銘鉄剣を副葬した「稲荷山古墳」が最初の築造とされ、方形の周溝に取り囲まれた前方後円墳という特徴的な姿をしている。
 さきたま古墳群の時代、熊谷市域はいわばさきたま王権の傘下にあったと云思われる。市域からは荒川を介して石材や窯場で造られた埴輪や鉄製品などが運ばれたようだ。将軍山古墳出土の大形円筒埴輪の一部は、熊谷市千代所在の権現坂埴輪窯跡群で造られ運ばれたと思われる。
 中条中島遺跡の南方に位置する「中条大塚古墳」は発掘調査により 7 世紀代の横穴式石室を持つ円墳と判っている。盗掘のため少数遺物だけの発見であったが、「桂甲小札」という鎧の部品と金銅製の鞘尻金具(金銅製の「頭椎大刀」の一部)という豪華な武具が副葬されていたことが判っており、さきたま王権の一担を占めた人物と想像されていて、古墳時代の間、中条地域に一定の勢力を保っていたと推定されている。
       
              ・名 称 大塚古墳
              
・所在地 埼玉県熊谷市大字大塚365
              
・規 模 基壇 直径59m、円丘 直径35
              
・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
              
・指 定 熊谷市指定史跡 昭和34年〔1959113日指定
 中条大塚古墳がある大塚地域は、現在熊谷市北部地区東部にある中条地域に属しているが、区域内の字(大字)は、上中条・今井・小曽根・大塚で、全域が旧北埼玉郡中条村の区域である。
 因みに、
この「中条」という地名は、古代の条里制(じょうりせい)によるものと推測される。条里制とは、大化の改新後布かれたもので、土地を区画するのに、縦区画の方向を里、横区画の方向を条とし、北から南へ一条、二条…と数えた。この条が地名となり現在に残ったものと考えられる。また平安時代末、藤原姓日野氏流の中条常光が上中条に館を構え中条氏を名乗った。中条氏からは鎌倉幕府初代評定衆中条家長などが輩出され、室町幕府でも奉公衆に取り立てられたが、戦国時代に入り松平氏宗家第4代松平親忠に敗れるなどし衰退したという
        
                              大塚熊野神社正面社号標柱
 中条大塚古墳は、7世紀初頭に造られた当地を支配していた豪族の墓で、直径59m、高さ1.2mの基壇上に、直径35m、高さ4mの半円の墳丘が乗った円墳らしいのだが、今では北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約4分の1が残っている状態という。2度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されている。墳頂には大塚村の村社の「大塚熊野神社」が鎮座している
        
                         参道に沿って進むと基壇部に到着する。
 中条大塚古墳は「中条古墳群」に属している。この古墳群は、上中条地区の中条支群(上中条支群)、大塚地区の大塚支群、今井地区の今井支群で構成されており、かつては前方後円墳2基、方墳2基、円墳32基、円墳と見られる古墳3基の計39基が数えられたが、その多くは開墾などにより破壊され、半壊した墳丘を留めるもの2基(小曽根神社古墳と中条大塚古墳)以外は、墳丘が削平されたもの28基、消滅したもの9基という状態にある。
        
                           参道右側で基壇部近くにある巨石
                           石室の天井石であったものであろうか
        
           大塚古墳の案内板(詳細は大塚熊野神社を参照)

古来より、「中条」という地域は、利根川と荒川という両大河川が最も接近する一帯に立地し、両大河川、及びその支流沿いに生まれた多くの微高地は生活に農耕に適しており、西側の台地を巡った伏流水が豊富に噴井する扇端部にも位置することから水利にも恵まれたようだ。このような環境があったことが、弥生時代来数多くの集落をつくり出したと考えられ、中条中島遺跡をはじめ、一本木前・根絡・池上・北島・前中西・諏訪木遺跡などからの古墳時代へ続く集落が確認されている。
       
                                南西部より撮影
 その後、5世紀中頃から7世紀前半頃まで「中条古墳群」が約 2×3 ㎞の広い範囲に造られる。上中条支群にあった鹿那祇東古墳(かなぎひがしこふん)から、国の重要文化財に指定されている埴輪「短甲の武人」や、「馬形埴輪」が出土した。今井支群の鎧塚古墳(よろいづかこふん)出土の土器群は熊谷市の有形文化財に指定され、大塚支群に属する大塚古墳(おおつかこふん)は熊谷市指定史跡となっており、古代から歴史的資料に富んでいる地でもある。
 さきたま古墳群から中条までの約8㎞圏内には盟主に相当する大型古墳は他になく、中条古墳群内にも大型の前方後円墳は見当たらないことから、さきたまの王に従属していたと思われる。
 中条古墳群の周辺では横塚山古墳(上奈良)、とやま古墳(行田市)が稲荷山古墳の出現とほぼ同時期とされることから、妻沼低地の一定の開発の進展が地域の政治力に安定と結合をもたらし、その象徴としてさきたま 王権の確立と古墳群の出現に至ったとする考えもある。


参考資料「熊谷市立江南文化財センター・中条古墳群、中条中島遺跡の製鉄遺構HP
    「熊谷デジタルミュージアムHP」「熊谷市 中条公民館HP」「Wikipedia」等   
                           

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円墳大塚古墳

 埼玉県指定史跡 円墳大塚古墳
 昭和33320日指定
 所在地 皆野町大字皆野毛無塚95
 秩父地方の古墳は、現在のところ古墳時代後期になってから築造されたと考えられている。大部分は小規模な円墳が集まって、一つの群を構成している。大塚古墳は、秩父地方に現存している 古墳の中では大規模なもので、直径約33m、高さ約7mである。
 墳丘は円礫の葺石で覆われ、周囲には幅約4m、深さ約1mの周溝がめぐっている。
 石室は横穴式で、南南西の方向に開口している。
 羨道(せんどう 玄室といわれる棺が埋葬される主体部への通路)の入口である羨門付近は破壊されている可能性があるが、玄室の入口にあたる玄門は東側の門柱、冠石、框石(しきみいし)が良好な状態で残されている。
 玄室は胴張り両袖式で、床にくらべて天井が狭いドーム状に構築されている。
 石材は、天井と奥壁には巨大な磐石、側壁には下部に大型の割石を縦に、上部では小型の割石を小口積みに、いずれも秩父の地域性を反映して片岩が用いられ、積み石の間隙部には小石や石綿が充填されている。また、床にはこぶし大の川原石が敷き込まれている。
 江戸時代にはすでに石室は開口しており、副葬品は発見されていない。また、埴輪も確認されていないが、石室の形から7世紀の第2四半期に築造されたものと推定される。(以下略)
                                    現地案内板より引用

        
             
所在地 埼玉県秩父郡皆野町大字皆野95
             ・規 模 円墳(直径約33m、高さ約7m 横穴式石室 全長7.8m)
             ・築 造 古墳時代後期(7世紀前半)
             ・指 定 埼玉県指定史跡 昭和33320
 黒谷聖神社から国道140号彩甲斐街道を北上し、「木毛」交差点を左斜め方向に進路変更すする。因みにこの道路は埼玉県道206号皆野停車場線、又の名称を「上原通り」ともいい、150m程進むと、進行方向右手に「円墳大塚古墳」の石製の看板や古墳の全貌が道路沿いでありながらもハッキリと見えてくる。
 駐車場はあるようなのだが、今回は国道140号線沿いで、「木毛」交差点のすぐ北側にあるコンビニエンスの駐車場をお借りしてから徒歩にて古墳散策に赴いた。
       
                   「上原通り」沿いにある円墳大塚古墳。
 円墳大塚古墳は、秩父市との行政境に近く、埼玉県西部の簑山西麓、荒川右岸の低位段丘最上段に築造された大型円墳である形状は円墳。付近には、中の芝古墳や内出古墳群など数基の古墳が残っている。墳丘は、直径約30m、高さ約5mで、墳頂には小祠が祭られている。円礫の葺石で覆われており、墳丘をほぼ一周していて、更に、深さ約1m、幅約4mの周溝が確認された。石室は横穴式で、南南西の方向に開口し、胴張両袖型で、側壁は片岩の小口積みが用いられ、当地方の特徴が現れている。
 この地域に多数みられた古墳群のうちの一つで秩父地方最大の切石古墳である。

    正面に設置されている石碑          石碑の右方向にある案内板
        
                                  円墳大塚古墳正面
 
   石室開口部は墳丘の階段上り口左側にあり、     墳頂部に祀られている石祠
          南南西方向に開口している。        だれを祀っているのであろうか。
        
                            県道から円墳大塚古墳の眺め    
 この古墳は当地では昔から知られていたようで、『新編武蔵国風土記稿』にはこの古墳について「氷ノ雨塚」として紹介されているほか、その当時すでに開口していた石室の内部が記述されている。
『新編武蔵風土記稿 皆野村』 
氷ノ雨塚五ヶ所 
此類近村に數多あり、其一は腰にあり、周回凡二十間、高さ三間半許、上には荊棘茂生す、土人これを大塚と呼、里正一郎右衛門が祖父、一郎右衛門貴高が幼少の頃、其中に入りしと云、物語に六疊じきほどの穴にて、上も下も四面ともに總て岩石にて、甃して僅に身を容るゝばかりの入口ありと云、その後は社きて入るものなしと、其二は大濱にあり、周囲五間、高さ一丈許、其二は大京にあり、大さ前に同じ、

 ところで、前項「飯塚・招木古墳群」における89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていて、この両古墳は「氷雨」を共有している。また、互いに荒川の対岸に位置しながらも距離的には決して遠くはない。余談ではあるが、秩父には「氷雨塚」「氷ノ雨塚」と呼ばれていた古墳が数多く存在している

『新編武蔵風土記稿 大淵村』
塚 土人氷ノ雨塚と唱ふ、郡中所々にあり、村民周次が畠の中にあり、此塚中は沖にして、入口六尺、幅も六尺許、奥行は二間、石を以て疊上げ、上に大石を三枚許亘せり、昔此穴の中より古刀出たりしが、皆折れたりとぞ、其折れたるを此塚に埋めしと云、村民彌市右衛門が畠の中にも、前の塚と同じき塚ありしが、先年崩れ取りしと云、其崩せし時古刀四本を得たり、今に所持す、

『新編武蔵風土記稿 久那村』
氷ノ雨塚 荒川の北岸字釜林にあり、地形南東北に荒川の流れ廻り、西方陸田にて石を疊みて界とす、南北二町、東西一町半許、此間に塚三ヶ所あり、(中略)何れも塚上に松雑木たてり、見捨地なり、土人云往古岩田伊勢なる者、此邊に住居せしよし、實詳まらねど、上田能村小名殿間に住せし頃、故ありて北條家より所を拂はれ當村に來りとも云へば、その年代は推て知べし、村民龍五郎が家伊勢が末なりとて、今に此地を持てり、村中岩田を氏とするもの多し、

『新編武蔵風土記稿 寺尾村』
氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數ヶ所あり、其内二つは沖あり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、(中略)此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、

『新編武蔵風土記稿 小柱村』
塚 里正庄左衛門が屋敷の内にあり、土人是を氷の雨塚と云、此塚うつろにて幅五尺、奥行八尺五寸三分、皆石を以て疊み、上は大石三枚ほど亘せり、此塚の傍に大天白の社を勧請せり、いかなる故にや、此塚の有る所には、すべて大天白の社を勧請すと云、塚の高さ一丈三尺許、

        
                    大渕古墳   
        大淵熊野神社から埼玉県道皆野両神荒川線を南下し、暫く進むと
              進行方向左手に封土は失われて石室のみが露出している古墳である。
             ・所在地 埼玉県秩父郡皆野町大渕

『新編武蔵風土記稿 小柱村』には、これらの古墳の上には「大天白社」が祀られているとの記述がされていて、興味深いことではあるが、これを証明する術は現在筆者には持ち合わせていない。実際「氷雨塚」という名称も、古墳築造当時に命名されたものとは考えにくく、後世に命名されたものと考えられ、そのいわれは、今猶分からないというのが現状である。


 筆者の妄想の類の考察を一つ紹介。秩父のシンボル的な存在として「武甲山」がある。この武甲山の山名の由来として、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征されたおり、雁坂峠の頂上から秩父の山並みを眺め、武人のように堂々とそびえ立つ山の名をたずねたところ、里人はその名を「秩父が嶽(たけ)」と答え、すると日本武尊はさっそくその山に登り、天の神・地の神をまつられたという。そしてその時、着用していた御自身の甲(かぶと)を岩室(いわむろ)に納めたので、その後この山を「武甲山(ぶこうさん)」と呼ぶようになったという。

 一方、『古事記』に載る日本武尊の伝説では、日本武尊は伊吹山の神の怒りに触れ、祟りとして「大氷雨」を浴びせられたことで失神し、それが原因で病死する語りとなっている。つまり「日本武尊」に関する伝承・伝説を知る者にとっては「氷雨」がどのような意味をもつか、当然知っている事であろう。
 但し日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説は、元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着したこともあり、この伝承・伝説の歴史自体は決して古くはない。

 この「氷雨」を「
日本武尊」伝説が秩父地方で定着をした際に、飛び火的に発生した事項ではなかったか、とも考えた次第であるが、あくまで推測である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「皆野町HPWikipedia」「現地案内板」等
  

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飯塚・招木古墳群


        
            ・名 称  埼玉県指定史跡「飯塚・招木古墳群」
            ・所在地  埼玉県秩父市寺尾226 他。
            ・時代区分 古墳時代終末期(7世紀後半〜8世紀前半)
 飯塚・招木古墳群(いいづか・まねきこふんぐん)は、埼玉県秩父市寺尾にある群集墳で、荒川左 岸の寺尾地域の河岸段丘上、飯塚地区に73基、招木地区に53基の古墳が展開する秩父地方最大の群集墳である。径527m、高さ14mの円墳で構成されるが、方墳が存在する可能性もあるという。 

 国道140号彩甲斐街道を皆野町から黒谷聖神社方向に南下し、「和銅大橋前」交差点を右折し、そこから500m程進んだ道路の周囲がこの古墳群となるのだが、秩父地方最大の群集墳に通じる道路ゆえか、この道路自体「招木古墳通り」と名づけられている。
        
          招木古墳通り沿いにある89号古墳。嘗て「氷雨塚」と呼ばれていたという。
1977年(昭和52年)和銅大橋の架設による秩父市道38号線(現、秩父市道幹線8号、通称招木古墳通り)の新設に伴い、路線にかかる招木地区の古墳7基の発掘調査が行われた。その内の1基である89号古墳が市道脇に移築復元されていて、石室は玄室の控え積みを強固にし、周列石を23列巡らす児玉地方でよく見られる築造方法がとられている。
この89号古墳は『新編武蔵風土記稿 寺尾村』によると、嘗て「氷雨塚」と呼ばれていた。
「氷雨塚 小名飯塚と云へる所に、高三尺より七尺に至るの石塚數カ所あり、其内二つは沖なり、入口高七尺、幅六尺奥行八尺許、石にてつみ立たる塚なり、又一ヶ所は四尺に四尺五寸の口にて、奥行四尺五寸許、是も石にてつみ立たるのにて、何れも上は大石二三枚を亘せり、此二つは口罅缺して、中も能く見えたり、其餘數多の塚は中のさまは知れず、此塚を土人氷雨塚と唱へ來れり、村民持、下同じ、」
この89号古墳には埴輪が出土せず、副葬品も乏しいことから7世紀後半から8世紀前半にかけ、郷戸主層が築造した古墳群であるとみられている。
        
                            89号古墳前に設置されている案内板
 古墳復元について
 復元古墳名 飯塚招木古墳群89号墳
 古墳原位置 秩父市大字寺尾三四五番地
 復元現地の北、約30米市道上
 復元試行  昭和56128日〜同57330
 一、発掘復元の事情一飯塚市招木地区は国道への連絡がきわめて不便で、この地に道路を敷設することは地区発展にきわめて重要でした。しかし、たまたま古墳群所在地のため発掘調査を必要としたものです。
発掘調査に当り文化財保護と鎮魂の立場より後日復旧の希望があり、今回実現をみたものであります。
 二、復元古墳の規模・構造一復元された89号墳は市道道路敷にあった七基中の一基で、長・短径約11米、高2.5米、玄室長2.6米、羨道長2.4米、石材は羨道部は俗称真石、玄室部は砂岩室の平石を用い持送り式、棺床礫を床にしき、閉塞施設は真石を積み上げています。
 三、出土品一人骨片・土師・須恵器片・蔵骨器・鉄鏃・刀子等・僅かであります。
 四、仕様一復元は原形を目標とし、破壊部分は推定復元を行なった。この復元古墳によりこの地の古墳の携帯・構造の大体を把握することが出来ます。この地の古墳は七世紀から八世紀初頭営造と推定されます。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                       89号墳の近くにも古墳群の碑が建っている。

 この古墳群は、幸いにも近代の開発の影響が少なく、群集墳の様子を最もよく残している日本でも数少ない重要な遺跡である。古墳はすべて円墳で一二四基が確認されている。荒川の左岸段丘上に分布し、墳丘の裾部が重なり接し合う状態はまさに蜂の巣穴のような密集ぶりである。耕作地としうる平地に乏(とぼ)しく、現在でも人口の少ないこの地域にかくも大規模な群集墳が営まれたのは不思議な感じさえする。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」「記念碑文」等

 

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