七輿山古墳
七輿山古墳からほど近い群馬県高崎市吉井町池字御門にある日本三大古碑の1つ、多胡碑に「羊」と記されている人物と同一とされる「多胡羊太夫」の伝承・伝説に基づいている。
天児屋根命の子孫、大織冠鎌子5世の孫である藤原将監勝定の嫡男である八束羊太夫宗勝は、和銅7年(714年)に元明天皇より片岡・緑野・甘楽郡より300戸を賜った。
それまでに毎日、奈良まで(和銅を持って)天皇の御機嫌伺いに100余里の道を往復していた。それは斉明天皇の御代から元正天皇の養老元年(717年)まで63年間に及んだ。
太夫の乗った馬に小脛(こはぎ)という若者がついて行くと、馬は矢のように走った。ある日、都への途中、木の下で昼寝をしている小脛の両脇の下に羽が生えているのを羊太夫は見てしまった。普段から「私の寝姿は絶対に見ないで下さい。」と言われていたので、かえって好奇心が湧いたのだった。そっと羊太夫は小脛の羽を抜いてしまった。そこからは今までの速さでは走れなくなり、朝廷は羊太夫が謀叛を計っているとして討伐軍を派遣した。八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ葬ったので「七輿山」と呼ばれるに至ったという。
・名 称 七輿山古墳
・所在地 群馬県藤岡市上落合831-1他
・規 模 全長145m 高さ16m 形 状 前方後円墳
・築 造 6世紀前半
・指 定 国指定史跡 昭和2(1927)年6月14日
*追加指定 平成8(1996)年9月26日
七輿山古墳は、上落合地域西境から北境を流れる鏑(かぶら)川と、同地域東境を北流する鮎(あゆ)川に形成された河岸段丘上に造られた三段築成の大型の前方後円墳で、全長150m、前方部幅106m、後円部径87m、前方部と後円部の高さは16mを計る。
藤岡市上落合地域は、藤岡市の北西寄りに位置し、古墳の東側には鮎川に沿って南北方向に群馬県道173号金井倉賀野停車場線が延びていて、また美土里・小野地区と高崎市吉井町を繋ぎ甘楽方面へ抜ける同県174号道下栗須馬庭停車場線が「上落合」交差点にて交わっている。その交差点からすぐ南側にある「上落合南」交差点を西行し、暫く進むと、左側に「七輿の門」という専用駐車場があり、七輿山古墳はその専用駐車場から正面に見えてくる。
「七輿の門」駐車場のすぐ東側にある「七輿山 宗永寺」の社号標柱
正面参道から徒歩にて出発する
『日本歴史地名大系』 「上落合村」の解説
鏑(かぶら)川が西境から北境を流れ、東境を北流する鮎(あゆ)川を東北端で合する。南は三木村・白石村、西は多胡郡岩井村(現多野郡吉井町)と接する。村名は両河川の合流(落合う)地にちなむといい、東方の烏川と神流川が合流する落合村(落合新町、現多野郡新町)に対し上落合としたという(「国志」など)。南部に国指定史跡の七輿山古墳、北部に県指定史跡の伊勢塚古墳があり、ほかに六〇基余の古墳が確認されており、南接する白石にも多数の古墳があるので、古代豪族が居住していたと推定される。
宗永寺参道から七輿山古墳を撮影 後円部に近づく。
写真の左側は後円部にあたる。
墳丘には自由に登ることは出来たのだが、今回は時間の関係で周濠付近の散策のみ。それでも、河岸段丘という地形を利用して造られた三段築成の大型の前方後円墳は、周囲一面周濠を巡らせているため、その大きさを認識しやすい。
後円部に設置されている案内板
国指定史跡 七輿山古墳
所在地 群馬県藤岡市上落合八三一-一ほか
所有者 国ほか
この古墳は、周辺の地形を利用して造られた三段築成の前方後円墳です。 大きさは全長146m、後円部径87m、前方部幅106m、高さは前方部・後円部高さは16mです。 四回にわたる範囲確認調査で、墳丘の周りに内堀・中堤帯・外堀・外堤帯・埴輪列が明らかになりました。 また、前方部前面にはコの字状に三重目の溝が巡っています。 出土遺物は円筒埴輪、朝顔形埴輪のほかに人物・馬・盾などの形象埴輪があります。 特に、円筒埴輪は七条凸帯を融資、径50㎝、高さ1.1mの大型品です。 古墳の埋葬施設は不明ですが、出土遺物から六世紀前半に造られたものと考えられます。
後円部の中腹で、先端部にあたる場所は古墳が削られていて、石仏が安置されている。
よく見るとどの石仏の首はない状態で、近くで撮影しようとしたが、
薄気味悪さも手伝い、この位置からの撮影となった。
後円部から前方部を撮影
群馬県藤岡市が県立歴史博物館と早稲田大学との合同調査を行っていた七輿山古墳について、墳丘の長さは6世紀代の古墳としては全国3位規模の150mだったことが判明した。合同調査は平成30年、最先端のGPS(衛星測位システム)測量と地下探査レーダーを駆使して実施。2日には、正式な学術報告が公開されている。
七輿山古墳は6世紀前半の前方後円墳で、規模はこれまで145mとされていたが、27万ヶ所を測定するなどして5m長かったことが明確になったという。
前方部。この古墳が三段築成の大型の前方後円墳であることが分かる。
前方部から後円部を撮影。
古墳の墳丘は緑地で松・桜等の疎林で覆われていて、地元の協力により美観が保たれ、「藤岡八景」の一つになっている。
昭和47年から4回にわたる範囲確認調査で、内堀・中堤・外堀・外堤・葺石・埴輪列が確認されている。特に、中堤は古墳主軸線の前方部方向と前方部南西方向の隅に方形状の造り出しが付設されていた。また、中堤の平坦面には2列の埴輪列が検出されているという。
「七輿の門」付近に設置されている案内板
『武蔵国造の乱』は、『日本書紀』安閑天皇元年(534年?)条の記載によれば、武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたい おみ、おぬし)と同族の小杵(おき・おぎ)は、武蔵国造の地位を巡って長年争っていて、小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみ おぐま)の助けを借り、使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉として献上したという。
更に、『日本書記』によれば、安閑天皇2年(535)5月には大和朝廷から上毛野国の「緑野屯倉」を設置したと載せていて、この「緑野屯倉」は現藤岡市緑野・倉屋敷付近と推測されている。
「七輿の門展示室」に解説・展示されているパネル板
当時、「上毛野君氏」の勢力の中心地であったと推定される高崎市周辺の南東約10㎞の地内にあたり、これは前年の武蔵国造の乱で敗北した上毛野君氏が、大和政権に屈服した結果として設置されたものであるという説もあるが、ハッキリとは解明されてはいない。
というのも『日本書記』では、上毛野君小熊が助けの求めに応じた記載はなく明らかでないこと、小熊が処罰を受けた記載がなく、むしろ小熊以降に上毛野氏の繁栄が見られること、緑野屯倉が事件に関わるという証拠がないこと等の反論もある。