古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

元田富士浅間神社

 本庄市児玉町元田地区は、上武山地の東端部に尾根先端部地域と、小山川(旧身馴川)北岸地域の2か所に別れ、その真ん中付近に鎮座する河内金鑽神社周辺で分断されているという特異な行政区域となっている。元田の領域は他の地域に比べて狭く、二つの尾根に挟まれた場所にあり、中央には小山川が流れ、その小山川に沿って県道44号秩父児玉線が通っていて、元田地区も県道沿いに形成されている。元田の範囲は南北に細長く、周囲を高柳・塩谷・稲沢・小平・河内地区に囲まれている。
 児玉地区内には神川町二宮に鎮座する金鑽神社の分霊社が多数あり、河内金鑽神社もその一つであるが、この分霊社の多くは九郷用水を引く村々にあり、金鑽神社との深い関連性を伺わせる。またこの地域は武蔵七党の最大勢力を誇った児玉党の本拠地の近くでもあり、金鑽神社・九郷用水・児玉党は何かしらの繋がりはあったと思われる。小山川沿いの地区でも金鑽分霊社は河内地区や太駄地区にあり、九郷用水との繋がりは特に見られないが、児玉党との関係は河内地区が児玉党庄氏と関係があるので、河内地区と太駄地区の間に位置する元田地区も同様な関係があったのではないかないだろうか。
 尚、元田地区の区画は周辺の旧大字と極めて入り組んだ境界がなされており、嘗て河内・元田・高柳付近は同一の郷であったとものと思われる。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町高柳267-1  
             ・ご祭神 木花開耶姫命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 節分祭 23日 春祭り 415日 秋祭り 1015日

 元田富士浅間神社は河内金鑽神社の南西側にあり、河内金鑽神社沿いの道を500m程南西方向に進み、最初のT字路を右折し、上り坂を進むと、すぐ道路沿いで右側に社は鎮座している。
 元田地区は、南西側から山間部を蛇行しながら流れて来た小山川が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。社の境内は高柳の地内に属しているが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社でもあるので、敢て社の頭の地域名を「元田」とした。
        
                                 元田富士浅間神社正面
        
                                        拝 殿
 
  拝殿に掲げてある「富士山」の扁額       拝殿の左隅には奥宮参拝の絵図がある。
 扁額の下にある彫刻が何気に素晴らしい。      どなたからか奉納した物だろうか。
                
                                       案内板

富士浅間神社 御由緒 本庄市児玉町高柳二六七-一
□御縁起(歴史)
 元田は、山間を蛇行しながら流れて来た身馴川(小山川)が、山地から平野部に出ようとする辺りに位置する農業地域である。その地内にある埼玉県指定文化財、正嘉二年(一二五八)銘の板石塔婆は、三基の塔婆を一枚の石に刻み込んだ特異な様式である。
 当地周辺で入り組んでいる高柳・河内の両大字によって、元田は南北に分断される形になっている。当社の境内は高柳の地内に属するが、『風土記稿』元田村の項に「富士浅間社 村の鎮守とす、宝冠寺持」と載るように、古くから元田の鎮守として祀られてきた神社である。境内の背後には浅間山と呼ばれる標高280メートルの山がそびえており、この山上の奥宮には、当社から約50分ほどの道のりで参詣することができる。創建の経緯については明らかではないが、『児玉郡誌』は「往古より字富士山の絶頂に勧請し、元田・高柳の両村の住民深く之を尊敬せり。例祭日には遠近より参拝者多し、元田よりの参道には中途に随神門あり、徳川時代には真言宗宝冠寺別当職たり、社殿は享保年中(一七一六~三六)の建築なりと云ふ」と載せている。
 神仏分離後は宝冠寺から離れ、明治五年に村社となった。なお、『児玉郡誌』に載る随神門は、集会所の前にあった仁王門のことと思われるが、老朽化により昭和二十年代初めに取り壊された。また、集会所の傍らに法印墓石があり、この辺りに宝冠寺があった可能性が高い。
御祭神 木花咲耶姫命
                                      案内板より引用
   
          
    社殿奥に鎮座する境内社石祠群     境内北側には地図に載っていない渓谷がある。
                         往古の昔からあったものだろうか。
        
            周囲と調和しながらモミジが色ずく様と、日本の神社との組み合わせ
    だれもが絶妙な和の美意識を感じてしまうのは、日本人であるからなのであろう。
       この日本人ならではの感性はいつまでも持ち合わせていたいものだ。


 ところで富士浅間神社へ向かう坂を上り始めた途中に、鎌倉時代の歴史資料「元田の板石塔婆」(県指定文化財)がある。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町元田263
             ・造立年 鎌倉時代中期(正嘉二年 1258年)
             ・指定  埼玉県指定文化財

 板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとしてイメージされる武蔵型板碑は、秩父産の緑色片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれている。
 分布地域は主に関東であるが、日本全国に分布する。特に埼玉県内は現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。
 武蔵型とは秩父・長瀞地域から産出される緑色片岩という青みがかった石材で造られたものをさす。当時から、緑色片岩を「青石」と通称していた。中世においては青屋は、ある種の畏敬の対象とされており、このような観点から青色には人智を超えたものがあったとも考えられている。
        
        元田自治会館敷地内に設置されている板碑が納められている施設
               
                     案内板

埼玉県指定文化財  板石塔婆
 一石に三基の石板塔婆を表現したもので、一基に一字づつ阿弥陀三尊種子を刻し、逆蓮台異風なものに乗せてある特殊技工によるめずらしい塔婆である。正嘉二年(一二五八年)
戌午二月二十日と、年月日を表してある。
        
                                        
板石塔婆
 
   館内にも合併前の児玉町で表記された     板石塔婆の向かいに展示されて
        案内板がある。              いる板石。 

 埼玉県指定考古資料  板石塔婆
 児玉町大字元田二六三 昭和四十年三月十六日指定
板石塔婆は鎌倉時代(一三世紀初頭)から戦国時代(十六世紀末)にかけて全国各地で盛んに造立された石製供養塔の一種である。
 その材石は地域により異なるが、埼玉県では秩父地方で産出する緑泥片岩を用いているため別名青色塔婆とも呼ばれている。板石塔婆の形態は通常一石一基を原則とするが、この板石塔婆は一石に三基分を彫り込んだ特異なもので、蓮座の形も反花となっている。
 大きさは、
総高二〇四センチメートル、上幅二六センチメートル、厚さ九.四センチメートルであり、極めて大型である。
 刻まれた内容は、上部中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩を示す梵字を刻み、全体で阿弥陀三重を構成している。又下部に正嘉二年(一二五八年)戌午二月二十日の紀年銘があり、鎌倉時代中期造立であることがわかる。
 なお昭和五十四年に、東京国立文化研究所において、折損部の復元、石質の強化等の修復処置が施された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
         
元田自治会館と板碑 収納施設の間に鎮座する社。詳細不明。


参考資料 「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等

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