古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大谷秋葉神社及び大谷瓦窯跡

 日本スリーデーマーチは、毎年11月初旬に埼玉県東松山市で行われる世界第2位、日本国内では最大のウォーキング大会である。埼玉県のほぼ中央に位置する東松山市周辺の比企丘陵には、武蔵野の貴重な自然が多く残っていて、東に望むと、広大でのどかな田園風景、西に望むと秩父の山々やすそ野に広がる小高い丘。各コースには文化財も多く、遠く昔を思い、落ち着いた雰囲気を味わいながら歩くことができる。適当なアップダウンのコースとあいまって、自然豊かな丘陵地帯を楽しく歩けるコース設定になっている
 筆者も過去2回程参加したことがあり(どちらも5㎞)。気持ちよく秋の比企地域の風景を楽しみながら参加させて頂いたことを思い出す

 東松山市は「花とウォーキングのまち」として「日本スリーデーマーチ」のみならず、JVA認定のウォーキングトレイルが整備されている。このウォーキングトレイルとは、英語で自然道のこと。環境省は「森林や里山、海岸、集落などを通る歩くための道」と紹介されているが、東松山市はウォーキングトレイル「ふるさと自然のみち」が7つも設定されていて、郷土の自然、歴史、文化をたどるなど、それぞれの目的に沿った楽しみ方ができる
「大谷・伝説の里コース」もそのコースの一つであり、コース途中には「大谷秋葉神社」も設定されている。
        
             ・所在地 埼玉県東松山市大谷553
             ・ご祭神 火之迦具土神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 418日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0751749,139.3871759,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷秋葉神社は大谷地域中央部を東西に通る埼玉県道307号福田鴻巣線の南側に鎮座する。途中までの経路は大谷大雷神社を参照。大谷大雷神社から一旦埼玉県道391号大谷材木町線に合流して北方向に進路を取る。2㎞程先にある「大谷」交差点手前の十字路を左折して、1㎞程道なりに進むと、丘陵地の端部左手側に丸太の階段が見えて来る
 駐車スペースはないので、車両の通行に邪魔にならない場所に路駐して、その丸太の階段を徒歩で進むと、大谷秋葉神社の裏手に到着する。しっかりと正面から参拝したいので、一旦正面参道、石段等を降りてから、改めて参拝を行った。
 但し正面参道に隣接して民家も立ち並んでいて、この間を通る為、周辺にも駐車スペースはないようだ。
 位置的には東松山CCの北側隣に鎮座しているとイメージすると良いかもしれないが、ナビ設定も上手くできないので、社まで順調に到着するには難儀な場所かもしれない。
        
                    民家の裏手で入り口がやや分かり辛い大谷秋葉神社
             
           石段を上り、踊り場付近に設置されている社号標柱
        
                         社号標柱の先にある鳥居
        
                   石段の先に見える社殿

 秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社であり、神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。
 秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治212月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説ある。かつて複数の寺社が秋葉権現の本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏せ(火防)に効験あらたかであるということから秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ(時の寺社奉行は大岡越前守)、結果秋葉権現は二大霊山とすることとし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社を『今の根本』、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は『古来の根本』となったという。
        
                                        拝 殿

 秋葉神社 東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)
 鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
 森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
 享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
 江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                             拝殿に掲げてある扁額
 
     拝殿の前面(写真左)・向かって左側(同右)には多くの額が奉納されている。
           中には「銭絵馬」と言われる奉納額もある。
        
                                       本 殿

 秋葉神社の総本社『今の根本』である遠州秋葉山本宮秋葉神社の霊山にあたる秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった
 時代は下り、江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。
 因みに秋葉講(あきはこう)とは、江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかったため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していたという。
 また秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
        
               拝殿付近から鳥居方向を望む。

 大谷秋葉神社から松山宿までの道筋が「秋葉道」と云われたこと、また幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられたということは、実際に遠州秋葉山本宮秋葉神社に詣でて、その風景を目にした多くの地元の参詣者たちが、少しでも本家にあやかろうと地域住民を巻きこんで、実現した当地にとっては貴重な遺産ともいえよう。
 
 社殿から北側に伸びる「大谷・伝説の里コース」  秋葉神社の裏側にある丸太造りの階段
    ウォーキングトレイルの案内板      ウォーキングトレイルのコースになっている。


 ところで大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先には奈良時代前、所謂「白鳳時代」に営まれた登窯跡である「大谷瓦窯跡」が存在する。

【大谷瓦窯跡】
        
                       ・所在地   埼玉県東松山市大谷2192-1
                         ・稼働時期  飛鳥・白鳳時代(7世紀後半ごろ)
             ・指定年月日 昭和33年(1958)10月8日
                    国指定史跡文化財

 大谷瓦窯跡は、埼玉県道307福田鴻巣線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面にその遺構が残されている。大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先にあるが、ナビを使用しても番地では表示せず、付近一帯を随分と巡りまわって、やっと到着できた。

 大谷瓦窯跡の周囲は、今では何の特徴もない丘陵地の端部という印象だが、この比企周辺地域は、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器の生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
 古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
        
         比企丘陵地の斜面を利用した瓦専門の窯跡である大谷瓦窯跡

 案内板は2か所あり、細い道路に面した案内板は比較的新しいもので、窯跡の手前に設置された案内板の内容に加えて、新たに判明された事項も記されている。
        
                        窯跡正面 右側に案内板がある。
        
                                大谷瓦窯跡 案内板

 大谷瓦窯跡 昭和三十三年十月国指定
 瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。高熱に耐えられるよう火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強が慎重に行なわれています。
 大谷瓦窯跡は昭和三十年五月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。
                                      案内板より引用


 内部は傾斜角30度であることは確認できたが、内部は遺跡保存の為だろうか、コンクリートで整地されており、13の段になっていた焼成室は確認できなかった。
             
             道路沿いに設置されている新しい案内板
         ローマ字表示で判明した正式名は「おおや がようせき」

 大谷瓦窯跡
 大谷瓦窯跡は、昭和三十年五月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和三十三年十月八日に国指定史跡となりました。
 瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(七世紀)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
 この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は七・六〇メートルあります。
 窯は焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、燃焼部に瓦を利用して階段状に十三の段が造られていることがあげられます。
 出土遺物には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、七世紀後半頃と思われます。
 付近一帯は周辺に窯跡群が埋没しており昭和四十四年に県選定重要遺跡に選定されています。
                                      案内板より引用



 
 男衾郡太領壬生吉士福正は平安時代の武蔵国男衾郡の大領で官人。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(84157日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
 武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
        
                    大谷地区から北方・滑川町にある「五厘沼窯跡群」
              形状は大谷瓦窯跡とほぼ同じである。

 この人物は榎津郷に在住していたというが、榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていない。但し荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡(通称花寺廃寺)は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。

 7世紀頃に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。
 その壬生吉氏の誰かが、「大谷瓦窯跡」の開発・運営等を携わったのかもしれない。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷デジタルミュージアム」「東松山市観光協会HP」
     「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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日吉松山神社

 東松山は歴史を遡ぼると、鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、現在の市街地の東方向に位置する市野川を挟んだ対岸の丘陵上(現在行政上吉見町域)に築城された松山城の城下町として町場が形成されたことをその端緒としている。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。このあたり松山新宿と呼ばれていた一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。
 徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼が浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。幕末に松山陣屋がおかれ、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。

「東松山駅入口」交差点を左折し、本町通りと呼ばれる県道66号を進む。嘗て東松山市の中心は、今の本町通り本町一丁目交差点(いわゆる四つ角)付近で、警察署、郵便局、銀行等があり、材木町通りとともに問屋、小売店、旅館、料理店等が立ち並び賑わっていた。その後武州松山駅の開業により、徐々に、駅寄りに人家・商店等が移動しはじめ、駅周辺の開発とともに商店街の中心は、本町通り・材木町通りから丸広通りやぼたん通りに移っていった。

 本町通りを歩いていると、現代の建物に混じって土蔵造や町屋造の建物が多く残されていることが見て取れる。このことは、この町が上述した通り、江戸時代から一貫して地域の中心的な都市として存立してきたことを示している。
 その本町通りの中心地にあった「松山宿の総鎮守様」が日吉松山神社であり、由緒ある神社として市民より崇められている。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市日吉町5-19
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧郷社
              ・例 祭 例祭日101819日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0448524,139.4007391,17z?hl=ja&entry=ttu
 日吉松山神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「小松原町」交差点を右折する。400m程先に「上沼公園」交差点があり、そこを直進する。上沼を左手に見ながら、その沼を過ぎた場所に右折する道があり、そこを曲がると日吉松山神社の鳥居に到着する。
 駐車場は一旦そこの道を通り過ぎてから神社の西側()に回り、少し分かりづらいが路地から境内に入り、そこの一角に停めてから参拝を行う。
 鳥居があるのは神社に対して南東側に位置するので、一旦道に出て鳥居前に戻り、改めて参拝を始める。
        
                          日吉松山神社正面一の鳥居
 綺麗に整備されている「上沼公園」の西端に一の鳥居はあり、そこから100m程進んだ長い参道の先に二の鳥居がある。広大な境内は、市街地にありながら参道に入るとガラリと別世界に吸い込まれたような不思議な感じの社でもある。
 
                          長い参道の先に二の鳥居が見えてくる。
        
                     拝 殿
(松山町)氷川神社
「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす、勧請の始を詳にせず、貞享二年再興、大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、觀蔵寺持」
                                 新編武蔵風土記稿より引用

 松山神社 東松山市日吉町五-一九(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置する上沼の西南端から、西に続く長い参道を入って行った所に、杜に包まれて当社は鎮座している。そのため、市街地の中の神社にしては閑静で落ち着いた雰囲気があるところから、当社は上沼公園と共に憩いの場として、また、散策の場として市民に親しまれており、祭日以外でも境内を訪れる人は多い。
 武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)に代表されるように、古くから荒川の流域の町や村では、氷川神社が多く祀られてきた。毎年のように繰り返される荒川の氾濫を鎮めるためには、氷川様(須佐之男命)のように霊威の強い神を祀ることが必要であったという話を伝えとして耳にすることが多い。当社もまた、そのようにして祀られた社の一つであると考えられ、その創建は、今を去ること九〇〇年余りの昔、康平六年(一〇六三)にさかのぼると伝えられている。
 中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったためか明らかではないが、寛永元年(一六二四)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
 その後、貞亨二年(一六八五)には当地の領主である旗本の島田八郎左衛門によって社殿が再建され、同時に社域を除地とした上、神領が付された。このように領主の厚い信仰を得て神威を高めた当社は、正徳四年(一七一四)十一月には神祇管領卜部家から極位も受けている。下って文化八年(一八一一)、当地は川越藩の領するところとなり、藩主松平大和守は先例に倣い、当社を保護した。「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす(中略)大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、観蔵寺持」という『風土記稿』の記事は、そのころの様子を記したものである。また、松山宿の繁栄につれ、住民の力も増していき、嘉永二年(一八四九)の社殿再建は、惣氏子の手によって行われている。
 神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の神道総裁有栖川宮幟仁親王から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 東松山市・市ノ川氷川神社に掲示されていた由来書には「当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。」と記載されている。2つの社の距離は直線方向で1㎞弱。また同じ社号でることから、市野川の流域に在住し、同じ境遇を持った人々が、同じ理念で同時期に創建したのではなかろうか。
        
            拝殿の向拝部、木鼻部の彫り物は精密で美しい。
 
                     本 殿
        
                 社殿の左側に鎮座する境内社・浅間神社、大鳥神社
 東松山市日吉町の大鳥神社で例年十二月十五日にお酉様が行われ、近郷近在から多くの参拝者でにぎわいます。当日は、松山神社と大鳥神社の間で熊手市が、松山神社拝殿から鳥居にかけては縁起物市が開かれます。熊手屋は入間郡大井町や群馬県から訪れ、商談が成立すると威勢のよい手締めが鳴り響きます。
                                  嵐山
web博物誌より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「嵐山web博物誌」「Wikipedia」等
        

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市ノ川氷川神社

 市野川(いちのかわ)は、埼玉県を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は38.1 km。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある
 埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発し、流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。関越自動車道を交差する付近から丘陵の縁沿いを流れ、流路の蛇行が激しくなる。また市野川支流である滑川が、市野川の北側を並行して流れ、東松山市砂田町と吉見町北吉見の境界付近で合流する。

 市ノ川地域は東松山市・野田地区の南側に位置し、市野川中流域両岸に東西に長く位置する。この地域は北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名としている。市野川沿いに村を開くに当たり、市ノ川氷川神社を創建して川を鎮める水神をしてここに祀り、地域住民は生活の営みを続けていたといっても良い
               
             
・所在地 埼玉県東松山市市ノ川1087
             
・ご祭神 素戔嗚尊、天照大御神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0501141,139.3921574,17z?hl=ja&entry=ttu
 市ノ川氷川神社が鎮座する市ノ川地域は市野川中流域両岸にあり、東松山市・野田地区の南側に位置する。途中までの経路は野田八雲神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を県道に沿って南下し、市野川を越え「市の川小(西)」交差点を右折する。暫く進み、最初の変則的な十字路を左斜め手前方向に進路をとる。この左手にはコンビニエンスがある為、分かりやすい。左斜め手前方向に進み、すぐ左手に市ノ川氷川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はない。鳥居の反対側には市ノ川公会堂があるが、参拝日は16日で門は閉まっていたので、手前方向にあるコンビニエンスで商品購入後、急ぎ参拝を行う。
 年末年始に合わせて沢山の幟が参道両側に飾ってあり、まさに年始の趣を感じた。
               
                        道路沿いに鎮座する市ノ川氷川神社
               
                                 正面神明鳥居
               
                                拝 殿
            参道の両側に飾っている登り旗が色鮮やか
 氷川神社 東松山市市の川一〇八七(市ノ川字前山)
 当地「市の川」は、北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名とする。戦国期には既に地名が見え、天文二十二年(一五五三)四月一日の北条家印判状によれば、「武州市川永福寺」に「寺内門前一切不入事」「寺領致作土貢」などを安堵している。ちなみに、この永福寺は永正五年 (一五〇八)の草創と伝えられる。
 口碑によると、当社は初め「もとびか」と呼ばれる地に祀られていたが、ある年の大風で同社の白幣が飛び去って今の地に落ちたことから、村人は神意の致すところとして、ここに社殿を建てて奉斎したという。「もとびか」とは「元氷川」を意味し、その地は現在地の北方三〇〇メートルほどの所である。恐らく市の川沿いに村を開くに当たり、川を鎮める水神をしてここに祀られ、後に川の氾濫を避けるために今の地に遷座したものであろう。『風土記稿』には「氷川社 村の産神なり、村持」とある。
 明治四年に村社となり、同四十年には無格社神明社とその境内社八雲神社を合祀した。この両社の旧社地は天王山と呼ばれる高台で、合祀の際に村人が八雲神社の幟竿を担いでこちらに来たとの話が伝えられている。
昭和五十一年には、社殿の再建が行われた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿上部や木鼻部には凝った彫刻も見える。      社殿右側に鎮座する境内社。
               
               拝殿に掲示されていた「御由緒」
              光の反射で見えない所があり。残念。
 御社名 氷川神社
 御祭神 素戔嗚尊、天照大御神
 御由緒
 当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。
 旧称武蔵国比企郡市ノ川村総面積大凡百町歩の産土(鎮守)として祀られたものならん。
 此の地は今より四千年前既に人の〇〇〇ありと云われ、其の証として竪穴式住居跡が発見せられ、又其の付近〇〇〇〇〇石、石斧〇〇〇々発見せられる。
 現在の御社殿北方約百五十間隔てた大字市ノ川六百二十八番地附近を元氷川と云い、最初は此処に祀りたるも其の後大暴風の為神体が現在の地まで飛び、村人は御神意の致す処と其の時より現在の所に移し祀られたと云われて居る。
 御神徳の新たかな事は近隣に比類ないと〇われ、然し御神意に反する行為ある時は強く戒められると云はれて居る。
 この地は明治年代の末期には旧〇〇〇の最小の部落であり、戸数は三十戸内外氏子の数は僅かに百五十人であったが、御綾威の致す処か現在は其の十倍近く迄発展し、神社に対する信仰の熟度は年々高まる傾向である。
 合祀せられて居る神社は天神社であり、明治四十年〇一月二十日市の川一、一六二番地所在の無資格神明社及び同境内の八雲神社を本社に合祀せられた。
 昭和二十一年二月二十八日宗教法人令による届出を完了した。(以下略)
*〇の部分は光の反射の為解読不可。
                                      掲示板より引用


 掲示板に記載されている「産土神」は「うぶすながみ、うぶしなのかみ」とも言い、神道において、人が生まれた土地の守護神という。その人を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と氏神は同じ神であった。但し現在は転居する者が多いため産土神と氏神が異なる場合も多い。

「産土神」に対して「氏神(うじがみ)」は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことを言い、現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い
 本来の氏神は、読んで字のごとく氏名(うじな)の神であり、一族一統の神であった。古代から、その氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かったという。中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
            

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野田八雲神社


                 
              
・所在地 埼玉県東松山市野田1201
              
・ご祭神 素戔嗚尊(推定)
              
・社 格 不明
              
・例 祭 元旦祭 1月1日

 東松山市、野田地区南部で、滑川と市野川に挟まれた丘上の小高い場所に野田八雲神社は鎮座している。途中までの経路は野田赤城神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を曲がらずに滑川に架かる「野田橋」を越えて真っ直ぐ南下すること300m程で、三叉路にぶつかる。左斜め方向に進路をとるとすぐ左側の小高い丘上に社は静かに佇んでいる。
 残念ながら周辺には専用駐車場はない。通行車両の邪魔にならない場所に路上駐車し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
野田八雲神社正面

 社は県道に接する三叉路という狭い空間に社は形成されているため、境内は狭いが、石段上に鎮座しているためか、威厳な趣はやはり感じてしまうのだから、人間という生き物は不思議な思考回路を持ち合わせているなと、つくづく感じた。
        
                          神明系の鳥居の先に拝殿が鎮座する。

 野田八雲神社の創建等に関する資料は調べても全くなく、境内にも由緒を記した案内板や石碑もないので詳細は不明である。

「東松山市指定文化財―無形民俗」の指定を昭和55年(1980年)110日に受けている「野田の獅子舞」には「夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています(中略)夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41(1908)に赤城神社に合祀されています。(以下略)」と書かれている。
 この字西野に鎮座していた「八雲神社」と同名の野田八雲神社とは、そもそも同じ系列の社なのか、同じ系列の社であると仮定して、どのような関連性があったのだろうか。
        
                     拝 殿

「新編武蔵風土記稿・野田村条」には「赤城社・村の鎮守なり、富山派修験、教善院持。 天神社・村持。 神明社・是も村持」とあり、当時長谷部家は赤城社、高橋家は稲荷社、上野家は神明社と、一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた経緯があった。この社に関して直接記されていない。また唯一残っている「高橋家の稲荷社」は風土記稿に記されている「天神社」とは別系統の社と考えているが、では一体どこに鎮座しているのか(野田赤城神社の境内社とも考えられるが)、詳細は不明である。
 
   「八雲神社」と書かれている扁額       道路脇にある「念仏供養塔」と石仏


「八雲神社」と同名の社は野田地域周辺に少なからず存在している。東松山市本町地区には同名である八雲神社が鎮座する。ご祭神は倉稲魂命。本町八雲神社の創建年代等は不詳ながら、宿場町として発展した松山町に天王社として祀られ、明治維新後は八雲神社と称して無格社に列格、大正3年松山神社に合併され、現在松山神社境内飛び地となっている。
 この社は「新編武蔵風土記稿」に「天王社 眞福寺持」と記されていて、当初は天王社という名前であったのを、明治年間に八雲神社と改称した経緯がある。
 この社社殿の彫刻は安政六年四月の再勧進請のときに製作されたもので、彫工飯田仙之助(熊谷市河原明戸地域出身)が三人の弟子に技を競わせたものといわれていて、東松山市市指定文化財に指定されている。

 同じ時期にそれ程遠くない地域に同じ社号の社が複数存在する。但し「それ程遠くない」とは書いたが、野田から本町まで距離にして2㎞。2㎞という距離差は「社を中心とする共同体でも違う文化圏となりえる最低距離」と筆者は常日頃から考えているので、同名の社であろうと、違う神を信奉する地域があってもおかしくない

 筆者の勝手な推測を敢て続けるが、ではそれぞれの社にはどのような経緯があって同名「八雲」という名称をつけたのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市観光情報HP」等


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野田赤城神社


        
            
・所在地 埼玉県東松山市野田455
            
・ご祭神 大己貴命、豊城入彦命、彦狭島命
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 天神祭 125日 春祭り 415日 夏祭り 715
                 
例祭 1014日 秋祭り 1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0596711,139.3910621,17z?hl=ja&entry=ttu
 東松山市野田地域は、滑川町町役場の東南側に位置し、荒川支流の滑川が蛇行を繰り返しながら東西に流れているその両岸に地域が形成されている。因みに同じ荒川支流の市野川も北側に流れている滑川と並行するように南側に流路が形成されている。
 野田赤城神社は国道407号をひたすら南方向に進み、「上岡」交差点で右斜め方向に進路変更する。埼玉県道391号大谷材木町線を4㎞程南下し、「野田」交差点の先に滑川を越える橋があり、その手前のT字路を右折し400m程進むと、右手に野田赤城神社の社号標が見えてくる。基本的に社号標と鳥居はセットで設置されているのが通例であるが、この社に関しては、鳥居は道路に対して奥に設置されていたため、目印となりにくい。
 社に隣接して「野田自治会館」があり、そこの駐車場を利用して参拝を開始する。
        
             道路沿いには社号標柱のみあり、鳥居はその奥に設置されている。
        
                                     神明系の鳥居
        
               参道の途中には案内板がある。
 野田の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 野田の獅子舞は毎年七月十四日の夏祭、十月十四日の秋祭に赤城神社に奉納される。
 獅子舞の由来は、今から三百数十年前寛永年間にこの地の名主長谷部平兵衛福兼によって始められたと伝えられている。
 獅子を「メジシ」「オジシ」「ダイガシラ」と呼び、袴に白足袋姿で八畳程の敷物の上で舞う一人立ちの三匹獅子舞で座敷獅子と云われている。

 野田の獅子頭(市指定有形民俗文化財)
 代々獅子元を務める長谷部家に、寛永年間の作と云われる獅子頭が残っている。竜頭形式の獅子頭で、桐材を用いた素朴なものである。
                                      案内板より引用


 夏祭りには厄除け、秋祭りには豊作と無病息災の感謝を祈念し、奉納されています。創始当時の獅子頭を納めていた箱に『寛永十二亥(1635)六月創始』と書いてあったことから、今から三百数十年前の江戸時代に、野田村の名主・長谷部平兵衛福兼によって創始されたと伝えられています。獅子元は現在まで長谷部家によって引き継がれています。当日は、長谷部家で支度を整え、赤城神社までの街道下りを行います。野田の獅子舞の大きな特徴は、8畳ほどの敷物の上で舞うところです。本殿前にしつらえた敷物の上で切り袴・白足袋姿で舞うところから、座敷獅子と言われます。夏祭りは、元は字西野(西明寺沼の西)にあった八雲神社(天王様)で奉納されていました。八雲神社は明治41(1908)に赤城神社に合祀されています。大正時代末期から太平洋戦争の終結までの間に一度途絶えてしまいましたが、昭和24(1949)に保存会ができ、翌年復興しました。近年は、1021日に西明寺(薬師様)での奉納も行われています。現在の獅子頭は文久元年(1861)に作られたものですが、創始当時の隠居獅子と呼ばれる旧獅子頭も残されています。隠居獅子も東松山市指定有形民俗文化財に指定されています。
                                                               東松山市観光情報HP
より引用
        
                          参道の先に拝殿が鎮座する。
       
                      拝殿手前で左側に聳え立つ御神木
        
                     拝 殿
 赤城神社 東松山市野田四五五(野田字東野)
 野田は、荒川支流の滑川沿いに開かれた農業地域で、市の北部に位置し、その開発は戦国時代と伝えられている。当社は、社記によれば草分けである長谷部家の先祖右内清信が文亀二年(一五〇二)二月に同家の守護神として赤城大明神を奉斎したことに始まるという。
 当時この地にも、人々が次第に集まり、村は大きくなっていた。しかし、村全体で祀る鎮守はまだなく、人々は、上野家は神明社、高橋家は稲荷社というように一家(一族)ごとにそれぞれ氏神を祀り、祭りを行ってきた。永正二年(一五〇五)正月四日、松山城主上田氏から野田という村名を賜ったが、これを機に、村民は協議の上、赤城大明神を野田村の鎮守と定め、同月社殿を再建した。ここに当社は、草分けの長谷部家の守護神から野田村全体の鎮守となり、多くの人々から信仰されるようになったのである。
 境内の石碑によれば、永正二年一月に本殿が建造され、宝暦十一年(一七六一)十二月に覆屋を建立した際、改修されたと伝えるが、現在の本殿の建造年代については定かではない。また、拝殿は安政元年(一八五四)の春に降雨を祈願して池を掘ったところ願が叶い、翌年の秋に大願成就の意をもって設けられたものであると伝えている。しかし、長い歳月を経て、覆屋・拝殿共に傷みが激しくなってきたため、氏子一同協議の結果、昭和三十七年十月、これらを再建した。
                                  「埼玉の神社」より引用 


 野田赤城神社の創建は、当地の草分けで名主家である「長谷部」家が、文亀3年(1502)赤城大明神を奉斎したことに始まると記載されている。今から500年以上も前の文亀年間で既に「名家」という箏は、その淵源は数百年前と推測される。更に調べてみると、この「長谷部」は日本の古代氏族の一つ・物部朝臣から続く氏族で、種別は「神別」「天神」という。
 この神別(しんべつ)とは、古代日本の氏族の分類の1つで、平安時代初期に書かれた『新撰姓氏録』には、皇別・諸蕃と並んで、天津神・国津神の子孫を「神別」として記している(「天神地祇之冑、謂之神別」)。
 さらに神別は「天孫」・「天神」・「地祇」に分類され、天孫
109・天神265・地祇30を数える。なお、こうした区分は古くからあったらしく、これは律令制以前の姓のうち、「臣」が皇別氏族に、「連」が神別氏族に集中していることから推測されている。

 さてこの由緒のある「長谷部」苗字由来としては、雄略天皇の部民として設定された御名入部である長谷部が起源とされる。 長谷部は、雄略天皇の皇居である長谷朝倉宮にちなみ、雄略天皇の生活の資用に当てられた料地の管理や皇居に出仕して警備、雑用などの任に服していた人々と考えられている。
 また万葉集には丈部をハセベと註していて、土師(はせ、はぜ)の職業集団を土師部(はせべ)、丈部(はせべ)と称し、長谷部の佳字を用いたようだ。古事記・雄略天皇条に「長谷部舎人を定む」とあり。大和国城上郡長谷郷の朝倉宮に坐す雄略天皇の御名代部にて天皇の舎人を云う。長谷郷は土師部の居住地より地名ということになり、その地名から苗字へと転化されたと考えられる。

 不思議なことに、この「長谷部」は日本全国で、約30,000人ほどいると言われているが、西日本より東日本にに多く見られ、更に埼玉県が断トツの1位で4,400人、中でも東松山市は760人在住している。ルーツは畿内地域ではあるが、日本全国へと移住し始め、結果的にその定住先が東日本がより顕著となった、という箏だろうか。
 
       境内に鎮座する境内社            再建記念碑

 東松山市の高坂地域には「反町遺跡」と呼ばれる弥生後期前半、古墳前期の遺構、遺物を中心とした大規模遺跡がある。高坂台地の東側に広がる低地に位置し、標高は18m程。「古墳時代の大開拓地」とも呼ばれている。
 この遺跡は、現在の地表面から、1mほど掘り下げて発見され、古墳時代前期(約1,700年前)に大規模な集落が形成された。その後、古墳時代中・後期(約1,5001,400年前)には墓域として利用され、数多くの古墳が造られた。
 これまで調査した古墳は26基で、前方後円墳を中心に大小さまざまな円墳(えんぷん)が すき間なく発見されている。古墳からは、人物埴輪や馬形埴輪、円筒埴輪、銅鏡(内行花文鏡(ないこうかもんきょう))などが出土している。調査区北側では、大溝跡(河川跡)の調査を並行して実施し、この溝跡からは、建物に使われていた柱や梁(はり)、 板材などの建築部材が多く出土している。また、当時の人々が使っていた木製の臼や鋤(すき)、 田下駄(たげた)などの農具も出土したという。

 さて、この反町遺跡では東海系、北陸系、畿内系などの複数の地域から搬入、あるいは伝わった土器が出土している。
 土器の中心は、五領式土器を中心とする在地の土器である。東松山市周辺は、弥生時代終末には吉ケ谷式と呼ばれる非常に地域色の強い土器が使われていた。それが台付甕を用いる南関東的な五領式土器に変化したのは、古墳時代という新たな時代への大きな変革があったためと考えられる。
 反町遺跡は、新たな時代の到来とともに開かれた「村」だが、その住人は弥生時代以来の在地の人々が中心であったようだ。というのも弥生時代後期から施されてきた甕磨き手法によって、出土する台付甕の内側はツルツルに近い平滑な状態に仕上げられている。土器型式が変わっても、土器作りの基本的な方法は引き継がれていて、反町遺跡の土器は丁寧な作りのものが多く、伝統的な方法を踏まえた上での、新たな時代の土器づくりが行われたと考えられている。
その一方で、反町遺跡からは、東海、北陸、畿内、あるいは中国地方に系譜が求められる壺や甕、高坏、小型壺が出土している。こうした他地域の系譜を引く土器は、外来系土器と呼ばれていていて、それらの地域からの住民たちの移動・流入があったことは間違いなく、2世紀から3世紀代の時期に、列島内の各地から東国、とくにこの埼玉の地にも移動・移住があったことは確実である。それらの外来系土器の多くは在地の埼玉の粘土を用いて作られているという分析結果があるところから、埼玉の地に根ざした移住民生活があったこととも読みとれている。

 反町遺跡では新しい五領式土器(古墳時代の土師器)への交代とともに、東海、近畿、北陸の系譜を引く土器群が出土し、更に遠方との「ヒト」や「モノ」の交流も推定されるなど、大々的な変革があったと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
東松山市観光情報HP」「埼玉の神社」
    「
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書」「Wikipedia」等

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