古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

松山菅原神社


               
            
・所在地 埼玉県東松山市松山1150
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 325日、秋季例大祭1025日 感謝祭 1215

 北吉見八坂神社から埼玉県道271号今泉東松山線を西行し、国道407号線と交わる「天神橋」交差点手前右側に
松山菅原神社は鎮座する。当社は、嘗て松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する
 国道や県道からは低い位置に鳥居があるが、社殿はそこから小高い丘の上に建てられている。
 県道から「天神橋」交差点に合流する手前に右折する道路があり、すぐ左側には専用の駐車スペースも確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を行う。
                
                     県道からは一段低い位置にある
松山菅原神社鳥居

 菅原神社 東松山市松山一一五〇
 当社は、かつて松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する。
 創建は、社伝によると応永年中(一三九四-一四二八)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
 以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈禱を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(一六〇九)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(一六六〇)の失火までは、東照大権現改葬の際、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。
 祭神は、菅原道真公で、現在内陣には菅公座像が安置されている。この像は、明治三十五年四月「菅公一千年祭」を記念して東京美術学校教授の竹内氏に依頼し、製作したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
県道から鳥居に達する下り階段もあり、配置が面白い。正面鳥居(写真左)からは階段を上がり、拝殿に到着する参道がある(同右)。
               
                                      拝 殿
          天神を祀る社らしく、拝殿前には一対の「狛牛」が立つ。

 神社には「神使(しんし)」と呼ばれる動物がいる。
「神使」又は「眷属(けんぞく)」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在である。「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。

 時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のように、本来は神使であるものが祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。

 神使とされる動物には、主に以下のようなものがある。
・鼠       大黒天
・牛       天満宮
・蜂       二荒山神社
・兎       住吉大社・岡崎神社・調神社
・亀       松尾大社
・蟹       金刀比羅宮
・鰻       三嶋大社
・海蛇    出雲大社
・白蛇    諏訪神社 大神神社
・狐       稲荷神社
・鹿       春日大社・鹿島神宮
・猿       日吉大社・浅間神社
・烏       熊野三山・厳島神社
・鶴       諏訪大社
・鳩       八幡宮
・鷺       氣比神宮
・鶏       伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
・狼       武蔵御嶽神社・三峰神社等奥多摩・秩父地方の神社
・鯉       大前神社
・猪       護王神社・和気神社
・ムカデ 毘沙門天

 因みに菅原道真公を祀る全国の天神様(天満宮・菅原神社・天神社)には、境内に「寝牛」や「撫で牛」と呼ばれる牛の像がある。牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからだが、その理由は次のように言われている。
道真の生まれた年が丑年
道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
道真は牛に乗り大宰府へ下った
牛が刺客から道真を守った
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
               
                               社殿から参道方向を撮影

 日本神話や古事記等の神話にも動物は度々登場し、生活のパートナーとしてだけではなく、神聖な存在としても人々の側に寄り添ってきた。神様の使いとして慕われる動物たちは、同じ次元にいながら我々とは違う「世界」に生きている神聖な存在といえなくもない。
 日本の神道は、全てのものには神が宿っているという「八百万の神」の考え方がある。動物にも神のような力が宿ると信じられていたからこそ、数多くの神使が誕生したのかもしれない。

 今も多くの祭りや行事、境内の中に神話の動物たちが登場する。動物を一事例として、神社や神話に向かい合うと、これまでとは違った楽しみ方や味わい方、更には今まで知らなかったことが見えてきそうである。
 動物との関係性の築き方には、文化や宗教など多くの要素が複合的に合わさっている。ぜひこれを機に、人間と動物の信仰的な関係性を調べてみては如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等
       

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東平熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市東平1006
             ・ご祭神 熊野三所権現(推定)
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 元旦祭 記念祭 41日 例祭 71415
                  新嘗祭 1015日 冬至祭 1222
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0615575,139.4117204,18z?hl=ja&entry=ttu  
 東平熊野神社は国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後300m程進んだT字路を左折すると、正面突き当りに東平熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社は東平地域の東端近く、交通量の多い県道からは少し奥に入った場所で、丘の上に鎮座している。
 残念ながら周囲には専用駐車場はないようで、近隣のコンビニエンスストアに寄り、買い物を済ませてから参拝を行う。
        
                               丘上に鎮座する東平熊野神社
 
 一の鳥居を過ぎて、石段、二の鳥居が見える。    二の鳥居の先には境内が広がる。

 県道からはやや奥に位置するとはいえ、交通量の多い県道の喧騒からは想像もできない位、境内は静まり返っていて、現代社会とうまく混じり合っているという印象。
 また境内もよく手入れされていて、気持ちよく参拝を行うことができた。
        
                                       拝 殿

 熊野神社 東松山市東平一〇〇六(東平字小橋)
 旧別当の真言宗覚性寺蔵の古文書には、次のような伝説がある。
 天慶三年(九四〇)に東国で反乱を起こした平将門を追討するために平重盛と共に都を発った藤原秀郷は、上州(現群馬県)碓氷峠まで進んだころ、不思議な夢を見た。それは、南の方にたなびく紫雲を尋ねて行くと、そこは紀州(現和歌山県)の熊野三社で、そこで一人の老翁から「自分は東海の平和を願うものである。紀州熊野三社を祀り、その神徳を頂いて戦えば、汝は朝敵を必ず滅ぼすことができ、汝の子孫は世々栄えるであろう」と告げられるというものであった。翌朝、秀郷ははるか南方に紫雲のたなびくのを見た。奇しくもそこを尋ねて行くと、一株の松の根元から雲が湧き上がっており、これこそ神のお告げと、秀郷は持っていた鏑矢をその松に立てて仮に熊野三社を祀った。これが当社の創祀で、その後の秀郷の武功は言うまでもない。
 乱平定の後、秀郷は神恩に報いるために当社の伽藍を建立し、以後郷人の崇敬を集めるところとなった。戦国時代、松山城落城に伴い、当社も兵火に罹ったものの立派に再建が果たされ、江戸時代には東平村の鎮守として『風土記稿』にもその名が挙げられている。更に明治四年には村社になり、同四十一年には字沢口の村社熊野神社(当社は上の宮、同社は下の宮と呼ばれていた)ほか七社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

             本 殿               拝殿左側に鎮座する境内社
                            左より諏訪社、詳細不明
        
          社に隣接している「子供広場」に設置されている祭り用の舞台だろうか。
          
 東平熊野神社に隣接をしているのが子供広場となる公園で、春になれば桜を楽しむ人もいるし、夏季では715頃の土日, 子供みこし等のお祭りも開催をされているようだ。社の境内同様によく手入れされている。ただ、公園に入るには傾斜がややきつめの階段を上る必要があり、ご高齢の方には少し大変かもしれない。
        
                             参道からの一風景

 東平熊野神社に関しての資料は乏しく、現時点で説明できる内容はここまでである。但しこの社の鎮座する東平地域は、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫する国道407号線と、埼玉県行田市から東松山市に至る埼玉県道66号行田東松山線が交わる交通の要衝地でもある。
 東平地域の北側には「胄山古墳」があり、目を北西に転ずると「大谷瓦窯跡」「大谷雷電古墳」等の古代遺跡もあり、またこの国道407号線自体、嘗て「東山道武蔵路」とも推測されている道である。国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられ、東平地域はその古代の官道を包むようにして位置している絶妙な位置にある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ひがしまつやま公園ガイド」等


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大谷秋葉神社及び大谷瓦窯跡

 日本スリーデーマーチは、毎年11月初旬に埼玉県東松山市で行われる世界第2位、日本国内では最大のウォーキング大会である。埼玉県のほぼ中央に位置する東松山市周辺の比企丘陵には、武蔵野の貴重な自然が多く残っていて、東に望むと、広大でのどかな田園風景、西に望むと秩父の山々やすそ野に広がる小高い丘。各コースには文化財も多く、遠く昔を思い、落ち着いた雰囲気を味わいながら歩くことができる。適当なアップダウンのコースとあいまって、自然豊かな丘陵地帯を楽しく歩けるコース設定になっている
 筆者も過去2回程参加したことがあり(どちらも5㎞)。気持ちよく秋の比企地域の風景を楽しみながら参加させて頂いたことを思い出す

 東松山市は「花とウォーキングのまち」として「日本スリーデーマーチ」のみならず、JVA認定のウォーキングトレイルが整備されている。このウォーキングトレイルとは、英語で自然道のこと。環境省は「森林や里山、海岸、集落などを通る歩くための道」と紹介されているが、東松山市はウォーキングトレイル「ふるさと自然のみち」が7つも設定されていて、郷土の自然、歴史、文化をたどるなど、それぞれの目的に沿った楽しみ方ができる
「大谷・伝説の里コース」もそのコースの一つであり、コース途中には「大谷秋葉神社」も設定されている。
        
             ・所在地 埼玉県東松山市大谷553
             ・ご祭神 火之迦具土神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 418日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0751749,139.3871759,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷秋葉神社は大谷地域中央部を東西に通る埼玉県道307号福田鴻巣線の南側に鎮座する。途中までの経路は大谷大雷神社を参照。大谷大雷神社から一旦埼玉県道391号大谷材木町線に合流して北方向に進路を取る。2㎞程先にある「大谷」交差点手前の十字路を左折して、1㎞程道なりに進むと、丘陵地の端部左手側に丸太の階段が見えて来る
 駐車スペースはないので、車両の通行に邪魔にならない場所に路駐して、その丸太の階段を徒歩で進むと、大谷秋葉神社の裏手に到着する。しっかりと正面から参拝したいので、一旦正面参道、石段等を降りてから、改めて参拝を行った。
 但し正面参道に隣接して民家も立ち並んでいて、この間を通る為、周辺にも駐車スペースはないようだ。
 位置的には東松山CCの北側隣に鎮座しているとイメージすると良いかもしれないが、ナビ設定も上手くできないので、社まで順調に到着するには難儀な場所かもしれない。
        
                    民家の裏手で入り口がやや分かり辛い大谷秋葉神社
             
           石段を上り、踊り場付近に設置されている社号標柱
        
                         社号標柱の先にある鳥居
        
                   石段の先に見える社殿

 秋葉神社(あきはじんじゃ、あきばじんじゃ)は、日本全国に点在する神社であり、神社本庁傘下だけで約400社ある。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、ほとんどの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。
 秋葉権現(あきはごんげん)は秋葉山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神である。火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また、明治212月に相次いだ東京の大火の後に政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来祀られていた神格を無視し民衆が秋葉権現を信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる。
 秋葉権現の由来、縁起については文献により諸説ある。かつて複数の寺社が秋葉権現の本山を自称しており、秋葉三尺坊は火伏せ(火防)に効験あらたかであるということから秋葉三尺坊の勧請を希望する寺院が方々から現れ、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現の別当、常安寺はこれを許可。これに怒ったもう一方の本山を主張する遠州秋葉寺は訴えを起こし、江戸時代に寺社奉行において裁きが行われ(時の寺社奉行は大岡越前守)、結果秋葉権現は二大霊山とすることとし、現在では信仰を広めた遠州の秋葉山本宮秋葉神社を『今の根本』、行法成就の地である越後の秋葉三尺坊大権現は『古来の根本』となったという。
        
                                        拝 殿

 秋葉神社 東松山市大谷五四四(大谷字須ケ谷)
 鎮座地は、大谷の集落北方の小高い丘の突端にある。近くには、江戸期を通じて当社を累代崇敬した森川氏の陣屋跡がある。
 森川氏は徳川の旗本で、天正十八年(一五九〇)に家康に従って関東に入り、当地に領地を得て陣屋を構えた。当社を勧請したのは、森川金右衛門であると伝え、その本社は、遠江国の秋葉大権現社で、火防の神として知られる。
 享保二年(一七一七)正月に起こった江戸本郷大火の際には、当社の霊験が現れ、森川氏の江戸屋敷だけ、野原に孤島のように焼け残った。これは日頃崇敬する秋葉大権現のお陰であると感謝した森川氏は、享保十五年(一七三〇)に老朽化した当社の社殿を造営するとともに、毎年、御供米一俵を寄進するようになった。
 江戸期、当社の運営は、江戸の青山鳳閣寺末の当山派修験長谷山成就院東海寺と村方の者で行われていたが、明治初年の神仏分離により、成就院は復飾して当社の祭祀から離れた。代わって、大谷野田の修験大行院が復飾して加藤大膳と名乗り、神職と成って当社に奉職した。明治元年、村役人に提出した大膳の請書には「私儀は神主名目計りにて、秋葉社の儀は子々孫々に至るまで村持にて先規仕来りの通り、何事によらず村御役人中へ御願申上、御差図請、自己の取計へ決て仕間敷候」とあり、復飾して間もない神職の立場がうかがえる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                             拝殿に掲げてある扁額
 
     拝殿の前面(写真左)・向かって左側(同右)には多くの額が奉納されている。
           中には「銭絵馬」と言われる奉納額もある。
        
                                       本 殿

 秋葉神社の総本社『今の根本』である遠州秋葉山本宮秋葉神社の霊山にあたる秋葉山は中世には山岳信仰の聖地であり、修験(しゅげん)の道場として修行者が入山しており、その後、両部神道の影響もあり、秋葉山の神は「秋葉大権現」と称され、秋葉修験者によって霊験が各地に広められていった
 時代は下り、江戸時代には火防の神としての秋葉信仰は全国的な盛り上がりをみせており、各地に秋葉講が結成され、秋葉山へと向かう秋葉街道は多くの参詣者で賑わった。
 因みに秋葉講(あきはこう)とは、江戸時代の庶民にとって秋葉山へ参詣するには多額の旅費がかかり、経済的負担が大きかったため、秋葉講という互助組織を結成し、毎年交代で選出された講員が積み立てた旅費を使い、組織の代表として秋葉山へ参詣していたという。
 また秋葉街道沿いにはその道標として数多くの常夜灯が建てられた。また、常夜灯は街道沿いのみならず、火防の神への信仰や地域の安全を願って建てられたものもあり、現在でも数多くの常夜灯が残されている。
        
               拝殿付近から鳥居方向を望む。

 大谷秋葉神社から松山宿までの道筋が「秋葉道」と云われたこと、また幅九尺(約二・七m)の道路で要所々々に道標も建てられたということは、実際に遠州秋葉山本宮秋葉神社に詣でて、その風景を目にした多くの地元の参詣者たちが、少しでも本家にあやかろうと地域住民を巻きこんで、実現した当地にとっては貴重な遺産ともいえよう。
 
 社殿から北側に伸びる「大谷・伝説の里コース」  秋葉神社の裏側にある丸太造りの階段
    ウォーキングトレイルの案内板      ウォーキングトレイルのコースになっている。


 ところで大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先には奈良時代前、所謂「白鳳時代」に営まれた登窯跡である「大谷瓦窯跡」が存在する。

【大谷瓦窯跡】
        
                       ・所在地   埼玉県東松山市大谷2192-1
                         ・稼働時期  飛鳥・白鳳時代(7世紀後半ごろ)
             ・指定年月日 昭和33年(1958)10月8日
                    国指定史跡文化財

 大谷瓦窯跡は、埼玉県道307福田鴻巣線を北側にのぞむ、丘陵の東南斜面にその遺構が残されている。大谷秋葉神社から東に1.5㎞程先にあるが、ナビを使用しても番地では表示せず、付近一帯を随分と巡りまわって、やっと到着できた。

 大谷瓦窯跡の周囲は、今では何の特徴もない丘陵地の端部という印象だが、この比企周辺地域は、西暦600年前後、6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器の生産がはじまっていた。8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。
 古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。
        
         比企丘陵地の斜面を利用した瓦専門の窯跡である大谷瓦窯跡

 案内板は2か所あり、細い道路に面した案内板は比較的新しいもので、窯跡の手前に設置された案内板の内容に加えて、新たに判明された事項も記されている。
        
                        窯跡正面 右側に案内板がある。
        
                                大谷瓦窯跡 案内板

 大谷瓦窯跡 昭和三十三年十月国指定
 瓦が多量に生産されるようになるのは、寺院建築が盛んになる飛鳥時代からです。奈良時代から平安時代には、各国に建立された国分寺やその他の寺院が盛んに建立されたので、各地で瓦が生産されるようになります。大谷瓦窯跡もその頃つくられたものです。瓦を焼く窯は「登り窯」です。傾斜地を利用し斜めに高く穴をあけ、下の焚き口で火をもやし、還元熱を応用し高熱を得るよう工夫されています。この窯跡も三十度の傾斜角を有しています。高熱に耐えられるよう火床は粘土を積み固め、側壁は完型の瓦を並立して粘土で固定し、床面は粘土と粘板岩の細片をまぜて固め段を作るなど、補強が慎重に行なわれています。
 大谷瓦窯跡は昭和三十年五月に、二基調査されました。保存がほぼ完全であった一号窯跡が保存されています。出土遺物は平瓦が大部分で、竹瓦が数個と蓮華文のある瓦当一個が発見されています。
                                      案内板より引用


 内部は傾斜角30度であることは確認できたが、内部は遺跡保存の為だろうか、コンクリートで整地されており、13の段になっていた焼成室は確認できなかった。
             
             道路沿いに設置されている新しい案内板
         ローマ字表示で判明した正式名は「おおや がようせき」

 大谷瓦窯跡
 大谷瓦窯跡は、昭和三十年五月に発掘調査が行われ、検出された二基の瓦窯跡の内、保存の良い一基が昭和三十三年十月八日に国指定史跡となりました。
 瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(七世紀)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
 この瓦窯跡は、山の斜面を利用した「登窯」とよばれる半地下式のもので、全長は七・六〇メートルあります。
 窯は焚口部・燃焼部・焼成部・煙道部の各部から成っています。この窯跡の特徴としては、燃焼部に瓦を利用して階段状に十三の段が造られていることがあげられます。
 出土遺物には、軒丸瓦、平瓦、丸瓦等があり、こうした瓦から窯跡は、七世紀後半頃と思われます。
 付近一帯は周辺に窯跡群が埋没しており昭和四十四年に県選定重要遺跡に選定されています。
                                      案内板より引用



 
 男衾郡太領壬生吉士福正は平安時代の武蔵国男衾郡の大領で官人。壬生吉志氏は、推古天皇15年(607)に設定された壬生部の管理のために北武蔵に入部した渡来系氏族。男衾郡の開発にあたり、郡領氏となる。承和8年(84157日太政官符に榎津郷戸主外従八位上の肩書で、才に乏しい息子2人の生涯に渡る税(調庸・中男作物・雑徭)を前納することを願い出て「例なしといえど公に益あり」との判断から認められている(『類聚三代格』)。承和12年(845)には神火で焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申し出て認められている(『続日本後記』)。
 武蔵国分寺の七重塔の再建となると、今日の価額にすると数十億円にもなる大工事で、そのためには莫大な財力と労力があって初めてできることである。
        
                    大谷地区から北方・滑川町にある「五厘沼窯跡群」
              形状は大谷瓦窯跡とほぼ同じである。

 この人物は榎津郷に在住していたというが、榎津郷が現在の何処に比定されるか定まっていない。但し荒川右岸の熊谷市域から深谷市域にかけての地域の可能性が高く、近年発掘調査の行われた市内板井の寺内古代寺院跡(通称花寺廃寺)は、壬生吉氏の氏寺であった可能性が高い。

 7世紀頃に比企地方にやってきたと推定される渡来人・壬生吉士のグループは、比企地方の支配者として、武蔵國最大の須恵器と国分寺瓦の生産でも大きな力を発揮していたものと思われる。
 その壬生吉氏の誰かが、「大谷瓦窯跡」の開発・運営等を携わったのかもしれない。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「熊谷デジタルミュージアム」「東松山市観光協会HP」
     「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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日吉松山神社

 東松山は歴史を遡ぼると、鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、現在の市街地の東方向に位置する市野川を挟んだ対岸の丘陵上(現在行政上吉見町域)に築城された松山城の城下町として町場が形成されたことをその端緒としている。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。このあたり松山新宿と呼ばれていた一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。
 徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼が浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。幕末に松山陣屋がおかれ、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。

「東松山駅入口」交差点を左折し、本町通りと呼ばれる県道66号を進む。嘗て東松山市の中心は、今の本町通り本町一丁目交差点(いわゆる四つ角)付近で、警察署、郵便局、銀行等があり、材木町通りとともに問屋、小売店、旅館、料理店等が立ち並び賑わっていた。その後武州松山駅の開業により、徐々に、駅寄りに人家・商店等が移動しはじめ、駅周辺の開発とともに商店街の中心は、本町通り・材木町通りから丸広通りやぼたん通りに移っていった。

 本町通りを歩いていると、現代の建物に混じって土蔵造や町屋造の建物が多く残されていることが見て取れる。このことは、この町が上述した通り、江戸時代から一貫して地域の中心的な都市として存立してきたことを示している。
 その本町通りの中心地にあった「松山宿の総鎮守様」が日吉松山神社であり、由緒ある神社として市民より崇められている。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市日吉町5-19
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧郷社
              ・例 祭 例祭日101819日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0448524,139.4007391,17z?hl=ja&entry=ttu
 日吉松山神社は国道407号線を東松山市街地方向に南下し、「小松原町」交差点を右折する。400m程先に「上沼公園」交差点があり、そこを直進する。上沼を左手に見ながら、その沼を過ぎた場所に右折する道があり、そこを曲がると日吉松山神社の鳥居に到着する。
 駐車場は一旦そこの道を通り過ぎてから神社の西側()に回り、少し分かりづらいが路地から境内に入り、そこの一角に停めてから参拝を行う。
 鳥居があるのは神社に対して南東側に位置するので、一旦道に出て鳥居前に戻り、改めて参拝を始める。
        
                          日吉松山神社正面一の鳥居
 綺麗に整備されている「上沼公園」の西端に一の鳥居はあり、そこから100m程進んだ長い参道の先に二の鳥居がある。広大な境内は、市街地にありながら参道に入るとガラリと別世界に吸い込まれたような不思議な感じの社でもある。
 
                          長い参道の先に二の鳥居が見えてくる。
        
                     拝 殿
(松山町)氷川神社
「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす、勧請の始を詳にせず、貞享二年再興、大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、觀蔵寺持」
                                 新編武蔵風土記稿より引用

 松山神社 東松山市日吉町五-一九(松山町字日吉町)
 旧松山宿の北部に位置する上沼の西南端から、西に続く長い参道を入って行った所に、杜に包まれて当社は鎮座している。そのため、市街地の中の神社にしては閑静で落ち着いた雰囲気があるところから、当社は上沼公園と共に憩いの場として、また、散策の場として市民に親しまれており、祭日以外でも境内を訪れる人は多い。
 武蔵国一の宮の氷川神社(大宮市鎮座)に代表されるように、古くから荒川の流域の町や村では、氷川神社が多く祀られてきた。毎年のように繰り返される荒川の氾濫を鎮めるためには、氷川様(須佐之男命)のように霊威の強い神を祀ることが必要であったという話を伝えとして耳にすることが多い。当社もまた、そのようにして祀られた社の一つであると考えられ、その創建は、今を去ること九〇〇年余りの昔、康平六年(一〇六三)にさかのぼると伝えられている。
 中世、この松山の地は、亀井荘松山領の本郷として、また、松山城の城下として栄え、近世に至っては中山道の脇往還の宿場としてますますその規模を拡大していった。そうして成立したのが旧松山町(明治二十二年の町村制の施行によって誕生した松山町の大字松山町となる)であり、この地域の商業と交通の中心地として繁栄した。中世から近世初頭にかけての当社の動向については、相次ぐ戦乱により記録が失われてしまったためか明らかではないが、寛永元年(一六二四)に熊野神社(祭神伊邪那美命)を合殿に祀り、以来、松山宿の総鎮守として一層の崇敬を集めるようになったという。
 その後、貞亨二年(一六八五)には当地の領主である旗本の島田八郎左衛門によって社殿が再建され、同時に社域を除地とした上、神領が付された。このように領主の厚い信仰を得て神威を高めた当社は、正徳四年(一七一四)十一月には神祇管領卜部家から極位も受けている。下って文化八年(一八一一)、当地は川越藩の領するところとなり、藩主松平大和守は先例に倣い、当社を保護した。「氷川社 宿並の鎮守なり、熊野を相殿とす(中略)大旦那嶋田八郎左衛門と記せし棟札あり、観蔵寺持」という『風土記稿』の記事は、そのころの様子を記したものである。また、松山宿の繁栄につれ、住民の力も増していき、嘉永二年(一八四九)の社殿再建は、惣氏子の手によって行われている。
 神仏分離を経て明治六年に村社となった当社は、同十六年四月に至り、社号氷川神社熊野神社(合殿)を松山神社と改めた。これは、松山宿の総鎮守として祀られてきた当社を松山町の象徴として盛り立てていこうという氏子の気持ちを反映したものであり、時の神道総裁有栖川宮幟仁親王から額字も拝戴している。更に明治四十一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、昭和二十年には郷社に昇格した。
                                  「埼玉の神社」より引用
 東松山市・市ノ川氷川神社に掲示されていた由来書には「当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。」と記載されている。2つの社の距離は直線方向で1㎞弱。また同じ社号でることから、市野川の流域に在住し、同じ境遇を持った人々が、同じ理念で同時期に創建したのではなかろうか。
        
            拝殿の向拝部、木鼻部の彫り物は精密で美しい。
 
                     本 殿
        
                 社殿の左側に鎮座する境内社・浅間神社、大鳥神社
 東松山市日吉町の大鳥神社で例年十二月十五日にお酉様が行われ、近郷近在から多くの参拝者でにぎわいます。当日は、松山神社と大鳥神社の間で熊手市が、松山神社拝殿から鳥居にかけては縁起物市が開かれます。熊手屋は入間郡大井町や群馬県から訪れ、商談が成立すると威勢のよい手締めが鳴り響きます。
                                  嵐山
web博物誌より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「嵐山web博物誌」「Wikipedia」等
        

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市ノ川氷川神社

 市野川(いちのかわ)は、埼玉県を流れる一級河川である。荒川水系の支流で、流路延長は38.1 km。正式な表記は市野川だが、市の川や市ノ川と表記することもある
 埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発し、流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。関越自動車道を交差する付近から丘陵の縁沿いを流れ、流路の蛇行が激しくなる。また市野川支流である滑川が、市野川の北側を並行して流れ、東松山市砂田町と吉見町北吉見の境界付近で合流する。

 市ノ川地域は東松山市・野田地区の南側に位置し、市野川中流域両岸に東西に長く位置する。この地域は北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名としている。市野川沿いに村を開くに当たり、市ノ川氷川神社を創建して川を鎮める水神をしてここに祀り、地域住民は生活の営みを続けていたといっても良い
               
             
・所在地 埼玉県東松山市市ノ川1087
             
・ご祭神 素戔嗚尊、天照大御神
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019日
        地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0501141,139.3921574,17z?hl=ja&entry=ttu
 市ノ川氷川神社が鎮座する市ノ川地域は市野川中流域両岸にあり、東松山市・野田地区の南側に位置する。途中までの経路は野田八雲神社を参照。埼玉県道391号大谷材木町線を県道に沿って南下し、市野川を越え「市の川小(西)」交差点を右折する。暫く進み、最初の変則的な十字路を左斜め手前方向に進路をとる。この左手にはコンビニエンスがある為、分かりやすい。左斜め手前方向に進み、すぐ左手に市ノ川氷川神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はない。鳥居の反対側には市ノ川公会堂があるが、参拝日は16日で門は閉まっていたので、手前方向にあるコンビニエンスで商品購入後、急ぎ参拝を行う。
 年末年始に合わせて沢山の幟が参道両側に飾ってあり、まさに年始の趣を感じた。
               
                        道路沿いに鎮座する市ノ川氷川神社
               
                                 正面神明鳥居
               
                                拝 殿
            参道の両側に飾っている登り旗が色鮮やか
 氷川神社 東松山市市の川一〇八七(市ノ川字前山)
 当地「市の川」は、北部を東に蛇行する市野川の名をもって地名とする。戦国期には既に地名が見え、天文二十二年(一五五三)四月一日の北条家印判状によれば、「武州市川永福寺」に「寺内門前一切不入事」「寺領致作土貢」などを安堵している。ちなみに、この永福寺は永正五年 (一五〇八)の草創と伝えられる。
 口碑によると、当社は初め「もとびか」と呼ばれる地に祀られていたが、ある年の大風で同社の白幣が飛び去って今の地に落ちたことから、村人は神意の致すところとして、ここに社殿を建てて奉斎したという。「もとびか」とは「元氷川」を意味し、その地は現在地の北方三〇〇メートルほどの所である。恐らく市の川沿いに村を開くに当たり、川を鎮める水神をしてここに祀られ、後に川の氾濫を避けるために今の地に遷座したものであろう。『風土記稿』には「氷川社 村の産神なり、村持」とある。
 明治四年に村社となり、同四十年には無格社神明社とその境内社八雲神社を合祀した。この両社の旧社地は天王山と呼ばれる高台で、合祀の際に村人が八雲神社の幟竿を担いでこちらに来たとの話が伝えられている。
昭和五十一年には、社殿の再建が行われた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿上部や木鼻部には凝った彫刻も見える。      社殿右側に鎮座する境内社。
               
               拝殿に掲示されていた「御由緒」
              光の反射で見えない所があり。残念。
 御社名 氷川神社
 御祭神 素戔嗚尊、天照大御神
 御由緒
 当社の社記に人皇第七十代後冷泉天皇の御代康平6年(1063年)創立と記載されてある。即ち源頼義の嫡男義家(八幡太郎と号す)が奥州の夷賊阿部頼時及びこの子貞任を滅ぼして武勲を立てた時代である。
 旧称武蔵国比企郡市ノ川村総面積大凡百町歩の産土(鎮守)として祀られたものならん。
 此の地は今より四千年前既に人の〇〇〇ありと云われ、其の証として竪穴式住居跡が発見せられ、又其の付近〇〇〇〇〇石、石斧〇〇〇々発見せられる。
 現在の御社殿北方約百五十間隔てた大字市ノ川六百二十八番地附近を元氷川と云い、最初は此処に祀りたるも其の後大暴風の為神体が現在の地まで飛び、村人は御神意の致す処と其の時より現在の所に移し祀られたと云われて居る。
 御神徳の新たかな事は近隣に比類ないと〇われ、然し御神意に反する行為ある時は強く戒められると云はれて居る。
 この地は明治年代の末期には旧〇〇〇の最小の部落であり、戸数は三十戸内外氏子の数は僅かに百五十人であったが、御綾威の致す処か現在は其の十倍近く迄発展し、神社に対する信仰の熟度は年々高まる傾向である。
 合祀せられて居る神社は天神社であり、明治四十年〇一月二十日市の川一、一六二番地所在の無資格神明社及び同境内の八雲神社を本社に合祀せられた。
 昭和二十一年二月二十八日宗教法人令による届出を完了した。(以下略)
*〇の部分は光の反射の為解読不可。
                                      掲示板より引用


 掲示板に記載されている「産土神」は「うぶすながみ、うぶしなのかみ」とも言い、神道において、人が生まれた土地の守護神という。その人を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。産土神への信仰を産土信仰という。生涯を通じて同じ土地に住むことが多かった時代は、ほとんどの場合産土神と氏神は同じ神であった。但し現在は転居する者が多いため産土神と氏神が異なる場合も多い。

「産土神」に対して「氏神(うじがみ)」は、日本において、同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神道の神のことを言い、現在では、鎮守(ちんじゅ)ともほぼ同じ意味で扱われることが多い
 本来の氏神は、読んで字のごとく氏名(うじな)の神であり、一族一統の神であった。古代から、その氏人たちだけが祀った神であり、祖先神であることが多かったという。中世以降、氏神の周辺に住み、その祭礼に参加する者全体を「氏子」と称するようになり、氏神は鎮守や産土神と区別されなくなったという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
            

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