古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

葛袋神社

 境内碑 社碑
 当社は川北山根大平の三郷を以って葛袋となし、其の中央山頂に五社大神と南方に白髪大神を守護神として祀り、明治五年両社を合祀し村社に列せらる。明治三十三年社殿を改築し、同四十年愛宕神社及び八坂神社を合祀し。社号を葛袋神社と改称す。
 昭和六十一年十一月二十七日不慮の火災により、社殿を焼失し、氏子一同再建を誓い多額の浄財を寄進し、平成元年四月十六日竣工壮麗清浄なる神殿に神霊を奉安す。
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に伝えんとする。

        
              ・
所在地 埼玉県東松山市葛袋853
              ・
ご祭神 五社大神、白髪大神
              ・
社 格 旧村社
              ・
例 祭 春祈禱328日、夏祭り728日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.02187,139.3699435,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社は関越自動車道東松山インターから南西方向の都幾川中流域右岸に鎮座している。
埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進む。関越自動車道東松山インター付近で国道254号と交差し、同県道41号東松山越生線に変更となるが、関越自動車道に沿うような形で南下し、「高坂」交差点を右折し、道なりに500m程西行する。都幾川の土手が見える付近で左方向に曲がる細い道があり、そこを左斜め方向に進み、次の十字路を左折すると右側に葛袋神社の鳥居が見えてくる。
 社の隣には葛袋公会堂があり、その前には広い駐車場があるので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                 
葛袋神社正面一の鳥居
               
 東向きにある参道。参道の両脇には伐採された木々の幹が残っている。伐採される前は、緑豊かな社叢に囲まれていたのだろう。工業団地の造成に会わせて整備されたというが、社は社殿周辺が存在していれば良いという箏ではない。鳥居から参道を含む境内全体の荘厳な雰囲気もまた社の「品格」という意味において必要ではないかと感じた。
 但し陽光を浴びた「明るい社」という印象も同時に感じ、良い意味でさわやかな気持ちで参拝には望めたことも事実である。新しく改築された葛袋公会堂に隣接し、同時にその周囲の環境に合わせた社の整備をしているようで、新しい「社」の在り方をも感じた次第だ。
        
              比較的長い参道の先にある二の鳥居
        
                                     拝 殿

 葛袋神社  東松山市葛袋八五三(葛袋字山根)
 葛袋では、かつて村の中央にそびえる坂東山(標高八五メートル)中腹に五社権現宮、村の南方に白髭神社・愛宕神社・八坂神社をそれぞれ祀っていた。このうち白髭神社が村の鎮守であった。
 明治五年、白髭神社を坂東山の五社権現社に合祀して相殿となり、「五社大神・白髭大神社」と号して村社となった。更に同四十年、愛宕神社と八坂神社をこれに合祀し、同四十五年に村名を採って葛袋神社と改めた。次いで、大正五年には、坂東山の麓の現在地に社地を移した。この坂東山は、昭和二十九年からセメント材採掘のために秩父鉱業によって切り崩され、現在では跡形もなくなっている。
 このように、当社の中心となっているのは五社権現社と白髭神社である。五社権現社は、その社名から察するに、熊野十二所権現社の内の熊野五所王子と呼ばれる若一王子(天照大神)・禅師(忍穂耳尊)・聖(瓊々杵尊)・児宮(彦火々出見尊)・子守(鸕鶿草葺不合尊)の五柱を祀る社と考えられ、恐らく熊野修験により奉斎されたものであろう。一方、白髭神社については「(隣村の)下唐子の白髭神社(現唐子神社)が当社の兄さんである」との口碑が伝えられている。下唐子の白髭神社は、応永十八年(一四一一)の創建と伝えられることから、当社の創建もこのころまでさかのぼるのであろうか。
 昭和六十一年に社殿を焼失したが、平成元年に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿に掲げてある「葛袋神社」の扁額   社殿裏に境内社。左から大黒天・金毘羅大権現
                            金刀比羅神社・大黒天。


 ところで葛袋地区の中央部は、岩殿丘陵が張りだし、裾を都幾川が流れている。その丘陵の突端部に「坂東山」があった。坂東山一帯には、セメント原料で粘土の一種「頁岩(けつがん)」が埋蔵されている。昭和29(1954)7月粘土質原料の供給を目的として、粘土の採掘が始まる。粘土採掘場は「葛袋」とその西3kmに隣接する「高本」地区の2か所で最盛期には 60,000トン/月前後採掘、輸送していた。その後セメントの需要が減るのと海外製品に押されて原料採掘量の減少などから、平成20(2008)6 月葛袋採掘場の採掘は終了、また、高本採掘場跡地も平成5(1993)に清澄ゴルフ倶楽部に衣替えしている。
 坂東山の標高が 明治21(1888)発行の迅速測図では93.25m であったが、採掘等により、昭和36(1961) は採掘が始まって6年程しか経過していないが、既に坂東山は姿を消していた。
        

 平成21(2009)8月「東松山都市計画事業葛袋土地区画整理事業」が始まり、2年の歳月をかけて葛袋産業団地が誕生、大手配送センターなどの物流の拠点となっている。工場建設などに伴う建設投資による経済波及効果は 370 億円、操業開始後の生産活動等に伴う経済波及効果は、毎年255億円になるとの報告があるという.
 工業団地東側の「ばんどう山第2公園」内には、平成28(2016)41日「化石と自然の体験館」が開館されている。坂東山の姿は消えたが、跡地は産業団地として、また、「化石と自然の体験館」として活用され、廃線跡も遊歩道として有効活用されることになっている。

「化石と自然の体験館」は県内唯一の室内で化石発掘体験が出来る施設である。現在埼玉県は「海なし県」のひとつであるが、嘗て1500万年前はこの地域一帯は海であった。その証拠に同地ではサメの歯の化石がたくさん見つかっている。

 尚平成 26(2014) 7 月地名更新があり、葛袋産業団地の住所が「埼玉県東松山市坂東山(ばんどうやま)〒355-0067」となり、ここに坂東山が地名で復活した。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 化石と自然の体験館公式HP」等

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大谷大雷神社

 大谷大雷神社は鎮座する大岡地区は、東松山市の北部に位置し、大岡地区は、江戸時代には大谷村と岡郷村に分かれていたが、1889年比企郡大谷村、岡郷、市ノ川村、野田村、東平村が合併し大岡村となる。(数ヶ月後、市ノ川村、野田村、東平村が折り合いがつかず、3村離脱、松山町へ編入合併されたという後日談もあるが)
 大字大谷という行政区画となっている同地区は、浸食されてできた多くの谷が多く存在し、大岡地区の小字は 60 近くある中で 12 か所は「谷」がつく程、谷(やつ)がいかに多いかということを伺わせる。その為ため池や沼が多いのはこの地形によるものという。
 この地域は山間の地で非常に水利が悪く、川と言われる様な水の流れはなく全て谷(やつ)と言われる小さな谷ばかりで、必然的に水不足によって五穀は良く実らないことから雷電山の上を平担にして、大雷命〔水配(ミクマリ)の神様〕を祭祀し、干ばつの年には村民はもとより近郷近在の農民達挙げて雨乞い、降雨の祈願に詣でる等深く信仰されたそうだ。
 地域周辺には5世紀頃の関東屈指の規模の三千塚古墳群、7世紀頃の吉見百穴と同様の横穴墓群、その後奈良時代後期の頃の瓦窯跡として有名な大谷瓦窯跡等、太古の人々の営みを残す地でもある。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市大谷3506
              ・ご祭神 大雷命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭412日 夏祭り720日 新嘗祭1017
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0848777,139.3880127,16z?hl=ja&entry=ttu
 大谷大雷神社は国道407号を東松山方向に進み、「上岡」交差点を右折し、埼玉県道391号大谷材木町線を南下して行くと大岡小学校前の交差点に雷電山古墳の看板が掛けられているので、その看板に従って右折し、ゴルフ場方面へ進んで行くと、途中右手側に大雷神社への社号標と標柱があり、斜め右側に伸びる参道が続く。但し正確には一の鳥居は社から1.2程南にあり、まず参拝を行う前に一の鳥居に向かい、神橋から一の鳥居までの数十メートルの区間だけであるが、日本人としての礼儀を重んじ、最初にその場所に向かう。
        
 一の鳥居手前にある神橋。親柱には「雷電橋」と刻まれている。嘗ては大雷神社参道正面であった場所であり、社殿まで1.2㎞離れている。「雷電橋」は明治22年に大谷村氏子中が寄進したもので、東西に流れている角川の左岸には、同時に建てられた旗立、鳥居、大理石の敷石も現存している。
 
    鳥居に「大雷神社」と刻まれている扁額   鳥居もその前にある灯篭も明治20年頃に建立
 昔ながらの参道はここまでで、鳥居を抜けるとすぐに細い車道となる。そこからゴルフ場方面へ進んで行き、社号標が見える先を右に曲がると参道があり、その先には神社の鳥居が見える。鳥居の左側に社務所があり、手前の広い駐車スペースに車を停めて参拝を行う。
       
              雷電山古墳(大雷神社)標柱      大雷神社 社号標 
   参道の先には大谷大雷神社の鳥居が見える。    大谷大雷神社鳥居正面。二の鳥居となる。
        
                     石段の先には広い空間があり、社殿が正面に見える。
        
                                         拝 殿
 
            拝殿に掲げている扁額                本 殿
       
 大雷神社由緒沿革
 当神社は伊邪那美命の御子大雷命を奉斉し御創建は今から壱千百十餘年前清和天皇の御代貞観元年己酉四月十二日と社伝に言い伝えられている貞観六年辛亥七月二十二日には武蔵従五位下大雷神従五位上を授けられ三大実録武蔵風土記等の古文献にも記載されている如く古代より有名な神社である古代より当地は山間の地にして水利の便非常に悪く五穀良く稔らず大神を祭祀してより五穀豊穣か伝えられ盛夏干旱の時村民挙げて降雨の祈願をし遠近郷の農民も降雨の祈願に詣でて深く信仰された社殿は雷電山と号する古墳の嶺を平坦にして大神を鎮座し社殿の周囲には昔日埴輪の残片が多く古考の説に此の地は武蔵国司の墓と伝承され附近一帯には陪臣の墓と思はれる数百の古墳の群が散見せられた寛政十年壬午四月二十五日再建の社殿は村内はもとより大神の御神徳を稱える近郷近在の人等によって上遷宮が執行された寛政の頃には関東取締役人の御沙汰によって行なはれた特殊神事の奉納相撲は両関が揃い盛大に開幕され明治以前まで続けられ大谷のぼた餅相撲と名高かった寛永十年から五十九年後の安政四年近くの山火事より類火して本社火災の折御神体の奉斉せる幣串自から社外に飛び去りしより神顕の廣大さに村氏崇敬者益々畏敬の念を深めこの幣串を今も御神体として奉斉する安政四年の火災後五年の歳月を経て現本殿が再建された
昭和四十三年十月二十三日   大谷氏子中
        
 
                                     拝殿正面の彫刻
 大岡地域には嘗て小さな古墳が多く存在していて「三千塚古墳群」と呼称され雷電山山頂の雷電山古墳を中心に、放射状に張り出す谷によって画された尾根状に9の支群に分かれて250基の古墳が分布していた。が今はゴルフクラブがその存在を消してしまい、古墳かゴルフコースの見分けが難しくなっている。大谷大雷神社が鎮座している場所も、雷電山古墳の墳頂にある。雷電山古墳は三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85mの帆立貝形古墳で、墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。
 ところで大雷神社の祭神は大雷命で、水の神様である。大谷地区は水利の便が悪く、大雷命を祀って降雨祈願を行っていた。江戸時代、豊作の年の祭礼には江戸から力士を招いて奉納相撲が盛大に行われていたという。社の北西側端で、レストハウスへ通じる道の右側に立てられた「大雷神社祭礼相撲場跡」の案内板がある。
        
 大雷神社祭礼相撲場跡 市指定史跡
 旧大谷村の総鎮守大雷神社の社殿を中心に、辻(相撲場)が二ヶ所あり、一の辻・二の辻と呼ばれ、一の辻は大相撲に、二の辻は草相撲に使用されていました。辻には三百席ぐらいの桟敷席が、傾斜地を巧みに利用して造られていました。現在は二の辻だけが残っています。大雷神社の相撲は、江戸時代中頃から行われていたと伝えられています。相撲の興業には、領主だけでなく関東取締役の特別の許可が必要でした。相撲興業には、近在の人々が大勢集まり、「関東三大辻相撲」の一つといわれるほどにぎわいました。この日、祝酒とともに「ぼたもち」を相撲見物の人たちにふるまったことから「大谷のぼたもち相撲」とも呼ばれ、大変親しまれていましたが、明治二十年頃を最後にその姿を消しました。
昭和613
月 東松山市教育委員会 案内板より引用
        
               大雷神社祭礼相撲場跡付近を撮影




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上野本八幡神社

「新編武蔵風土記稿 野本村条」による野本八幡神社の由緒には気になる一文がある。
 八幡社
 在家の鎮守なり、氷川雷電を相殿とす、當社往古は雷電社一社にして、祭神別雷の神なり、然るに白鳳元年志貴廣豊といへる人、八幡を勧請し、後又氷川を合祀せりと云傳ふれど、白鳳中の配祀など云こと甚疑ふべし、遥の後天正年中地頭渡邊忠右衛門より、八幡免田を寄附し、寛文二年再興ありしと云。神主布施大和。吉田家の配下なり。
 白鳳元年は西暦672年にあたる。この年に志貴廣豊(しきひろとよ)なる人物が、当地に八幡様を勧請したという。八幡様が東国に広がった時期はかなり後代であるので、風土記の編者の言い分にも妥当と考えるが、それよりここで気になるのは「志貴廣豊」なる人物で、ホームページ等にて調べても身元不明で、全く確認できない。
志貴」は「しき、シキ、シギ」とも読め、埼玉県にも「志木市」があり、決して埼玉県人には馴染みがない名称ではない。
 どのような素性、経歴の人物だったのだろうか。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市上野本1812
              ・ご祭神 大山咋命(推定)
              ・社 格 旧野本村在家鎮守
              ・例 祭 例祭101516
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0223835,139.4098935,18z?hl=ja&entry=ttu  
 旧野本村在家鎮守である上野本八幡神社は、国道254号東松山バイパスと国道407号が交わる手前の「八幡神社(北)」交差点を右折して暫く道なりに進むと、右側に上の元八幡神社が見える。南端の一の鳥居付近には適当な駐車場はないため、南北に長い参道の中間地点に「老人憩いの家」という集会所らしい建物があり、そこには駐車スペースも確保されているので、そこに停めて参拝を行う。
        
                上野本八幡神社正面一の鳥居
 道路沿いにある鳥居の右側には市指定文化財である「野本八幡神社の絵馬」と「上野本の獅子舞」の標が掲げられていて、案内板も設置されている。
 

野本八幡神社の絵馬(市指定文化財・有形文化財) 昭和四九年七月一〇日指定
 明治二五年(一八九二)、都幾川の堤防工事(明治二二~二四年)の完成を記念して、その労苦を後世に伝えるとともに、将来に渡って洪水から野本耕地が守られることを願って、拝殿に奉納されています。
 絵馬には、奉納のいきさつ(漢文)と当時の土手普請の様子が細かく描かれています。
 絵は山口曲山、漢文は嵩古香によるもので、いずれも野本出身の文人です。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
上野本の獅子舞(市指定文化財・無形民俗文化財) 昭和五五年一月一〇日指定
 一〇月一五日に近い日曜日、ここ八幡神社の秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われます。一人立ちの三匹獅子舞で、舞の構成は「ドヒヤリ」・「三匹ぞろい」の二曲形式で、「街道くだり」・「雌獅子隠し」・「歌の舞」となっています。獅子舞に先立ち、二人の青年によって「出棒」、「ずり棒」、「込め棒」の棒術が行われるのが特色となっています。「宝暦二年」(一七五二)銘の貼り紙を持つ太鼓や神社明細帳に「嘉永五年獅子頭再調」(一八五二)から少なくとも江戸時代後期には獅子舞が行われていたといわれています。
                            東松山市教育委員会   案内板より引用
        
                 鳥居より参道正面を撮影
 参道は長く、桜も満開の時期、周辺に住む人であろう方々が子供と一緒に春のひと時を楽しむ微笑ましい場面も見られた。
        
                   拝殿周辺を撮影
 
          拝 殿               拝殿に掲げている社号標
志貴廣豊」なる人物はどのような素性を持っているのか。その鍵となるのは「志貴」という苗字である。志貴」は「鴫(シギ)」とも読め、「志義、新儀、信議」とも記されることもある。
・川越宿志義町条
「志義町は昔鴫善吉と云し鍛冶の開きし所なり、故に鴫町と号せり、今志義町とかくは假借なり」。
・鍛冶町条
「天文弘治の頃鍛工平井某と云もの相模国より当所へ来りて住す、その門人鴫惣右衛門、同内匠などと云ものあり」。
・三芳野神社由緒書
「新儀惣兵衛允則重と云へるものは、其の先は新儀巧匠守と称し小田原北条家の麾下也。天文弘治の頃に小田原から門人十四人を率いて川越に移住す」。
・寛永十七年太刀銘 「武州川越住・新儀惣兵衛允則重作」。
・日蓮宗行伝寺過去帳
「宗善院淨心・鴫惣右衛門舅・卯年十月。妙受・鴫前ノ惣右衛門内・辰年八月。巌王院宗念・鴫惣兵衛・巳年七月。妙伝・鴫惣兵衛息女・寅年四月。妙千・鴫殿内千代・午年十二月。妙悦・鴫町衆・二郎右衛門母・寅年十一月。法悦・鴫町与三右衛門・辰年十一月。妙栄・鴫横町ノ甚右衛門内・未年十一月」

 上記の記述では、「
志貴」由来の地は志木市や川越市方面に多く存在し、「鴫・志義・新儀」等と記載されることもあるようだ。その一派が比企郡・野本地区に移住したと考えられる。またどうも古代鍛冶にも関連している地名・苗字でもあるようだ。「志貴廣豊」もそのような関係の人物である可能性も否定できない。
        
            拝殿の奥に静かに鎮座する本殿(写真左・右)。
       
            社殿の東側には御神木が聳え立つ(写真左・右)。
            
                拝殿手前に咲き誇る桜の大木
           桜はどの場所にあっても美しいことに変わりはない。
                まさに「日本の春」を象徴するような木。
 
     社殿の右側にある境内社         参道左側に並列している石碑・石祠等
             
               一の鳥居の右側にある庚申塔    
 上野八幡神社が鎮座する野本地区は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士である野本基員が始祖とされる野本氏がこの地域一帯を領有していた。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。藤原北家魚名流、民部卿・藤原時長の子である藤原利仁は、藤原秀郷と並び藤原氏が武家社会を創出していく時代を象徴する重要な人物である。延喜11年(911年)上野介となり、翌延喜12年(912年)に上総介に任じられる。そのほか下総介や武蔵守といった坂東の国司を歴任し、延喜15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千(蔵宗・蔵安)を鎮圧し武略を天下に知らしめたことが『鞍馬蓋寺縁起』に記され、同年鎮守府将軍に就任。後代、中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原保昌・源頼光とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されている。
       
 平安時代後期
において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役である、藤原利仁の次男で、従五位上・斎宮頭である藤原叙用の子孫という片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされる。
 上記の内容のほとんどはWikipediaを参照としているが、「基員は御家人として源頼朝の信頼を受け、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した」との記述ひとつにも謎があり、京都では藤原氏の中でも主流の系図からはかなり外れてしまい、出世の見込みもなくなったであろう(片田)基親・基員親子が何故か何の縁もなさそうな武蔵国比企郡に移住している。
 偶然とは思うが、志貴廣豊」と「野本基員」は同じく野本地区に移り住んでいて、時代背景の違いこそあれ、何故か似た者同士のような境遇に重なってしまうのは、筆者の思い過ごしであろうか。
 

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上野本氷川神社

 東松山市は地形的には、市野川・都畿川・越辺川等の河川で形成された丘陵・台地・沖積地と変化に富んでおり、古代から人の往来が盛んで、遺跡が数多く残されている場所である。
 同市からその東の吉見町にかけての比企地域東部には、34世紀ころの古墳時代前期の前方後方墳が密集していて遺跡も多く、初期古墳である前方後方墳が県内で密集して見つかる地域でもある。その中反町遺跡は高坂台地と都幾川に挟まれた低地に所在し、平成17年から5回の発掘調査が行われ、弥生時代から奈良・平安時代にかけての遺構・遺物が検出・出土され、さらに水晶製勾玉の工房跡やガラス小玉の鋳型を出土する玉作り工房跡も発見されている。
 この調査では東海系・北陸系をはじめ畿内系などの外来系の土器や、関東では珍しい銅釧・鉄剣・銅鏃なども出土していて、考古学会でも最近注目されている場所の一つでもある。また若松町で発掘された五領遺跡では、
150カ所以上の竪穴住居跡やぼう大な量の土器・石製品などが出土して、古墳時代前期(4世紀)を中心とした古代の農耕集落等の様子が明らかにされている。
        
             ・所在地 埼玉県東松山市上野本520
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧金谷鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭43日 夏祭り718日 秋祭り10月29日
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.0294473,139.395557,17z?hl=ja&entry=ttu
 上野本氷川神社は国道254号バイパスを首都圏中央連絡自動車道・川島インターチェンジ方向に進み、上野本歩道橋を越えた最初の十字路を左折すると、すぐ左側に上野本氷川神社が鎮座している。比較的説明しやすい場所に鎮座して頂き、ありがたく思る貴重な社でもある。
 社の右側には広い駐車スペースが確保されていて、そこに停めて参拝を行う。
        
                                  上野本氷川神社正面
『新編武蔵風土記稿 野本村条』には、村内には「金谷」「曲輪」「在家」の三つの小名があり、当神社はその内の金谷の鎮守で、円満寺の持ちであったとの記載がある。
 別当である円満寺は「天台宗・氷川山」と号す寺で地内にあったが、神仏分離の際に廃寺となり、現在では寺伝も明らかではない。
 また『風土記稿』は、当神社に続けて、在家には八幡社、曲輪には十二天社がある旨を記している。
       
   鳥居右側に立っている社号標(写真右側)と「金谷の餅つき踊り」の標柱(写真右側)
        
                             「金谷の餅つき踊り」の案内板
 埼玉県 指定無形民俗文化財 
 金谷の餅つき踊り 
 餅をつく所作に、歌や曲芸のようなつき方が加わり、芸能となったものが「餅つき踊り」です。毎年十一月二十三日に氷川神社(旧・金谷地区の鎮守)の境内にて、豊作を感謝して奉納されま す。
 平安時代の武官・坂上田村麻呂が岩殿山の悪竜を退治した際、喜んだ村人が踊りながら餅をつき、もてなしたのが始まりと伝えられています。
 はじめに大木遣りを歌いながら杵を担いで境内に入ります(練り込み)。祝詞を上げ、臼の縁を叩いて景気をうけ(空づき)せいろに入った蒸し米を頭上に掲げて舞いながら臼に投入します(せいろかぶり)。蒸し米を圧し潰して練り(大練り)、水を付けたら(手合わせ)、いよいよ「つき」の工程に入ります。
「つき」は主に三人で行います。前半は大きい杵を使い(片かむり・両かむり・よろけづき・片かむりの四本づき)、後半は小杵に持ち替えてつき(にらめづき・けこみづき・かぶりづき・廻しけこみ・よろけづき・十文字づき)、餅をつきあげます。
 このように「しっかりと定まった型を持つ」ことが最大の特徴で、昭和三十五年三月一日に埼玉県指定無形民俗文化財に指定されました。
令和28
月 東松山市教育委員会   
                                                                            案内板より引用
        
                                       拝 殿 
 ところで、東国地域での古墳誕生に関して、従来の通説では東国の古墳出現時期は九州・畿内で出現した時期からの伝搬であり、半世紀か1世紀後に出現したと言われてきたが、最近の年代観によれば3世紀前半期といわれおり、沼津市高尾山古墳(約60mの前方後方墳)の大廓I式土器が230年頃と考えられており、後漢鏡を伴う前方後方墳(墳丘墓)が、3世紀前葉段階に東国に出現している可能性も指摘されている。
 また東松山市では平成23年、高坂8号墳に隣接する高坂神社境内地から三角縁神獣鏡がほぼ完全な形で出土していて、実は千葉をはじめ関東各地で発見されているが、埼玉県では初めてである。この鏡は古墳時代前期(西暦250260年ごろ)の青銅製の鏡で、倭人伝で有名な卑弥呼が時の中国王朝である「魏」の明帝から下賜された鏡という説もあり、同時にこの鏡の発見は、ヤマト王権と密接なかかわりを持つ人物が古墳時代初めごろの東松山市域に存在していたことを示していると言われている。
        
                  拝殿からの一風景

 東松山市野本地区に鎮座する野本将軍塚古墳は、松山台地の南縁に所在する前方後円墳で、現存する墳丘は長軸で115メートルあり、古墳時代前期に築造された、当時埼玉県内(北武蔵)最大の前方後円墳であったことが判明している。平成29年(2017年)に実施した非破壊調査、三次元墳丘測量と地中レーダー探査を中心とする調査を行い、この古墳が築造当時には前方部2段、後円部3段の立体構造を持っていたことや、後円部に埋葬施設が遺存している可能性が高いことや、隣接する五領遺跡や反町遺跡が最も活性化する時期に築造された可能性が高いと発表されている。

 野本将軍塚古墳の北には五領遺跡、南に反町遺跡という古墳時代前期の有名な集落遺跡があり、両遺跡と全く関係なく、時期的に偶然存在したとは到底考えられないと思えるのだが。


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下青鳥天神社

 天神社が鎮座する「下青鳥」地区、「青鳥」と書いて「おおどり」と読む。この地名由来は今一つハッキリしていないがかなり歴史が古いことは確かである。『新選武蔵風土記稿下青鳥村(東松山市)条』には「源平盛衰記に武蔵国月田川のはた青鳥野と見へたり。古へ青鳥野と唱へしは此辺にて月田川と云るも今都幾川なるべし。隣村石橋村に宿青鳥・内青鳥と云小名あり、されば古は当村と一村なり」と書かれ、『石橋村条』に「小名内青鳥・村の中程を云ふ。当所に城蹟あり、相伝ふ往昔青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと。是いかなる人といふことを知らず。按に隣村羽尾村の鎮守に恒儀の社あり、是れ青鳥恒儀の霊社にて天長六年九月二十四日卒せし人なりと云」と見られる。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市下青鳥811
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧下青鳥村鎮守・旧村社
              ・例祭等 不明 
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0197723,139.3970483,17z?hl=ja&entry=ttu
 下青鳥天神社は国道254号線バイパスを首都圏中央連絡自動車道・川島インターチェンジ方向に進み、「下野本」交差点を右折、その後「下野本(南)農村センター」交差点を右折する。埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を直進し、東武東上線の踏切を越え、4番目のT字路を左折、上用水堰を越えてすぐ先の十字路を左折すると道路沿いの左側に天神社の鳥居が見える。
 駐車スペースは鳥居横と境内双体道祖神、庚申塔、地蔵・馬頭観音等が並べられている石碑等の間に若干のスペースがあり、そこに停めて参拝を行う。
        
                  桜が満開な時期に参拝
        桜は日本の風土に一番似合う花であり、美意識の象徴でもある。
        
                      参道から撮影。桜がある風景はやはり一味違う。         
        
                     拝 殿
 現在の地域区分において、石橋地区と下青鳥地区に分かれているが、分離以前の青鳥地区は、現在の「下青鳥」地区の他、石橋地区の「宿青鳥」「内青鳥」も含め、藤原恒儀関連で滑川町羽尾地区も包括すると、南部の都機川流域までのかなりの範囲を占めていたと考えられる。
 
「埼玉の神社」による下青鳥天神社の由緒では「天神社<東松山市下青鳥八一一(下青鳥字下郷)>下青鳥の下郷の地は、都幾川流域の低地と自然堤防に位置する。古くから川の氾濫に脅かされてきた所で、その被害を避けるために氏子集落は自然堤防上にある。
        
                               拝殿・向拝部の精巧な彫刻
 
               見事な木鼻の彫刻(写真左・右)
 口碑によると、当社は初め都幾川沿いの低地に祀られていたが、水害の多い所であったため、元文二年(一七三七)、下青鳥が上下の二郷に分かれたのを機に自然堤防上の今の地に移されたという。ちなみに、旧社地と伝わる辺りには、天神面・天神裏などの地名が残されている」と記されている。 
    
         本 殿             社殿奥にある境内社 三峯・弁天石祠

 境内社の左側には三角点(四等三角点)がある。三角点(さんかくてん)とは、三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことである。
国土地理院で設置した三角点は、全国に約10万点ある。花崗岩(かこうがん)製の角柱を埋めてその位置を示す標石としていて、日本では一等から四等までの等級に分けられているという。
 よく見ると花崗岩上部が欠けていて、[四等」と本来表示荒れている部分が見えていない。また他の三角点には、その周りに4ケ保護石ががあるのだが、ここにはそれもない。
        
            
下青鳥天神社のすぐ北側に流れている「上用水堰」

堰」とは農業用水・工業用水・水道用水などの水を川からとるために、河川を横断して水位を制御する施設で、斜め堰とも呼ばれている。都畿川では上流から、鞍掛堰、中井堰、上用水堰、矢来用水堰、長楽堰の5つの斜め堰が設けられ、ある程度改修されているものの全体的な景観としては江戸期の取水堰の雰囲気を残している。
        
         南北に並んでいる
境内双体道祖神、庚申塔、地蔵・馬頭観音等


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