古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

唐子神社(下唐子)


埼玉県日高市には旧県社・高麗神社が鎮座している。主祭神である高麗王若光は、716年に武蔵国に新設された高麗郡に移住し、高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に尽力し、この地で生涯を終えた。軍民はその遺徳を偲び、若光の御霊を祀り、高麗郡の守護神とした。近代以降は政治家・文化人の参拝も多く、参拝直後に総理大臣に就任する政治家が続出したことから「出世明神」としても広く知られるようになる。(埼玉県の神社より引用)
 天平天平二十年(748)、高麗王若光が薨じ、その霊を高麗明神として祀りあがめたが、その王の薨るとき髭髪ともに白かったため、白髭明神ともいって祀ったともいう、とある。旧高麗郡内には、かつて約30社の白鬚神社があったといわれていて、郡内に鎮座する白鬚神社は、高麗神社の分社ともいう。
 下唐子地区に鎮座する唐子神社のご祭神も「
白髭大明神」であり、嘗て高麗人が開発した土地であると言われている。 
        
              ・所在地 埼玉県東松山市下唐子1008
              ・ご祭神 白髭大明神
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 夏祭 72627日 秋祭 1019
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0280511,139.3616633,17z?hl=ja&entry=ttu
 東松山市の下唐子地区は、市の西部に位置し、
都幾川沿いの丘陵端部に鎮座している。埼玉県道344号高坂上唐子線を上唐子方面に進み、「水道庁舎入口」Y字路交差点を左折すると、右側にはなだらかな丘陵地帯が広がり、その一角に唐子神社社務所が見え、その隣に社の入口がある。社のすぐ北側には「唐子中央公園」、また南側近郊には「駒形公園」があり、休日の散策にはよい所でもある。駐車スペースは社務所内に確保されており、そこに停めて参拝を行った。
        
            
                正面参道入口
 唐子地域は古くは松山領に属していた。唐子の地名について「地名誌」は「風土記稿」の中にある「和名抄」所載の郷名鹹瀬(からせ)が転訛したものであろうとの説は否定して、唐子神社に合祀されている白髭神社(高麗の祖神である高麗王・若光を祀る神社)のあるところから、高麗人が嘗て開発した土地であるとの考察もある。
 別の説として、この地は台地の端にあり、都幾川が南端を流れていることから、「から(涸・乾)、こ(処)」で乾燥した場所を示すといった自然地名の解釈も出来る。唐子の地名は南北朝時代からあり、唐子が上下に分かれたのは、正保(164447)の頃のことで、元禄(16881703)の図では上唐子・下唐子に分かれている(「風土記稿」)。  
 
 唐子神社社殿までの参道は3段の階段と途中踊り場があり、参道中央には手すりもついている。1段目の階段の先には石製の鳥居が見え(写真左)そして鳥居手前右側には「下唐子獅子舞」の案内板がある(写真右)。
『下唐子獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 下唐子の獅子舞は、唐子神社の夏祭(七月二十六、二十七)、秋祭(十月十九日)の奉納舞として行われる。獅子舞の由来は明らかでないが、武田信玄の家臣馬場美濃守の子孫が、今から二百数十年前この地に転在して白髭大明神を祭り、獅子舞を奉納したのが始まりと伝えられている。
 一人立ちの三匹獅子舞で、その特色は、舞い方がおとなしく、技が混んでいるところにあり、笛方は骨が折れるといわれている。舞の構成は「ドジョウネコ」「ショイウデンカグラ」「メジシカクシ」となっている』                                       昭和六十年三月 東松山市教育委員会          

 また東松山市ホームページでの「下唐子の獅子舞」紹介では以下の記載がある。
「諏訪神社の例祭である夏祭り(お諏訪さま)と白髭大明神の祭典である秋祭り(おくんち)に奉納されています。この獅子舞は、武田信玄の家臣・馬場美濃守信春の子孫が、今から350年ほど前に長寿の神様である白髭大明神を祀り、獅子舞を奉納したのが始まりと言われています。創建時、白髭大明神は字坂東にあり、獅子舞もそこで舞われていました。この地がたびたび都幾川の氾濫に見舞われたため、天和2(1862)に現在の地に移されました。諏訪神社は、元は字法養寺にあり、獅子舞はそこで舞われていたそうです。明治44(1911)に白髭大明神は、諏訪神社のほか、伊奈利神社、粟島神社、稲荷神社、八幡神社を合祀し、村名をとって唐子神社と名を改めました。古くは馬場本家を獅子宿としていましたが、唐子神社に社名を改めた頃より宮司である渡辺家で支度を整え(獅子舞用具一式は宮番が馬場本家まで取りに行った。)、唐子神社まで街道下りを行いました。現在は社務所を宿とし、神社まで街道下りを行います。獅子舞用具一式は現在御神庫に保管されています。獅子頭は明治時代の中頃に現在のものに作り変えたと言われており、隠居獅子も御神庫に保存されています]
 
2段目の階段の踊り場には木製で朱色の鳥居あり   鳥居の社号額には「唐子神社」と表記
       
      階段を上った境内は広く落ち着いた雰囲気もある。正面には拝殿あり。
〇歴史
 神社の創建は、応永18年(1411年)918日、時の領主左兵衛佐藤原重時が秩父郡の椋神社の分霊を地内の字坂東に奉斎し白髭大明神とした。この地は都幾川の右岸低地であり時々氾濫にあった為、天和2年(1682年)に地頭菅沼吉広が社地を坂東から現在の地(下唐子)に移し、黒田市郎左衛門が総代となり社殿を造営した。当社は 52段もの石段を登った高台に位置している。地内西側にあった教学院は、現宮司〈渡辺一夫氏〉渡辺家の先祖で松山町観音寺配下の本山派修験であった。明治4年(1871年)に村社となり明治5年(1872年)に字高本の伊奈利神社を合祀し、明治44年(1911年)には字法養寺の諏訪神社、字滝下の粟島神社(教学院の薬師堂)、字内手の稲荷神社、字久保の八幡神社の4
社を合祀し村名をとって唐子神社と改めた。
 
          社殿手前左側には祭器庫           社殿手前右側に神楽殿あり
 

           境内社愛宕社・神明社            境内社七鬼社、三峰社
                  
   
 社殿奥、本殿の左右には合祀されている社が張り出している構造となっており、中にはそれぞれ二社ずつ納めされて祀られている。但し詳細は不明。
                 
 参拝後
自宅に戻ってから神社散策の編集を行うが、その編集途中で「天の園」という小説を知った。東松山市ホームページで紹介している小説家、打木村治(19041990)は東松山市唐子で幼少期を過ごし、飯能市に長く住み当地で亡くなった。代表作である「天の園」は、明治後半から大正時代、作者が小学校時代を過ごした唐子村(現在の唐子地区)を舞台に描かれた全六部の長編小説で、「路傍の石」「次郎物語」とともに三大児童文学と言われている。
 小説には、都幾川や農村の豊かな自然の中で、伸びやかに遊ぶ子どもたちや、子どもたちの成長をやさしく見守る大人たちがたくさん登場し、地域の人々との交流を通して心豊かにたくましく成長していく子どもたちの様子が情緒豊かに描かれていて、 社の北側に隣接している唐子中央公園には「天の園」の記念碑が建てられている。
         
                     唐子神社遠景
 この作品の制作年代は明治晩年で、埼玉県比企郡唐子村というところが舞台で一人の少年が成長していくさまを描いた物語であり、明治晩年の農村の生活様式が生き生きと描かれているという。
 周辺には、小説の舞台となった自然豊かな風景が今も残る。後世に残したい歴史の財産であり、大切にしたいと切に感じた。



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正代御霊神社及び早俣小剣神社

  源義平は平安時代末期の武将で、源氏の棟梁である源義朝の長男であり、鎌倉幕府をつくりあげた源頼朝の兄にあたる。15歳の時(1155年)比企郡の大蔵合戦で叔父の義賢を殺して武名をあげ,鎌倉悪源太と称された。ちなみにこの「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。
 1159年平治の乱で遠く関東にいた義平は、手勢を引き連れて京の父義朝のもとに参陣し、死闘を繰り広げる。特に六波羅の戦いでは平氏の嫡男平重盛の兵力500旗をわずか17旗にて打ち破っている。
 源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故(「尊卑分脈」によると橋本の遊女とも)官位叙任は他の兄弟よりはるかに低く、その活躍時期も短いとはいえ、その知名度は保元の乱の源為朝に匹敵する程。その一生は短いながら、颯爽と時代を駆けのぼって昇華したイメージが強い。
 東松山市正代地区に鎮座する御霊神社は、その源義平を御祭神とする社である。
所在地   埼玉県東松山市正代841
御祭神   源義平
社  挌   旧村社
例  祭   7月25日に近い日曜日 正代の祭りばやし

         
 正代御霊神社は国道407号の宮鼻交差点を東方向に約1km位の場所に鎮座する。この正代地域は、北に都幾川、南に九十九川と越辺川が流れ、3つの河川が合流する手前の台地上という戦略上の要地に位置しており、平安時代後期から鎌倉時代にかけてこの地に在住していた小代氏の館跡とも言われている。
 小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まる。
            
                            正代御霊神社正面
 この正代地区は、小代の「岡の屋敷」と言われ、源義平が大蔵合戦当時、屋敷を造って住んでいた場所とも言われている。つまりこの正代の地は、義朝にとって武蔵国平定を阻む義賢の本拠地である比企郡大蔵に対しての前線基地であり、義朝の子供がその地に在住していたということは、この小代氏は義朝にとって信頼できる配下であったのだろう。
             
 小代行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源頼朝に仕えた武将で、頼朝が治承4年(1180年)に挙兵した当時から参陣していて、一の谷合戦や奥州合戦に従軍し、本領武蔵国小代郷のほか越後国中河保,安芸国見布乃荘等の地頭職を与えられ,鎌倉御家人小代氏の基礎を築いた人物である。この行平は義平在住当時(1155年頃)からこの地にいたかどうかは不明だが、「小代行平置き文」と言われる小代八郎行平から数えて四代目の伊重が、八郎行平の行状を子孫のために書きとめた文章によると、義平を祀った経緯について以下の記述がされている。

 「小代ノ岡ノ屋敷ハ、源氏ノ大将軍左馬頭殿(源義朝)ノ御嫡子鎌倉ノ右大将(頼朝)ノ御兄悪源太殿(義平)伯父帯刀先生(たてわきせんじょう)殿(源義賢)討チ奉マツリ給フ時、御屋形ヲ作ク被レテ、其レ二御座(オワ)シマシテ、仍テ悪源太郎ヲ御霊(ゴリョウ)ト祝ヒ奉マツル。然レバ後々将来二至ルマデ、小代ヲ知行セン程ノ者ノ惣領主ト謂イ庶子ト謂イ、怠リ無ク信心致シテ、崇敬シ奉ル可(キ〕者也」

 源義平がこの正代岡の屋敷にいた当時、小代氏の当主は行平だった確証はない。先代の遠弘であった可能性が高いと思われるが、義平と同年齢だった可能性も無いわけではない。むしろ同じ時代に、共に同じ環境で過ごした時期が多ければ多いほど最後の一文「怠リ無ク信心教シテ、崇敬シ奉ル可・・・」の文章の重みを感じると思われる。あくまで想像だが。
                                    
 鳥居のすぐ先には樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mの御霊神社のケヤキが聳え立っている。東松山市内一の高さを誇る赤ケヤキともいわれている。この大ケヤキは平成20年3月1日市の銘木として認定されている。
                        
                              拝    殿

       社殿の左手奥にあった境内社              本殿裏にある稲荷社と古い石祠
            
                     社殿の左側手前に合祀されている三社
 明治42年5月に置かれた。向かって左に弁天の市杵島神社、中央に東形の八坂神社、右手に田谷の稲荷神社を祀っている。
           

 正代の祭ばやし  昭和六十年七月十七日  市指定無形民俗文化財

 正代の祭ばやしは、七月二十五日(現在は七月二十五日に近い日曜日)の夏祭りに、鎮守五霊神社で、無病息災を祈願して、氏子の「正代はやし連」の人達によって奉納されます。御輿と屋台を連ねて、正代地区を一巡します。屋台の上では大太鼓一・小太鼓二・笛一・すり鉦一の五人構成で、これに踊りや芝居がつきます。
 現在のはやし連が出来たのは、昭和六年のことで、市内古凍から師匠を招き、また、坂戸市塚越にも出向いて習ったものです。「囃子連帳」には、このときの様子が「昭和六年農村ハ日毎経済ニ疲レ囃子ヲ頼ム経費スラ容易デナイ実情二ナリ此処二将来ヲ思ヒ村ノ経費ヲ幾分ナルトモ減少ショウト云フ意気二モエ心ヲ合セ囃子連ガ成立シマシタ」と記されています。(中略)
                                                             案内板より引用

 この正代御霊神社は主祭神は、旧来から鎌倉権五郎景正といわれてきた。本来の「御霊」信仰の対象だからだ。鎌倉悪源義平がこの正代地区に来る前の信仰がまさに「御霊」神、つまり、片目の鎌倉権五郎を祀っていた鍛冶採鉱の民がこの地にいたからだろう。小代氏の配下に置かれ、鋳物生産を行っていたのが、「小代鋳物師」がこの地域に嘗て存在していたという。


早俣子剣神社
 越辺川は東に流れ、そして都幾川に合流する。その合流地点近くの早俣地区の都幾川が形成した自然堤防の微高地に早俣子剣神社は鎮座する。
所在地    埼玉県東松山市早俣423-1
御祭神    日本武尊、剣根尊
社  挌    旧村社
例  祭    10月17日 秋祭り
           
 早俣小剣神社のご神体は日本武尊、剣根命。神社のご神体「小剣大明神像」は源頼朝の家臣、源森次が奉納したと伝えられる。当地の千代田竹雄家は、その子孫といわれ、旧4月10日先祖祭として森次ほか祖霊を祀っている。
           
                            正面一の鳥居
  
 社殿の手前、左右には石祠が対峙するようなかたちで祀られている。社殿の左側には天神社の石祠と幟織姫大神の石像(写真左)。この幟織姫大神は安政五年(1858)六月建立と刻まれている。また右側には稲荷社があり(同右)、その台座には弁財天の眷属である15人の童子がやはり浮き彫りにされている。
 この石像に彫られている幟織姫大神が持っているのは糸巻きで、この地域は嘗て養蚕が盛んだったということを調べてみて初めて知った。
                       
                              拝    殿
 都幾川と越辺川の合流地点近くに鎮座する社ゆえに、社殿の地盤基礎部分がやはり高くなっている。洪水対策であろう。

      拝殿の上部に掲げてある社号額                    拝殿内部
           
 すぐ近くには正代運動広場があるが、社の周囲は遊歩道はあるが、今では珍しい舗装されていない道ばかり。人里離れたこの地に鎮座する社を維持する氏子の皆さんの苦労がしのばれる。

 また社の南側には小剣樋管と言われる堤防を横断する水路があり、一の鳥居付近にはその水門を監視するカメラが設置されていて、一面長閑な風景の中に、世知辛い現実を見る思いで何となく違和感を感じた。     
                   

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宮鼻八幡神社

 高坂台地は東西約9,5km、南北約8kmの狭い丘陵地である。標高は70~140mで,高坂台地と都幾川や越辺川支流の九十九川の河川によりできた低地との境には多数の湧水が湧き出ていている。都幾川南岸(東光院下の清水、高済寺下の清水)の2箇所、越辺川北岸(宮鼻の清水、寺下の清水、中形の清水、木下の清水、観音下の清水)の5箇所を総称して高坂七清水と呼ばれている。
 越辺川北岸にある5箇所の湧水の近くで、河川が造る浸食斜面及びその斜面台地上のに立地している神社が多数あり、河川及び水資源に関連した社ではなかったかと思われ、台地上に鎮座する原因や、その社会的な機能があったのではないかと考えられる。
 現代社会は河川改修や地盤の改良の技術が飛躍的に進み、また経済成長という時代背景によって、多くの台地も一面住宅地化され、道路も舗装化された。それ故に多くの台地の地理的な特徴を無視した開発は、河川の氾濫や土砂災害などの増加を招いたと考えられる。
 その意味において、高坂台地に限らず、多くの河川浸食斜面上に鎮座する社の歴史的な意味を明らかにすることは、とりもなおさず、現代に生きる我々が抱えた自然災害等を未然に防ぐ何かしらの啓示となるのではないだろうか。
所在地    埼玉県東松山市宮鼻216
御祭神    応神天皇(推定)
社  挌    旧村社
例  祭    4月第1日曜日 春祈祷 獅子舞  11月 3日 秋の大祭 
           

        
 宮鼻八幡神社は国道407号を高坂神社交差点の南側二つ先の宮鼻交差点を左折し、南側約300m位の越辺川支流九十九川北岸の段丘上に鎮座している。南側は九十九川が東西に流れ、段丘の丘から眺めるその風景はなかなか雄大であり、豊かな土壌であったと同時に河川の氾濫等、水害の被害もさぞや多かったのだろうと勝手に思ったりしてしまった。
 ちなみに駐車スペースはなかったので、路駐し、急ぎ参拝をおこなった。
           
           
                           宮鼻八幡神社正面
 言い伝えによると創建は清和天皇の貞観年間(859年~877年)と言われている由緒ある古社。昔は宮鼻村の鎮守八幡社だったが、現在の八幡社に改称している。

              拝    殿                          本    殿

 社殿の右側手前には天満天神社、日枝神社、それに何故か大狼の神である大口真神(写真左)が鎮座し、社殿左側には稲荷神社(同右)が鎮座する。大口真神がこの地に祀られていること自体正直驚きだ。
           
                     八幡神社の境内に大きく聳える大欅。
            この御神木を見るために今日この地に来たといってもいいくらいだ。
           
市指定文化財 天然記念物  
八幡神社の大ケヤキ(昭和三十七年三月二十六日指定)
 県の木として親しまれてきたケヤキ(昭和四十五年「県の木」に選定)は、ニレ科の落葉高木で、本州・四国・九州に広く分布しています。
 ケヤキとは、「けやけき木」で、「際立って他の木より目立つ木」の意味があり、空を突く美しい堂々とした樹形や巨大な幹は遠くからもその優雅な姿から他の樹木と見分けることができます。
県内では東部の低地からから秩父山地にかけて分布し、台地から低地に移る傾斜地や山間の肥沃地に生育しています。越辺川沿いの低地に接する高坂台地南部の傾斜地には今でもケヤキだけでなく、ムグ、エノキなどの同じニレ科の大木が多く見られ、昔から川岸の斜面林として発達してきました。
 またケヤキは農具や家具の建築材として優れていることから、江戸幕府が農民に植栽することを推し進めてきたことなども、農家の屋敷林や寺社林として多くみられる所以となっています。
 この宮鼻の八幡神社にあるケヤキは根回り八、〇m程もあることから、樹齢は約七〇〇年と推定されます。八幡神社の御神木とされてきたこのケヤキは、古くから地域の人の心の拠り所であり、農作業の合間の涼をとる憩いの場所として親しまれてきました。長い年月の間に幾多の台風などにより、主幹部は空洞化していますが、根元の太さはその長い歴史を物語っています。
                                                             案内板より引用
                 

 迫力ある雄々しい姿である。主幹部は空洞化し、ステンレス製の帯で幹が解体しないようにか巻かれていて、何となく痛々しいが、紅葉の季節でもその葉は主幹部の周りの枝に大量に生え、生命力の大きさを感じさせてくれる。まさに御神木。その存在感は圧巻でもある。

 また宮鼻八幡神社には獅子舞も市指定無形民俗文化財に指定されている。
           
宮鼻の獅子舞 
 昭和五十五年一月十日 市指定無形民俗文化財
 宮鼻の獅子舞は、四月一日(現在は四月の第一日曜日)の春祈祷に、鎮守八幡神社に奉納されます。引き続き、悪病除けに部落内を行列して歩く「廻り獅子」が行われます。
 行列は猿田彦之命(宮鼻では「おクニさん」と呼んでいる)が道案内役として、先頭に立ち、笛太鼓がそのあとに続きます。十月十七日(現在は十一月三日)の秋の大祭は風雨従順、五穀成就、氏子快楽を祈願するもので、八幡神社で獅子舞を奉納したあと香林寺でも獅子舞が奉納されます。このときには、万灯が行列の先頭に立ちます。
 この獅子舞は、昔、風水害にばかり合い、村人たちが悲惨な毎日を送っていたので、獅子舞を神社に奉納することになったのが始まりと言われています。
 宮鼻の獅子舞は、一人立ちの三匹獅子舞で、女獅子・中獅子・宝丸獅子・簓子(ささら)、笛吹き(笛方)、歌うたい(歌方)、ぐんばい(囃子)、万灯持ち(花車持)、世話役(世話掛)で構成されています。その他の役人として、竹の三尺棒(昔は刀をさしていた)を持った七人の警固がいます。
 獅子頭は、現在六基ありますが、そのうち三基は、創始当時の木彫りの重箱獅子で、約百八十年前の文化二年(江戸末期)のものと伝えられています。
                                                             案内板より引用

 八幡神社が鎮座する「宮鼻」という地名は、どのような語源なのだろうか。調べてみると本来は海岸線の海に突き出した地形を「はな」と言い「端」や「鼻」の字をあてたらしい。また陸地でも平野部に突き出した高台の尾根の端あたりの地がそれにあたる。

 偶然の発見だが、さいたま市大宮区に鎮座する大宮氷川神社の所在地の大字も「高鼻」だ。この高鼻地区もすぐ東側には江戸時代までは見沼(御沼、神沼とも呼ばれたらしい)がY字型3方向に湾曲して伸びていて、岬や入江も多い複雑な地形を形成していた。高鼻地区はその西側の高台の突き出た端部分に当っているという。

 何気なく使用している地名にも奥深い由緒、由来があるものだと改めて感じた次第だ。
      
                                    

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高坂神社

 高坂台地は、関東平野西部中央、埼玉県東松山市の南部に広がる 関東ローム層からなる台地である。西側の岩殿丘陵から東側の低地に連なる斜面上にあり、台地の北側を都幾川が、南側を越辺川が流れており、その河川に挟まれているため台地としての面積は狭い。
 この高坂台地内の東側に高坂古墳群があり、築造年代4~7世紀と言われているが、この古墳群から平成23年10月半ばに三角縁神獣鏡が発見された。埼玉県では初めての発見という。ほかに捩文鏡(ねじもんきょう、直径7,4cm、4世紀)、鉄製槍鉋(ヤリガンナ、長さ9,5cm)1本、凝灰岩製管玉15点、水晶製勾玉1個なども出土した。
 高坂地区を含むこの東松山比企地方は、外秩父山地・比企丘陵・岩殿丘陵・松山台地・高坂台地・荒川低地と多様な地形に恵まれ、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵国の一大根拠地の一つであったと言われている。古墳の多さ、古さ、遺跡の数も北武蔵の中でも北埼玉や児玉地方とともに古墳時代に北武蔵で古くから発達した地域といえる。

所在地     埼玉県東松山市高坂1061
御祭神     日本武尊
社  格     旧村社
例  祭     夏祭り(8月1日天王様 御神輿渡し) 秋御日待祭(10月17日)

             
 高坂神社は、東武東上線高坂駅から東方向に400m位の場所に鎮座している。熊谷市から国道407号線を東松山、坂戸方向に南下し、途中高坂神社(東)交差点を右折するとすぐ右側に高坂神社が見える。駐車スペースは参道右側に数台停めることのできる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
             
             
                            一の鳥居と正面参道
            
                                拝    殿
 高坂の地は、地の利を生かして古くから交通の要所であり、また、人も集まり神への信仰も厚かった。高坂神社は高坂の鎮守として祀られ、大同年間(806-10)、坂上田村麻呂がこの地を通った時に、かつて日本武尊が東夷征伐をした故事をしのび、記念にこの地に日本武尊を祀ったという。当初は八剣明神社と称したが、明治42年2月19日に現在名である高坂神社に改称した。
                     
                              本    殿
 
             本殿内部                       社殿左側にある忠魂碑
 社殿の左側奥には小高い丘があり、その頂上には忠魂碑が立っている。調べてみると、この小高い丘は古墳らしく、この高坂台地上には中央部には高坂古墳群、台地北縁部には諏訪山古墳群、南部に毛塚古墳群で、消滅した数を含めると総計約100基存在する。この高坂神社境内にある古墳は高坂古墳群9号墳で、低い墳丘に神社社殿が食い込んでいる状態であるという。
 この9号墳の北側には高坂古墳群8号墳が隣接して存在していて、平成23年発掘調査が行われ4世紀中頃築造と推定される前方後方墳と判明したが、その8号墳と9号墳の間で埼玉県初の出土である三角神獣鏡、正式には「三角縁陳氏作四神二神獣鏡」というらしく、同じ型の鏡が確認されていない新発見のタイプのもの。
           
       拝殿と本殿の間には嘗て古墳の石棺の蓋部分ではなかったかと思われる板石がある。
                 今では本殿と拝殿の通路代わりになっているようだ。

 ところで8号墳は当初円墳と思われていたが、調査の結果前方後方墳の可能性が高いらしい。またこの8号墳からは管玉・勾玉・ヤリガンナの他に捩文鏡(ねじもんきょう)と言われる直径7.9㎝、ねじりひも状の文様が表現された青銅製の鏡が出土された。

 また高坂古墳群の南側で、桜山台地区には、「桜山窯跡群」がある。埼玉県東松山市指定史跡で、南比企丘陵の物見山から南東に延びる尾根の東端斜面に立地しており、発掘調査によって、古墳時代後期につくられた須恵器の窯跡2基、埴輪の窯跡17基、住居跡が3軒発見されている。埼玉県内で発掘された須恵器としては最古に属するものであり(須恵器窯は6世紀初頭頃操業で東日本で最古級。埴輪窯は6世紀前半から後半頃にかけておよそ50年間操業したらしい)、埴輪窯跡と共に古代の窯業生産と製品の流通を知る上で貴重な遺跡であるという。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉古墳群でも使用されたともいう。

 高坂地区を含むこの比企地方一帯には、異常に古墳や窯跡が多い。古墳の数は800基とも。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であったことは「桜山窯跡群」や嵐山町、玉川町にかかる「南比企窯跡群」等をみれば一目瞭然である。

 では5世紀後半から7世紀にかけて、埼玉(さきたま)に君臨していた埼玉古墳群の王者との関係は如何なるものだったのだろうか。ちなみに野本将軍塚古墳以外この地域には大型古墳は築造されていない。この大型古墳を造った一族はその先どのような歴史の変遷をたどったのだろうか。



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野本利仁神社

 野本将軍塚古墳の墳頂には平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祀る利仁神社の社殿が建っている。
 藤原利仁は、名門貴族藤原北家(藤原北家利仁流)で、9世紀末から10世紀前半に活躍(生誕、死没共に不詳)延喜15(915)年に鎮守府将軍に就任。平安時代を代表する伝説的な武将のひとりで、平将門(桓武平氏)、源経基(清和源氏)、藤原秀郷(むかで退治の田原藤太)とともに、関東武士の始祖的存在である。鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦と豊国の娘の子であり、藤原北家魚名流の始祖藤原魚名の孫で、歴きとした名門の貴族の出身である。
  この古墳が将軍塚と呼ばれたのは、藤原利仁が鎮守府将軍であったことによる。古墳北側にある無量寿寺は利仁が武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。

所在地  埼玉県東松山市下野本
御祭神  藤原利仁
社  挌   不明
例  祭   不明
         
 
 利仁神社は野本将軍塚古墳の後円墳部に鎮座していて、名前通り藤原利仁を祀る神社である。
 藤原利仁は911年(延喜11年)上野介となり、以後上総介・武蔵守など坂東の国司を歴任し、この間915年(延喜15年)に下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し、武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。同年に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され、多くの説話が残されている。『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である。
 ちなみに芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線側には野本将軍塚古墳の案内板や古墳碑があり、その先に利仁山、無量寿寺の石標柱がある。寺院の参道の先右側に利仁神社の鳥居がある。ちなみに写真左側には農村環境改善センターがあり、目的地の目印にもなる。
          
           野本将軍塚古墳くびれ部にある利仁神社正面の鳥居とその先の参道
 
 利仁神社に向かうために古墳のくびれ部の参道を真っ直ぐ進み、突き当りを左側、つまり後円墳部に進む。高さ13mの古墳の為、小さな山を登っていくような感じで、周りは鬱蒼とした森林が参道の石段の周囲を包み、社殿の後円墳部頂上まで延々と続く。
          
                           利仁神社 拝殿
 藤原氏からは武家でも、天慶の乱鎮定に関与した藤原秀郷や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁などを出し、その後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を名乗る氏が極めて多く、わが国の苗字全体の五、六割が藤原姓と称していたともいわれる。
 この野本の地も藤原利仁の末裔でもあり、野本氏の始祖とされる「野本基員(のもともとかず)」がこの地に祀ったものではないかと伝えられている。藤原利仁の後裔を称する氏族は多く、藤原秀郷と並んで藤原家の武家社会への進出を象徴する人物と言える。また木曽義仲幼少期の命の恩人で『平家物語』でもその討ち死にシーンで涙を誘う斎藤実盛(長井別当)や、歌舞伎『勧進帳』で弁慶と安宅の関で問答する富樫氏はともに利仁流藤原氏と言われている。
 
          
                   拝殿に掲げられている利仁神社の扁額

 しかし、この中には後世の仮冒も相当多くあり、他の古代氏族の後裔が藤原姓の雄族の養子、猶子となるとか、先祖の系を藤原氏に強いて接続させたという類例も、武家関係では非常に多い。地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、各地に分布が多いので一概にはいいにくいものの、むしろその多くが本来は藤原姓ではなかったという。

 前出の野本基員は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士で野本氏の家祖とされる人物である。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員となる。基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
 また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
 基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
 野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。
                                                    ウィキペディア引用




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