古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大黒部愛宕神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市大黒部12
             
・ご祭神 軻遇突智命(推定)(本地)本地仏勝軍地蔵
             
・社 格 旧宮鼻村大黒部鎮守・旧無格社
             
・例祭等 天王様 715日 例祭 724 
 東松山市大黒部地域は、都幾川と越辺川に挟まれた台地上に位置する。この地域は嘗て『新編武蔵風土記稿 宮鼻村』の項において、小名として「大黒部」が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名と「宮鼻村の地と犬牙なり」とあった。この「犬牙」とは、犬の牙が入りくんでいるように、土地の境などが互いに入りくんでいるさまという。現在、大黒部地域は南北520m程、東西120m程度の南北に細長い長方形の地形であるのだが、開発当時はどの程度両村の人々の移住等による土地の割り振りがあったのであろうか。
        
                 
大黒部愛宕神社正面
 東武東上線高坂駅東口から駅前通りを東行し、「高坂郵便局」のある十字路を右折する。川越児玉往還を600m程南下し、十字路を左折すると右手に大黒部愛宕神社が見えてくる。地図を確認すると、丁度高坂神社の南側で、直線距離にすると約500mのところに鎮座している。
        
                    拝 殿
 愛宕神社  東松山市大黒部一二(宮鼻字大黒部)
 当社は大黒部の鎮守として祀られている。『風土記稿』宮鼻村の項には「大黒部」の小名が載り「隣村毛塚村と入合の地なり」のただし書きがある。一方、毛塚村の項にも「大黒部」の小名が載り「宮鼻村の地と犬牙なり」とある。これらの記述は、大黒部の地が宮鼻・毛塚両村の出作地として開かれたことを物語る。その後、両村から人々が移り住むようになると、一村として意識されるようになり、当社が鎮守として祀られるに至ったのであろう。
 同書によれば、毛塚村の檀那寺であった真言宗愛宕山竜円寺の境内に愛宕神社が祀られており、恐らくこの社を勧請したものであろう。創建は、『武蔵志』の大黒部の項に「寺社ナシ」とあるが、『風土記稿』には一社として載ることから、享保二年(一八〇二)から文政十一年(一八二八)にかけてのことと推察される。
 明治初年の社格制定に際し無格社となった当社は、明治四十一年に宮鼻の本村にある村社八幡神社に合祀となった。これにより社殿は八幡神社に移され、愛宕山と呼ばれる小高い社地は切り崩された。この時、土中から金環が出たと伝えられる。その後、年を経るにつれて旧氏子の中から愛宕神社を再び鎮守として祀ろうとの気運が高まり、ついに昭和三十九年に遷座が行われた。更に同五十二年には社殿の新築がなされ、名実ともに大黒部の鎮守としての再興が果たされた。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 宮鼻八幡神社との合祀当時は、八幡神社の祭事の度に大黒部の代表が参列していたが、愛宕神社への信仰は、従来の祭日に地元の公民館に旧氏子が集い、掛け軸を掛けて祭事を行うという形で存続された。 この根強い信仰が社の再興へとつながっていったのであろう。
 なお、掛け軸は文政六年(1823)に大黒部村中によって奉納されたもので、愛宕大権現の本地仏勝軍地蔵とその眷属が描かれているという。
 
  左から境内社・八坂神社と愛宕大神の石碑         境内にある「記念碑」

 記念碑
 当地区は古墳時代より開拓され、此の地は愛宕山と称され、愛宕神社を奉斎し、崇敬の誠を捧げて来たるも明治四十二年一月神社振興の国策により宮鼻八幡神社境内に合祀となる。
然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。

然るに氏子総意により昭和三十九年三月六日旧地大黒部に再び遷座す。其後氏子は益々発展するにより、社殿新築をなし祭儀を厳修し、神社本然の姿にすべしと、本殿、幣殿、拝殿、鳥居を建て、昭和五十二年三月六日御遷宮奉祝大祭を執行す。
        
                 大黒部愛宕神社遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等

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岩殿熊野神社

 地主神(じぬしのかみ、ぢぬしのかみ)は、日本の宗教(特に神道)における神の一類型である。
 日本の神道などでは、「土地ごとにそこを守護する地主神がいる」とされている。土地は神の姿の現れであり、どんな土地にも地主神がいる、とする説もある。神社や寺院に祀られることが多く、その地主神は、その神社、或いは寺院が建っている場合は、寺社創建以前に鎮座した神のことをいい,地主大明神,地主権現などと呼ばれることもある。
 古くは『古語拾遺』(9世紀成立)にあり、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を営むとある。『延喜式』(10世紀成立)では、神祗五(神祗編第五巻)二十二条にて斎宮祈年祭に関して地主神の記述があるほか、同巻六十条にて記述がある。
 地主神への信仰の在り方は多様であり、荒神・田の神・客人神・屋敷神の性質がある地主神もいる。一族の祖先が地主神として信仰の対象になることもある。地主神を祀る(まつる)旧家からの分家に分祀されたり、屋敷の新設に伴い分祀されることもある。御神体も多様で、自然石、石塔、祠(ほこら)、新しい藁束、御幣(ごへい)などがある。祀る場所もまた多様で、神社、寺院のほか、丘や林の祠(ほこら)、屋敷、屋敷の裏山で祀り、一族の墓が神格化する地域もある。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市岩殿1239
             
・ご祭神 大山咋命
             
・社 格 不明
             ・例祭等 
ケツアブリ行事 71
 東武東上線高坂駅西口から通称「彫刻通り」を西行し、「西本宿」交差点を左折し、埼玉県道212号岩殿観音南戸森線を1㎞程西行する。埼玉県こども動物自然公園の駐車場が見える「こども動物自然公園」交差点を右折、1.5㎞程先にある綺麗に岩屋観音の参道を進むと、進行方向右手に岩殿熊野神社の鳥居が見えてくる。 
        
                  
岩殿熊野神社正面
 この岩殿観音(巌殿山正法寺)の参道は600m程あるのだが、正法寺へ続く道は真っ直ぐ続く門前通りの参道で、道路もただ舗装されているのではなくて、ちょっと洒落た石畳調となっている。更に参道の両側には典型的な門前町を形成していて、嘗ての店や宿坊など屋号の看板があり、門前町としての歴史や昔の賑わいを感じることができる場所である。

『日本歴史地名大系』 「岩殿村」の解説
 葛袋(くずぶくろ)村の南西に位置し、村域は岩殿丘陵の中心をなす、なだらかな岩殿山(最高点は物見山一三五・六メートル)の北麓から西麓にかけてを占める。物見山を水源とする九十九川(越辺川支流)が村域を南東流する。松山領に属し(風土記稿)、北西は神戸村、西は本宿村。物見山の北方中腹には坂東三十三所の一〇番札所である正法寺(岩殿観音・岩殿寺)があり、集落は同寺の門前として発達した。西部には小名望月(もちづき)がある。正法寺蔵の元亨二年(一三二二)銘の梵鐘に「武州比企郡 岩殿寺」とみえる。康安元年(一三六一)八月二六日、「ひきのいわとの」の黒河正願が紀州熊野那智山御師村松盛甚に添状(熊野那智大社文書)を送っている。
 貞治二年(一三六三)下野の芳賀禅可(高名)は鎌倉公方足利基氏に反旗を翻し、基氏軍と禅可の子高貞・高家の軍勢が苦林(にがばやし)野(現毛呂山町)および岩殿山で戦っている(「鎌倉大日記」生田繁氏蔵、「源威集」東京大学史料編纂所影写本など)。同年一〇月日の中村貞行軍忠状写(集古文書)に「去八月廿六日、武州岩波(殿カ)山御合戦」、同年一一月日の畑野六郎左衛門入道常全軍忠状(畑野静司氏所蔵文書)には「同卅□(日カ)石殿山属当御手候」などとみえ、八月二六日から始まった岩殿山合戦は三〇日まで続き、基氏方の勝利に終わった。

 
岩殿観音の参道沿い、後方には鬱蒼とした森の中  勾配のある石段を登った山腹に社殿は鎮座 
     の間から石段や社殿が見えてくる。

 岩殿熊野神社は、岩殿山の地主神として養老年中(717724)に創建した岩殿観音堂とほぼ同時期に創建したものと考えられ、当時天台宗だった岩殿観音堂の影響で、比叡山の地主神である八王子権現社を祀ったのではないかと伝えられている。以來八王子権現社として祀られていたものの、明治維新後の神仏分離令に際して熊野神社と改称したという。
       
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 岩殿村』
 八王子權現社
 此社は古き鎭座なるにや、下に載たる天正三年上田案獨斎が出せし制札に、岩殿八王子山と見えたり、今も本堂の後を八王子野とも呼べり、

 熊野神社  東松山市岩殿一二三九(岩殿字藤井)
 岩殿観音堂別当正法寺の縁起は、岩殿山について「旧神仙遊栖ノ地ニシテ遠ク塵境ヲ阻チ玄ニ人跡ヲ絶ノ幽洞ナリ。塁塁壁立シテ四望楼閣ノ如クナレバ土人称シテ岩殿山ト云」と記している。これは比企丘陵の奥深い景勝地にある岩殿山をよく形容していると言えよう。
 岩殿山は古代、神々が依り給う盤座として祭祀が行われたと考えられるとともに、高坂を貫流する九十九川の水源に近いことから、水上信仰にも深いかかわりがあったことが想像される。
この岩倉山の北に鎮座し、古来、岩殿山の地主神とされてきた当社は、明治初年までは「八王子権現社」と呼ばれ、その勧請は岩殿観音堂の草創とほぼ同時期と伝えられている。寺伝によると、岩殿観音堂は、養老年中(七一七-二四)、沙門逸海によって創建され、当時は天台宗の寺院(中世、真言宗に改宗)であった。このことは近江国の比叡山延暦寺の法流を継ぐ逸海が比叡山の地主神である八王子権現社(現在の牛尾神社)と、延暦寺の護法神である山王権現社(現在の日吉大社)の二社を寺の創建に併せてこの岩殿に勧請したことが考えられる。ちなみに、比叡山の八王子権現社の霊威は、『梁塵秘抄』に「峰には八王子ぞ恐ろしき」と語られている。
 中世、岩殿観音堂は坂東三十三所霊場の札所十番に定められ、その本尊である千手観音詣の人々で栄え、「本坊六十六坊也、関東并北国ニモナラビナキ大ガラン、七堂悉皆カワラブキ也」と言われるほどであった。しかし、永禄年間(一五五八-七〇)の松山合戦の際に兵火に罹り、堂宇ことごとく灰燼に帰した。この時、岩殿山の鎮守である当社をはじめ、山内の諸祠も衰微してしまったのである。
 これを再興したのが栄俊で、天正二年(一五七四)、真言宗醍醐寺無量寿院の法流を継いで岩殿山中興の祖となった。当社もまた、これに時を経ずして再建されたものであろう。下って江戸時代、岩殿の観音堂は正法寺が別当として管理するところとなり、当社の祭祀や祈禱は、正法寺の配下で本山派修験の理音院(中の院)によって行われるようになった。
 明治に入ると、神仏分離の政府布達を遵守し、当社は社名を熊野神社と改め、理音院は復飾して児玉崖と名乗り、神職となった。歴史的な経緯から考えると、この際、当社は「八王子神社」と改称するのが妥当であり、熊野神社となるのはいささか唐突な感じがしないでもないが、理音院がいわゆる熊野修験であったことを考えると、神職となった児玉崖の意見が強く反映された結果によるものであろう。
 なお、明治期からの祭祀は、神前法楽などの仏教色が廃され、元旦祭・新年祭・祈年祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭が神職の奉仕により行われている。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
                               境内社・雷電神社
       
                               社殿からの一風景

  岩殿山観音堂・正法寺は真言宗智山派の寺院で、岩殿山修善院といい、また、岩殿寺ともいう。
 源頼朝の命により、比企能員が復興した古刹であり、天正二年(一五七四年)僧栄俊が中興開山となっている。天正一九年(一五九一年)徳川家康より寺領二五石の朱印地を与えられた。
 観音堂は養老年間(七一七~七二四年)僧逸海の創立と伝えられ、正法庵と称し、鎌倉時代に坂東十番の札所となった。千手観音が祭られており、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番とセットされる札所の一つ。
 源頼朝の妻、政子の守本尊として信仰が厚かったといわれている。仁王門の仁王は運慶の作といわれている。
 当寺には、延暦一〇年(七九一年)坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命によって奥州征伐に向かう途中、この観音堂に通夜し悪龍を退治した伝説がある。
 なお、正法寺には、県指定史跡の六面幢、県指定歴史資料の銅鐘、市指定歴史資料の鐘楼がある。
        
       表参道から石段を少し登った所にある「巌殿山」の額を掲げた仁王門
        
                仁王門から石段を上り終えた右側にある鐘楼と銅鐘
 銅鐘は、元亨2年(1322年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷が付いており、これは天正18年(1590年)に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回した時の傷だと伝えられる。鐘楼は、元禄15年(1702年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる草葺き屋根の建物で東松山市内では最も古い建造物として、東松山市有形文化財に指定されている。
        
                              観音堂
 養老年間の創建と伝える。寛永、天明、明治と3回再建され、現在の建物は明治11年(1871年)の火災により観音堂が焼失した為、翌年高麗村白子(現飯能市)の長念寺から移築されたものである。本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられる。
             
              東松山市指定天然記念物の大イチョウ 
       
       仁王門から東にまっすぐに延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、
         嘗ての正法寺と門前町の繁栄の面影を残している風景である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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下野本天神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本969
              
・ご祭神 菅原道真公(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0166884,139.42102,18z?hl=ja&entry=ttu
 当日川島町での神社散策が大方終了し、帰路についていた途中で、気になる場所をナビで確認し、そこで出会った社。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東松山インター方向に進路をとり、254号と交わる「古凍」交差点から900m程進んだ場所に鎮座していて、野本日枝大神社からは南東方向で直線距離で430m程しか離れていない。
 専用の駐車場はない。下野本天神社の鳥居と県道沿いで鳥居の東側に隣接している「地蔵尊石塔」のお堂周辺に適当な駐車スペースはあり、そこ周辺の通行に支障のない場所に停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                              
下野本天神社鳥居正面
                 鳥居の右側にある社号標柱には「村社」と刻印されている。
 下野本天神社周辺の地形を確認すると、概ね新江川の左岸は台地、右岸は低地であり、新江川は都幾川が形成した沖積地の中を流れているようだ。新江川附近が16m17m程の標高であるのに対して、その北側の県道沿いが平均18.5mであるので、県道付近はその北側にある台地に続く上り坂が多く形成されている。
 因みにこの地域の小字は「曲輪」。古の村名であり、延宝七年屋代文書に「曲輪村」との記載がある。嘗てこの地には「館跡」や「城址」等あったのであろうかと勘繰りたくなるような小字名である。
        
            高台・ないしは塚上に鎮座する下野本天神社
          このアングルを見た限りでは意外と立派な社である。
 木製の鳥居を過ぎると左側に高さ約3m程の盛り土の台地があり、その上に南に広がる肥沃な沖積地を見守るように祀られている。すぐ南側には新江川があり、その南に都幾川が流れる。新江川も都幾川も過去に幾度も氾濫して水田に大きな被害をもたらしてきた。この社は、天の神(天神)に洪水を鎮め、水害が起こらないように祈る地域住民の願いが込められたものと推察することができよう
        
                                        拝 殿
 残念なことにこの下野本天神社に関して詳細な由来等書かれている書物やHPでの説明は筆者の調べた限りない。但し短いながらも『新編武蔵風土記稿』には以下の記述がある。
・十二天社 曲輪にあり、聖徳寺持ち、『新編武蔵風土記稿』より引用
 嘗てこの天神社は「十二天社」と呼ばれていた。
「十二天社」の由来として、古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものであり、仏が人々を救済するために神の姿をかりて現れるという、本地垂迹説にもとづくもので、鎌倉時代から室町時代にかけて、全国の神社で本地仏が定められた。その後、それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。
 さて下野本天神社はどのような由来で嘗て「十二天社」と呼ばれていたのだろうか。
 
   拝殿に掲げてある「天神社」の扁額        参道左側に祀られている境内社。
                               詳細不明。
        
                          
「地蔵尊石塔」が祀られているお堂
 天神社参道の左隣お堂内に祀られている。赤い前掛け、帽子だけでなく、不思議な衣装を身にまとって、今日も道行く人々の安全を見守っているように見える。お堂の右隣に2つ石塔があるが、幾度かの水没や長年の風雪の影響もあるのか、損傷が進み、建立年代不詳です。右側の石碑は庚申塔に見えるが、左側のそれは分からず。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
Wikipedia」等

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上唐子氷川神社

 東松山市唐子地域は、市西端部に位置し、すぐ西隣は嵐山町菅谷地域となる。この地域は地形的に見ても経済的な交流も東松山市街地よりも国道254号線、埼玉県道344号児玉往還道を通じて西隣の嵐山町や北側に接している滑川町月輪地域との繋がりのほうが古くから強かったのではないかと思われる。
 地域の南部には嵐山町との町境ともなっている都幾川(ときがわ)がゆったりと蛇行しながら南東方向に流れている。都幾川は比企郡ときがわ町大野付近から流れ、途中、比企郡嵐山町大字鎌形で槻川が合流し、最終的には川島町長楽 (坂戸赤尾の白山神社付近) で越辺川に合流する。
 前々から気になっていた事項であるが、この都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称で正直まぎらわしい。嘗て『源平盛衰記』でも「月田川」と記していたが、風土記稿にはそのことに関して、「月田川とは槻川を槻田川と間違って記しただけで、青鳥村を流れるのは都幾川である」ことも補足として説明している。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1674
             ・ご祭神 須佐男命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭り723日に近い土日曜日 七鬼神社の祭典827
                  秋祭り(おくんち)1017
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352261,139.3352844,16z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進し、その後650m程進んだ「南中学校前」交差点までは前項下青鳥氷川神社と同じ。この交差点を右折し、埼玉県道344号児玉往還道に合流後、4㎞程東方向に進行し、「上唐子」交差点を左折、今度は同県道172号大野東松山線に入り、そこを道なりに南西方向に600m程進んだ右側に上唐子氷川神社が鎮座している場所に到着することができる。
 周辺には広い駐車スペースがあり、そこから社が鎮座している場所に移動する。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、高台上に社はある為、一見すると分かりづらい。県道から右側に伸びる道幅の狭い道があり、徒歩にて移動し、参道正面の鳥居に到着する。
        
                        高台上に鎮座する上唐子氷川神社

 写真で見る通り、県道沿いにありながら社の手前に立つと、周囲は樹木に囲まれた静寂な空気が日頃の喧騒を振り払うように包みこみ、階段下から境内方向を眺めると厳かな雰囲気が漂ってくる。
 暫く社前で挨拶、今回の出会いに感謝し、頭を下げてから参拝を開始する。今まで何度となく書いているが、高台上・丘陵地面に鎮座する社は、平野地に鎮座する社とは違う独特な雰囲気が周辺を包みこみ、そのどれも「色」が違う。筆者の少ない経験上からいうこともおこがましいことだが、その「色」の違いを感じることもまた社参拝の意義であると信じている。
        
                 一段目の階段を登りきるとまずは神明系の鳥居に達する。
鳥居の先には、参道の階段の両脇に杉の大木が屹立し、鳥居の門の間からは拝殿が見える構図。
     このような配置一つ取ってみても、社の神格を自然におし上げることができる。
        
              鳥居の手前右側に設置された案内板
 上唐子氷川神社 案内板
 所在地 東松山市上唐子字沼端一六七四
 由緒
 氷川神社は上唐子の鎮守として祀られている神社です。 ご神体は須佐男命です。いつ頃の創建か明らかではありませんが、「新篇武蔵風土記稿」に「氷川神社、村の鎮守なり。近き頃までに社内に慶長十年(一六〇五年)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されていることから、一六〇五年以前であったようです。
 慶安三年(一六五一年)に唐子村が上下に分村していたことが分かっていますから、この分村を機会に、氷川神社が上唐子の鎮守になったと思われます。
 明治五年六月、上唐子村の村社となりました。
 近年の大きな出来事として昭和六十一年六月二十二日、不審火によって本殿が全焼しました。又平成二十年八月二日、放火により再び本殿を焼失しました。氏子一同再建に力を合わせ、平成二十一年十二月十二日、本殿のの竣功祭、遷座祭を執り行いました(以下略)
                                      案内板より引用

        
                            階段下からのアングルがまた良い。
 
   階段を登りきると広い境内に達する。       再度階段下の鳥居方向を撮影。
        
                                    拝 殿
 氷川神社 東松山市上唐子一六七四(上唐子字沼端)
 当社は大字上唐子の鎮守として祀られている。鎮座地は、上唐子の西方の高台にあり、林に囲まれた静寂な地である。
 創建については明らかでないが、『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、近き頃まで社内に、慶長十年(一六〇五)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されている。
元禄元年(一六八八-一七〇四)までには、唐子村が上下に分村していたことから、この分村を機に上唐子村の鎮守となったものであろう。
 別当の常福寺は、下青鳥村浄光院門徒で、無量山佛音院と号する天台宗の寺院であったが、明治 初年の神仏分離により廃寺となった。その跡地は、当社の東方三〇〇メートルほどの所である。
 明治六年、古くから村の鎮守であったことから村社に列した。
 造営については、慶長十年の再建の後、慶応二年(一八六七)に社殿大破に付き新たに建立されたことが『明細帳』に記されている。近年では、昭和六十一年六月二十二日に不審火によって社殿が全焼したため、二年後の同六十三年四月に氏子崇敬者の協力のもと、再建がなされている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 上唐子氷川神社が鎮座する地は、都幾川が
蛇行しながらも南東方向に流路を変える左岸高台上にあり、直線距離にして1.5㎞程上流部は支流である槻川が都幾川と合流していて、河川としても流水量が増え、河口幅が広がる地域である。当然この地に社を創建した目的も「水難からその地域の民を守る」為に氷川様を勧請・創建したのであろう。
        
               拝殿左側に並んで祀られている境内社群。
      左から「七鬼神社・疫神様」「八雲神社」「天神社・日吉神社」「稲荷神社」

 実のところ、県道沿いに社があることは、参拝日前日に確認していたが、当地に行ってみて、駐車スペースから参拝を行う際に、ちょっとしたミスを犯してしまった。
 参拝する際に、県道沿いに見えた石段があったので、そこを上がってみると、そこは社務所らしき建物に通じるルートで、正面の鳥居がある場所ではなかった。
 
 県道から見える石段(写真左)。その石段を登ると「飯縄大善神」と刻印された石碑がある(同右)。「飯縄」とは信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神で、一般的には炎を背にし、利剣を持ち、白狐の上に乗る烏天狗めいた姿で描写されていて、関東以北の各地で熱心に信仰され、特に高尾山薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。
 
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰されたという。
 その飯縄信仰とこの地にどのような経緯があり、このように祀られたのだろうか.
 
「飯縄大善神」の石碑から県道側の斜面上に設置されていた「富士浅間神社」の石碑(写真左)。基礎部分には「登山記念」と刻印されている。またその奥にも祠があるが(同右)、詳細は不明。


 ところで冒頭で掃海したこの都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称だ。『新編武蔵風土記稿』にもそのことに触れ、「比企郡之一 郡国 総説」には以下の記載を載せている。

【都幾川】
 郡の中程を流る。水源は秩父郡大野村の山間より出、郡中慈光山の渓澗より湧出する清水と合して一条の川となる。慈光山を都幾山と号す故に此川を都幾川と号すと云ふ。又郡西別に槻川ありて下流、この川に合す。ときとつきとは音も近く似てまぎれやすし。
『源平盛衰記』に木曾越後へ退きにし頼朝勝に乗に及ずとて武蔵国月田川の端あをとり野に陣取とあり、
 今下青鳥村は郡の中央にて則この川槻川と合せしより遙に下流の崖にあり。されば彼記に月田川と記せしは此川をさすこと明なり。田の字もし衍字ならんにも当時下流までつき川と号せしならん。されど今は槻川と合てより下流はすべて都幾川と号して槻川とはいはざるなり。此水流都幾山の下より艮へ流れ、鎌形村の北にて槻川とあひ、東流して又巽にをれ、上伊草村の西にて越辺川に入る、川路七里ばかり、上流は山間なり。下流平地の間には堤を築きて水溢にそなふ。河原の濶二百間、水清浅なれば所々に歩行渡する所あり。冬春の間ばかり橋を架して往来を通す、
槻川】
西の方にあり。水原は秩父郡白石村の山間より出、郡中腰越村にいり、東の方へ屈曲して小川村に至る、此所にて兜川と云小流と合して一となり、鎌形村の北に至りて都幾川に入,
水源よりこゝに至リて三里ばかり、川幅大丁五十間,

 埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院である慈光寺(じこうじ)は、山号を都幾山(ときざん)といい、都幾川の由来ともなっている。慈光寺は江戸時代平村に所在し、平村と雲河原村は嘗て都幾庄(とき)を唱えていて、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山 (ときざん) からその庄名もきたという。
 但し同時に平安時代中期に作られた辞書として有名な『和名類聚抄』には、比企郡都家郷を載せているが、「つけごう」と読み、更に平安時代末期に写本された『高山寺本』に「豆計」、室町時代中期の『東急本』、17世紀初頭の版本である『元和古活字本』に「都介」や高山寺本の系統に近いといわれる名古屋市博物館本にはわざわざ「ツケ」の訓がふってある。

 つまり都幾川の「都幾」は「とき」よりも「つき」と読む可能性が高い書簡が多く存在することは確かであるだろう。
 またこの「つき」地名に関しては、浦和市に鎮座する「調神社」にも関連する事項ではあるが、今回はかなり長くなったので、ここらで筆を下ろしたい。



参考資料「和名類聚抄」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」  
    Wikipedia」境内案内板」等

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下青鳥氷川神社

 東松山市青鳥地域、この地域名である「青鳥(おおどり)」地名由来は今一つハッキリとは分からないが、一つの説として、比企郡総社である「伊古乃速玉比売神社」が関係しているという。『新編武蔵風土記稿 伊子村条』には以下の記載がある。

「伊古乃速玉比売神社 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近隣石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに比内青鳥と云所は、「小田原役帳」に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに間二里餘を隔てたり、また比社式内の神社と云うこと、正しき證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり」

 ここで「青鳥」という地名は伊古乃御玉比賣神社の一の鳥居があった石橋村小名内青鳥であり、「鳥居(とりい)」が「青鳥居(あおとりい)」→「青鳥(おおどり)」と語音が変化してできた地名であるような説明がされている。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市下青鳥64
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧下青鳥小名金谷鎮守
              
・例 祭 元旦祭 春祭り 43日 夏祭り 719日 
                   秋祭り 
1123
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0201599,139.3940381,16z?hl=ja&entry=ttu
 下青鳥氷川神社は東松山市下青鳥地域内に鎮座する。この下青鳥地域は東西に長く『新編武蔵風土記稿』にも「四隣、東は上下押垂の二村に隣り、南は都幾川を隔て元宿村に接し、西は石橋村の内、小字宿青鳥に続き、北は野本村なり、東西十五町、南北五町許、家敷六十、水損の地にして、用水は都幾川の水を沃げり(中略)」。と記載がある。「町」とは江戸時代以前に用いられた「条里制」を基本とした距離測定方法で、日本では古来「尺貫法」で長さや面積を表現した。「尺貫法」は東アジアで広く使用されていて、尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。
 条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた。したがって1町は約109 mとなり、風土記稿に記されている「東西十五町、南北五町」は現代の距離に直すと「東西1.6㎞、南北0.5㎞」程になる。
 更に風土記稿では小字「金谷」に関しても「当所は廣き地にて、土人は一村のごとく金谷村と云へり」と記述されていて、この「金谷」の鎮守様が下青鳥氷川神社である。
        
                             
下青鳥氷川神社正面
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進する。650m程進んだ「南中学校前」交差点を左折し、350m先のT字路を右折し、道幅の狭い農道を進むと「上郷公会堂」が左手に見え、その東隣に下青鳥氷川神社は鎮座している。
 社に隣接している上郷公会堂の駐車スペースを利用してから参拝を行う。
        
       珍しい瓦つきの両部鳥居、彩色もない素朴なフォルムが逆に美しく感じる。
 鎮守地はインターチェンジ付近であるにも拘らず、どこか懐かしさも覚えるほどの田畑風景の中に民家が立ち並ぶ地域一帯。社周辺は静かで道路も昔基準の道幅が狭い農道。参拝する地元の方々も筆者が参拝中全く出会うことなく、心静かにお参りすることができた。
       
           鳥居を過ぎて参道を進み、その先に鎮座する社。 
境内は綺麗に手入れもされていて、参道周辺にある樹木もしっかりと剪定されている。また境内の所々に花も植えられていて、周辺の方々の社を大切に守ろうとする日々の努力も、実際に参拝することによって実感することができた。
        
                     拝 殿
                 拝殿の手前周囲にも花が植えられていて、気持ちが和む。

『新編武蔵風土記稿 石橋村条』において、嘗てこの村の小字には「宿青鳥」「内青鳥」「石橋」の3区に分かれていて、昔は「宿青鳥」「内青鳥」それに「下青鳥」を合わせて一村であったが、後分けて「宿内下」が3村となり、その後又「宿青鳥」「内青鳥」が石橋村に属し、「下青鳥」は元のごとく、1村として至っているとのことだ。

「宿青鳥」
村の北を云、土人の説に昔宿駅ありし地にて今も町割の跡残れり、よりて宿青鳥の名もありと云、
「内青鳥」
村の中程を云、当所に城蹟あり、山林にして反別凡二町許、今も西南の方には殻堀の跡あり、相傳ふ青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと、是いかなる人といふことを知らず、按に隣村羽尾村の鎮守に恒儀の社あり、是れ青鳥恒儀の霊社にて天長六年九月廿日卒せし人なりと云、又当所の東に長さ一丈余、幅二尺五寸許の古碑あり、表面に応安二己酉卯月、施主〔敬白〕、右志者、引上道善〇霊七ヶ年之忌日〇〇件とあり、いかなる故にや、土人はこの碑をさして虎の御石と云、

 上記「宿青鳥」の地名に関して、昔昔宿駅ありとして「宿」の謂れは記載しているが、肝心の「青鳥」に関しては全く説明がない。
「内青鳥」に関しても、「青鳥」に関しての説明はないが、青鳥判官藤原恒儀が住んでいた城跡があって、その人物の本拠地は滑川町・羽尾地域に鎮座する堀の内羽尾神社との事だ。
        
                         拝殿から眺める境内の一風景

 下青鳥氷川神社から北西方向で、関越自動車道の左手・国道254号線北側には「青鳥城跡」がある。市内石橋に所在する青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城で、本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存している。
        
                  青鳥城跡 案内板

 青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていない。もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状である。
『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述があるが、城跡や館跡の存在を示す記述はない。
 
    本丸付近にある「青鳥城址」の石碑      本丸付近 想像した以上に広大な敷地        
市内神戸(ごうど)地域に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれている。また『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もある。
 また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述がある。
       
             
二の郭外側の堀(写真左・右)。堀は深く、強固な造りとなっている。

 様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されているようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」
Wikipedia」等

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