古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

柏崎鷺大神社

 東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」は,面積5hrに及ぶ古墳時代の大遺跡である。
 古墳時代前期の集落址で、
1954年以来5回にわたって発掘調査され,総数 150ヵ所以上の竪穴住居址と,多量の遺物 (土器,石製品,土製品,鉄器など) が出土した。出土した遺物のなかには,従来未知の古墳時代前期の土器が存在し、遺跡にちなんで五領式土器と名づけられた。竪穴住居址は,古墳時代前期から奈良時代まで各時期のものがすべて含まれていて,古墳時代の竪穴住居の構造と集落形態の変遷が具体的に把握できた。五領式土器を出土する竪穴住居址は,中央の広場を囲んで計画的に配置され,農業共同体の単位集団が初めて明らかにされた。また鬼高式土器を出土する古墳時代中期の竪穴住居址には,全てかまどが付設され,竪穴生活の発展が顕著であった。
 遺跡は未発掘の場所がまだあるが,東国の古代集落の研究に,多くの資料を提供する重要な遺跡であることは間違いない。
 「埼玉の神社」にも記されているが、柏崎地域内には、「五領遺跡」のような古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡等の遺跡が確認されている。また、隣接の「古凍(フルゴオリ)」という名称自体比企郡の古えの郡家の地(古郡)であったのではないかと推測され、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すと同時に、この地域の文化面及び経済面においても中心地であったことが想像できよう。社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見され、現在本殿に神体として奉安されている大きな自然石が、このことを暗示しているのではなかろうか。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市柏崎744
              
・ご祭神 大国主神
              
・社 格 旧村社(推定)
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0272572,139.4181091,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本日枝大神社から一旦北上し、国道254号線「東松山バイパス」高架橋の下を潜り、突き当たりのT字路を左折する。進行方向右手にスーパー銭湯があり、その手前の路地を右折し300m程進み、更に左折すると正面に柏崎鷺大神社の鳥居が見えてくる。
        
                  柏崎鷺大神社正面
 柏崎鷺大神社が鎮座するこの地は標高30m程で、東松山台地の東方に長く張出した舌状台地の部分に位置する。東松山市内の市野川右岸に位置する柏崎、古凍、今泉各地域には、通常埼玉県東部に鎮座している鷲・鷲神社が飛び地のように3社珍しく分布している。
 
         石製の鳥居           鳥居の社号額には「鷺大神社」と表記
        
                             参道の様子
               境内は日々の手入れも行き届いていて、さっぱりとした第一印象。
        周囲には民家も少なく、静かな境内。どこか牧歌的な雰囲気もある。
        
        参道を進むと拝殿手前で右側に「鷺大神社御造営記念碑」が設置されている。

「鷺大神社御造営記念碑」
 鷺大神社は當所柏崎鎮守にして大国主神を主祭神と齋き奉る古社なり むかし 天神あまねく民を慈み給い医薬の道を弘め給い謙譲忍耐和衷協同もって国土を開拓し民生を安んじ給えり されば萬人齋しく神徳を景仰する中にもわれらの祖先はこの地を神奈備と定め社殿を造営して代代祭祀怠(むす)厚き神(護)の下孜孜として村づくりにいそしみ来れり
 爾来幾星霜社殿の毀損老朽甚しく再建の議澎拝として起る 時あたかも天皇陛下御在位満五十年に當り佳辰を奉祝して社殿及び社務所再建を決議す
 即ち昭和五十一年四月三日假遷座祭及び起工式を執行同年十一月二十一日竣功同夜浄〇の禮に壮麗清〇の社殿に神霊を奉安翌二十二日奉祝祭を執行す
 思うにこの御〇〇は神社神道の根本義たる敬神崇祖尊皇の精神を遺憾なく発揚せる當代氏子の快挙と謂うべし
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に傳えんとするものなり(以下略)
                                                      「鷺大神社御造営記念碑」碑文より引用
*御影石の光の反射等の影響で解読不可能な所には〇、ないしは( )を付けています。
ご容赦の程を願いたく思います。旧字体はそのまま記しています。

 流石に埼玉県神社庁長が選文した文章は美しい日本語を用いて記されている。中には旧字体もあり、現代を生きる筆者の拙い語学力では到底理解できない所もある。難しい単語には一々辞書等で確認をしたので時間がかかる作業であったが、「一音・一義を大切にする」日本語の奥ゆかしさを改めて知る良い機会ともなった。

 ところで選文した文章の中には、難しい単語が幾つかあり、後学のためこの場を借りてご説明する。
澎拝(ほうはい)
 ・水がみなぎり逆巻くさま ・ 物事が盛んな勢いでわき起こるさま
孜孜(しし)として」
 ・学問、仕事などにいっしょうけんめい励み努力してやすまないさま
 ・怠けないで熱心につとめるさま
佳辰(かしん)」
 ・めでたい日のこと。よい日柄。吉日
「假遷座祭」
 ・神社で一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、神様を修繕工事中の間別の場所へお遷しする「假殿遷座祭」を施行するのが習わしという。
        
                     拝 殿

 鷺大神社 東松山市柏崎七四四(柏崎字見入)
 東松山台地の北部を侵食して流れる市野川は、柏崎の辺りで北から東に大きく川筋を変える。柏崎の名はこのように市野川の屈曲点に当たったためにできた地形によるもので、「柏」が山麓・砂丘・自然堤防などの傾斜地を意味し、「崎」が川の屈曲点に土砂が堆積して生じた自然堤防の先頭(崎)を表している。当社の社名もこのような地形にちなんでいると考えられ、高台の「崎」に祀られた神が、後に「鷺の宮」と呼ばれるようになったのであろう。
 地内には、古墳時代初期を中心に弥生期から平安期に至る集落跡などの遺跡が確認されている。また、隣接の古凍は比企郡の古えの郡家の地であったと伝えられ、当地同様に多くの遺跡が発見されている。これらは、当地の古い開発を示すとともに、この地方の文化の中心地であったことを物語る。恐らく、社伝に祀られる以前から、古代の人々によって祭祀が営まれていたものであろう。現在、本殿に神体として奉安されている大きな自然石(昭和五十一年本殿改築の際に床下から発見された)が、このことを暗示する。
 当社の歩んできた歴史を語る史料の一つに、宝暦六年(一七五六)二月一日付で神祇管領卜部兼雄から拝受した「鷺大明神幣帛」がある。この幣帛を受けるに際しては多額の金品を要し、村を挙げてその拝受を祝ったと伝えられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    「鷺大神社」と記された扁額               本 殿
        
 参道を進み、拝殿手前で南側から社殿に通じる参道があり、そこには正面参道とは違う古い社号標柱や木製の鳥居が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「ブリタニカ国際大百科事典」
    「境内記念碑文」等
 

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野本日枝大神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市下野本906
              
・ご祭神 大山咋命
              
・社 格 旧中妻鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.020192,139.4194096,17z?hl=ja&entry=ttu
 野本利仁神社同将軍塚古墳から埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を東行し、「中妻」交差点の次のT字路を左折し北上する。260m程進むと路面は上り坂となり、「無量寿寺」の看板が見える三叉路に達するので、そこは一番右側のルートを進む。左手方向に注意しながら進むとすぐに左折する道幅の狭い道路が見え、その道路横に野本日枝大神社の朱の鳥居が見えてくる。
 左折した先で、社に隣接している「中妻公会堂」があり、そこには駐車できそうな僅かなスペースもあるので、通行車両の邪魔にならない場所に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                              住宅街の中に鎮座している社
 低地の多い東松山市下野本地域でありながら、県道沿いの標高が19m20m程に対して、社周辺は29m程の標高となっている。この中妻地区から以北は一段高い場所となっていて、中妻公会堂に進む道は傾斜のある上り坂となっている。
        
                      拝 殿
     周囲は住宅が立ち並んでいるが、この社周辺はひっそりと静まり返っている。

 日枝大神社 東松山市下野本九〇六(下野本字下川入)
『明細帳』によれば、当社は下野本の小字の一つである中妻の鎮守として寛文二年(一六六二)に創建され、初め「日吉山王権現」と称した。更に、貞亨三年(一六八六)に社殿の再建が行われたという。
 天明元年(一七八一)の棟札には「別当下野本村聖徳寺」や「大願山三十三世法印舜源」などの名が見える。聖徳寺は、『風土記稿』に「元は寺と云べき程にあらざりしを、元禄十一年(一六九八)一寺となり」と記される天台宗の寺院で、『郡村誌』には既に見当たらず、明治初年に廃寺となった模様である。その跡地は、当社から南西に六〇〇メートルほど離れた所にあり、墓地が残されている。また、「大願山」とは、聖徳寺の本寺であった下青鳥村の浄光寺のことで、寺領二三石・末寺三九か寺を有する大寺であった。
 天台宗総本山延暦寺の護法神・守護神として崇められていた日吉山王権現を、同じ宗派の聖徳寺(あるいはその本寺の浄光寺)の僧がこの地に勧請したことは、十分に考えられよう。当社は聖徳寺(あるいは浄光寺)の寺領に文殊堂(当社南側にある堂)と共に祀られていたものであろうか。
 明治十年、諏訪神社・神明神社・天神社の三社が当社に合祀された。当社が合祀の中心に選ばれた理由は、水害に遭いにくい高台に鎮座していたことによるという。
                                  「埼玉の神社」より引用



 山王権現(さんのうごんげん)は日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
 山王権現は、比叡山の神として、「ひよっさん(日吉さん)」とも呼ばれ、日吉大社を総本宮とする、全国の比叡社(日吉社)に祀られた。また「日吉山王」とは、日吉大社と延暦寺とが混然としながら、比叡山を「神の山」として祀った信仰の中から生まれた呼び名とされる。
 入唐して天台教学を学んだ天台山国清寺では、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていて、日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)が唐から帰国し、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。
 音羽山の支峰である牛尾山は古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、『古事記』には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野の松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山を神体とする大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神が日枝山(比叡山)に勧請された。このようにして開かれた日吉大社は、全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮であり、同時に天台宗の護法神や伽藍神として、神仏習合が最も進んだ神社のひとつとされた

 延暦寺と日吉大社とは、延暦寺を上位にしながら密接な関係を持ち、平安時代から、延暦寺が日吉大社の役職の任命権を持つようになった。天台宗が日本全国に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も全国各地で建立された。天台宗は山王権現の他にも八王子権現なども比叡山に祀り、本地垂迹に基づいて山王21社に本地仏を定めた。
 その後明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、天台宗の鎮守神である山王権現は廃されたという。

           本 殿                拝殿右側に鎮座する境内社
                        諏訪神社・神明神社・天神社であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等  

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下押垂氷川神社

 東松山市下押垂、聞きなれない不思議な地域名だ。この下押垂は「しもおしだり」と読む。この地域は東松山市南部を東西に流れる都幾川東部河川沿いに位置する。東西約2.4㎞に対して南北は広くても地域西側にある「都幾川リバーサイドパーク」付近で、650m程しかなく、東西が極端に長い長方形の形で形成されている。そのことは『新編武蔵風土記稿』にも同様に「東西の経り二十町、南北は纔三四町にすぎず」との記載もある。
 嘗て都幾川は東松山橋の上流と下流で大きく蛇行していたが、河川改修が行なわれ、下押垂地域に流れる現在の河道は直線化されていて、まさに「都幾川と歩んできた地域」なのでであろう。
下押垂氷川神社は「河川の神」として当地住民の方々に厚く信仰され、都幾川の堤防傍に境内はあり、社殿は水塚の上に鎮座しているという。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市下押垂526
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0120368,139.4116512,16z?hl=ja&entry=ttu
 下押垂氷川神社が鎮座する
下押垂地域は、下野本地区の南側に接し、都幾川左岸の低地で構成される一面田園風景が広がる地域である。社は丁度野本利仁神社から直線距離にして1㎞弱程真南に鎮座していて、途中までの経路は野本利仁神社を参照。国道407号線の東側を国道に沿って南北に通じる農道を南下し、「野本さくらの里」付近から進路が南東方向に変わり、その道を都幾川左岸の堤防方向に進むと、右手に下押垂氷川神社が見えてくる。
 社の東側に隣接している「下押垂公会堂」正面入り口手前には適当な駐車スペースもあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                 下押垂氷川神社正面
 都幾川堤防のすぐ外側で、北側に目を転ずれば、一面田園風景が広がる長閑な場所にひっそりと鎮座している。境内参道左側には桜の樹木が、そして社の後背には杉の木々が並んで植えられている。
この社は嘗て、度々襲った都幾川の水難から村の鎮守として1700年代、大宮の氷川神社の分霊を祀った事から始まったと言われている。創建当時は国道407号線の東松山橋あたりにあったが、昭和50年河川改修と共に現在地に移ったという。
 
       河川近郊の社故か、          参道堤防側に設置されている
   参道の周りの雑草が生い茂っている。       「社殿移転新築記念碑」

この石碑によれば、建設省の河川改修工事により、本来字「宮の脇」に鎮座していた下押垂宮を昭和50年2月20日に社殿一切現在地に移ったという。移転した際には上下押垂地域の氏子の方々は新しい社の前で奉迎遷の祭りを施行し、御祭神である素戔嗚尊をお迎えしたという。
       
                              拝 殿
        水塚と云われる洪水の際に避難する水防施設上に鎮座している。

 氷川神社 東松山市下押垂三六四-七(旧下押垂字宮の脇)
 創建以来、「水の神」として厚く信仰されてきた社にふさわしく、当社の境内は都幾川の堤防の側にあり、その社殿は水塚の上に設けられている。元来、社地は、現在よりも二五〇メートルほど上流の字宮の脇(国道四〇七号東松山橋付近。現在は河道)にあったが、建設省による都幾川改修工事に伴う換地の結果、昭和五十年、字金塚にある現在の社地に遷座し、同年四月二十日に氏子を挙げてその遷座祭が斎行された。現在の境内の配置は、字宮の脇の境内の配置をそのまま復元したものであるが、地形の関係上、参道の長さが宮の脇にあったころに比べて三分の一程度になっている点が異なる。
 当社は、大宮(現大宮市)に鎮座し、武蔵国一の宮として信仰の厚い氷川神社の分霊を享保元年(一七一六)に祀ったことに始まるとされ、文化三年(一八〇六)には神祇伯から大明神号を受けている。それを記念して作られた社号額は現在も拝殿内に掛けられているが、その表には「氷川大明神」、裏には「西福寺五十四世義観受之 文化三年四月十六日 神祇伯資延王謹書印之 武州比企郡下押垂村」と彫り込まれており、大明神号の拝受は別当の西福寺により行われている。その後、当社は神仏分離を経て、明治六年に村社となり、同四十年四月十日、字山王塚から無格社日枝神社を合祀し、従来の祭神須佐之男命に加えて大山咋命が併せて祀られるようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用



 下押垂地域の北側面には下野本地域が接して存在しているが、鎌倉時代この地域には藤原利仁流野本氏が本拠地としていた。
 下野本地域にある「野本将軍塚古墳」の北側には無量寿寺が建っているが、嘗て野本氏の館がその地にあり、後代無量寿寺が建てられたという。野本氏の初代である野本左衛門尉基員は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり子孫は執権北条氏に重用されている。
 野本氏は藤原利仁流の系統で、元々京都出身でもあった。藤原基経に仕えていたというが、武蔵国野本に移り住んで「野本氏」を名乗ったという。本編には直接関係ないので、あまり深くは詮索しないが、如何なる経緯でこの野本の地に移り住んだのであろうか。
 その野本一族の一人に「押垂氏」がいる。押垂地域は本拠地の南側に接している地でもあり、また野本氏は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり、その子孫は執権北条氏に重用されているところからも所領地は少なからず増えたのであろう。押垂地域を一族が賜っても少しもおかしくない。武家政権であった鎌倉幕府を顕彰する歴史書である「吾妻鑑」には「押垂氏」に関して以下の記載がある。

吾妻鑑卷十三「建久四年十月十日、野本斎藤左衛門大夫尉基員が子息元服し、将軍家より御鎧以下重宝等を賜る」
卷二十一「建暦三年五月六日、和田の乱に、幕府方の討たれし人々に、おしたりの三郎」
卷二十五「承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に押垂三郎兵衛尉の郎等敵一人を討つ」卷三十「文暦二年六月二十九日、押垂左衛門尉時基」
卷三十一「嘉禎二年四月二十三日、押垂左衛門尉・御使たり。八月四日、若宮大路の新造御所に御移徒の儀あり、押垂三郎左衛門尉晴基・これを役す。同三年六月二十三日、押垂左衛門尉時基」
卷三十二「嘉禎四年二月十七日、将軍頼経入京す、随兵に押垂三郎左衛門尉」
卷三十六「寛元二年八月十六日、的立押垂左衛門尉、射手子息次郎」
卷四十「建長二年三月一日、押垂斎藤左衛門尉が跡」
卷四十二「建長四年四月十四日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉基時。十二月十七日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉時基」
卷五十「弘長元年十一月二十二日、押垂斎藤次郎を小侍番帳に加ふ」
卷五十一「弘長三年二月八日、掃部助範元等は北条政村亭において和歌会を催す」
卷五十二「文永二年五月十日、押垂掃部助・御使たり。十二月十四日、掃部助範元最前に御所に参ず
        
                              拝殿部から見た参道の一風景


『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』では野本押垂氏の系譜を「藤原利仁流、疋田斎藤為頼(越前国惣追捕使)―竹田四郎大夫頼基―基親―野本左衛門基員(住武蔵国)―野本左衛尉時員(従五位下能登守・摂津国守護)―(義兄)野本次郎時基(左衛門尉)―押垂十郎重基(実笠原親景子)、弟三郎景基」と記している。
 
初代野本左衛門基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員を養子とした。時員は『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、野本の隣の押垂に住して押垂を名乗り押垂氏の祖となったという。但し時基は父である基員と同じく「左衛門尉」を称していて、従五位下の官位を賜り、能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している時員に代わって本拠地である野本を守っていたのではなかろうか。
        
                 
下押垂地域の南側で都幾川堤防から見る高坂地域の遠景

 下押垂地域の南側は都幾川右岸である高坂地域であるが、土手から幾多の建築物が見え、「高坂ニュータウン」等の開発が進んでいる地域だ。左岸にひっそりと鎮座している氷川の神様はどのような面持ちでこの開発が進んだ地域を眺めているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」「埼玉の神社」
    「
高坂丘陵ねっと」「Wikipedia」等


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松山菅原神社


               
            
・所在地 埼玉県東松山市松山1150
            
・ご祭神 菅原道真公
            
・社 格 旧村社
            
・例 祭 祈年祭 325日、秋季例大祭1025日 感謝祭 1215

 北吉見八坂神社から埼玉県道271号今泉東松山線を西行し、国道407号線と交わる「天神橋」交差点手前右側に
松山菅原神社は鎮座する。当社は、嘗て松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する
 国道や県道からは低い位置に鳥居があるが、社殿はそこから小高い丘の上に建てられている。
 県道から「天神橋」交差点に合流する手前に右折する道路があり、すぐ左側には専用の駐車スペースも確保されていて、そこの一角に停めてから参拝を行う。
                
                     県道からは一段低い位置にある
松山菅原神社鳥居

 菅原神社 東松山市松山一一五〇
 当社は、かつて松山城の城下町として栄えた「元宿」と呼ばれた地域から北に一キロメートルほど離れた所に鎮座している。境内に接して、鴻巣街道と北吉見の今泉とを結ぶ今泉通りが通る。当社の鎮座地が「中道」と呼ばれるのも、この道に由来する。
 創建は、社伝によると応永年中(一三九四-一四二八)で、別当観音寺を開山した「忠良」なる者により行われたという。
 以来、観音寺は松山城下の元宿にあって、氏子たちや近在の村々の者に諸祈禱を修したといわれる。『風土記稿』によると、観音寺は京都聖護院末の本山派修験で、東照山竹林坊と号していた。慶長十四年(一六〇九)には、横見・比企両郡のうち一派の年行事職を許され、横見郡大串村毘沙門堂や比企郡長谷村不動堂をも兼帯する有力修験であった。また、万治三年(一六六〇)の失火までは、東照大権現改葬の際、観音寺に御霊棺を安置した縁をもって建立した東照宮の御宮があったと伝えている。
 祭神は、菅原道真公で、現在内陣には菅公座像が安置されている。この像は、明治三十五年四月「菅公一千年祭」を記念して東京美術学校教授の竹内氏に依頼し、製作したものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
県道から鳥居に達する下り階段もあり、配置が面白い。正面鳥居(写真左)からは階段を上がり、拝殿に到着する参道がある(同右)。
               
                                      拝 殿
          天神を祀る社らしく、拝殿前には一対の「狛牛」が立つ。

 神社には「神使(しんし)」と呼ばれる動物がいる。
「神使」又は「眷属(けんぞく)」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在である。「神の使い(かみのつかい)」「つかわしめ」「御先(みさき)」などともいう。時には、神そのものと考えられることもある。その対象になった動物は哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで幅広い。

 時代が下ると、神使とされる動物は、その神の神話における記述や神社の縁起に基づいて固定化されるようになり、その神社の境内で飼育されるようにもなった。さらには、稲荷神社の狐のように、本来は神使であるものが祀られるようにもなった。これは、神とは無関係に、その動物自体が何らかの霊的な存在と見られていたものと考えられる。

 神使とされる動物には、主に以下のようなものがある。
・鼠       大黒天
・牛       天満宮
・蜂       二荒山神社
・兎       住吉大社・岡崎神社・調神社
・亀       松尾大社
・蟹       金刀比羅宮
・鰻       三嶋大社
・海蛇    出雲大社
・白蛇    諏訪神社 大神神社
・狐       稲荷神社
・鹿       春日大社・鹿島神宮
・猿       日吉大社・浅間神社
・烏       熊野三山・厳島神社
・鶴       諏訪大社
・鳩       八幡宮
・鷺       氣比神宮
・鶏       伊勢神宮・熱田神宮・石上神宮
・狼       武蔵御嶽神社・三峰神社等奥多摩・秩父地方の神社
・鯉       大前神社
・猪       護王神社・和気神社
・ムカデ 毘沙門天

 因みに菅原道真公を祀る全国の天神様(天満宮・菅原神社・天神社)には、境内に「寝牛」や「撫で牛」と呼ばれる牛の像がある。牛は天満宮では神使(祭神の使者)とされているからだが、その理由は次のように言われている。
道真の生まれた年が丑年
道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
道真は牛に乗り大宰府へ下った
牛が刺客から道真を守った
道真の墓(太宰府天満宮)の場所を牛が決めた
               
                               社殿から参道方向を撮影

 日本神話や古事記等の神話にも動物は度々登場し、生活のパートナーとしてだけではなく、神聖な存在としても人々の側に寄り添ってきた。神様の使いとして慕われる動物たちは、同じ次元にいながら我々とは違う「世界」に生きている神聖な存在といえなくもない。
 日本の神道は、全てのものには神が宿っているという「八百万の神」の考え方がある。動物にも神のような力が宿ると信じられていたからこそ、数多くの神使が誕生したのかもしれない。

 今も多くの祭りや行事、境内の中に神話の動物たちが登場する。動物を一事例として、神社や神話に向かい合うと、これまでとは違った楽しみ方や味わい方、更には今まで知らなかったことが見えてきそうである。
 動物との関係性の築き方には、文化や宗教など多くの要素が複合的に合わさっている。ぜひこれを機に、人間と動物の信仰的な関係性を調べてみては如何であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」Wikipedia」等
       

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東平熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県東松山市東平1006
             ・ご祭神 熊野三所権現(推定)
             
・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭71415日、新嘗祭1015日
       地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0615575,139.4117204,18z?hl=ja&entry=ttu  
 東平熊野神社は国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後300m程進んだT字路を左折すると、正面突き当りに東平熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社は東平地域の東端近く、交通量の多い県道からは少し奥に入った場所で、丘の上に鎮座している。
 残念ながら周囲には専用駐車場はないようで、近隣のコンビニエンスストアに寄り、買い物を済ませてから参拝を行う。
        
                               丘上に鎮座する東平熊野神社
 
 一の鳥居を過ぎて、石段、二の鳥居が見える。    二の鳥居の先には境内が広がる。

 県道からはやや奥に位置するとはいえ、交通量の多い県道の喧騒からは想像もできない位、境内は静まり返っていて、現代社会とうまく混じり合っているという印象。
 また境内もよく手入れされていて、気持ちよく参拝を行うことができた。
        
                                       拝 殿

 熊野神社 東松山市東平一〇〇六(東平字小橋)
 旧別当の真言宗覚性寺蔵の古文書には、次のような伝説がある。
 天慶三年(九四〇)に東国で反乱を起こした平将門を追討するために平重盛と共に都を発った藤原秀郷は、上州(現群馬県)碓氷峠まで進んだころ、不思議な夢を見た。それは、南の方にたなびく紫雲を尋ねて行くと、そこは紀州(現和歌山県)の熊野三社で、そこで一人の老翁から「自分は東海の平和を願うものである。紀州熊野三社を祀り、その神徳を頂いて戦えば、汝は朝敵を必ず滅ぼすことができ、汝の子孫は世々栄えるであろう」と告げられるというものであった。翌朝、秀郷ははるか南方に紫雲のたなびくのを見た。奇しくもそこを尋ねて行くと、一株の松の根元から雲が湧き上がっており、これこそ神のお告げと、秀郷は持っていた鏑矢をその松に立てて仮に熊野三社を祀った。これが当社の創祀で、その後の秀郷の武功は言うまでもない。
 乱平定の後、秀郷は神恩に報いるために当社の伽藍を建立し、以後郷人の崇敬を集めるところとなった。戦国時代、松山城落城に伴い、当社も兵火に罹ったものの立派に再建が果たされ、江戸時代には東平村の鎮守として『風土記稿』にもその名が挙げられている。更に明治四年には村社になり、同四十一年には字沢口の村社熊野神社(当社は上の宮、同社は下の宮と呼ばれていた)ほか七社が合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

             本 殿               拝殿左側に鎮座する境内社
                            左より諏訪社、詳細不明
        
          社に隣接している「子供広場」に設置されている祭り用の舞台だろうか。
          
 東平熊野神社に隣接をしているのが子供広場となる公園で、春になれば桜を楽しむ人もいるし、夏季では715頃の土日, 子供みこし等のお祭りも開催をされているようだ。社の境内同様によく手入れされている。ただ、公園に入るには傾斜がややきつめの階段を上る必要があり、ご高齢の方には少し大変かもしれない。
        
                             参道からの一風景

 東平熊野神社に関しての資料は乏しく、現時点で説明できる内容はここまでである。但しこの社の鎮座する東平地域は、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫する国道407号線と、埼玉県行田市から東松山市に至る埼玉県道66号行田東松山線が交わる交通の要衝地でもある。
 東平地域の北側には「胄山古墳」があり、目を北西に転ずると「大谷瓦窯跡」「大谷雷電古墳」等の古代遺跡もあり、またこの国道407号線自体、嘗て「東山道武蔵路」とも推測されている道である。国道407号線沿いには古墳時代から奈良時代の史跡が見られ、この付近の比企丘陵は古代から人々の交流が多かったところと考えられ、東平地域はその古代の官道を包むようにして位置している絶妙な位置にある。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ひがしまつやま公園ガイド」等


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