古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

高坂神社

 高坂台地は、関東平野西部中央、埼玉県東松山市の南部に広がる 関東ローム層からなる台地である。西側の岩殿丘陵から東側の低地に連なる斜面上にあり、台地の北側を都幾川が、南側を越辺川が流れており、その河川に挟まれているため台地としての面積は狭い。
 この高坂台地内の東側に高坂古墳群があり、築造年代4~7世紀と言われているが、この古墳群から平成23年10月半ばに三角縁神獣鏡が発見された。埼玉県では初めての発見という。ほかに捩文鏡(ねじもんきょう、直径7,4cm、4世紀)、鉄製槍鉋(ヤリガンナ、長さ9,5cm)1本、凝灰岩製管玉15点、水晶製勾玉1個なども出土した。
 高坂地区を含むこの東松山比企地方は、外秩父山地・比企丘陵・岩殿丘陵・松山台地・高坂台地・荒川低地と多様な地形に恵まれ、古墳時代から奈良・平安時代にかけて、北武蔵国の一大根拠地の一つであったと言われている。古墳の多さ、古さ、遺跡の数も北武蔵の中でも北埼玉や児玉地方とともに古墳時代に北武蔵で古くから発達した地域といえる。

所在地     埼玉県東松山市高坂1061
御祭神     日本武尊
社  格     旧村社
例  祭     夏祭り(8月1日天王様 御神輿渡し) 秋御日待祭(10月17日)

             
 高坂神社は、東武東上線高坂駅から東方向に400m位の場所に鎮座している。熊谷市から国道407号線を東松山、坂戸方向に南下し、途中高坂神社(東)交差点を右折するとすぐ右側に高坂神社が見える。駐車スペースは参道右側に数台停めることのできる空間があり、そこに停めて参拝を行った。
             
             
                            一の鳥居と正面参道
            
                                拝    殿
 高坂の地は、地の利を生かして古くから交通の要所であり、また、人も集まり神への信仰も厚かった。高坂神社は高坂の鎮守として祀られ、大同年間(806-10)、坂上田村麻呂がこの地を通った時に、かつて日本武尊が東夷征伐をした故事をしのび、記念にこの地に日本武尊を祀ったという。当初は八剣明神社と称したが、明治42年2月19日に現在名である高坂神社に改称した。
                     
                              本    殿
 
             本殿内部                       社殿左側にある忠魂碑
 社殿の左側奥には小高い丘があり、その頂上には忠魂碑が立っている。調べてみると、この小高い丘は古墳らしく、この高坂台地上には中央部には高坂古墳群、台地北縁部には諏訪山古墳群、南部に毛塚古墳群で、消滅した数を含めると総計約100基存在する。この高坂神社境内にある古墳は高坂古墳群9号墳で、低い墳丘に神社社殿が食い込んでいる状態であるという。
 この9号墳の北側には高坂古墳群8号墳が隣接して存在していて、平成23年発掘調査が行われ4世紀中頃築造と推定される前方後方墳と判明したが、その8号墳と9号墳の間で埼玉県初の出土である三角神獣鏡、正式には「三角縁陳氏作四神二神獣鏡」というらしく、同じ型の鏡が確認されていない新発見のタイプのもの。
           
       拝殿と本殿の間には嘗て古墳の石棺の蓋部分ではなかったかと思われる板石がある。
                 今では本殿と拝殿の通路代わりになっているようだ。

 ところで8号墳は当初円墳と思われていたが、調査の結果前方後方墳の可能性が高いらしい。またこの8号墳からは管玉・勾玉・ヤリガンナの他に捩文鏡(ねじもんきょう)と言われる直径7.9㎝、ねじりひも状の文様が表現された青銅製の鏡が出土された。

 また高坂古墳群の南側で、桜山台地区には、「桜山窯跡群」がある。埼玉県東松山市指定史跡で、南比企丘陵の物見山から南東に延びる尾根の東端斜面に立地しており、発掘調査によって、古墳時代後期につくられた須恵器の窯跡2基、埴輪の窯跡17基、住居跡が3軒発見されている。埼玉県内で発掘された須恵器としては最古に属するものであり(須恵器窯は6世紀初頭頃操業で東日本で最古級。埴輪窯は6世紀前半から後半頃にかけておよそ50年間操業したらしい)、埴輪窯跡と共に古代の窯業生産と製品の流通を知る上で貴重な遺跡であるという。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉古墳群でも使用されたともいう。

 高坂地区を含むこの比企地方一帯には、異常に古墳や窯跡が多い。古墳の数は800基とも。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であったことは「桜山窯跡群」や嵐山町、玉川町にかかる「南比企窯跡群」等をみれば一目瞭然である。

 では5世紀後半から7世紀にかけて、埼玉(さきたま)に君臨していた埼玉古墳群の王者との関係は如何なるものだったのだろうか。ちなみに野本将軍塚古墳以外この地域には大型古墳は築造されていない。この大型古墳を造った一族はその先どのような歴史の変遷をたどったのだろうか。



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野本利仁神社

 野本将軍塚古墳の墳頂には平安時代の武将であり貴族である藤原利仁(ふじわらのとしひと)を祀る利仁神社の社殿が建っている。
 藤原利仁は、名門貴族藤原北家(藤原北家利仁流)で、9世紀末から10世紀前半に活躍(生誕、死没共に不詳)延喜15(915)年に鎮守府将軍に就任。平安時代を代表する伝説的な武将のひとりで、平将門(桓武平氏)、源経基(清和源氏)、藤原秀郷(むかで退治の田原藤太)とともに、関東武士の始祖的存在である。鎮守府将軍民部卿時長と越前国人秦と豊国の娘の子であり、藤原北家魚名流の始祖藤原魚名の孫で、歴きとした名門の貴族の出身である。
  この古墳が将軍塚と呼ばれたのは、藤原利仁が鎮守府将軍であったことによる。古墳北側にある無量寿寺は利仁が武蔵守在任中の陣屋跡と伝えられている。

所在地  埼玉県東松山市下野本
御祭神  藤原利仁
社  挌   不明
例  祭   不明
         
 
 利仁神社は野本将軍塚古墳の後円墳部に鎮座していて、名前通り藤原利仁を祀る神社である。
 藤原利仁は911年(延喜11年)上野介となり、以後上総介・武蔵守など坂東の国司を歴任し、この間915年(延喜15年)に下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し、武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。同年に鎮守府将軍に任じられるなど平安時代の代表的な武人として伝説化され、多くの説話が残されている。『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話は有名である。
 ちなみに芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している。
          
 県道345号小八林久保田下青鳥線側には野本将軍塚古墳の案内板や古墳碑があり、その先に利仁山、無量寿寺の石標柱がある。寺院の参道の先右側に利仁神社の鳥居がある。ちなみに写真左側には農村環境改善センターがあり、目的地の目印にもなる。
          
           野本将軍塚古墳くびれ部にある利仁神社正面の鳥居とその先の参道
 
 利仁神社に向かうために古墳のくびれ部の参道を真っ直ぐ進み、突き当りを左側、つまり後円墳部に進む。高さ13mの古墳の為、小さな山を登っていくような感じで、周りは鬱蒼とした森林が参道の石段の周囲を包み、社殿の後円墳部頂上まで延々と続く。
          
                           利仁神社 拝殿
 藤原氏からは武家でも、天慶の乱鎮定に関与した藤原秀郷や藤原為憲、また鎮守府将軍藤原利仁などを出し、その後裔と称するものが多くに分れて全国各地で繁栄した。こうした事情で、公家のみならず武家においても藤原姓を名乗る氏が極めて多く、わが国の苗字全体の五、六割が藤原姓と称していたともいわれる。
 この野本の地も藤原利仁の末裔でもあり、野本氏の始祖とされる「野本基員(のもともとかず)」がこの地に祀ったものではないかと伝えられている。藤原利仁の後裔を称する氏族は多く、藤原秀郷と並んで藤原家の武家社会への進出を象徴する人物と言える。また木曽義仲幼少期の命の恩人で『平家物語』でもその討ち死にシーンで涙を誘う斎藤実盛(長井別当)や、歌舞伎『勧進帳』で弁慶と安宅の関で問答する富樫氏はともに利仁流藤原氏と言われている。
 
          
                   拝殿に掲げられている利仁神社の扁額

 しかし、この中には後世の仮冒も相当多くあり、他の古代氏族の後裔が藤原姓の雄族の養子、猶子となるとか、先祖の系を藤原氏に強いて接続させたという類例も、武家関係では非常に多い。地方の雄族で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原姓と称したものも多々あり、地方武家の藤原氏と称する氏にはむしろ十分な注意を要する。佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤など、一般に藤原氏後裔とみられている苗字は、各地に分布が多いので一概にはいいにくいものの、むしろその多くが本来は藤原姓ではなかったという。

 前出の野本基員は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士で野本氏の家祖とされる人物である。
 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている。中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前(藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員となる。基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
 また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
 基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
 野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している。
                                                    ウィキペディア引用




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箭弓稲荷神社

 箭弓神社が鎮座する東松山市は、埼玉県のほぼ中央部に位置する人口約9万人の市である。市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都畿川や越辺川流域周辺は洪積低地となっており田園風景が広がっているが、近年の土地区画整理事業により宅地化が進んでいる。

 また鎌倉街道等、多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋の陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。

 「やきゅう」という音との縁で、プロ野球をはじめとする野球関係者が多く参拝する事でも知られている。特に、同じ埼玉県内の所沢市に本拠地を構える埼玉西武ライオンズの選手が頻繁に訪れているという

所在地    埼玉県東松山市箭弓町2-5-14   
主祭神    保食神(宇迦之御魂神 うがのみたまのかみ)
         豊受比賣神
        
社 格     県社 別表神社
本殿様式   権現造
      9月21日(例大祭) 他 
創立年代
   712年(和銅5年
 

       
 
 箭弓神社は東武東上線、東松山駅西口を降りて徒歩5分位の位置にある。「箭弓」という言葉は上古代、「矢久」「野久」「八宮」と呼ばれ、「八宮」とは天照大神が素戔鳴尊と誓約の時に出現したと云う五男三女神を祀る神社を八宮と云う。五男三女神は素戔鳴尊の子ともいわれ、田心姫(たこりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)の三女、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)、天穂日命(あまのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野豫樟日命(くまのくすひのみこと)の五男であったという。

   
                     二の鳥居                 綺麗に整備された参道。二の鳥居から撮影 

   創建は712年(和銅5年)と歴史のある社で、創建当時は単なる小さな祠でしかなかったが、長元3年(1030年)、下総国の城主・平忠常の討伐に出かけた源頼信が、この周辺に一泊し、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納したところ、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃する。これは神のお告げだと確信し、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は見事に快勝し、当地に、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」と称えられ、その後も松山城主や川越城主の庇護を受け、現在に至っている。
 
               三の鳥居手前にある手水社                三の鳥居近くにある由緒、祭神の
                                               紹介した案内板
境内由緒書

 御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神

 当社の御創建は和銅五年と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼かさに於いては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。社記に依れば人皇第六十八代後一条天皇の御宇長元元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三カ国を切従へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起こして武蔵国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信長元三年忠常追討の倫旨を賜り、当地野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄に起こりて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰滅せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
 又宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
 当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の崇敬最も篤く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、また江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、桶川、鴻巣、吹上の宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」の道標50余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり。尚当社は、五穀豊穣、商売繁盛。家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
 

                        拝   殿

                        
重厚な造りで趣のある、箭弓神社 本殿

  現在の社殿は享保3年(1718年)領主、島田弾正が四方の信徒と図って建築したものであるといわれている。本殿は正面5.43メートル、奥行5.15メートルあり、屋根は切妻単層三重垂木の銅葺でできている。本殿には幾多の彫刻が施されており、また本殿内部は日光廟を模した感じであるという。

                                                  元      宮
   
元のお社として現本殿の真後ろに鎮座し、社殿には彩色ある細やかな彫刻が施されている。毎月1・15日には神饌を供し拝礼する。
 
                                                 
宇迦之御魂社(團十郎稲荷・穴宮)


  遡ること七代目市川團十郎は特に厚く当社を崇敬しており、社に籠り芸道精進、大願成就のご祈願をいたし、その当時、江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において「狐忠信」「葛の葉」等の芸題を披露しましたところ毎日札止めの大盛況となりました。
 これはひとえにご神威、ご霊験のあらたかなることだと感得した團十郎は、文政四年(1821年)の秋、当社に石造りの祠を建立しました。
 以来江戸の役者衆や花柳界をはじめ、芸能・技術の向上を願う方々の信仰が厚く、芸能・商売繁昌の守り神として広く崇敬を集めています。
                                                                           
                                                                                      宇迦之御魂社御由来 掲示板より引用

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