古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大井榛名神社

 熊谷市太井地域には「変わったひなまつり」という榛名神社の祭りがある。「熊谷市公協だより第41号」に掲載されているので、全文紹介する。
 「太井地区の榛名神社の祭りのうちの一つ。一ヶ月遅れのひなまつり。普通は三月の桃の節句だが、四月二日にひなだんのかざってある家の座敷に土足で、竹のササを持った男の子が、ワッショイと叫びながら回り、一番年上の男の子中学二年生(新学期から三年生になる)が北埼玉郡騎西町の玉敷神社から借りてきた神具(木刀、面、御神体)の三つをもって後ろから回って歩きます。用掛の人たちは、郭が四つ(北口・番場・新井・新田)あるので普通は四名ですが、この日は年度代わりで、新旧の用掛八名が出て、子どもたちの後ろから一軒一軒御神酒をふるまって歩きます。昔は、太鼓を二人でカツイでタタイて歩いたのですが、今はトラックに太鼓をのせて、子どもたちがタタク。だいぶ変わってきたものです。私が子どもの頃は、全部子どもたちが仕切っていたものです。一番上の子どもが代表して、祭りの前日の夕方、電車で加須駅まで行って、騎西の玉敷神社まで歩いていき、御神体を借り、かなり重い箱にカツギボーをつけてカツグのです。私たちの頃は四人でしたので、二人づつ交代して、夜中の二時ごろ出発して、走って、追いついたら交代して休み、追いついたら交代しながら、朝の六時頃には榛名神社に着いて、待っていた下の子どもたちを先導して家々を回ったものでした。
 今では用掛が前日に全部用意しておくそうです」
        
               
・所在地 埼玉県熊谷市太井2284
               
・ご祭神 湯彦友命 埴安姫命
               
・社 格 旧村社
               
・例 祭 4月上旬 オシシサマ
 国道17号線を行田駅方向に進み、「北砂原」交差点次のT字路を左折し、300m先の十字路を左折すると、正面に太井榛名神社の社叢林と鳥居が見える。
 社に通じる農道は、右へカーブする道路となっていて、その右側に曲がる付近に太井榛名神社が鎮座しているが、道が曲がり始める社叢林の右側に丁度駐車可能なスペースが確保されていて、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
 一面田畑に囲まれるように中に社叢林が鎮守の杜一帯に生い茂り、いかにも「村の鎮守様」としての佇まいを今でも色よく残している。
        
                  
太井榛名神社正面
 熊谷市の南東部に位置する太井地域は、国道17号線を挟んで南北に広い地域で、国道周辺以外の地は現在でも田園風景が広がる。この太井地域は嘗てもっと広大であったようで、『新編武蔵風土記稿』においても、「東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村にて、西も同郡久下村に隣り、北は本郡(埼玉郡)持田村なり、東西二十町、南北八町許」と記載され、東西2.2㎞程、南北900m程で、現在の行田市棚田町、門井町、鴻巣市旧吹上町新宿地域も太井地域に属していて、村の歴史は江戸初期まで遡り、当時は「太井四ケ村」と呼ばれる大きな村であったようだ。

 新編武蔵風土記稿 巻之二百十八 埼玉郡之二十 忍領
 大井村(大井・門井・新宿・棚田) 第十一冊-頁七十七
 大井村は郷庄の呼び名を伝へていない。江戸より十五里。当村は古へに太井と記したが、いつの頃よりか今のように書き替えたと云う。しかし正保元禄の頃は既に大井と書いており、古いことであろう。  正徳二年(1712)に村内を大井・門井・新宿・棚田の四区に分け、大井四ケ村と呼び、村毎に名主を置いて税務を担当させた。しかしこの事は領主の私事として、採用されなかった。  民家百九十戸。東は鎌塚村、南は大里郡江川・佐谷田・下久下の三村、西も大里郡久下村、北は埼玉郡の持田村である。広さは東西二十町、南北八町計り。用水(成田用水)は前村(戸出村)に同じ。当村は寛永十六年(1639)阿部豊後守に賜り、前村と同じく子孫の鐵丸の領分である。検地は慶長十三年(1608)伊奈備前守が糺した。  高札場は四ヶ所あり、大井・門井・棚田・新宿の四区に立つ

       
       入口に設置されている社号標柱   鳥居の脇には塞神が祀られている。
  
塞神の脇には草鞋が奉納されていて、旅の無事や脚の健康を今でも願っているのだろう。

 ところで太井(おおい)という地域名の由来としては、「大堰」からきたといわれている。広瀬から荒川を分水して用水を導き、この地に大きな堰をつくったので、太井の名ができたという。〔埼玉県地名誌〕
 尚「太井」の文字は正保・元禄(16441703)の改図には、「大井」と書いているが、更に古くは「太井」の文字を用いているので、今日の名称は、古称に従ったものであるという。
        
                                  参道からの風景
 この写真では分かりづらいが、一の鳥居から拝殿前まで続く敷石の一枚一枚に奉納者の名前が刻まれている。地方の一神社でありながら、このような形式の奉納が何世代にもかけて継続されていることに、代々氏子の方々から篤い信仰を受け継いでいる証拠をみるようで、不思議な感銘を覚えた。
        
                    二の鳥居  
  一の鳥居が神明系であるならば、二の鳥居は朱を基調とした木製の両部鳥居となっている。
        
                     拝 殿
 榛名神社 熊谷市太井二二八四(太井字堅田)
 湯彦友命と埴安姫命を祀る当社は、畑に囲まれて鎮座している。かつて、当社の境内には鎮守の森と呼ぶにふさわしい杉の大木が林を成し、遠方からでもすぐ神社の位置がわかるほどであったが、太平洋戦争後は多くが枯死してしまい、現在ではわずかな面影を残している。
 鳥居をくぐると、拝殿まで整然と敷石が続いているが、よく見ると一枚一枚に名前が刻んであることに気づく。これは、毎年一枚ずつ、その年の仕事を終えた用掛かりと呼ばれる年番が奉納するもので、大正の末から始められ、昭和六十二年にようやく鳥居の所にまで達した。こうした敷石の奉納は、信仰が薄れてきたといわれる今日にあっても、当社が依然、太井の鎮守として氏子に親しまれていることの表れであるように感じられる。
 当社の創建について、詳しいことはわからないが、江戸時代に当社を管理していた福聚院が慶長七年(一六〇二)の草創と伝えられていることから、それとほぼ同じころではないかと考えられている。明治になると神仏分離によって同寺の管理を離れ、明治六年六月に村社となり、同四十一年十一月二十八日、字堅田の雷神社と字伊勢前の神明社を合祀した。
 このほか、『明細帳』には記録されていないが、新田廓にあった伊勢神宮社と、番場廓にあった鷲宮社も当社に合祀されているという。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
                境内奥に聳え立つご神木のクスノキ
       
           「社殿新築記念碑」   「社殿新築記念碑」の並びに鎮座する末社殿 
                         塞神と浅間神社が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「熊谷Web博物館」「熊谷市公協だより第41号」等

 

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