古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

稲荷木伊奈利神社


        
             
・所在地 埼玉県熊谷市銀座346
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 315日 秋季例大祭 915
 JR高崎線熊谷駅北口から駅前通りを北上し、歩道橋のある「筑波」交差点を右折、国道17号線を東行すること1.6㎞程にて、「銀座二丁目」交差点に達し、そのまま直進すると、すぐ左手に稲荷木伊奈利神社の入口の門が見えてくる。
 国道沿いに鎮座している社で、専用駐車場等は周囲確認してもなし。社の北側方向にコンビニエンスストアがあるので、そこの駐車スペースをお借りしてから徒歩にて社に向かう。
        
                稲荷木伊奈利神社正面の門
『大里郡神社誌』
 大里郡熊谷町大字熊谷字と通 
 無格社 伊奈利神社
 由緒 創立年月詳ならざるも古老に因るに文明十八年以後に係るものにして寛永元申年八月大洪水の為に社殿流亡同年再建す
        
                                 境内の様子
 商売繁昌・家内安全・交通安全の神として信仰が厚く、氏子だけでなく、市外からの熱心な参詣者もいる。戦前は、花柳界にも「袖引き稲荷」として信仰が厚く、毎日午後三時過ぎになると、芸者衆が縁起を担いで三々五々参詣に来たものであったという。
             
                            境内に聳え立つご神木
 嘗ては、利根川水系の湿地帯で、一面萱原であった当地は、熊谷の宿の中でも中山道から外れた所に当たる為、人家もまばらな農業地域であったという。当時、当社の前を通る道(国道17号線)は、行田街道とか忍街道と呼ばれる小道で、周囲には欅や杉が鬱蒼と茂って昼なお暗く追いはぎさえ出没するほどであった。また、当社の裏は丘となっており、狐や狸の住みかとなっていたともいう。
 ところが、昭和7年に国道17号線が開通すると状況は一変し、街道は立派な幹線道路にかわり、その両側にはたちまち家並みができていくようになる。居住者が増えてきたことにより、今まで属していた筑波町から独立し、その後、東京の銀座にあやかり、銀座と名付け、戦後に戦災から見事に立ち直った結果、銀座という地名にふさわしい街ができつつある。
        
                  稲荷神社らしく朱色の鳥居が数多く奉納されている。
    鳥居の右側には社号標柱があり、「正一位稲荷木伊奈利神社と刻まれている
    それに対して鳥居の扁額には「 稲荷木白髭伊奈利神社 」と表記されている。
 
   こちらも社殿の柱に掛けられている看板(写真左)と、扁額(同右)の表記が違う。

 伊奈利神社(とおかっきいなり)  熊谷市銀座三一四六(熊谷字と通)
 熊谷市街地の一角をなす銀座に鎮守する当社は、稲荷木(とおかつき)伊奈利神社という名で人々に知られている。この「稲荷木」という言葉については、はっきりとした伝えはないが、鎮座地周辺の古称と見られており、当社の創建とも深いかかわりがあると思われる。当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない。
『明細帳』によれば、当社の建立は文明十八年(一四八六)以降のことで、宝永元年(一七〇四)八月、洪水により流失し、同年に再建したと伝えられる。
 明治の初め、無格社となったが、その後、昭和十九年九月に村社に昇格したのもつかの間、翌二十年八月の空襲で街もろとも全焼してしまった。
 太平洋戦争後、奇跡的ともいわれる復興によって、熊谷の街も戦前に劣らないにぎやかさを見せているが、当社の再建もまた、こうした街の復興と歩調を合わせるかのように進められてきた。終戦直後、粗末な仮宮がぽつりと建てられているだけであった境内に、まず、昭和二十五年に社務所が再建され、同二十八年に稲荷神社から現行の伊奈利神社へ社名を改め、同三十四年七月には念願の本殿・拝殿の再建が果たされ同四十七年には鳥居も再建されて現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
「埼玉の神社」によると、「当社はまた、白鬚伊奈利神社とも呼ばれるが、そのいわれはわからず、祭神も倉稲魂命一柱であり、白鬚神社を合祀した記録もない」と載せており、「 稲荷木(とおかき)」の名称由来と共にそのいわれは全く不明だ。
        
                  社殿の向かって右側に祀られている境内社・八坂神社
               中に子供神輿を安置している。
 当社の氏子区域は、現在の銀座一・二・三丁目と高山町・住吉町・末広二丁目・銀八・熊谷団地の八区域で、氏子数は1600戸。これらの地域は、崇敬の念が厚い土地柄で、秋季例大祭や初詣には大勢の人出があり、毎年7月に行われる熊谷市最大のお祭りである「うちわ祭り」には銀座区として屋台と神輿を出している。
 熊谷在住の筆者にとって「うちわ祭り」は「荒川の花火大会」と共に熊谷市の最大のイベントだ。この祭りが近づくにつれて気持ちの高揚は抑えきれない。
        
                               社殿からの境内の一風景
        
      社の北側、道路沿いに設置されている「山車建造寄付者芳名」の掲示板
 山車建造寄付者芳名
 盛夏の熊谷が燃える八坂神社大祭うちわ祭りは、八ヶ町・石原本石を中心とした十二基の山車・屋台の巡行が圧巻であり、近時く関東一の祇園の呼称も内外に定着した。当銀座区は、大正十三年制作の屋台にてこの盛儀に参画していたのであったが、七十年の星霜は、屋台の老朽化を招き、新調は刻下の急務とされたのである。時あたかも平成五年、明けて年番を迎えるにあたり、山車新造の声澎湃として興り、区民挙げて浄財を寄せる議を決し、爾来一年計画は無事進捗し遂に完成に至った。ここに賛同各位の協力を多とし、地区の発展と祭文化の継承を期しつつ、芳名を刻し永く顕彰する次第である。
 平成六年六月二十七日(以下略)
                                      掲示板より引用


参考資料「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「境内掲示板」等
        

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揚井白髭神社

 熊谷市揚井地域。この地域名「揚井」は、「やぎい」と読み、なかなかの難解地名の一つでもあろう。
 九条家延喜式裏文書・大里郡条里坪付に「楊井里、楊師里、楊田里、物部里」の地名があり、また明治6年和田村と原新田が合併したさい、新しく村名を『和名抄』に載っているこの地方の郷名“楊井郷”にちなんでつけられた。但し『和名抄』には「也木井」との註も載せている。
 当社は揚井地域の中でも南部の和田地区に属し、旧和田村鎮守社で、旧村一帯を一望できる小高い丘陵の一画に鎮座している。因みに旧和田村は、中央部を東西に流れる「和田川」の河川名の由来となっている。
 この楊井という地名は、嘗ての大里郡に所属されていた郡家(ぐうけ)郷・余戸(あまるるべ)郷・市田(いちた)郷と共に4つの郷の内の1つである楊井郷に由来するという説と共に、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である『武蔵七党』の一つである「私市(きさい・きさいち)」党に属した「楊井氏」によるともいう。
        
              
・所在地 埼玉県熊谷市楊井3
              
・ご祭神 猿田彦命
              
・社 格 旧和田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 12日 祈年祭 228日 春季例大祭 45
                                      
秋季大祭 1016日 新嘗祭 1128
 岡諏訪神社や妙安寺・上岡馬頭観音のある「上岡」交差点のある国道407号線を熊谷方面に1.4㎞程進み、「森林公園北口入口」のすぐ先にある丁字路を左折し、その後500m程道なりに西行すると、進行方向右側に揚井白髭神社の正面鳥居が見えてくる。
        
                                
揚井白髭神社正面
『日本歴史地名大系 』「和田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、一部は比企丘陵にまたがる。村の中央を和田川が東流し、西は原新田など。用水は丘陵を刻む小さな谷頭に築かれた五つの溜池を利用(郡村誌)。中世は和田郷に含まれていたとみられ、同郷は和田川流域に比定される。嘉慶三年(一三八九)二月三日の官宣旨(浄光明寺文書)によれば、北朝は「男衾郡内和田郷」を鎌倉浄光明寺の一円不輸の地とし、伊勢大神宮の役夫工米などの臨時公役を免除している。
『日本歴史地名大系』「原新田村」の解説
 大里郡上吉見領に所属(風土記稿)。荒川右岸の江南台地東端付近に位置し、北は平塚新田、南は男衾郡野原村(現江南町)。名主園右衛門の先祖五郎兵衛が開発した新田で、元禄(一六八八〜一七〇四)の改では無高であったが、享保一八年(一七三三)の検地で高入れされた。
       
       鳥居の左側に建つ社号標柱    鳥居の右側には社の案内板が設置されている。
        
             鳥居の先で参道左側には庚申塔、及び青面金剛がある。
               庚申塔の奥に見える自治会館
        
                    社は揚井を一望できる丘陵上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 和田村』には「神明社 薬師寺持、天神社 常照寺持、白髭社 村の鎮守、持同じ」と三社を載せ、このうち当社が村の鎮守であった。江戸期の史料としては、宝暦七年(1757)に神祇管領から献じられた「白鬚大明神」の幣帛、「奉建立時天明五歳乙巳(1785)仲春大吉祥日 常正(照)現住宥範代当邑氏子中 大工村岡邑新井弥七造」と記される棟札がある。
        
    緩やかな上り坂の石段、途中踊り場を数カ所確認しながらその先の社殿に向かう。
       
                                      拝 殿
 白髭神社
 熊谷市揚井地区(旧揚井村)は、明治六年(一八七三)に和田村と原新田が合併し『和名抄』に記載された「揚井郷」の名称から旧村名となりました。揚井を一望できる丘陵上に「白髭神社」は鎮座しています。
 明治時代に編集された江戸時代の地誌「新編武蔵風土記稿」には「白髭社」の名称が記されています。宝暦七年(一七五七)に献呈された「白鬚(髭)大明神」の幣帛があるほか、天明五年(一七八五)に村岡村の大区棟梁の新井弥七によって建立されたことを記す棟札が残されています。神社裏手には「目代坂」という字名があり、かつて和田氏を名乗る武将の館が所在していたと伝わっています。
 滋賀県高島市の白髭神社を総本社としている白髭神社は、明治時代の神仏分離令により旧常照寺の管理から離れ、明治七年(一八七四)に村社となりました。明治時代後半には、境内地に天満宮が合祀されています。また一方で、日高の高麗神社の祭神「若宮」に対する信仰から「白髭」の名が冠されたという伝承もあります。
 社名については、境内門の「髭」、社殿の「鬚」をはじめ、他に「髯」と刻まれる箇所があるなど標記の使い分けに興味深い点が見られます。
 白髭神社の祭神の一つである「猿田彦命」は、日本神話上の伝説から「導きの神」として信仰を受けています。祭礼では、無事安泰な日常生活へと導かれるように祈願され、年間を通じて各種の神事が行われています。
 白髭神社は、揚井地区の郷土文化や民俗信仰を現代に伝える貴重な歴史遺産として人々の崇敬を集めています。
 令和二年十一月  吉岡学校区連絡会
                                     社頭案内板より引用
 
 祭神である猿田彦命は“導きの神”といわれている。これは、猿田彦命が、天孫降臨の時に、皇孫を天八衢(あめのやちまた)にお迎えし、筑紫の日向の高千穂の槵觸(くしふる)の峰にお導き申し、更に皇孫は天鈿女命に送られて伊勢に至ったとの故事に基づくものである。
 因みに『天八衢』は「高天原(天)にある多くの分かれ道」、「天にあって、八方に通じている分かれ道」、「天にあって、分かれ道が多数集まっているところ」などと解釈されていている。
 なお『明細帳』には神楽殿があったことが記されており、嘗て春等の祭りには神楽の奉納もされていたのであろう。
       
            拝殿に隣接して祀られている境内社・天満宮
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 小名 目白坂 村の北なり、此邊布目瓦など掘出すことありと云、土人當所古へ和田一黨の住し地ならんといへど、たしかなることはしらず、
 神明社 藥師寺持、
 天神社 常照寺持、
 白髭社 村の鎭守 持同じ、
 藥師寺 禪宗曹洞宗、男衾郡野原村文殊寺末、光明山と號す、本尊藥師、
 常照寺 新義眞言宗、横見郡今泉村金剛院末、彌陀山と號す、本尊地藏寺室に惠心の描し、彌陀一軸を藏せり、

       
            社殿の左側奥にひっそりと祀られている神明社

 揚井白髭神社の境内には「瀬戸山古墳群」またの名称を「楊井古墳群」と呼ばれている古墳群が存在している。この神明社の奥にも墳丘らしきふくらみが見られ、古墳と推測されている。
 この古墳群は、和田川と和田吉野川に挟まれた吉岡台地の東縁部緩斜面上、標高3235mに位置する。昭和34年(1959)から52年にかけて、円墳六基・前方後円墳一基が調査されている。円墳は径1032mで、主体部は凝灰質砂岩の切石を使用した胴張りもしくは直線胴の横穴式石室で、瀬戸山一号墳からは杏葉・雲珠が出土したという。
因みに、
『大里郡神社誌』において、所在地は「大里郡吉岡村大字揚井字瀬戸山に古より鎭座す」と載せている。この地は、歴史ある「瀬戸山」の地であるのだ。
        
                社殿から正面鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」
    「熊谷Web博物館」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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籠原南諏訪大神社

 JR高崎線の熊谷駅と深谷駅の間には「籠原駅」がある。熊谷市の西部に位置し、深谷市との境界地にも近い所に立地している。この駅には車両基地(籠原運輸区および高崎車両センター籠原派出所)があり、この駅を基点として「上り」の際の連結、「下り」の際には切り離しを行う利便性のある駅でもある。同時に籠原駅始発の車両も多く、籠原駅近辺の住民の方々、特に行政上深谷市に居住している方々も、深谷駅よりこの駅を利用する方が多いのも事実である。
 不思議な事だが、この「籠原」という名称は、駅名であって、つい最近まで地域名としては存在していなかった。というのも、開業当初の所在地名である大里郡玉井村大字新堀から「新堀駅」と名づけられる予定であったが、同じく貨物駅を兼ねてあった東京都の日暮里駅と混同される恐れが出てきたため、付近の小字名を取って籠原駅と名づけられたという経緯がある。但し、正式に言うと小字名の「籠原」は、「こもりはら」と読む。
 開業以来長らく(表に出る)地名と駅名が合致しない状態であったが、熊谷市民や近隣住民は駅一帯を指して「籠原」と意識してきた。そこで、2007年(平成19年)10月、籠原中央第二土地区画整理事業により当駅南口ロータリー以南の一定区域の地名が「籠原南」(1 3丁目)に変更され、初めて「籠原」が市名の直後に来る表の地名となったという。
 この籠原駅南口を降りたすぐ右側に籠原南諏訪大神社は静かに鎮座している。駅南口繰りの再開発により綺麗に整えられた景観の中に、この社はうまく調和している。それどころか、まるでこの地域の方々のみならず、駅を利用する人々に対しても「守り神」の如き存在感がそこにはある。そういう意味において、この社がそこに存在するだけで、筆者としては畏敬と感謝の念を感じずにはいられない。
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市籠原南1200
             
・ご祭神 建御名方神 菅原道真 建速須佐之男命
             
・社 格 旧新堀村鎮守 旧村社
             
・例祭等 四方拝 13日 節分祭 23日 例祭 415
                  
八坂祭 719日~20
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.1755138,139.3287224,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR高崎線籠原駅南口手前のすぐ左側に鎮座する。通勤、通学で多くの乗降客がこの駅を利用していて、かくいう筆者の居住地もこの籠原地域である。当然籠原駅は通勤で利用させて頂く中で、この社の存在も当然知っているし、何度か参拝もしているが、ブログという形で今まで紹介していなかったことを反省している。灯台下暗し、とはこのことだ。
 専用駐車場はないので、早朝散歩がてら、自宅から徒歩にてこの社に参拝を行う。
        
                           
籠原南諏訪大神社正面
          この写真のすぐ左手には籠原駅南口の自由通路がある。
 籠原南諏訪大神社が鎮座する地は嘗て「新堀村」と呼ばれ、『日本歴史地名大系』によれば、≪北は中山道を境に玉ノ井村・東別府村・西別府村。東の高柳(たかやなぎ)村との境となっている荒川の旧河道は古堀(ふるぼり)といわれ、地内には同名の小字も残る。「郡村誌」に「慶長の頃村の中央奈良堰用水新に成を以て新井堀村と改称し、後新堀村と改称す」とあるように、古堀に対して奈良堰(ならぜき)用水を新堀と称したのが村名の由来であろう≫と記載されている。
 
 正面入り口を過ぎてすぐ左手に庚申塔・青面     庚申塔等の石碑の右並びには
     金剛・弁才天等が並ぶ。        この社の年間祭事表も掲示されている。

『籠原』という字名の由来に関して、「新編武蔵風土記稿」によると、籠原は新堀村の小字であり、当時は「かごはら」ではなく、「こもりはら」と呼ばれていた。こもり原の「こもり」は、沼地の意味があり、一帯が湿地であったことから、この地名がおこったと推測されている。
        
                           参道を進む途中にある手水舎と鳥居
 境内は決して規模が大きいわけではない。しかし、冬でも落葉しない常緑樹の多い社叢林が境内に日陰部をつくり、それ程奥にはない社殿を覆い隠すシェルター的な作用を引き起こしていて、目を凝らさなければ暗くて奥の社殿は見えない。それが多く社叢林のある社の神秘性、神聖性を醸し出す一つの要素でもある事だともいえよう
       
          鳥居のすぐ先に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 往古、諏訪神社を祀った当地は沼の岸であった。『古事記』に、長野県の諏訪湖は「州羽海」と書かれている。州は浅瀬を、羽は端を表している。八ヶ岳から諏訪湖に流れ入る土砂が造った沃地が諏訪である。また、諏訪神社の祭神建御名方神の御名方は水潟であり、水の神様である。土地開発は水によってなし遂げられる。
 古代の当地は、恐らく諏訪に似た所であり、当社は諏訪地方から当地に入り、開発を進めた人たちにより祀られたものであろう。これを、草分けの森田家では、後世、武田信玄の盛名によってだろう、「森田は、武田家ゆかりの家」であるとして今に伝えている。
 当地は、古くは畑村と称していたが、慶長年間(15961615)に奈良堰用水が新設されて、新堀村と改称している。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
           拝殿手前には樹勢良好なシイの御神木が天空を覆い、
           早朝にも関わらず陽光を遮断している(写真左・右)。
        
 ブログ編集時に気付いたが、拝殿前に立つ二本の巨木が、意図的に寄り添い社殿を覆い、まるで隠しているようにも見える。
        
                   拝殿前にある「諏訪大神社の沿革の沿革」の案内板
 諏訪大神社の沿革
 一、村社諏訪大神社の創立 不詳
 二、村社として届出 明治四年四月七日
   大里郡玉井村大字新堀字諏訪前七五六番地
 三、無格社で八坂神社、菅原神社、山神社、明治四十二年四月一日合祀
 四、祭神
 一、建御名方命(たけみなかたのみこと) 稲、水の神 諏訪神社
 二、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと) 武芸に猛けた勇ましい神
 三、菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 学問の神 天満宮
 四、山神社
 昔、当社の地形は恐らく長野県の諏訪地方とよく似たところであり、諏訪地方から当地に移り住んだ人達が開発を進め、祀ったものであろうと言われている。昔、当地方は畑村と称し、農学が盛んに行われていた。たまたま慶長年間に奈良堰用水が新設されて新堀村と改称された。
 又、拝殿に掲げてある社号額の裏に「坊こう嬢疫」と記された稲の神としても祀られ広く親しまれてきた。
                                      案内板より引用

 
  拝殿の向かい側にある万燈神輿庫と神輿殿     万燈神輿庫と神輿殿の並びに建つ社務所
 
   境内社・天満宮、その脇に石祠あり。     天満宮の左並びにある石碑・燈籠等。
        
                               社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「籠原公民館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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箱田神社


        
              
・所在地 埼玉県熊谷市箱田43
              
・ご祭神 事代主命 別雷命 倉稲魂命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 祈年祭 328日 例祭 728日 新嘗祭 1128日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1481485,139.3881519,18z?hl=ja&entry=ttu
 肥塚伊奈利神社から熊谷市役所方向に1㎞程南下し、東西に流れる「成田用水」の十字路を左折すると進行方向左手に箱田神社が見えてくる。箱田神社には専用駐車場はないので、近くの県立熊谷図書館で所用を済ませた後に、徒歩にて参拝を行う。徒歩でも5.6分程で到着できる距離だ。
        
                   箱田神社正面
 熊谷市箱田地域は『新編武蔵風土記稿』編集当時、埼玉郡忍(おし)領に所属していて、小さな村だったらしく、「上ノ村新田箱田村」と記されていた。荒川の沖積扇状地末端に位置し、南の大里郡熊谷宿との郡境は成田堰用水(荒川旧河道の一つ)で、流末は星川と忍川に注いでいた。
但し「箱田」という地名の歴史は古く、
箱田(筥田)氏の名字の地とされ、成田系図(龍淵寺蔵)によると成田助広の子広能が箱田右馬允を称し、保元の乱で上洛したのち豊前門司関(現福岡県北九州市門司区)で死去したと記されている。
 
    鳥居を過ぎてすぐ右側にある手水舎       鳥居の右手にある社号標
        
                            静寂の中にも歴史を感じる社
 成田氏族箱田氏  埼玉郡箱田村に土着して箱田と名乗る。
成田系図(龍淵寺本)「成田太郎助広―箱田小治郎広能―広忠―三郎兵衛能忠―三郎助忠―四郎能綱」
別府系図「成田太郎助広―成田小次郎広之(箱田右馬允、於門司関打死)―箱田刑部丞広忠―三郎助忠」
中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)「箱田。藤原姓、本国武蔵、成田太郎太夫助広の男小次郎広能・これを称す」
保元物語「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には箱田ノ次郎」
吾妻鑑巻五「文治元年十月二十四日、頼朝随兵に筥田太郎」

『新編武蔵風土記稿 上ノ村新田箱方村条』
「箱田の名も古きことにして、古の箱田三郎と云もの住せし地なりと、又成田系図に箱田右馬允・其子刑部丞広忠・其子三郎兵衛能忠・其子三郎助忠など云あり、是等成田の一族にして〇に住し、箱田を以て家号とせしものならん、
 今按に正保の国図には此村名を見ず、元禄改定の図に始めて載たり、しかれば箱田と云は古へ上の村の小名にて、正保より後に分村せしゆへ、上の村新田の名を冠りしにや」
        
                     拝 殿
 創立年代は不詳。かつて久伊豆明神雷電権現と称し、口碑に従五位下式部大輔成田助高の孫成田広能天喜寛治年中の頃、箱田郷に封じられた時に、先代々より氏神として、山城国加茂御祖神社、加茂別雷神社を崇敬していて、当村を領した際にあたり、勧請した。
 時代が下り、成田親泰が文明年中に、忍城主忍海部を攻めようと際にも、戦勝を祈願し、延徳元年に忍海部の末孫忍三郎一族を滅ぼす。同二年忍城を増築居城とする際にも、崇敬祈願をこめて神田若干寄進した。
 徳川氏慶長4年社領十石諸役免除神供祭体修造等の不可解怠之旨朱印を寄せられた。
 明治6年村社申し立て済み、明治4476日字西原の無各社伊奈利神社を合祀の上、久伊豆神社・大雷神社・伊奈利神社の合殿を箱田神社と改称許可をうけ、今日に至っている。
 大正元年918日神選幣帛料供進神社に指定される。
 尚、加茂御祖神社の祭神は、玉依姫命・大山咋之命で、本来ならば当社も同じであるべきであったが、明治御改正の砌(みぎり)、久伊豆明神ということで、伊豆国三島神社を勧請したことにより、事代主命を奉斎したという。
*「大里郡神社誌」より引用。旧字体が多いため、筆者が読みやすく編集。
 
         拝殿の扁額             神明造檜材屋根銅板葺の本殿
        
           箱田神社社殿の右側に鎮座する境内社・皇大神宮
              境内社の位置づけが勿体ない程の社
        
       
皇大神宮に通じる参道の左手にある枯れても大切にされている神木
 枯死した御神木の大杉の詳細は不明だが、下部だけになった幹には注連縄が巻かれ、屋根付の専用の囲いがあり、地域の方々から大切にされていることが分かる。
 屋根の中を見上げるとお札が取り付けられていて、「天皇御在位十周年記念 御神木大杉覆屋新築工事 平成拾貮年七月吉辰日」とあり、天皇の在位記念として平成12年(2000)に御神木保護のために工事されたようだ。

 またご神木の右並びには「箱田神社之碑」の石碑がある。所々判別しずらい所もあったが、要約すると以下の通りとなる。
                                     箱田神社之碑
                        陸軍中将従三位勲二等男爵佐野延勝篆額
                    武蔵国北埼玉郡成田村字箱田有鎮守社〇久伊豆神
                    社大雷神社及伊奈利神社三社合殿祀事代主命別雷
                    命及倉稲魂命為村社今茲七月請官改称箱田神社矣
                    〇社地〇〇〇〇〇〇社殿係天保七年所建設郷人敬
                    処奉仕匪〇〇〇以社殿漸頽社地甚隘為憂也遂胥謀
                    〇力聚財更増社域三百餘歩新営本社拝殿華表水屋
                    及社務所以明治四十三年三月起工以四十四年四月
                    竣工所費金二千餘圓矣以神武天皇祭日行遷宮式神
                    殿崇麗社域濶大復非前日此神威益揚人心長安於是
                    郷人欲建碑以伝盛事来徴余文余深嘉其挙為敍梗概
                    如此
                       明治四十四年七月  従六位林有章撰并書
        
                                
皇大神宮
 『大里郡神社誌』において、その名称は「伊勢社」と明記されている。ご祭神は大日孁貴命。
       
                    社殿右側にも境内社・三峯神社 山神社が鎮座する。
                          三峰山大神と大山祇大神を祀っている。
          
                      境内社・三峯神社 山神社の左側に石祠群が鎮座  
 この石祠群の詳細は不明だが、一番左側は梅鉢紋なので、天満宮なのであろう。また手前には牛の像もあり、神使石像の類であろう。一番右側の石碑は塞神。
        
           境内社・三峯神社 山神社の奥にある石祠と石塔

        
       箱田神社に通じる道路に沿って「成田用水」は静かに流れている。
 熊谷市出身の筆者にとって、この箱田地域は県立熊谷図書館もあり、すぐ南側に熊谷市役所が、また市役所の東側にも広大な中央公園があるため、熊谷市の中でも、何となく「近代的な街」 のイメージを勝手に抱いていたが、「成田用水」付近はそれらとは一線を画す不思議な風景が広がっていた。何より「成田用水」の水の流れ、せせらぎが心地よい。綺麗な水質にも見え、その用水両岸に建ち並ぶ民家のその眺めは、どこか懐かしく、それでいて自分だけの裏道を見つけたような、静かな感動を覚える今回の参拝であった。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「日本歴史地名大系」「熊谷市web博物館」
    「境内碑文」等

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肥塚伊奈利神社

 
        
                           ・所在地 埼玉県熊谷市肥塚27
                           ・ご祭神 倉稲魂命
                           ・社 格 旧肥塚村鎮守 旧村社
                           ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 1014日 新嘗祭 1126
                     *例祭日は「大里郡神社誌」を参照。
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1574711,139.3878268,18z?hl=ja&entry=ttu
 熊谷市の北大通りを市役所方向に進み、熊谷商工会議所手前の信号のある十字路を左折し、街中を北上するように1.2㎞程進むと、進行方向左側に肥塚伊奈利神社の鳥居が見えてくる。
 専用駐車場はないので、西側に近隣する「成就院」の駐車スペースか、社に到着する手前で、右側にあるスーパーの駐車場を利用する。どちらか迷ったが、今回はスーパーの駐車場に置かせて頂いた。勿論、スーパーで買い物を済ませた後に参拝を行った
        
                街中に鎮座する肥塚伊奈利神社
 熊谷市肥塚地域は、嘗ての肥塚村で、『日本歴史地名大系』での解説によれば、荒川の沖積扇状地東端に位置し、自然堤防や後背湿地が発達している地域で、標高は26.5 m程。荒川旧河道の一部が南の熊谷宿・箱田村の境界をなしていたという。『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代は大里郡忍領に所属
 肥塚伊奈利神社の創建年代は不詳だが、成就院の境内鎮守社だったといい、神仏分離令に伴い、明治2年当地へ遷座、明治42年村内の12社を合祀している。
        
「熊谷Web博物館」には「肥塚」の地名由来に関して以下の説をあげている。
肥塚(こえづか)はヒツカの転化から
下美作左衛門大夫家泰の勲功を賞した感状に「武蔵国大里郡枇塚(ヒツカ)郷」と記されている。ヒツカ(枇塚)とは火塚の意味で、火の雨塚ともいい、火の雨が降ったときかくれた塚だという伝説をもつ塚がその名のおこり。
火塚(ヒツカ)(火の雨塚)→枇塚(ヒツカ)→肥塚(ヒツカ)→肥塚(コエツカ)
肥塚はヒツカの当て字で、肥塚と書いたため後世その意味を忘れて“コエツカ”と呼ぶようになった。〔埼玉県地名誌〕
肥塚は、枇塚・声塚とも書き武蔵七党丹党の肥塚氏の所在である。
新編武蔵風土記稿』には、「村内に肥塚殿という古墳があり、その碑には、康元二年(1257)の銘があり、村人たちの伝えによると、肥塚太郎光長の墓である」と記されている。
開墾の年代は詳ならざねど、村内に肥塚殿と称する古墳ありて、其碑は康元二年の銘あり、土人の傳へに此地の領主肥塚太郎九郎光長といひし人なりと、康元は後深草院御宇の年号にて【東鑑】の頃なれば、尤古く開けしことしらる、肥塚のことは猶下に出せり」
肥塚は武蔵七党の内丹党の枝流にして、古は爰に住し在名を唱へしものならん」
       
      正面鳥居の手前で右側にある社号標   鳥居を過ぎて右側にも社号標あり
        
                     拝 殿
 肥塚氏は肥塚郷を本貫地とし、その館跡は成就院周辺といわれている。肥塚氏系図によれば、熊谷氏の祖である直季が熊谷に住し、弟の直長が肥塚に住んで肥塚を称し、その祖となったとされている。承久3年(1221)、朝廷と鎌倉幕府との間に勃発した承久の乱では、肥塚太郎が熊谷平内左衛門(直国)らとともに幕府軍に加わり、近江国勢多橋(滋賀県大津市)の戦いで討死している。
 正平7年(1352)、美作左衛門大夫(本郷)家泰が、勲功により元は牧七郎兵衛のものであった大里郡桃塚郷を、室町幕府将軍足利尊氏から与えられている。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、この桃塚を枇塚(ひづか)に充てている。さらに、枇塚は肥塚の当て字で、肥塚は古くは「ひづか」とも呼んでいたとしている。また、応永3年(1396)に当地方で大般若波羅密多経の書き写しが行われたが、そのおり、村岡(熊谷市村岡)の如意輪寺担当分の巻を、肥塚の宝珠寺(所在地不明)で書写している。
 一方、上野国新田荘にあった世良田山長楽寺 ( 群馬県太田市 ) の住持、賢甫義哲が著わした『長楽寺永禄日記』の永禄8年(1565)の項には、北条氏邦が忍城を攻める際、同年9 15 日に三相(御正=熊谷市御正新田付近)の陣を払いコエ塚(肥塚)に着陣し、同月 20 日には越塚(肥塚)の陣を払い、奈良(同市奈良)に陣を進めたと記されている。
        
                     本 殿
 肥塚伊奈利神社の西側近郊にある「成就院」は「肥塚山阿弥陀寺」と号す真義真言宗の寺で、江戸愛宕真福寺(東京都港区)の末、古くは鎌倉胡桃谷大楽寺(神奈川県鎌倉市=廃寺)の末とされる。
 肥塚地内観音堂の北側には2基の板石塔婆が建立されており、康元2年(1257)銘のものが肥塚太郎九郎光長の碑とされ、阿弥陀種子(キリーク)が刻まれ、その下に無量寿経の偈文と「道義禅門」の名が記されている。もう1基は応安8年(1375)銘で肥塚八郎盛直の碑とされ、地蔵菩薩が刻まれ、その下の左右に光明真言と「道幾禅門」の名が記されている。
 肥塚氏供養板石塔婆は熊谷市指定有形民俗文化財で、昭和29113日指定されている。
 肥塚氏の本貫地は、この「成就院」付近と考えられよう。現在の肥塚の小字に堀ノ内は見当たらないが、『新編武蔵風土記稿 肥塚村条』にも、館跡に関係する小字「堀ノ内」が存在していた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌
    「熊谷市公式HP 肥塚公民館」「熊谷Web博物館」等
 

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