古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

木部松久神社

 美里町木部地区は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれ、地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
○猪俣党木部氏 那賀郡木部村より起る。
 小野氏系図(畠山牛庵本)「猪俣時範―家兼―木部次郎行兼」
 中世においては、那賀郡に所属し、元亀元年(1570)の発給と推定される鉢形城主北条氏邦印判状の中には、木部村内に高柳源左衛門の屋敷地を安堵した旨が見える。
○木部勝蔵文書(東京浅草区馬道町)
「元亀元年五月五日、北条氏邦の奉行中村は、高柳源左衛門に印判状を発給し、木部村の寄居に取立候屋敷の一円不入を命ず」
「天正二年六月九日、氏邦奉行桑原左馬助は、高柳源左衛門に印判状を発給し、知行方、八貫五百文松村帯刀跡、七貫文岡部弥七郎分之内、以上十五貫五百文の地を宛行ふ」
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町木部549
             ・ご祭神 建御名方命 多津乃神 伊邪那岐命 伊邪那美命
                  建速須佐之男命 応神天皇
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123
                  大祭 6月・12月
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1718479,139.1752739,18z?hl=ja&entry=ttu
 木部松久神社は、埼玉県道31号本庄寄居線を本庄市方面に北上する。「甘粕」交差点を直進すると「美里町 踏切手前左折 遺跡の森総合公園」の看板の先のT字路を左折、道なりに700m程進むと真東寺や木部松久神社の社叢が見える。木部松久神社に隣接する真東寺の駐車スペースを利用して、そこに車を停めて参拝を行った。
参道の入り口が分かりづらく、今回は真東寺の駐車スペースからのスタートとなったが、本来参道の入り口は丘陵下の民家の横の田んぼのあぜ道があり、そのあぜ道の先に標石がある。
        
                社は丘陵地、斜面上に鎮座。
            やや急な角度の石段を登ると鳥居が見えてくる。
        
                   鳥居から撮影
 
      鳥居に掲げてある社号額         更に石段を登ると社殿が見えてくる。
        
                     拝 殿
        
松久神社 鎮座地  美里町大字木部五四九番地
 由緒

 木部は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む木部氏の在所であった所といわれている。木部氏は猪俣家兼の子行兼と称したのが始まりであるという。地内には、平安時代から鎌倉時代にかけて築造されたものと思われる木部氏館跡もある。
 元来、木部の鎮守は、「風土記稿」木部村の項に「聖天社二宇共に村の鎮守にて、一は真東寺持、一は村持」と記されているように、二つの聖天社であり、この二社は共に明治五年に村社となり、真東寺持ちの聖天社は西二柱神(字西に鎮座)、字持ちの堅天社は東二柱神社(字森下に鎮座)と称するようになった。一方、当社地には、古くから真言宗の真東寺の寺鎮守として諏訪社と八幡社が祀られており、諏訪社は、弘化二年(一八四五)に地頭の松前氏から祈雨竜神を拝領して神社を再建したとの伝えがあることから、神仏分離の後は、諏訪竜神神社と称した。
 明治四〇年四月、政府の合祀政策に従って、この諏訪竜神神社に、東西の二柱神社及び宇道場の無格社八坂神社及び字前山の八幡神社が合祀された。これを機に社号を松久神社に改称し、社格も村社となった。因みに「松久」の名は、その当時木部が属していた松久村の村名を採ったものである。
                                      案内板より引用
   
      拝殿に掲げている標額               本 殿

 社は「美里町遺跡の森」のある丘陵の北斜面・標高約100m上に鎮座している。木部松久神社が鎮座している木部地区は南北に伸びる地区で、「美里町町役場」から「遺跡の森 総合公園」までの美里町の主要施設を含む地区(JR八高線 松久駅周辺は甘粕地区)で、東から南にかけては甘粕地区、一部白市地区にも接し、北側には古郡地区、西側には駒衣地区と接している。
 因みにJR八高線「松久駅」があり、嘗ては松久村も存在していたが、大字には現在存在していない。但し上記「松久駅」もそうだが、「松久公民館」や「松久小学校」「松久保育園」のように、旧村名「松久」を使用している施設等も多く存在する。
 
   社殿の奥に輪座する末社。詳細不明。       末社群に隣接する境内社合社
                         左から八幡神社・八坂神社・稲荷神社

 ところで、木部松久神社に隣接する真東寺は、梅樹山地蔵院と号する。創建年代は不詳だが、文明3年(1471)に真言宗醍醐派から真言宗智山派に宗派替したと伝えられている。天明3年(1783)浅間山の大噴火の後、火災に遭い天明6年(1786)本堂を再建、宥勝寺より延命地蔵菩薩像を譲り受け、院号を地蔵院と改めました。広大な境内には四国八十八ヶ所の写しが造作されており、多くの巡拝者を集め、また児玉三十三霊場26番霊場となっている。
 
         四国八十八ヶ所写しの風景           真東寺天満宮も鎮座する。


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白石西大澤神社

 美里町史による西大沢神社の由緒では「大字白石にあり、素盞嗚尊ほか8柱を祭る。創建は不詳であるが、鎌倉時代に猪俣小平太範綱が武運長久を祈願し霊験を得たといわれている。古の本地仏(神の本地である仏)千手観音は、空海の作であるということが正徳6年(1716)丙申閏2月の古文書に書かれているといわれるが、その文書が何であるか不明である。古くは牛頭天皇といったが、明治5年(1872)に八坂神社と改称、明治42年(1909)合社により西大沢神社となった」との記載がある。
 猪俣小平太範綱は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将、御家人。猪俣党宗家の家筋で、武蔵国猪俣(現、荒川上流域の埼玉県児玉郡美里町)を本拠に活躍した武士である。『保元物語』に同族猪俣党の岡部六弥太忠隆、酒匂三郎とともに源義朝に従ったとあり、また「平治の乱」でも源義平十七騎の中に名が見える。源義平は源義朝の長男、通称「悪源太」。この17騎とは鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎の雄将として知られている。源頼朝挙兵後は頼朝に仕え、一の谷合戦で平家の勇将盛俊を討つなど、戦場においてしばしば功績をあげている。
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町白石353
             ・ご祭神 素盞嗚尊 
             (合祀神)武甕槌命 斎主命 天児屋根命 
比売神 羽黒神
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 春祭り 415日 例祭 旧暦61日 新嘗祭 1210
                  冬至祭 12月22日 
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1629159,139.165959,17z?hl=ja&entry=ttu
 
白石西大澤神社は国道254号を児玉町方向に進む。「駒衣」交差点を左折し、1㎞程進み、埼玉県道349号広木折原線に合流する手前の十字路を左折すると白石西大澤神社の社叢が見えてくる。南側には東西に流れる天神川が流れ、松久丘陵の麓付近とはいえ緩やかに坂のある地域に鎮座していている。
 南向きの社殿で広い境内、鳥居の南側には公園もあり、その公園に通じる場所には駐車スペースもあり、そこに停めて参拝を行った。 
        
               西大澤神社社号標から社殿の様子
 
     上部の島木・笠木が長く感じる鳥居        鳥居の先で、左側にある案内板

西大澤神社 鎮座地 美里町白石三五三
 御縁起(歴史)白石は松久丘陵に位置する山間の村で、天神川に沿った地域に集落と耕地がある。当社は天神川沿いに鍍座する。『児玉郡誌』には「当社は往昔は牛頭天王と称せしが、明治五年に八坂神社と改称して地方の者深く崇敬せり、創立年代は詳ならざれども、祭神武徳の大社たるを以て、近地猪俣の住人猪俣小平六範綱が、武運長久の祈願を籠めて霊験を得たりと云伝ふ、往時の本地仏千手観音に名僧○〇の作なりと云ふこと正徳年間(一七一一~一六)の古文書に在り、又社殿は享保三年(一七一八)に改造したる時の棟札今に現存せり」とある。本地仏の記述から別当の存在をうかがわせるが、『風土記稿』に当社は村民持の「天王社」として見え、別当についての記載はない。
ただし、天神川を隔ててすぐ南側には明応年間(一四九二~一五〇一)ごろより榛沢郡のうち十ヵ村の年行事職を務めたとされる本山派修験宝積坊跡(上田栄治家)、また東側にはこの宝積坊配下の智積院跡(小林桂之輔家)がそれぞれあり、両坊が当社の祭祀に関与したことは想像に難くない。明治四十二年には、旧湯本村の春日神社(中居明神社)、大仏村の羽黒権現社、円良田村の山王神社を当社に合祀し酉大沢神社とした。
その社名は、当社が往古大沢郷と称した地域の西部に鋲座していたことにちなむものである。
                                                                             案内板より引用
        

                     まるで石垣を思わせるような石組で構成されている。
        
                     
拝 殿
        
                     本殿覆屋
 
          
社殿奥に鎮座する境内社(写真左・右)。詳しい所は不明。
         
これだけの立派な境内社に説明等全くないのは残念
           
           
境内にある御神木(写真左・右) 暖かい時期に再度見てみたいものだ。
          
                   
境内隅にある神楽殿


 猪俣小平六範綱の墓(県旧跡)は大字猪俣の高野山真言宗高台院内にある。この高台院(本尊十一面観音像)は町の南東部、猪俣集落から少し上ったところにある猪俣氏の菩提寺で、猪俣氏が創建したとされているが、古記録等すべて失っているので、その時期などについては不明である。                  

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東大澤神社

 美里町猪俣地区の西南西にそびえる陣見山は古代・中世の那珂郡と秩父郡との境をなす山だったといわれ、東西に走る尾根の北側に広がる丘陵地帯が那珂郡で、中世は武蔵七党猪俣党の拠点となっていた。
 中でもその本貫地となっていたのが当地で、南部の境山頂上には、かつての猪俣城があった。また、地内を鎌倉街道上道が通り、当社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社望別を通る道が鎌倉街道といわれている。

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町猪俣63
             ・ご祭神 大雷命
             ・社 格 旧指定村社
             ・例祭等 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123日
                  大祓 6月・12月
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1589805,139.1827507,17z?hl=ja&entry=ttu
 東大澤神社は国道140号バイパスから寄居警察手前の三つ又に分かれる分岐点を美里方向(国道254号線)に進み、「猪俣」のY字路を右折する。埼玉県道31号本庄寄居線に合流して、数分北上し「野中」交差点を左折。今後は埼玉県道175号小前田児玉線に代わるが、最初の十字路を左折し、暫く道なりに進み、次のT字路を右折すると右側に東大澤神社が見えてくる。
「雷電三社」である中里雷電神社の東南方向、甘粕神社からは南方向にあたるので、地図を見ると分かりやすいが、文章にすると社までの道順の説明が細かくなってしまう。その点はご容赦の程お願いしたい。
        
 
社伝によれば、当社は、征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷征討のため、当地に至った所激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために、当社(旧雷電社)を含む、雷電三社を祀ったこと由来すると伝えられる。明治4332社を合祀し、東大澤神社と改称した。当社前を通る道が鎌倉街道と云われている。
              
                   東大澤神社 社号標
        
               入口石段を越えて左側にある案内板
東大澤神社  鎮座地 美里町大字猪俣六三番地
由緒
当地の西南西にそびえる陣見山の尾根の北側に広がる丘陵地帯が古代・中世の武蔵国那珂郡で、中世は武蔵七党猪俣党の拠点となっていた。中でも本貫地となっていたのが当社で、南部の城山頂上には猪俣城があった。また地内を鎌倉街道上道が通り、当社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社の前を通る道が鎌倉街道といわれている。
 当社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷電三社を祀ったことに由来すると伝えられている。この雷電三社とは、当社(旧雷電社)・甘粕神社(旧雷電社)・雷電神社(大字中里鎮座)のことで、雷電三社は国道二五四号線に架かる天神橋を中心に三角形を形作る。江戸期には本山派修験の五大院が別当を務めていた。同院の開山は「法印仙翁」で、明応二年(一四九三)に入寂していることから当社もこの頃には既に祀られていたと思われる。
 明治五年当社は村社に列せられ、同四十三年三月字明神裏(字栃久保)の村社春日神社と字海道南(字小栗)の村社三島神社の二柱を当社に合祀し、当時の大澤村の東に位置することから社号を東大澤神社と改称した。また同時に合祀した村社の境内社並びに村内の無格社十六社を境内に移転し、関連する社ごとに合祀を行い、当社の境内社として祀られた。     案内板より引用

〇猪俣村 
雷電社三宇。
一は高台院持、一は歓蔵院持、一は五大院(注:廃寺)司れり。  『
新編武蔵風土記稿』より引用
        
                 一の鳥居から社殿を望む
 東大澤神社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社のすぐ近くを通る道が鎌倉街道上道といわれている。また鎌倉街道上道沿いに鎮座する雷電三社(東大澤神社・中里雷電神社・甘粕神社)は北東方向に流れる天神川を挟んで見事な三角形を形成している。
        
                      拝 殿
       
         東大澤神社拝殿に掲げている扁額            本 殿
 
       境内社 琴平神社           琴平神社に並列している合祀社等
 また琴平神社の手前には「田壱段七畝五歩」と刻まれた石碑がある。
この「段・畝・歩」とは土地面積を示すのに用いる昔の単位名で、令制では,1町=10段,1段=360歩,1歩=6尺平方で,中世には240=大,180=半,120=小も用いられた。太閤検地では,63=1間,1間平方=1歩,30=1畝,10=1段,10=1町とする町段畝歩の制を採用し,江戸時代には,6尺平方=1歩(1坪)としたという。
 合祀社に関しては、左から八坂神社・蚕影山神社・諏訪神社・天神社・天照皇大神・稲荷神社・愛宕神社・八王子神社・山神社・石祠2基で鎮座している。
        
                    境内の様子
「雷電三社」の「三」という数字に関して、気になったので今回その考察をすることをお許し願いたい。というのも日本人にとって数字の3は好ましい数字の1つとされ、3で何かをくくることが多い理由としていい加減さの象徴で大小や白黒どちらかと割りきらずに3つめの候補を出すことで懐の深さや柔らかさを好む国民性に合っているとする説や、その読みが「みっつ」であることから、思いや願いが叶うという意味の「満ち」や、充足を意味する「充つ(みつ)」でいっぱいになるめでたい気持ちがある説、2つの候補では心の余裕がない傾向があるためでもある。
和食の世界では切れたり割れることに繋がらないように奇数が好まれ、日本人の名字には三が一番多く使われるのは元々地名として「御」の字が使われていたのが神や天皇を意味する字だったことから憚って「三」に変化したとされる。
 それ故か社にも
「三」のつく名称は多い。「熊野三山」「出羽三山」「秩父三社」「三輪明神 大神神社」「三峰神社」「三社祭」等。
        

 
東国において特に著名な三社といえば、「鹿島神宮」「息栖神社」「香取神宮」の所謂「東国三社」である。この三社を巡ることは「お伊勢まいりの禊の三社参り」と言われ、関東以北の人が伊勢神宮の参拝を終えた後、帰る途中で東国三社を参拝するという風習があったそうだ。実はこの3つの神社がある場所を線で結ぶと、見事直角二等辺三角形が形成されている。
 埼玉県で「〇〇三社」で有名な社として、埼玉県の一ノ宮・さいたま市大宮区にある「大宮氷川神社」だが、古来より一ノ宮氷川神社は三社あったといわれ、「中川の中氷川神社(現・中山神社)」と「三室の氷川女体神社」を加えた三社が一ノ宮氷川神社と伝えられている。こちらの三社は、龍神伝説で結ばれ、一直線に並んでいる「光の道」と考えられていて、太陽は夏至に西北西の氷川神社に沈み、冬至には東南東の氷川女体神社から昇るという、極めて意図的な配置である。文字通り「三位一体」の社なのである。

「雷神三社」と比較するには、おこがましいかもしれない。なにしろ対象となる社が「東国三社」の「鹿島・香取・
息栖」、氷川神社であれば猶更だ。
 社としてのネームバリューや旧社格・規模こそ違いはあるものの、そこは敢て問わない。所詮社とは「神」の「仮宿」、つまり単なる受け皿に過ぎないからだ。真に重要なことはその神々に対する尊崇・尊敬の念である。

「雷電三社」の鎮座地をこのような配置にした、当時の人々が社に託した何かしらの深い思いがあったはずだ。昨今の神秘のパワーか、都市伝説なのかは、読者の判断に任せるものの、現在に伝わる「獅子舞」や「雨乞い行事」「ささら舞」等の「神頼み」的な伝統行事や神事も当時の人々にとっては当然合理的な儀式の一つだったと考えられる。それを現代に生きる我々は迷信の類と軽々しく決めつけてはいけないことなのだ。

「目に見えない何かにすがりたい」と思う気持ちは、昔も今も変わらない事でもあり、その思いがあるからこそ、八百万の神を信奉する日本人としてのアイデンティティが縄文以前から形成された根本精神であると、昨今ふと感じる事柄でもあるから。


       

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中里雷電神社

 美里町中里地区は、松久丘陵の北部に位置する丘陵上の村で、南の白石地区との境を中世の鎌倉街道上道が通っていて、天正19年(1591)の「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)には「甘粕 中里共」と記され、元は甘粕村と共に一村であった記録がある。
 中里に鎮座する雷電神社は、旧鎌倉街道上道西側に面していて、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいた。また国道254号線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する位置関係にある。当社、甘粕神社(甘粕)、東大澤神社(猪俣)の三社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神を祀ったのが始まりと伝えられていて、通称「雷電三社」と言われている。
        
              ・所在地 埼玉県児玉郡美里町中里8
              ・ご祭神 大雷神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123                                                         大祓 6月・12月
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1589805,139.1827507,17z?hl=ja&entry=ttu
 中里
雷電神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくるので、そのまま直進するとT字路にあたる。国道254線と埼玉県道175号小前田児玉線が変更する地点で、そこを右折すると、すぐ変則的な交差点があり、そこを越えた左側奥に雷電神社の鳥居が見える。
 今回甘粕神社近郊のある関係から、甘粕神社までのルートを参考にして記載したが、もっと分かりやすいルートとしては、国道140号バイパスから寄居警察手前の三つ又に分かれる分岐点を美里方向(国道254号線)に15分程進めば左側に雷電神社の鳥居が見えてくる。
 県道沿いの一角から鳥居方向の広い空間に駐車することは可能だが、安心して駐車したいのであれば、変則的な交差点を越えたすぐ先のT字路を左折し、また次の十字路を左折すると中里雷電神社の比較的広い境内に入ることができる。
 因みに中里雷電神社西側に北西から南東方向に通じる道は嘗て旧鎌倉街道上道と呼ばれ、現在の河越・児玉往還と呼ばれる街道である。
 
       中里雷電神社 鳥居          鳥居から見た中里雷電神社社殿
 社殿が石垣の上、一段高い位置にあり、丘陵地であることが分かる。この辺りは「雷電神社裏古墳」と呼ばれている古墳丘陵で、社殿は丘陵の上に鎮座している。古墳は旧鎌倉街道上道を東西に横切る道に分かれていて、中里雷電神社の北側の浅間大神の塚のあたりまでになっているとの事だ。規模は径10m、高2mの円墳(横穴式石室)で推定築造6世紀半~7世紀代と言われている。
        
                  中里雷電神社案内板
〇雷電神社  鎮座地 美里町
大字中里八番地
 由緒
 当社は、
征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷神三社を祀ったのが始まりと伝えられる。猪俣、甘粕の地にも雷電社が祀られ、当社を含めこの三社を雷電三社と称する。雷電三社は国道二五四線に架かる天神橋を中心に三角形を形成する。当社西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を雷坂と呼んでいる。
 春日造りの本殿は、地元の大工である岡田伊右衛門が建てたもので、この伊右衛門が寛政七年(一七九五)に児玉町秋山の十二天社を造った時の「建立覚書」に当社の本殿と同じ造りにする旨が記されていることから、当社はそれ以前に建てられたものであることがわかる。
 また『風土記稿』中里村の項では「愛宕社は村の鎮守なり、満正寺持ちは諏訪社、雷電社、天神社、村民持ちは稲荷社」とあるように、江戸期には愛宕社が村の鎮守であったが、明治元年の社格制定に際しては当社が中里村の村社とされた。更に愛宕社も含め当社以外の神社はいずれも小規模であったため、明治四十一年に政府の合祀政策に従ってこれらの諸社は当社の境内に移された。                                   案内板より引用
        
                     拝 殿
 社殿の
西側には中世の鎌倉街道上道が通り、当地ではこの通りの坂を「雷坂」と呼んでいて、日本武尊の伝説があるそうだ。社殿は、旧鎌倉街道上道といわれる道に対して背を向けた形で鎮座していて、現在の国道に面した方向に向かって建てられている。
 
 社殿周辺に鎮座する境内社・合祀社(写真左・右)合祀社に関しては、左から神明社・白山社・菅原社・愛宕社・稲荷社・諏訪社が祀られている。
 
   案内板近くには浅間大神等の石碑あり         社殿から境内を撮影  


      

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甘粕神社

        
             ・所在地 埼玉県美里町甘粕634
             ・ご祭神 大雷命、少彦名命
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 新年祭 415日 例祭 1015日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.162802,139.1814671,17z?hl=ja&entry=ttu
 甘粕神社は、国道140号バイパス秩父往還線を小前田駅方向に進み、「花園局」交差点を右折。その後小前田駅を見ながら道なりに進み、埼玉県道175号小前田児玉線を用土駅から美里町方向に暫く直進する。その後「野中」交差点を右折するとその道は埼玉県道31号本庄寄居線と変わり、天神川を越えた最初のT字路を左折すると右側に甘粕神社が鎮座する社叢と鳥居が見えてくる。
 甘粕神社が鎮座する地は東西を丘陵に挟まれた低地から一段高い場所に位置していて、社殿は東向きである。
 社の北側隣には社務所らしい建物があり、そこの駐車スペースに車を停めて参拝を行った。
                              
                   甘粕神社社号標
        
             道を隔てて東側には神橋(神宛橋)がある。
               社塔と社号標も同じ場所に屹立する。
        
                    正面鳥居
 神社周辺は綺麗に掃除が行き渡っていて、氏子様等の日頃の気遣いを感じられた。晴天の日差しの中、日々春に近づくのが体を通じて感じられ、気持ちの良い参拝となった。
 
      鳥居右側にある社の案内板         案内板の隣には石碑もあり     
        
〇甘粕神社   鎮座地 美里町大字甘粕六三四番地
 由緒

 当地は、武蔵七党の猪俣党の流れを汲む甘糟氏の本貫地とされ、猪俣党系図によると猪俣忠基の子家基が甘糟七郎と称している。「吾妻鏡」によると、元暦元年(一一八四)に甘糟野次広忠(家基の子)は、平家追討のため源頼朝から所領の万雑事を免除されている。地内には「堀の内」と呼ばれる甘粕氏館跡があり、その水城の一部が残存している。
『風土記稿』によれば、往時の甘粕村の鎮守は諏訪社で、当社の祭事は真言宗多宝寺が行っていた。因みに「児玉郡誌」によれば、諏訪社は享保二十一年(一七三六)に正一位の神階を拝受し、その際の宗源宣旨が存在したという。
 明治元年の神仏分離令により、当社は多宝寺を離れて村社となった。明治四〇年には、字向田に鎮座した雀神社を本殿に合祀したのをはじめ、村内の諏訪神社、神明神社、稲荷神社、白山神社、天神社を境内社として移転し、これを幾に社号を甘粕神社と改称した。
                                       案内板より引用
        
                                  
石段上に社殿が見える。   
        
                     拝 殿

   
      拝殿に掲げている扁額           拝殿と本殿の位置に注目 
 低地から一段高い台地上に鎮座しているが、その奥行きは広くない。故に社殿・境内社等横並びに配置されていて、本殿部一部岩盤をくり抜いて削平しているのが分かる。
 この地に社を鎮座してからの年月で、土砂の崩落等もあったであろう。本殿基礎部分土砂崩れにより埋没している部分もある。
 
 社殿左側に並列して鎮座する境内社 琴平神社・天神社・諏訪神社・神明神社・白山神社の合祀社(写真左)。その左側に2基の石祠を挟んで、同じく境内社 稲荷神社が鎮座している(写真右)。
            
社殿右側には
「遙拝所」の石碑があり、その奥には紙垂等は見られないが、御神木らしき大木が聳え立つ。
 
 遙拝所の石碑左隣に鎮座する境内社 八坂神社  遙拝所の石碑に右側にポツンとある石祠
        
               高台にある社殿から鳥居方向を撮影

 猪俣党は、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団。武蔵七党の一つで、小野篁の末裔を称す横山党と同族であり、主に猪俣氏を名乗った。 猪俣党は、児玉郡美里に河匂、木部、古郡、甘糟、深谷に荏原、人見、横瀬、本庄に滝瀬、花園に御前田、寄居に藤田、尾園、男衾、岡部に岡部という広がりを見せた。
 『新編武蔵風土記稿』によれば、猪俣村は「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程22里、民戸250、南は円良田村、北は中里・甘糟の2村、西は大仏・湯本の2村にて、東は榛沢郡用土村なり。東西14町、南北20町、村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」とある。
 甘粕氏は
甘糟・天粕とも書く。武蔵七党猪俣党の河勾野大夫政基の弟(古郡八郎の兄)家基が甘糟七郎と称して甘糟氏の祖となり、甘糟野次広忠が当地に館を構えたと伝えられる。

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