古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三田ヶ谷八幡神社

 さいたま水族館は、埼玉県羽生市にある淡水魚の水族館である。この水族館は、三田ヶ谷・与兵衛新田地域に位置する埼玉県営の都市公園(広域公園)である羽生水郷公園内にあり、園内には菖蒲田、修景池など水を取り入れた施設を中心に整備されている。また、国内でも数少ないムジナモ自生地の宝蔵寺沼がある。1983年(昭和58年)10月に開館。埼玉県内に生息する87種類の魚のうち約70種類を、また両生爬虫類、甲殻類など合計約1301200点を展示している。館内は、県内及び東京都内を流れている荒川の約200kmを、上流から河口部まで下るようなスタイルで展示している。
 また、天然記念物に指定されているミヤコタナゴや、地球上で唯一埼玉県熊谷市にある元荒川の源流、上流のみ生息し埼玉県の「県の魚」や熊谷市の「市の魚」に指定されているムサシトミヨのほか、世界の代表的な熱帯魚や、オオクチバスや、コクチバス、ブルーギルなどの外来種も展示されている。
 この公園では、「世界キャラクターさみっとin羽生」というゆるキャラに関するイベントが2011年から2013年まで盛大に開催されていた場所でもある。ふとその当時、深谷市のマスコットキャラクターである「ふっかちゃん」を応援していた事や、仕事の関係ではあるが、実際にイベント当日当地に参加していた過去の思い出が蘇ってきて、編集をするその手を停め、忙しい日々の中、共に過ごした家族の事等をしばし追想する自分がそこにいた
        
              
・所在地 埼玉県羽生市三田ヶ谷271
              
・ご祭神 誉田別命 気長足姫命
              
・社 格 旧上・下三田ヶ谷村鎮守・旧村社
              
・例祭等 名越祭(輪くぐり) 731日 秋祭り 1014日
                   冬至祭 1222
 羽生市・三田ヶ谷地域は同市の市街地より東北部に位置し、北に利根川、西には南北に東北自動車道が走っていて、周辺一帯は田畑に囲まれており自然環境に恵まれた地域である。
 冒頭に紹介した羽生水郷公園(さいたま水族館)と、その駐車場の道をはさんで向かいにある「キヤッセ羽生 羽生市三田ケ谷農林公園」の間に南北に走る埼玉県道366号三田ヶ谷礼羽線を1㎞程北上すると、蓮台寺という寺院の赤い正面入り口の門のある丁字路に達する。この丁字路を左折し、200m程進むと、進行方向右手に三田ヶ谷八幡神社の鳥居及び境内が見えてくる。
        
        埼玉県道60号羽生外野栗橋線沿いに鎮座する三田ヶ谷八幡神社
『日本歴史地名大系』 「上三田ヶ谷村」の解説
 古くは下三田ヶ谷村と一村で三田ヶ谷村と称した。両村の境は入組んでおり、西は与兵衛(よへえ)新田村、上弥勒(かみみろく)村・下弥勒村など。元文三年(一七三八)の支配替えの際分村したともいうが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに三田ヶ谷村一村で高付される。田園簿によると幕府領、田高八八五石余・畑高三三三石余、ほかに野銭として鐚三五貫文があった。
        
             入口正面の赤を基調とした一の鳥居
 綺麗に整備されている境内及び社殿。「八幡神社改築記念之碑」によると、平成8年に改築され、社殿のみならず境内の整備が完工したとの事だ。
 
 短いながら綺麗に整備されている参道の中、二の鳥居(写真左)、三の鳥居(同右)が続く。

 三の鳥居の先には石段があり、その石段を上った先に社殿が鎮座している。社殿は参道面より1.5m程高い。この地域は、水郷公園や宝蔵寺沼等が存在することから想像するに、地質学的には「加須低地」に属し、特に南部は湿地帯(低地)が多かったという。すぐ北側は利根川が流れており、嘗てこの地域は河川等の乱流地域でもあったのであろう。またこの社を中心に東西に広がって民家も集中していることから、洪水等により形成された自然堤防上に社や民家は建てられていると推測される。
 
 三の鳥居の左側にある「八幡神社改築記念之碑」  参道を挟んで右側には手水舎がある。
八幡神社改築記念之碑」
 当八幡神社は誉田別命を祭神とする騎乗八幡神像を祀ってあります。その創建についての記録はないが、百九十余年の歳月を経たものと推定されます。爾来氏子一同は崇敬の念を込め、守護神として護持継承して参りました。その間風雪に耐えること幾星霜、最近は社殿の老朽化が極に達し、その惨状は見るに忍びない状態になりました。この度、三田ヶ谷地区一区、二区、三区二百七十戸全員の一糸乱れぬ協調の精神により荘厳華麗な社殿並びに境内整備が完工いたしました。
 茲に落度を記念して神前に御報告し、永く後世に残すと共に、神の御加護により子孫の繁栄と国家地域の安泰を記念するものであります。(以下略)
                                       碑文より引用

       
                    拝 殿
 三田ヶ谷八幡神社(字本村)
 当社は大字三田ヶ谷の鎮守として祀られていて、「八幡様」の名で親しまれている。三田ヶ谷の地名は、豊かなる地を称える「御田」からこの名を付けたとする説に対して、当村蓮台寺の鐘銘の写しに「正保二年弥陀開郷」とあることから、この地を開墾し、阿弥陀如来像を祀り、「弥陀=三田」という地名としたという説がある。
 当地は、寛保二年に秋元、小尾、小笠原、土岐、目賀田、能勢の六給とされた。地内に領主の仁政を称えて祀る土岐氏の生祀である「土岐社」がある。
 当社の祭神は、武門の守護神である誉田別命やその母である気長足姫命であることから、近在の武士からは厚く崇敬されていた。
 別当は、真言宗光永山蓮華院蓮台寺で、明治の神仏分離まで当社を管理していた。
 社殿の構造は、本殿・幣殿・本殿からなり、拝殿には多数の伊勢講の奉納額がみられる。
 末社は鷲神社・天神社・八坂社があり、このうち天神社には天神座像が祭られている。この台座には「奉寶納 天満大自在天神 三田ヶ谷村 江森源八 享保元年(丙申)九月廿五日」とある。
大正三年八月十四日無格社厳島神社を境内に合祀している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
       拝殿に掲げてある扁額          拝殿手前左側に祀られている境内社
                          左から八坂社・熊野社・青麻社
        
       社の奥行きはかなり広く、広場のような奥に境内社は祀られている。
 
       境内社 厳島社弁財天・秋葉社         境内社 鷲大明神・天神社
   その左側の庚申塔には青面金剛明王か
        
                            境内社から見た社殿の一風景
       
                      社殿のすぐ脇に聳え立つ巨木(写真左・右)
         ご神木かどうかは不明だが、境内で唯一ある巨木でもある。
        
               境内西側隅にある青面金剛明王


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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常木神社


        
               
・所在地 埼玉県羽生市常木1135
               
・ご祭神 大雷命 誉田別命
               
・社 格 旧常木村鎮守
               
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り 826日 
                    秋祭り(大祭)
1015
 堤千方神社南方の用水路に沿って南東方向に走る道路を1.3㎞程進むと、進行方向左側で、利根川右岸の土手に「羽生スカイスポーツ公園」が見え、その公園に対して道路の反対側で、用水路に沿って常木神社は鎮座している。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、上記公園の道路沿いにある広い駐車場に停めてから参拝を開始する。
        
            
利根川右岸の自然堤防上に鎮座する常木神社
『日本歴史地名大系 』「上常木村」の解説
 利根川右岸の自然堤防上に位置する。古くは下常木村と一村で、両村の境は入組んでいて分ちがたく、西は下村君村・堤村、東は上大越(かみおおごえ)村(現加須市)。現東京都世田谷区森巌(しんがん)寺所蔵鰐口の宝徳二年(一四五〇)八月日付銘文(武蔵史料銘記集)に「武州太田庄恒木郷極楽寺」とみえる。天正六年(一五七八)三月七日の木戸元斎願文(奈良原文書)によると、羽生城主木戸忠朝次男元斎が羽生城回復を上野国三夜沢大明神(現群馬県宮城村の赤城神社)に祈願し、回復のうえは埼玉郡常木郷など三郷から三貫文の地と神馬三疋を寄進することを約している。
 
        南北に流れる用水路に沿って社は鎮座し、社号標柱(写真左)から
             鳥居まで比較的長い参道が続く(同右)。
        
           笠木部は反りがなく、一直線という特徴ある鳥居
 現在は常木神社の名称であり、どのような由緒なのか名称だけでは皆目見当もつかないが、嘗ては「雷電天神合社」という社名で、雷神を祀る社であった。当地の方々は「雷電さま」の名で親しまれ、雷にちなむ信仰が語られている。『新編武蔵国風土記稿』によると、「二俣竹 此二俣竹は昔当社地に生ぜしものなるを大久保彦左衛門忠教、当所の地頭たりし時、刈り取て杖になさんとせしに、忽ち雷轟きわたりて、従者悶絶し雷鳴数日止ざりければ、忠教恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり」とあり、この二俣の竹は、縁起と共に社宝として伝わっている。祭礼の折に設けられている舞台を社殿に背を向けて建てると、大夕立が来るとも言い伝えられている。
        
                    拝 殿
 当地は雷電講で賑わう群馬県板倉町を利根川の対岸に望む畑作地帯である。ここは全国でも有数な雷の多発地帯で、村民は夏の北西からの雷雲には殊に注意を向けている。
 嘗て「雷光」は「稲妻・稲光」とも云われ、稲の豊穣をもたらすものと言い伝えられるのだが、これは雷の古い信仰形態をみることができる。
 当社は慶長五年『常木雷神社大久保彦左衛門願文』によると、上州大楽木部佐貫之庄板倉之領廻之村(現邑楽郡板倉町)へ、承和年中勧請した雷電神社の神璽が、永正元年五月一日に常木の地に飛んで来たことから、村民は早速社殿を建立した。その神威は日ごとに増し、祈願すれば病気は治り、旱魃には大雨が降るなど、人々はその神慮に大いに歓んだという。享保三年吉田家から宗源宣旨を受けている。『新編武蔵風土記稿』にも「雷電の神体は一寸余の玉にして水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必ず其の験有りと云う」とある。また明治四年六月の「祭雷公文」が残り、往時の信仰の様子をうかがい知ることができる。
 明治四年九月に八幡神社を当社に遷座、合併している。因みに八幡神社は往古より当村茂手木という所に鎮座し、慶安二年社領二八石六斗の御朱印を付されたといわれる。
 昭和二〇年一月八日 現社名に改称している。
                                   「埼玉の神社」より引用

 

  拝殿の回りに祀られている末社三基…栗島・諏訪・熊野社。但しいずれかは不詳との事
        
                  社殿からの一風景
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上常木村下常木村』
 雷電天神合社 
 雷電の神體は一寸餘の玉にして、水晶の如し、久旱の時此の玉を水中に入れて祈れば、必其驗ありと云、慶長五年別當龍門坊の住僧深舜が記せし緣起に、當社雷電は承和年中上野國邑樂郡板倉鄕に勸請せしを、不思議の
ありて永正元年當所へ移り祀りし由載せたれど、恐く傳への誤なるべし、今も彼地に雷電の大社存すれば、遙拜の爲に寫し祀れるならん、
 寶物 二俣竹 
 此二俣竹は、昔當社地に生ぜしものなるを、大久保
左衞門忠敎、當所の地頭たりしとき、伐り取て杖になさんとせしに、忽ち雷とヾゑきわたりて、從者悶し、雷鳴數日止ざりければ、忠敎恐れて其罪を謝し、手づから其竹に銘を彫り、奉納せしもの是なり、銘左の如し、

 らいてんくうの御不地として、是をこめ奉也、さる間拙はきやうしうに候間、よろつの事をくわんねんし、中道のいんにひうけこんし三がいのもんにいり、そくしんしやうぶつをきはめ、無二やく無三ときはめ申よりして、よろつおしこといたし候へ共、此らいてんにおひて、さらさらおしことならす候間しやれうを爲付此ふちをこめ申候、以上此外不申候以上
  けい長三年八月一日  つねきちとう大久保左衞門
 

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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堤千方神社


        
               
・所在地 埼玉県羽生市堤869
               
・ご祭神 興玉命(推定)
               
・社 格 旧堤村鎮守・旧村社
               
・例祭等 天王様 77日〜15
 羽生市堤地域は同市北東部にあり、利根川右岸の自然堤防上に位置し、西側は下村君地域に隣接している。堤千方神社は下村君地域にある永明寺古墳のある永明寺正面の道路を東方向に600m程進んだ場所に静かに鎮座している。
        
                                 
堤千方神社正面
『日本歴史地名大系』 「堤村」の解説
 下村君村の東、利根川右岸の自然堤防上に位置する。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。また、村内延命寺にあった寛永一三年(一六三六)の鐘銘に「崎東郡羽生北方堤村」とみえる(風土記稿)。田園簿によると幕府領、田高一三七石余・畑高三六〇石余、ほかに延命寺領一五石があった。宝永二年(一七〇五)一部が旗本藤枝領となり、天明五年(一七八五)上知(「寛政重修諸家譜」など)。化政期には旗本富田領と陸奥泉藩領(風土記稿)。同藩領は寛政二年(一七九〇)からと考えられ、幕末の改革組合取調書でも同じ。「風土記稿」によると家数六〇。「郡村誌」では七七戸・四二〇人、ほかに出寄留一五人。
        
                参道左側にある庚申塔等
        
              道路から少し離れた場所に鳥居が立つ。
「堤」という地名は、利根川の堰堤(えんてい)に由来する。この地域は、古くからしばしば水害に見舞われ、住民の生活は困窮を極めていたと伝えられている。
 当社は、利根川中流域右岸に位置し、「延命寺渡し」と云われる渡船場が近くにあり、上州との往来が盛んで、対岸より多くの参詣者があったという。というのも一間社流造りの本殿内に寛政二年 舘林町(現館林市)の岩蔵なる者より奉納の金幣が納められている事から見ても伺いしれよう。
 社伝によれば、俵藤太藤原秀郷の六男修理太夫は千方といい、この地に仁政をしき、里人がその徳を偲び、千方社を祀ったという。本殿には全長17.3㎝の「両顔石棒」を安置している。
 江戸期には延命寺の管理を受け、村の鎮守であったが、明治の神仏分離により興玉命を祭神とし、村社となる。
 明治45年の利根川引堤工事に際して、当社は延命寺と共に現在の地に移転された。旧社地は現在地から北北西約500m河川内(字上内田)に当たる。
 また旧社地には「御手洗池」と呼ばれる聖泉があり、癪病に効くと古くから言い伝えてきたという。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡堤村』
 千方社 村の鎭守にて延命寺の持、相傳ふ俵藤太秀鄕の男を祀る所なりといへり、按に秀鄕が六男修理太夫を千方と云、此人を祀りしなるべし、社の傍に御手洗池あり、靈水にして癪を病る者、此水を汲て湯となし、沐浴すれば必驗しありと云、

 ところで、社の本殿には全長17.3㎝の「両顔石棒」を安置しているのだが、この「両顔石棒」は、古くから男性を模していると伝えられ、子供のいない者が信心すれば、必ず子が授かるといわれ、氏子内を初め他所からの参詣もあったという。新婚宮参り、赤子の初宮詣は今でも行われ、姑が関与するのを例とする。
 また社が上内田地域に鎮座していた当時、境内には前出「御手洗池」があって、社記には「霊水にして癪を病む者此水を汲みて湯となし、沐浴すれば必ず験あり」と伝えられていた。その後下内田に移転した時に、旧地に倣い池を掘り御手洗池とし、「婦人病、特に下の病や産後、この水で体を清めると良い」として昭和の初めまでは使用されていた。その後この池は少しづつ埋め立てられ、今では完全に姿を消し、跡地は遊園地となっているようだ。
        
              社殿の裏側に祀られている石祠等
 稲荷・天神・浅間・三峰の各社と思われるが、元々これらの境内社群は、三峰神社を除く三社に関して、古くは延命寺持ちで村内に点在していたもので、明治45年の利根川引堤工事に際して当社の境内社として合祀されたという。
        
                         堤千方神社遠景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上村君避来矢神社

 埼玉県羽生市上村君の利根川沿いに避来矢(ひらいし)神社がある。社殿や石鳥居は真新しく、利根川堤防強化事業に伴い、平成27年に移転した。地元には、下野から飛来した大石を祭り、飛来石神社と呼ばれていたが、明治61873)年に避来矢神社と改称したとの言い伝えがある。神殿裏には、特に説明板はないが、大きな石が祭られている。裏側の道を1本隔てて2本の桜と数体の石碑が並び、一つは昭和35年の社殿移転記念碑。神社は堤防工事のたびに少しずつ移動しているようだ。
 天文年間(1532年〜1554年)に、下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝したことに始まるとされる。そのため、当時は、飛来石神社と称していたという。それが、藤原秀郷公が百足退治の礼として龍宮の王から授かったと言われる伝説の大鎧(飛んでくる矢が当たらないといい、源平合戦前は「真経腹巻之具足」と呼ばれていた)である、その後、避来矢(ひらいし)と結びつき、現在の社名並びに形となったという。
        
              
・所在地 埼玉県羽生市上村君191
              
・ご祭神 藤原秀郷公
              
・社 格 旧上村君村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 714日に近い日曜日(獅子舞)
 発戸鷲宮神社から用水路沿いの道路に北行して戻り、合流後右折する。仰ぎ見れば、鮮やかな青色の夏空の中、綿菓子のような雲とのコントラストが見事なまでに盛夏の雰囲気を醸し出している。運転をしながらふと左手を見ると、そこには利根川の堤防が東西に延々と続き、周囲は長閑な水田地帯が広がる中、700m程先にある丁字路を左折すると、利根川の堤防が見えるその南岸に真新しい上村君避来矢神社が見えてくる。
 社の東側に隣接して駐車場も綺麗に完備され、しかも今風のスロープもあり、安心して参拝に望めることは大変ありがたい。
        
                 
上村君避来矢神社正面
『日本歴史地名大系』 「上村君村」の解説
 利根川沿いに発戸村の東に位置し、東は下村君村。古くは同村と一村であった。文明一八年(一四八六)東国巡遊の旅に出た聖護院門跡道興は「むら君」を通過する際、「たか世にかうかれそめけん朽はてぬ其名もつらきむらきみの里」(廻国雑記)と詠んでいる。
 永禄六年(一五六三)五月二八日の広田直繁判物写(武州文書)には「太田庄北方村君之郷」とあり、村君郷が太田庄北方に含まれていたことが知られる。
        
                                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡上村君村』
避來矢社
村の鎭守なり、相傳當社は俵藤太秀鄕を祀る所にして、古へ相州朽木村より飛來りし故、元は飛來と書しを、享保十一年神祇伯吉田家へ神位を請し時、今の文字に改め記し來りしと云、
〇雷電社 〇通殿社 〇稻荷社 〇天神社 以上總德院の持、
 
拝殿手前にある上村君地区の「獅子舞」の案内板     社殿右側にある社務所
 指定文化財 獅子舞(上村君地区)
 無形民俗文化財 羽生市指定第7号 昭和34101
 前獅子、中獅子、後獅子の三頭で構成されます。他の役割は花笠、笛方、旗持ち、万灯があります。現在は714日に近い日曜日に祭が行われ、その日の夕方はここから雷電神社まで天下泰平、村内安全、五穀豊穣の幟を先頭にして往復します。
 当日の午前中はここから出発し、地域内をくまなく回る村回りを行います。
 舞いは前庭と本庭からなり、曲目は「花笠」「四本ずく」「八丁しめ」「辻がかり」「弓がかり」「ささ蛇」「鐘巻」などがあります。
「辻がかり」は悪病が来ないようにと村境で舞われるもので、本番での獅子舞は棒術に続いて行われます。
 元亀・天正の頃、羽生城の救援に出陣した上杉謙信が将兵の士気を高めるため、上野国からささら舞師を招き、避来矢神社に奉納したのが起こりという伝承があります。
 平成14320日 羽生市教育委員会
                                      案内板より引用

        
            境内にある「「避来矢神社移転建築記念之碑」
        
               
本殿の後ろに祀られている「甲石」
           
旧下野国栃木邑から飛来したという「石」という。
『羽生昔がたり』には、「栃木邑から飛んできた甲石」という昔話がある。
 羽生昔がたり「栃木邑から飛んできた甲石」
 上村君地区のこの話は、今から千年以上もの古い話から始まります。
 平将門は朝廷にむほんをおこし、下総国(千葉県北部及び茨城県の一部)の父の遺領地に帰りましたが、遺領地をめぐって一族の争がますますひどくなって大さわぎになりました。
 そして将門の勢力をのばして、武蔵国のお役人たちまで困らせるなどの反乱をおこしたので、武勇にすぐれた藤原秀郷(俵藤原太郎)と平貞盛の二人の武将は力を合わせて、朝敵将門を討伐しました。
 武蔵国も下総国も平和となって、秀郷と貞盛の手がらは人々からほめたたえられました。将門の乱を平定した秀郷は功績をみとめられて、武蔵国と下野国の二国の守に任ぜられ、東谷(羽生)に国府(役所)を開いて政治をとったといわれます。人々をさいなんから守り、神様のようにあがめられました。
 ところがそれから六百年もたったある日のこと、下野国(栃木県)栃木邑から、たたみ一枚ほどもある大きな石が上堤根邑(上村君)に飛んできたということで、村は上を下への大さわぎになりました。紫がかったこの石は形が「かぶと」によく似た石です。「もしかしたら秀郷将軍が石になって村を守るために飛んできたんだんべ」と里人たちはこの不思議な石をめぐってワイワイガヤガヤ…結局勇猛な秀郷の化身と信じ「ありがてえ、ありがてえ」「やたらに人の目にふれたら神様にバチがあたる」と地表に少しおすがたを見せて地中に安置しました。
 丁度その頃が戦に明け暮れた戦乱の世だったので、秀郷が将門の乱を平定した時のようにと里人たちは甲石をご神体にして信仰しました。
 秀郷が愛用した「避来矢のよろい」は栃木県の唐沢神社の宝物になっているそうですが、上堤根村ではよろいの名をとって避来矢神社を建立し、秀郷を祀り、村の平和を祈りました。
 舘林城主、松平左近将監は(今から二百年位前)領内を巡行した折に、甲石を興味深く見ていかれたという記録があります。
        
    社の境内から道路を挟んで北側に石碑や石祠、庚申塚等が多数祀られている。
        
                       一番右側に建つ「社殿移転記念之碑」
                  
社殿移転記念之
             当避来矢神社は古老の口碑によれば
            古来下野国栃木邑より飛来せし大石を里人
             甲石と称して崇敬し天文年中日本武尊と
                併せ奉祀したるものと伝えらる
                        其の後飛来石神社と称し地区民崇敬の中心
                        なりしも詳かならず明治六年避来矢神社と
                             改称し村社となり今日に至る
                         昭和三十四年建設省関東地区利根川上流
                        引堤工事の確定により此の由緒深き神殿の
                         移転に当り地中に埋設せし伝説の御神体
                       甲石を始めて掘り出し氏子一同の奉仕により
                          昭和三十五年三月三十日現地に遷座す
                        尚天神社通殿社浅間社三宇も遷座合祀せり
                            
昭和三十五年三月 小林一雄撰文
        
                社殿から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「羽生市HP 羽生昔がたり」
    「Wikipedia」「境内案内板、記念碑文」等

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発戸鷲宮神社

 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神である。
 日本神話において、天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥(きっしょう)を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である。後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している。
『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。
 天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。
        
               
・所在地 埼玉県羽生市発戸1653
               ・ご祭神 天日鷲命(推定)
               ・社 格 不明
               ・例祭等 不明
 尾崎鷲宮神社より北東方向に伸びる用水路沿いに600m程進み、十字路を右折すると、すぐ右手に発戸鷲宮神社が見える。この二社は直線距離にしても700m程しか離れてなく、互いに近距離に位置している。
 因みに「発戸」と書いて「ほっと」と読む。 
        
                  発戸鷲宮神社正面
『日本歴史地名大系』 「発戸村」の解説
 [現在地名]羽生市発戸
 利根川右岸の自然堤防上、上藤井村の北にある。「ほっと」は「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさすという(埼玉県地名誌)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。田園簿によると幕府領、田高四一五石余・畑高六四二石余、ほかに野銭永九四文。国立史料館本元禄郷帳では甲斐甲府藩領で、宝永元年(一七〇四)上知(寛政重修諸家譜)。
       
                        一の鳥居の掲げてある社号額
 一の鳥居に掲げられた社号額には、「鷲宮大明神 桑原大明神」と同列併記されていて、「新編武蔵風土記稿」には「桑原社」と記載がされ、むしろ「鷲明神」を後に合祀したような記載がされている。
『新編武蔵風土記稿 発戸村』
桑原社 祭神詳らかならず、鷲明神を合祀す、〇雷電社 〇日光權現社 〇湯殿權現社 
〇天神社 〇稻荷社 以上觀乘院持、
 
     参道の先にある二の鳥居          民家が立ち並ぶ中にありながら
                           落ち着いた雰囲気の漂う境内
 昭和433月、発戸鷲明神社の西方の畑を田に改造するための土取り作業の際、地下7080㎝の深さから縄文時代の石器や土器が多数出土した。土器は浅鉢・深鉢・壺・注口土器など縄文時代後期・晩期を中心に中期・後期のものが混在している。また独鈷石・石棒・石皿破片・打製石斧などの石器類が出土している。「発戸遺跡」と呼ばれている。
 中でも土面は、関東地方随一のもので、写実的に眉・目・鼻・口が表現され、目には玉がはめこまれていた形跡がある。目と口の周辺は赤く塗られ、頬(ほほ)には三叉の文様が描かれていて、顎(あご)には一条たどたどしい浅い沈線が刻まれている。この沈線は紐かけのすべり止めと考えられ、紐で額(ひたい)にゆわえたものと推察されている。
 また遺跡の西限を通る道路は、遺跡の中心地と推測されている発戸鷲宮神社を囲むように半円を描いており、かつて地表にあった環状盛り土遺構を避けるように道筋が定まったものと考えられている。
独鈷石(とっこいし)…縄文時代後・晩期の磨製石器。仏具の独鈷に似ているところからの名称。中央部はえぐれ、両端は斧状、つるはし状を呈する。はじめは実用具であったが、しだいに儀礼具化したと考えられる。
 発戸地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、縄文時代の遙か大昔から人々が生活を営んでいて、早くから開発がされてきた地域でもある。「発戸」という地域名の由来は上記『日本歴史地名大系』にて【「陰」に通じ、奥深く入り込んだ地形をさす】と記されているが、その淵源ははるか縄文時代に遡るかもしれない。
        
                           参道左側に祀られている境内社
        左側より「八坂神社」「東照大権現・天満天神宮」「雷電神社」
        
                    拝 殿
 創建時期、由来等は詳らかではない。特に『新編武蔵風土記稿』において「桑原社」、一の鳥居の社号額に表記されている「桑原大明神」における「桑原」という名称の由来は結局分からなかった。但しこの地域の開発の速さを証明する遺跡が、この社を起点としている所からみても、何かしらの伝承・伝説の類はありそうである。
       
       境内にある「鷲宮神社 農業研    記念碑に並びにある石碑群。一番右側には、
           修所建設記念碑」   国幣湯殿山・官幣月山・国幣羽黒山と刻まれている。
        
                        境内にある「発戸松原跡」の石碑
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」で始まる小説『田舎教師』。この作品は、実在の人物小林秀三が書き残した日記をもとに、田山花袋が丹念な取材を行って書き上げた小説で、登場人物はほぼ実在した人々である。明治30年代の羽生の自然や風物、人間模様が生き生きと描かれており、主人公林清三を中心にした小説として、また、明治期の郷土羽生の風景や人々を現代に伝える郷土資料と言える。小説から当時の面影を偲ぶことができる。

 松原遠く日は暮れて 利根のながれのゆるやかに ながめ淋しき村里の 此処に一年かりの庵 はかなき恋も世も捨てヽ 願いもなくて唯一人 さびしく歌ふわがうたを あはれと聞かんすべもがな

 嘗て利根川の堤防をたどると、発戸松原跡に碑が建っていた。この碑は令和311月、利根川堤防拡張工事のため発戸地内の鷲宮神社内に移設された。散歩好きだった小林秀三は、発戸、上村君、下村君あたりの堤をよく一人で散策していたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県埋蔵文化財調査事業報告書 第461集」
    「羽生市HP」精選版 日本国語大辞典」「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia
    「境内記念碑文」等

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