古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下小鹿野八劒神社

 秩父郡にある小鹿野町は埼玉県西部で、秩父盆地の北西部に位置している。小鹿野町の歴史は古く、今から1,000年以上前の平安時代中期に編纂された「和名妙」においては、古代の秩父郡「巨香(こか)郷」が小鹿野の始まりといわれていて、一方、丹党系図(諸家系図纂)では丹党中村冠者時重の裔時景が当地の開発領主となって小鹿野氏を号している
 小鹿野町の中心市街地は、嘗て江戸と信州を結ぶ上州街道が通り、国道299号を軸として産業・経済・交通・文化が開け、明治大正の頃は、絹織物を運ぶ重要なルートとして栄えていた。そのため今も街道筋には絹を扱っていた商家や旅籠などが軒を連ねている。西秩父の物資の集散地として繁栄した小鹿野町の基礎が、約400年前のこの時代に築かれたことが分かる。
        
            
・所在地 埼玉県秩父郡小鹿野町下小鹿野1380
            
・ご祭神 日本武尊
            
・社 格 旧下小鹿野小名信濃石鎮守
            
・例祭等 例大祭(4月第1日曜日) 秋季大祭(10月第1日曜日)
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.0131909,139.0252661,18.25z?hl=ja&entry=ttu
 下小鹿野八劒神社が鎮座する下小鹿野地域は、小鹿神社が鎮座する小鹿野地域の東側にあり、国道299号線及び、国道の南側を沿うように流れる赤平川の左岸までの狭く細長い低地面に住宅街を形成している。
 途中までの経路は小鹿神社を参照。国道沿いに立つ大鳥居を左手に見ながら、3㎞程東行する。左側に「鳳林寺」の看板を過ぎた場所に「信濃石会館」があり、そのすぐ東隣に隣接して下小鹿野八劒神社の鳥居、及び社の境内が見えてくる。上記会館には適度な駐車スペースも確保されており、そこの一角に停車させてから参拝を開始する。
        
               国道沿いに鎮座する下小鹿野八劒神社
『日本歴史地名大系』 「下小鹿野村」の解説
 赤平川の左岸、上小鹿野村の東に位置する。同村からの往還が地内泉田で分岐し、一方は赤平川に沿い北の下吉田村(現吉田町)に、もう一方は赤平川を越え対岸の長留(ながる)村に向かう。古くは上小鹿野村と一村で小鹿野村・小鹿野郷などと称していたが、元禄郷帳作成時までに分村したという。元禄郷帳に下小鹿野村が載り、高七九六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。ほかに当地鳳林(ほうりん)寺領(高五石)があった。明和二年(一七六五)旗本松平領となり、以後同領で幕末に至る(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数二九八、農間に男は山稼をしたり、女は養蚕や絹・木綿織などを行っていた。
 元和元年(一六一五)の年貢割付状(田家文書)には「小鹿野之郷」とあり、下小鹿野村と合せて本高は二一四貫三六八文。

 
      鳥居の左隣に置かれている巨石(写真左・右)。信濃石という。
 この巨石には前面に四角いくぼみがある。また鎮座地から西側にある三叉路は「信濃石」交差点といい、『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』の「小名」にも同名の字がある。
『新編武蔵風土記稿 下小鹿野村』
 信濃石 
 此石の有る所を、小名信濃石と唱ふ、凡一丈四方の大石にして、一尺四方許の穴有り、此穴に耳を入れ聽ときは、人語の響ありと云、往昔信濃國より馬に荷物を駄し來りしに、かたヾ荷物の輕く傾くかたへ、此石を挟み來り、
 此所に捨置しが、今はかゝる大石となりしと、土人の伝傳へなり、
        
        「信濃石会館」前に設置されている「信濃石会館建設記念碑」
「信濃石会館建設記念碑」
 信濃石は古墳時代のひなめ塚があり、桑畑からは多くの須恵器の破片が出土されている。
 この地は往時から下小鹿野の中心地で、長慶山鳳林寺や高札場があり、武州街道のゆききが多く市が立つ程の盛況ぶりで「しなのいち」ともいわれた。当時宿場であったころ信濃の国から商人が馬の背鞍のつり合いにと、運ばれて置いた石が、今はかゝる大石となりしといわれ、この一丈四方の大石のあるところから地名がつけられたといわれている。
 近年、人口の増加に伴い昭和四〇に建設された八剱神社々務所兼集会所が老朽化したヽめ撤去し、区民の総力で地区発展のよりどころの場として信濃石会館及び消防器具置場を昭和五十六年に建設した。
 これを祈念してこの碑を建立する。(以下略)
                                                                            案内板より引用
『まんが日本昔ばなし データベース』には、「信濃石」の伝承・伝説として「石の中の話し声」を紹介している。この「石」とは勿論「信濃石」である。
 =石の中の話し声
 毎年、草木が芽吹く季節になると、ここ秩父(ちちぶ)の里に山を越えて信濃の国から行商にやって来るお爺さんがいた。そして近くの家に住む兄妹が、いつものこのお爺さんを迎えるのだった。
 今年もお爺さんは、たくさんの荷物を馬に載せて山を越えてきた。ところが、里一番の急な峠に差し掛かった所で、おじいさんは急に胸を押さえ、苦しそうに倒れ込んでしまった。兄妹は慌てて、お爺さんを家まで運んで看病した。この兄妹、実は数年前に両親を病気で亡くしており、苦しむお爺さんを見て、他人事には思えなかったのだ。
 さて、それから三日経つと、お爺さんの容体は回復し、布団から起き上がれるようになった。兄妹がお爺さんにお茶を差し出すと、お爺さんはちょうど夢でガラガラと茶釜でお湯を沸かし、郷里のお婆さんと茶を飲んでいたと言う。
 しかし、それから数日経ったある日、お爺さんの容体は急変し、兄妹の看病の甲斐もなく亡くなってしまった。
 お爺さんは最期に、世話になった兄妹に馬と荷物をせめてものお礼に上げること。そして、馬の荷のつり合いを取るために載せてきた二つの石を、故郷の信濃の国が見渡せる所に置いてほしいと頼んだ。
 兄妹はお爺さんの遺言通り、この二つの石を峠の鳥居の前に置いた。すると不思議なことに、握りこぶしほどの大きさだった石は、だんだん大きくなり、とうとう大人が五、六人で抱えるほどになった。その上、何やら石の中からガラガラと音がするのだった。
 兄妹が石に耳を当ててみると、石の中からガラガラという音と、人の声が聞こえてきた。その声は、お爺さんが故郷のお婆さんと、仲良く茶を飲みながら話しているように聞こえるのだった。
 この石はその後、誰言うとなく「信濃石」と呼ばれるようになった。
 

   国道沿いながらも静まり返った境内       拝殿手前の石段左側にある案内板
 八劍神社  御由緒 小鹿野町下小鹿野一三七八
 ◇御神体の剣が埋められた伝承が残る古社
 当社は赤平川に沿って開けた農業地帯である信濃石地区に鎮座する。
 第十二代景行天皇の皇子、日本武尊が東国平定の際に当地に立ち寄り信濃石の神木であった大欅の傍らで休息したという故事から、延暦二十年(八〇一)八月に土地の人々が日本武尊を偲んで祠を建てたのが当社の始まりといわれる。
 また一には、北条氏の家臣が兵火で当地へ落ちる際に、三種の神器のひとつである剣を持参し、その剣を御神体として祀ったことから、八劍社の名がついたとも伝える。
 この北条氏の家臣の末裔とされる柴崎家にあった古記録(小鹿野大火で焼失)に、往時の御神体であった剣が村に埋められている旨が記されていたため、総代による発掘調査が試みられたが剣は発見出来なかった。尚、陣には御神体のほかに、石棒と阿弥陀如来を表す梵字を刻んだ板碑が納められている。
 明治以前は本山修験の寿宝院(通称を護摩堂と云い、大正初期まで残されていた)が別当として当社を管轄していた。
 昭和十九年(一九四四)の小鹿野大火に際しては、社殿全焼の被害を受けたが、同二十三年に三田川小学校の旧奉安殿を用いて本殿が再建され、同四十四年には拝殿が落成し、今日に至っている。
◇御祭神 日本武尊(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 秩父郡下小鹿野村』
 八剱社 
 例祭八月八日、小名信濃石邊の鎭守なり、本山修驗入間郡越生鄕山本坊の配下、壽寶院ノ持なり、

 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
        
             拝殿左手前に祀られている境内社・石祠
        
           「信濃石」の左隣にある「高札場(こうさつば)」
      小鹿野町指定史跡  高札場(こうさつば)1棟 昭和37920日指定
 江戸時代、上意下達の方法として各村々の中央・代官・名主等の屋敷前に高札場が設けられていた。この高札場は、下小鹿野村の高札場で江戸時代末の建造と推定される。間口2.65m、奥行1.56mを測り、栗材が使用されている。屋根は切妻造で高さ約2.7m、柱は欅材を用いている。平成7年に復元修理されたという。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「小鹿野町HP」「小鹿野町観光協会」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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