古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小川町 国指定重要文化財 下里・青山板碑製作遺跡

【小川町 国指定重要文化財 下里・青山板碑製作遺跡】
         
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0392442,139.2740801,16z?hl=ja&entry=ttu
 小川町 国指定重要文化財の「下里・青山板碑製作遺跡」に行きました。
 下里八宮神社沿いの道路を1.2㎞程南下すると「下里・青山板碑製作遺跡 割谷地点」の標識がある丁字路に達するので、そこを右折し、槻川を越えて暫く道なりに進んでいくと、板碑製作遺跡に到着します。製作遺跡手前に駐車場が有り、そこの一角に停めてから散策を開始しました。
 予定では、嵐山町方面の社に参拝する途中で立ち寄った関係で、あまり時間がなく、割谷地区の遺構場だけ見学いたしました。
        
               槻川に架かる橋の手前から撮影
 
  この橋から見る山河の風景があまりに素晴らしく、暫し見とれながら時を過ごしていました。
        
         気を取り直して再度出発。東行すると、行き止まりとなります。
   これより車両は通行止め。但し徒歩は大丈夫であるので、ここから歩いて進みます。
        因みに駐車スペースは、この地点の手前に確保されています。
       
 右手丘陵地面に早くも「ズリ」と云われる緑泥石片岩の破片が大量に散乱しているのが見えます。
              
        暫し歩いて行くと上記標識があり、ここから丘陵地面を登ります。

 下里・青山板碑製作遺跡(しもざと・あおやまいたびせいさくいせき)は、埼玉県比企郡小川町にある、鎌倉時代から室町時代にかけての板碑製作遺跡で、2014年(平成26年)106日、国の史跡に指定されました。
 板碑(いたび)は、日本の中世に多数造立された、板石製の塔婆(卒塔婆)であります。一般的な形態は、頂部を山形(三角形)に形作り、その下を2条の水平線で画し、その下には仏・菩薩を象徴する種子(梵字)、真言、偈(げ)、年記などを刻んであります。種子とは梵字(サンスクリット文字)1字で仏・菩薩を象徴的に表したものです。真言とはサンスクリットの「マントラ」の訳語で、仏の真実の言葉を表す呪文。偈とは仏・菩薩の徳を讃える韻文で、板碑は、主として武士層が追善供養や逆修供養(生前に死後の安楽を祈って建立する)を目的に造立したもので、13世紀から16世紀末までの間に作られ、南北朝・室町時代にもっとも多く作られるが、17世紀には消滅してしまいます。唐突に消滅した理由は明らかではありませんが、江戸時代になり、家や村、仏教のあり方、民間における多様な信仰の浸透など、社会の変化によって、位牌や墓石が普及するようになったことなどが考えられています。
 板碑は日本各地に造立されましたが、関東地方では緑泥石片岩製(青石)の武蔵型板碑と、筑波地方に産する黒雲母片岩を素材にした下総型板碑が主なものであります。青石で作った板碑は関東地方を中心に約5万基が確認されています(発掘調査の進展により、6万基に達するとの説もある)。うち27,000基が埼玉県内に所在します。そのうち、本遺跡の所在地である埼玉県小川町には1,000基を超える板碑が存在する。このうち最古の年記を有するのは木呂子太子堂の阿弥陀三尊種子板碑で、建長(1249 - 1256年)の銘があります。

 板碑の素材となる緑泥石片岩の産地としては、荒川上流の埼玉県長瀞町が有名であるが、小川町は採掘地と伝承される場所はあり、有力な候補地であったものの、近年まで学術調査はされませんでした。
 平成13年に同町下里で加工石材が採集されたことを契機に,小川町教育委員会が調査を開始したところ,採掘の可能性がある地点が,割(わり)()地区,西坂(にしさか)下前(したまえ)A地区,内寒沢(うちかんざわ)地区など19箇所確認されました。
 遺跡の規模や採掘の可能性がある地区が多数確認されることから,小川町内で生産された板碑の量は膨大で,武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられます。板碑の生産と流通だけでなく,板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要な遺構であると考えられています。
文化遺産オンライン」「小川町HP」「Wikipedia」より引用
                         大量のズリが周囲一帯散乱しています。
  因みに進路はロープが張られていて、その内部へは遺跡保護の為入れません(写真左・右)。
        
               進路途中に設置されている案内板
 国指定史跡
 下里・青山板碑製作遺跡-割谷地区-
 下里・青山板碑製作遺跡は、武蔵型板碑の石材である緑泥石片岩の採掘から板碑形への加工の工程が初めて明らかになった遺跡群の総称です。小川町大字下里・青山地域で発見された19か所の遺跡の内、割谷地区(割谷遺跡)・西坂下前A地区(西坂下前A遺跡)・内寒沢地区(内寒沢遺跡)の3地区が平成26106日付けで国史跡に指定されました。
 13世紀になると仏教信仰の高まりを受け、石塔の一種である板碑の造立が盛んになります。
 緑泥石片岩製の武蔵型板碑は関東地方を中心に5万基も確認されており、小川町下里・青山地区の19か所の遺跡の時期と、関東で多くの板碑が造立された14世紀中頃から15世紀後半の時期が一致することなどから、この遺跡群は関東地方の板碑造立を中心的に支えた生産地と考えられます。
 遺跡は採掘に伴う谷状地形、ズリ平場、ズリ山、ズリ斜面、露頭、採石痕が残る岩塊などで構成されます。採掘に伴う谷に設定した2分のトレンチの試掘調査では、第一号トレンチから三段の階段状となる採掘遺構が検出され、中段の一畳大の板石の横断面には採石のための矢穴痕や工具痕が確認されました。また、第2トレンチの試掘調査では板碑制作に伴う工具痕や打撃痕をのこす細かいくず石の集中区が検出され、その近くから製作途中の板碑未成品や台石未成品が出土し、板碑の制作遺構と考えられます。
 今回の板碑制作遺跡の発見は板碑の生産と流通のあり方を知る上で重要な発見であるとともに、中世の仏教信仰を考える上でも重要な発見となりました。
                                  案内板・説明文より引用
        
                        
割谷地区第1号トレンチ(試掘坑)の状況
        

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深谷市・唐沢川の桜堤を楽しみました。

 411日 深谷市 唐澤川沿いの桜見物に行きました
 この「唐沢川の桜堤」は、深谷一番の桜の名所で知られています。
 JR高崎線・深谷駅沿いの唐澤川沿いに約3㎞も続く両岸の桜並木は、一見の価値があります。実父の月命日を終えた後に桜見学に行った為、夕方の散策となり、さすがに3㎞の桜並木全てを見ることは出来ませんでしたが、瀧宮神社周辺の桜見物を家族で楽しみました。
        
                 
まずは瀧宮神社の参拝。
        
             相変わらず見事に社は整えられています。

           瀧宮神社参拝後、唐澤川沿いの桜見物に行きました。
        
        
        
 当日はあいにくの曇り空で、平日でしたが、桜見物の人が思った以上にいまして、桜を見ながら散歩を楽しまれているようでした。
 残念ながら満開の時期は過ぎて、所々に新緑が芽吹いている桜もありまして、来年こそは満開の時期で、「ふかや桜まつり」が開催される日に参加して桜見物を楽しみたいと思います。




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新年明けましておめでとうございます。

 新年明けましておめでとうございます。
 謹んで新春の祝詞を申し上げます。
 旧年中は大変お世話になり、誠にありがとうございました。
 本年も皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 新年初日の出を妻と一緒に拝ませて頂きました。
 場所は嵐山町・古里兵執(へとり)神社の境内です。当日氏子様、総代様から格別のご配慮を頂き、730分から元旦の祭礼の準備で慌ただしい中、車両も社務所前に駐車させてもらいまして、多くの方々と一緒に初日の出を拝みまして、新年の幸せと健康を祈願いたしました。
        
            
嵐山町・古里兵執神社の境内からの初日の出

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本年は大変お世話になりました。

 本年は大変お世話になりました。
 本年も一年、ご愛顧を賜りまして誠に有り難く厚くお礼申し上げます。

 私自身、公私共に何かと慌ただしい一年でありましたが、無事に新年を迎えることができ、心より感謝しますと共に、来年もより一層のご支援を賜りますよう努力してまいりますのでよろしくお願い申し上げます。
        
          年末に参拝させて頂いたとある社の静かな風景です。

 皆様にとって来る新年が素晴らしい年になりますよう、お祈り申し上げます。
 どうぞ良いお年をお迎え下さい。


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当ブログの一社が「Wikipedia」に掲載されました。

 当ブログに紹介した一社が「Wikipedia」に掲載されました。
 筆者自身、最近知り合いから聞かされて驚いていますが、この度筆者の拙いブログ「Wikipedia」の「脚注」に掲載されました。

 群馬県伊勢崎市 堀口飯玉神社

 あくまで「脚注」として、参考資料的な意味合いで紹介されているだけですから、大げさに報告することではありませんが、全世界に発信されている多言語インターネット百科事典に紹介されたということは、少しは自分のブログを評価してくださったのではないかと愚考いたします。

 私自身としましても、歴史好きな興味的な意味合いの高いこのブログを当初は開設する気持ちは全くありませんでした。あくまで興味の範囲の中で、好き勝手に考察することが好きで、神社散策をベースにして、その地域の歩んできた歴史や地域の独特な風習、伝承・伝説を自身学びたかっただけでした。その気持ちは今でも変わりません。

 2013年からブログを始め、一旦仕事の関係で間をあけてしまいましたが、2022年から再開することができたのも、ひとえにこの拙いブログを見てくださった方々の励ましのメール等によるものです。確かに時には厳しい意見も寄せていただく事もありますが、自分自身の糧にして今までに至ることができました。
 このブログにおいて、地域の社を紹介する際には、多くの文献資料を収集し、出来るだけ分かりやすいように言葉を選び、文章構成を考え、編集し解説しています。そのため一社完成するのに数日から時には一週間かかることもあります。今でも先送りとなっている社は数十社あります。それでも時に意に沿わない文面等あるかもしれません。皆様方の叱咤、激励の意見を真摯に受け止め、今後も精進していきたいと思います。

 今後とも宜しくお願いいたします。



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