古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

古凍鷲神社

 8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)により「郡(ぐん)」と言われる地方行政区画は定められた。この「郡」は「こおり」とも読む。行政単位として国の下にあり,郷,里,村などを含む区画である。施行自体はそれより50年ほど前の649年から「評(ひょう・こおり)」制が施行されていたのは,木簡(もっかん)などの史料から明らかであり、701年の大宝(たいほう)律令施行により郡制に改編され成立したと考えられる。
 9世紀頃から律令法制と社会実情が次第に乖離していき、同世紀末には律令規定に基づく地方統治が困難となると、10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務め、これを継承した。
 1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ現在も存続している。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市古凍499
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
                                   715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
                   例祭 1014
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0189521,139.4331192,17z?hl=ja&entry=ttu
 柏崎鷺大神社から一旦南下して国道254号線東松山バイパスに合流した後、川島町方向に東行し、「古凍」交差点を左折する。埼玉県道345号小八林久保田青鳥線を350m程進んだ十字路を左方向に進路を変えてそのまま道なりに進むと古凍鷲神社の赤い鳥居が見えてくる
 鳥居を過ぎた参道の先には「古凍公民館」もあり、その東側には広大な駐車スペースも確保されているので、駐車場の心配は全くない。
        
               境内前に設置されている社号標柱

 柏崎から古凍地域は東松山台地の南東、西に都幾川、東に市野川を望む広い沖積地の中央に大きく突出した舌状台地上に位置し、また市野川に沿って舌状に延びた台地であり比高が高いので、市野川等が氾濫をおこしてもその被害は決して甚大ではないので、堤防等も設けられていない。その地形的な利便性もあり、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であったようだ。
古凍古墳群
 埼玉県東松山市古凍にある古墳群で、松山台地突出部に構築された古墳群で12基が現存している。早くからその所在が知られていたが、耕作などにより多くの古墳は削平され、墳丘の残っている古墳はカンベ塚古墳をはじめ9基である。かつては北部に展開する柏崎古墳群と一括して「柏崎・古凍古墳群」と呼んでいたが、発掘調査が進むにつれ両者の質的・年代的な差異が明らかにされ、それぞれ別の古墳群として扱われるようになった。
古凍4号墳
 直径約30m・高さ5mの円墳。古墳群内で現存する最大の古墳である。1994年(平成6年)、東松山市遺跡調査会により東側の調査が行われた。周溝は隣接する3号墳を避けるようにして造られ、一部を掘り残した歪んだ形をしている。また、築造時の墳丘は直径42メートルあったと推定されている。周溝の途絶部分からは4基の土坑が発見され、鉄製壺鐙、環状鏡板付轡、鞍金具などの馬具が出土した。これらの土坑は6世紀末から7世紀初頭にかけて造られたと考えられる。
 土坑出土の馬具は、2002年(平成14年)322日付で県指定有形文化財に指定された。
県指定有形文化財 古凍4号墳内土壙出土鉄製壺鐙及び馬具
 6世紀末から7世紀初頭(古墳時代後期)の馬具で、鉄製壺鐙は県内初の出土例です。鐙とは馬具の一種で、鞍の両脇にさげて足を乗せるものです。輪鐙と壺鐙があり、壺鐙は足先の覆いをつけたものになります。これは、完全な形を留めた優品で、当時の金工技法・技術を知る上でも学術的価値の高いものです。これらの馬具は、古凍4号墳の周溝のすぐ外側に作られた土壙より出土しました。土壙は3基掘られており、それぞれに馬具が納められていました。馬の骨や歯は出土しませんでしたが、古凍4号墳の被葬者の持ち物であった馬とともに葬られた可能性もあります。

        
                           正面古凍鷲神社の赤い両部鳥居
 
鳥居の社号額には「正一位鷲宮大明神」と表示    社の境内は広大で、日頃の手入れも
                            行き届いているようだ。
        
             駐車スペースに設置されている
『野本東部土地改良事業完成記念碑』

『野本東部土地改良事業完成記念碑』
 本野本東部土地改良区は、松山台地の東端に位置し、古凍柏崎古墳群、古凍遺跡等が点在するなど早くから先人によって開拓された地味肥沃な畑地帯であり、大字古凍・今泉・柏崎・下野本及び吉見町大字江綱からなる総面積百二十ヘクタールに及ぶ地域である。
 畑作は桑・麦・野菜・果物を主体とし、農業経営も畜力から動力へと移行し、近年は大型機械の導入により近代化が普及し農産物の増産に精進してきたところであるが、農道網は狭小屈曲にて大型機械の侵入困難や利便性に欠け、区画も不整形にて高能率が図れない状況にあった。
 この旧態依然である有様を憂い、農業基盤整備の機運が高まり市の指導のもとに昭和五十二年に調査計画を樹立すると共に、非農家への事業参加の啓蒙を図り、同五十三年農林水産省補助事業として団体営土地改良総合整備事業の採択を得ると共に、土地改良区の設立を行い、同年総合的な農業基盤の整備として非農用地(宅地・原野・山林等)まで地区に取り込み生活環境面も配慮した一体的な基盤整備として工事着手し、以来九年の歳月を経て完成し、同六十三年登記完了に至った。(以下略)
                       『野本東部土地改良事業完成記念碑』より碑文引用
       
拝殿の手前には高く伸びて枝葉を大きく伸ばしたご神木のケヤキが聳え立っている(写真左・右)
        
                     拝 殿
 鷲神社 東松山町古凍四九九(古凍字宮前)
 古凍は古氷・古郡とも書き、比企郡の古の郡家の地であったのでこの名が起こったとみられる。
当社の創建は、社伝によると治承二年(一一七八)十月十四日に鷲宮町鷲宮神社から勧請した。 その後、文治年間(一一八五~九〇)に本殿を建立し、貞和二年(一三四六)に覆屋を造営した。
 一方、大里村相上の吉見神社社家である須長家の先祖が、寛永二年(一六二五)に著した「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請し、更に菩提寺として慈雲寺を建立したという。「同家系図」の代々の没年から推すに、その年代は室町時代の中期と思われる。社殿にある治承二年とは三〇〇年余の隔たりが見られるが、あるいは衰微していた当社を同家で再興したことを示すのかもしれない。
『風土記稿』は、慈雲寺持ちの社として「鷲明神社 村の鎮守なり」と載せる。文化三年(一八〇六)には、正一位の神位を拝受した。
 明治初年の神仏分離により慈雲寺の手を離れた当社は、神職の吉本良之進が代わって祭祀を司るようになった。更に明治三十年代から澤田家がこれを継ぎ、光行・豊・豊行と三代にわたって奉仕している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 大里村相上の吉見神社社家である須長家は、大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)から続くと云われている東国きっての名族である。
「相上村神明社神主須長家由緒書」にはその須長氏が古氷鷲神社の創建に関与した記述がある。
須永上野大掾藤原長春と云人あり、長男須長播磨守善長(永徳三年(1383)生、文明四年(1472)没)に男子四人ありしを、惣領長清には七百五十貫の神領を譲りて神主職とし播磨守と名乗らせ、其身は二男義清を連れて古氷定右衛門尉と名乗る。古氷村の鎮守熊野大権現・鷲宮大明神は、その勧請なり」
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                  拝殿の手前で左側には境内社・合祀社等が祀られている。
        
                               
古凍鷲神社合祀社
         左より稲荷神社・八幡神社・諏訪神社・熊野神社・天神社
 
         合祀社の左隣に並んで祀られている石祠2基。詳細不明。
「新編武蔵風土記稿」には
「鷲明神社 村の鎮守なり、當社及下の三社共に慈雲寺持、諏訪社、川王社、御霊社」と記載され、諏訪社は合祀社で祀られていることから、残りの川王社・御霊社なのであろうか。
        
                         拝殿側から見た
古凍鷲神社の一風景

「古郡」という地名は、埼玉県内、特に北部に多数存在し、その地域によって「古氷」・「古凍」とも表記する場所もあるようだ。地名由来として律令時代の郡家(郡役所)があったとか、武蔵七党猪俣党の一族である古郡氏、丹党中村時経の子時員が古郡左近入道と称したこと等、幾つかの説が唱えられてはいるが、決定的な確証があるわけではない。比企郡にも所在する「古凍」にはどのような歴史的経緯でつけられた地名であろうか。興味は尽きない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「相上村神明社神主須長家由緒書」「大里郡神社誌」
    「日本歴史地名大系」「東松山市HP」「Wikipedia」「境内記念碑文」等 

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