古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

薬師寺郷鎮守八幡宮

 嘗て日本国には「天下三戒壇」と呼称される三師七証による厳格な授戒を行う戒壇が3か所建立されていた。その3カ所とは「奈良 東大寺」「筑紫 観世音寺」それに「下野薬師寺」である。
 下野薬師寺が建立されたのは、天武天皇の白鳳8年(680年)といわれている。皇后(後の持統天皇)がご病気になられた為、薬師如来のご威徳をもって病気平癒を祈念するために勅願により建立され、祚蓮上人が下野国のこの地を選び、伽藍配置の図式を奏上したと伝えられている。
 下野薬師寺が東国仏教文化の中心として特に隆盛を誇るようになったのは、天平宝字5761)年に鑑真和上によって戒壇院が建てられてからであり、この時代には、東山道足柄以東坂東10カ国の僧侶となる者は、全てこの下野薬師寺で修行し、授戒をしなければならない定めになっていた。
 加えて宇佐八幡宮神託事件の後、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)が死去すると道鏡禅師は後ろ盾を失い失脚し、宝亀元(770)年に造下野国薬師寺別当(総責任者)となった。このように当寺は特別な役割を担う官寺であったと考えられている。道鏡は772年に当地で没し、龍興寺に墓が伝わっている。
 下野薬師寺は平安時代には、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。鎌倉時代には一時的に復興し、慈猛上人が戒壇を再興、当寺は戒律・真言の道場として隆盛し、寺の前には門前市も形成されたという。
 その後戦国時代には後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて、七堂伽藍をはじめ全ての建物が焼失したと伝えられていて、以後威容を取り戻すことはなくなる。
 慶長年間(15961614)年の頃佐竹家家老渋江内膳政光により、薬師堂(本堂)と戒壇堂が再建されたが、明治35(1902)年、台風のため本堂が倒壊、3年ほどかけて使える古材を活用して再建されたのが現在の本堂である。

 仏教の正式な戒律を授けるための戒壇は、国策である鎮護国家思想を象徴する場である。そのような重要な国家機関が、なぜ朝廷から見れば遠く離れた東国の下野国に置かれたのだろうか。
 その謎の多い
下野薬師寺跡に隣接して鎮座しているのが薬師寺郷鎮守八幡宮である。
        
             ・所在地 栃木県下野市薬師寺1505
             ・ご祭神 誉田別命・玉依比売命・息長帯比売命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 節分厄除祭 23日 祈年祭 211日 祖霊祭 318日
                                                      例祭 112日・3日 新嘗祭 1124

 薬師寺郷鎮守八幡宮は、栃木県下野市薬師寺にある神社で、下野薬師寺跡に隣接して鎮座する。下野薬師寺は古くより朝廷から重要視されていた寺であり、当社はその鎮守としての役割を担ったとされる。社伝によれば、貞観17年(875年)に清和天皇の勅定により京都・石清水八幡宮から勧請されたのが創祀とも、また一説には下野薬師寺の鎮守神として天平宝字元年(749年)に大分・宇佐神宮から勧請されたのが創祀ともいう。
 また天喜4年(1056年)には源頼義が前九年の役の進軍途上に当地で合戦となり、社殿は焼失したと伝えている。頼義と子・義家は、その帰路で当社に寄り、鉄弓・鏑矢(社宝)を奉納し、ケヤキ(市天然記念物)を手植えしたという。
        
              薬師寺郷鎮守八幡宮正面。隣には別宮 天狗山雷電神社が鎮座する。
        
                薬師寺郷鎮守八幡宮一の鳥居
        
          石畳の参道の脇には赤い灯篭が長く整然と並んでいる。
              
               参道左手にケヤキのご神木が在る。

市指定天然記念物 薬師寺八幡宮のケヤキ
指定  平成2313
所有者 八幡宮
樹高約20m、目通り周囲4,8m
推定樹齢 600
地元の人たちから八幡宮の御神木として親しまれ大切に保護されてきたこのケヤキは、一説によるとその昔源頼義が奥州平定の帰路当八幡宮に参宮し自から植えた木と伝えられてきたもので、本町内に存在する数多いケヤキの中でもとりわけ大きく、堂々とした姿はまさに名木と言えよう。 平成33月   下野市教育委員会
                                      

梟(ふくろう)
其の昔、このご神木に梟が住み着いていました。森を見張る番とも、森の賢者とも称えられる梟は、福郎とも福来郎とも吉宇を当てられ縁起の良い鳥として崇敬されています。
                                      案内板より引用
        
                          二の鳥居から社殿を望む。
 
 鳥居を過ぎて左手には手水舎(写真左)。右隣には夢福神がいる。夢福神とは架空の妖怪バグの化身とされ、悪い夢を食べていい夢を見させてくれる神様という。夢福神は、栃木県内九ヶ所の神社で祀っているようで、それぞれ特徴があり、九種類の御利益が得られるとの事。境内右手には神興庫、その並びには神楽殿がある(同右)。
        
                     境内には由緒等を記した案内板が設置されている。

薬師寺郷八幡宮由緒略記
・鎮座地 栃木県河内郡南河内町大字薬師寺一、五〇九番地
・神 紋 菊花
・ご祭神 
配神  息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト)
     主祭神 誉田別命(ホンダワケノミコト)
     配神  玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)
「由緒沿革」
 人皇五十六代清和天皇の御勅定により東北守護の大神として、京都石清水八幡宮 の御分霊を下野仮夷国大内山郷磯坂朝日ヶ丘に、貞観十七己未歳(西暦八七五年)九月鎮座した。この時より関東北の総社となる。時に小島物部連邦詩朝臣大神主を拝し神主一名、禰宜五名と社家十一、下社家二十三、神戸五十五、神領五五〇町歩を賜る。
 天喜四歳乙申八月、源頼義 奥賊追討の勅を拝し出向の砌り当社に、参宮祈願をなし進発したが、源公の後続軍と賊軍が当社郷において合戦し、その兵災により御社殿・御神楽殿・御神門・御酒殿・御饌殿をはじめ神主、社家等も全く廃燼に帰した。
 源頼義、義家公等奥賊安倍一族を平定し帰路奉賛、特に鉄弓三張、鏑矢六本を奉納したという。後伊奈備前守 支配領内となるに及び、神社収領の手数を省く意味で五五〇町歩余の神領を上地し直接石高を以って奉献と決まり社の収入はここに大減するに至った。その後領主の変わる毎に石高は減少し、神社経営は極度に窮迫した。当時薬師寺郷内拾余の寺院も閉鎖、院領も没収せられ二、三の寺院を残すのみの大変動があった。その後佐竹右京大夫の支配領となるに及び寛文二年壬寅歳御本社、御石間再建、翌歳御拝殿、御玉垣の修理奉納があって漸く旧御社殿形態の幾分かを備うるに至った。
 長い参道では、昭和初期迄流鏑馬神事が行われていたが。今は桜並木として親しまれている(以下略)
                                      案内板より引用
        
                                         拝 殿

 貞観17 年(875)創建と伝えられ主祭神は誉田別命で、配神として玉依比売命と息長帯比売命の二神が祀られている。一説には下野薬師寺の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも伝わり、清和天皇により創建された源氏の氏神としての伝承や、日本三戒壇「下野薬師寺」の守護神として鎮座したという伝承が、伝え継がれている古社である。
 旧村社らしく長い参道と広い境内を有し、社殿の周りには神楽殿のほか、祖霊社、八坂神社、千勝神社、天満宮、猿田彦神社、天照皇大神宮、豊受大神宮、熊野神社など数多くの境内社がある。
        
                     本 殿

 本殿は一間社流造、銅板葺で、全体に装飾も少なく彩色も控えめである。この地を支配していた佐竹氏による再建と伝えられ、棟札より寛文2年(1662)に建てられたものとされる。拝殿は、本殿建築の翌年に玉垣とともに建てられたと伝えられ、桁行5件・播磨3間入母屋造、銅板葺で木部および彫刻にはすべて彩色がみられる。現在の社殿は、平成 14 年(2002)度に部分修理が行なわれた。

 なお薬師寺郷鎮守八幡宮本殿及び拝殿(建造物)は平成10年(1998年)116日に栃木県有形文化財に指定されている。
 
        
薬師寺郷鎮守八幡宮の右隣に鎮座する摂社・八坂神社(写真左・右)

 由来書によれば、古くは「祇園社」と称し、祇園原に鎮座していたが、昌泰二年(899)に薬師寺地内に遷座したという。現本殿は宝暦六年(1756)に再建されたが、東日本大震災により被害を被り、本殿再建二百六十年を節目に、社殿を修築し、八幡宮境内に遷座したとの事だ。
        
 
八坂神社の右側奥に境内社が3社並ぶ。右手前から千勝神社、五條天満宮、三十三社稲荷大明神。それぞれ八心思兼命、菅原道真公、倉稲魂命を祀っている。
 
    社殿奥には奥宮・金精様が鎮座。          社殿左隣に鎮座する祖霊社。
案内板にはご祭神は弓削道鏡(伝)との事らしい。      日露戦争にて戦没者を祀る。
       
          境内に聳え立つ
ご神木である垂乳根銀杏(写真左・右)
 樹齢約300年、樹高約20mの古木は別名「垂乳根銀杏」とも言われ、下野市名木30選に選ばれている。
        

「薬師寺」と名付けられた寺は全て天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺も奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺とされる。
 天武天皇の発願とされる下野薬師寺の創建年代は諸説あるが、発掘調査で出土した7世紀末頃に用いられた可能性のある最も古い軒瓦の形式、その他の関連史料などから7世紀後半から8世紀初頭と考えられる。その創建には当時中央政界で活躍し、下野国河内郡出身の下毛野朝臣古麻呂が深く関わったとされている。

*下毛野古麻呂
 飛鳥
(あすか)時代の官吏。下毛野朝臣は崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔と称する名族だが,古麻呂までの系譜は詳しくは分からない。古麻呂が初めて史料に登場するのは、『日本書紀』の持統3年(68910月が最初で、この時すでに中央貴族である直広肆(じっこうし・大宝律令では従五位下に相当)の地位にあったという。その後大宝律令の撰定に参画し,藤原不比等,粟田真人らとともに,その中心となって活躍した。701(大宝1)3月に大宝令の一部が施行されると,その翌月古麻呂は右大弁として諸王・諸臣に同令を講じている。その時古麻呂は「式部卿大将軍正四位下」の地位で、文官としてだけでなく武官としての立場ももっていたことを示している。

 

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