古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西田気多神社

「当神社の創立は不詳なれども古よりの口碑によれば天正年間能登の国の気多神社の御分霊を奉遷して当字の守護神となし代々厚く崇敬し来り慶応二年二月拜殿を再建し明治九年五月村社申立済となる其の後氏子等生々発展今や四十二世帯二百五十余人に及び祭典に際し狭隘を感ずるに因り我等氏子相計り本殿外宇を新築し拜殿内に在りし本殿をこれに奉遷して拜殿を拡張せんと企て昭和三十年一月着工同年四月その竣工を見るに至れりかくして我等氏子は益々当社の祭祀を懇にし祭神大己貴命の御神徳にあやかりて当字の平和と各家々の福祉とを希わんとせり神祇を崇め祭祀を重んずるは我等の国民性にて政教の基本たり我等はこの祖先の遺風を継承すると共に更に茲に此の挙を刻して後昆に伝えんとす」
                     「
西田鎮守気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」より引用
        
              
・所在地 埼玉県深谷市西田428
              ・ご祭神 大己貴命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 410日 例祭 1016日 新嘗祭 1124
              *例祭は「大里郡神社誌」を参照。 
 西田気多神社は国道17号バイパスを本庄方面に進み、国道17号と合流してすぐの「西田」交差点を左折する。この道路は通称「西田通り」と言われ、交差点から南下すること500m程で、左側に西田気多神社の社叢が見える。
 駐車スペースはないので、適当な路肩に停めて急ぎ参拝を行った。
      
         正面にある社号標柱     気多神社本殿外宇建築竣工記念碑
        
                          入口に設置されている特徴ある両部鳥居
 深谷市西田地区に鎮守する。この地域は小山川と志戸川の合流地点の右岸に近接した位置にあたり、嘗ては河川の乱流地域であったことが、この鳥居の低さ、また基礎部分が頑丈なコンクリートブロックを2段重ねにしている所からも見て取れる。
      
               鳥居の左側に聳え立つご神木
        
                      こじんまりとした境内
 西田気多神社は、現石川県能登に鎮座する気多(けた)神社の分社である。同じ名称だが、この西田地区に鎮座する社は「気多」と書いて「きた」と読む。
「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」の由来以外に参考にする資料が少なく、大変編集するのに手間取ったが、推測も交えてこの社の由来等を考察することをお許し願いたい。
「埼玉の神社」での資料によれば、大体の由来記述は冒頭の「気多神社本殿外宇建築竣工記念碑」を根拠にして書かれている。その上で、「当社は、戦国時代に能登国から関東に逃れてきた落武者が祀ったものではないかと推測されている」として纏められている
        
                                   拝 殿
 旧岡部町には「田島氏」が多く存在する。新選武蔵風土記稿岡村条には
「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見える。
 小山川流域・岡村近郊には砂田村が存在していて、その砂田村より数百メートル南の17国道バイパス附近(道の駅)に榛沢郡の郡衙跡が発掘されており、既に奈良時代頃より多くの居住者がいた。目の前の砂田村が誰にも開発されず原野であったとは考えられず。砂田村住人は既に郡衙時代には土着していたと考えられる。
 明暦二年矢島村検地帳の砂田村境「字やじまたじま」と記載があり、隣地の砂田村には「砂田田島」の小名があって、田島一族の屋敷跡と推測される。砂田村は文明五年小山川の氾濫により、住民全員は高台の岡村へ移転し、滝瀬村字砂田の住民は滝瀬村へ移住した。本庄市史考藤田編に「滝瀬村字砂田の住民については、児玉党の末葉で滝瀬氏に仕へた久米要八の子孫が久米一族である。岡村字砂田は、古老の口碑によれば、文明元年に儀右衛門・善兵衛・藤蔵・武平治・国四郎、その他六人によって開発され、砂田村と称し、数十戸の居住者があったが、永禄四年岡村に全戸移転す」と書かれている。
        
 
   拝殿・向拝部(写真上段)及び木鼻部(同下段左右)には精巧な彫刻が施されている。 
 
社殿左奥に鎮座する「子供みこし庫」と稲荷社     社殿右側に鎮座する蚕影社

 田島家文書(森田藤五郎末裔の森田広太郎所蔵)の「榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者」には正平七年から明徳二年までのその地で「芝切」をした人物を時系列に記載している。
・正平七年 上野国田島より来り当所開発頭田島将監。
・延文四年 上野国小林村より来り当所芝切小林兵庫。右同年同所より来り当所芝切小林内蔵。
・貞治五年 田島氏分地より来り当所芝切森田藤五郎。
・貞治六年 上野国大胡在より来り当所芝切小暮小助。
・応安元年 上野国丹羽より来り当所芝切加藤六郎。
・応安五年 武蔵国妻沼より来り当所芝切大野重兵衛。
・永和三年 上野国新田庄より来り当所芝切武藤弥三郎。
・永徳三年 上野国新田庄より来り当所芝切矢内内遠。
・明徳元年 上野国伊勢崎在より来り当所芝切小此木四郎右衛門。
・明徳二年 上野国新田庄より来り当所芝切茂木与五助。
・明徳二年 武蔵国賀美郡金久保より来り当所芝切久保治郎七.
 右の者当所芝切の者並に発頭人は書面の通りに候故、子孫永々此書付大切に可仕候。
ここでいう「芝切」とは、「草深い荒地を開拓して新町村を設立すること、それを行った人。」との事で、近世に開発された新田村などでは,歴史的事実として,最初に荒野を切り開いて耕地と集落を設定した者の子孫の家を草分けとか草切りと呼び,実際にその村の名主,組頭等の村役人を世襲的に独占していたことも多いようだが、上記の内容では、別の地域の人々が当番制のように行っているようにも見える。
        

 旧佐波郡境町(現伊勢崎市)には「瑳珂比神社」が鎮座している。その創建時期に関して、戦国時代に能登半島出身の小此木左衛門尉長光が境地区ほか6ヶ村を領有し、守護神として生国能登国の石動(いするぎ)明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(15211527)とされている。
 榛沢郡砂田村開発人並に芝切の者の中に、明徳元年(1390)上野国伊勢崎在より来たという小此木四郎右衛門という人物との関係性をうかがわせる。
 結論から言うと、
能登半島出身の小此木左衛門尉長光の本名は「小此木」ではなく、「井上」であったが、この地に移り地名に因む「小柴(小此木ともいう)」を姓としたという流れのようだ。
        


 さて小此木左衛門尉長光は金山城主横瀬(※由良氏)の家臣であるが、横瀬・由良氏は岩松系の新田氏である。
 新編武蔵風土記稿岡村条には「旧家者勘治郎、氏を田島と称す、黒田豊前守が名主を勤む。其祖先を尋るに、岩松遠江五郎時兼の次男経国なる者、弘長年中、父の譲りを受け、上野国邑楽郡田島の郷に住し、田島又太郎と称す。其の子太郎二郎政国、其の子将監経栄、観応三年閏二月新田義宗笛吹峠合戦の役に従ひ、退散して本国に帰らず。当所に跡を止むと云ふ。夫より十三代経命にいたり、長男命義を分家し、次男経明に家を譲る。経明より七代連綿として、今の勘治郎徳一に至る」と見え、田島将監経栄は観応三年(1352年)新田義宗笛吹峠合戦の役に従い、敗れてから本国である上州田島郷には帰らず、岡村に留まったことが記載されている。
 その子孫が岡村周辺に広がっていて、砂田村の芝切を通じて周辺を開墾し、その流れはすぐ西隣の西田村にも広がったとは考えられないだろうか。その開墾には同じ新田系由良氏の家臣である小此木一族が関連していると推測する。


 但し、田島氏は南北朝時期、南朝に属していた新田義貞の系列に対して、開墾を手伝った小此木氏の主君は同じ新田氏でも、足利氏に味方した岩松系の由良氏であったため、表立って由来所等に記載することは、田島氏の名誉にかけてできない。そこで、由来書き等には「誰が祀った」かは、うまくぼかしながら記載せず、後世の解説(「埼玉の神社」等)にも「能登国から逃れてきた落ち武者」が祀った、と誘導するように記述したのではなかろうか。       


      

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