古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

福田淡洲神社

 滑川町福田地区は滑川町北部に位置し、滑川と中堀川に挟まれた開析谷の低地及び丘陵地にあたる。この地域は縄文時代より集落が存在し、縄文中後期・古墳時代前後期の集落跡である馬場遺跡や、古墳前後期の集落跡である円正寺・中在家・古姓前・東両表・大木・小川谷・久保田遺跡、古墳後期の台原・矢崎・栗谷・粕沢古墳群が見られる。
 明応
4年(1495年)正月18日銘の真福寺鰐口に「奉寄進武州比企郡福田郷 別所真福寺鰐口(中略)檀那同所四郎太郎」との記述がみられ、また後北条氏の所領役帳である『小田原衆所領役帳』には小田原北条氏の家臣であり他国衆の上田案独斎の所領として「卅一貫六百卅七文 同 福田塩川分同(比企郡 福田塩川分 卯検見)」とあり、弘治元年卯に検地を行っている。
「福田」の地名由来として、この地に土着した源義賢の家臣8人の子孫が13世紀前半の天福年間に義賢の霊を祀り、天福の福と田圃の田をとって「福田」と称したといわれる。
*「
Wikipedia」参照。 
        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町福田33413
             ・ご祭神 息長足姫命
             ・社 格 旧福田村鎮守 旧村社
             ・例祭等 例祭 415日 秋祭 1017日 新嘗祭 1128
                  大祓 1228
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0892216,139.3522539,17z?hl=ja&entry=ttu
 福田
淡州神社は埼玉県道173号ときがわ熊谷線、昔の熊谷東松山有料道路を森林公園方向に進む。武蔵丘陵森林公園「西口」を左側に見ながらも通り過ぎて、次の信号のある交差点を右折するが、この右折する道は、県道に沿って流れていて、暫く直進すると正面に小学校が見えるので、その手前のT字路を右折する。「谷津の里」という看板が見えるのでそのT字路を右折すると、「ふれあい農園谷津の里」があり、その駐車場から北側に社は鎮座する。
「ふれあい農園谷津の里」の駐車スペースに車を停めて参拝を行う。天候も清々しいほどの晴天の日よりで、足取りも軽い。駐車スペースから北側に進む道路沿いに社は鎮座するが、新緑が進む周囲の風景を眺めながらの散策もまた良いものだ。
            
                道路沿いに鎮座する福田淡州神社
                
           鳥居の先で参道沿い右側に設置されている案内板
 淡州神社   滑川町大字福田(上福田)
 祭神     
息長足姫命
 由緒
 当社の創立年代は不詳であるが、氏子旧家の古書によれば、応永二己亥(西暦一三九五)年に当社例祭に獅子舞を奉納したとの記載あり、応永以前に祀られたことが明らかである。当地は古くから開け、水田耕作がおこなわれ、地名も福田と名づけたと云う。
 里人は神功皇后が熊襲平定に功績を挙げたことを尊び祭神として祀ったと伝承される(中略)
 滑川町観光協会・滑川町教育委員会   
                                      案内板より引用

        
 また
『比企郡神社誌』では以下の記載がある。
 「当社創立は不詳なれども、氏子旧家古書の発見に仍ると応永二年(1395)当社例祭に獅子舞あり、当時は天台宗別当光栄寺持とあり。百拾年前吉田家の祖先の書記されしという当番帳ありしに、応永以前祀られしを実証するものなり、当地は上古早くより福田と名付く。神功皇后熊襲平定に大功有り其の功績を尊び仰ぎ奉りて祭神と祀られるなり。勧請年記未詳、寛永二年(1625年)三月霊代を改め鎮守とす。明治戌子(1888年)正月当日、吉田、由良之助懸ると有る。奉額に正一位淡波州大明神十歳童院忠書と有り。正一位を授けらる。明治4年3月月村社書上済。(以下略)」
 
 参道の様子(写真左)。
なだらかな丘陵地面に鎮座している関係からか、一の鳥居から社殿に進む際に、やや下り気味の参道となる(写真右)
        
                    拝殿兼覆屋 
 「埼玉の神社」によれば、淡洲神社には諸説あり、安房国一ノ宮の后神を杷った式内社「后神天比理乃咩神社(大社で一元来は洲神と称した)」に由来するというものと、近世に流行した淡島信仰によるとする説である。当社の場合はその双方が考えられる。洲が島と同義であることから、後に淡島信仰が入りやすかったのであろう。この信仰は、女性の病気平癒・安産・良縁などの幸福祈願で、和歌山県加太の加太神社もしくは同県の方に鎮座する淡島神社から修験の活動により全国にもたらされたという。
        
              社伝に掲げられた「淡州神社」の扁額

 「淡島信仰」とは、
婦人病に効験ありとされる淡島明神に対する信仰で、一般に淡島様とよばれる。関東では3月3日淡島講を催す所がある。和歌山市加太(かだ)神社が本拠といい,もと住吉明神の妃であったが婦人病のためこの地に流されたという。江戸中期,淡島様の小さな神棚を持った乞食(こつじき)願人が諸国を巡回,その縁起功徳(くどく)を説き,広めたとされる。
*「百科事典マイペディア」参照
        
 ところで神社参拝後、
自宅での編集中に知ったことが2点ある。一点は「福田石」である。武蔵丘陵森林公園内には「福田岩石切り場跡」があるが、この「福田石」は、褶曲岩盤と言われた淡緑色の斜長流紋岩質凝灰岩で、加工しやすい特性もある為、石垣の切石や石燈籠など土木用材として切り出されていて、福田地区内の字大木で大谷石に似た荒粒の凝灰岩が切り出され、「福田石」として販売されていたが、昭和46年あたりまで採掘されていたという。
 筆者もこれまでに
何度も森林公園に行き、その都度「福田岩石切り場跡」の看板は見ていたが、その都度通り過ごしてしまい、一度も実見しなかったのが、今更ながら残念でたまらない。次回には必ず見に行きたい場所の一つにカウントされた。

 もう一点は
「福田鉱泉」。今では福田小学校から北側にある「福田鉱泉前」バス停留場の名前でしかその存在を確認することが出来ない鉱泉名だが、滑川町で刊行された「滑川町ふるさと散歩道」では以下の記載がある。

「この湯泉の由来は古く、今から約1200年前の大同2年(807年)この地に住んだ蓮海という僧が傷を負った鹿が平癒していく姿からこの湯の効用を発見し、里人に教えたと伝えられる。また、近くの岩窟より現れた薬師如来のご出現の尊きを拝し、寺を造営し「徳水山蓮花寺」と号し、近くには湯前権現を祭ったと言われる。この湯の効用も広く知れ渡り、寺も栄え平穏な時代が続いたが、やがて室町期のうち続く戦乱の世となり、鎌倉への往来激しく、戦禍に巻き込まれた。百姓、僧も立ち去り、 寺も大破されたと文献に記されている。久しく荒れ果てたこの地に住んだのは、天正一八年 (一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻めの際に、後北条方に属し落城した鉢形城 (現寄居町) ゆかりの武士であったと伝えられる。その後、湯屋小屋も再興されて、その効用は近年まで人々の知るところであり、その恩恵に浴してきた訳である。栄枯盛衰は世の常とはいえ、この地にも幾多の歴史が刻まれたことも見逃せない事実である」

 福田地区
の近郊「伊古」地区には比企郡で唯一延喜内式社として神明帳に記載された古社である「伊古乃速御玉比売神社」が比企総社として鎮座している。社の由来として、蘇我氏の末裔がこの地を開いた際に創建したとの言い伝えがあり、古くは二ノ宮山の山頂付近に鎮座し、山自体が信仰の対象だった可能性も高いという事から、山岳信仰の一種ともいえる。
 福田鉱泉の発見者は「この地に住んだ蓮海という僧」となっているが、修験道が発見したとの伝承もあり、前述の「蓮海」という僧も、想像を逞しくすれば、蘇我氏末裔で修験者ではなかったかと推測したりもしたが、現時点ではそれ以上の真相は不明だ。
 
         社の南側にある
「ふれあい農園谷津の里」(写真左・右)


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