古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本町千形神社

 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、日本神話に登場する天津神で、『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命との別名を持ち、忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊尊(たかみむすび)の子と記されている。
 岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。 そして、八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、天児屋命とともにその前に鏡を差し出した。
 天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴した。『日本書紀』の一書では、天児屋命と共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれていて、また古語拾遺にも「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。天太玉命は天皇家が居する皇城の門神、つまり門を守護する神ではなかったのではなかろうか
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市本町118
             
・ご祭神 主祭神・天津彦火瓊瓊杵尊 
                  相 殿・天兒屋根命 天太玉命

             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 23日・101日 祈年祭 217日 新嘗祭 1123日
 本町千形神社は熊谷市街地である大字本町に鎮座している。高城神社からも近く、国道17号線沿いで、すぐ北側にある一の鳥居とその北側に伸びた参道の先に二の鳥居があるが、この鳥居を越えると東西に通じる道路があり、その十字路を左折してから200m程歩くと本町千形神社の正面鳥居が右側に見えてくる。
 高城神社周辺もそうだったが、周辺は一方通行の道が多く、車両を使用する際には注意して通行して頂きたい。また市街地になるので、人通りも多く、自転車や歩行している一般の方々の迷惑がかからないような配慮も必要だ。因みに筆者は市内に居住していて、市役所にて所用を済ませてから周辺の散策を行ったので、参拝場所の駐車場等の心配は今回はない
        
                  本町千形神社正面
 高城神社のご祭神は高皇産霊尊(タカミムスビ)で、本町千形神社は天津彦火瓊瓊杵尊(二ニギ)を祀っている。系譜上二ニギはタカミムスビの孫にあたり、相殿に祀られている天児屋根命と天太玉命は、ニニギの天孫降臨時に随伴した神でもあることから、本町千形神社は高城神社の系統に近しく仲の良い社ともいえよう
        
                                 本町千形神社参道
     国道17号線にも近く、街中にありながら、ひっそりと佇む静かな社という印象。
 参拝日は2022年4月13日で、既に桜は散っていて若葉が芽吹いていた。参道両側にある桜並木を見ながら、もう1週間程参拝が早ければ、綺麗な桜が見られたか…と少々後悔の念が広がったことを今でも頭の片隅に憶えている。
        
                                       拝 殿
 千形神社 熊谷市本町一-一八(熊谷字本町二丁目)
 中山道の熊谷宿の中心として栄えた本町の守護神として祀られ、天津彦火瓊々杵尊を祭神とする当社の由緒は、熊谷の町の歴史とかかわりが深く、次のような話が氏子の問に伝わっている。
 その昔、気の荒い大熊がこの地にいて、人々を悩ましていた。その熊を熊谷次郎直実の父親である直貞が退治したことによって、暮らしやすくなったので次第に大きな町になっていった。直貞は、殺した熊があまりにも大きかったので、熊の霊を慰めるために、その頭蓋骨を埋めた所に熊野権現を勧請して祀るとともに、熊の血が流れていった(飛んでいったともいう)所にも社を建て、血形明神と称して祀った。これが当社の起源である。
 右の話にあるように、当社の社名は、初めは「血形」と書いていたが、いつのころからか「千方」と書くようになり、それが更に「千形」と書く急うになったという。なお「熊谷寺縁起」によれば、熊谷直貞による熊退治は、永治年間(一一四一-四二)のことと伝えられている。
 江戸期においては、熊野権現杜と共に円照寺の持ちであったが、実際の社務は、当社の境内にあった当山派修験の万光院が行っていた。神仏分離の後、当社は明治七年二月に村社となったが、熊野権現社は無格社であったため、同四十年に高城神社へ合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額            扁額の左側にある奉納額
 奉納
 千形神社境内の土俵は宝暦年間より近郷力士が千形相撲として毎年二百年の永く草相撲が続けられた相撲歴史発祥の地である(以下略)
                                    境内奉納額より引用
 江戸時代中期の宝暦年間(1751-1764)より近郷力士が「千形相撲」として毎年十月初めに奉納相撲を行い二百年以上の永きに渡り草相撲が続けられた熊谷における相撲発祥の地とされる。神社にはその際の板番付が奉納されているという。拝殿の左側にはその土俵があったそうだが、確認できなかった。
     
    拝殿手前左側に設置されている神楽殿          本 殿

 本町千形神社の創建の年代は不詳ながら、神社の由来については、平安時代末期に遡るという。その時期に、熊谷近辺に巨大な熊が出没して人々を脅かしていて、人々の不安が日々募る中、藤原千方と名乗る者が現れて熊退治を呼び掛けた。村人は賛同して数百名が思い思いの武具を手に集まり、山狩りを始めた。
 熊は山狩りを逃れて熊谷から姿を消したが、人々はなおも追跡して大谷村(現:東松山市)まで熊を追い詰めた。その地で千方は弓を取り、熊を射ち殺した。倒れた熊の死骸の巨大さに千方は神霊の存在を感じ、熊の霊を赤熊明神としてその地に祀った。人々は熊の霊を慰めるとともに千方の武勇をたたえ、熊谷の中央に「熊野山千方明神」として祀ることにした。一時期は鎮守社となり、後に千形神社と改称した。
 別説では、熊を倒したのは平直貞(熊谷直実の父)ともいう。この説に拠れば、熊が倒れたのは「くまん堂」(熊谷市内に石碑が現存)という場所で、熊の血が流れた場所に建てた社を「血形明神」(血形神社)と呼び、後に「千形神社」と改めたという。ただし、この説は熊谷氏が直貞の武勇伝を誇大に伝えるために熊を退治したのは直貞と言い伝えたことが史実であるとされる。熊を倒した千方は藤原秀郷の子であり、秀郷は武蔵守を兼任していたのでよく熊谷近辺を往来していた。その際に熊の害を聞き及んで退治に乗り出したものと伝わる。
        
               拝殿側から見た参道の一風景

 また別説では、『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事によると、天智天皇の御代に、伊賀・伊勢の二国で、藤原千方が反乱軍を起した。千方は、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼(四人の怪人)を配下に、都などでも変幻出没を繰返し、朝廷も手をこまねいていた。そこで紀友雄が勅命を戴いて当地に赴いた。
 友雄は、和歌を書いた紙を矢につけて射たという。
 ○土も木も我が大王の国なるを、いづくか鬼のすみかなるらん   紀友雄
 すると四鬼はこれを読んで、己が住むべき国ではないと、たちまち本物の鬼に化生して、奈落に落ちたという。その穴の跡は今も四つ残っていて、四つとも風が吹き抜け、どこかでつながっているらしい。今の名賀郡青山町付近だという。
 首謀者の藤原千方は、家城(いへき、現在の白山町)付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしているところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ。千方は首を切られ、その首は川を遡って、川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたという。
 この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関わる行事も多いという。

 更に藤原千方の四鬼は坂上田村麻呂伝説にも登場する。
『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』では、奥州達谷窟の岩屋に住む悪郎と高丸兄弟が苅田丸と田村丸親子を討って帝位に就き、先祖である藤原千方の無念を晴らそうと風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼も加えて謀議を企てていた。都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れて帝に近付いたが、田村丸に見破られて水鬼は討たれ、隠形鬼は逃げ帰った。勅命を蒙った田村丸は58千余騎を率いて奥州へと攻める。田村丸の弟・千歳君は城中深く攻め込み隠形鬼に囚われたが、山伏姿であらわれた秋葉山大権現が千歳君を救いだし、虚空より大磐石をふらせ、大地より火焔を湧き出させて殲滅させたという。
        
        
正面鳥居の右側に本町一、二丁目の有形文化財「山車」倉庫がある。

 伝説上の藤原千方は反乱の首謀者であり、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼を引き連れて変幻自在に出没する悪党として出典され、またその子孫も同様に先祖の仇を討つことで、田村丸に滅ぼされるなど、大悪党としての印象としての印象が強いが、史実の上での本人はどのような人物であったのだろうか。
 平安時代の藤原氏の系図を探ると「尊卑分脈」に藤原北家魚名流とされ、藤原秀郷‐千常‐千方が載っている。
 秀郷は俵藤太ともいい、琵琶湖の三上山に住む大ムカデを退治したことで有名であり、元々は関東の豪族である。
 藤原秀郷は天慶3年平将門が関東に兵を挙げたときに朝廷側として将門側と戦火を交え、その首級を上げた。そして秀郷の子孫である千常やその嫡子文脩は、共に鎮守府将軍として関東地方に勢力を張る。千方は鎮守府将軍兼下野国押領使藤原文脩の弟であり、もし伝説の千方を秀郷の孫の千方とすれば、乱の首謀者である千方の縁者である文脩にも災いが及んでいたことは容易に想像できようが、そのような形跡は一切ない。史実の上での千方は叛乱を起こした事実はないし、当時伊賀・伊勢一志地方に叛乱が起こったことは正史には見ることは出来ない。史実での千方を初めとする秀郷流藤原家は、関東にあって父祖の所領をついで豪族として関東地方支配に努めていたはずである。『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事での「天智天皇の御代」となると、全くの時代がずれまくっている。
 また同時に紀友雄も紀氏の系図には出ていない。伝説の千方が秀郷の孫でないことは明らかではあり、そこには伝説と史実の間にかなりの乖離がある。

 平安時代は正に藤原北家独占の時代。正面切って藤原家の悪口は言えないため、「物語」を創作して少しでも気持ちの鬱憤を晴らしたい気持ちは理解できる。例えば「竹取物語」では7人の求婚者のうち、「車持皇子」には厳しい要求をしたというが、この「車持皇子」には実際史実上のモデルがいて、「藤原不比等」と言われている。
 しかし一体どうしてこのような残虐非道な人物に仕立て上げる必要があったのだろうか。勝手な推測するに伝説地のどこかで大規模な叛乱があり、その事件が千方と重なり合い伝説化されたのではないかとも考えられるが、そのような事件は「平将門の乱」「平忠常の乱」以外は見当たらないと思われるが、しかし実際は定かではない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「歌語り風土記」「奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内奉納額文章」等

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