古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

出雲乃伊波比神社

  旧江南町、現熊谷市江南地区は、埼玉県北西部の荒川中流域右岸に位置する。地形的に以下の3区分に分かれる。
 ① 南部を東流する和田川以南の丘陵部(比企丘陵)
 ② 荒川右岸の中位段丘である江南台地
 ③ 部分的に下位段丘の残る荒川沖横地

 江南台地は、寄居町金尾付近より江南町を経て大里村箕輪に至る東西17km、南北3kmにわたる幅狭な台地である。北側・東側は荒川及びその沖積地に面し、比高差10~15mの崖線で画されていて、崖線下には吉野川が流れる。南側は和剛IIを挟んで比企丘陵に接し、台地上は狭小な谷津や埋没谷が複雑に入り組み、その最深部および開口部には溜池が構築されている。
 またこの江南地区は豊かな環境と歴史に育まれた文化財が多くある。これらには、樋番地区にある国指定重要文化財「平山家住宅」・塩地区の埼玉県指定史跡「塩古墳群」・千代地区の権現坂埴輪窯跡等の代表的な文化財・遺跡が荒川に画した場所から台地・丘陵上に広がっていて、古墳時代当時この地帯の隆盛ぶりを感じさせてくれる。


所在地   埼玉県熊谷市板井718
社  格   旧村社 延喜式内社 武蔵国 男衾郡鎮座
祭  神   武甕槌命
        『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
        延経『神名帳考証』『武藏の古社』天穂日命
由  緒   創立年代不詳
        文明年間鹿島明神を合祀、明治4年10月村社、
                同28年8月社号を出雲乃伊波比神社改称
        同40年10月神饒幣帛料供進指定
例  祭   4月17日 例祭

  地図リンク
 出雲乃伊波比神社は埼玉県道47号深谷滑川線を滑川、森林公園方面へ進み、小原十字路交差点を右折、県道11号熊谷小川秩父線の坂井南交差点の南に架かる下田橋から和田川に沿って西へ進むと到着する。社前には和田川が流れ中々風情のある佇まいの神社である。神社の参道入口には太鼓橋が架けられ、低い石垣が何段も組まれた境内の周囲は大きな鎮守の杜が形成されている。
 
    
        社殿の前には趣のある太鼓橋              境内前には和田川が流れる

              境内入ってすぐ左側にある案内板

出雲乃伊波比神社
        埼玉県熊谷市 板井

 『本社は、もとは鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
 境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀されている。
 本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
 また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
 境内に祀らている神々の祭日のうち、特に七月十五日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からば太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった』
                                                                                                             案内板より引用

                   正面の拝殿
    目の前に和田川がある関係で、低いが何段もの石段が組まれている。

                
 ところで出雲乃伊波比神社が鎮座するあたりの小字名は「氷川」という。氷川といえば、さいたま市大宮区に鎮座している武蔵国一の宮氷川神社が思い付く。大宮氷川神社の祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオナムチノミコトという出雲系の神様。この三柱の神様をお守りする神主家は明治になるまで三家(岩井家、東角井家、西角井家)で、スサノオの奉齋を担当していたのは岩井家であった。「氷川神社の周辺もやはり湧水が涸れることの無い神聖な場所であったという。出雲乃伊波比神社の創建年代は氷川神社より古いのではないか、また出雲系の神々は、出雲~越国~信州~関東という具合に、日本海方面から来たのではないか、と想像を膨らましてしまう。

   
      富士山浅間神社                    境内社(?)        左側 不明、右側小御嶽神社
   
    合祀社 祭神は解らず              氷川神社か           この石祠また祭神不明   
                                                                    
出雲乃伊波比神社由緒

○村社出雲乃伊波比神社由緒
 社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。
 然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。
 本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。

 ○氷川神社由緒
 創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。
 当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。
 また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。
    社掌 森本三作
    氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉
 

  社殿の周りの石組はよく整然としていて何か幾何学的な美しさを感じるし、周りの風景と社が一体となった、まるで山水画を見るような美しい光景がそこにあった。本当に素晴らしい雰囲気のある社だ。残念なことに熊谷市に在住する自分ではあったが、正直この社の存在を最近まで知らなかった。
 自分の不明を恥じるとともに、もう少し自治体なり、地域がこの素晴らしい社をアピールすることも必要かとも感じた。








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奈良神社

 東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)は、古代に造られた官道の一つ。当初東山道の 本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。現在のどこのルートを走っていたかハッキリ分かっていないが、国道409号線ではなかったかと言われている。本来武蔵国は相模国と隣接し、東海道に編入されるべき国であったが、地形上の制約等の理由により、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
 
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例*東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
 
その結果、上野国府~新田駅(上野国)~武蔵国府~足利駅(下野国)~下野国府というルートが採用されることになり、新田駅~足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。
 
幡羅郡の延喜式内社は4社で、そのうち東山道武蔵路に接している、あるいはその近隣に鎮座している式内社、及びその論社は数社にのぼる。以下の社がそれに当たる。
  大我井神社  (式内論社)
  白髪神社    (式内論社)
  東別府神社  (式内論社)
  奈良神社    (式内社)
  久保島大神社 (式内論社)

 また大我井神社のすぐ西側には妻沼聖天山歓喜院がある。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもあるが、元々は式内社白髪神社の社地内に斎藤実盛が聖天宮を勧請したものであったとされる。

 東山道武蔵路に沿って式内社が鎮座していることは、このルートがいかに武蔵国にとって重要な道であったかを如実に証明しているのではないだろうか。
    
地図リンク
所在地    埼玉県熊谷市中奈良1969

主祭神    奈良別命
        
(合祀)火産靈命 建御名方命 大国主命 大日霊貴命 彦火火出見命
                木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命
社   格        旧村社  延喜式神名帳 武蔵国 播羅郡鎮座 
例   祭    4月15日 春の例祭
由   緒       慶雲2年(705〉陸奥国の蝦夷反乱に際して神威を発揮
                  
和銅4年境内から湧泉あり、田地六百余町を拓く
                  
嘉祥3年(850)官社
                  
中世円藏坊修験の監下
                  
天正18年(1590)小田原落城によつて摩尼山長慶寺の配下となる
                       
明治7年2月村社
                  明治42年「奈良神社」と改称

  奈良神社は国道407号を妻沼方面へ、中奈良交差点を左折するとすぐ右側に一の鳥居がある。周りが田畑に囲まれた参道をまっすぐ進むとその先にこんもりとした鎮守の森が広がり、手前の朱色の鳥居を抜けるとその中に社がある。
              
                                                    拝殿前の二の鳥居
       
                   鳥居の扁額には「奈良之神社」と書かれている

奈良神社

 長慶寺に隣接して鎮座する。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。この奈良別命を祀った。
中世熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。
当社の東北500mの地点に、「和銅四年 奈良神社涌泉旧蹟」の石碑がある
           
                           拝    殿
     
            拝殿の扁額にも「奈良之神社」と表記
                   

延喜式内社 奈良神社の由来
御祭神 
奈良別命

奈良別命の由緒

「奈良別命は、垂神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国、下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当たり、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。と国造本記に記されてあります。

  当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされるが真相は不明だ。
 
                        横塚山古墳全景                  横塚山古墳南側にある案内板

熊谷市指定文化財史跡
横塚山古墳
 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m前方部で2.5mです。
 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると五世紀末と考えられます。しかし、埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。                                                                                                                                                                                   熊谷市教育委員会
                                                      
                                                                                                                           
  ところで奈良神社の祭神である奈良別命は下野国一ノ宮宇都宮下都賀郡野木町の祭神である豊城入彦命の4世の孫と言われている。宇都宮二荒山神社の由緒は神社本庁では奈良別命に関して次のような記述がある。

由緒
  主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
  古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。

                                                                                 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁  
        奈良神社 境内社                   堅牢墜神(堅牢地神か)の石柱

  大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。しかしこれ以上のことは全く不明で、それ以上にこの人物を祭っている下野国の神社が自分が調べた限り全くない、というのもなにか恣意的なものを感じる。

 その奈良別命が下野国国造としての任期が終了した後、たまたまなのか当地へ分け入り、なぜか開拓し、しかも横塚山古墳の推定埋葬者でも分かるとおりそこで生涯を終えたという。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って奈良神社を創立した、とホームページ等では紹介されているわけだが

  ① 奈良別命は国造本紀(先代旧事本紀)によると毛野国が上野国、下野国に別れた時の、下野国最初の国造として登場している。ましてや豊城入彦命の4世の孫という立派な肩書きだ。創建したと言われている野木神社、宇都宮二荒山神社、那須神社は下野国の地形上それぞれ栃木県南部、中央部、北部の主要地点を抑える要衝で、この位置に神社をつくることはすなわち下野国の南北線を完全に握ること、つまり東山道の掌握になり戦略的にも利に叶うことだ。自分は改めてこの人物の並々ならぬ統治能力の高さ感じた。

 しかしこの人物を祀る下野国の神社がないということもまた事実で、大変不思議だ。また下野国の一ノ宮宇都宮二荒山神社や那須神社、野木神社も創建者である奈良別命よりもよりも豊城入彦命、坂上田村麻呂や那須与一のことが詳細に記述されている。中には創建者である奈良別命の名前すら伏せられているケースもある。

 ② 日本書紀では、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという
また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。旧事本紀によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたというところから、代々下毛野君(しもつけぬのきみ)が国造を世襲したと言われる。ということは逆に言うと奈良別命は下野国国造として一生涯この地から外に出なかった、ということになると思われる。
 
この下野国国造 奈良別命に関しては別項を設けて改めて考えたい。

  ③ ところで先代旧事本記でも埼玉県の奈良神社の由来記では、

  「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」                        
                                            国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述

  とあり、「下野国の国造に任命され」、「武蔵野に地に分け入り、開墾した」と書かれてはいるが、決して「下野国の任期が終了し、当地に入って、開拓した。」つまりこの地に立ち寄ったとは全く書かれていないのである。

  ④ 延喜式内社 奈良神社は「なら」神社と言うが鳥居・拝殿の額には「奈良之神社」であり、読み方は「ならの」神社である。一般的に「なら」神社では固有名詞であるので、祭神も一人が対象になると思われるがそれに対して「ならの」神社は形式名詞なので祭神も一人である理由はないと思われる。

 つまり、下野国の国造奈良別命は下野国から出ることはなかったが、その兄弟の一族、親戚の一族か、または奈良別一族、その後裔の人物が武蔵国、幡羅郡に分け入り、開墾したならばその推理は十分あり得るわけで、だからこそ「奈良之神社」であり、奈良別一族の人物がその一族の開祖である「奈良別命」を祀った、ということは十分にありうる。

     
                         奈良神社 本殿

  そして、ここで一つの大きな問題に直面した。「奈良別一族が幡羅郡に分け入り、開墾した」とはどういうことだろうか。言葉の表現方法は違えども、「幡羅郡に侵入し、この地を下野国の勢力範囲にした」ということではないだろうか。

 幡羅郡は利根川をはさんで上毛野国と接していて、文化的にも経済的にも上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。何よりの証拠はあの東日本最大の古墳、群馬県太田市にある太田天神山神社の存在だ。関東の王者という名に恥じない主軸長210mの巨大前方後円墳で、この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国内の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 この規模だけに影響する領域も両毛地域という東西の広さのみならず南北にもその広がりがあったろうと思われる。太田市は上野国全体で見た場合東に偏っている。だからこそ関東の王者はここに古墳を築造しなければならない理由があったと考えるのが妥当ではないか。この地は上野と下野のちょうど中間に位置し各方面への街道や水路が集中している。また南北においても、これはあくまで推測の域でしかないが、東山道武蔵路の原型はその大田天神山古墳の埋葬者、もしくは毛野国の王者が創建したのではないかと最近思っている。そもそも毛野国の王者が眠っている場所から真南10kmもない場所に幡羅郡は存在する。幡羅郡は武蔵国口の玄関なのだから。

 根拠のない勝手な想像を許して頂ければ、上野国の勢力範囲のこの重要な地に下野国の勢力が侵攻したとしたらその後どうなることが起こるか.....     





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上之村神社

在地    埼玉県熊谷市上之16
主祭神    上之村神社・大己貴命 事代主命

             
摂社 雷電神社・火大雷大神 大雷大神 別雷大神
社  格     旧郷社 
    
由  緒    當社創立ノ年度詳カナラズ應永年中忍ノ城主成田左京亮家時神威ヲ
                   
崇メ社殿ヲ再建シ爾来奕葉崇敬シテ神田若干ヲ附ス其後天正十八年
               
成田家忍退城ノ翌年東照公巡狩トシテ通路アリ社木森々トシテ生茂
        
     リ煩ル幽境ノ景況ヲ覧セラレテ時ノ侯人伊奈備前守ヲシテ神社ノ来
        
     由ヲ諮問セラル従テ翌慶長九年ニ及ンテ社領三十石境内数町諸役免
        
     許神供祭禮修造等不可懈怠ノ?朱印ヲ寄附セラレタリ明治六年郷村
        
     社々格選定ノ際當社ヲ以テ旧第十五区拾九ケ村ノ郷社ニ列セラル明
        
     治四十年四月二日神饌幣帛料供進指定神社トス
例  祭     七月廿何、廿八日両日 例大祭

        
地図リンク
 国道17号線の上之(雷電神社)交差点から入ったところに鎮座する。駐車場は神社の境内手前右側にある。ただし17号線からは摂社である「大雷神社」と大きく書かれて、その下に上之村神社と申し訳なさそうに案内板に明記されている。ネームバリューの関係からだろうか。ところで、上之村神社の読みは「うえのむら」と全国神社名鑑などにあるが、氏子の方に聞くと「かみのむら」だそうだ。

  上之村神社の社叢の前には「社前の堤」と言われる堤が存在する。

 
                       「社前の堤」案内板とその遠景
社殿の堤(堤の由来)

 応永年中(1394-1428)成田郷の領主成田家時が従者と館の東にある森の小祠の前を芦毛の馬に乗って通った時、何に驚いたか馬がハネ上り家時は落馬 してしまった。何んの神様の祟りかと、附近の老人に聞いてみると、この社は久伊豆神社と雷電権現で、この神様は芦毛の馬に乗ることから、神前を芦毛の馬に 乗って通る者は必ず神罰を蒙る伝えがあり、そのためだったという。
 家時はこの神威に驚き乗馬の芦毛を神馬として奉納以来当社を崇敬し直接神前を通るのは勿体ないとこの堤を築かせたという。

 
社前の堤を過ぎると、江戸時代の両部鳥居が見える
            
                        熊谷市指定文化財建造物 上之村神社鳥居
                                  指定年月日  平成九年十一月三日
                                  所 在 地   熊谷市大字上之十九番地
 この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
 平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(1664)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
 建造以来すでに三三○年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です。
            
                           参道 思った以上に長い。古の神社の風情を感じる。
           
                        
                          上之村神社、大雷神社 拝殿

           
 
          上之村神社 本殿                      雷電神社 本殿
上之村神社本殿と雷電神社の周囲は瑞垣に囲われており、正面には立派な門が取り付けられている。 


上之村神社本殿・
雷電神社本殿

 上之村神社は、古くは久伊豆神社と称し、室町時代、城主成田氏の崇敬が厚く、応永年間(1394~1418)に成田家時が社殿を再建したと伝えられています。
 江戸時代に入り、慶長九年(1604)に徳川家康から三十石の朱印地を与えられ、明治二年(1869)には村名をとって上之村神社と改称しています。
 本殿の構造は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は銅板葺(もと茅葺)です。軒回りの蟇股(かえるまた)・手挟(てばさき)などに十二支の彫刻が彫られていて、木割は雄大です。
 雷電神社は上之村神社の摂社で、本殿の構造は蟇股の彫刻など一部を除き、上之村神社とほとんど同じです。木割は上之村神社に比べて繊細で、規模もやや小さなつくりです。
 社務所に保存されている旧本殿の扉には、「(観音)奉修造雷電宮御宝前戸扉大壇那藤原朝臣長泰 武州崎西郡忍保宮山之内※年戊午五月吉日願主※」という 銘文が記されています。戊午の年は永禄元年(1558)と推定され、この年に忍城主成田長泰が、雷電神社の内陣の扉を修理し寄進したことが考えられます。
 指定名称は歴史的な背景から考えて雷電神社となっていますが、現在は、大雷神社と称されています。
 両本殿の建築年代については、上之村神社本殿は、江戸時代初期と推定され、雷電神社本殿は彫刻類の絵の様式から、それよりやや古いと推定されています。
 両本殿とも建築当初の姿をよく残し、桃山末期から江戸初期の建築様式を伝える貴重な建造物です。
 平成九年三月
   埼玉県教育委員会
   熊谷市教育委員会

 
        諏訪社                合祀社                 合祀殿
 上之村神社拝殿の周りには多数の境内社がある。写真中央の合祀社は拝殿奥右側にあるが祭神は不明で、右写真の合祀殿の祭神は夷神社と荒神社、事任神社、天神社、住吉神社が祀られている。

          
また一の鳥居の手前左側には富士塚がある。塚の頂には富士嶽神社鎮座し、他に醫薬大神や道了山、高尾山、小御嶽神社、猿田彦大神、食行霊神・角行霊神などの名が見える。

 境内は広く開放感がある。また時間がゆっくりしていて居心地がとても良い。熊谷の地で、このような社があったとは正直驚いた。
 また神社の説明書きや由緒等の案内板も多数あり、よく理解できた。神社の近くには遊具等の遊び場もあり、数名の親子連れやお孫さんと一緒に遊んでいるお年寄りもいて微笑ましく思った。
 境内は整理が行き届いていて、参内中不愉快なゴミ等全くなかった。寺院風の煌びやかな神社ではないが、その神社の持つ素朴さや質実さは俗に言う「いい味が出ている神社」なのではないかと参内時間中感じた。ともかく不思議と神社全体の雰囲気が良いのだ。

 上記で紹介したが、「上」は大和言葉で「ウエ、カミ、カサ」と言われていた。この「カサ」は笠族の笠原氏と深い関係が有り、この名称から上之地区は笠原氏の居住地区ではなかったかと推察されるが事の真相はいかがなものだろうか。また和名抄武蔵国賀美郡は「上」郡とも呼ばれていた。都に近い理由から付けられた名称らしいがそれだけだろうか。またこの上之となにか関連性があるのだろうか。


 

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高城神社

 武蔵国大里郡は武蔵国の北部に位置し、四囲は埼玉・足立・横見・比企・男衾・榛沢・幡羅の各郡と接している。おおむね現熊谷市熊谷、久下、石原、大麻生、佐谷田地区から旧大里郡大里村あたりの地域で、『和名抄』は「於保佐止」と訓じている。箕輪古墳群として6世紀の前方後円墳である「とうかん山古墳」(全長74m)があるが、発掘調査はされていない。このほか、延喜式内社である高城神社から「夭邪志(むさし)国」と記された青銅の鈴が出土している。
 郡衙は、熊谷市久下(くげ、郡家の転訛)付近とみられているが確証はない。ちなみに対岸の下田町遺跡から古墳・奈良・平安時代にかけての遺構・遺物が発見されている。
 平安時代には武蔵七党の私市(きさい)氏が住み、久下氏や熊谷氏(平家物語に登場する熊谷直実など)の祖となった。

所在地    
埼玉県熊谷市宮町2-93 
主祭神    高皇産霊尊
社  格    旧県社  武蔵国延喜式内社  大里郡総鎮守
由  緒    延享2年(1430)造営  
          寛文11年(1671)10月造営
         天明元年(1781)神樂殿・鳥居の修覆
         明治7年2月村社
         同40年10月神饌幣帛料供進神社指定
         大正5年4月19日県社
         同5月1日幣帛供進神社指定
例  祭    10月2日 例大祭

      
 
 高城神社は熊谷市役所から国道17号線へ続く道路の西に位置し、熊谷市の中心部に鎮座する。鎮座地である熊谷市一帯は荒川の蛇行によって形成された地域であり、荒川扇状地。古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定される。当社を奉祭した氏族は、武蔵七党の一派である私市党に属していた久下(くげ)氏であったようだ。

         
                      高城神社略記を記した案内板
高城神社略記
 御祭神 - 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
 鎮座地 - 埼玉県熊谷市宮町二丁目
 由  緒 - 平安時代延喜五年(1905)約一〇七〇余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。現在の社殿は、寛文十一年(1671)に忍城主、阿部豊後守忠
         秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
 祭  事 - 元旦一月一日、秋祭十月一二三日、追儺祭二月(節分)、七五三 十一月十五日、春祭四月十日、酉の市十二月八日、大祓六月三十日
 宝  物 - 熊谷絵地図、青銅常夜燈、蹴まり、絵馬、古文書等。
        宮司 福井守久

  
      二の鳥居の隣にある社号標            鳥居を潜ると右側に趣のある手水社がある

 
鳥居を潜りすぐ左側には星宮、熊野神社、天神社       
  拝殿手前左側には合祀7社
                               左から伊奈利大神・香取大神・鹿島大神・大国主大神
                                      ・八幡大神・琴平大神・白山大神
新編武蔵風土記稿による由緒
 延喜式神名帳に、武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして、祭神は高皇産霊尊なりと云。元は社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが、寛文11年新に宮社を造りて、今の地に移し祀ると云。
末社。天神、稲荷。
神楽堂。
 霊水。神木榎の側んる池なり。眼病を患るもの此水にて洗へば、立所に平癒せるとて、目洗水と号す。
 社宝。麾一。軍配二。鏃一、柳葉の形にて、銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る。以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり。
 鉾一、貞享3年阿部志摩守正明、奉納の由を銘す。
 刀一、天文18年戌3月吉日、廣国作と銘あり。寄附人の名を傳へず。
 天国刀、寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり。天国寶刀記と云添状あり。其略に、余太曽祖村山次郎入道清久、当武州八王子の北に居城し、家世店国寶刀を蔵す。清久没し子清武の時、羽生城に依り居こと数年の後、寇兵の為に戦死す。二子あり。長は其名を失ひ、次を清昌と云、城の陥に及て、長男は家譜由緒を収て去て、清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し、其子清春、清春の子清次は、乃余が父なり。余出家して世嗣を絶しを以て、寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり。
 神主福井喜太夫、吉田家の配下なり。
 別当石上寺。社地には住せず、宿の南にあるを以て、別に末に出す。

境内社熊野神社の由来も境内掲示板にて紹介している。

 永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪奈岐命を祭り、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。     また、同年4月20日に熊野神社社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして円照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。(境内掲示より

         
                 御神木のケヤキ 樹齢が八百年以上と言われている

           
                            高城神社 拝殿

 
         
                                                          本   殿 

 高城神社の祭神は
高皇産霊尊であるが、その子供の名前は八意思兼命である。この神は秩父神社の祭神で、その十世の孫にあたる知知夫彦命とともに秩父国造として勢力を保持していた。では秩父神社とその祭神の祖である神を祀る高城神社との関係はどうだったのか、地形から見ても、国道140号で秩父地方から上った最終地点は丁度熊谷地方となる。
                         
                      拝殿に掲げられている高城神社扁額

 想像であるが、このタカギ神=高御産巣日命から大里郡(熊谷・大里地域)の荒川流域は知々夫国造の支配権にあったであろうことも推測できるし、秩父郡・大里郡・比企郡・児玉郡等の荒川上流域地域がその支配地域であると推測することはいささか早計な考えだろうか。
 またこの地域は、古代上毛野君の勢力とも接している区域である。上毛野君との関係はどうであったか。児玉郡と境を接する藤岡には「羊太夫伝説」があり、「羊」の地名は、群馬県藤岡地域を中心として、秩父市にも数多く存在している(羊山公園等多数)。


 
 また熊谷(クマガイ)について不思議な記述がある書物がありここに紹介したい。

熊谷 クマガイ 
 風土記稿大里郡条に「熊谷郷、今の熊谷宿なるべし。東鑑治承六年六月五日の条に文書案を載て熊谷郷とあり」と。日光輪王寺大般若経に「応永三年、武州大里郡熊谷郷報恩寺住僧」と。熊谷宿報恩寺条に「当寺は昔熊谷直実の子直家父の没後菩提の為に起立す」と見ゆ。熊谷宿のことは林条参照。児玉郡下児玉村字熊谷(美里町)あり、十条郷熊谷村と称す。寛政六年白川家門人帳に児玉郡熊谷村と見ゆ。
 熊谷宿は現在クマガヤと称すが、古は熊井(くまがい)、熊江(くまがえ)、隈替(くまがえ)とも称す。古事談に熊ガエノ入道(直実)と。明月記に隈替平三直宗と。承久記に熊替左衛門尉実景と。華頂要略に熊江兵衛尉直家と。太平記に熊井と見ゆ。
 古代の熊谷郷とは、直実館跡附近を西熊谷郷と称し、上之村神社附近を東熊谷郷と称す。東熊谷郷は紀元前よりアラハバキ王の政庁があった所で、平安時代初期には嵯峨天皇第四皇子の宮殿が仮宮としてあったと伝承あり。温故録に「大洲旧記に大野又兵衛筆記を載せて云ふ。大野山城守直昌、先祖は嵯峨天皇第四の宮なりしが、甚だ縦なる故、武蔵国熊谷と申所に流され、暫く彼地に渡らせ給ふ処、益々我儘つのり給ふに依て、当国喜多郡宇津といふ処に再び流され給ふ」と見ゆ。熊、笠、阿部、アラハバキ、河上、成田の各条参照。此氏は阿(くま)族にて、阿部(あべ)氏の本拠地奥州太平洋岸に多く存す


 津軽の熊谷氏 古代熊谷族の後裔なり。東日流外三郡誌に「津軽十三港の安倍氏季の養子十三左衛門尉安倍秀栄(藤原秀衡の弟)の臣、熊谷多次郎盛直、右は十三左衛門尉の直臣也」。「建武元年十月、十三湊武鑑芳名、熊谷甚七郎高成、右は安東一騎当戦の武者にして、祖々代々安東一族の親臣也。右安東総将は有間郡十三郷東日流福島城主安倍五郎康季也」と見ゆ。東日流(つがる)の安倍族なり

 またこのような記述もあり、合わせて記載する。

 古代荒脛(あらはばき)族と称する種族が武蔵国及び奥州に多く居住していた。京都の人々は彼らを蝦夷と蔑称した。足立郡に荒脛社が多くあり、今は氷川社の末社となっている。

 荒脛王阿部氏は熊谷郷に王居を構えていた。阿(くま)族の集落をクマガイと称す。阿族は安部、阿部、熊谷を苗字として奥州太平洋岸に多く居住している。埼玉古墳稲荷山鉄剣銘の被葬者は熊谷郷出身の阿部氏である。熊谷郷は後世の成田村で、此地より荒脛族羊氏の後裔成田氏が発祥する。

 大ノ国(百済)の渡来人を胡(えびす)或は羊(ひつじ)と蔑称し、居住地を大胡、多胡と称した。奥州十和田湖附近に荒脛族の成田、奈良、秋元、安保の一族が多く存し、津軽では成田氏が大姓である。

 武蔵は胸刺(むさし)と書き、胸(むな)は空(むな)でカラ(韓)の意味、刺(さし)は城(さし)で非農民の集まる所を云う。鍛工、石工、木工、織工等を業とした韓人の渡来地を胸刺と称し、本国の名を取って大田庄と称した。田は郡県の意味。海洋民石(いそ)族は石川、石田を苗字とす。上州では磯部と称す。(中略)

 

 この文献では熊谷という地域には元々東北のアラハバキ王の政庁があり、阿部氏と称していたと言う。深谷市榛沢地区、緑ヶ丘にある桜ヶ丘組石遺跡は東北地方の旧石器時代に出土する環状列石(ストーンサークル)のような県内では珍しい配石遺跡があり、加えて幡羅遺跡近郊に鎮座している湯殿神社にも同様の配石遺跡が存在し、東北地方独特の文化がこの熊谷地方にも存在していたのではないかと想像を膨らましてしまうところだ。
 また支配領域も東北一円から関東地方に広範囲だったらしい。確かに常陸国は上古代「日高見国」と呼ばれ、蝦夷国の荒覇吐、荒吐、荒脛巾神を信仰していたという。また日本各地には荒覇吐の神を祀る門客人神社が存在することも事実である。


 興味深い話ではあるが、この記述を万人が納得し、証明する文献、資料はあるだろうか。

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