古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

湯殿神社

 湯殿神社が鎮座する西別府には7世紀以前の古代古墳時代からその地域にとって重要な祭祀施設が存在していた。西別府祭祀遺跡は湯殿神社の北側の裏湧き水があった場所で行われた祭祀に関連する遺跡で、出土遺物は、土師器・須恵器・土師質土器、当時の高級食器である緑釉陶器や灰釉陶器などの土器のほか、隣接する西別府廃寺に使われた軒丸瓦・軒平瓦などが確認されて、その他にも馬形や櫛形などの滑石製模造品が数多く発見された。
 またこの湯殿神社を取り囲むように南から西方向で発見された幡羅遺跡や
、真南にある幡羅郡衙(郡の役所)跡である西別府遺跡、南東近郊で発見された西別府廃寺等、祭祀・古代寺院・郡衙の跡がそろって確認されている遺跡は全国でも例が少なく、注目されている。なお、出土遺物は、平成23年に県指定文化財に指定された。

 ところで湯殿神社の北北東には別府沼公園があり、
古くから深谷市と熊谷市の境界にあった、自然の湧き水を源流とする「別府沼」を中心に作られた公園で、東西に約1kmもある細長い公園で、北側にはゴミ処理場である「大里広域市町村圏組合 熊谷衛生センター」、東側には別府小学校、南側には別府中学校がある。

 現在では近郊の人々にとっては憩いの場所となってはいるが、古代は湧水と沼地の多い起伏に富んだ鬱蒼とした複雑な地形だったのではないかと想像を膨らましてくれる、そんな空間の中に湯殿神社は静かに鎮座しているのだ。
     所在地  熊谷市西別府1577
   御祭神  
大山祇神(おおやまつみのかみ) 大山を司る神、山の神の総元締の山神
   社  挌  旧村社
   例  祭  不明


       
  湯殿神社は籠原駅から行くと埼玉県道276号新堀尾島線を北上して行くと右側に別府沼公園が見えて来るので、反対側の西駐車場に車を置いて公園南西に鎮座する湯殿神社に向かった。但し別府沼公園の西駐車場から湯殿神社は参拝ルートとしては丁度神社の奥からのスタートとなるので、回り込んで行くしかなく、暑い中での参拝は少々きつかった。
  
  社殿から少し離れた東側にある社号標  
  参道入口には「史跡 西別府祭祀遺跡」と
                                      記された柱が立っていた。
 西別府祭祀施設

 熊谷市西別府にある湯殿神社の北側に位置し、幡羅遺跡の北東に隣接しています。現在、湧水はほとんどありませんが、古代は滾々と水の湧く場所で、神聖視されていました。
 幡羅遺跡が出現する7世紀後半には、加工のし易い滑石製模造品を使った祭祀が行われ、その後も呪術的な記号や願文を記した墨書土器が出土することから、少なくとも11世紀までは湧水点での祭祀が行われていたと考えられます。
 祭祀に関する遺物は、7世紀の段階には石製模倣品、それ以降は墨書土器が出土しています。墨書土器には人名などを記したものの他、呪術的な特殊記号や願文などがみられ、祭祀行為が行われていたことを窺うことができます。
 
各地で調査されている古代の祭祀跡からは、木製の斎串や人形などが出土する例が多くありますが、現在のところ、西別府祭祀遺跡からの出土はありません。しかし、今後の調査で、これらの木製祭祀具が出土するかも知れません。

 西別府廃寺
 
  熊谷市西別府にあり、幡羅遺跡の東に隣接しています。多量の瓦と基壇建物跡、区画溝などが確認され、古代寺院跡であることが分かりました。出土した瓦から、8世紀初頭の建立と考えられます。9世紀後半までは寺院として存続していたことが分かっています。また、周辺から出土した遺物から、11世紀までは宗教活動が行われていたと思われます。
 郡家に隣接して古代寺院が造営される事例は多く、郡司が深く関与した寺院と考えられています。

          
                          拝  殿 
          
                        拝殿内部撮影
     
  拝殿手前左側にある末社  拝殿右側にある合祀記念碑     社殿右側奥にある石碑

 末社には
三峯神社、日枝神社、八坂神社、琴平神社、天神社の五社が祀られて、合祀記念碑には裏面に湯殿神社、諏訪神社、雷電神社、冨士嶽太神の名が記され、明治四十二年十月五日に合祀されたとある。写真右側の石碑には國常立尊・圀狭槌尊・豊斟渟尊の3柱が斜めに彫られている。
               
         社殿左奥にある富士嶽太神と
食行霊神、左下には小御嶽太神もある。
    
  社殿の奥にある石碑の近くには「西別府 祭祀遺跡」と書かれた案内板があり、その先には
神社裏の堀へ下りる階段があり、そこにはまた「祭祀遺跡出土場所」と記された石柱が立てられている(写真左側)。     別府沼公園側に続く裏参道に鎮座する水神の石祠があり(同右側側面には寛文十一年辛亥九月吉日と刻まれているので1671年に建立されたことが分かる。
               
    水神の石祠の先にある不思議な石柱。何かのご神体か?祭祀施設の一部なのだろうか。
      
 神社から別府沼公園側に行く間には写真左のような遊歩道があり御手洗池と書かれた湧水の源泉池もあるようだ。但しこの御手洗池の湧水量は近年極端に少なくなっているという。

  この西別府地区は、別府沼公園の存在でもわかる通り、古来より沼地が多く、また地形的にも利根川、荒川の間にあり、河川の氾濫地域であったはずである。であるにも拘らず、ここに鎮座している神社は山岳信仰の「湯殿神社」。どう考えても地形と祭神には矛盾を感じる。
 埼玉県には不思議と「殿」が最後尾に着く地名が多く存在する。通澱、十澱、蔵澱、頭澱、井澱、水澱等だ。特に
河川(荒川水系)の近傍、しかもこの地名は熊谷市と坂戸市周辺に特に多いという。「湯殿神社」の本社は出羽三山の一つである「湯殿山神社」と説明する書物等多数存在しているし、自分も「湯殿神社」はこの系統の神社と疑わずにいたが、考えてみるとこの「湯殿神社」には「山」と書かれていない。「湯殿山神社」と同系統と考える理由は何一つないのだ。
 またこの「湯殿神社」の北には「近殿神社」が鎮座しているし、
一方でこれらの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。ちなみに湯殿神社の「湯」に関してだが、埼玉名字辞典ではこのように説明している。

 
 
遊座・湯座(ゆざ)
 金属が熱に溶けた状態を湯(ゆえ)と云う。鍛冶師湯座(ゆえ)の集落を遊佐と称す


  筆者の個人的な意見としてこの社は「湯殿山神社」とは関係のない、むしろ河川に関係した社ではないかと考えている。ただあくまで仮説である。この社には何の説明版もなくこのことに関して説明できる資料もない。どなたかこの矛盾をうまく説明してくれる方はいないだろうか。

 




  
    

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赤城久伊豆神社


   久伊豆神社は、埼玉県の元荒川流域を中心に100社ほど分布する一地域集中型の神社で、祭神は大己貴命(大国主)。名前の由来である祭神の大己貴命(=大国主命)は出雲大社の祭神で、「出雲」を万葉仮名で書くと「伊豆 久毛」となり、創建当時より(出雲族・多治比真人三宅麿)が故郷を久しみ、久(ひさ)しい出雲(いずも)の大神と呼んだのが転化して「ひさ いず (=久伊豆) 大明神」と呼ぶようになったと考える説もある。この久伊豆神社の分布範囲は、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲と不思議なことにほぼ一致している。

  この久伊豆神社の最西端である熊谷市石原にこの赤城久伊豆神社は鎮座している。

所在地  埼玉県熊谷市石原1007
御祭神  大己貴命(別名大穴牟遅神)    豊城入彦命
社  挌    不明
例  祭    不明
 


         
  赤城久伊豆神社は熊谷駅南口から荒川方向に進み、最初の交差点を右折する。元荒川通りを真っ直ぐ国道140号線方向に向かい秩父鉄道の踏切を越えるとすぐ左側に赤城久伊豆神社の鳥居が見えて来る。駐車場は鳥居を越えた先に広い駐車場があるのでそこへ停め参拝を行った。

        
  神社の案内板によると山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社を合祀したとの事だ。それ故か
後で分かったことだがこの社には正面の鳥居が東側と北側の2か所存在する。神明造りで東側に向いてる上の写真は久伊豆神社の鳥居のようで、参道の先には手水舎があり、社殿もこの鳥居の方向に向いているので本来は久伊豆神社が基にあり、その後赤城神社が合祀されたと解釈したほうが自然だと思う。
 
      神明造りの鳥居から撮影、             参道の先、左側にある手水舎
       正面に社殿が見える。
 
 よく見ると参道が2方向にあることが分かる。             神楽殿
       
                          拝  殿
 
      社殿の左側にある富士塚             社殿の奥にある稲荷社
        
                          本  殿
熊谷市赤城久伊豆神社社叢ふるさとの森

   身近な緑が姿を消しつつあるなかで、埼玉らしい豊かな緑を私たちの手で守り、次代に伝えようと、四季 折々の風情に富んだこの赤城久伊豆神社の杜が「ふるさとの森」に指定されました。
  この神社は山の神である赤城神社と水の神である久伊豆神社とを合祀した物で、北面の鳥居は郡(群?)馬県の赤城山に向かい立っています。
  境内にある森はスギ、ケヤキ、クス、エノキなどで構成されており、市街地内にある貴重な鎮守の森として、私たちに、安らぎと潤いを与えてくれています。
  埼玉県熊谷市
                                                                                                          案内板より引用

        
               北側にある両部鳥居、赤城神社側の鳥居か
        参道の先には神楽殿が見える。この社は神社の配置が妙に面白い。
                 





  

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玉井大神社


 東別府神社から南東方向に1km弱の所に玉井大神社が鎮座している。
  その昔、奈良の興福寺の僧“賢景”がこの地に来たとき、眼病を患ったという。すると、夢の中で「井戸を掘れ」というお告げがあった。そこで賢景は井戸を掘る。滾々と水が湧き出てきたかと思うと、中から現れたのは宝玉だった。賢景はこの水で目をすすぐ。すると不思議なことに、眼病はすっかり治ったという。そこで賢景は井戸の神様を祀って井殿明神(玉井大神社)とし、宝玉を寺宝にして“玉井寺”(ぎょくせいじ)を創建した。「玉井」という地名も、賢景のこのエピソードに由来しているという。

所在地    埼玉県熊谷市玉井1911

主祭神    天津日高彦火火出見命(あまつ ひこひこほほでみ)
         *一般には山幸彦(やまさちひこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。   
社  格     旧村社
例  祭     三月十五日 例大祭    
       
                   
地図リンク
  玉井大神社は国道17号バイパス線、熊谷方面上りで上奈良交差点で右折し、300m先の三叉路を左折すると右側に見えてくる。東別府神社にも近く、約1km弱で東南方向に鎮座している。
                      

  由来書によると玉井大神社は延暦年中遷都の折即ち第五十代桓武天皇の御代藤原小黒丸左大辨紀古佐美南都興福寺僧賢憬等に内命を伝えようと四神相応の地を巡視していたとき僧某東国に下り当地
に滞在中両眼をひどく病みその折偶々霊夢に感じ里人を鼓舞して井を掘らせその湧水を以て眼を洗い平癒したと伝えられる。その井の神を祭って井殿明神と称し里名の玉の井とはこれから生れたといはれる後社名を改め玉井大神社と称する様になった。御祭神は天津彦火火出見命を主神として十五柱を奉斉する。
                                      
玉井大神社造営記念碑より引用                                                                                                 

                     
                                                参道より社殿を撮影
   手水舎の横にある掲示板。左側に「オビシャ」についての説明が書かれている。
 
 延暦十三年(794)賢憬という僧が當地に滞在中両眼を病んだ。このとき夢の中で告げられた地点に掘った井戸の霊水で眼を洗うと直ちに眼病が治ったという。この井戸の神を祭ったのだ神社の始まりと伝えられる。毎年三月十五日この神社で「オビシヤ」が行われる。これは豊作占いの神事の変化したものといわれすべて謡曲によって進行する祝宴に特徴がある

*オビシャ

 主として関東地方の各村落で行われる春の行事で、なかでも千葉県北・中部はオビシャ行事が最も盛んに行われる地域の一つである。いずれも年の始めの1月から2月にかけて行うところが多く、元来は弓を射てその年1年の作物の作柄など、神意を占う予祝行事であったと思われる。
                                    
                             拝  殿
                        
                        
                                                    
朱色の鮮やかな本殿
         
          拝殿の手前左側に八坂神社が鎮座                       社殿脇に並ぶ末社

  今何気なく思うことがあり、最後に一言追加して述べたい事項がある由来書による玉井大神社の地名「玉井」の由緒は上記に記載した通りだが、実際の信憑性はいかがなものだろうか。というのも神社名である「玉井」の「玉」に関して、武蔵国、特に北部には「玉」のつく地名や神社が、例えば「埼玉郡」「前玉神社」「児玉郡」「玉敷神社」等少なからず存在するからだ。
                                    
                                           社殿方向から御神木の銀杏を撮影
  
               この御神木は何百年の歳月を静かに見守っている。

  地名は生きた化石と云われ、地名の起原や由来を調べれば当時の歴史がおぼろげながら見えてくる。いわば地名とは「歴史の生き証人」と言えないだろうか。
 そもそも地名とは
人類が言語を使用するようになってから現在まで、特定の地表面を表現するものとして、何らかの意義を有して命名され、伝えられてきたものである。それは言語の成立とほぼ同時に発生し、生活の場の拡大とともに増加し、時代とともにより表現方法も多彩なものとなって、日本国中の隅々にいたるまで残されてきた。往時の人びとの生活・歴史や精神・文化が、地名には凝縮されていると言っても過言ではない。
 そういう意味で地名は無形の遺物である。資・史料を証明するものであり、資・史料の表現しきれていない隙間を埋める一つの重要なファクター的存在であろうと考えることは愚かな事だろうか。

                                        
 

 
                      

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東別府神社

  幡羅郡には、白髪神社を祀る論社が4社ある。式内社、つまり神名帳に載る白髪神社は、現在いずれか定ってはいない。その論社である社は妻沼の大我井神社、白髪神社、深谷の東方にある熊野大神社と東別府にある東別府神社である。
  別府城址の一角に鎮座する東別府神社は、今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたり、その鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。

所在地    埼玉県熊谷市東別府708
主祭神    天児屋根命    祝詞の神、出世の神 中臣連の祖(中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神)
         宇迦之御魂神   生産の神/五穀豊穣の神
         大物主神      蛇神、水神、雷神、稲作豊穣の神、疫病除けの神、酒造り(醸造) の神
                    国の守護神
        (合祀)          彦由岐命    不詳
                      埴山比売神   土の神
社  格     旧村社  延喜式神名帳 白髪神社 武蔵国播羅郡鎮座
例  祭    四月十五日 例大祭


        
地図リンク
 延喜式内社 奈良神社からほぼ西方向約3kmに東別府神社が鎮座している。直線距離では2km強だが実際の道路事情ではかなり入り組んでいて3km以上はある。籠原駅方向から行くと埼玉県道276号線を航空自衛隊熊谷基地から妻沼方面へ北上し、別府中学校北側の交差点で右折ししばらく走って行くと、そのうち左手側に東別府神社の社号標石が見えて来る。左折すると突き当たりに東別府神社が鎮座している。
      

          東別府神社 一の鳥居
                史跡 別府城跡地碑
                                別府城跡地の一角に東別府神社は鎮座している。
          
                       別府城の土塁跡。埼玉県指定史跡
埼玉県指定史跡別府城跡

  熊谷市別府 七七七 他
 昭和十六年三月三十一日指定
 別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
 この城跡は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余メートル)四方で、周囲にに巾約二~三メートルの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約二メートルの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形をみることができる。

 太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまったので、この東別府城も廃城になってしまった。
                                                                                                                                                                                                                         昭和五十四年三月三十一日

       
 参道途中から西へ伸びた参道の奥には神明社(写真左側),またその脇には御手長神社(同右)がある。神明社の社殿はよく見ると傾いている。
          
                               
拝  殿
          
                                本  殿
  東別府神社は別府氏の始祖藤原鎌足の後裔であるので、総本社は春日大社であり、かつては春日神社と称していたという。ということは本殿に祀られている3神はどういうことか。春日大社といえば、藤原氏の春日四神(経津主神・武甕槌神・天児 屋命・姫大神)を祭神としている。それに対して東別府神社の祭神は天児屋根命、宇迦之御魂神、大物主神だがそのうち藤原系は天児屋根命のみで、その他2神は稲荷系、出雲系である。どの資料にもそのことについての資料がないが不思議といえば不思議である。

        
       境内社 八坂神社、天満天神社、八幡神社              青面金剛と三猿
     
          両方とも大黒天の石碑                    王瀧口 登山道?
         
          
                                 御嶽塚
東別府神社

篆額 埼玉県神社市長 宝祭山神社宮司 横田茂
  ここ別府城址に鎮座する東別府神社は今を去る八百余年の平安の昔藤原鎌足の後裔別府次郎行隆がこの地に城を構えるにあたりその鎮守神として大和の国奈良の春日神社から勧請したのを創始とするといわれている。
  明治22年6月境内地を拡張するとともに当時既に奉斎されていた春日神社稲荷神社□□がこの地域内に祭られていた榛名神社神明社御嶽神社大国主神社八坂神社琴平神社三船神社当を合祀し地域一円の崇敬の場が造営された。以来70年の間神祇を崇め祭祀を重・・・・・・みにも心のよりどころとして神人和合のまつりごとが行われてきた・・・・が本殿拝殿など積年の風雨による損いもはなはだしく之が修理について斉しく憂慮するところであった。
  昭和32年10月東別府自治会が中心となり同憂の人達と協議をかさねた結果東別府神社(以下略)
                                                                                                                                                                                                                                                        社頭掲示板

 
                             
                             



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大雷神社

所在地    埼玉県熊谷市拾六間690
主祭神    別雷命
社  格    村社 
 
       
由  緒   
 由緒不明

例  祭         
不詳

地図リンク
  国道17号線新堀(北)交差点を自衛隊基地入口方向へ下り、約1km位行くとY字路の交差点があり、手前の歩道橋脇から左側へ入って行くと、徳蔵寺の隣に大雷神社が鎮座している。参道の両側は徳蔵寺の墓地になっており、その墓地の西側に観音堂と閻魔堂、北東側に徳蔵寺がある。この社は筆者の住まいの近所にあり、今までなかなか参拝できずにいたが、今回満を持して紹介することとなった。

 この地域は熊谷市の中にあって人口の増加から周辺は開発が進んでいるが、この社周辺にはその喧騒が全く感じない静かな時間が広がっている。小さい社ではあるが大切にしたいものだ。
             大雷神社の静かな佇まい

  ところで大雷神社の扁額には「大電八公宮」と記されている。熊谷市新島地区に鎮座する大雷神社も大電八公宮という。祭神も同じく別雷命。そこの由来の碑にはこのような説明が書かれている。


大雷神社 由来

  当地新島は文禄年間(西暦一五九二年)に新島右近が開墾し、慶長年間(西暦一六○八年)には玉井村分と謂われ、元禄期(西暦一六八八年)までには新島村として独立するようになりました。江戸時代には旗本戸田氏や白須氏の領地となり、明治二十二年幡羅郡新島村から大里郡大幡村大字となり、昭和七年四月一日に熊谷町大字新島、同八年五月一日、熊谷市大字新島となる。
 当社は古くは大電八公社(ダイテンハクシャ)として現在の熊谷市大字新島大天白北三百二十八番地に鎮座し・・・(中略)祭神は別雷命です。・・・(中略)風の神、安産の神として近郷の人々の信仰を集めてきました。
  大電八公でダイテンハクと読ませることのほうが興味深いことだ。大天白神は星神・水神・農耕神・産泰神などの性格を持ち、別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり
別雷命も雷神としての面以外にも水神や農耕神としての性格があり、またこちらの神社では産泰神としての性格も持たされていることを考えると、大天白神と別雷神を同一視している可能性もあるだろうか?

 またある書類ではこのようなことが記入されている。

・・・・『大天白神』に各地の天白社の分布をまとめ、天白信仰は水稲農耕以前、縄文時代まで遡るとした。関東では大天白を「大天獏・大電八公」、東海道では「天白・天縛」、相模国では「天獏魔王」、遠江国では「天白天王」尾張国では「手白」、志摩国では「天魄」、奥羽地方では「大天博・大天馬・大天場」と書くという。・・・

           額に記された大電八公宮

「熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森」の看板の説明文には以下のことが記載されている。

熊谷市徳蔵寺・大雷神社社叢ふるさとの森
 昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この二つの樹林が、「ふるさとの森」に指定されました。
 徳蔵寺は、真言宗の寺院として、六〇〇年ほど前に建立されたと言われ、薬師如来と十二神将軍の石像は、古くから人々の深い信仰を受けています。
 大雷神社は、源平時代(1056年)に父の命を受けた源義家が、征途にあたり、この付近に十六間四方の兵舎を築き、五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています。
 周囲の都市化が進むなか、天に向う大樹の森は、かけがえのない緑です。
 林相としては、主に、カヤ、イチイガシ、マツ、クスノキ、スギ、ヒノキなどで構成されています。

  大雷神社社叢ふるさとの森の説明板でも「大雷神社は、源平時代・・・(中略)五穀豊穣を祈り水神を祀ったのが起源とされています」と書かれている。拝殿の額に書かれた「大電八公宮」という名前といい、読み方といい、この説明板の水神といい、天白神との関係が非常に深いのでは、と感じた。






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