古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新堀新田八幡神社


        
                      ・所在地 埼玉県熊谷市新堀新田236
                ・ご祭神 品陀和氣命                                                                     ・社 挌  旧村社
                ・例祭等 祈年祭 3月26日 例祭 10月15日 新嘗祭 12月8日
 JR籠原駅南口から駅前通りを南方向に進み、最初の交差点を左折し、奈良用水がある十字路を右折しすぐ左側方向に新堀新田八幡神社がある。
 「新堀新田集落センター」の隣、また「埼玉県立熊谷西高校」の近隣で、北側に鎮座している。集落センターの前には駐車禁止の看板が立てられていたが、神社の南側に駐車スペースがあったのでそこに停め参拝を行った。
            
                                                      
新堀新田八幡神社正面
            
                                     社の正面右側にある「社殿再建記念碑」
社殿再建記念碑
當八幡神社は昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾颱風の余波を蒙り本殿外宇及び拝殿に大災害を受け氏子一同驚愕と悲嘆の極に達した。このままに放置することは一刻と雖も忍びざるところ即日對策を協議した結果満場一致社殿の再建をなすこととし直ちに建築委員会を組織した。抑々當社は明治三十三年五月當時の氏子三十一戸総代根岸悌三郎根岸傳次郎柿沼久作建築委員代表石丸茂十郎棟梁柿沼百太郎各氏の努力と氏子の協力に依り本殿外宇は間口二間奥行二間半木造茅葺又拝殿は間口八尺奥行六尺木造瓦葺にて造営され氏子の尊崇の中心として今日に及んだ。たまたま昭和二十九年旧三尻村が熊谷市合併に際し字所有の新堀新田字赤土二二ノ一外二筆山林一反九畝十一歩は市の財産となったのを地元市議会議員浅見一郎湯本春吉両氏の盡力により上記の土地無償拂下げを熊谷市長に嘆願し一方市議会にも折衝した結果格別の温情を以て金壹封を當字に交付された。この意義ある金圓の處分に付き区長は区民に諮ったところ満場一致これが社殿の建築資金に充てることにした。更に昭和三十五年二月宮司及び主任総代神社本廰に封し社殿建築資材として立木伐採許可申請をなしたるところ許可を得直ちに起工又工事に要する人夫は総て氏子総意の勤労奉仕に依り茲に芽出たく竣工を見るに至った次第である。
昭和三十五年十一月十五日
                                                 「社殿再建記念碑」より引用
                 
                                                         新堀新田八幡神社鳥居
 
      社殿の北側には多くの境内社があるが、その多くは由緒等が解らない。(写真左・同右)
            
                                                       境内社で唯一解った稲荷神社
               宝暦(1751~1764)建立のレリーフ状のお狐様の石祠がユニークで何か可愛らしい。
                          
                                                                        拝  殿
                           
                                                          本殿覆屋
  新堀新田八幡神社の鎮座するこの地域は明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳で旧高旧領取調帳と言われるが、旗本領37村の中に「新堀村」と「新堀新田村」が分かれて明記されている。しかしこの二つの地区は南北に隣接している位置関係であることや、類似した名称から元々は一つであった可能性が高く、本来の地名は「新堀」であったと推測する。  
 この「新堀(にいぼり)」の名前の由来は、「新しい堀」から出ているという。「堀」は用水のことで、昔は「堀村」といわれていた。今から約400年前慶長時代に「奈良堰用水」が新しく作られ、「新堀村」と改められた。 明治22年、久保島、高柳、玉井、新堀の4か村が合併して玉井村となり、昭和16年4月10日、玉井村は熊谷市に合併し、新堀は大字名となったという。

 話は少しずれるが、東京都荒川区に日暮里という地名がある。元々この地域は、「新堀(村)」と呼ばれていたらしい。但し、いつからかは不明で、室町時代にはそう呼ばれていたらしく、太田道灌の家臣の新堀玄蕃がこの地に住んでいたことに由来する説もある。当時は盗賊などの外敵や獣の襲来に備え、堀(溝)を掘って集落を作ったことはたやすく想像される。ただし、史料上では既に1448年(文安5年)の熊野神領豊嶋年貢目録に「につぽり妙円」との記載がある。「日暮里」になったのは江戸時代からで、桜やツツジが美しく「一日中過ごしても飽きない里」という意味で「日暮らしの里」と呼ばれたことに由来する。
                                               
                                              社殿左側で、道路沿いに聳えたつ御神木
  新堀地区内にはJR籠原駅があるが、籠原という地名は「カゴは険しいという意で、アップダウンの激しい原野という意でつけられた地名」であるという。この駅名の由来も新堀と関連しているふしがある。以下の記述がそれを物語っている。
 当時の地名を玉井村新堀と称していたため『新堀』(にいぼり)としたかったが、すでに東北本線に日暮里駅があり、文字はともかく、耳で聞く場合、間違う恐れが多分にあるということで決定できなかった。種々、検討した結果、駅の北東部、旧中山道沿いの『信楽』という茶店のあたりに新堀小字籠原という地名があり、これを駅名にしてはどうかということで、ようやく『籠原』に決定したという。
                                                           
(日本国有鉄道高崎鉄道管理局運転史編纂委員会 1987より引用)
一地方の片田舎の歴史とはいえ、筆者にとってはかけがえのない故郷である。昨今の平成の大合併によって古くからの由緒ある地名が失われてしまい、古くからの由来をしのぶ事が出来ない理解不能な地名に変わる事が現実に起こっている。自分達の住む地区がその昔どのような地名で呼ばれていたか、何故そのような地名になったかを記録に残すことは後世に残す遺産として非常に重要ではないだろうか。 最近の神社散策の中でふとそのようなことを思った次第である。

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大麻生大榮神社

所在地    埼玉県熊谷市大字大麻生字西河原454
主祭神    菅原道真公、そして日本武尊、他14柱
社  格    旧村社        
由  緒    
旧五社稲荷神社が境内に存在していた。大正2年中郷地区の八荒神社
        
と駒形神社、西河原の浅間神社と天神社、そして武体の天神社を合祀して
        
現在の大榮神社として改称する。
        
大正3年10月7日、神饌幣帛料共進神社に指定。
例  祭       4月  例大祭 
       
 埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、三尻農協前交差点のY字路を左折する。国道140号バイパス、いわゆる彩甲斐街道を抜け、国道140号(秩父往還道)の交差点を左折し300m程進むと左側に大榮神社が鎮座している。神社の隣に社務所があり、駐車場スペースがあったのでそこに停め参拝をする。熊谷では珍しい神明造りの社である。
           
 現在の社殿は決して古くはなく、昭和3年に改築したものらしい。その際に、神明風の社殿にしたようだ。深谷市高島に鎮座する、生品神社に似ている。また河川の洪水対策として石垣による基礎を高くしているのがわかる。ちなみに石垣として使用した石は、荒川の自然石とのこと。
   
 参道を進むと左側には石碑(写真左)があり、左から小御岳神社、御岳神社、白山大権現が祀られている。またその奥には合祀社(写真右)もあり、左から産泰神社、浅間神社、駒形神社、 天神社、五社稲荷神社、八荒神社が鎮座する。
           
                              拝    殿
           
                              本    殿
             
 社殿の左側を通ると、すぐ先に弓場跡と彫られている立派な石組があった。熊谷市玉井地区には玉井大神社が鎮座しているが、そこでは「オビシャ」と言われる神事があり、元々は弓を射てその年の豊凶を占う神事だったようだ。またここ大麻生から西に3km程行った深谷市菅沼に鎮座する菅沼天神社には「天神社的場の儀と言われる神事があり、これらは偶々偶然だったのか、それとも何かしら関連性があるのだろうか、現時点では不明だ。

 また弓矢跡の奥の囲いの中には立派な御神木がある。
  何百年も何千年も生き続ける大木の傍らに立つと、太古の日本人の姿を見るような気がして、つかの間、タイプトリップした気分になるときがある。この巨樹、巨木は何百年も前からこの地に存在して、戦争も嵐も大水も、苦しみも悲しみも喜びも、すべてを目にしてきたのだ。何も言わず、ただ静かに屹立する孤高の姿、その圧倒的な存在感を前にして、畏怖と尊敬の念を抱かない日本人はまずいないだろう。
 この御神木と言われる巨樹、巨木は社にとって象徴的存在であり、また地域のシンボルとして人々の心のよりどころでもあり、未来永劫保全すべき文化遺産ではあるまいか。


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久保島大神社


                                
                     ・所在地 埼玉県熊谷市久保島471
                     ・主祭神 大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命
                     ・社 格 旧久保島村鎮守・旧村社
                     例 祭 不明
 東別府神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社
が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                       村社・久保島大神社の社号標
        
                                                          正面一の鳥居 
                                                       すぐ先に二の鳥居が見える。
            
                                             一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり
                  
                                         二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板
 久保島大神社鳥居の由来
  所在地 熊谷市久保島471-2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日
                                                            案内板より引用
            
                                拝 殿
 久保島大神社  熊谷市久保島四七一
 かつて、熊谷市近辺には八島八河原といって、「島」と「河原」の字のつく地名が八か所ずつあった。当社の鎮座する久保島もその一つで、江戸時代までは窪島とも書かれ、古くは東西二村に分かれていたという。(久保島を東西二村に数えなければ「八島」にならない)
『風土記稿』久保島村の項に、「村の鎮守」として、山神社と神明社の二社が挙げられているのも、このように村が東西に分かれていたころの名残で、観照院が別当を務める山神社は西久保島の鎮守、大光院が別当を務める神明社は東久保島の鎮守であった。このうち、山神社については『延喜式』に見える楡山神社であるとの伝え(『風土記稿』はこれを疑問視し、「楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん」としている)もあり、延享三年(一七四六)には極位を受け、正一位山神大権現と称した。なお、この時の宗源祝詞には、瓜と夕顔の種を播くことの許しを乞う一節が見え、興味深い。
 明治に入ると、どんな理由からか、地内にあった尊乗院持ちの聖天社が二柱神社と改称して村社になり、山神社・神明社は共に無格社にとどまった。しかし、明治四十二年、政令により、一村社とすべく、無格社ながら規模が最も大きい山神社に、二柱神社及び神明社をはじめとする無格社七社をそれらの境内社と共に合祀し、山神社を村社に昇格の上、改称して、ここに久保島大神社が誕生したのである。
                                                       「埼玉の神社」より引用                   

             
                                  本  殿
『新編武蔵風土記稿 久保島村』
 山神社 村の鎭守なり、當社は【延喜式】内楡山神社なりなどいへど疑ふべし、楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん、見るべし。別當観照院 天台宗、埼玉郡上中條村常光院末、阿彌陀寺と號す、開山榮順正保三年十月寂せり、本尊阿彌陀、
 神明社 是も村の鎮守なり 別當大光寺 同末、明珠山願成院と號す、開山秀海寂年を傳へず、本尊薬師、

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。
 
            拝殿の横の庚申塔                     境内社 稲荷社と三峰社

 久保島大神社が鎮座する「久保島」という地名の語源は「窪+地」つまり、乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地という意味である。このような地形の形成の最大の要因は元荒川にあった。この元荒川は埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する現在では静かな河川であるが、江戸時代以前は荒川本流として文字通り「荒ぶる川」、として悪名高く、古くから洪水による災害が発生している。荒川は、名前の由来「荒ぶる川」のとおり、大変な暴れ川だった。
                    
                           境内に聳え立つご神木
     
 この荒川は、水源から河口に達する距離が短く勾配も急で、特に峻嶺な水源地帯は多雨・多雪地帯であることから、古くから洪水による災害が発生している。特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であり、そして近世以前の荒川は利根川の支流だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉内部の平野地を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に自然に流路を変えていた為、開発も極端に遅れたろう。特に元荒川と古利根川の間の地域はその苦労が思いやられる。
            
                 
 「久保島」という島が付く地名の由緒を辿って、結果的に「荒川」の歴史というかなり脱線気味な考察となってしまったが、それもまた一興だ。ただ知ってもらいたい。地名一つを調べるとそこには何百年という歴史があり、その淵源は大変深いものなのだ。また我々はその事実を素直に理解し、それを未来に託す義務があることも忘れてはならない。



                    

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下恩田諏訪神社


        
              ・所在地 熊谷市下恩田576
              ・御祭神 建御名方神
              ・社 挌 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 220日 例祭 411日 新嘗祭 1126
                   ささら獅子舞 727   
 下恩田諏訪神社は熊谷市南方部、下恩田地域に鎮座する旧村社。南市田神社から西方向1㎞強の位置にあり、一面の田園風景が広がる中にポツンと静かに佇んでいる。県立養護施設おお里の交差点を南側方向に右折し、200m程も走ると右側に諏訪神社のこんもりとした社叢が見えてくる。鳥居の周りにはそれなりの駐車スペースがあり、そこに車を停めて急ぎ参拝を開始。
            
                             下恩田諏訪神社社叢
            
                                         正面には鳥居・社号標
 
        鳥居の先には2か所の神橋あり           1番目の神橋のすぐ先に2番目の神橋がある。
            
 この下恩田諏訪神社は神社内の配置が大変面白い。それ程大きな社ではないにも関わらず、2重の神橋が社殿を守るように造られている。思うにこの下恩田地区は昔西側に流れる和田吉野川の氾濫による被害が多かったのだろう。和田吉野川は名前通り、和田川と吉野川を合わせた名称であり、丁度下恩田地区でこの二つの河川は合流する。平地の神社であり、その対策としてこの神橋が造られたのではないだろうか。
               
                                 拝 殿
               
                                 本 殿
 この社殿は新しく造られたのだろう。素朴の風合いながら拝殿、幣殿、本殿並列の権現造りとなっている。 なお下恩田諏訪神社の由緒等は案内板もなく残念ながら不明。
                      
                         諏訪神社「ささら舞」の標柱
                         社の正面入り口左側にあり。
諏訪神社の獅子舞
 諏訪神社は、古い歴史を持っています。現在の社殿は、明治30年に再建されたもので、当時の下恩田の氏子45戸が一丸となり、資材の運搬、参道の改修、社殿敷地の土盛りなど一切が人力の奉仕によってできました。当時としては近郷のなかでも珍しい立派な社殿でした
明治44年の神社令によって、中恩田、上恩田の神社を合祀し、ここに三恩田の合社が出来上がりました。このことは社殿前に現存している記念碑に記されています。
伝説によると昔、下恩田地内に恐ろしい疫病が発生しました。そのため、獅子舞いを行ない、村外れに大へいそくを立て、これを一人が刀で切り倒し、その時立ち会った村人は一斉に逃げ帰り、病魔を追い払ったといいます。それ以後、獅子舞は、豊年を祈るとともに悪魔祓いの行事として親しまれ、年に一度おこなわれています。
獅子舞は、江戸時代後期頃から始まったと伝えられています。毎年旧暦の727日(今の99日頃)が例祭でした。
獅子舞は、村人達にとって老いも若きも唯一の楽しい郷土芸術で、親戚近在より多数の見物参詣人がくり出して来ました。境内の杉林の中まで売店と人で埋められ、それはそれは賑やかなものでした。

                                             「熊谷デジタルミュージアム情報」より引用
 
    二番目の神橋を渡ってすぐ右側に境内社                    境内社
           祭神等の詳細は不明              左から春日神社・天満天神宮・三峯神社
 
    左から秋葉山神社・金山大権現              石祠は不明。その隣は若宮八幡宮
            不明、水速女大神
  石祠に記してある秋葉山神社は静岡県浜松市天竜区春野 町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社で、社挌は旧県社で現在は別表神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である。
 現在の祭神は火之迦具土大神で伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神である。だが江戸時代以前は三尺坊大権現および観世音菩薩で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという。俗にいう神仏習合形態の神だ。
 創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に奈良時代の高僧である行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和同2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる。
 但し現在は祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれているという謎の神である。

 
また金山神社(かなやまじんじゃ、きんざんじんじゃ)は、日本各地に鎮座する神社で、金山彦神、金山毘売神等、金属および鉱山とその関連業、古代鍛冶集団を連想する神を祀るものが多い。
                                                                                     社殿からの一風景
 何故この平地に位置する恩田地区にこの山岳信仰、鍛冶集団等を推測する神々が石祠とはいえ、祀られているのだろうか。なんとなく不思議な疑問を感じた参拝となった。
                                                                                                       

                                                                                           

  
 


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高本高城神社

 熊谷市高本地区は、南市田神社が鎮座する中曽根地区の南部に位置し、和田吉野川がすぐ南側に流れている。相上地区のすぐ北側で吉見神社にも近く、大里郡の河川を通じて南北の交易が盛んだったろうと推測される。この高本地区内の大里中学校の南側に高本高城神社は鎮座する。
 この社の規模は大変小さいが延喜式式内社論社となっている。

        
               ・所在地 埼玉県熊谷市高本562
               ・御祭神 高皇産靈尊
               ・社 挌 延喜式内社論社 旧村社
               ・例 祭 例祭 410
 高本高城神社は南市田神社の南方に位置する。大里中学校を右手に見る道を真っ直ぐ進み、しばらくすると右側に一面の田園風景の中にこんもりとした高城神社の社叢が見えてくる。但し専用駐車場も駐車スペースもないので路上駐車し急いで参拝を行った。
        
                                            道路沿いにある高城神社社号標                    
 高本高城神社の正面は東西方向に向いているが、境内の鳥居、社殿は南北方向に造られている。それ故参道に対して横を向いている配置となっている。但し基本的に神社の参道から社殿は真っ直ぐ正面に向くことは良くないといわれているので、決して構図的には悪いわけではない。
                          
                          参道から境内方向を撮影
               
                                 鳥居の正面を撮影。奥行きがないので撮影しづらい。
                             
                                          高本高城神社 拝殿
 高本高城神社の旧社地は本村の北方であったが、村民居住の後の方に当るので、今の地(本村巽の方)に遷座すると云う。また、安政2年(1855年)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う。
            
                           高本高城神社の扁額

 「式内社調査報告」では所在地を「大里郡大里村高本」としており、地図に表示された場所は現在「保健センター」の近く(相上に鎮座する吉見神社の丁度川を挟んで反対側)であり、土手に石碑が建っている。昭和45年に河川改修のため現在地に遷座された。
            
                                         拝殿左側にある境内社
 写真左側から瀧祭神社、水神宮、天神宮、天満宮、牛頭天王等。この瀧祭神社は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社であり、共に旧村社。祭神が瀬織津姫であるところから境内にあるこの石祠の御祭神も瀬織津姫であろう。


 旧大里町、現在熊谷市高本地区の高本高城神社は旧高本村の村社だが、新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社だった。現在は御霊明神社は存在しないので、高城神社に合祀されているのかもしれない。
 御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていた。戦さで片目になったとの伝承がある平安時代の武士である。近隣の東松山市の正代御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も鎌倉権五郎景政を祀っている。
 鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。この景政の武勇伝が産鉄民と結びついて、鎌倉権五郎は産鉄民が祀る神になったという。俗にいう御霊信仰である。では何故この御霊信仰が鎌倉権五郎景政と結びつくのだろうか。
               
                   境内社の並びにある板碑
              周囲をコンクリートで補強されている。  
 本来の御霊信仰とは、〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であり、特にそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。

 御霊会の初見は清和天皇の時代,863年5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。
 
 八坂神社の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって,社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。
 また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。

 ところで鎌倉権五郎景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。鎌倉坂ノ下に御霊神社はこの鎌倉権五郎景政を祀る古社であり、 相模の国に数多くある御霊神社の一つと考えられている。
 この社は元々鎌倉党の5氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖霊を祀る神社であり、五霊神社といったものがいつの間に、語韻が似ていることから御霊神社になったとも云われている。また鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀ることから、権五郎神社ともいわれ、「ごんごろうさま:ごんごりょうさま」「ごんごろうじんじゃ:ごんごりょうじんじゃ」がいつの間にか、「ごりょうじんじゃ」になったとも云われている。不思議と京風の怨霊信仰の形態や風習は伝わっていないことは、鎌倉景政が怨霊になったとか、非業の最期を遂げた等、書かれていないことからも明らかだ。

 国学者である柳田国男は山に住む神の目が一つであることを指摘している。何より片目であることが重要な事で、山童(やまわらわ)の目も河童とちがって一つであり、それは「目一つ坊」でも「目一つ五郎」でも変わらず、東日本では片目の木像が多く残されているという。
 この木像は景政伝説と関係していることが多く、眼病平癒を祈願する御霊信仰と結びついていただけではない。景政の主人が源義家(八幡太郎)だったために、さらには八幡信仰へとつながり、のちに上杉謙信までが景政の後裔と名乗ることになる。史実では後三年の役の戦いによって片目になってしまっただけなのだが、この片目であることが神寵と結びつく隠れた理由があったのではないかと国男は考えていた。
 「めっかち」という言葉がある。片目を意味する元来差別用語だったらしいが、この言葉の意味は非常に深い。最初の「め」は言わずもがな「目」のことだが、では「かち」とは何をさしているのだろう。それはほかならぬ「鍛冶」のことだ。鍛冶は火と水の工芸で、かつては目を痛める職業でもあった。日本全国に鎌倉景政や、雷(いかずち)、さらには天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭る神社が広がっているのは、おそらく鍛冶職人(たたら集団)の分布と関係していると国男は見ていた。一目小僧や目一つ五郎は、そうした神の零落した姿である。


 一つ目神の追求から、国男は次に別系統の神社への連想を紡ぎだしている。野州(下野と上野)には一目を損じた垂仁天皇の皇子、池速別命(いこはやわけのみこと)を祭った神社が多い。ほかに柿本人麿を祭る「人丸神社(大明神)」も多く、人麿がこの地で手負いとなって逃げるときにキビ畑で目を傷つけたという言い伝えが残っている。だが、野州の「人丸神社」はそもそも柿本人麿を祭った社ではなく、「一目(ひとめ)神社」の転訛(てんか)ではないかと国男は疑っている。
 さらに九州には日向(ひゅうが〔現宮崎県〕)などに多くの「生目(いきめ)神社」が残っており、ここでは日向景清(かげきよ〔すなわち平景清、別名、悪七兵衛景清〕が祭られている。盲目となったと伝えられる平家の猛将、景清を祭る神社も、眼病の平癒祈願と関係している。

 つまり、このような神社はすべて一つ目神信仰がのちの御霊信仰と結びついて発達を遂げたもので、ここには神主を神へのいけにえとしてささげた古代の儀式が、一つ目神自体を祭る信仰へと変わり、さらにはそれが一つ目の御霊を祭る信仰へと推移した経過がたどられている。
            
                                      高本高城神社 遠景

 また鎌倉権五郎景政の「五郎」にも意味がある。この「五郎」は御霊の音が似ているために「五郎」→「御霊」と転化したのではないかとの説だ。ウィキドペディア「御霊信仰」には以下の記述がある。

 (中略)鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。柳田国男は、曽我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。

 玉本高城神社の参拝記録を淡々と書くつもりが、御霊信仰、鎌倉権五郎景政とあらぬ方向にまで発展してしまったが、想定外の事項を考えることもまた一興であり、楽しいものだ。

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