古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

久保島大神社


                               
                     ・所在地 埼玉県熊谷市久保島471
                     ・主祭神 大山祇神 伊弉諾命 伊弉册命
                     ・社 格 旧村社
                     例 祭 不明

 東別府神社から南方向に向かうと高崎線の籠原貨物ターミナルの踏切があり、その南西側に久保島大神社
が鎮座している。延喜式内社楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳である。一の鳥居の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
            
                                                       村社 久保島大神社 社号標
        
                                                          正面一の鳥居 
                                                       すぐ先に二の鳥居が見える。
            
                                             一の鳥居を越えるとすぐ先に二の鳥居あり
                  
                                         二の鳥居前左側にある両部鳥居の由来案内板
 久保島大神社鳥居の由来
  所在地 熊谷市久保島471-2
 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。
 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。
 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。
平成17年4月15日
                                                            案内板より引用
           
                                拝 殿                    

                        
                                  本  殿

 江戸時代には山神社或いは山神大権現と称しており、御祭神は大山祇神と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に橘姫命と倉稲魂命、建御名方命、誉田別命、大日霊貴尊、素盞嗚尊、大雷神、軻遇突智命、天手長男神が祀られているのだそうだ。
 
            拝殿の横の庚申塔                     境内社 稲荷社と三峰社

 久保島大神社が鎮座する「久保島」という地名の語源は「窪+地」つまり、乱流河道の中に取り残された低地の中にある微高地という意味である。このような地形の形成の最大の要因は元荒川にあった。この元荒川は埼玉県熊谷市佐谷田を管理起点とし、おおむね南東へ向かって流れ、行田市、吹上町、鴻巣市、川里町、菖蒲町、桶川市、蓮田市、白岡町、岩槻市を経由して、最後は越谷市中島で中川の右岸へ合流する現在では静かな河川であるが、江戸時代以前は荒川本流として文字通り「荒ぶる川」、として悪名高く、古くから洪水による災害が発生している。荒川は、名前の由来「荒ぶる川」のとおり、大変な暴れ川だった。
                  
                           境内に聳え立つご神木
     
 この荒川は、水源から河口に達する距離が短く勾配も急で、特に峻嶺な水源地帯は多雨・多雪地帯であることから、古くから洪水による災害が発生している。特に熊谷市の付近は、荒川扇状地の扇端部であり、荒川の河床勾配は急激に緩やかになるので、土砂の堆積作用が顕著となり、近世以前には多くの派川が形成されていたと思われる。寛永6年(1629)の荒川の瀬替えによって、荒川が熊谷市久下付近で締め切られるまでは、名前が示すとおり、元荒川は荒川の本流であり、そして近世以前の荒川は利根川の支流だった。
 荒川と利根川は長い間、埼玉内部の平野地を蜘蛛の巣のように乱流して流れていて、洪水などの度に自然に流路を変えていた為、開発も極端に遅れたろう。特に元荒川と古利根川の間の地域はその苦労が思いやられる。
            
                 
 「久保島」という島が付く地名の由緒を辿って、結果的に「荒川」の歴史というかなり脱線気味な考察となってしまったが、それもまた一興だ。ただ知ってもらいたい。地名一つを調べるとそこには何百年という歴史があり、その淵源は大変深いものなのだ。また我々はその事実を素直に理解し、それを未来に託す義務があることも忘れてはならない。



                    

拍手[3回]


下恩田諏訪神社


        
           ・所在地 熊谷市下恩田576
           ・御祭神 建御名方神
           ・社 挌 旧村社
           ・例 祭 祈年祭 220日 例祭 411日 新嘗祭 1126
                ささら獅子舞 727
   
 下恩田諏訪神社は熊谷市南方部、下恩田地区に鎮座する旧村社。南市田神社から西方向1㎞強の位置にあり、一面の田園風景が広がる中にポツンと静かに佇んでいる。県立養護施設おお里の交差点を南側方向に右折し、200m程も走ると右側に諏訪神社のこんもりとした社叢が見えてくる。鳥居の周りにはそれなりの駐車スペースがあり、そこに車を停めて急ぎ参拝を開始。
            
                             下恩田諏訪神社社叢
            
                                         正面には鳥居、社号標
 
        鳥居の先には2か所の神橋あり           1番目の神橋のすぐ先に2番目の神橋がある。
            
 この下恩田諏訪神社は神社内の配置が大変面白い。それ程大きな社ではないにも関わらず、2重の神橋が社殿を守るように造られている。思うにこの下恩田地区は昔西側に流れる和田吉野川の氾濫による被害が多かったのだろう。和田吉野川は名前通り、和田川と吉野川を合わせた名称であり、丁度下恩田地区でこの二つの河川は合流する。平地の神社であり、その対策としてこの神橋が造られたのではないだろうか。
              
                                 拝 殿
              
                                 本 殿
 この社殿は新しく造られたのだろう。素朴の風合いながら拝殿、幣殿、本殿並列の権現造りとなっている。なお下恩田諏訪神社の由緒等は案内板もなく残念ながら不明。
                   
                         諏訪神社「ささら舞」の標柱
                         社の正面入り口左側にあり。
諏訪神社の獅子舞
 諏訪神社は、古い歴史を持っています。現在の社殿は、明治30年に再建されたもので、当時の下恩田の氏子45戸が一丸となり、資材の運搬、参道の改修、社殿敷地の土盛りなど一切が人力の奉仕によってできました。当時としては近郷のなかでも珍しい立派な社殿でした
明治44年の神社令によって、中恩田、上恩田の神社を合祀し、ここに三恩田の合社が出来上がりました。このことは社殿前に現存している記念碑に記されています。
伝説によると昔、下恩田地内に恐ろしい疫病が発生しました。そのため、獅子舞いを行ない、村外れに大へいそくを立て、これを一人が刀で切り倒し、その時立ち会った村人は一斉に逃げ帰り、病魔を追い払ったといいます。それ以後、獅子舞は、豊年を祈るとともに悪魔祓いの行事として親しまれ、年に一度おこなわれています。
獅子舞は、江戸時代後期頃から始まったと伝えられています。毎年旧暦の727日(今の99日頃)が例祭でした。
獅子舞は、村人達にとって老いも若きも唯一の楽しい郷土芸術で、親戚近在より多数の見物参詣人がくり出して来ました。境内の杉林の中まで売店と人で埋められ、それはそれは賑やかなものでした。

                                             「熊谷デジタルミュージアム情報」より引用
 
    二番目の神橋を渡ってすぐ右側に境内社                    境内社
           祭神等の詳細は不明              左から春日神社、天満天神宮、三峯神社
 
    左から秋葉山神社・金山大権現              石祠は不明。その隣は若宮八幡宮
            不明、水速女大神

  石祠に記してある秋葉山神社は静岡県浜松市天竜区春野 町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社で、社挌は旧県社で現在は別表神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の殆どについて、その事実上の起源となった神社である。
 現在の祭神は火之迦具土大神で伊邪那岐・伊邪那美二柱の神の御子で火の主宰神である。だが江戸時代以前は三尺坊大権現および観世音菩薩で、人々はこれらを事実上ひとつの神として秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼んだ。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという。俗にいう神仏習合形態の神だ。
 創建時期には諸説があり、701年(大宝元年)に奈良時代の高僧である行基が寺として開いたとも言われるが、社伝では最初に堂が建ったのが709年(和同2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ばれるようになった、と社伝に謳われる。
 但し現在は祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれているという謎の神である。

 
また金山神社(かなやまじんじゃ、きんざんじんじゃ)は、日本各地に鎮座する神社で、金山彦神、金山毘売神等、金属および鉱山とその関連業、古代鍛冶集団を連想する神を祀るものが多い。
                        
 何故この平地に位置する恩田地区にこの山岳信仰、鍛冶集団等を推測する神々が石祠とはいえ、祀られているのだろうか。なんとなく不思議な疑問を感じた参拝となった。
                                                                                                       

                                                                                           

  
 


拍手[0回]


高本高城神社

 熊谷市高本地区は、南市田神社が鎮座する中曽根地区の南部に位置し、和田吉野川がすぐ南側に流れている。相上地区のすぐ北側で吉見神社にも近く、大里郡の河川を通じて南北の交易が盛んだったろうと推測される。この高本地区内の大里中学校の南側に高本高城神社は鎮座する。
 この社の規模は大変小さいが延喜式式内社論社となっている。

       
               ・所在地 埼玉県熊谷市高本562
               ・御祭神 高皇産靈尊
               ・社 挌 延喜式内社論社 旧村社
               ・例 祭 例祭 410

 高本高城神社は南市田神社の南方に位置する。大里中学校を右手に見る道を真っ直ぐ進み、しばらくすると右側に一面の田園風景の中にこんもりとした高城神社の社叢が見えてくる。但し専用駐車場も駐車スペースもないので路上駐車し急いで参拝を行った。
        
                                            道路沿いにある高城神社社号標
                    
 高本高城神社の正面は東西方向に向いているが、境内の鳥居、社殿は南北方向に造られている。それ故参道に対して横を向いている配置となっている。但し基本的に神社の参道から社殿は真っ直ぐ正面に向くことは良くないといわれているので、決して構図的には悪くはない。
                          
              
                                 鳥居の正面を撮影。奥行きがないので撮影しづらい。
                            
                                          高本高城神社 拝殿

 高本高城神社の旧社地は本村の北方であったが、村民居住の後の方に当るので、今の地(本村巽の方)に遷座すると云う。また、安政2年(1855年)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う。
            
                           高本高城神社の扁額

 「式内社調査報告」では所在地を「大里郡大里村高本」としており、地図に表示された場所は現在「保健センター」の近く(相上に鎮座する吉見神社の丁度川を挟んで反対側)であり、土手に石碑が建っている。昭和45年に河川改修のため現在地に遷座された。
            
                                         拝殿左側にある境内社

 写真左側から瀧祭神社、水神宮、天神宮、天満宮、牛頭天王等。この瀧祭神社は武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社であり、共に村社。祭神が瀬織津姫であるところから境内にあるこの石祠の御祭神も瀬織津姫であろう。


 旧大里町、現在熊谷市高本地区の高本高城神社は旧高本村の村社だが、新編武蔵風土記稿によれば、江戸時代後期の時点で、大里郡高本村の村社は御霊明神社だった。現在は御霊明神社は存在しないので、高城神社に合祀されているのかもしれない。
 御霊明神社は鎌倉権五郎景政を祀っていた。戦さで片目になったとの伝承がある平安時代の武士である。近隣の東松山市の正代御霊神社、熊谷市上奈良の豊布都神社(旧称は御霊社)も鎌倉権五郎景政を祀っている。
 鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。この景政の武勇伝が産鉄民と結びついて、鎌倉権五郎は産鉄民が祀る神になったという。俗にいう御霊信仰である。では何故この御霊信仰が鎌倉権五郎景政と結びつくのだろうか。
              
                   境内社の並びにある板碑
              周囲をコンクリートで補強されている。
  
 本来の御霊信仰とは、〈御霊〉は〈みたま〉で霊魂を畏敬した表現であり、特にそれが信仰の対象となったのは,個人や社会にたたり,災禍をもたらす死者(亡者)の霊魂(怨霊)の働きを鎮め慰めることによって,その威力をかりてたたり,災禍を避けようとしたのに発している。この信仰は,奈良時代の末から平安時代の初期にかけてひろまり,以後,さまざまな形をとりながら現代にいたるまで祖霊への信仰と並んで日本人の信仰体系の基本をなしてきた。
 奈良時代の末から平安時代の初期にかけては,あいつぐ政変の中で非運にして生命を失う皇族・豪族が続出したが,人々は(天変地異)や疫病流行などをその怨霊によるものと考え,彼らを〈御霊神(ごりようじん)〉としてまつりだした。〈御霊会(ごりようえ)〉と呼ばれる神仏習合的な神事の発生である。

 御霊会の初見は清和天皇の時代,863年5月20日に平安京(京都)の神泉苑で執行されたもので,そのとき御霊神とされたのは崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王),伊予親王(桓武天皇皇子),藤原夫人(伊予親王母),橘逸勢(たちばなのはやなり),文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)らであったが,やがてこれに藤原広嗣が加えられるなどして〈六所御霊(ろくしよごりよう)〉と総称された。さらにのちには吉備大臣(吉備真備(きびのまきび)),火雷神(火雷天神)が加わって〈八所御霊〉となり,京都の上御霊・下御霊の両社に祭神としてまつられるにいたった。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でもとくに名高く,京都御所の産土神(うぶすながみ)として重要視された。
 
 八坂神社の梢園祭(ぎおんまつり)もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は〈梢園御霊会〉(略して梢園会)であって,社伝では869年(貞観11)に天下に悪疫が流行したので人々は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)のたたりとみてこれを恐れ,同年6月7日,全国の国数に応じた66本の鉾を立てて神祭を修め,同月14日には神輿を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起りであるという。
 また,903年(延喜3)に九州の大宰府で死んだ菅原道真の怨霊(菅霊(かんれい))を鎮めまつる信仰も,御霊信仰や雷神信仰と結びつきながら天神信仰として独自の発達を遂げ,京都の北野社(北野天満宮)をはじめとする各地の天神社を生んだ。

 ところで鎌倉権五郎景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。鎌倉坂ノ下に御霊神社はこの鎌倉権五郎景政を祀る古社であり、 相模の国に数多くある御霊神社の一つと考えられている。
 この社は元々鎌倉党の5氏(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖霊を祀る神社であり、五霊神社といったものがいつの間に、語韻が似ていることから御霊神社になったとも云われている。また鎌倉党の祖である鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)を祀ることから、権五郎神社ともいわれ、「ごんごろうさま:ごんごりょうさま」「ごんごろうじんじゃ:ごんごりょうじんじゃ」がいつの間にか、「ごりょうじんじゃ」になったとも云われている。不思議と京風の怨霊信仰の形態や風習は伝わっていないことは、鎌倉景政が怨霊になったとか、非業の最期を遂げた等、書かれていないことからも明らかだ。

 国学者である柳田国男は山に住む神の目が一つであることを指摘している。何より片目であることが重要な事で、山童(やまわらわ)の目も河童とちがって一つであり、それは「目一つ坊」でも「目一つ五郎」でも変わらず、東日本では片目の木像が多く残されているという。
 この木像は景政伝説と関係していることが多く、眼病平癒を祈願する御霊信仰と結びついていただけではない。景政の主人が源義家(八幡太郎)だったために、さらには八幡信仰へとつながり、のちに上杉謙信までが景政の後裔と名乗ることになる。史実では後三年の役の戦いによって片目になってしまっただけなのだが、この片目であることが神寵と結びつく隠れた理由があったのではないかと国男は考えていた。
 「めっかち」という言葉がある。片目を意味する元来差別用語だったらしいが、この言葉の意味は非常に深い。最初の「め」は言わずもがな「目」のことだが、では「かち」とは何をさしているのだろう。それはほかならぬ「鍛冶」のことだ。鍛冶は火と水の工芸で、かつては目を痛める職業でもあった。日本全国に鎌倉景政や、雷(いかずち)、さらには天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭る神社が広がっているのは、おそらく鍛冶職人(たたら集団)の分布と関係していると国男は見ていた。一目小僧や目一つ五郎は、そうした神の零落した姿である。


 一つ目神の追求から、国男は次に別系統の神社への連想を紡ぎだしている。野州(下野と上野)には一目を損じた垂仁天皇の皇子、池速別命(いこはやわけのみこと)を祭った神社が多い。ほかに柿本人麿を祭る「人丸神社(大明神)」も多く、人麿がこの地で手負いとなって逃げるときにキビ畑で目を傷つけたという言い伝えが残っている。だが、野州の「人丸神社」はそもそも柿本人麿を祭った社ではなく、「一目(ひとめ)神社」の転訛(てんか)ではないかと国男は疑っている。
 さらに九州には日向(ひゅうが〔現宮崎県〕)などに多くの「生目(いきめ)神社」が残っており、ここでは日向景清(かげきよ〔すなわち平景清、別名、悪七兵衛景清〕が祭られている。盲目となったと伝えられる平家の猛将、景清を祭る神社も、眼病の平癒祈願と関係している。

 つまり、このような神社はすべて一つ目神信仰がのちの御霊信仰と結びついて発達を遂げたもので、ここには神主を神へのいけにえとしてささげた古代の儀式が、一つ目神自体を祭る信仰へと変わり、さらにはそれが一つ目の御霊を祭る信仰へと推移した経過がたどられている。
            
                                      高本高城神社 遠景

 また鎌倉権五郎景政の「五郎」にも意味がある。この「五郎」は御霊の音が似ているために「五郎」→「御霊」と転化したのではないかとの説だ。ウィキドペディア「御霊信仰」には以下の記述がある。

 (中略)鎌倉権五郎神社や鹿児島県大隅半島から宮崎県南部にみられるやごろうどん祭りなどの例が挙げられる。全国にある五郎塚などと称する塚(五輪塔や石などで塚が築いてある場合)は、御霊塚の転訛であるとされている。これも御霊信仰の一つである。柳田国男は、曽我兄弟の墓が各地に散在している点について「御霊の墓が曾我物語の伝播によって曾我五郎の墓になったのではないか」という説を出している。

 玉本高城神社の参拝記録を淡々と書くつもりが、御霊信仰、鎌倉権五郎景政とあらぬ方向にまで発展してしまったが、想定外の事項を考えることもまた一興であり、楽しいものだ。







拍手[2回]


中曽根南市田神社

  中曽根南市田神社の北側50m位に東西に流れる通殿川(づうどの)は延長3.7km、流域面積 7.9km2の荒川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市中曽根~小泉に設けられていて、起点から県道257号線に沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいる。[づどの]とは頭殿の読みであり、通殿と同じく中世の地頭領を意味する言葉で、近世には官位名として使われた。例えば掃部頭殿(かもんのかみとの)や頭殿(かうのとの)である。
 この通殿川の周辺地域には、不思議と頭殿や通殿といった地名が多く存在し、また社も意外に多く分布している。

 現在の流路や周辺の地形から推測すると、通殿川は近世以前は荒川の派川だったと思われる。荒川が氾濫したさいの洪水流が、村岡付近から流れ込むことによって、次第に通殿川の流路が形成されたのだろう。村岡よりも上流の荒川右岸には、近世になるまで堤防は無かった。この荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたといえる。
 すぐ南側には郷社吉見神社が鎮座する相上地区もあり、そういう意味からも南市田神社が鎮座する中曽根地区は、大里郡と吉見郡とを河川を通じて繋ぐ重要な地だったのかもしれない。

                               
              ・所在地 埼玉県熊谷市中曽根140
              ・御祭神 瀬織津姫命
              ・社 挌 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 221日 春季例祭 4月中旬  秋季例祭 十月中旬 
                                      
新嘗祭 1123

 中曽根南市田神社は国道17号、佐谷田(南)交差点を右折すると埼玉県道257号冑山熊谷線となり、その道路を南下し久下橋を過ぎて最初の信号を右折する。市田小学校が左側前方に見える交差点を左折し道なりに真っ直ぐ進むと左側にJA市川があり、そこの駐車場の左側奥に南市田神社は鎮座している。
 また専用駐車場はなく、JA市川の駐車場を借りて参拝を行った。
                       
                         社号標柱から正面の参道を撮影
            
                               一の鳥居
 
     一の鳥居と二の鳥居の間にある神橋                   二の鳥居
            
                *(2022年3月参拝時)新しく案内板が設置されていたようだ。              
       二の鳥居の先、右側にある神楽殿                参道の先に拝殿が鎮座する。                
                                                                        拝 殿
 
                         
                                本 殿

  南市田神社が鎮座する熊谷市中曽根地区は平安時代中期に編集された和名抄には大里郡市田郷を載せ、「以知多」と訓じていて地名としての歴史は古い。南市田神社はその名の通り、市田村(明治22年に誕生)の南半分の村々にあった神社を合祀した神社ではなかろうか。南市田神社に祀られている瀬織津姫も、その時に遷座されたのだと思われる。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社は、共に村社であり、祭神が瀬織津姫である。

 一方中曽根村の村社だった五社神社には、久々能知命、火御産需命、埴山比古命、金山比古命、弥都波売命という、五行の神(木・火・土・金・水を司る神々)が祀られていた。この五行とは陰陽道での宇宙を構成する要素である。なお、下恩田の諏訪神社に末社として金山大権現(明治23年に秋葉山神社と合祀して建立、再興か?)が祀られているが、その祭神は金属を司る金山比古命である。さらに小泉村の村社だった八尾明神社の祭神は、八ツ尾の大蛇だとの伝承があった。
            
                                                社殿の左奥にある末社群             

 この末社群は左から不明、天満宮、八坂神社、八坂神社、牛頭天王宮、不明、不明。特に左側の石祠は三つ星の神紋があるがもしかしたらミカ星(天津甕星)かもしれない。想像だが。 
            
                                                 中曽根南市田神社 社殿からの眺め

 ところで中曽根南市田神社の祭神である瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞(おおはらえのことば)に登場する神だが、「古事記」にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていない。大祓詞では、瀬織津姫の名前は、後半の「遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ」という部分に出てくる(「比売」は「姫」の万葉仮名的表記)。

 「大祓詞」の内容をごく簡単にまとめると、「神々が、世の中にある罪や穢れを、遠く山の上まで行って集めてきて、川の流れに流してやると、瀬織津姫が大海原の底にいる神様にまでリレーのバトンのように渡していって根の国(あの世、黄泉の国)に送りかえしてくれる。罪や穢れがなくなってこの世が清くなる。」という意味であり、瀬織津姫は日本の神道の「お祓い」や「祓え」の考え方をつかさどる重要な役割を果たす女神である。俗にいう祓戸四柱神と言われる神々だ。

・ 瀬織津姫、山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる神。
・ 速開津姫(はやあきつひめ)河と海とが合わさる所に坐し、罪穢れを呑み込んでしまう神。 
・ 気吹戸主(いぶきどぬし)海原まで流された罪穢れを、根の国の底の国まで吹き払って下さる神。
・ 速佐須良姫(はやさすらひめ)根の国の底の国に坐し、気吹戸主神が根の国の底の国まで吹き払った罪穢れを流失させる神。

 瀬織津姫命は、祓神や水神として知られているが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。

 また変わったところではこの瀬織津姫は桜の神とも言われる。
 昔「桜の木の下には死体が沢山埋まっている」と聞いたことがある。桜の木の妖気に似た美しさの源は埋められた死体の養分からできている、とよく表現されるようだ。


 話の本筋から少々脱線した所もあるが、とにかく謎の多い神である。

拍手[3回]


八幡・若宮八幡神社

所在地  埼玉県熊谷市押切1056
主祭神  八幡神社 誉田別命。 若宮八幡神社 仁徳天皇
社  挌  旧村社
例  祭  新年祭 2月19日、大祭 10月15日、感謝祭 12月1日



 八幡・若宮八幡神社は飯玉神社から埼玉県道47号深谷・東松山線を北上し、荒川に架かる押切橋南詰め下に鎮座している。但し押切橋から直接社に通じる道はなく、手前にある押切橋交差点を右折し遠回りに荒川沿いに回り込むとこの社に到着する。県道からの道は比較的民家が密集し、また道幅が狭いので運転には注意が必要だ。
 駐車場は神社手前に駐車スペースがあり、そこに駐車し参拝を行った。


八幡・若宮八幡神社
 所在地 熊谷市押切
 村社八幡・若宮八幡神社は明治初年まで八幡宮と称していたが、明治5年上押切御正山若宮坊東陽寺の氏神若宮八幡社の御祭神仁徳天皇を移転合祀し、同時に現社名にされた。
 祭神は誉田別命。御神体は明治初年まで誉田別命の乗馬の像だったが、合祀の際これを徹し御幣とした。なお、大正4年、大嘗祭記念として鏡を御神体として奉斎した。末社には主神の神明宮のほか一社ある。
 本社の創建年代は不詳である。当社は文化6年(1809)、同7年(1810)、文政10年(1827)と度々の大洪水で流失したため、用水堀のほとり(元八幡)に仮本殿をつくり、文政12年(1829)現在地に遷座した。
 新年祭は2月19日、感謝祭は12月1日、大祭は10月15日で、大祭当日は「ささら獅子舞」が奉納される。

                   拝   殿

                   本   殿
本殿は凝った彫刻の施され、大変綺麗なものだったが玉垣の外側からの撮影は今回断念した。
 
            境内社 神明宮                                         神明宮の右隣にある末社

 八幡・若宮八幡神社は決して規模的には大きな神社ではないが、整備や清掃が行き届いた綺麗な神社だ。短い参拝時間であったが神社散策を楽しむことができた。ただ神社の西側には県道47号押切橋の高架橋がすぐ目の前にあり、車の騒音もよく響いた。社自体の風情は良かっただけに、少々残念な気分になってしまった。

 この「若宮」という名称だが、興味深い見解がある。民俗学の研究によると「若宮」とは非業の死をとげた霊をまつったもので、平安後期以後の御霊信仰とともに広まったと、柳田国男以来いはれているそうだ。
 深谷市上手計の二柱神社の近くと思われる若宮社について「大里郡神社誌」ではこのような記述がありそれを紹介したい。

 「別当大沼院」は、深谷城主上杉公の家臣 大沼弾正忠繁の祈願所にて、恒例に依り同城へ年賀登城の際、酒宴の席上 礼を失し、弾正の怒に触れ、恐れて城内を逃出したるも、大雪の為め歩行 意の如くならずして因り居たるに、殿は乗馬にて追跡し、遂に上手計村 栗田家の門松の蔭にて手打になりて斃れければ、遺骸を同地先へ埋葬せるに、院の妻また自害して失せけり。里人これを憐みて、両人をその地に若宮社として奉斎せりといふ。今に至るも、栗田家一族の年中行事の一として、重く祭事を執行せり。
                                                  (大里郡神社誌より引用)

 全国に3万社あると言われる八幡神社が御霊信仰の流れを汲むものであるという説もあり、歴史の裏を垣間見た思いがした。

拍手[0回]