古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

塩八幡神社、塩古墳群

 出雲乃伊波比神社の南側に塩八幡神社が鎮座している。そしてそのまた南側には有名な塩古墳群がある。旧石器時代や縄文時代の遺物が出土し、埼玉県北部の代表的な古式古墳群の所在地となっている。

 所在地     熊谷市塩142-1
          
 祭  神     品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(推定)、※[別称]誉田別命

 社  格     旧村社
 由  来     不明
       
地図リンク
 塩八幡神社は、埼玉県道47号深谷東松山線を東松山市方面に進み、旧江南町の小原十字路交差点を右折すると埼玉県道11号熊谷小川秩父線になる。この道路をまっすぐ進み、約2㎞弱位、時間にして10分弱で右側にこんもりとした森が見え、塩八幡神社に到着する。駐車場は神社手前に塩集会所があり、そこに駐車して参拝を行った。
 
      県道に面して社号標、鳥居がある                参道。社殿を望む
           
                            東向きの社殿
            
                            拝殿及び本殿
 塩八幡神社の創建時代、由緒等は不明。ただ気になる点が一つある。出雲乃伊波比神社-塩八幡神社-塩古墳群のラインは塩八幡神社が若干のずれはあるが、一直線でつながる。一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5Km、千代地区には寺内廃寺跡がある。このラインの関係はどういうことなのだろうか。
 塩八幡社の現在の社殿の創建は、『新編武蔵風土記稿』塩村の条において、16世紀末に徳川家康の江戸入府の後に召し抱えられた旧武田家臣の伊藤氏が塩村の領主となり、そしてその伊藤氏が館を置いたのがこの塩八幡の北にある丘陵だとされている。そこで新しい領地でも氏神として八幡神社を奉じた、というのは一応筋が通る。だがなぜこの地に創建したのか。創建するに適した土地だったのか、それとも元々この地に由緒らしい痕跡があって村民の合意のもと創建したのか......とにかく不思議な配置関係だ。

 埼玉名字辞典には「塩」に関してこのような記述をしている。

柴 シバ
 三国史記列伝に、韓半島南部に浦上八国あり、骨浦(今の昌原)、柴浦(今の漆原)、古史浦(今の鎮海)等なり。浦は古訓でカラ(韓)の意味がある。また、浦は海のことで海洋民を称す。柴浦の海洋民は柴崎、柴田等を称す。また、柴生田はシボウダと訓ず。方、芳はホウ、ハウと読む。和名抄に安芸国賀茂郡志芳郷を之波と註す、東広島市志和町なり、シホはシハ、シワに同じ。塩はシホ、シボと読み、豊島郡渋谷村(渋谷区)は塩谷の里と唱え、那智山文書に「応永二十七年、江戸氏一族旦那・しほ屋との」と見ゆ。シブ(渋)もシボ、シバの転訛なり。塩姓、柴姓、渋姓は柴族にて柴浦の海洋民なり。男衾郡柴村(江南町)、足立郡小室郷柴村(伊奈町)あり。秩父郡大河原郷坂本村字柴(東秩父村)は古の村名にて、文政二年地蔵尊に芝組と見ゆ。鎌倉雲頂庵文書に「十二月九日、柴郷事、上田右衛門尉中間彦太郎男衾鉢形へ帰候間云々、太田道眞書状重可取越候、忠景花押(長尾皎忠)」と、太田道眞は明応元年二月没す。柴郷は男衾郡柴村か、但し当村は文政頃に村高百六石・家数九軒の小村なれば、近村一帯を柴郷と称したか。○茨城県真壁郡明野町五十戸、関城町三十二戸、真壁町三十五戸、結城郡八千代町二十一戸、石下町二十八戸、下館市六十五戸、下妻市六十三戸。○千葉県海上郡飯岡町三十戸。○長野県東筑摩郡明科町十三戸、上伊那郡辰野町十四戸、箕輪町八十八戸、伊那市五十七戸。○福島県双葉郡浪江町十六戸あり。

 
 男衾郡柴村(江南町) 当村は古代柴族の渡来地なり。但し、家伝には信濃国小笠原四郎基義が戦国末期に移住して柴氏を称と云う。野原村文殊寺寛延元年水鉢に松山領柴村柴七兵衛守孟、明治二年碑に柴村柴伴七.。万延元年羽尾村設楽文書に男衾郡柴村大工棟梁柴隼人正。明治九年副戸長柴守徳・嘉永元年生。代々名主にて、子孫柴益次郎家なり。明治十八年最上農名簿に柴守徳・耕宅地七町歩・山林三十七町六反歩所有。昭和三年興信録・所得税に柴松重・七十五円、柴虎蔵・三十一円あり。八戸現存す。

 それに対して熊谷文化財日記には「塩」についてシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明している。ただ「塩」と「柴」が同じ意味であるという見解は一致している。
 どちらの説明にしろ、この地域は4世紀頃から武蔵国では早い時期に人々が住み始め、谷津田や和田川、滑川の周辺の沖積地は古くから開墾され、豊かな地域だったことは遺跡等の発掘によって証明されている事実は動かいようはない。



          社殿右手にあった境内社(写真左側)と大黒天の石碑(同右)
         
 埼玉県道11号線に沿って塩八幡神社は鎮座している。この県道は交通量が多いが、それでも出雲乃伊波比神社の雰囲気を維持しながらの参拝だったので、この神社にも何か懐かしさを感じさせてくれる何かがあった。また塩八幡神社の手前には塩集会所があり、神社の奥にはゲートボール場もあり、地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようで、そこには今では無くなりつつある日本の古き原風景にも重なる。都会ではなかなか見られない、「どこかで見た懐かしい風景」がここには存在した。

 そしてこの心地よい空気に触れながら「塩古墳群」にいよいよ向かう。神社から本当に目と鼻の位置にそれはある。


塩古墳群
地図リンク
 塩八幡から県道を渡って南に入った丘陵地帯に広がるのが、埼玉県指定史跡の「塩古墳群で、古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。
                 
埼玉県指定文化財   
塩古墳群

 塩古墳群は滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(四世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
 平成15年3月  熊谷市教育委員会


       
                     道路沿いにある塩古墳群案内板 

 塩古墳群は、比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布し、保存状態も良好で、近辺にある野原古墳群同様、武蔵国の初期の古墳形態として非常に重要な遺跡であろう。
 
 また方墳や前方後方墳の密集は、弥生時代の方形周溝墓の流れを引き継ぐのものと考えられ、埼玉県内の古墳の発生と発展の過程を考える上で非常に重要な古墳群であるという。

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野原八幡神社、野原古墳群

 熊谷市野原地区に鎮座している野原八幡神社は、式内社出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社と共に和田川の東西のラインで繋がっているような不思議な位置関係を形成している。
 所在地     熊谷市野原66
 御祭神     誉田別命
 社  格     旧村社
 例  祭     不明

       
地図リンク
 野原八幡神社は野原西部集会所に隣接して鎮座している。平成9年に再建した新しい社殿は一面に玉砂利の敷かれており境内は非常に綺麗に整備され、神社自体は決して広くはないが開放感があり、鎮守の杜の中に白壁の拝殿が映える、すっきりとして清潔感のある神社である。社殿の左側には境内社や庚申塔も多数祀られている。
           
 和田川が東西に流れている関係か、出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社同様野原八幡神社も和田川北岸の台地上に鎮座し、社殿は南向きである。
 
八幡神社と野原古墳群    
 所在地 熊谷市 野原

 八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は神鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社殿の棟札に残っている。また、宝暦11年(1761年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。(中略)
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。(中略)これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われていたといわれ、この地方にかなりの勢力を持った豪族が居住していたことを物語っている。
                                                                                        

  平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用

        
                             拝殿、奥に本殿
 野原八幡神社の左側、正確には西側には境内社が多数祀られている
            
                        社殿西側に祀られている境内社
   
       三峯神社(左)と雷電神社(右)           三峯神社の左側にある鹿島神社
 
    左から天満天神社、稲荷神社、山之神社       鹿島神社と合社との間に小さな石祠があったが                
                      愛宕神社                                                     こちらは詳細不明)

 ところでこの野原八幡神社の社殿の裏山の西方に野原古墳群がある。この遺跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。神社西側にある庚申塔や青面金剛像の奥にあるようだ。
                         
                                                                 庚申塔群

野原古墳群(のはらこふんぐん)は、埼玉県熊谷市にある古墳群。和田川に南面する台地上の広い範囲にかつて30基以上の古墳が分布していたが、現在23基が山林の中に所在する。1962年(昭和37年)、採土工事に伴い野原古墳の発掘調査が行われた。1964年(昭和39年)には立正大学が円墳8基の発掘調査を実施した。なお、野原古墳で発見された勾玉や耳環などが1957年(昭和32年)10月18日付けで江南町(当時)指定考古資料に指定された。
                                                    ウィキペディア参照

                         
                      埼玉県選定重要遺跡に指定されている割には放置されているような状態だ。


 野原八幡神社が鎮座する「野原」という地名はいかにも抽象的であるが、考えてみたら不思議な地名だ。「大辞泉」にてその意味を調べると

 野原(の-はら) (「のばら」とも)あたり一面に草が生えている、広い平地。原。のっぱら。

 この地域は確かに「あたり一面草が生えている」場所であり、「原、のっぱら」ではあるが「広い平地」」ではない。和田川が形成した沖積地は両側には丘陵地によって遮られ、幅が狭く、細長い平地が続いているのであり、「野原」という地名は決して適当ではない。つまり、地形上からついた名前ではないということだ。ではこの「野原」とはどんな意味があるのか。

 野原は野+原の組み合わせでできた地名であり、本来の地名は「野」であったのではないか。

野 ノ 
 奈良・奈羅・那曷(なか)のナは国の意味で韓国(辛国)渡来人集落を称す。ナカ参照。奈は乃(な)と書き、古事記仁徳天皇条に「あをによし乃楽の谷に」と。日本書紀天武天皇元年条に壬申の乱に際して、吉野方の将軍大伴吹負は「乃楽山」に陣を置いたとあり。大和国奈良は乃楽と記した。乃(な)は野(な)とも書き、日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり。和名抄伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓ず。後の田辺村なり。乃(な)は、ノに転訛して佳字の野(の)を用いる。埼玉郡野村(行田市野)は、当村のみ渡庄を唱え、韓人の渡来地より名付く。


野原 ノハラ 
 乃(な)、野(な)は古代朝鮮語で国の意味、ノに転訛して野(の)の佳字を用いる。豊前国風土記逸文に「田河郡鹿春郷。河原村を、今、鹿春(かはる)の郷と謂ふ。昔は、新羅の国の神、自から渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち名づけ鹿春の神と曰ひき」と見ゆ。新羅渡来人の多い九州地方では、原(はら)をハル、バルと云い、村・集落の意味なり。韓国(辛国)渡来人集落を野原と称す。男衾郡野原村(江南町)あり。

       
                  野原八幡神社から和田川周辺の風景を撮影。                             


         
 この地域は「塩」、「柴」等一字名の字が近隣に多く存在する。地名の起源において基本的な主語は一字であり、そこから時代が下るにつれて人口の増加や他地域との交流によって現在の二文字が主流となる地名が発生したと筆者は常々考えている仮説であるが、その仮説で考えると、野原という地名は元来「野」ではなかったのではないか。また須賀広八幡神社が鎮座する「須賀広」も元々「須賀=須の国=須」であり、出雲乃伊波比神社が鎮座する「板井」も「板」が元の字ではなかったのだろうか。



 

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須賀広八幡神社


 熊谷市板井に鎮座する出雲乃伊波比神社の南に流れる和田川は延長9km、流域面積 12.6km2の荒川水系の一級河川である。源流は比企郡嵐山町古里の農業用溜池のようであり、直接的な山地水源は持たない。和田川の河川管理上の起点は、江南町板井に設置されていて、管理起点からは比企丘陵の狭間を農業排水を集めながら東へと流れ、大里郡江南町、比企郡滑川町、熊谷市、東松山市を経由し、大里町下恩田で和田吉野川の右岸へ合流する。この須賀広八幡神社はこの和田川を通じて上流部の出雲乃伊波比神社と文化的、経済的にも接していたような位置関係にある。
 和田川の南側の丘陵には塩古墳群(約100基)と野原古墳群(約2、30基)が存在することから、この付近では4世紀頃から6、7世紀後半までは集落が成立していたことになる。和田川周辺の平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。このことは人々が生産活動を営んできた証しである。この地の一角に須賀広八幡神社は静かに鎮座している。
所在地     熊谷市須賀広237
御祭神     誉田別命
社  格     旧村社
例  祭     大祭・10月14日に近い土・日曜日 


         
地図リンク
 須賀広八幡神社は埼玉県道47号深谷滑川線をを滑川、森林公園方面へ進み、南小西交差点で左に折れ、そのまま東へ1km程走ると左手側に八幡神社が見えて来る。この道沿いには駐車場は無いが、神社の鳥居の手前のT字路を左折して神社裏の集落センターには駐車場があるのでそこに車を停め、参拝を行った。
 
                      道沿いにある社号標                  社号標の先には両部鳥居がある。
 
         参道は南向きで社殿が小さく見える。                                参道もいよいよ終点
                                                                     二の鳥居(明神鳥居)とその左側には案内板がある。
                       
八幡神社      
  所在地 熊谷市(元大里郡江南町)須賀広

 八幡神社の祭神は誉田別命で、神体は神鏡である。
 社伝によれば、創建は延喜17年(917)醍醐天皇の代である。武家の崇敬が極めて篤く11世紀末、八幡太郎義家が奥州征伐(後三年の役)の赴く途中、侍人を代参させ戦勝祈願したといわれている。
 江戸時代初め、稲垣若狭守重太の長臣田村茂兵衛が当地に陣屋を築き、以後この地を治めた。その後、寛永11年(1634)稲垣氏から御供米、土地が寄付され、以後も累代崇敬されていた。また、明和3年(1766)本殿再建遷宮式のとき、時の若狭守が自ら参拝し多額の幣帛料を寄進した。それからは須賀広、野原、小江川地区等稲垣氏所領の村民の崇敬益々篤くなったと伝えられる。
 大祭は毎年10月14日夜と15日で、獅子舞が奉納される。この獅子舞子は三人で長男に限られ、当日は氏子一同社頭に集まり舞を奉納披露し、その後地区内を一巡するきまりとなっている。
                                                                                                                       掲示板より引用

                          
                              拝   殿
           
                              本殿鞘堂

 
         社殿左側にある神楽殿                社殿の左側にある天満天神社
 
          境内社 祭神は不詳                        境内社
 合社に関しては、左から白山社、厳島神社、天満社、御嶽神社、阿夫利神社、榛名神社、稲荷神社、三峯神社の各社。 


 ところで須賀広八幡神社の現在の祭神は誉田別命であるが、案内板で紹介している創建時期と八幡太郎義家の時代との間には100年以上もの空白の時期がある。その時期の祭神は一体誰だったのか。この鎮座している「須賀」という地名は何か意味深い地名だ。「須賀」は「素賀(スガ、ソガ)」であり、須佐之男命、いわゆる「出雲系」に通じているのではないだろうか。


須賀 スガ 
 崇神六十五年紀に「任那国の蘇那曷叱知(ソナカシチ)」と見ゆ。蘇は金(ソ、ス)で鉄(くろがね)、那は国、曷は邑、叱知は邑長で、鉄の産出する国の邑長を蘇那曷叱知と云う。島根県大原郡大東町須賀に須賀神社あり、須佐之男命と稲田姫命の夫婦を祭る。古事記に「かれ是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまいき。爾に須賀の地に到り坐して詔りたまいしく、『吾此地に来て我が御心須賀須賀し』とのりたまいて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云う」とあり。須賀は素賀(スガ、ソガ)とも書く。
須は金(ス、ソ)の意味で鉄(くろがね)のこと、賀は村の意味で、鍛冶師の集落を称す。武蔵国の須賀村は利根川流域に多く、砂鉄を求めた鍛冶師の居住地より名づく。埼玉郡百間領須賀村(宮代町)は寛喜二年小山文書に武蔵国上須賀郷、延文六年市場祭文写に太田庄須賀市祭と見ゆ。同郡岩槻領須賀村(岩槻市)は新方庄西川須賀村と唱へ、今は新方須賀村と称す。同郡忍領須賀村(行田市)は太田庄を唱へ、須加村と書く。同郡羽生領小須賀村(羽生市)は太田庄須賀郷を唱へる。同郡備後村字須賀組(春日部市)、琴寄村字須賀組(大利根町)、飯積村字須賀(北川辺町)等は古の村名なり。葛飾郡二郷半領須賀村(吉川市)あり。また、入間郡菅間村(川越市)は寛文七年地蔵尊に入間郡須賀村と見ゆ。男衾郡須賀広村(江南町)あり。此氏は武蔵国に多く存す。
         

 出雲系の出雲乃伊波比神社のほぼ東側で、和田川下流域に位置するこの須賀広八幡神社の権力者は誰であったろうか。が、少なくとも出雲乃伊波比神社と敵対していた勢力ではなかったことは確かである。地形上でも和田川周辺の狭い平坦地(標高50m程度)には水田が広がっていて、和田川が形成した沖積地は古代から、水田として開発されてきた。水は全てにおいて非常に重要な資源である。この河川を共有して行かなければ「須賀」の生活は成り立たなかったろう。故に出雲伊波比神社の勢力と須賀広神社の勢力は同じではなかったか、または同盟関係の間柄ではなかったか、というのが今の筆者の推測である。


 須賀広八幡神社をから東に1km弱行くと左手に野原八幡神社が見える。この社のすぐ西側には野原古墳群もあり、あの有名な「踊る埴輪」が出土した古墳群で推定年代は古墳時代終末期~奈良時代(6世紀末~8世紀前半)という。



                                                                              


 


 

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登由宇気神社

所在地  熊谷市村岡851-1
祭  神  豊受媛神(とようけびめ) [別称]豊宇気毘売神
社  格  旧村社
例  祭  不明

                    
地図リンク
  国道407号線を熊谷方面に北上すると右側にリサイクルショップが見え、その脇の細い道(407号線に面して社号標石が建てられている)を300m程東へ走って行くと北側に登由宇気神社がある。登由宇気神とは豊受媛命の別名で、古事記には「豊宇気」と表記してある。

登由宇気神【とゆうけのかみ】
  日本神話にみえる神の名で伊勢神宮外宮(豊受(とゆけ)大神宮)の祭神。豊宇気毘売(とようけびめ)神とも。トヨ(ユ)は美称,ウケもしくはケは食物の意,すなわちこの神は内宮の天照大神(あまてらすおおかみ)に仕える食物神(倉稲魂うかのみたま))である。平安期に成立した《止由来宮儀式帳》に縁起譚がみえる。雄略朝にアマテラスが神託を下し,丹波国比治の真奈井に座すトユウケノ大神を御饌都(みけつ)神として欲したため遷座させたという。
 
 
国道から右折すると道幅は車一台分程しかない程細い道だがそれは仕方がない。駐車場は神社の少し先に若干の駐車スペースがあったのでそちらに置くことができた。
                    
                                            一の鳥居から撮影 南向き社殿
 
      鳥居の左側にある立派な神社社号標石                                     二の鳥居
                   
                            拝   殿
         
                            本   殿
登由宇気神社は祭神が豊受媛神で女神であるにも関わらず、鰹木は7本で奇数、千木は外削ぎであり、どちらも本来は男神対象であるが中には例外があるという。

 神社建築の例としては、出雲大社を始めとした出雲諸社は、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしており、他の神社でもこれに倣うことが多い。また鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。一方、伊勢神宮の場合、内宮の祭神、天照大神・外宮の祭神取豊受大神とともに主祭神が女神であるにもかかわらず、内宮では千木・鰹木が内削ぎ10本、外宮は外削ぎ9本である。同様に、別宮では、例えば内宮別宮の月讀宮・外宮別宮の月夜見宮は主祭神はともに同じ祭神である月讀命(外宮別宮は「月夜見尊」と表記している)と男神であるが、祭神の男女を問わず内宮別宮は内削ぎで偶数の鰹木、外宮別宮は外削ぎで奇数の鰹木であり、摂社・末社・所管社も同様である。この理由には諸説あり、外宮の祭神が本来男神的性格を帯びていたとする説もある。
 
                       金比羅神社                                                       菅原神社
 
            金毘羅神社                        厩戸命の碑

        八坂神社
 これらの境内社群は社殿の左側に鎮座している。案内板もあり丁寧で判りやすい。

 登由宇気神社の鎮座する地は熊谷市村岡という地名だが、この「村岡」は元々「村」+「岡」との組み合わせで本来の地名は「村」だったようだ。では「村」の意味はどのようなものだったのか。

村 ムラ 梁書・百済伝に「邑を檐魯(たんろ)と謂ふ。中国の郡県を言ふが如し」と見ゆ。百済のクは「大きな」、ダラは檐魯で邑・郡県・国の意味。百済は大邑・大国と云い、大国主命は大国の主(首長)で百済渡来集団の首領である。新羅では州・郡・県・村は良民による自然部落によって形成されたもので、それが基準となって行政区画に編入され、村には村長がいた。一方、郷・所・部曲(かきべ)は人為的に設けられた特殊区画であって、国家または王公貴族のために従事していた。鍛冶集落の別所・別府や、和名抄の郷はこれに当る。続日本紀・霊亀元年条に陸奥国閉村(岩手県閉伊郡)、宝亀七年条に出羽国志波村(岩手県紫波郡)とあり、今日の数十戸の村では無く、数千戸の郡域を村と称していた。辰韓は十二国からなり、その一つに新羅があった。新羅国に「閼川の楊山村、突山の高?村、觜山の珍支村、茂山の大樹村、金山の加利村、明活山の高耶村」があり、六村のかれらが推戴したのが紀元前五十七年に即位した新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)である。新羅本紀に朴赫居世は高?村の村長蘇伐都利に育てられ十三歳で即位したとあり。古代朝鮮語の山は村(今日の郡県)と同じ意味。村は大和朝廷が勃興する以前から羊族と混血した蝦夷(えみし)や渡来人が居住していた集落を称し、村姓の村井・村岡・村上・村田・村山等の氏族は神代の時代に渡来した末裔である。大ノ国は韓半島南部の百済・加耶・新羅地方を指し、大(お)は阿(お)ノ国で、渡来集団阿部族村姓は阿部氏の上陸した山陰地方、及び本拠地の毛野国・常陸国・越後国・奥州に多く存す。

 日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に里(り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷に改称し、郷の下にいくつかの里を置く郷里制に改めたが、後に里が廃され郷のみとなった。 715年にこれが郷(ごう、さと)と改められ、郷の下に新たに2~3の里が設定された。しかし、この里はすぐに廃止されたため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。

 中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。この惣村とは、中世初期(平安時代後期~鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司、郷司、保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「名」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。
 
しかし、鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めた。そうした中で、百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていった。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになった。(中世当時も惣村・惣という用語が使用されていた。)

 
つまり、古代律令制度下では「村」は存在していなかった、ということとなるがそうすると次の一文との矛盾が生じてくる。

続日本紀巻第七
 丁丑。陸奥蝦夷第三等邑良志別君宇蘇弥奈等言。親族死亡子孫數人。常恐被狄徒抄略乎。請於
香河村。造建郡家。爲編戸民。永保安堵。又蝦夷須賀君古麻比留等言。先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。



続日本紀巻三十四
 五月戊子。出羽國志波村賊叛逆。与國相戰。官軍不利。發下総下野常陸等國騎兵伐之。

 
続日本紀は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。日本書紀に続く六国史の第二にあたる。菅原真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成っている。勅撰史書という国家によって編集された正史であり、少なくとも797年時点で「村」は存在していたということとなる。上記の説明からもわかるように、「村」は時の朝廷が勃興する以前から自発的に発生していた集落名であったということになる。

 地域名である「村岡」一つにしても奥が深く、興味をより一層掻き立てる思いを今しみじみと感じさせてくれた不思議な充実感があった。





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吉見神社

 熊谷市相上(あいあげ)地区は荒川の南に位置し、国道407号線上に隣接している冑山神社に近く、行政区域としては熊谷市だが吉見町との文化的、経済的にも繋がりが濃い。この相上地区には吉見神社が鎮座している。この吉見神社は延喜式内社 横見神社の論社、比定社に紹介している書物も多い。
 この相上地区は地形上、東西に和田吉野川が流れ、北側の無谷、高本地区との境界線を形成している。この和田吉野川(一級河川)は嵐山町の溜め池を水源とする、用排兼用の河川で、比企丘陵の谷地を江南町、滑川町、熊谷市と西から東へと流れてくる。吉見神社の北側に和田吉野川右岸の洪水を防ぐために江戸時代初期に造られた相上堤の堤防は長さ千百三十間(約2034m)”とあり、荒川の合流地点までの和田吉野川の右岸側を防御するための堤防であったようだ。

 なお、相上堤の南側延長線上には縄文時代の北廓遺跡(熊谷市 箕輪)や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺える。ちなみに相上堤の東に位置する県道257号線は鎌倉街道の古道である比企道だとされている。古の吉見の地は、現在の比企郡吉見町ではなく、この吉見の地だった可能性も捨てきれないような気がしてならない。

所在地     熊谷市相上1639-1

主祭神     天照大神?
社  挌     旧郷社
例  祭     4月17日


地図リンク
 吉見神社はとうかん山古墳から埼玉県道257号冑山熊谷線を道なりに北上し、和田吉野川の上に架けられた漆喰橋を渡る手前左側に社号標石と鳥居が見え、そこを左折すると和田吉野川の土手手前右側に吉見神社の社叢が広がる。
 
              県道沿いにある一の鳥居
 
一の鳥居を真っ直ぐ進み突き当り右側にある二の鳥居        参道の先に社殿がある

               神楽殿

 『新編武蔵風土記稿』相上村の項に、《神明社 當社古へは上吉見領の総鎮守なりしが、各村へ鎮守を勧請して、今は村内のみ鎮守とせり》とあるように、古くは神明社と称し、上吉見領――村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田――二十三カ村の総鎮守だったというくらいで、境内摂社・末社が非常に多い。
 
                       参道左側の末社群                                    末社群の先にまたある末社
左から天神宮、金毘羅大神社、頭大宮、辯才天女宮等  三島・興玉・秩父・瀧祭・玉造・斎・浅間・日枝
                                                                               雨降加々美・二荒・水分養蚕・豊受荒魂など

     
摂社 から伊奈利神社・東宮社・天神社            拝殿の右奥の方にも末社がずらりと並んでいる            
                                             詳細は不明         
 
参道左側、末社群の手前に村指定無形民俗文化財 相上神楽 案内板がある。

村指定無形民俗文化財 相上神楽
 指定  昭和五十四年五月十四日
 所在地 大里村大字相上
 期日  七月十五日、吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
                                                      掲示板より引用



           吉見神社拝殿(上段)及び本殿(下段)

 吉見神社は古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったようだ。敷地内には安政四年(1857)建立の金毘羅大神社、弁才天女宮などが祀られている。水防祈願と思われる水に関する神様である。なお、社殿の北側には沼があるが、そこには藤原長盛の大蛇退治の伝説がある。
 新編武蔵風土記稿には”沼あり、神龍潜み住むと云伝う”と記されている。大蛇とは和田吉野川の洪水を暗喩したものだろうか。

 『埼玉の神社』によれば、熊谷市相上字宮前に鎮座する吉見神社の創建を伝える文書にはこのような記述がある。

 和銅六年(713)景行天皇五十六年に御諸別王(みもろわけのきみ)が当地を巡視した折、田野が開かれず、不毛の地であるのを嘆いて倭国の山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して多里(おおさと)郡を置き、後に豊かな地となった報賽として太古に武夷鳥(たけひなとり)命が高天原から持ち降ったという天照大神ゆかりの筬(おさ)を神体として天照を祀り以来御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している。現宮司須長二男家はこの末。

 
また『大里郡神社誌』にもこのように記されていている。

 
大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と

 
とあり、須長氏が御諸別王の子孫としている。

 この「須永」、「須長」氏について「埼玉苗字辞典」ではこのように記述されているので紹介する。

須永 スナガ
 須中、須長、砂永、砂賀に同じ。須は金(す)、那は国、加・賀は曷(か)で村の意味。中・永は奈良・那羅と同じで、鉄(くろがね)の産出する国、村を須永と称す。此氏は毛野氏に率いられて渡来し、渡良瀬川及び利根川流域の上野国、下野国、武蔵国に土着し、三ヶ国以外には無し。毛野氏の祖・崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の後裔御諸別王(みもろわけおう)は、韓半島南部にあった加耶諸国の呉国より毛野族須永氏を率いて上野国山田郡川内村(大間々町川内、桐生市川内)に土着し、其の地を別称須永郷と唱え、後世は須永御厨と云う。桐生市川内に氏寺の崇神寺あり。足尾銅山に従事した鉱山師集団である。武蔵国では荒川、都幾川の砂鉄の採れる流域にも存す。

須長 スナガ 大里郡相上村(大里町) 大里郡神社誌に「相上村吉見神社の旧神職は、祖祭豊木入日子命孫彦狭島王の子、御諸別王の末胤中臣磐麿なり。子孫後葉神主禰宜として奉仕せりと伝う、今尚存す。和銅六年五月禰宜従五位下中臣諸次撰上」と。寛永二年神主須長出羽守良重署名に「中臣磐渕卿勅使として下向あり、其子磐丸卿を止めて神事を執行せしむ、是家神主の先祖なり、後に神と崇む、今の東宮なり。其後数代を経て、中臣の春友卿と云人あり、京に上り、時の関白藤原武智麿公の智に成り藤原姓を賜はる。其後数代を過て藤原房顕卿と云しは、亀卜の道を学びて上洛し、卜部の職に任ぜらる、二男を出家せしめ華蔵院開基なり、当家代々の菩提寺となさる。(中略)風土記稿相上村条に「神明社の神主須永大内蔵」。中曽根村大日堂明和六年供養塔に相上村次長太郎兵衛。吉見神社寛政三年午頭天王碑に須長豊次郎・須長房吉、嘉永二年御神燈に須長忠右衛門、明治二十一年水神楽碑に須長弁三・須長藤吉・須長房吉。白川家門人帳に慶応四年相上村吉見大神宮祝須永筑前日奉連宣興。日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろう。明治九年副戸長須長宣冬・天保十二年生。松山町箭弓神社明治三十一年碑に松山町須長宣冬。昭和三年興信録・所得税に「吉見村・須長常章・百一円、須長富夫・十円」あり。五戸現存す。

 
相上の須長氏について日奉連は、姓氏録・左京神別に「日奉連。高魂命の後也」と見え、大伴氏族なり。神明社神主須長氏は武蔵国造の配下で、天照大神を祀る日奉部の一員であろうとの記述が上記で記しているが、この中にある「高魂命」とは高皇産霊神(タカムスビ)のことで、熊谷市の高城神社の祭神でもある。また本来日奉連とは宮廷の太陽神祭祀に奉仕するための部であろうということは、諸説が認めているところであるが、その日奉連の祖先が高皇産霊神であるという事には正直驚いた。もしかしたら太陽神祭祀とは天照大神がその対象ではなく、日奉連の直系の先祖である高皇産霊神ではなかったか、という事になるのではなかろうか。それと同時に高皇産霊神と御諸別王にも何かしらの接点があるのだろうか。

 なんとなく取り留めのない書き出しになってしまったが、御諸別王と吉見神社の須長氏、また高城神社の高皇産霊神には何かしらの関連性はあることだけは確かなようだ。


                                                                                                                      

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