古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

冑山神社

 国道407号線は、栃木県足利市から埼玉県入間市に至る一般国道で、埼玉県のほぼ中央部を南北に縦貫し混雑が激しいこの道は、関東平野の西端を走っている事もあり、国道129号や国道16号と組み合わせ、神奈川県西部や多摩地域から埼玉県西部、群馬県方面に向かうルートとして利用されている。不思議なことに東山道武蔵路はこの国道407号線上と並行していたと大体においては考えられているが詳細は完全には解明されていない。この国道407号線沿いに甲山神社は鎮座する。
  甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約51メートルの丘陵上に構築された古墳で、古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられたという。
 この古墳は、墳形が中段にテラスを持つ円墳で、規模は南北径が約90m、高さが約11.25mある。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径105m)についで県内第二位の大きさを誇り、全国でも4番目の大きさの円墳だそうだ。
  墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているように見える。
  この古墳の正式な発掘調査はなされていないようだが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた太刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されている。
 この甲山古墳とともに、北へ約1km先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長74mの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられている。

所在地  埼玉県熊谷市冑山1
祭  神  兄多毛比命
       誉田別命
       大山咋命
       素盞鳴命(明治四十二年に八雲神社を合祀)
社  格  旧村社
例  祭  不明

        
地図リンク
  大里冑山神社は国道407号線熊谷市から南方向、東松山市と吉見町との堺に鎮座する。住所を見ると熊谷市冑山1となっており、この地域の中心に位置しているといったところだろうか。南には1km足らずで大谷瓦窯跡があり、また吉見郡の延喜式内社である伊波比神社、横見神社、高負彦根神社も近隣にあり、大里郡に属する地域でありながら比企郡との関係は深かったろうと思われる地形だ。
  律令時代この冑山地方は比企郡の管轄であったとの考察もある。平安時代前期、九・十世紀ごろと推定される「九条家延喜式背紙文書」にみえる「大里郡条里坪付」は、大里地域に広がる水田地帯に施行された条里を示すものとされるが、その文書によると、当時の冑山、箕輪地域は横見郡内に相当することとなっているようだ。
 
                           
                                                          冑山古墳 遠景
            
埼玉県指定文化財 史跡 甲山古墳
 指定 平成元年三月十七日
 所在 大字冑山字賢木岡西
 甲山古墳は、比企丘陵の北東部に位置し、標高約五一メートルの丘陵上に構築された古墳です。古墳の形がちょうどかぶとの様な形からこの名がつけられました。
 この古墳は、墳形が中段にテラスをもつ円墳で、規模は南北径が約九○メートル、高さが約一一・二五メートルあります。円墳としては、さきたま古墳群の丸墓山古墳(径一○五メートル)についで県内第二位の大きさをほこっています。
 墳頂には、八幡様の本殿が、また墳丘東側には冑山神社がもうけられ、これをつなぐ石段や参道で一部墳丘が変形しているようにみえます。
 この古墳の正式な発掘調査はなされていませんが、江戸時代の地誌である『新編武蔵風土記稿』には、「(略)この塚を掘った時に、石槨の中より甲冑や馬上の塑人(埴輪)・玉・鏡・折れた大刀などが出土した。(略)」と記載されており、この遺物の内容や、近年大里村教育委員会が採集した円筒埴輪の破片から、築造時期は古墳時代後期(六世紀頃)と推定されています。
 この甲山古墳とともに、北へ約一キロメートル先の大字箕輪にも、とうかん山古墳と呼ばれる全長七四メートルの前方後円墳があり、当時この地域にはこれらの巨大な古墳を造れる、大きな勢力が存在していたと考えられています

                                                               案内板より引用
 古墳の中腹に冑山神社拝殿、兼本殿が鎮座している。
                 

  拝殿の裏に回ると石段が墳頂まで伸びて、山頂には八幡神社がある。このような形態は初めてで、どう見ても山頂にある八幡神社の方が立派に見える。
                
                            
                                                               八幡神社本殿
 八幡神社本殿は宝暦二年(1752年)に造られ、昭和五十四年五月十四日に熊谷市指定有形文化財に登録された。一間社流造で本殿の壁面のみならずほとんどの部分に彫刻が付けられた素晴らしい建物である。
  『埼玉の神社』によると、慶長十三年(1608)に村人が古墳を発掘し、剣・鏡・五?玉・土偶・土馬などが出土したが、その後間もなく村に病がはやったので、塚を埋め戻し、祟りを鎮めるため墳頂に八幡神を祀った。一方で、冑山には文永年間(1264~1275)に勧請された日吉神社が村社としてあり、明治四十二年、すでに冑山神社と改称していた八幡神社と合併し、日吉神社を冑山神社と称するようになったが、その後、八幡神社本殿の東下に日吉神社の拝殿が移築されて、現在の冑山神社の姿になったという。

                   



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白髪神社

 所在地   埼玉県熊谷市妻沼1038
 社  格   旧無格社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
 祭  神   白髮大倭根子命(白髪武廣國押日本根子命=清寧天皇)
        (配祀) 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命 (合祀)須佐男之命
 由  緒   江戸時代は「白髪神社」と称していた
 例  祭   4月1日  例祭

                     
地図リンク
 白髪神社は妻沼小学校、大我井神社の北側で利根川の南岸、県道407号線の東側の畑の中にポツンと鎮座している。社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。稲荷神社が合祀されているようで、鳥居も赤い。
         
         
  あるサイトに書いてあった通り、こじんまりしていて、見た目では式内社の雰囲気は全く感じることができなかった。参拝中には気がつかなかったことで後になってわかったことだがグーグルにて地形を見ると、この社は珍しい西向き社殿だった。
              
                 社殿のすぐ先には利根川の堤防が見える。

 現地に行くとよくわかるが、白髪神社の地域は利根川右岸の低地に位置していて、氾濫すればこのくらいの社はすぐ破壊される。このことから、古代からここに神社があったとはとても考えにくい。元々は高岡稲荷神社であり、そこに聖天宮から白髪神社を移し併祀したのではないかとする説もあるようだが、この小さな社が、ただ「白髪神社」と名称されたことだけで延喜内式内社であるとは到底思えない。

  すると、もともとは大我井の森(聖天山)にまつられていた白髪神社だったが、後世何らかの理由で、現在地に移された、という考え方のほうが至って無理がないように思えるのだが、どうであろうか。

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大我井神社

 熊谷市妻沼(めぬま)埼玉県北端、元大里郡の町で、熊谷市の北に接し、利根川南岸の低地を占める。かつて利根川の氾濫の多かった地域で、自然堤防や後背湿地が交錯し、水田と畑が相半ばしている。中心集落の妻沼は、江戸時代には治承3(1179)年に斉藤実盛が守本尊を祀つたことに始まる歓喜院の門前町として、また利根川の渡船場、河岸場として栄えたという。

 この「めぬま」は、中世に利根川の氾濫によって大きな二つの沼ができ、女体様を祀る沼を女沼と呼び、近世になってこれを目沼となり、妻沼となったことによるとされている。


所在地   埼玉県熊谷市妻沼1480‐1
社  格   旧村社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
祭  神   伊邪那岐命、伊邪那美命
        (配祀) 大己貴命
        (合祀) 宇迦之御魂神/倉稲魂命、品陀和氣命/誉田別命、
             天照大神、速玉之男命
                  天穂日命/天菩日命、石凝姥命/鏡作神、菅原道真
由  緒   景行天皇40年創建(伝承)
       治承3年(1179)聖天社
       建久8年(1197)歓喜院を開設
       慶長9年(1604)社殿造営(聖天宮)
       明治2年大我井神社造営
       明治6年3月村社、同40年10月神饌幣帛料供進指定

例  祭   4月17日 例祭

地図リンク
 大我井神社は国道407号線を東に入った妻沼聖天山の東、妻沼小学校のすぐ南に鎮座する。専用の駐車場はなく、社務所近くの若干のスペースに駐車するか、近くにある妻沼聖天院の駐車場に止めて歩くかなのだが、社務所近くの若干のスペースに停める事にした。
  
 参道は思っていたよりは広く開放的だ。また参道の左側には石が祀られている。何の石なのかはわからないが、神が宿るとされる磐座(いわくら)かもしれない。 
磐座 
 
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火に対 する信仰である三輪山や富士山などの神奈備(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。 
 
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座 と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
 
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 
現在では御神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

 参道を北に歩くと正面に唐門が立つ。以前は、若宮八幡宮の正門だったが、若宮八幡宮が当社に合祀された後、当社境内に遷されたものという。
 
                                                                                       大我井神社唐門の由来
 
当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した
時に昭和三十年十月吉晨なり

                                                                                                                    境内案内板より
   
             拝  殿                 拝殿に掲げられた「大我井神社」の扁額
 
                                        神明造りの本殿
 拝殿、幣殿、本殿共に飾りの少ない重厚な造りで道路を挟んで隣接する聖天院の本堂(本殿?)とまさに対照的な社だ。

武州妻沼郷大我井神社
 大我井神社は遠く神皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
 古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
 なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています』
                                            境内案内板より
 
                                             富士塚
石段脇には角行霊神や身禄霊神、小御嶽大神、冨士浅間大神などが並び、塚頂にも冨士浅間大神。

                                                                                             明治時代以前までは、聖天宮と混祀しされ、神仏分離令によって、明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。同2年に社名を二柱神社から、古来以来の森の名にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営し、現在の形となった。また、西側聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。その聖天宮が、式内・白髪神社とみられているが、何故、最初から白髪神社と称さなかったのかはわからない。それとも称することができない理由があったのだろうか。

  

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田中神社

 熊谷市三ヶ尻地区には式内社論社が2社存在する。一社は三ヶ尻八幡神社であるが、もう一社はこの田中神社である。境内はそれほど広くなく、式内社論社の中でも小さい社と言われている。しかし規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。 
 この田中神社の境内には要石と言われる磐倉(ご神体)、境界石が存在し、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしい。
 また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。明治末年、三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀されたが、その後まもなく、氏子の申立によつて現地に復帰再興した。
 神体として瓢箪形の石三個と金幣三本を本殿に祀る。

所在地    埼玉県熊谷市三ヶ尻671
主祭神    武甕槌命 (配祀)少彦名命 天穗日命
         『神名帳考証』(延経)天津彦根命
           『式社考』『神社要録』『大日本史』武甕尻命
         『神社命附』『風土記稿』『武乾記』少彦名命・天穂日命
社  格     旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
由  緒    由緒不明
        
江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していたが、明治末年三尻字新
                  堀新田の八幡神社に一時合祀、その後まもなく、現地に復帰再興したという。
例  祭
      1月25日 例祭

 
 国道140号彩甲斐街道と埼玉県道47号深谷東松山線の交差する、武体西交差点の南西側すぐそばに田中神社は鎮座する。荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。
 駐車できるスペースはなく、路上駐車しようにも日頃より交通量の多い県道のため、武体西交差点脇にあるコンビニエンスの駐車スペースを利用し、そちらに駐車して参拝する。
 
             県道の歩道から一の鳥居を撮影
 
 社は規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。また参道も以前に比べて綺麗に整備されているようだ。
 境内には要石があり磐倉(ご神体)、境界石であり、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。
  
  二の鳥居の手前左側にある地震封じの要石     鳥居奉献記念の石碑にも要石の由来等紹介
                                              している
     
 
関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしいが、詳しいところはわからない
               
田中神社
 抑抑(そもそも)武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり。
ここに御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す、又武蔵国幡羅大里榛名の三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん。
                                                                                                                                                                                                   社頭掲示板より引用

  『式社考』『神社要録』『大日本史』では田中神社の祭神が武甕尻命記述されている。この武甕尻命は武甕槌命と同人物というらしいが、本当はどうであろうか。旧事本記には大貴己命と系譜として、五代孫に武甕尻命の名前が出てくる。

旧事本記
     大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅?
   高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)


     大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。


     孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。


     三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。

ここでは武甕尻命は決して武甕槌命と同人物ではない。謎はますます深まる。



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三ヶ尻八幡神社

  三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。
  熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。

           
                      ・所在地 埼玉県熊谷市三ケ尻2924
                      ・ご祭神 誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真
                      ・社 格 旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
                      ・例祭等 祈年祭 325日 例祭 415日 新嘗祭 128
                              *祭日は「大里郡神社誌」を参照
  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。駐車スペースはその三尻公民館を利用して参拝を行った。
             
                                         県道沿いにある三ヶ尻八幡神社社号標と一の鳥居
                           
                           一の鳥居より参道を望む
『日本歴史地名大系』での 「三ヶ尻村」の解説
 [現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威(みいず)ヶ原
 幡羅郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地南東縁の櫛挽面と寄居面にまたがり、北は拾六間村、南は大里郡大麻生村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容、を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。狭さ山とは現在の観音山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。
 天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)。
                       
                                                      寛永6年(1629)築造の二の鳥居
             
                              
台地面に向かって参道が続く。
                                    実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き

              
                                                     参道途中に設置されている案内板       
 八幡神社
 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森  昭和59年3月30日指定(埼玉県)
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
 平成16年3月    埼玉県熊谷市
                                                        掲示板より引用

「ふるさとの森」の案内板が設置されている場所は、広い空間となっていて、現在は参拝用の駐車スペースとなっているが(写真左)、ここには「三尻村 靖国神社」の社号標柱が立ち、広いスペースの一番西側奥には靖国社がひっそりと鎮座している(同右)。
         
                              拝 殿          
         
                                                                        本  殿 
 
      拝殿手前左側にある手水社                        拝殿手前にある祓戸大神
                                                          瀬織津姫命と何か関係があるのだろうか。
 境内には数多くの石碑が並び祀られている。この地に鎮座している社に対して、昔から延々と今に至るまで、氏子・総代を初めとする多くの方々が崇高の念をもって祀り、奉納してきた歴史を垣間見る思いがする。
           
 八幡神社  
篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
 寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
  社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 篠田宣久謹書

                                                     境内石碑より引用
 この三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。
 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。
 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は我々が思う以上に深い関係があったようだ。
                                   
                                      社殿
の左側には「八幡太郎義家公駒留めの杉がある。
 源頼義と幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている。
                                
境内社 琴平神社(写真左側)・浅間神社(同右)   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等

   琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社            社叢の奥に鎮座している境内社・産泰神社 
            
  
ヶ尻八幡神社の社殿横には「社日」と言われる石柱が存在し、各面には、五柱の神名が記されている。
 「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」。
天照皇大神が正面最上位で、その右面から上記の順で並ぶ。
            
                             社殿からの一風景
 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷」が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。
「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。
  他の利用例として
 
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。
  
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。
 
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。
 
弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
  このように「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。

 さてこの「甕」を冠した神々は記紀等に詳しく記載されている。
槌命
    雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
   武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。
速日神(ミカハヤヒノカミ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
  
建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。
之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。
   (* 前玉比売は前玉神社の祭神)

天之主神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神
主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神

津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。
天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。
 別名に天香香背男(あまのかかせお)。
 
日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。


 このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社近くに鎮座する延喜式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。



 

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