古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大我井神社

 熊谷市妻沼(めぬま)埼玉県北端、元大里郡の町で、熊谷市の北に接し、利根川南岸の低地を占める。かつて利根川の氾濫の多かった地域で、自然堤防や後背湿地が交錯し、水田と畑が相半ばしている。中心集落の妻沼は、江戸時代には治承3(1179)年に斉藤実盛が守本尊を祀つたことに始まる歓喜院の門前町として、また利根川の渡船場、河岸場として栄えたという。

 この「めぬま」は、中世に利根川の氾濫によって大きな二つの沼ができ、女体様を祀る沼を女沼と呼び、近世になってこれを目沼となり、妻沼となったことによるとされている。


所在地   埼玉県熊谷市妻沼1480‐1
社  格   旧村社 延喜式内社白髭神社 武蔵国 幡羅郡鎮座
祭  神   伊邪那岐命、伊邪那美命
        (配祀) 大己貴命
        (合祀) 宇迦之御魂神/倉稲魂命、品陀和氣命/誉田別命、
             天照大神、速玉之男命
                  天穂日命/天菩日命、石凝姥命/鏡作神、菅原道真
由  緒   景行天皇40年創建(伝承)
       治承3年(1179)聖天社
       建久8年(1197)歓喜院を開設
       慶長9年(1604)社殿造営(聖天宮)
       明治2年大我井神社造営
       明治6年3月村社、同40年10月神饌幣帛料供進指定

例  祭   4月17日 例祭

地図リンク
 大我井神社は国道407号線を東に入った妻沼聖天山の東、妻沼小学校のすぐ南に鎮座する。専用の駐車場はなく、社務所近くの若干のスペースに駐車するか、近くにある妻沼聖天院の駐車場に止めて歩くかなのだが、社務所近くの若干のスペースに停める事にした。
  
 参道は思っていたよりは広く開放的だ。また参道の左側には石が祀られている。何の石なのかはわからないが、神が宿るとされる磐座(いわくら)かもしれない。 
磐座 
 
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火に対 する信仰である三輪山や富士山などの神奈備(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。 
 
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座 と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
 
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
 
現在では御神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。

 参道を北に歩くと正面に唐門が立つ。以前は、若宮八幡宮の正門だったが、若宮八幡宮が当社に合祀された後、当社境内に遷されたものという。
 
                                                                                       大我井神社唐門の由来
 
当唐門は明和七年(百八十六年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した
時に昭和三十年十月吉晨なり

                                                                                                                    境内案内板より
   
             拝  殿                 拝殿に掲げられた「大我井神社」の扁額
 
                                        神明造りの本殿
 拝殿、幣殿、本殿共に飾りの少ない重厚な造りで道路を挟んで隣接する聖天院の本堂(本殿?)とまさに対照的な社だ。

武州妻沼郷大我井神社
 大我井神社は遠く神皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
 古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
 なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています』
                                            境内案内板より
 
                                             富士塚
石段脇には角行霊神や身禄霊神、小御嶽大神、冨士浅間大神などが並び、塚頂にも冨士浅間大神。

                                                                                             明治時代以前までは、聖天宮と混祀しされ、神仏分離令によって、明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。同2年に社名を二柱神社から、古来以来の森の名にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営し、現在の形となった。また、西側聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。その聖天宮が、式内・白髪神社とみられているが、何故、最初から白髪神社と称さなかったのかはわからない。それとも称することができない理由があったのだろうか。

  

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田中神社

 熊谷市三ヶ尻地区には式内社論社が2社存在する。一社は三ヶ尻八幡神社であるが、もう一社はこの田中神社である。境内はそれほど広くなく、式内社論社の中でも小さい社と言われている。しかし規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。 
 この田中神社の境内には要石と言われる磐倉(ご神体)、境界石が存在し、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしい。
 また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。明治末年、三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀されたが、その後まもなく、氏子の申立によつて現地に復帰再興した。
 神体として瓢箪形の石三個と金幣三本を本殿に祀る。

所在地    埼玉県熊谷市三ヶ尻671
主祭神    武甕槌命 (配祀)少彦名命 天穗日命
         『神名帳考証』(延経)天津彦根命
           『式社考』『神社要録』『大日本史』武甕尻命
         『神社命附』『風土記稿』『武乾記』少彦名命・天穂日命
社  格     旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
由  緒    由緒不明
        
江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していたが、明治末年三尻字新
                  堀新田の八幡神社に一時合祀、その後まもなく、現地に復帰再興したという。
例  祭
      1月25日 例祭

 
 国道140号彩甲斐街道と埼玉県道47号深谷東松山線の交差する、武体西交差点の南西側すぐそばに田中神社は鎮座する。荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。
 駐車できるスペースはなく、路上駐車しようにも日頃より交通量の多い県道のため、武体西交差点脇にあるコンビニエンスの駐車スペースを利用し、そちらに駐車して参拝する。
 
             県道の歩道から一の鳥居を撮影
 
 社は規模は小さいながら式内社論社としての風格がある。また参道も以前に比べて綺麗に整備されているようだ。
 境内には要石があり磐倉(ご神体)、境界石であり、幡羅郡、大里郡、榛沢郡の境界に建っているそうだ。また、古来より田中天神と云われて、産土神・ 水神様を信仰していた。天神とよばれるが菅原道真の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰であり、小さい社とはいえ歴史の淵源は深い。
  
  二の鳥居の手前左側にある地震封じの要石     鳥居奉献記念の石碑にも要石の由来等紹介
                                              している
     
 
関東で要石があるのは、鹿嶋神宮、香取神宮が有名で他8例のみ。埼玉では初の発見と言うことらしいが、詳しいところはわからない
               
田中神社
 抑抑(そもそも)武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり。
ここに御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す、又武蔵国幡羅大里榛名の三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん。
                                                                                                                                                                                                   社頭掲示板より引用

  『式社考』『神社要録』『大日本史』では田中神社の祭神が武甕尻命記述されている。この武甕尻命は武甕槌命と同人物というらしいが、本当はどうであろうか。旧事本記には大貴己命と系譜として、五代孫に武甕尻命の名前が出てくる。

旧事本記
     大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅?
   高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)


     大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。


     孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。


     三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。

ここでは武甕尻命は決して武甕槌命と同人物ではない。謎はますます深まる。



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三ヶ尻八幡神社

  三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。
  熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。

           
                      ・所在地 埼玉県熊谷市三ケ尻2924
                      ・ご祭神 誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真
                      ・社 格 旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
                      ・例祭等 祈年祭 325日 例祭 415日 新嘗祭 128
                              *祭日は「大里郡神社誌」を参照
  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。駐車スペースはその三尻公民館を利用して参拝を行った。
             
                                         県道沿いにある三ヶ尻八幡神社社号標と一の鳥居
                           
                           一の鳥居より参道を望む
『日本歴史地名大系』での 「三ヶ尻村」の解説
 [現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威(みいず)ヶ原
 幡羅郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地南東縁の櫛挽面と寄居面にまたがり、北は拾六間村、南は大里郡大麻生村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容、を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。狭さ山とは現在の観音山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。
 天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)。
                       
                                                      寛永6年(1629)築造の二の鳥居
             
                              
台地面に向かって参道が続く。
                                    実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き

              
                                                     参道途中に設置されている案内板       
 八幡神社
 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森  昭和59年3月30日指定(埼玉県)
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
 平成16年3月    埼玉県熊谷市
                                                        掲示板より引用

「ふるさとの森」の案内板が設置されている場所は、広い空間となっていて、現在は参拝用の駐車スペースとなっているが(写真左)、ここには「三尻村 靖国神社」の社号標柱が立ち、広いスペースの一番西側奥には靖国社がひっそりと鎮座している(同右)。
         
                              拝 殿          
         
                                                                        本  殿 
 
      拝殿手前左側にある手水社                        拝殿手前にある祓戸大神
                                                          瀬織津姫命と何か関係があるのだろうか。
 境内には数多くの石碑が並び祀られている。この地に鎮座している社に対して、昔から延々と今に至るまで、氏子・総代を初めとする多くの方々が崇高の念をもって祀り、奉納してきた歴史を垣間見る思いがする。
           
 八幡神社  
篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
 寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
  社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 篠田宣久謹書

                                                     境内石碑より引用
 この三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。
 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。
 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は我々が思う以上に深い関係があったようだ。
                                   
                                      社殿
の左側には「八幡太郎義家公駒留めの杉がある。
 源頼義と幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている。
                                
境内社 琴平神社(写真左側)・浅間神社(同右)   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等

   琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社            社叢の奥に鎮座している境内社・産泰神社 
            
  
ヶ尻八幡神社の社殿横には「社日」と言われる石柱が存在し、各面には、五柱の神名が記されている。
 「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」。
天照皇大神が正面最上位で、その右面から上記の順で並ぶ。
            
                             社殿からの一風景
 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷」が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。
「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。
  他の利用例として
 
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。
  
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。
 
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。
 
弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
  このように「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。

 さてこの「甕」を冠した神々は記紀等に詳しく記載されている。
槌命
    雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
   武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。
速日神(ミカハヤヒノカミ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
  
建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。
之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。
   (* 前玉比売は前玉神社の祭神)

天之主神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神
主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神

津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。
天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。
 別名に天香香背男(あまのかかせお)。
 
日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。


 このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社近くに鎮座する延喜式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。



 

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出雲乃伊波比神社

  旧江南町、現熊谷市江南地区は、埼玉県北西部の荒川中流域右岸に位置する。地形的に以下の3区分に分かれる。
 ① 南部を東流する和田川以南の丘陵部(比企丘陵)
 ② 荒川右岸の中位段丘である江南台地
 ③ 部分的に下位段丘の残る荒川沖横地

 江南台地は、寄居町金尾付近より江南町を経て大里村箕輪に至る東西17km、南北3kmにわたる幅狭な台地である。北側・東側は荒川及びその沖積地に面し、比高差10~15mの崖線で画されていて、崖線下には吉野川が流れる。南側は和剛IIを挟んで比企丘陵に接し、台地上は狭小な谷津や埋没谷が複雑に入り組み、その最深部および開口部には溜池が構築されている。
 またこの江南地区は豊かな環境と歴史に育まれた文化財が多くある。これらには、樋番地区にある国指定重要文化財「平山家住宅」・塩地区の埼玉県指定史跡「塩古墳群」・千代地区の権現坂埴輪窯跡等の代表的な文化財・遺跡が荒川に画した場所から台地・丘陵上に広がっていて、古墳時代当時この地帯の隆盛ぶりを感じさせてくれる。


所在地   埼玉県熊谷市板井718
社  格   旧村社 延喜式内社 武蔵国 男衾郡鎮座
祭  神   武甕槌命
        『神名帳考証』『神祇志料』『大日本史』大己貴命
        延経『神名帳考証』『武藏の古社』天穂日命
由  緒   創立年代不詳
        文明年間鹿島明神を合祀、明治4年10月村社、
                同28年8月社号を出雲乃伊波比神社改称
        同40年10月神饒幣帛料供進指定
例  祭   4月17日 例祭

  地図リンク
 出雲乃伊波比神社は埼玉県道47号深谷滑川線を滑川、森林公園方面へ進み、小原十字路交差点を右折、県道11号熊谷小川秩父線の坂井南交差点の南に架かる下田橋から和田川に沿って西へ進むと到着する。社前には和田川が流れ中々風情のある佇まいの神社である。神社の参道入口には太鼓橋が架けられ、低い石垣が何段も組まれた境内の周囲は大きな鎮守の杜が形成されている。
 
    
        社殿の前には趣のある太鼓橋              境内前には和田川が流れる

              境内入ってすぐ左側にある案内板

出雲乃伊波比神社
        埼玉県熊谷市 板井

 『本社は、もとは鹿島神社といわれていたが、明治二十八年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。
 境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などが合祀されている。
 本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して、二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。
 また、社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。
 境内に祀らている神々の祭日のうち、特に七月十五日の八坂祭りは、昔から「板井の天のう様」として近在に知られ、明治四年からば太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになった』
                                                                                                             案内板より引用

                   正面の拝殿
    目の前に和田川がある関係で、低いが何段もの石段が組まれている。

                
 ところで出雲乃伊波比神社が鎮座するあたりの小字名は「氷川」という。氷川といえば、さいたま市大宮区に鎮座している武蔵国一の宮氷川神社が思い付く。大宮氷川神社の祭神はスサノオノミコト、イナダヒメノミコト、オオナムチノミコトという出雲系の神様。この三柱の神様をお守りする神主家は明治になるまで三家(岩井家、東角井家、西角井家)で、スサノオの奉齋を担当していたのは岩井家であった。「氷川神社の周辺もやはり湧水が涸れることの無い神聖な場所であったという。出雲乃伊波比神社の創建年代は氷川神社より古いのではないか、また出雲系の神々は、出雲~越国~信州~関東という具合に、日本海方面から来たのではないか、と想像を膨らましてしまう。

   
      富士山浅間神社                    境内社(?)        左側 不明、右側小御嶽神社
   
    合祀社 祭神は解らず              氷川神社か           この石祠また祭神不明   
                                                                    
出雲乃伊波比神社由緒

○村社出雲乃伊波比神社由緒
 社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。
 然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。
 本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。

 ○氷川神社由緒
 創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。
 当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。
 また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。
    社掌 森本三作
    氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉
 

  社殿の周りの石組はよく整然としていて何か幾何学的な美しさを感じるし、周りの風景と社が一体となった、まるで山水画を見るような美しい光景がそこにあった。本当に素晴らしい雰囲気のある社だ。残念なことに熊谷市に在住する自分ではあったが、正直この社の存在を最近まで知らなかった。
 自分の不明を恥じるとともに、もう少し自治体なり、地域がこの素晴らしい社をアピールすることも必要かとも感じた。








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奈良神社

 東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)は、古代に造られた官道の一つ。当初東山道の 本道の一部として開通し、のちに支路となった道であり、上野国・下野国から武蔵国を南北方向に通って武蔵国の国府に至る幅12m程の直線道路であった。現在のどこのルートを走っていたかハッキリ分かっていないが、国道409号線ではなかったかと言われている。本来武蔵国は相模国と隣接し、東海道に編入されるべき国であったが、地形上の制約等の理由により、近江国を起点に美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、陸奥国(当時はまだ出羽国はなかった)と本州の内陸国が属する東山道に属することになった。このため、道としての東山道にもこれらの国々から大きく外れたところにある武蔵国の国府を結ぶ必要が生じた。
 
普通官道は地理的制約から特定の国の国府を通れない場合、支道を出して対処するのが定石であり(例*東海道の甲斐国・山陽道の美作国)、武蔵国の場合も上野国府と下野国府との間で本道を曲げて、上野国邑楽郡から5駅を経て武蔵国府に至るルートが設置された。
 
その結果、上野国府~新田駅(上野国)~武蔵国府~足利駅(下野国)~下野国府というルートが採用されることになり、新田駅~足利駅間は直進ではなく南北にわたってY字形に突き出る格好となった。この突き出した部分が東山道武蔵路である。
 
幡羅郡の延喜式内社は4社で、そのうち東山道武蔵路に接している、あるいはその近隣に鎮座している式内社、及びその論社は数社にのぼる。以下の社がそれに当たる。
  大我井神社  (式内論社)
  白髪神社    (式内論社)
  東別府神社  (式内論社)
  奈良神社    (式内社)
  久保島大神社 (式内論社)

 また大我井神社のすぐ西側には妻沼聖天山歓喜院がある。高野山準別格本山であり、関東八十八大師八十八番・関東三十三観音第十六番・幡羅新四国第十三番でもあるが、元々は式内社白髪神社の社地内に斎藤実盛が聖天宮を勧請したものであったとされる。

 東山道武蔵路に沿って式内社が鎮座していることは、このルートがいかに武蔵国にとって重要な道であったかを如実に証明しているのではないだろうか。
    
地図リンク
所在地    埼玉県熊谷市中奈良1969

主祭神    奈良別命
        
(合祀)火産靈命 建御名方命 大国主命 大日霊貴命 彦火火出見命
                木花咲耶姫命 素盞嗚命 豊宇気毘売命
社   格        旧村社  延喜式神名帳 武蔵国 播羅郡鎮座 
例   祭    4月15日 春の例祭
由   緒       慶雲2年(705〉陸奥国の蝦夷反乱に際して神威を発揮
                  
和銅4年境内から湧泉あり、田地六百余町を拓く
                  
嘉祥3年(850)官社
                  
中世円藏坊修験の監下
                  
天正18年(1590)小田原落城によつて摩尼山長慶寺の配下となる
                       
明治7年2月村社
                  明治42年「奈良神社」と改称

  奈良神社は国道407号を妻沼方面へ、中奈良交差点を左折するとすぐ右側に一の鳥居がある。周りが田畑に囲まれた参道をまっすぐ進むとその先にこんもりとした鎮守の森が広がり、手前の朱色の鳥居を抜けるとその中に社がある。
              
                                                    拝殿前の二の鳥居
       
                   鳥居の扁額には「奈良之神社」と書かれている

奈良神社

 長慶寺に隣接して鎮座する。
仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。この奈良別命を祀った。
中世熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。
当社の東北500mの地点に、「和銅四年 奈良神社涌泉旧蹟」の石碑がある
           
                           拝    殿
     
            拝殿の扁額にも「奈良之神社」と表記
                   

延喜式内社 奈良神社の由来
御祭神 
奈良別命

奈良別命の由緒

「奈良別命は、垂神天皇の皇子豊城入彦命(上ッ毛野国、下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当たり、仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。と国造本記に記されてあります。

  当社の東北一キロのところにある横塚山と呼称される前方後円墳が奈良別命の墓ともされるが真相は不明だ。
 
                        横塚山古墳全景                  横塚山古墳南側にある案内板

熊谷市指定文化財史跡
横塚山古墳
 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m前方部で2.5mです。
 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると五世紀末と考えられます。しかし、埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。                                                                                                                                                                                   熊谷市教育委員会
                                                      
                                                                                                                           
  ところで奈良神社の祭神である奈良別命は下野国一ノ宮宇都宮下都賀郡野木町の祭神である豊城入彦命の4世の孫と言われている。宇都宮二荒山神社の由緒は神社本庁では奈良別命に関して次のような記述がある。

由緒
  主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治めるに当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和5年(838)に現在地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。
  古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳われています。

                                                                                 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁  
        奈良神社 境内社                   堅牢墜神(堅牢地神か)の石柱

  大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。しかしこれ以上のことは全く不明で、それ以上にこの人物を祭っている下野国の神社が自分が調べた限り全くない、というのもなにか恣意的なものを感じる。

 その奈良別命が下野国国造としての任期が終了した後、たまたまなのか当地へ分け入り、なぜか開拓し、しかも横塚山古墳の推定埋葬者でも分かるとおりそこで生涯を終えたという。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って奈良神社を創立した、とホームページ等では紹介されているわけだが

  ① 奈良別命は国造本紀(先代旧事本紀)によると毛野国が上野国、下野国に別れた時の、下野国最初の国造として登場している。ましてや豊城入彦命の4世の孫という立派な肩書きだ。創建したと言われている野木神社、宇都宮二荒山神社、那須神社は下野国の地形上それぞれ栃木県南部、中央部、北部の主要地点を抑える要衝で、この位置に神社をつくることはすなわち下野国の南北線を完全に握ること、つまり東山道の掌握になり戦略的にも利に叶うことだ。自分は改めてこの人物の並々ならぬ統治能力の高さ感じた。

 しかしこの人物を祀る下野国の神社がないということもまた事実で、大変不思議だ。また下野国の一ノ宮宇都宮二荒山神社や那須神社、野木神社も創建者である奈良別命よりもよりも豊城入彦命、坂上田村麻呂や那須与一のことが詳細に記述されている。中には創建者である奈良別命の名前すら伏せられているケースもある。

 ② 日本書紀では、崇神天皇の皇子の豊城入彦命が東国統治を命じられ、上毛野国造や下毛野国造などの祖先になったという
また、その孫の彦狭嶋王が景行天皇朝に東山道十五国都督に任じられ、その子御諸別王も引き続き、善政を行ったという。旧事本紀によると、仁徳天皇朝に豊城入彦命の4世孫の奈良別が下毛国造に任じられたというところから、代々下毛野君(しもつけぬのきみ)が国造を世襲したと言われる。ということは逆に言うと奈良別命は下野国国造として一生涯この地から外に出なかった、ということになると思われる。
 
この下野国国造 奈良別命に関しては別項を設けて改めて考えたい。

  ③ ところで先代旧事本記でも埼玉県の奈良神社の由来記では、

  「仁徳天皇の御代に下野国の国造りに任じられ、武蔵野の沃野に分けはいり、その徳によって荒地を開き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた。そのため、郷民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」                        
                                            国造本記/慶雲二年/文武天皇の御代の記述

  とあり、「下野国の国造に任命され」、「武蔵野に地に分け入り、開墾した」と書かれてはいるが、決して「下野国の任期が終了し、当地に入って、開拓した。」つまりこの地に立ち寄ったとは全く書かれていないのである。

  ④ 延喜式内社 奈良神社は「なら」神社と言うが鳥居・拝殿の額には「奈良之神社」であり、読み方は「ならの」神社である。一般的に「なら」神社では固有名詞であるので、祭神も一人が対象になると思われるがそれに対して「ならの」神社は形式名詞なので祭神も一人である理由はないと思われる。

 つまり、下野国の国造奈良別命は下野国から出ることはなかったが、その兄弟の一族、親戚の一族か、または奈良別一族、その後裔の人物が武蔵国、幡羅郡に分け入り、開墾したならばその推理は十分あり得るわけで、だからこそ「奈良之神社」であり、奈良別一族の人物がその一族の開祖である「奈良別命」を祀った、ということは十分にありうる。

     
                         奈良神社 本殿

  そして、ここで一つの大きな問題に直面した。「奈良別一族が幡羅郡に分け入り、開墾した」とはどういうことだろうか。言葉の表現方法は違えども、「幡羅郡に侵入し、この地を下野国の勢力範囲にした」ということではないだろうか。

 幡羅郡は利根川をはさんで上毛野国と接していて、文化的にも経済的にも上毛野国の影響下に長期間あったと推測される。何よりの証拠はあの東日本最大の古墳、群馬県太田市にある太田天神山神社の存在だ。関東の王者という名に恥じない主軸長210mの巨大前方後円墳で、この古墳が営まれた五世紀前半頃の同じ世代の倭国王や倭国内の有力首長たちの古墳の中では、おそらく五本の指の中に入る大規模なものであったことは疑いなかろう。
 この規模だけに影響する領域も両毛地域という東西の広さのみならず南北にもその広がりがあったろうと思われる。太田市は上野国全体で見た場合東に偏っている。だからこそ関東の王者はここに古墳を築造しなければならない理由があったと考えるのが妥当ではないか。この地は上野と下野のちょうど中間に位置し各方面への街道や水路が集中している。また南北においても、これはあくまで推測の域でしかないが、東山道武蔵路の原型はその大田天神山古墳の埋葬者、もしくは毛野国の王者が創建したのではないかと最近思っている。そもそも毛野国の王者が眠っている場所から真南10kmもない場所に幡羅郡は存在する。幡羅郡は武蔵国口の玄関なのだから。

 根拠のない勝手な想像を許して頂ければ、上野国の勢力範囲のこの重要な地に下野国の勢力が侵攻したとしたらその後どうなることが起こるか.....     





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