古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

渡唐神社

所在地  埼玉県熊谷市三本717
主祭神  少彦名命
社  挌  旧村社
例  祭  不詳


                     
 渡唐神社は飯玉神社から埼玉県道47号深谷東松山線を北上し、押切橋交差点を右折する。埼玉県道81号熊谷寄居線に変わり、この道を真っ直ぐ進むと2,3分位で右側にこんもりとした林の中に社殿が存在する。道は一本道で一面畑の中に鎮座するので分かりやすい。

        鳥居の横にある社号石標          鳥居から境内を撮影。社殿は横を向いている。
               
                              拝   殿
 渡唐神社の境内社には駒形明神社がある。社伝によると、平安時代末期から鎌倉時代初期大里郡熊谷郷出身の武将、熊谷次郎直実の愛馬、権太栗毛が一の谷の合戦後この地にて息が絶え、それを悼み直実が駒形明神を祀った場所と言われている由来をもつ。
 ちなみにこの権太栗毛を含め当時の日本の馬は西洋のようには調教されておらず、また去勢されることもなかった為気性が荒く、すぐ人に噛みつく癖があったという。
 
                           境内社駒形明神社 

           
             末社群  左から 厳島神社、八坂神社、順海神社、三峯神社

 渡唐神社の祭神は少彦名命でスクナヒコネ、スクナヒコ、スクナミカミともいい、多くの古代文献にみえる広い信仰圏をもった神である。またこの神は、後世の倭姫命の小虫生成説や一寸法師などの説話の祖型ともみられる。
 常世国(とこよのくに)から石(いわ)に示現する神と歌われ、粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて淡島(あわしま)より常世国に至ったとも語られる。またガガイモの舟に乗り、蛾(が)あるいは鷦鷯(さざき)(ミソサザイ)の皮を着て海上を出雲(いずも)の美保(みほ)崎に寄り着いたと説かれるので、この神は常世国より去来する小さ子神であったことがわかる。さらにこの神は、多くの場合、国造りの神として大己貴神、またの名を大国主命と並称されるが、その場合は種に関連し、農耕の技術や労働は大己貴神単独の行動として語られるため、その本質は粟作以来の穀霊であったと考えるべきであろう。
 不思議とこの神の出自は、古事記において神産巣日神の子とされ、日本書紀では高皇産霊神の子とであり、いってみれば高天原生まれのエリートの神である。ところが生まれは高天原でも実際に住んでいるのはなぜか常世の国であり、あくまでも常世の国の住人としてこの世にやってきて、その優れた能力を発揮し、そして最後は常世の国に帰っていく。少彦名命は出生としては高天原の直系の神として主流派に属するのだが、その能力や機能という個性の面において国つ神の大己貴神に協力して国造りを協力している点で非主流の系統に属しているということになる。

 さて少彦名命は国造りの立役者でありながら前段と何の脈略もなしにいきなり登場する。『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神の命によって国造りに参加したという。
 
 故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、自多下四字以音此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。自毘下三字以音故爾白上於神產巢日御祖命者、答告、此者實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。故、自爾大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故、顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
口語訳
(この大国主神が出雲の御大の崎にいたとき、波間から、天の羅摩の船に乗り、鵝の皮を剥いで着物にしたものを着て、やって来た神があった。その名を尋ねたが答えない。お伴の神々に尋ねても、みな「知らない」と言う。だが多邇具久という神が、「これは久延毘古ならきっと知っているでしょう」と言った。そこで久延毘古を召して尋ねたところ、「これは神産巣日神の御子で、少名毘古那神という神です」と答えた。そこで神産巣日命に報告し、この神を見せたところ、「これは確かに私の子だ。私の子の中で、指の間から漏れた子だ。だからあなた、葦原色許男命はこの子と兄弟になって、この国を作り固めなさい」と言った。そこでこの後、大穴牟遲命と少名毘古那神の二柱は相並んで、この国を作り固めた。その後、少名毘古那神は常世の国に行ってしまった。この少名毘古那神の名を明らかにした、いわゆる久延毘古は、今は山田の曾富騰(そおど=かかし)という者である。この神は、歩くことはできないけれども、世の中のことをすべて知っている神だという。)

 少彦名命は常世の国から船を使用して出雲の地に来たという。ここでの最大のポイントは常世の国は何処か、ということだ。ウィキペディアには常世の国についてこのような記述をしている。

常世国
 常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。
 こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。また、常世の国は沖縄や台湾、あるいは済州島などともいわれている。(中略)
 常世の国へ至るためには海の波を越えて行かなければならず、海神ワタツミの神の宮も常世の国にあるとされていることから、古代の観念として、常世の国と海原は分かちがたく結びついていることは明らかである。『万葉集』の歌には、常世の浪の重浪寄する国(「常世之浪重浪歸國」)という常套句があり、海岸に寄せる波は常世の国へと直結している地続き(海続き)の世界ということでもある。
 
しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が重層的に見て取れる。(中略)


 つまり、常世の国とは現世的な海の彼方の一地域の他に、「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観も含まれるという。ただここではこの「死後の世界」、「不老不死の世界」という観念的世界観についての意見は述べない。何故ならこのような神の領域にも似た主張はこの取るに足らない一平凡人が話す内容ではないからだ。
 現世的な海の彼方の一地域として考えた場合、この常世の国は記紀において少彦名命、御毛沼命、多遲麻毛理が、そして万葉集や日本書紀において浦島子が常世の国に渡った、との記事が存在する。これらの人物の内容の説明は長くなるのでここではあえて紹介はしないが、この4人には全て共通する項目がある。その共通する項目とはこの4人は海岸線の近くに活動拠点を有している。という点だ。
 少彦名命は上記にて説明した通りだが、御毛沼命は神武天皇の兄で古事記において波の穂を跳みて常世の国に渡ったとある。多遲麻毛理は垂仁天皇の時代、不老不死の薬である時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)を常世の国に遣わした、との記事がある。この時じくの香の木の実とは時を定めずということから「いつでも香りを放つ木の実」を指すと解され、「今の橘なり」と言われる。橘は葉が常緑であることから、「永遠性・永続性」の象徴と考えられ、その橘という木は西日本、特に和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生するという。浦島子は浦島太郎の別名。皆さんもご存じの人物で、ここから考えられることは、この4人は海洋民ではなかったか、ということだ。

 この渡唐神社で上記のような説明を長々としたか、不思議に思う方も多いと思うが実は理由がある。この社の名前である「渡唐」といい、所在地である「三本」といい、全て海に関する地名、神社名なのだ。

渡部 ワタナベ 海(バタ、ハタ)の転訛で海(ワタ)の佳字に渡を用いる。
藤   フヂ  葛(ふぢ)は、葛(つつら、つづら)、管羅(つつら、くだら)の転訛にて、百済(くだら)を指す。山城国葛野郡(かどの)は韓人秦氏の本拠地である。葛野川(かどのがわ)は別名桂川(かつらがわ)を称す。桂は葛野(かつらの)の転訛なり。葛野(かどの、かつらの)は葛野(ふぢの)とも称す。
三   ミ   三は未(み)の佳字にて、羊(ひつじ)族の集落という。
下  モト  浦の意味にて海洋民を称す。佳字に元、本を用いる


  この地名や苗字等が過去の歴史にすぐに直結することはない。ないどころかそれで全てを証明することは危険である。地名の変化、変遷は一千有余年という長い歴史には当然あることだし、自然災害や人的災害による一族の移動もある。またそれを冷静に証明する信憑性のある史書等の存在も欠かせない。だからといって否定する事もまたナンセンスである。残念ながら今回この熊谷市三本地域には古来から続く「渡部、渡辺、渡」姓の史書、文章等の発見はなかったが、地道に時間をかけてじっくり調べていきたい。

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飯玉神社

 飯玉神社は主として埼玉県北部に見られる神社で、祭神は豊受比賣命であり、熊谷市千代地区にも飯玉神社が鎮座している。この神社には奇妙な伝承、伝説があり、この神社の南にある御池に棲む魚は片目という伝承がある。社前の池は、里唱御池(りしょうおいけ)といい、この池の魚類はすべて片目であると伝えられ大切に飼育されていたが、水量の少なくなった現在、魚類はあまり見られなくなったということらしい。ちなみに字である地名の千代は「ちよ」ではなく「せんだい」と読む。
 またこの千代地域の近隣である深谷市瀬山にかつて少間(さやま)池というのがあり、そこに棲む魚は片目だったという伝説もあり、両地域に何かしらの関連性も感じられる。
所在地  埼玉県熊谷市千代625
御祭神  豊受比賣命
社  挌  旧村社
例  祭  不詳

  飯玉神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右側に飯玉神社鎮座する。押切橋交差点から大体2,3分位で到着する。駐車場は残念ながらないので神社の手前に右折する道路があり、そこに駐車し急ぎ参拝を行った。

 
            飯玉神社鳥居の横にある案内板

                   拝   殿 
 
  拝殿から左側裏手に鎮座する三峰神社        拝殿手前右側には八坂神社と天満神社
 
 社前の池は、里唱御池といい、片目の魚伝説があるというのだが.....見たところこれといった特徴のない普通の池だった。しかし不思議なことだが片目片足・巨人伝説(ダイダラボッチ)・「一つ目小僧」「片目の魚」「片葉の葦」「鎌倉権五郎」等の伝説、伝承は日本各地に点在している。そして同時にその地域には古代鍛冶集団の影を色濃く感じる。それは埼玉県も同様だ。埼玉県編纂の「埼玉県史」は埼玉県内での製鉄の起こりを平安時代以降とする説が大半を占めているが、公的な通説をそのまま鵜呑みにすることは危険だ。

 日本で鉄器が普及し始めたのは弥生時代中期中葉(紀元前後)から後半にかけて北部九州で、全国的に石器に取って代わり転換が完了するのは弥生時代後期後半(3世紀)と見られている。青銅器も含めてこの鉄器あるいは原材料はおそらく中国大陸から輸入されていたであろうが、鉄器を精製する技術まで輸入されたかどうかは解らない。しかし紀元前後朝鮮半島との交流は現代我々が考えているより盛んであったのではないか、と考えられる。というのも4世紀頃から朝鮮半島は群雄割拠の戦乱の時代に突入し、多くの人々が戦乱や飢饉をのがれて日本に渡ってきた。5世紀までに秦氏・漢氏の渡来が伝えられ、5世紀末から百済が高句麗に圧迫されると、さらにこの地域の人々が渡来してきたというが、結局戦乱による移住ができた基本因子、つまりその前代における平和時の交流が元々あったからこそ可能だったわけで、その交流が盛んであったからこそ朝鮮半島の人々はわざわざ海を渡って移住を考えたのではないだろうか。

 ところで3世紀陳寿が編纂した正史「三国志」の魏志韓伝には朝鮮半島南岸に倭地があったとの文面がある。

韓は帯方の南にあり東西は海を以って限りとして、南は倭と接し方四千里ばかりである。

 上記の文の南は倭と接し、の「接する」とは土地と土地が接し境界をなしている状態を云うのであるから朝鮮半島に倭地ありの「直接証言」文であろう。そうでないとすれば、東西は海を限りと同じように、南も海を限りにしていたと表現するしかない。

郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国を歴(ヘ)て乍は南し乍は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里

 
その北岸は倭の領地の北岸を示し、拘邪韓国はれっきとした倭国の一員であることを三国志の著者陳寿(233-297)は当時の常識として理解していてそれを正規の史書に記述していた。


 また三国志以前には「山海経」という中国最古の地理書がありそこにも古代倭国の記述が存在する。

蓋国在鉅燕南倭北。属燕。

 山海経は著者不詳の東周時代の地理書と言われている。ここでは地理的に直接燕国と倭国が接してはいないが、倭国が蓋国を通じて燕国に属している、という。つまり、ここで重要なことは山海経が記述された当時(東周 BC8世紀~BC3世紀)倭国は中国大陸と朝貢という名の交易を行っていた、ということだ。

 上記①、②の記述から、当時倭国は海を渡り、朝鮮半島の先進文化を取り入れる労力をしなくても半島南部に一拠点があり、そこから多くの文化、技術を吸収していたと思われる。鉄器製造の技術も三国志編纂当時というより、②の卑弥呼在命中の時代(248年と推定)までは確実に半島南岸に
倭地である狗邪韓国が存在していて、鉄器製造のノウハウを学んだのではないか、と考える。というのも、この朝鮮半島は鉄器製造一大拠点だったという。

 魏書東夷伝弁辰の条に
国、鉄を出す。韓、わい、倭 皆従がいて之を取る。・・・・また以て二郡に供給すとある。半島南部は「韓」と呼ばれていた。三韓の内、実力がある辰韓は外国から多数の製鉄専門家を集めて最も鉄治の技術が進んでいた。現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部だ。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないだろうか。

 
 さて日本神話に登場する数多くの神々の中に製鉄・鍛冶の神が存在する。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言い、『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主命を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。
 鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる
天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。

 また日本民俗で片目の動物としては、魚、特に鮒(フナ)の説話が多く語られる。
 宮崎県の都萬神社の御手洗の池の魚は木花開耶姫命の玉の紐が落ち、フナの眼を貫き、片目になったという。出羽金沢の厨川のカワハゼは後三年の役の時、鎌倉景政が傷ついた眼をここで洗ったので、そこに棲むカワハゼはすがめであるという。 
 武蔵野島の浄山寺門外の池に棲む片目の魚は延命地蔵が茶畑で傷ついた眼をそこで洗ったからであるという。阿波福村の池に棲む片目のフナ、コイその他は月輪兵部が池の主の大蛇の左眼を射たためであるという。伊予の山越では片身のフナを焼き、弘法大師に出すと、あわれに思い、小川に放つと、蘇生し片眼のフナとなり泳ぎ去ったという。名古屋の闇森の池の片眼フナは瘧の呪いになるという。備前、備中、備後、和泉の魚、越前、越中、越後、伊勢の魚鼈、摂津、越前、越中、越後のフナ、上野、美作のウナギ、甲斐、遠江のドジョウなどにも片眼のものがある。



 片眼の蛇の説話も少なくない。佐渡金北山の蛇は順徳天皇行幸以来片眼であり、近江では旱魃の時に水喧嘩を救うために片眼の娘が川の穴に飛び込んで蛇体と化して、その因縁で片眼のコイがいるという。その他羽後のカジカ、信濃のイモリ、美作のカモなどは片眼説話がある。



 高皇産霊神が天目一箇神を作金者に定めてから、御霊神社の祭神、御手洗の池の魚、池の主は片眼で、池の主は人との交渉が多かった大蛇であった。伊勢に一目龍、肥後に一目八幡があり、やまのかみ、雷神は片眼である。一目の妖怪は山城八瀬村の山鬼、土佐の山爺、有名なひとつ目小僧がある。



 その一方で、弥生時代に砂鉄精錬の技術が出雲を中心とする地帯で古来発達していて独自の製鉄方法はあったとする根強い意見もある。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからである。
 1 弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
 2 ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
 3 弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
 4 弥生時代後期2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。

 鉄鉱石の精錬は銅に比べ容易である。能率・歩留まりを厭わなければ瓦を焼く窯でも代用できる。箱型炉が開発・導入される以前の原初的な製鉄法であったろう。砂鉄精錬についても、後のたたら製鉄法に近い技術の開発をまたずとも、必要にせまられ出来上がりの質を問わない工法が用いられていたであろう。

 
埼玉県にはアラハバキを客人神として祀る氷川神社がさいたま市に鎮座しているが、出雲の斐川にあった杵築神社から移ったという由来や御祭神である素戔嗚命の関係から見ても出雲の流れを汲むといえる。また埼玉県の神社も出雲系の社が非常に多い特徴がある。 前述の記述でも述べたが、出雲は日本の古代製鉄発祥の地であり、氷川神社の祀官は鍛冶氏族である物部氏の流れを組む可能性が高いと言える。 ある説では氷川神社のある埼玉県は古代製鉄産業の中心地でもあるという。


 熊谷市の片隅の一社の伝承から非常に飛躍した話となってしまったが、古代鍛冶集団は確かに存在していて、武蔵国の重要な何かを解く一つの鍵となるかもしれない。





 
 


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高根神社

 不思議なことに神社参拝を行っていると、時として思いもしない素晴らしい社に出会うことがある。自分にとっては幸運この上ないことだが、そのような社に出会うと今日一日が大変幸福な気分になる。熊谷市小江川に鎮座する高根神社もその一つに数えられる。
 過去通勤の関係から埼玉県道47号深谷東松山線から何度も目にしていた鳥居の風景からそこに社が存在していたことは以前から承知していたが、社に行く道が細く、なかなか参拝するとなると二の足を踏んでしまう場所だったことや、鳥居は見えても社殿など建造物が全く判別できず、どの程度の規模を有するかわからなかったことから参拝が思いのほか遅くなってしまった。
 創建は不明。由緒としては古くから「高根明神」と崇められ、地域で最高峰の高根山に鎮座していたが、江戸時代の享保年間(1716~1736)に現在地に遷座されたと伝わり、曹洞宗高根山満讃寺が別当だった。御神体は神鏡で、大祭は「平方のお獅子様」といわれている社である。

所在地  熊谷市小江川1404
御祭神  味鋤高彦根神、伊邪那岐命、伊邪那美命
社  挌  旧村社
例  祭  3月第2土曜日
 
 

 高根神社は熊谷市小江川地区に鎮座している。埼玉県道47号深谷東松山線を森林公園方面に進み、南小学校西交差点を越えると緩やかなカーブの道となり、右側にお寺(満讃寺)が見えてくるのでその先の交差点を右折すると左側方向にに高根神社の入口が小さく見える。
 
  高根神社は一面の水田の先にある鎮守の森の中に鎮座している。
 
                社頭及び参道の風景
 
高根神社  所在地 熊谷市小江川

 高根神社の祭神は、味鋤高彦根神、伊邪那岐命、伊邪那美命であり、古くから「高根明神」と崇められていた。古くは元高根に鎮座してあったものを享保年間(1716~1736)に現在地に遷祀したと伝えられていて、曹洞宗高根山満讃寺が別当であった。
 味鋤高彦根神は氷川神社の祭神素戔嗚尊の子孫である大国主命の長子であることから、ここ武蔵国にも関係深かったことがうなずける。
 当社の神体は神鏡であり、大祭は毎年3月16日で、「平方のお獅子様」と言われている。これは、上尾市平方八枝神社から獅子頭を迎えている捧祭で、悪疫退散、家内安全、厄除招福の祈りを込めて行われる。
 平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用
 
 
     社頭の参道の石段を登ると鳥居があり、また石段を上る。
 
そうするとすぐに社殿が見える。参道に対して横(東向き)を向いて鎮座している。

 
                    拝   殿
 
                    本   殿
 高根神社の祭神である味鋤高彦根神は大国主命と宗像の三女神の中の多紀理姫との間の子であり、別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。れっきとした出雲の神であり、同時にこの神社の北側板井地区に鎮座する出雲乃伊波比神社との関連性もあるように思える。
 また同時にこの熊谷市小江川地区は、滑川町との北側の境に位置していて、比企郡総社である伊古乃速御玉比売神社とも地形的に近い。実はこの熊谷市小江川地区は律令時代当時、男衾郡に属していたらしいが、比企郡との境界線が今一つはっきり判明されているわけではない。高根神社はこの地域にとってどのような目的で創建されたのだろうか。
 
    社殿の左側には石段を上った先に境内社があり祀られている。

   
 写真左側の合祀社から榛名神社・三峯神社、牛頭社、稲荷神社、金比羅神社、諏訪神社、八坂神社の名前がある。写真右側の石祠群は右側2つは星宮神、弥勒大菩薩と読めるが他の4つは残念ながら不明だ。
 この星宮神は妙見神と言われている。秩父地方は特に妙見信仰が今なお続く地域として有名だが、その流れか、それとも熊谷市高城神社内にある星宮からきているか。

 
 静かに佇む社。この社を含むこの一帯からくる雰囲気が自分にとって大変気持ちがいいのだ。熊谷市板井の出雲伊波比神社と同様にいつまでもこの風情ある空間を残したいと感じさせてくれる、そんな社をまた一つ発見した。

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塩八幡神社、塩古墳群

 出雲乃伊波比神社の南側に塩八幡神社が鎮座している。そしてそのまた南側には有名な塩古墳群がある。旧石器時代や縄文時代の遺物が出土し、埼玉県北部の代表的な古式古墳群の所在地となっている。

 所在地     熊谷市塩142-1
          
 祭  神     品陀和氣命(ほんだわけのみこと)(推定)、※[別称]誉田別命

 社  格     旧村社
 由  来     不明
       
地図リンク
 塩八幡神社は、埼玉県道47号深谷東松山線を東松山市方面に進み、旧江南町の小原十字路交差点を右折すると埼玉県道11号熊谷小川秩父線になる。この道路をまっすぐ進み、約2㎞弱位、時間にして10分弱で右側にこんもりとした森が見え、塩八幡神社に到着する。駐車場は神社手前に塩集会所があり、そこに駐車して参拝を行った。
 
      県道に面して社号標、鳥居がある                参道。社殿を望む
           
                            東向きの社殿
            
                            拝殿及び本殿
 塩八幡神社の創建時代、由緒等は不明。ただ気になる点が一つある。出雲乃伊波比神社-塩八幡神社-塩古墳群のラインは塩八幡神社が若干のずれはあるが、一直線でつながる。一方、出雲乃伊波比神社から北へ1.5Km、千代地区には寺内廃寺跡がある。このラインの関係はどういうことなのだろうか。
 塩八幡社の現在の社殿の創建は、『新編武蔵風土記稿』塩村の条において、16世紀末に徳川家康の江戸入府の後に召し抱えられた旧武田家臣の伊藤氏が塩村の領主となり、そしてその伊藤氏が館を置いたのがこの塩八幡の北にある丘陵だとされている。そこで新しい領地でも氏神として八幡神社を奉じた、というのは一応筋が通る。だがなぜこの地に創建したのか。創建するに適した土地だったのか、それとも元々この地に由緒らしい痕跡があって村民の合意のもと創建したのか......とにかく不思議な配置関係だ。

 埼玉名字辞典には「塩」に関してこのような記述をしている。

柴 シバ
 三国史記列伝に、韓半島南部に浦上八国あり、骨浦(今の昌原)、柴浦(今の漆原)、古史浦(今の鎮海)等なり。浦は古訓でカラ(韓)の意味がある。また、浦は海のことで海洋民を称す。柴浦の海洋民は柴崎、柴田等を称す。また、柴生田はシボウダと訓ず。方、芳はホウ、ハウと読む。和名抄に安芸国賀茂郡志芳郷を之波と註す、東広島市志和町なり、シホはシハ、シワに同じ。塩はシホ、シボと読み、豊島郡渋谷村(渋谷区)は塩谷の里と唱え、那智山文書に「応永二十七年、江戸氏一族旦那・しほ屋との」と見ゆ。シブ(渋)もシボ、シバの転訛なり。塩姓、柴姓、渋姓は柴族にて柴浦の海洋民なり。男衾郡柴村(江南町)、足立郡小室郷柴村(伊奈町)あり。秩父郡大河原郷坂本村字柴(東秩父村)は古の村名にて、文政二年地蔵尊に芝組と見ゆ。鎌倉雲頂庵文書に「十二月九日、柴郷事、上田右衛門尉中間彦太郎男衾鉢形へ帰候間云々、太田道眞書状重可取越候、忠景花押(長尾皎忠)」と、太田道眞は明応元年二月没す。柴郷は男衾郡柴村か、但し当村は文政頃に村高百六石・家数九軒の小村なれば、近村一帯を柴郷と称したか。○茨城県真壁郡明野町五十戸、関城町三十二戸、真壁町三十五戸、結城郡八千代町二十一戸、石下町二十八戸、下館市六十五戸、下妻市六十三戸。○千葉県海上郡飯岡町三十戸。○長野県東筑摩郡明科町十三戸、上伊那郡辰野町十四戸、箕輪町八十八戸、伊那市五十七戸。○福島県双葉郡浪江町十六戸あり。

 
 男衾郡柴村(江南町) 当村は古代柴族の渡来地なり。但し、家伝には信濃国小笠原四郎基義が戦国末期に移住して柴氏を称と云う。野原村文殊寺寛延元年水鉢に松山領柴村柴七兵衛守孟、明治二年碑に柴村柴伴七.。万延元年羽尾村設楽文書に男衾郡柴村大工棟梁柴隼人正。明治九年副戸長柴守徳・嘉永元年生。代々名主にて、子孫柴益次郎家なり。明治十八年最上農名簿に柴守徳・耕宅地七町歩・山林三十七町六反歩所有。昭和三年興信録・所得税に柴松重・七十五円、柴虎蔵・三十一円あり。八戸現存す。

 それに対して熊谷文化財日記には「塩」についてシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明している。ただ「塩」と「柴」が同じ意味であるという見解は一致している。
 どちらの説明にしろ、この地域は4世紀頃から武蔵国では早い時期に人々が住み始め、谷津田や和田川、滑川の周辺の沖積地は古くから開墾され、豊かな地域だったことは遺跡等の発掘によって証明されている事実は動かいようはない。



          社殿右手にあった境内社(写真左側)と大黒天の石碑(同右)
         
 埼玉県道11号線に沿って塩八幡神社は鎮座している。この県道は交通量が多いが、それでも出雲乃伊波比神社の雰囲気を維持しながらの参拝だったので、この神社にも何か懐かしさを感じさせてくれる何かがあった。また塩八幡神社の手前には塩集会所があり、神社の奥にはゲートボール場もあり、地域のコミュニティの場としてこの神社が存在していているようで、そこには今では無くなりつつある日本の古き原風景にも重なる。都会ではなかなか見られない、「どこかで見た懐かしい風景」がここには存在した。

 そしてこの心地よい空気に触れながら「塩古墳群」にいよいよ向かう。神社から本当に目と鼻の位置にそれはある。


塩古墳群
地図リンク
 塩八幡から県道を渡って南に入った丘陵地帯に広がるのが、埼玉県指定史跡の「塩古墳群で、古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。
                 
埼玉県指定文化財   
塩古墳群

 塩古墳群は滑川沖積地を望む比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布しています。
この古墳群は、前方後方墳2基のほか、方墳26基・円墳8基が残されており、古墳時代前期(四世紀中葉~後半)の土器等の遺物が出土しています。主墳の2基はいずれも、前方後方墳で、北側の第1号墳は、全長約35m、高さは前方部で1.7m後方部で5.9mを測り、長軸北20度西を示しています。南側の第2号墳は、全長約30m高さは前方部で2.2m、後方部で5.5mを測ります。
これらの古墳群は、極めて密集しており、保存状態も良好で、北武蔵地方の代表的な前期古墳群として貴重なものです。
 昭和35年3月1日埼玉県指定文化財となっています。
 平成15年3月  熊谷市教育委員会


       
                     道路沿いにある塩古墳群案内板 

 塩古墳群は、比企丘陵北端の支丘上の山林内に分布し、保存状態も良好で、近辺にある野原古墳群同様、武蔵国の初期の古墳形態として非常に重要な遺跡であろう。
 
 また方墳や前方後方墳の密集は、弥生時代の方形周溝墓の流れを引き継ぐのものと考えられ、埼玉県内の古墳の発生と発展の過程を考える上で非常に重要な古墳群であるという。

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野原八幡神社、野原古墳群

 熊谷市野原地区に鎮座している野原八幡神社は、式内社出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社と共に和田川の東西のラインで繋がっているような不思議な位置関係を形成している。
 所在地     熊谷市野原66
 御祭神     誉田別命
 社  格     旧村社
 例  祭     不明

       
地図リンク
 野原八幡神社は野原西部集会所に隣接して鎮座している。平成9年に再建した新しい社殿は一面に玉砂利の敷かれており境内は非常に綺麗に整備され、神社自体は決して広くはないが開放感があり、鎮守の杜の中に白壁の拝殿が映える、すっきりとして清潔感のある神社である。社殿の左側には境内社や庚申塔も多数祀られている。
           
 和田川が東西に流れている関係か、出雲乃伊波比神社、須賀広八幡神社同様野原八幡神社も和田川北岸の台地上に鎮座し、社殿は南向きである。
 
八幡神社と野原古墳群    
 所在地 熊谷市 野原

 八幡神社の祭神は誉田別命で、御神体は神鏡と奇石である。
創立年代は不明であるが、寛永20年(1643年)、時の領主稲垣安芸守の崇敬厚く、侍臣田村茂兵衛に命じて社殿の造営に当たらせたことが社殿の棟札に残っている。また、宝暦11年(1761年)、時の領主前田半十郎が家臣、内貴与左衛門をして本殿(内宮)の工事を監督させたことも別の棟札に記されている。前田氏からは、明治維新に至るまで毎年神社への御供米一斗二升が献納されていたという。(中略)
 なお、八幡神社裏から西方にかけて、野原古墳群と呼ばれる古墳群が分布している。(中略)これらの古墳の築造は、6世紀後半から7世紀前半にかけて行われていたといわれ、この地方にかなりの勢力を持った豪族が居住していたことを物語っている。
                                                                                        

  平成11年12月    埼玉県
                                                      案内板より引用

        
                             拝殿、奥に本殿
 野原八幡神社の左側、正確には西側には境内社が多数祀られている
            
                        社殿西側に祀られている境内社
   
       三峯神社(左)と雷電神社(右)           三峯神社の左側にある鹿島神社
 
    左から天満天神社、稲荷神社、山之神社       鹿島神社と合社との間に小さな石祠があったが                
                      愛宕神社                                                     こちらは詳細不明)

 ところでこの野原八幡神社の社殿の裏山の西方に野原古墳群がある。この遺跡は埼玉県選定重要遺跡に指定されている。神社西側にある庚申塔や青面金剛像の奥にあるようだ。
                         
                                                                 庚申塔群

野原古墳群(のはらこふんぐん)は、埼玉県熊谷市にある古墳群。和田川に南面する台地上の広い範囲にかつて30基以上の古墳が分布していたが、現在23基が山林の中に所在する。1962年(昭和37年)、採土工事に伴い野原古墳の発掘調査が行われた。1964年(昭和39年)には立正大学が円墳8基の発掘調査を実施した。なお、野原古墳で発見された勾玉や耳環などが1957年(昭和32年)10月18日付けで江南町(当時)指定考古資料に指定された。
                                                    ウィキペディア参照

                         
                      埼玉県選定重要遺跡に指定されている割には放置されているような状態だ。


 野原八幡神社が鎮座する「野原」という地名はいかにも抽象的であるが、考えてみたら不思議な地名だ。「大辞泉」にてその意味を調べると

 野原(の-はら) (「のばら」とも)あたり一面に草が生えている、広い平地。原。のっぱら。

 この地域は確かに「あたり一面草が生えている」場所であり、「原、のっぱら」ではあるが「広い平地」」ではない。和田川が形成した沖積地は両側には丘陵地によって遮られ、幅が狭く、細長い平地が続いているのであり、「野原」という地名は決して適当ではない。つまり、地形上からついた名前ではないということだ。ではこの「野原」とはどんな意味があるのか。

 野原は野+原の組み合わせでできた地名であり、本来の地名は「野」であったのではないか。

野 ノ 
 奈良・奈羅・那曷(なか)のナは国の意味で韓国(辛国)渡来人集落を称す。ナカ参照。奈は乃(な)と書き、古事記仁徳天皇条に「あをによし乃楽の谷に」と。日本書紀天武天皇元年条に壬申の乱に際して、吉野方の将軍大伴吹負は「乃楽山」に陣を置いたとあり。大和国奈良は乃楽と記した。乃(な)は野(な)とも書き、日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり。和名抄伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓ず。後の田辺村なり。乃(な)は、ノに転訛して佳字の野(の)を用いる。埼玉郡野村(行田市野)は、当村のみ渡庄を唱え、韓人の渡来地より名付く。


野原 ノハラ 
 乃(な)、野(な)は古代朝鮮語で国の意味、ノに転訛して野(の)の佳字を用いる。豊前国風土記逸文に「田河郡鹿春郷。河原村を、今、鹿春(かはる)の郷と謂ふ。昔は、新羅の国の神、自から渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち名づけ鹿春の神と曰ひき」と見ゆ。新羅渡来人の多い九州地方では、原(はら)をハル、バルと云い、村・集落の意味なり。韓国(辛国)渡来人集落を野原と称す。男衾郡野原村(江南町)あり。

       
                  野原八幡神社から和田川周辺の風景を撮影。                             


         
 この地域は「塩」、「柴」等一字名の字が近隣に多く存在する。地名の起源において基本的な主語は一字であり、そこから時代が下るにつれて人口の増加や他地域との交流によって現在の二文字が主流となる地名が発生したと筆者は常々考えている仮説であるが、その仮説で考えると、野原という地名は元来「野」ではなかったのではないか。また須賀広八幡神社が鎮座する「須賀広」も元々「須賀=須の国=須」であり、出雲乃伊波比神社が鎮座する「板井」も「板」が元の字ではなかったのだろうか。



 

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