古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 ・所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 ・御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 ・社 格   旧村社
 ・例 祭   春季祭 (旧暦)215

                
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にしじょう」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

               
             埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

               
             鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、『大里郡神社誌』によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

               
                       拝 殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する自然堤防のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
   
                           


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





拍手[2回]

拍手[2回]

" dc:identifier="http://kagura.wa-syo-ku.com/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E8%A5%BF%E5%9F%8E%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%8D%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE" /> -->

上奈良豊布都神社

  鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。平 景政ともいう。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。
 『尊卑分脈』による系譜では平良兼の孫、村岡五郎忠通の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、影(景)成の子。鎌倉権守景成の代から相模国大庭御厨(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称したという。
 御霊神社は埼玉県各地に存在しているが、鎌倉権五郎景政を御祭神とした御霊神社は上奈良地区に鎮座する当社のほか、東松山市正代地区、熊谷市高本地区他飯能市や小鹿野町両神地区に鎮座している程度。場所的にはそれぞれ離れているが、何か共通性があるのだろうか。 

         
                              ・所在地 埼玉県熊谷市上奈良(字御霊)1286
              ・ご祭神 武甕槌命
              ・社 挌 旧上奈良村鎮守・旧村社
              ・例祭等 節分祭 23日 春祭り 415日 夏祭り 715
                   秋祭り 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1817053,139.3591742,16.29z?hl=ja&entry=ttu  
 熊谷市上奈良地区に鎮座する豊布都神社の御祭神は武甕槌命であるが、嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎を祀っていたという。創建は慶安2年(1649年)。当時荒川は上奈良地区近郊に流れ、その河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした、と一の鳥居前の案内板では創建に関しての記述をしている。
                         
                 北側にある一の鳥居。その傍に社号標と共に案内板がある。
             
 豊布都神社(ごりょうさま)  熊谷市上奈良1286
 御由緒(歴史)
 当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
 ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
 往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
 本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
 老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(中略)
                                                                案内板より引用

 境内は狭いからか北側にある一の鳥居から途中直角に曲がり二の鳥居があり、その扁額には「御霊大明神」と刻まれている。やはり昔は鎌倉権五郎を祀る「御霊社」だったのだ。
             
               二の鳥居に「御霊宮大明神」と刻まれた社号額(写真左・右)
 
           東向きにある社殿参道               社殿の右側にある「本殿末社修復記念碑」
                
                                拝   殿
豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)
 利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
 当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
 本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
 明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する 
                                                          「埼玉の神社より引用                              
               
                            拝殿に掲げてある扁額

 ところで話は横道に逸れるが、この奈良地区は昔から湧水が豊富だったようで、律令時代の和銅年間に大量の涌泉が湧き出て、六百余町の壮大な水田を造成させたまさに水の宝庫という地であった。近隣には水に関連した地名である「玉井」地区もあるし、さらに7世紀以前からの祭祀遺跡である西別府祭祀遺跡にも御手洗池と書かれた湧水の源泉池が現在でもあり、一帯が湧水が豊富に存在していたことを物語っている。
 また
西別府祭祀遺跡のすぐ西側には幡羅郡の郡衙跡である幡羅遺跡もあり、幡羅郡の中心地帯にこの奈良地区も含まれていたと思われる。しかもこの奈良地区の中心を南北に縦断する道こそ東山道武蔵路であり、筆者の身勝手な想像ではあるが、地形上かなり重要の地ではなかったのではないだろうか。
             
                                 本  殿
 
       社殿の右側にある境内社 八幡神社            八幡神社の奥にある境内社 八坂社
 
                八坂社の奥にある石祠(手前)                       社殿の左側にある琴平神社
 上奈良村 御霊社
 村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
 鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
 末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅
                                           『新編武蔵風土記稿』巻之二百二十九より引用

        
                手水舎の近くにある御神木           一の鳥居の近くにある桜の大木

拍手[0回]


柴八幡神社

  熊谷市の元江南町地区には、「柴」という一風変わった地区が存在している。この「柴」地区の近隣には有名な「塩古墳群」がある「塩」地区もある。
 この「柴」という地域は、旧江南町役場の位置する場所から旧川本町に至る、東西に細長い地域で、『新編武蔵風土記稿 柴村』には「東西二八町・南北三町」と記載され、現在の行政区画にも昔の名残が反映されている極端に東西が長い地域である。
 ところで、地名辞典などによると「柴(シバ)」は千燥地、地力のやせた土地焼畑のことなどの説明が見え、江戸時代の地誌に記述された「柴村」の説明に通づる部分が多く、妥当なところと思われる。因みに地誌には「桑、麦に適さず、時々干燥のため作物が育たない」とある。
 また、嘗て柴村は「篠場庄」に属していたことが、江戸時代に編纂された地理誌である『新編武蔵風土記稿』から知ることができ、この「篠場(シノバ)」から「柴(シバ)」へ移り変わったかもしれない。                                                                       
 
            
                     ・所在地 埼玉県熊谷市柴164 
                     ・ご祭神 誉田別命
                     ・社 格 旧柴村鎮守・旧村社
                     ・例祭等 4月第2日曜日・春の日待ち、10月第2日曜日・秋の日待ち   
        

 柴八幡神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右手に飯玉神社があり、その先の千代交差点から約500m位先を右折すると道路沿いで右側にこの社は鎮座している。残念ながら専用駐車場はなく、路上駐車して急遽参拝を行った。
          
                                   柴八幡神社正面                  境内参道の両側には大杉が聳え立つ。
                              
                            柴八幡j神社参道
 社の規模はさほど大きくはないが、木々に囲まれた静かな佇まいでどことなく神聖な雰囲気。参道の両側には荒川の川石を使用したのだろうか、この造りは洪水対策の物としか考えられない。参道の先の社殿もやはり高く積み上げている。荒川は以前この社の近隣に流れていたのだろうか。
 
        参道の途中、左側にある案内板              案内板の並びにある境内社
                                           天満天神社、大山祇神社
 八幡神社  所在地 熊谷市 柴
 本社の祭神は誉田別命で御母君は三韓征伐で有名な神功皇后である。
 本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で末社が二社合祀されている。
 いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中といい、鎌倉を中心に関東各地に建立された八幡社の一つである。
 明治維新までは、現在地から西方300メートルに位置し、数百年を経た松、杉の老樹生い茂り、かつ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられている。
 戦前は武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣で賑わった。
 例祭は、春の日待ちが四月の第二日曜日、秋の日待ちが十月の第二日曜日である。(以下略)
                                                            案内板より引用

             
                                    拝  殿
 八幡神社 江南町柴(柴字西)
 県の「ふるさと歩道」にも指定されている当社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成しており、散策する人々の憩いの場として親しまれている。

 鎮座地は、村の西外れにあったが、享保年間(一七一六-三六)、村人の参詣の便に供するため村の中央の現在地に移された。その跡地は、いまだに「元八幡」と呼ばれて大切に保存されでいる。
 創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(一一九〇-九九)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれる。
 しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当社は同家の祀った神社であった可能性もある。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺ほどのこぢんまりとしたものである。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(一七五三)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われた。
 なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことがわかる。
                                                       「埼玉の神社」より引用
 
                                   
                                    本  殿
  柴八幡神社が鎮座する熊谷市旧江南町は熊谷市と荒川を挟んで南側に位置し、荒川によって創り出された台地と沃野からなる江南地区は豊かな自然に恵まれ、旧石器時代や縄文時代の遺跡や遺物が多く発掘されていて、武蔵国にあって早くから発達していた地域の一つであった。埼玉県北部の代表的な古式古墳群(古墳時代前期群集墳)である塩古墳群を始め、塩古墳群の数キロ東部には20基以上の円墳からなる野原古墳群があり、そこからは男女1対の踊る埴輪(東京国立博物館蔵)が出土した。江南地域には合わせて90基以上の古墳が現存している。
 柴八幡神社は明治維新までは、現在地から西方300mに位置していたという。その地域は字名で寺内と言われているが、この地には
嘗て8世紀半ばに創建され、10世紀後半まで存続したと推定されている古代寺院の遺跡がある。寺内古代寺院跡と言われる。平成3年9月より平成4年12月にかけて、埼玉県江南町教育委員会および江南町千代(せんだい)遺跡群発掘調査会によって調査された。この寺内古代寺院の正式名称(法号)は解っていないが、「花寺」と墨書された土器が出土していることから、通称で「花寺」と呼ばれている。
 この寺院跡は調査の結果、東辺約170m、西辺約200m、北辺約570mの溝(上面幅6m、深さ1.2m)に区画され、国分寺に匹敵する非常に大規模な寺院跡であることが確認された。
            
                             静かな境内の一風景
 この寺院の創建に関わる氏族が壬生吉志氏である。壬生吉志氏は、推古天皇の六〇七年に定められた皇室の皇子皇女養育のための壬生部の管理をしていて、古代男衾郡の開発にあたり郡長官となっていた。
 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻呂(安閑二年紀、難波吉士)―鳥養―葛麻呂(推古十五年二月、為壬生部、壬生吉士)―諸手―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年四月、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主。弟眞成)―貞継(三田領主)―貞盛(谷保県主。延喜十五年多摩郡栗原郷に住す)」と記述され、また類聚三代格という書物にも承和八年(841)、武蔵国男衾郡榎津郷に住む壬生吉志福正という人が息子二人の生涯納める調と庸という税をまとめて納めたいと申請し、許可されたという記事があり、また同12年(845)に武蔵国分寺の七重塔再建を申し出て認められている。
 壬生吉士福正は仏教に対し深い信仰心を持っていたかどうかは不明で、ある意味政治的なパフォーマンスとも考えられるが、少なくとも七重塔再建費用や二人の税金を納める費用以上の資産を持ち合わせていた人物であったことは書物等の記述で明らかだ。福正と同時期に存在したことが確認されている寺内古代寺院跡は、寺内古代寺院の建立に深く関わりがあったと推測することができる。

 しかし、この「柴」地域に嘗て、武蔵国国分寺に匹敵するといわれた寺内遺跡、通称花寺が存在していたことは正直言って驚きだ。だからこそ社の散策はやめられないことでもあるのだが。

拍手[5回]


大塚熊野神社

 熊谷市・大塚地域は、熊谷市北東部に位置する。東・南で下川上、西で上川上、北で上中条・行田市南河原に隣接する。埼玉県道303号弥藤吾行田線が西端を縦断、埼玉県道178号北河原熊谷線が横断するが、鉄道や国道は通過していない。現在では、『熊谷スポーツ文化公園』が大塚地域西端を南北に縦断している埼玉県道303号弥藤吾行田線を挟んで東側に隣接していて、場所確認として分かりやすい。
 もとは江戸期より存在した大塚村であった。中条古墳群のひとつである大塚古墳が地名の起源と言われている。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市大塚365
             ・御祭神 熊野夫須美命 速玉男命 家都御子神
             ・社 挌 旧大塚村鎮守・旧村社
             ・例祭等 不明
 大塚熊野神社は熊谷スポーツ公園の東側にあり、国道17号バイパスを熊谷方面に進み、途中肥塚交差点を左折、其のまま真っ直ぐ1km程行くと右手に赤城神社のあるT字路の交差点になるので、そこを右折しそのまま道なりに5分位進むと大塚熊野神社に到着する。ただ社号標石がある正面ではないので、今回は社号標の撮影はできず、一の鳥居から参拝を行った。
 
           大塚熊野神社一の鳥居                  そのすぐ先にある二の鳥居
            
                   大塚熊野神社は大塚古墳の墳頂に鎮座している。
 大塚古墳    熊谷市指定文化財
 指定年月日  昭和三十四年十一月三日
 所 在 地    熊谷市大字大塚
 大塚古墳は、古墳時代後期(七世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されています。
 墳丘は、直径約五九m、高さ一・二mの基壇上に直径約三五m高さ四m以上の円丘がのった形です。全体で、五・二m以上の高さになると考えられます。
 現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
 二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されています。
 石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました。
                                                             案内板より引用
           
      案内板の手前には大塚古墳の石室、天井部に使用されたものと思われる石材がある。
 
   古墳の頂上、また大塚熊野神社に通じる参道           参道の途中にある境内社
  ちなみに境内社は宇賀神社と豊蚕神社、塞神社、三峰社、榛名社、天神社の六社が存在するそうだ。
           
                   大塚古墳墳頂に鎮座する大塚熊野神社拝殿
 熊野神社  熊谷市大塚二六六(大塚字杉戸田)
 大塚の地名は、その地内に大きな古墳があることに由来する。この古墳は、七世紀初頭に造られたもので、その出土品から当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されている。直径五九メートル、高さ一・二メートルの基壇上に、直径三五メートル、高さ四メートルの半円が載った形をとる市内最大の円墳で、中には横穴式石室が築かれている。当社は、この墳丘上にあり、古墳の下には江戸時代に別当であった龍昌寺がある。以前は、周りに民家などがなかったのでかなり遠方からでもその堂々とした社を見ることができたが、近年では墳丘の周囲にも建物が増えたため、参道の正面からでもその全容が見られないのは残念である。
 祭神は、熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神のいわゆる熊野三神である。『風土記稿』の記述から、当社は江戸時代には既に大塚の鎮守として祀られていたことが知られるが、創建の年代は明らかでなく、古墳の被葬者との関係も分かっていない。
 神仏分離の後は、明治五年に村社になり、同四十二年十二月(『明細傾』では四十一年)には地内に鎮座していた猿田彦神社・宇賀神社・豊蚕神社・塞神社の四社を合祀した。ただし、宇賀神社は現在も旧地に社殿が残っており、毎年四月に農事組合の人々が中心になって祭りを行っている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

        
                                              西側道路沿いから大塚熊野神社を撮影。
                                中央石燈籠そばの石には猿田彦大神の文字が彫られている。

拍手[1回]


上川上伊弉諾神社

  大里郡神社誌には「上川上村熊野社神職宮田氏の系図に依れば、建長四年宗尊親王・鎌倉下向、征夷大将軍に任ぜられ、北条高宗の隙を伺い、文永十年潜かに御帰洛に及べり。当時、宮田太郎貞時・親王に供奉したりしが、後帰国するや北条高宗を恐れ、武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社は代々平家崇敬の神なりとの由緒によりて、当社の社守となると有り。下総国香取郡佐原城主義連の後胤・常陸茨城竹原宮田郷の住人宮田太郎貞明・文永年中宗尊親王に御供し上洛後、帰国して川上郷に住するに及び、熊野三社は平家代々崇敬の神なり、吾身は平氏の後胤なりとて、之に奉仕せりと爾来世襲神職として奉仕すること二十二代宮田浪江に至る」とある。但し文永十年の執権は北条時宗であり、北条高宗なる人物が存在していたかどうかは不明だ。
 ここに記されている武蔵国崎玉郡川上郷鎮座熊野三社とは、当社上川上伊弉諾神社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれているという。

                 
              ・所在地 埼玉県熊谷市上川上36
              ・ご祭神 伊弉諾命 伊弉冉命
              ・社 挌 旧上川上村鎮守・旧村社
              ・例祭等 祈年祭 327日 例祭 88日 新嘗祭 1127
                     *例祭日は大里郡神社誌を参照
  上川上伊弉諾神社は国道17号バイパスを熊谷方面に向かい、上之交差点を左折し約1km行くと十字路となるので、そこを右折するとすぐ右側にこの社の社叢が見える。大体熊谷陸上競技場の南側で、上之村(大雷)神社の北側に位置している社だ。
 社の東側には十二所集会所があり、そこには駐車スペースも確保されていて、そこに停めて参拝を行った。
             
                               上川上伊弉諾神社正面
 
    鳥居近くには如意輪観音石像       社号標柱の前には石祠・庚申塔が並ぶ。
      と
石塔が祀られている。              石祠は詳細不明
                綺麗に整備されている鳥居周辺         参道の右側には集会所があり、先にはまた神橋
           
                                                      神橋とその先には社殿がある。 
                         社殿の周りにはこんもりとした社叢が社を囲むかのように一面に広がる。
 
        神橋を渡るとすぐ右手側に稲荷社と石祠            稲荷社の並びにある石碑群
 
                    石碑群の奥にある琴平社                                      石碑群の反対側には神興庫
           
                                                                      拝 殿
           
                               本  殿
           
 伊弉諾神社  熊谷市上川上三六
 当社の創建は、中世、紀伊国熊野三所権現を勧請したことによると伝える。この伝承に基づくものであろうか、当社と隣村の下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社が総称して「熊野三所権現」と呼ばれる。「宮田氏家系図」によると、鎌倉期、征夷大将軍に任じられた宗尊親王が執権である北条氏の隙を見て密かに帰京したことから、この供をした平家ゆかりの宮田太郎貞明は、北条氏の追及を恐れてこの地に逃れ、当社の宮守りになった。この宮田家は『風土記稿』に「神職宮田丹波吉田家の配下なり」と載り、明治初期まで二二代にわたり当社の祭祀に専念した。その後、親類に当たる茂木家がこれを継ぎ、現在に至っている。 
 本殿には、享保九年(一七二四)銘の金幣のほかに、嘉永三年(一八五〇)の棟札が納められており、これには「奉再興大隅流唯一権現作御宮一宇敬御造営」とあり、番匠に当村の稲村徳次郎・大嶋夏五郎の名が見られる。また、拝殿に掛かる嘉永五年(一八五二)の「勧進相撲」の絵馬は、当社修築の際に江戸の二所ケ関部屋の力士を当地に招いて行った相撲興行を記念して奉納されたもので、見物人の生き生きとした姿が描かれており興味深い。なお、この翌年の安政二年(一八五五)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

  ここに記されている「大隅流」とは神社仏閣などの楼閣建築を飾る装飾彫刻でいわゆる「宮彫」といい、安土桃山時代から欄間などで見られるようになり、江戸前期で確立されたものである。大隅流は平之内大隅守がおこした流派で、幕府御用として、日光東照宮や湯島の聖堂などの造営にあたった。宮彫として流派を完成させたのはこの大隅流が最初であり、完成された宮彫の原点ともいう。
  また上川上伊弉諾神社には上記「相撲絵馬2枚」(昭和45年11月3日指定)の他に「黒馬図」も昭和31年11月3日に熊谷市に有形文化財の指定を受けている。
 
                    本殿左奥にある八幡社                   同じく右奥には竈社


                          
                             社殿右側にある御神木

拍手[4回]