古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

代八幡神社

 国道407号と17号熊谷バイパスが交差する地域を「代」という。
「代」という地名の由来として一般的に言われている事は低地から仰ぎ見て高地に広がる平担地を意味しているといい、土地の形状・特性を表わす地名と考えられている。
 荒川はその名称通り、「荒ぶる川」との異名を持ち、有史以来,多くの水害を被っていて、扇状地内において河道変遷を繰り返し(一説では8通りの旧河道が考えられるとしている),現在の自然堤防と旧河道を形成した。また荒川扇状地は勾配が 1/300 と比較的緩やかであるため,自然堤防が発達しているのが特徴であり、形状も平地の自然堤防帯に見られるような細長いものとは限らず,楕円や四角形など様々な平面形を持っているという。
 代八幡神社はその昔の自然堤防帯上の、微高地の一角に鎮座している。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市代1343
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 挌 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 219日 例祭 1015日 新嘗祭 1124
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1730434,139.363084,17z?hl=ja&entry=ttu  
 代八幡神社は熊谷市役所の北西約3㎞の国道17号線熊谷バイパスの直ぐ南側に鎮座していて、くまぴあ交差点を左折し、最初の信号である「くまぴあ前」交差点を右折、私立学校給食センターを左側に見ながらさらに直進すると左側に八幡神社の社叢が見えてくる。
 鳥居前に車が止められるだけのスペースが有るので、そこに駐車してから参拝を行った。
               
                 
鳥居前から境内を撮影
       
         鳥居を過ぎる手前で左側に
ケヤキの大木があり、その奥
            にはイチョウの大木が並ぶように聳え立つ。
        
                     拝 殿
 八幡大神(代)の由緒
 八幡神社  熊谷市代一三四三
 当社の由緒について、次のような伝承がある。鎌倉時代、上州岩松に土着した清和源氏の流れをくむ新田義重は、源氏の氏神である八幡神を山城国石清水八幡宮から勧請した。その後、新田家から分家し、里見家を興した義重の弟から一五代目に当たる里見義次が、天正六年(一五七八)の上州大間々要害山の戦に敗れ、武州代村(当地)に落ち延びた。代村に土着した義次は同八年(一五八〇)に郷里の岩松から八幡宮を分霊して当社を創建した。下って、慶長十八年(一六一三)行者三海を開山として顕松院を建立し、当社の別当とした。これより同院は九世にわたり、当社の祭祀に専念したが、文化四年(一八〇七)に廃寺となるに至った。このため、里見助左衛門が祀職となるべく上京し、白川家の許状を得、当社の社家となったという。
 現在、拝殿に掛かる文化二年(一八〇五)惣氏子中奉納の「新田義貞」と文化十二年(一八一五)当所里見氏奉納の「新田義貞鎌倉攻め」を描いた二枚の絵馬は、右の言い伝えにちなむものであろう。 
『明細帳』によると、明治五年に村社となり同四十一年に代の地内にあった熊野神社・磯崎社・八坂神社・諏訪神社の四社を合祀した。
なお、祀職は、昭和三十七年まで先の里見家が務めていたが、その後、古宮神社社家の茂木家が継いで、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用                                

        
                  境内社諏訪社・八坂社

 荒川扇状地(あらかわせんじょうち)は、埼玉県の寄居町を中心とした巨大な扇状地で、その中央には荒川が流れている。熊谷市、深谷市が扇端にあたり、数多くの勇水があり、湖沼が発達している。近年水量が減少している。なお、扇頂から約8km下流から扇状地中に河岸段丘を生じ、植松橋付近(深谷市川本)を扇頂として大芦橋(鴻巣市吹上)付近を扇端とする新たな扇状地形が形成されていて、これを「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも)と称している。(Wikipedia参照) 
 嘗て荒川扇状地では有史以来,多くの水害を被ってきており,また江戸時代に行われた荒川の西遷事業を皮切りに,嘉永2年水害や明治43年水害などで甚大な被害を受けてきた。現在でも熊谷市街地に存在する水塚や,軒先に小舟を下げている民家が残存することから,この地域がいかに水害と近い存在であるかが窺える。
 因みに縄文時代,弥生時代,そして古墳時代の集落と自然堤防との関係は,奈良・平安時代に見られる遺跡と自然堤防の関係に一致していると言われ、扇状地周辺に見られる住居位置の割合も,旧石器時代を除いて大きな変化はないとの事だ。これにより,時代や生活様式に関わりなく自然堤防は集落の形成に大きく関わっていたことが分かる。
       
                 境内の一風景を望む

 熊谷市は、埼玉県の北部、荒川扇状地の東端に位置し、地形的に見ても市内に多くの自然堤防などの微地形が存在し,現在でも道路や宅地などへの土地利用から目視でも確認できる。
 荒川扇状地内において,集落の遺跡は自然堤防上に多く存在している。自然堤防が水害を軽減する効果を持っていて、例え自然堤防は0.5mほどの微高地であっても、これらを上手に活用し,また,堤内地の微地形を考慮に入れることで,より経済的かつ効果的な氾濫水の制御を行える可能性が大であることも、遺跡の発掘等により少しずつ分かっている。
 但し沖積地の全ての遺跡が自然堤防上で発掘されていたわけではなく,また,全ての自然堤防で遺跡が発掘されていたわけでもない。自然堤防と集落がどのような関係にあるか,更なる研究が必要であり、今後,自然堤防の治水に与える今日的役割について、詳しく調べていく予定でもある。


     

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飯塚太田神社

太田神社は旧大田村の総鎮守である。大正四年村民の総意により二十一郷社を合祀して此の聖地に勧請鎮座し奉った。爾来地区の守護神とし敬神崇祖の象徴として氏子の信仰篤く遍く神徳を施して今日に到った。
 創建以来八十年にたらんとする歳月と風雪を経て、社殿及び付属設備は老化損傷を来し予て改修を要望されていた。偶々本年は皇太子殿下御成婚の好機に際会し奉祝記念として屋根替工事等を実施するの議が盛上り氏子総代区長ら有志を以て改修委員会を組織し、直ちにその趣意を各区に伝え早急に全戸の理解と協讃を得て壱千二百余万円の寄進を申し受け着工の運びとなった、役員を始め氏子及び工事担当者の熱意と努力により短期間に見事な改修事業を完成し聳える甍の壮麗な社殿を中心に神苑諸施設も整然と修復され氏子の心に宿る尊厳と崇敬の至情が護持され高揚された事は実に意義深く慶賀の至りである。
 茲に記念碑を建て社殿修理の経緯を誌し神社と地区民の弥栄を祈り永く後昆も傳える。
 平成五年六月吉日
                            「太田神社改修事業記念碑」より引用

        
                            ・所在地 埼玉県熊谷市飯塚1431
                            ・ご祭神 大日孁貴命 木花開耶姫命 菅原道真公 別雷命 21 
                            ・社 格 旧大田村総鎮守・旧村社
              ・例祭等 1013 
  地図 https://www.google.com/maps/@36.2154096,139.3508295,16.17z?hl=ja&entry=ttu
  飯塚太田神社は国道407号を熊谷警察署交差点を北上し、「道の駅 めぬま」の交差点を左折し、暫く道なりに進むと丁字路に達する。その丁字路を右方向に進み、最初の路地を左折すると正面に飯塚太田神社の社葬が見えてくる。位置的には太田小学校の南西方向なので、その小学校を目印となる。
 周辺には適当な駐車場はないようなので、路上駐車し、急ぎ参拝を行う。  
       道路沿いにある社号標         社号標の先に真っ直ぐな参道が見える
「大里郡神社誌」によれば、大正三年六月三十日に大里郡太田村飯塚字飯塚前に817坪を新設し、社殿を新設し、全村にある大小神社を移設・合祀し、社名も太田神社としたとのこと。社としての歴史は決して古くはない。
 
      参道左側には神楽殿       参道沿いにある「太田神社改修事業記念石碑」
        
                                        拝 殿
 飯塚太田神社の地名「太田」の由来として、嘗てこの地には「太田氏」一族が移住していたという。太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む一派である猪俣党の末裔とも、旧埼玉郡北部や大里郡にその勢力を誇った私市党の後裔、また清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも、はたまた藤原秀郷流太田氏の末とも言われていて、その出自ははっきりしない。
 室町時代関東管領上杉扇谷氏の家宰であった太田道灌は通説では摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖と言われているが、一説によるとこの武蔵国大里郡太田村から発祥した猪俣党太田氏の後裔ともいわれている。
        

                                        本 殿
 猪俣党太田氏は幡羅郡太田村より起こったという。大里郡神社誌に「幡羅郡太田村に字高城城跡あり、太田六郎宗成が居住すと云ふ」と記述されている。
 猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり、武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族である。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里地域にその一党は勢力を伸ばし土着したと考えられる。
 
                        社殿の奥にある合祀社群(写真左、右)
「大里郡神社誌」によると、飯塚太田神社に合祀された二十一社の内の二社の神職は「天田氏」、「大井氏」であったことが記述されている。
・天田氏 山城国醍醐三宝院の修験なり富瑠輪山大乗院と号し(中略)、代々富瑠輪明神の別当たり。当山修験にて維新後復飾して天田貢内と改め神職となり、大正三年太田神社の社掌を拝命す。
・大井氏 大重院と号し、富山派の修験なり崎玉郡酒零村酒零寺の配下に属す(中略)。明治維新後復職して大井中と改め諏訪社の神職たりしが大正四年天田氏の死亡後太田神社の社掌を拝命す。
        
                  拝殿からの眺め
 富瑠輪神社の由来は要約すると『嘗て日本武尊が東征の折、この地を過ぎた時に「御保呂」を置かせたのを村人がこの「御保呂」を祀り、「保呂輪宮」と敬祭したのが始まりで、後年「富瑠輪明神」と改めた』と伝えている。つまり富瑠輪とは「保呂輪」=「ほろわ」であり、嘗て戦国時代に常陸の豪族佐竹氏が深く信仰したようで、関ケ原合戦後出羽に転封になった後は、出羽国保呂羽波宇志別神社を藩主が参詣し、これをまた厚く保護し信仰したという。
 更には関東・東北中心に数十の同名の「ほろわ」神社が存在する。この「ほろわ」神社は本来の信仰形態は山岳信仰であったようだが、羽生市駅の北側には「保呂輪堂」という名の古墳もあり、時代が下り、地方に広がった過程で本来の信仰形態から違った方向で信仰されたものと考えられる。
       
             入口付近にある「合祀記念碑」     その傍らにある「塞神」



 

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西城大天獏神社


熊谷市の北側に位置する妻沼地区一帯は平安時代、長井庄と言われる荘園が広がり、平安時代後期に活躍した藤原北家斎藤別当実盛の本拠地でもある。
 斎藤氏は、中世の武家家門。藤原氏の庶流を祖とすると思われるが確実な根拠はない
。一説では藤原北家・鎮守府将軍藤原利仁の流れを汲む斎藤氏一族と言われ、子・藤原叙用(のぶもち)が伊勢神宮の斎宮(さいぐうのかみ)を務めた際に、「斎藤(さいとう/斎宮頭の藤原)」を名乗った事が始まりとされる。当時伊勢神宮の斎宮頭(さいぐうのかみ)は名誉ある官職だった為に、多くの利仁流藤原氏が叙用(のぶもち)にあやかった為に斎藤(さいとう)を名乗るようになり、斎藤氏は平安時代末から主として越前国を本拠地にして主に北国に栄え、平安時代末から武蔵国など各地に移住して繁栄した。加賀斎藤氏,疋田斎藤氏,鏡斎藤氏,吉原斎藤氏,河合斎藤氏,長井斎藤氏,勢多斎藤氏,美濃斎藤氏などが特に有名である。
 長井斎藤氏は源頼義に従い前九年の役の合戦にて齋藤実遠が奥州で手柄を立て、長井庄を恩賞として賜ったのが始まりという。この長井庄は豊富な福川の水を利用して拓いた土地であり、北側には利根川もあり、交通や水運の拠点でもあった。
 当初、この地は西城があり、成田氏の本拠地があったらしい。当主は西城城主であり武蔵国司成田助高。斎藤氏が長井庄を賜り、着任に際しては争いもなく直ちに城を明け渡して東側の成田の地に転出したという。その後斎藤氏は地形上領内支配に適している自然堤防上高台にある広大な大我井(現聖天院)の地に移転したとのことだ。

 ・所在地  埼玉県熊谷市大字西城字本郷2
 ・御祭神  大山祇命、豊受比
賣命、市杵島姫命
 ・社 格   旧村社
 ・例 祭   春季祭 (旧暦)215

                
 西城大天縛神社の鎮座する熊谷市妻沼地区西城は、国道407号を北上し、西野交差点を右折する。そして埼玉県道263号弁財深谷線を東方向道なりに約2㎞程真っ直ぐ進むと、左側道沿いにこの社は鎮座する。ちなみに「西城」と書いて「にしじょう」と読む。
 地形を見ると、当社は西城地区の東端に位置し、すぐ北側には福川が県道に並行して流れている。その自然堤防上に鎮座している模様。
 
 今では辺り一面長閑な田園風景が続く静かな農村地帯だが、「西城」地域の歴史は意外と古い。西城神社のすぐ南側には嘗て「西城城」が存在し、 平安中期の天禄年間(970年~973年)に藤原左近衛少将義孝が居館を築いたといわれているが、実際に城を築いたのは義孝の子忠基であるとか、その末裔の藤原(成田)道宗が幡羅郡に土着して構えたとか幾つか説があり、実際はよくわからない。その後成田助高の代に「前九年の役」で武功をあげた齋藤実遠が源頼義より長井庄を与えられ西城に居館したという。
 成田氏といい、斎藤氏もそうだが、本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件がこの地にはあったのだろう。

               
             埼玉県道263号線沿いに鎮座する西城神社。朱色の鳥居が印象的だ。
            またこの社は福川に並行して鎮座していて、珍しく「西向き」の社だ。

               
             鳥居の扁額には「西城神社」と明記されている。
 明治九年に村社となった際に村名をとって西城神社と社名を改めたものであり、『大里郡神社誌』によると旧名は「大天獏社」、つまり天白を祭る社ということだ。

               
                       拝 殿
 桜の季節がやや過ぎた時期に参拝したため、参道一面散った桜の花びらが広がる。ただその風景もまた美しく、暫し時間も忘れさせてくれる。社と桜のコントラストはやはり良いものだ。
 拝殿前には石の階段がある。おそらく北側にある福川の自然堤防からつくりだされた高台、もしくは妻沼低地に点在する自然堤防のひとつであろう。現在の西城神社のご祭神は大山祇命、豊受比賣命、市杵島姫命であるが、すぐ北側に福川があり、旧社名も「大天獏社」ということから、本来のご祭神は「水神」ではなかったのではないだろうか。
   
                           


  西城神社拝殿内部(写真左)とその上部に掲げてある社号額に記されている「大天獏」(同右)

  妻沼地区には字名では「市ノ坪」、また小字名で「切通の坪」、「城山の坪」、「築地之内の坪」、「宿場の坪」、「長安寺の坪」等がある。この「坪」は「じょう」とも読め、古代奈良時代律令制度の「条里制」の名残がこの地域には現在でも字、または小字名として残っている。
 「西城」という地名も、条里制における区画・面積の単位である「坪」が地名として現代に残ったものであると考えられる。現在でもこの地域一帯には、東別府地域では「条里再現の碑」があるし、
熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。大和政権による中央集権的律令政治が確立する8世紀初頭のある時期、この地域は大和政権の支配下地域として、条里制を積極的に推進していた。


  「大里郡誌」には、西城神社の信仰について「気管支病に霊験ありと言ひ奉賽に麦煎粉を献じ祈願するもの頗る多し」、また祭祀行事について「古来御祭神の好ませ給ふところとて角力の行事あり現に他の行事は一切行われず」と掲載されている。信仰についての記述では、「気管支病」と書かれているが、おそらくこれは「気管支炎」であろう。この気管支炎は外界からの塵や微生物を含んだ空気が気管支を通過した際に、気管支粘膜に炎症が起こり、痰を伴う咳がみられる状態を一般的に気管支炎という。気管支炎の病態は微生物の感染のほかに、喫煙、大気汚染、あるいは喘息などのアレルギーによっても起こるという。
 西城地域は嘗て気管支炎の症状をもつ人が多かったといわれている。ここで思い返す伝説がこの西城地域の近郊の聖天院に残されている。昔、妻沼の聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で左目を突いてしまい、呑龍様を討ち取ることができなった。それ以来、聖天様は松が嫌いで、妻沼地方では松を植えなくなったという話だ。俗にいう「片目伝説」の妻沼地域版ともいえるこの伝承だが、タタラ製鉄による疾患は片目だけではない。鉄製造から発生する粉塵等から肺疾患に陥るケースも決して少なくない。気管支炎、気管支喘息の類だ。

 つまりこの妻沼地域にもタタラ製鉄を生業とする地域が存在していて、その中心地域が西城地域、また妻沼聖天院がある大我井地域の2か所だったのではないだろうか。成田氏や斎藤氏もそうだが、一時的とはいえ本拠地に西城を選ぶ何かしらの条件のひとつが製鉄に関するものではなかったのではなかったのか。その伝承の痕跡が「聖天様の松嫌い」や「西城神社の気管支病」にあたるものであったと筆者は考える。
 また西城神社の御祭神の大山祇命は製鉄に関連する神と考察する学者もいる。大山祇命は日本神話にも登場する有名な山の神である。「古事記」では、大山津見神と表記され、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神であり、「日本書紀」では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。思うに日本は山の多い土地条件をもつ国であり、この神は各地に祀られている。記紀に登場する神というより、それ以前の縄文時代から各地に自然発生的に登場した神と考えるほうが自然のことではないだろうか。

 ところで大山祇命は別名和多志大神とも表記されている。「和多」や大山「津見」神から海に関連した神と考える人も多い。山の神でありながら同時に海に関連する神というのも不思議な疑問だが、四方海に面し、同時に平野部が少なく、海岸線に直接的に山々を配する日本独特の地形ならば、そのような考察も可能かとも思われる。
  但しこの大山祇命と大天獏との因果関係が今一つはっきり解らない。西城大天獏神社は決して規模が大きな社ではないが、西城という地域の歴史が奈良時代以前とかなり古く、「大天獏」という名称も相まってその考察も自然と慎重となってゆく。歴史の重みを肌で感じた、そんな参拝だった。





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上奈良豊布都神社

  鎌倉権五郎景政は平安後期の平氏の武将。平 景政ともいう。奥羽で起きた戦乱「後三年の役」(1083-87)に源義家にしたがって出陣する。16歳だった。このとき戦場で片目を射抜かれるが、それをものともせず奮闘したことで知られる実在した坂東武者だ。
 『尊卑分脈』による系譜では平良兼の孫、村岡五郎忠通の子に為道、影成、影村、影道、影正の5人があり、影(景)成の子。鎌倉権守景成の代から相模国大庭御厨(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称したという。
 御霊神社は埼玉県各地に存在しているが、鎌倉権五郎景政を御祭神とした御霊神社は上奈良地区に鎮座する当社のほか、東松山市正代地区、熊谷市高本地区他飯能市や小鹿野町両神地区に鎮座している程度。場所的にはそれぞれ離れているが、何か共通性があるのだろうか。 

         
                              ・所在地 埼玉県熊谷市上奈良(字御霊)1286
              ・ご祭神 武甕槌命
              ・社 挌 旧上奈良村鎮守・旧村社
              ・例祭等 節分祭 23日 春祭り 415日 夏祭り 715
                   秋祭り 1015
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1817053,139.3591742,16.29z?hl=ja&entry=ttu  
 熊谷市上奈良地区に鎮座する豊布都神社の御祭神は武甕槌命であるが、嘗ては御霊社と称し、鎌倉権五郎を祀っていたという。創建は慶安2年(1649年)。当時荒川は上奈良地区近郊に流れ、その河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした、と一の鳥居前の案内板では創建に関しての記述をしている。
                         
                 北側にある一の鳥居。その傍に社号標と共に案内板がある。
             
 豊布都神社(ごりょうさま)  熊谷市上奈良1286
 御由緒(歴史)
 当社創建の年代は不明であるが、慶安二年(一六四九〜江戸時代)に今の地に祀られたとあり、約三百年前と推定される。「新編武蔵風土記」の幡羅郡上奈良の条に「御霊社」と呼ばれ村の鎮守とあり、今の向河原・並木・二ツ道・在家・石橋・小塚の地域となっている。鎮座地は、向河原の西端にあり、往時地内には荒川が流れており、その渡船場を村人は「御霊の渡し」と呼び、今でも御霊田・御霊橋の地名が残る地である。
 ご祭神は、神仏分離まで鎌倉権五郎景政で、本殿内に本地愛染を奉安するも明治五年九月には、今の武甕槌神に改め社名も豊布都神社と改称す。
 往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。
 本殿は、一間社流れ造りで銅板葺きの屋根となっている。本殿内には、元禄十二年に造られた「御霊之神」と墨書された神璽と共に「武甕槌神」と書された神璽が奉安されている。
 老朽化した本殿を始め拝殿・幣殿を昭和五十九年一月に再建すると共に境内整備を終えた。その後、平成十六年には念願であった社務所兼地区集会場も清々しく新築をおえた。(中略)
                                                                案内板より引用

 境内は狭いからか北側にある一の鳥居から途中直角に曲がり二の鳥居があり、その扁額には「御霊大明神」と刻まれている。やはり昔は鎌倉権五郎を祀る「御霊社」だったのだ。
             
               二の鳥居に「御霊宮大明神」と刻まれた社号額(写真左・右)
 
           東向きにある社殿参道               社殿の右側にある「本殿末社修復記念碑」
                
                                拝   殿
豊布都神社(熊谷市上奈良字御霊)
 利根川と荒川のほぼ中間に位置する上奈良は、中世の奈良郷に属し、近世になり分村した所である。地内には平安期の奈良館跡がある。
 当社は元来御霊社と号していた。『風土記稿』には「御霊社 村の鎮守なり、社内に本地仏愛染を案ず、慶安二年(一六四九)八月廿四日、当社領別当寺領とも合て十石の御朱印を附せらる(以下略)」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、その背景にはかつて地内に荒川の川筋があったことが挙げられよう。往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り―御霊によるものと考え、御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとしたことが推測される。ちなみに、当時の荒川は当社と別当東光寺の間を横切る形で東西に流れ、そこには東光寺管理の「御霊の渡し」と呼ぶ渡船があったと伝えられている。
 本殿には、像高三〇センチメートルの座像が奉安されており「権五郎尊像 元禄十二己卯天(一六九九)五月吉祥日 建立東光寺恵旭三十二歳」の墨書が見られる。
 明治初年の神仏分離により本地の愛染明王は東光寺に移され、明治五年に祭神を武甕槌命に改め、豊布都神社と改称した。豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる。
なお、往時の朱印地については、東光寺に朱印状が現存する 
                                                          「埼玉の神社より引用                              
               
                            拝殿に掲げてある扁額

 ところで話は横道に逸れるが、この奈良地区は昔から湧水が豊富だったようで、律令時代の和銅年間に大量の涌泉が湧き出て、六百余町の壮大な水田を造成させたまさに水の宝庫という地であった。近隣には水に関連した地名である「玉井」地区もあるし、さらに7世紀以前からの祭祀遺跡である西別府祭祀遺跡にも御手洗池と書かれた湧水の源泉池が現在でもあり、一帯が湧水が豊富に存在していたことを物語っている。
 また
西別府祭祀遺跡のすぐ西側には幡羅郡の郡衙跡である幡羅遺跡もあり、幡羅郡の中心地帯にこの奈良地区も含まれていたと思われる。しかもこの奈良地区の中心を南北に縦断する道こそ東山道武蔵路であり、筆者の身勝手な想像ではあるが、地形上かなり重要の地ではなかったのではないだろうか。
             
                                 本  殿
 
       社殿の右側にある境内社 八幡神社            八幡神社の奥にある境内社 八坂社
 
                八坂社の奥にある石祠(手前)                       社殿の左側にある琴平神社
 上奈良村 御霊社
 村の鎮守にて、祭神は鎌倉権五郎景政なり、社内に本地佛愛染を安ず、慶安二年八月廿四日、當社領及別當寺(東光寺)領とも合て、十石の御朱印を附せらる。
 鐘楼。正徳元年九月鋳造の鐘をかく。
 末社。牛頭天王、八幡、稲荷、金毘羅
                                           『新編武蔵風土記稿』巻之二百二十九より引用

        
                手水舎の近くにある御神木           一の鳥居の近くにある桜の大木

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柴八幡神社

  熊谷市の元江南町地区には、「柴」という一風変わった地区が存在している。この「柴」地区の近隣には有名な「塩古墳群」がある「塩」地区もある。
 この「柴」という地域は、旧江南町役場の位置する場所から旧川本町に至る、東西に細長い地域で、『新編武蔵風土記稿 柴村』には「東西二八町・南北三町」と記載され、現在の行政区画にも昔の名残が反映されている極端に東西が長い地域である。
 ところで、地名辞典などによると「柴(シバ)」は千燥地、地力のやせた土地焼畑のことなどの説明が見え、江戸時代の地誌に記述された「柴村」の説明に通づる部分が多く、妥当なところと思われる。因みに地誌には「桑、麦に適さず、時々干燥のため作物が育たない」とある。
 また、嘗て柴村は「篠場庄」に属していたことが、江戸時代に編纂された地理誌である『新編武蔵風土記稿』から知ることができ、この「篠場(シノバ)」から「柴(シバ)」へ移り変わったかもしれない。                                                                       
 
            
                     ・所在地 埼玉県熊谷市柴164 
                     ・ご祭神 誉田別命
                     ・社 格 旧柴村鎮守・旧村社
                     ・例祭等 4月第2日曜日・春の日待ち、10月第2日曜日・秋の日待ち   
        

 柴八幡神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方面に進み、延喜内式社田中神社を右手に見ながら道なりに真っ直ぐ進む。押切橋を越え、江南台地の上り斜面を進むと右手に飯玉神社があり、その先の千代交差点から約500m位先を右折すると道路沿いで右側にこの社は鎮座している。残念ながら専用駐車場はなく、路上駐車して急遽参拝を行った。
          
                                   柴八幡神社正面                  境内参道の両側には大杉が聳え立つ。
                              
                            柴八幡j神社参道
 社の規模はさほど大きくはないが、木々に囲まれた静かな佇まいでどことなく神聖な雰囲気。参道の両側には荒川の川石を使用したのだろうか、この造りは洪水対策の物としか考えられない。参道の先の社殿もやはり高く積み上げている。荒川は以前この社の近隣に流れていたのだろうか。
 
        参道の途中、左側にある案内板              案内板の並びにある境内社
                                           天満天神社、大山祇神社
 八幡神社  所在地 熊谷市 柴
 本社の祭神は誉田別命で御母君は三韓征伐で有名な神功皇后である。
 本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で末社が二社合祀されている。
 いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中といい、鎌倉を中心に関東各地に建立された八幡社の一つである。
 明治維新までは、現在地から西方300メートルに位置し、数百年を経た松、杉の老樹生い茂り、かつ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられている。
 戦前は武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣で賑わった。
 例祭は、春の日待ちが四月の第二日曜日、秋の日待ちが十月の第二日曜日である。(以下略)
                                                            案内板より引用

             
                                    拝  殿
 八幡神社 江南町柴(柴字西)
 県の「ふるさと歩道」にも指定されている当社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成しており、散策する人々の憩いの場として親しまれている。

 鎮座地は、村の西外れにあったが、享保年間(一七一六-三六)、村人の参詣の便に供するため村の中央の現在地に移された。その跡地は、いまだに「元八幡」と呼ばれて大切に保存されでいる。
 創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(一一九〇-九九)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれる。
 しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当社は同家の祀った神社であった可能性もある。
 本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺ほどのこぢんまりとしたものである。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(一七五三)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われた。
 なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことがわかる。
                                                       「埼玉の神社」より引用
 
                                   
                                    本  殿
  柴八幡神社が鎮座する熊谷市旧江南町は熊谷市と荒川を挟んで南側に位置し、荒川によって創り出された台地と沃野からなる江南地区は豊かな自然に恵まれ、旧石器時代や縄文時代の遺跡や遺物が多く発掘されていて、武蔵国にあって早くから発達していた地域の一つであった。埼玉県北部の代表的な古式古墳群(古墳時代前期群集墳)である塩古墳群を始め、塩古墳群の数キロ東部には20基以上の円墳からなる野原古墳群があり、そこからは男女1対の踊る埴輪(東京国立博物館蔵)が出土した。江南地域には合わせて90基以上の古墳が現存している。
 柴八幡神社は明治維新までは、現在地から西方300mに位置していたという。その地域は字名で寺内と言われているが、この地には
嘗て8世紀半ばに創建され、10世紀後半まで存続したと推定されている古代寺院の遺跡がある。寺内古代寺院跡と言われる。平成3年9月より平成4年12月にかけて、埼玉県江南町教育委員会および江南町千代(せんだい)遺跡群発掘調査会によって調査された。この寺内古代寺院の正式名称(法号)は解っていないが、「花寺」と墨書された土器が出土していることから、通称で「花寺」と呼ばれている。
 この寺院跡は調査の結果、東辺約170m、西辺約200m、北辺約570mの溝(上面幅6m、深さ1.2m)に区画され、国分寺に匹敵する非常に大規模な寺院跡であることが確認された。
            
                             静かな境内の一風景
 この寺院の創建に関わる氏族が壬生吉志氏である。壬生吉志氏は、推古天皇の六〇七年に定められた皇室の皇子皇女養育のための壬生部の管理をしていて、古代男衾郡の開発にあたり郡長官となっていた。
 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻呂(安閑二年紀、難波吉士)―鳥養―葛麻呂(推古十五年二月、為壬生部、壬生吉士)―諸手―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年四月、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主。弟眞成)―貞継(三田領主)―貞盛(谷保県主。延喜十五年多摩郡栗原郷に住す)」と記述され、また類聚三代格という書物にも承和八年(841)、武蔵国男衾郡榎津郷に住む壬生吉志福正という人が息子二人の生涯納める調と庸という税をまとめて納めたいと申請し、許可されたという記事があり、また同12年(845)に武蔵国分寺の七重塔再建を申し出て認められている。
 壬生吉士福正は仏教に対し深い信仰心を持っていたかどうかは不明で、ある意味政治的なパフォーマンスとも考えられるが、少なくとも七重塔再建費用や二人の税金を納める費用以上の資産を持ち合わせていた人物であったことは書物等の記述で明らかだ。福正と同時期に存在したことが確認されている寺内古代寺院跡は、寺内古代寺院の建立に深く関わりがあったと推測することができる。

 しかし、この「柴」地域に嘗て、武蔵国国分寺に匹敵するといわれた寺内遺跡、通称花寺が存在していたことは正直言って驚きだ。だからこそ社の散策はやめられないことでもあるのだが。

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