古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

成沢赤城神社

成沢赤城神社が鎮座する地域である『成沢』の由来として、熊谷市のホームページでは以下の通りに紹介されている。
「なりさわ」を「鳴る沢」から変化したとすると、水量の豊かな沢や谷のある地形から名づけられた地名と推測され、地図を見ると「成沢」には江南台地を開析する谷がいくつかあり、静簡院の北側や行人塚の北側は代表的な谷です。特に後者は板井付近から柴沼を経て運動公園へ続くもっとも大きな谷となっていて、途中にドカドカ橋(運動公園前)と呼ばれた橋もあり、水音が大きく響いていたことがうかがえる。
 所在地    熊谷市成沢237
 御祭神    大己貴命、豊城入彦命
 社 格  旧村社
 例 祭  お日待415日、天王様724日、お日待1015
         
 成沢赤城神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を万吉氷川神社方面に東行し、コンビニエンスが右側に見える成沢交差点を右折すると、正面右側に神社の社叢が見えてくる。
神社の西側奥には会議所や子供の遊び場を兼ねた広い空間もあり、そこに車を停めて参拝を行った。
         
                  
成沢赤城神社 正面鳥居
   
     鳥居の手前左側には案内板あり        参道途中、右側にある三峰社
 赤城神社
 赤城神社の祭神は大己貴命・豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
 当社の神体は、金箔の木像である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで末社には、熊野神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
 古老の説によると、「本社の創立年代は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るもが多かった。」といわれている。
 なお、末社の熊野神社は本字の根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座のところ、明治維新の際赤城神社境内に移転したものである。
 末社の津島神社の大祭は、毎年七月二十四日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変にぎやかである。
                               境内掲示による成沢赤城神社の由緒
         
                     拝   殿
「埼玉の神社」による成沢赤城神社の由緒
 赤城神社 江南町成沢五四六-一(成沢字十王嶽)
 当地を含む荒川中流右岸の辺りは、平安末期のころから上野国新田氏の所領で、貞応三年(一二二四)一月二十九日に新田義兼の妻新田尼から孫の岩松時兼に譲り渡され、以後新田岩松氏の所領となった。
 創建年代は明らかではないが、上野国との結びつきの深かった時代に新田氏の崇敬した赤城神社が勧請されたことが推測される。
 室町期の当地の状況を伝えるものとして、成沢氏と静簡院がある。成沢氏は「成田分限帳」に成沢藤三郎の名が見えるので知られ、当時忍城主の成田氏の家人であることから、この地域も成田氏の支配下にあったと見られる。また、静簡院は、深谷域主上杉憲盛の開基と伝え、憲盛は天正三年(一五七五)に没しており、このころは上杉氏の支配に属していたことがわかる。当時、この成沢氏や上杉氏によって当社も崇敬を受けたものであろう。
 『風土記稿』には「赤誠社 村の鎮守なり、傍の庵室を赤城庵と号し、当社の進退をなせし」とある。これに見える赤城庵は修験と思われるが、詳細は明らかではない。文政十一年(一八二八)には、神祇伯の執奏により正一位に叙された。
 明治初年の社格制定に際しては村社となり、同じころに字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀した。
 内陣には、室町期作と伝える木造赤城大明神座像を安置している。
  
    拝殿に掲げている赤城神社の扁額         拝殿横には合祀社が鎮座
         
                    境内社 津島神社
 末社の津島神社の大祭は、毎年7月24日、江南地域の成沢にある赤城神社にて行われる「成沢の天王様」といわれる祭りで演奏される囃子である。
 囃子は、笠鉾・山車の曳き回しの際に行われていたが、現在は据え置き屋台での居囃子の形態で演奏されることが多くなった。祭囃子の種類としては、「鎌倉流五人囃子」といわれ、大人たちによる囃子のほか、多くの子どもたちが屋台に上がり、太鼓を打ち続ける姿は圧巻との事だ。

 ところで
成沢赤城神社から南に約300m位で、段丘方向(南側)進むと行人塚古墳があり、成沢交差点から南下する道路の西側林内にある。古墳であることを示す標識があるけれども,道路がカーブしているところなので,見落としやすい場所かもしれないので、注意は必要だ。
  
  行人塚古墳は、道路に近い林の中にあった          古墳の案内板
熊谷市指定記念物(史跡)
「行人塚古墳」
行人塚古墳は面積500㎡、一辺が23m、高さ3.5mの方墳である。四隅に浅く残されている周溝には、古墳時代前期の竪穴式住居跡1軒が検出されている。
住居跡からは古墳時代前期の土器類のほか、フイゴの羽口・鉄滓・台石・叩き石などが出土している。この住居跡が製鉄か鉄器製作にかかわる小鍛冶跡であることが推測される。
                                 平成273
月 熊谷市教育委員会


        
         
         




拍手[0回]


樋春七社神社

樋春七社神社が鎮座する地域名「樋春」は「ひはる」と読む。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつである。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残していて、現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっている。
 明治5年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置した。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字ずつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均等に組み合わせて、「樋春」の地名と命名したという。
 所在地    熊谷市樋春10231
 御祭神    大日孁貴命、誉田別命、別雷命、大山祇命
      大斗辺命(大山祇命)、倉稲魂命、天兒屋根命
 社 格  旧村社
 例 祭  215日 祈年祭 1018日 例大祭 1126日 新嘗祭
         
 
樋春七社神社は埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線を東松山方向に進み、熊谷大橋を抜けて最初の交差点を左折し、右手にJA農協(ふれあいセンター江南店)の手前のT字路を右折すると正面左側に社叢が見えてくる。
 駐車場は神社の手前にスペースがある為、駐車をして参拝を行った。
         
         
        樋春は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地に位置する地域
             今は一面水田が広がる長閑な風景が広がっている。
         
                      2の鳥居
         
                     南向きの拝殿
「埼玉の神社」による樋春七社神社の由緒
 七社神社   江南町樋春一〇二三(樋春字宮裏)
 山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
 春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
 『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。
  
  
境内坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿        不動・御嶽山霊神等
         
             拝殿東側に祀られている稲荷社・手長神社
 拝殿東側には「手長神社」と並んで「稲荷社」の祠が祀られている。樋春北地域には通殿様と呼ばれる真光寺持ちのお堂があり、これは『風土記稿』樋口村項に見える「通殿稲荷社」の事という。明治24年(1909年)に宇四度梅原地区(うしどうめはら)から七社神社に合祀された「稲荷社」とは、この通殿稲荷との事だ。
                 
 樋春地区は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地が広がる地域である。本来川の近くにこの名を関した神社が鎮座している場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られていると考えるのが順当な線だが、一方でこの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。
『風土記稿』春野原村には「鍛冶屋舗」という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいた可能性も否定できず、通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 


 



拍手[1回]


万吉氷川神社

万吉氷川神社が鎮座する地域は「万吉」と書いて「まげち」という。一風変わった地名だが、「万吉」という地名は鎌倉時代には既にあったようだ。
『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせ、権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰った。その名馬は権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたという。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまい、これを憐れんで馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としている。「○○郷」として記載されている所からも、それ以前から地域名として認識されていたと考えるほうが自然と考える。
 所在地    熊谷市万吉986
 御祭神    素戔嗚尊
 社 格  旧村社
 
例 
         
 
万吉氷川神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を東側に進む。その県道起点である万吉橋交差点にて埼玉県道11号熊谷小川秩父線と交差し、右折するとすぐ右側に万吉氷川神社の鳥居が見える。
 鳥居の先で右側に万吉第二集会所があり、駐車スペースもある為、そこに駐車してから参拝を行う。
         
               東向きの参道。鳥居の手前には社号標
         
              鳥居の先には開放感のある空間が広がる。
    
 参道左側には小さいながらも車内案内板があり(写真左)、参道の先には拝殿が鎮座する(同右)

境内掲示板
 当社は、「新編武蔵風土記稿」万吉村の頃に、「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と記載されているように、創建は古い。「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。
 明治初年の神仏分離により、見性院の管理下を離れた当社は、村社となり明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社とともにハ幡神社を合祀。本殿、拝殿、幣殿を新改築したが、昭和二十年八月十四日夜の熊谷空襲により焼失。戦後の経済困難の中、氏子各位の篤い浄財により昭和二十三年に再建され、現在に至っている。三間二間の切妻造りで、一間の向排を持ち、向排屋上には一対の唐獅子の置物が置かれている。夏の八阪祭をはじめとする祭典には多くの老若男女が参詣に訪れ、年々賑わいを見せている。 平成三十年三月
万吉地区文化遺産保存事業推進委員会

         
                     拝  殿

         
                     本殿・覆屋
 「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒
 氷川神社…熊谷市万吉九八六(万吉字前平塚)万吉は既に鎌倉期から見える郷名で、貞応三年(一二二四)正月二十九日の新田尼譲状に「春原庄内万吉郷間事」とある。地名の由来については、牧の当て字とするもの、条里制に基づく牧津里から起ったとするもの、荒川に沿った曲り地がなまったもの、更にはマゲチはケチの転訛で、マケチのケチは立ち入ると不祥事が起こるとされるとするものがある。
 『風土記稿』万吉村の項に、当社は「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と載る。これに見える「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。一の宮は、平安初期から鎌倉初期にかけて出現した一種の社格であることから、土人の伝えも当社の創建の古さを誇示するものと考えられる。別当見性院は天正年間(1573-92)の開山である。
明治初年の神仏分離により見性院の管理下を離れた当社は、村社となり、更に明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社と共に八幡神社を合祀し、現在に至っている。ちなみに移転前の社地は、字一本松と呼ばれる所で、その参道の入口は秩父・小川・熊谷線に面した友成士十家の前で、古くは幟立てがあり、ここから1㎞余りにわたって参道が延びていたという。
    
  拝殿左側に富士塚。傍らに祠もある。詳細不明。    社殿左側にはお狐様2体のみあり。
                               奥右側には三峰社か
 ところで冒頭にも記載したが、万吉氷川神社が鎮座している「万吉」という地域名は一風変わった名前だ。上記「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒にもその由来が書かれているが、ホームページにて「万吉地区文化遺産保存事業 調査研究報告会 」や「埼玉県地名誌」等で紹介されている「万吉」の由来について幾つかあげられているので、ここに記載する。
1 マキ(牧)の当て字から、マキ(牧)→マキ(万吉)→マゲチ〔埼玉県地名誌から抜粋〕
2 条里制に基づく牧津里の遺名から。〔埼玉県地名誌〕
3 マゲチは“マケチ”の転化ではないかと思われる。“マケチ”の“ケチ”は、立入ると祟り があるとされたところで、“マ”は接頭語である。
4 曲地の意味。つまり、曲地(マガリチ)が北側にも鳥居。
         
    東側の正面鳥居より小型だが、朱の塗料の落ち具合が逆に歴史の趣きを感じさせてくれる。


 ところで万吉地区一帯は嘗て新田源氏岩松氏の所領であったという。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、南北朝時代、南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺でもある。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の一族である岩松家につたわる「正木文書」には、下野国足利氏の2代目当主・足利義兼には庶長子義純がいて、幼少期は父義兼と共に大伯父の新田義重に上野国の新田荘で養育されたという。義純は足利義兼の長男だが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させた。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗ることになる。
 ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなる。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗った。
 義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えた。新田岩松家の始まりである。そして新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、岩松氏が重忠の旧領である当地へ派遣され、万吉内に在住していたことが記されている。
但し足利義純が先妻の子を義絶したのであれば、本来岩松氏は新田庄内の数郷の領主でしかないはずで、平姓畠山氏由来の所領が存在することはありうるのであろうか。疑問は残る)
         
                   静かな境内の様子
 岩松氏は母系である新田氏を以って祖と仰いできたが、同時に父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇り、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。南北朝時代、新田氏宗家は義貞と共に足利尊氏と敵対し没落するが、新田岩松氏は時世を読みながら巧みに世の中を渡りきり、結果的には「新田氏」を存続させたともいえる。


         



 

拍手[0回]


代八幡神社

 国道407号と17号熊谷バイパスが交差する地域を「代」という。
「代」という地名の由来として一般的に言われている事は低地から仰ぎ見て高地に広がる平担地を意味しているといい、土地の形状・特性を表わす地名と考えられている。
 荒川はその名称通り、「荒ぶる川」との異名を持ち、有史以来,多くの水害を被っていて、扇状地内において河道変遷を繰り返し(一説では8通りの旧河道が考えられるとしている),現在の自然堤防と旧河道を形成した。また荒川扇状地は勾配が 1/300 と比較的緩やかであるため,自然堤防が発達しているのが特徴であり、形状も平地の自然堤防帯に見られるような細長いものとは限らず,楕円や四角形など様々な平面形を持っているという。
 代八幡神社はその昔の自然堤防帯上の、微高地の一角に鎮座している。

 所在地   埼玉県熊谷市代1343
 御祭神   誉田別命
 社 挌   旧村社
 例 祭   元旦祭、2 天神様の勧学祭・4 春のお日待ち
             7月 天王様(八坂神社のお祭り)・10月 秋の社日祭
       
 代八幡神社は熊谷市役所の北西約3㎞の国道17号線熊谷バイパスの直ぐ南側に鎮座していて、くまぴあ交差点を左折し、最初の信号である「くまぴあ前」交差点を右折、私立学校給食センターを左側に見ながらさらに直進すると左側に八幡神社の社叢が見えてくる。
 鳥居前に車が止められるだけのスペースが有るので、そこに駐車してから参拝を行った。
              
                
鳥居前から境内を見る
      
         鳥居を過ぎる手前で左側に
ケヤキの大木があり、その奥
           にはイチョウの大木が並ぶように聳え立つ。
       
                    拝 殿
 八幡大神(代)の由緒
 八幡神社(熊谷市代一三四三(代字八幡))
 当社の由緒について、次のような伝承がある。鎌倉時代、上州岩松に土着した清和源氏の流れをくむ新田義重は、源氏の氏神である八幡神を山城国石清水八幡宮から勧請した。その後、新田家から分家し、里見家を興した義重の弟から一五代目に当たる里見義次が、天正六年(一五七八)の上州大間々要害山の戦に敗れ、武州代村(当地)に落ち延びた。代村に土着した義次は同八年(一五八〇)に郷里の岩松から八幡宮を分霊して当社を創建した。下って、慶長十八年(一六一三)行者三海を開山として顕松院を建立し、当社の別当とした。これより同院は九世にわたり、当社の祭祀に専念したが、文化四年(一八〇七)に廃寺となるに至った。このため、里見助左衛門が祀職となるべく上京し、白川家の許状を得、当社の社家となったという。
 現在、拝殿に掛かる文化二年(一八〇五)惣氏子中奉納の「新田義貞」と文化十二年(一八一五)当所里見氏奉納の「新田義貞鎌倉攻め」を描いた二枚の絵馬は、右の言い伝えにちなむものであろう。 
 『明細帳』によると、明治五年に村社となり同四十一年に代の地内にあった熊野神社・磯崎社・八坂神社・諏訪神社の四社を合祀した。なお、祀職は、昭和三十七年まで先の里見家が務めていたが、その後、古宮神社社家の茂木家が継いで、現在に至っている。         
(「埼玉の神社」より抜粋)
       
                 境内社諏訪社・八坂社

 荒川扇状地(あらかわせんじょうち)は、埼玉県の寄居町を中心とした巨大な扇状地で、その中央には荒川が流れている。熊谷市、深谷市が扇端にあたり、数多くの勇水があり、湖沼が発達している。近年水量が減少している。なお、扇頂から約8km下流から扇状地中に河岸段丘を生じ、植松橋付近(深谷市川本)を扇頂として大芦橋(鴻巣市吹上)付近を扇端とする新たな扇状地形が形成されていて、これを「荒川新扇状地」(「新荒川扇状地」や「熊谷扇状地」とも)と称している。(Wikipedia参照) 
 嘗て荒川扇状地では有史以来,多くの水害を被ってきており,また江戸時代に行われた荒川の西遷事業を皮切りに,嘉永2年水害や明治43年水害などで甚大な被害を受けてきた。現在でも熊谷市街地に存在する水塚や,軒先に小舟を下げている民家が残存することから,この地域がいかに水害と近い存在であるかが窺える。
 因みに縄文時代,弥生時代,そして古墳時代の集落と自然堤防との関係は,奈良・平安時代に見られる遺跡と自然堤防の関係に一致していると言われ、扇状地周辺に見られる住居位置の割合も,旧石器時代を除いて大きな変化はないとの事だ。これにより,時代や生活様式に関わりなく自然堤防は集落の形成に大きく関わっていたことが分かる。
       
            今ではゆったりとした喉かな風景を望む

 熊谷市は、埼玉県の北部、荒川扇状地の東端に位置し、地形的に見ても市内に多くの自然堤防などの微地形が存在し,現在でも道路や宅地などへの土地利用から目視でも確認できる。
 荒川扇状地内において,集落の遺跡は自然堤防上に多く存在している。自然堤防が水害を軽減する効果を持っていて、例え自然堤防は0.5mほどの微高地であっても、これらを上手に活用し,また,堤内地の微地形を考慮に入れることで,より経済的かつ効果的な氾濫水の制御を行える可能性が大であることも、遺跡の発掘等により少しずつ分かっている。
 但し沖積地の全ての遺跡が自然堤防上で発掘されていたわけではなく,また,全ての自然堤防で遺跡が発掘されていたわけでもない。自然堤防と集落がどのような関係にあるか,更なる研究が必要であり、今後,自然堤防の治水に与える今日的役割について、詳しく調べていく予定でもある。


     

拍手[2回]


飯塚太田神社


太田神社は旧大田村の総鎮守である。大正四年村民の総意により二十一郷社を合祀して此の聖地に勧請鎮座し奉った。爾来地区の守護神とし敬神崇祖の象徴として氏子の信仰篤く遍く神徳を施して今日に到った。
 創建以来八十年にたらんとする歳月と風雪を経て、社殿及び付属設備は老化損傷を来し予て改修を要望されていた。偶々本年は皇太子殿下御成婚の好機に際会し奉祝記念として屋根替工事等を実施するの議が盛上り氏子総代区長ら有志を以て改修委員会を組織し、直ちにその趣意を各区に伝え早急に全戸の理解と協讃を得て壱千二百余万円の寄進を申し受け着工の運びとなった、役員を始め氏子及び工事担当者の熱意と努力により短期間に見事な改修事業を完成し聳える甍の壮麗な社殿を中心に神苑諸施設も整然と修復され氏子の心に宿る尊厳と崇敬の至情が護持され高揚された事は実に意義深く慶賀の至りである。
 茲に記念碑を建て社殿修理の経緯を誌し神社と地区民の弥栄を祈り永く後昆も傳える。
 平成五年六月吉日
                                                 太田神社改修事業記念より引用
・所在地   埼玉県熊谷市飯塚1431 
・御祭神
  大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
         ・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
         ・菅原道真公(すがわらみちざねこう)
         ・別雷命(わけいかづちのみこと)          他21柱
・社  格   旧村社
・例  祭   10月13日


       
  飯塚太田神社は国道407号を熊谷警察署交差点を北上し、「道の駅 めぬま」の交差点を左折し、しばらくまっすぐすすむとT字路にぶつかる。右方向に進み、最初の路地を左折すると正面に飯塚太田神社の社葬が見えてくる。位置的には太田小学校の南西方向なので、その小学校を目印にすることをお勧めする。
 適当な駐車場はないようなので、路上駐車し、急ぎ参拝を行う。
 
 
           道路沿いにある社号標                   社号標の先に参道がある。

 「大里郡神社誌」によれば、大正三年六月三十日に大里郡太田村飯塚字飯塚前に817坪を新設し、社殿を新設し、全村にある大小神社を移設・合祀し、社名も太田神社としたとのこと。社としての歴史は決して古くはない。
 
           参道左側には神楽殿                  参道沿いにある太田神社改修事業記念石碑           
                      


                           拝 殿

 飯塚太田神社の地名「太田」の由来として、嘗てこの地には「太田氏」一族が移住していたという。太田氏は武蔵七党の横山党の流れを汲む一派である猪俣党の末裔とも、旧埼玉郡北部や大里郡にその勢力を誇った私市党の後裔、また清和源氏頼光流の源三位頼政の末裔とも、はたまた藤原秀郷流太田氏の末とも言われていて、その出自ははっきりしない。室町時代関東管領上杉扇谷氏の家宰であった太田道灌は通説では摂津源氏の流れを汲み、源頼光の玄孫頼政(源三位頼政)の末子である源広綱を祖と言われているが、一説によるとこの武蔵国大里郡太田村から発祥した猪俣党太田氏の後裔ともいわれている。


                     
           
                       本殿(写真左・右)

 猪俣党太田氏は幡羅郡太田村より起こったという。大里郡神社誌に「幡羅郡太田村に字高城城跡あり、太田六郎宗成が居住すと云ふ」と記述されている。
 
猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町の猪俣館)を中心に勢力のあった武士団であり、武蔵七党の一つ。小野篁の末裔を称す横山党の一族である。 分布地域は二つに分かれ、神流川扇状地の条理地域と利根川南岸の旧河道の間の台地上で、当時の条里地域にその一党は勢力を伸ばし土着したと考えられる。
 
                   社殿の奥にある合祀社群(写真左、右)

 「大里郡神社誌」によると、飯塚太田神社に合祀された二十一社の内の二社の神職は「天田氏」、「大井氏」であったことが記述されている。
 ・天田氏 山城国醍醐三宝院の修験なり富瑠輪山大乗院と号し(中略)、代々富瑠輪明神の別当たり。当山修験にて維新後復飾して天田貢内と改め神職となり、大正三年太田神社の社掌を拝命す。
 
・大井氏 大重院と号し、富山派の修験なり崎玉郡酒零村酒零寺の配下に属す(中略)。明治維新後復職して大井中と改め諏訪社の神職たりしが大正四年天田氏の死亡後太田神社の社掌を拝命す。

 富瑠輪神社の由来は要約すると『嘗て日本武尊が東征の折、この地を過ぎた時に「御保呂」を置かせたのを村人がこの「御保呂」を祀り、「保呂輪宮」と敬祭したのが始まりで、後年「富瑠輪明神」と改めた』と伝えている。つまり富瑠輪とは「保呂輪」=「ほろわ」であり、嘗て戦国時代に常陸の豪族佐竹氏が深く信仰したようで、関ケ原合戦後出羽に転封になった後は、出羽国保呂羽波宇志別神社を藩主が参詣し、これをまた厚く保護し信仰したという。更には関東・東北中心に数十の同名の「ほろわ」神社が存在する。この「ほろわ」神社は本来の信仰形態は山岳信仰であったようだが、羽生市駅の北側には「保呂輪堂」という名の古墳もあり、時代が下り、地方に広がった過程で本来の信仰形態から違った方向で信仰されたものと考えられる。
                              
                参道の傍らにある「塞神」と彫られた標石

 

拍手[1回]