古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

川原明戸諏訪神社

 川原明戸の「明戸」は旧来、「悪戸」と記された。「アクト」は「アクタ」から出た言葉で、上流から流出した土砂(芥:アクタ)が堆積した場所、川沿いの平地の意味。この土地が荒川の水害が度々起こり、湿地が広がり、耕地に適さず、江戸時代中期には、「悪戸」と記された
 地名辞典等によると、「悪戸」は、「アク」が、アクト・アクツ・アクタ・アクバ等に同類の意味があり、低湿地・耕作に適さない土地ということから、悪い土地の意味を持つようだ。この場合の悪い土地とは、作物の稔りが良くないということであろうが、この様な所は、動植物の憩うオアシスとなり、山林は保水涵養林となる。「アク」はこのように水をも指し、そして「アク」の語自体が、「アクア」(ラテン語、またヴェネツィア語、エミリア・ロマーニャ語、ロンバルド語)から来ており、「アカ」(閼伽)も宗教こそ違え、同じ意味を持っているという。古い時代に、西側の世界から日本へ入った言葉のひとつと考えられている。
 「悪」という言語は、総じてあまり良い意味には使われていないが、決して否定的な意味しかないわけではない。「悪」は「突出した」という意味合を持ち、剽悍さや力強さを表す言葉としても使用された。例えば、源義朝の長男・義平はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣藤原頼長はその妥協を知らない性格から「悪左府」、鎌倉時代末期における悪党もその典型例であり、力の強い勢力という意味でもある。
 地名に使用された「悪」と水を意味する「アク」の言語が同様のいい方をするとはおもしろい取り合わせであろう
 神仏や自然に対する素朴な畏れや崇拝を我々の先祖は後世に残すため地名に記したモニュメントように思えてならない。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市川原明戸177
             ・ご祭神 建御名方命(推定)
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
             *社格は「大里郡神社誌」を参照。
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1466143,139.3046361,16z?entry=ttu

 川原明戸諏訪神社は、国道140号秩父往還道を深谷市花園、寄居町方向に進み、「熊谷特別支援学校」の看板がある信号を左折する。秩父鉄道が並列するように通っているため、左折する際には一時停止は忘れずにお願いしたい。そのまま道なりに進むと変則的な十字路があるので、そのまま荒川河川敷方向に進む。左側に奈良用水が流れており、そのまま進むと右側方向に浄土宗明道寺が見え、その並びに川原明戸諏訪神社が鎮座している。
 明道寺の専用駐車場を利用して、参拝を行う。
        
                       川原明戸諏訪神社 道路を隔てた場所から撮影
      江戸時代での神仏習合の名残りがこの場所にはあるのではないかと感じた。
        
                     明道寺との境界に立っている社号標柱
 境内周辺は綺麗に手入れがされていて、雨の中での訪問となったが、気持ちよく参拝が行えた。
               
                     参 道
 
 鳥居(写真左)を越えてすぐ左側に手水舎がある(写真右)。この手水舎はこの規模の社では考えられない位の精巧な彫刻が施されている。
 
 川原明戸地区には、江戸時代宮大工家として「飯田家」が住居を構えていた。飯田仙之助・岩次郎をはじめとする川原明戸で技の鍛錬を極めた飯田家は、江戸時代中期の上州・花輪村の名彫刻師である石原吟八郎の流れを汲む宮大工家であり、諏訪神社本殿を含む各所に精巧な彫刻技術の遺産を目にすることができる。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
        
                                拝 殿
 明治時代中期に川原明戸地区の八幡社や頭殿神社などを合祀したもので、養蚕の盛んな地であった大麻生地区での信仰文化と関わりがある。諏訪神の使いである白蛇が蚕に危害を加える鼠を除けるという信仰と、機織に関わる「女諏訪様」の信仰である。諏訪様には男女があり、荒川を挟んだ旧江南町上新田の諏訪神社は男で猟をつかさどり、当社が女で機織を守るという対比が伝承されている。
*「熊谷市立江南文化財センター・大麻生のルーツを学ぶ」を参照
 
 
 川原明戸地区に在籍していた飯田家関連の人物は多数存在している。宮大工等の彫刻師に直接関与している人物のみならず、大工関連、また奉納関連の人物が、この狭い区域にこれだけの人物が幕末から明治時代前半という限られた時期に輩出していることに正直驚きを禁じ得ない。
押切村八幡社 安永七年棟札 棟梁飯田甚八清正
上州榛名神社 寛政十一年奉納 武州大里郡河原明戸村 飯田恒八
赤浜村八幡宮 文化十四年棟札 大工川原明戸村飯田和市
松山町箭弓稲荷社 天保六年棟札 棟梁大里郡河原明戸村飯田和泉藤原金軌・後見飯田和泉淀  
章・彫工飯田仙之助(此年六十七歳没)
瀬山村八幡社 天保十三年奉額 河原明戸村・飯田真次郎・飯田竹松・飯田勇吉・飯田忠吉・飯田岩次郎・飯田作兵衛
瀬山村諏訪社 安政六年水鉢 飯田作兵衛・飯田喜兵衛・飯田馬太郎・飯田善右衛門・飯田忠吉・飯田次兵衛・飯田平五郎・飯田与兵衛広鏡・飯田鷲太郎宗直・棟梁飯田和泉・彫物師飯田岩次郎
白川家門人帳 慶応元年 河原明戸村大工源太郎事・飯田和泉
長瀞宝登山神社 明治七年棟札 川原明戸村彫工飯田岩治郎
        
                             社殿左側に鎮座する天手長男神社
        
 社殿右側に鎮座する境内社。
額は二つ掛けられており、一つには「稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社・御嶽神社」、もう一つには「頭殿神社」と書かれている。
      
     稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社     頭殿神社と書かれている額
           御嶽神社の額

 ところで『新編武蔵風土記稿』によると、河原明戸村・小字「殿ノ内」の地名由来として、武蔵七党のひとつである私市党の一族である河原太郎が昔住んでいた所で、この河原太郎という人物は太郎高直といい、埼玉郡河原村の出身という。
【新編武蔵風土記稿】河原明戸村条
「小名殿ノ内あり、此所は往昔河原太郎が住せし所と云。河原は武蔵七党私市党の人にて、太郎高直と呼べり、此人のことは埼玉郡南河原村に出したれば彼村について見ゆべし」

【河原高直】(11541184)は、平安時代後期の武士で、通称は太郎
・系譜
 彥坐主王-(中略)-私市黑山-(中略)-則家-河原成方-成直-高直/盛直と續く私市黨庶流。
 久寿元年生まれで、源頼朝の家臣で武蔵七党のひとつ私市(きさい)党に属した。寿永3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従う。兄弟で平氏の陣にせまったが, 平家方きっての強弓の使い手である備中国住人直名辺五郎の矢に射られ,同年27日兄弟共に討ち死にした。享年31歳。
        
                   社殿からの風景 
 河原氏は武蔵七党私市党の出身とされ、私市則房の子成方は北埼玉郡や大里郡を転々としたのち、北埼玉郡河原村に住むことになり河原権守を称したのが河原氏の始まりとされる。
 また南河原地区に鎮座する河原神社は嘗て勝呂大明神といった。
【増補忍名所図会】
勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり
 源平盛衰記には「武蔵国住人篠党河原太郎高直・同二郎盛直、生田庄を給ふ」と記載があり、これから推察すると、河原太郎高直・同二郎盛直兄弟の本当の故郷は、一の谷決戦場所であった摂津国の生田地区であったと思われる。
        
                               鳥居から東側の風景を眺める。

 筆者が想像するに、河原氏の先祖は摂津国・生田庄付近の出であったのだろう。神職もしくは社務に従事する社人だったかもしれない。その後東国に移住をすることになり、武蔵国勝呂郷(坂戸市)塚越村住吉神社に移ることになるが、そもそも摂津国の一之宮は旧官幣大社である住吉大社である。住吉神社は航海守護神としての信仰があり、移住する際も船を利用したとも想像できる。そして河原兄弟の祖父あたりの代(河原成方)に埼玉郡河原村へ到着し、そこの有力一族である私市党に属し、それまでの苗字から「河原氏」を名乗ったと考えられる。
 不思議なことに河原氏は
私市党に属しながら、「源姓」を称していた。本来の苗字は源姓なのだ。河原兄弟がなくなった後代にその一族が書き記した「河原氏由来記」には「居士は姓河原、其先源氏、今は今村を以て姓と為す。世々南河原村之長也、天正元年二月吉日・今村源左衛門居士」とあり、本来の苗字は今村であったと書いている。現在でも南河原地区には今村姓は数十戸存在しているが、河原姓はいない。

 河原太郎高直と川原明戸の接点はどこにあったのだろうか。古代氏族系譜集成に「成木権大夫直幹―熊谷兵衛太郎直季(又成木大夫、住大里郡熊谷村)―河原二郎三郎直光(一説私市大夫直常子)―河原小二郎直広(住大里郡河原村)―河原太郎大夫忠広―河原太郎高直(又有直、寿永摂州生田合戦討死)―小太郎重直(弟成木小次郎重宗、其弟河原守直)―又太郎直重―兵衛尉景直(弘安乱・城入道退治時討死。弟宮内丞長基)、高直の弟河原次郎盛直(一に忠家、摂州生田合戦討死)―忠政(一に忠教)」と見える。
 ここでは河原太郎高直の2代前の河原小二郎直広は大里郡河原村に住んでいると記されている。古文書では人物名等若干の相違は出てくるので、ある程度は仕方のないことだが、高直の2代前に大里郡河原村に住んでいる事は共通しているので、そこは重要である。
 勝手な解釈としてあらかじめお断りするが、河原太郎高直の領地は南河原村であっただろうが、その飛び地として川原明戸も含まれていたのではなかろうか。想像を逞しくして、2代前の当主が川原明戸に辿りついた時期、高直兄弟も幼少時期として同行していて、暫く滞在していたかもしれない。

 

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小八林春日神社

 熊谷市小八林地区は荒川右岸の氾濫原(沖積低地)に位置するが、南西は比企丘陵の一部となる。熊谷市の最東端であり、且つ最南端に位置する地域であり、北は鴻巣市、東は吉見町、南は東松山市と接している地区で、荒川面右岸から南西部方向にV字に形成されている。
 この地区は行政区分が幾分複雑であり、大芦橋を南下し、荒川を越えたところから埼玉県道
66号行田東松山線に沿って「中曽根」交差点を過ぎて次の信号のある交差点までが「吉見町・中曽根地区」の飛び地となっていて、尚且つその信号の東側付近が熊谷市の「箕輪地区」の飛び地になっている。小八ッ林地区はその分断された東地区と主要な西地区が北部荒川右岸でかろうじて接しているような少し歪な形となっている。 
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市小八林55
             ・ご祭神 天児屋根命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0800121,139.4276778,16z?entry=ttu
 小八林春日神社は埼玉県道66号行田東松山線を吹上方向から東松山方向に進む。吹上町方向から大芦橋を南下し、「中曽根」交差点をそのまま道なりに進み、次の信号のある交差点を左折する。300m程進むとT字路にぶつかる為、そこを右折する。周辺は進行方向正面が丘陵地帯特有の上り坂になり、最初の横断歩道が路面に表示されている字路を右折すると、道路沿いに左手に小八林春日神社の鳥居が見える。
 社周辺には適当な駐車スペースはないようなので、県道少し東側に入った場所に「熊谷市春日文化センター」という施設があるので、そこに車を停めて徒歩にて小八林春日神社に向かい、参拝を開始した。
 
 鳥居の左側には多数の石碑や石製の灯篭等があり(写真左)、当時の氏子の方々の信仰の深さを伺う事ができる。また道沿いにある鳥居も丘陵地の端部であるため、ゆるやかな上り坂の参道と段階的に階段が設置されている(写真右)。
大鳥居改築記念碑文
 古くより、小八林村は谷林とも称し、中央台地を本村、西南台地を大明神又は原、東北を川岸と呼び、永禄の頃北条氏の所領であったが後、徳川幕府の天領となり、下って古河藩の領地として明治維新を迎える。なお、付近の丘陵地帯には。弥生時代の住居跡、円山遺跡等があり、又、平安時代には、低地においては牧場があったり民の営みがなされた地である。この由緒ある台地北谷に、村民の守護神として天児屋命を祭神とする春日大社を建立し、信仰してきた。
 この神域は面積約六百坪、周囲は広大な山林に守られ、江戸時代には日光街道に面し、八王子千人同心の往来せし重要な地であった。しかし、この付近の道は大明神坂と呼ばれ、急坂な難所であった。これを大正十一年、時の村長長島甚助氏が、巨額の私財を投じ、新しい安全な道路を完成した。
また神社の「一の鳥居」は、延享の一戊辰年の仲夏に建造された高さ一丈四尺六寸の華麗な欅造りの大鳥居であり、その後再三の天災に遭い、文政五年および安政三年と再度の修理を加え現在に至る。たまたま本年四月の突風にて倒れた大木により倒壊せり。
 これを憂いて氏子一同あい計り大鳥居の建設となり七月旧来の地に再建せしものなり。
ここに碑を建て来歴を後世に伝えるものである。(以下略)
                                 大鳥居改築記念碑より引用 
 
 
 長めの参道(写真左・右)。参道の途中には二の鳥居がある。参道の周囲の雰囲気はとてもよい。
 熊谷市小八林地区は荒川の右岸に隣接し、村の北側では和田吉野川が荒川へ合流する最終地点手前の地区でもある。同時に小八林地区の南西部は比企丘陵の端部であり、地形は崖状の台地となっていて、社の鳥居から東に伸びる参道は丘陵地帯だけありの坂道と階段で形成されている。調べてみるとこの地区の大部分に当たる平たん部の平均標高は18m20mにも満たない場所が多いが、春日神社付近では最も標高の高い台地の上に鎮座している。
        
              最後の階段を登り切るとようやく拝殿が鎮座する場に到着する。
        
                                         拝 殿
 
       拝殿に掲げてある扁額         向拝にはさりげないが精巧で見事な彫刻
          
                              神社再建記念碑等の石碑
 ○春日神社再建記念碑
 春日神社は天児屋根命を主祭神として延享五年(一七四八年)以前より小八林の中で最も標高の高い小八林五五番地北谷に鎮座し、氏子が長きにわたって当社に寄せられてきた信仰の厚さが感じられる社でしたが、平成十二年七月四日天災(落雷)により焼失、その後時を置かずして氏子の総意により平成十三年十月十四日再建されたものである(以下略)
                                    記念碑文章より引用

         
                                      境内社
 合祀されている社は、左から白山神社・稲地神社・金刀比羅神社・三島神社・天神社・八坂神社。その周囲にある石祠3基は不明。『風土記稿』小八ツ林村の項には、当社について「春日社村の鎮守とす 末社 天神」とあるほか、村民持ちの白山社・八幡社・第六天社及び稲荷社、大福寺持ちの雷電社、十林寺持ちの頭殿社・稲荷社についての記載があり、そのどちらかもしれない。
 因みに一の鳥居付近にも石祠が数基あり、その中には「八幡宮」と彫られた祠もあった。
         
                                  一の鳥居を社殿側から撮影
 境内には「神社再建記念碑」のほか「春日神社御神体お迎え記念碑」という比較的新しくつくられた記念碑もある。それによると、平成12年7月4日夕刻天災(落雷)による火災で社殿・ご神体全てを焼失してしまったようだ。その後氏子の方々の総意を受けて社殿を再建し、翌年7月8日に氏子の方々23名の費用自弁による協力で、奈良の春日大社から御神体の分霊を受けた。また当日夕刻には帰省し、社殿内宮に鎮座の儀式も執り行ったという。
 今を生きる我々にもそのような伝統や過去から受け継いだ文化を継承し、それを後代の人々に何かしらの形にして残す義務があるのではなかろうか。
 ふとそのような事を感じた参拝であった。
 

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成沢赤城神社

成沢赤城神社が鎮座する地域である『成沢』の由来として、熊谷市のホームページでは以下の通りに紹介されている。
「なりさわ」を「鳴る沢」から変化したとすると、水量の豊かな沢や谷のある地形から名づけられた地名と推測され、地図を見ると「成沢」には江南台地を開析する谷がいくつかあり、静簡院の北側や行人塚の北側は代表的な谷です。特に後者は板井付近から柴沼を経て運動公園へ続くもっとも大きな谷となっていて、途中にドカドカ橋(運動公園前)と呼ばれた橋もあり、水音が大きく響いていたことがうかがえる。
        
             ・所在地  埼玉県熊谷市成沢237
             ・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
             ・社 格 旧村社
             ・例祭等 お日待415日 天王様724日 お日待1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1245559,139.3454709,17z?hl=ja&entry=ttu
 成沢赤城神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を万吉氷川神社方面に東行し、コンビニエンスが右側に見える成沢交差点を右折すると、正面右側に神社の社叢が見えてくる。
神社の西側奥には会議所や子供の遊び場を兼ねた広い空間もあり、そこに車を停めて参拝を行った。
        
                 
成沢赤城神社 正面鳥居
 
     鳥居の手前左側には案内板あり        参道途中、右側にある三峰社
 赤城神社
 赤城神社の祭神は大己貴命・豊城入彦命であるが、いい伝えによると大山祇命と称したこともある。
 当社の神体は、金箔の木像である。本殿は大破風向千鳥軒唐破風欅材屋根鱗葺の造りで末社には、熊野神社、天神社、稲荷神社、津島神社がある。
 古老の説によると、「本社の創立年代は不詳であるが鎌倉時代以前といわれ、武州深谷の城主上杉左兵衛憲盛の信仰少なからず、当時は相応の社領を有し社頭の風致等見るもが多かった。」といわれている。
 なお、末社の熊野神社は本字の根岸に、天神社は字宿浦に鎮座し、稲荷神社は神力寺境内に鎮座のところ、明治維新の際赤城神社境内に移転したものである。
 末社の津島神社の大祭は、毎年七月二十四日「天のう様」で、みこし、屋台などが出て大変にぎやかである。
                                      案内板より引用
        
                     拝  殿

 赤城神社 江南町成沢五四六-一
 当地を含む荒川中流右岸の辺りは、平安末期のころから上野国新田氏の所領で、貞応三年(一二二四)一月二十九日に新田義兼の妻新田尼から孫の岩松時兼に譲り渡され、以後新田岩松氏の所領となった。
 創建年代は明らかではないが、上野国との結びつきの深かった時代に新田氏の崇敬した赤城神社が勧請されたことが推測される。
 室町期の当地の状況を伝えるものとして、成沢氏と静簡院がある。成沢氏は「成田分限帳」に成沢藤三郎の名が見えるので知られ、当時忍城主の成田氏の家人であることから、この地域も成田氏の支配下にあったと見られる。また、静簡院は、深谷域主上杉憲盛の開基と伝え、憲盛は天正三年(一五七五)に没しており、このころは上杉氏の支配に属していたことがわかる。当時、この成沢氏や上杉氏によって当社も崇敬を受けたものであろう。
『風土記稿』には「赤誠社 村の鎮守なり、傍の庵室を赤城庵と号し、当社の進退をなせし」とある。これに見える赤城庵は修験と思われるが、詳細は明らかではない。文政十一年(一八二八)には、神祇伯の執奏により正一位に叙された。
 明治初年の社格制定に際しては村社となり、同じころに字根岸の熊野神社、字宿浦の天神社、神力寺境内の稲荷神社の三社を合祀した。
 内陣には、室町期作と伝える木造赤城大明神座像を安置している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿横には合祀社が鎮座                合祀社の並びに鎮座する境内社 津島神社
       
          社の西側にある会議所と共に
笠鉾・山車の倉庫もある。
 末社の津島神社の大祭は、毎年7月24日、江南地域の成沢にある赤城神社にて行われる「成沢の天王様」といわれる祭りで演奏される囃子である。囃子は、笠鉾・山車の曳き回しの際に行われていたが、現在は据え置き屋台での居囃子の形態で演奏されることが多くなった。祭囃子の種類としては、「鎌倉流五人囃子」といわれ、大人たちによる囃子のほか、多くの子どもたちが屋台に上がり、太鼓を打ち続ける姿は圧巻との事だ。
        
                              
成沢赤城神社・境内の一風景
 ところで成沢赤城神社から南に約300m位で、段丘方向(南側)進むと「行人塚古墳」があり、成沢交差点から南下する道路の西側林内にある。古墳であることを示す標識があるけれども,道路がカーブしているところなので,見落としやすい場所かもしれないので、注意は必要だ。
             
              道路沿いにある行人塚古墳の標識
   
   行人塚古墳は、道路に近い林の中にあった         古墳の案内板
 熊谷市指定記念物(史跡)
「行人塚古墳」
 行人塚古墳は面積500㎡、一辺が23m、高さ3.5mの方墳である。四隅に浅く残されている周溝には、古墳時代前期の竪穴式住居跡1軒が検出されている。
 住居跡からは古墳時代前期の土器類のほか、フイゴの羽口・鉄滓・台石・叩き石などが出土している。この住居跡が製鉄か鉄器製作にかかわる小鍛冶跡であることが推測される。
 平成273
月 熊谷市教育委員会
                                      案内板より引用
        
          
行人塚古墳の手前の高台附近に祀られている庚申塔

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樋春七社神社

樋春七社神社が鎮座する地域名「樋春」は「ひはる」と読む。荒川の南側に広がる水田地帯で町の穀倉地帯のひとつである。家々は微高地となっている自然堤防上に集り、河辺の集落のたたずまいをよく残していて、現在は熊谷大橋、県道武蔵丘陵森林公園広瀬線が通り交通の要所となっている。
 明治5年(1872年)維新政府は新行政策を発令し、名主、庄屋を廃して戸長(町村長に当る)を設置した。当時の樋口村(ひのくちむら)と春野原村(しゅんのはらむら)は、旧村の名を互いに一文字ずつ取り、古い土地の由来を新しい地名の中に均等に組み合わせて、「樋春」の地名と命名したという。
        
             ・所在地 埼玉県熊谷市樋春10231
             ・ご祭神 大日孁貴命 誉田別命 天兒屋根命 大山祇命
                  別雷命 大斗邊命 倉稲魂命
             ・社 格 旧樋口・春野原村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 215日 例大祭 1018日 新嘗祭 1126
             *例祭日は「七社神社沿革」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1330168,139.3487083,19z?hl=ja&entry=ttu
 樋春七社神社は埼玉県道385号武蔵丘陵森林公園広瀬線を東松山方向に進み、熊谷大橋を抜けて最初の交差点を左折し、右手にJA農協(ふれあいセンター江南店)の手前のT字路を右折すると正面左側に社叢が見えてくる。
 駐車場は神社の手前にスペースがある為、駐車をして参拝を行った。
        
                  樋春七社神社正面

      社の入口に立つ社号標柱                 社号額には「七社大神」と刻まれている。         
       樋春は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地に位置する地域
           今は一面水田が広がる長閑な風景が広がっている。
        
                    二の鳥居
        
                      拝  殿
 
 七社神社   江南町樋春一〇二三
 山崎は、荒川の堤防沿いに位置し、用水の取り入れ口の意から古くは樋口村と称した。万治三年(一六六〇)に村の南部の春野原を分村し、明治五年に至り、樋口村の「樋」と春野原村の「春」とを組み合わせて樋春村と命名した。
 春野原は鎌倉期から戦国期に見える荘園名「春原荘」の遺名であること、地内の平山家の先祖、新井豊後守は深谷城主上杉左兵衛憲盛に属して当所に住し、深谷落城後当地に土着したと伝えることから、中世末期には既にこの辺りの開拓が行われていたことがわかる。ちなみに、当社の本殿造営が永禄年間(一五五八-七〇)に行われたとの伝えがあり、平山家とのかかわりが考えられる。
『風土記稿』樋口村の項には「七社明神社 当村及び春野原村の鎮守なり、押切村八幡神主篠田周防持」とある。一方、春野原村の項には「春日社及び樋口村の鎮守なり」「真光寺持」とある。両者の記述は七社明神社と春日社が別々に記られているように受け取れるが、実際は古くから一殿に二社が祀られていた模様で、「神社明細書」には、両村の入会地に「七社神社・春日神社」が両村鎮守として鎮座し、樋口村では七社神社と呼び、春野原村では春日神社と呼ぶとある。このような形になったのは春野原村分村以降のことであろう。
                                   「埼玉の神社」を引用

   
 
境内坂田稲荷社・持木稲荷社・実朝社合殿          不動・御嶽山霊神等
        
             拝殿東側に祀られている稲荷社・手長神社
 拝殿東側には「手長神社」と並んで「稲荷社」の祠が祀られている。樋春北地域には通殿様と呼ばれる真光寺持ちのお堂があり、これは『風土記稿』樋口村項に見える「通殿稲荷社」の事という。明治24年(1909年)に宇四度梅原地区(うしどうめはら)から七社神社に合祀された「稲荷社」とは、この通殿稲荷との事だ。
                 
 樋春地区は荒川の右岸と和田吉野川の左岸に挟まれた低地が広がる地域である。本来川の近くにこの名を関した神社が鎮座している場合、それは生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られていると考えるのが順当な線だが、一方でこの地名の周辺には、古代の製鉄遺跡や金属の精錬を生業とする人々が信仰した神社も多く分布している。
『風土記稿』春野原村には「鍛冶屋舗」という小字もあったので、古い時代には金属の精錬を営む人々が住んでいた可能性も否定できず、通殿地名は鍛冶、鋳物師などとの関連性もありそうである。

 


 



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万吉氷川神社

万吉氷川神社が鎮座する地域は「万吉」と書いて「まげち」という。一風変わった地名だが、「万吉」という地名は鎌倉時代には既にあったようだ。
『源平盛衰記』では、直実が戦いに備えるため権太という家来に命じ、名馬を求めさせるため、馬の産地奥隆国(青森・岩手県方面)へ捜しに行かせ、権太は奥隆国一ノ戸で名馬を見つけ、連れ帰った。その名馬は権太栗毛と名付け、源平の戦いにおもむいたという。しかし、乱戦の中、馬の腹を矢で射られ、馬は死んでしまい、これを憐れんで馬を祭った神社を権太の住む万吉郷の一角に建てたといい、これを「駒形」の場所としている。「○○郷」として記載されている所からも、それ以前から地域名として認識されていたと考えるほうが自然と考える。

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市万吉986
             ・御祭神 保牟田別命(誉田別命) 素戔嗚尊
             ・社 格 旧万吉村鎮守・旧村社
             ・例祭等 祈年祭 222日 例祭 413日 新嘗祭 1124
                 *例祭等は「大里郡神社誌」を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1219334,139.3651518,17z?hl=ja&entry=ttu  
 万吉氷川神社は埼玉県道81号熊谷寄居線を東側に進む。その県道起点である万吉橋交差点にて埼玉県道11号熊谷小川秩父線と交差し、右折するとすぐ右側に万吉氷川神社の鳥居が見える。
 鳥居の先で右側に「万吉第二集会所」があり、駐車スペースもある為、そこに駐車してから参拝を行う。
        
             東向きの参道。鳥居の手前には社号標柱
        
             鳥居の先には開放感のある空間が広がる。
 
      参道左側には案内板がある。           境内の様子
 氷川神社 
 当社は、「新編武蔵風土記稿」万吉村の頃に、「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と記載されているように、創建は古い。「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。
 明治初年の神仏分離により、見性院の管理下を離れた当社は、村社となり明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社とともにハ幡神社を合祀。本殿、拝殿、幣殿を新改築したが、昭和二十年八月十四日夜の熊谷空襲により焼失。戦後の経済困難の中、氏子各位の篤い浄財により昭和二十三年に再建され、現在に至っている。三間二間の切妻造りで、一間の向排を持ち、向排屋上には一対の唐獅子の置物が置かれている。夏の八阪祭をはじめとする祭典には多くの老若男女が参詣に訪れ、年々賑わいを見せている。

 平成三十年三月
 万吉地区文化遺産保存事業推進委員会
                                      案内板より引用
        
                     拝  殿

        
                     本  殿 
 氷川神社  熊谷市万吉九八六
 万吉は既に鎌倉期から見える郷名で、貞応三年(一二二四)正月二十九日の新田尼譲状に「春原庄内万吉郷間事」とある。地名の由来については、牧の当て字とするもの、条里制に基づく牧津里から起ったとするもの、荒川に沿った曲り地がなまったもの、更にはマゲチはケチの転訛で、マケチのケチは立ち入ると不祥事が起こるとされるとするものがある。
『風土記稿』万吉村の項に、当社は「氷川社 村の鎮守なり、土人一宮と唱ふ、社内に囲み一丈余の古松あり、見性院持」と載る。これに見える「一宮」とは、武蔵国一の宮氷川神社を指すと思われ、当地の開拓に際し、氷川の神を氏神と祀る一族が当社を奉斎したものであろう。一の宮は、平安初期から鎌倉初期にかけて出現した一種の社格であることから、土人の伝えも当社の創建の古さを誇示するものと考えられる。別当見性院は天正年間(1573-92)の開山である。
明治初年の神仏分離により見性院の管理下を離れた当社は、村社となり、更に明治四十二年に字前平塚の無格社八幡神社に移転し、地内にあった七社の無格社と共に八幡神社を合祀し、現在に至っている。ちなみに移転前の社地は、字一本松と呼ばれる所で、その参道の入口は秩父・小川・熊谷線に面した友成士十家の前で、古くは幟立てがあり、ここから1㎞余りにわたって参道が延びていたという。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 拝殿左側に富士塚。傍らに祠もある。詳細不明。   社殿左側にはお狐様2体のみあり。
                             右側には三峰社か
 ところで冒頭にも記載したが、万吉氷川神社が鎮座している「万吉」という地域名は一風変わった名前だ。上記「埼玉の神社」による万吉氷川神社の由緒にもその由来が書かれているが、ホームページにて「万吉地区文化遺産保存事業 調査研究報告会 」や「埼玉県地名誌」等で紹介されている「万吉」の由来について幾つかあげられているので、ここに記載する。
1 マキ(牧)の当て字から、マキ(牧)→マキ(万吉)→マゲチ〔埼玉県地名誌から抜粋〕
2 条里制に基づく牧津里の遺名から。〔埼玉県地名誌〕
3 マゲチは“マケチ”の転化ではないかと思われる。“マケチ”の“ケチ”は、立入ると祟り があるとされたところで、“マ”は接頭語である。
4 曲地の意味。つまり、曲地(マガリチ)が北側にも鳥居。
        
  東側の正面鳥居より小型だが、朱の塗料の落ち具合が逆に歴史の趣きを感じさせてくれる。


 万吉地区一帯は嘗て新田源氏岩松氏の所領であったという。
 群馬県世良田(現尾島町)に長楽寺という古刹があり、南北朝時代、南朝の功臣であった新田義貞をはじめとする、新田家の菩提寺でもある。本寺につたわる「長楽寺文書」と、新田家の一族である岩松家につたわる「正木文書」には、下野国足利氏の2代目当主・足利義兼には庶長子義純がいて、幼少期は父義兼と共に大伯父の新田義重に上野国の新田荘で養育されたという。義純は足利義兼の長男だが、母が遊女だったので庶子とされ、父は従兄弟に当たる新田義兼の娘のもとに義純を入り婿させ新しく一家を興させた。こうして、血統的には足利氏だった義純は、新田党の一員となり、「岩松次郎」を名乗ることになる。
 ところが、元久2年(1205)武蔵畠山の領主畠山重忠が北条義時に攻められ戦死すると、北条政子・義時の妹である故重忠の未亡人のもとに義純を再入婿させ畠山氏の名跡を継がせることとなる。義純は結局この提案を受け入れ、新田義兼の娘岩松女子と離婚し、重忠の未亡人と再婚し「畠山三郎」と名乗った。
 義純が新田義兼の娘岩松女子と離婚すると、岩松女子との間に生まれた長男時兼・次男時朝は生母岩松女子のもとに残されたため、岩松女子の母で新田義兼の未亡人だった新田尼は彼らを哀れみ新田荘内の諸郷を分け与えた。新田岩松家の始まりである。そして新田家の領地から菩提寺の長楽寺へ寄進されたうえ、岩松氏が重忠の旧領である当地へ派遣され、万吉内に在住していたことが記されている。
但し足利義純が先妻の子を義絶したのであれば、本来岩松氏は新田庄内の数郷の領主でしかないはずで、平姓畠山氏由来の所領が存在することはありうるのであろうか。疑問は残る)
        
                  静かな境内の様子
 岩松氏は母系である新田氏を以って祖と仰いできたが、同時に父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇り、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
 南北朝時代、新田氏宗家は義貞と共に足利尊氏と敵対し没落するが、新田岩松氏は時世を読みながら巧みに世の中を渡りきり、結果的には「新田氏」を存続させたともいえる。
 

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