古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新田下江田矢抜神社


        
               
・所在地 群馬県太田市新田下江田町500
               ・ご祭神 經津主命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 4月 春祭り 11月 秋祭り
 埼玉県熊谷市西別府の上武インターチェンジ(深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に向かう。利根川を越え、暫く道なりに4km程直進し、「尾島第二工業団地」交差点を右折すると、すぐ北側正面に新田下江田矢抜神社の赤い鳥居が見えてくる。
 社の南側には利根川支流である石田川が流れ、西側には広大な田園風景が広がる静かな場所に鎮座する。まさに村の鎮守様といったような第一印象。
        
                 新田下江田矢抜神社正面
 今回全く事前準備等なく参拝したので、この社に関する予備知識なし。なんでも「二ツ塚古墳」と呼ばれる古墳墳頂に鎮座しているようだが、実見してもその実態はよくわからなかった。

    鳥居上部に掲げてある社号額         緑の社叢に囲まれた境内と参道 
 この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだが、南北朝の戦いで新田氏が敗れたため、足利氏によって分割されてしまったという。
 江田氏は上野国新田郡世良田郷を支配する清和源氏新田氏流世良田氏一族。この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだ。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞の一族で家臣である江田行義(えだ ゆきよし)はこの地に領地を持っていた。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)で世良田有氏の子。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされる。しかし史料上では江田氏の極楽寺坂における活躍の様子は確認できず、実際は江田氏の本家筋にあたる世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。建武政権では、武者所三番頭人を務めた。
        
                    拝 殿
 建武2年(1335年)に足利尊氏が政権から離反すると、義貞に従い足利氏一派の追討にあたり、新田軍の中核として活躍した。延元元年(1336年)3月に尊氏が九州へ逃れた際には、病気の義貞に代わり大舘氏明と共に中国地方平定のために出陣し、播磨国室山で赤松則村を撃破する軍功を挙げた。しかし同年5月の湊川の戦いで再挙した足利軍の前に敗れた[2]。同年10月、比叡山で後醍醐天皇が義貞を見捨てて下山し、尊氏と和睦しようとした際は、新田一族内に主戦論を唱える者が多い中、大舘氏明と並ぶ数少ない和平派となり後醍醐天皇に従った。北陸に向かった義貞とは袂を分かち、以降は南朝方として丹波高山寺城を拠点に奮戦する。
 後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
        
                         拝殿の右側には案内板が設置されている。
 矢抜神社傳導板
 一、立地由来
 万治一年(一六五八年)中江田、下江田に分社され、
 太田市新田下江田町本郷甲五〇〇番地に鎮座する。
 二、祭神 經津主命(フツヌシノミコト)
 三、鎮座する祈願神
 1 本殿
 2 お手長様(火伏せの神)
 3 伊佐須美様(稲作の神)
 4 おしら様(養蚕の神)
 5 諏訪様(当地開拓の神)
 6 秋葉様(防火・火難除けの神)
 四、年中まつりごとの行事
 1月 氏子本殿参拝 
 2月 風祭り 宮司来社(世話人選任 若1年・本4年)
 3月 お手長様拝礼 山刈り(郭順)
 4月 春祭り 宮司来社(区長・世話人)
 7月 御諏訪様拝礼
 11月 秋葉様拝礼
 11月 秋祭り 宮司来社(区長・世話人)
 12月 大祓い式 宮司来社(古神札・幣束・お焚きあげ・世話人)
 12月 鳥居しめ縄(飾り 世話人)
                                       案内板より引用


 案内板にも記載されているが、境内には多数の境内社が「祈願神」として祀られている。
 
       境内社・諏訪社               境内社・秋葉社
 
      境内社・おしら様          境内社・お手長様、奥には伊佐須美様

 社殿左側には(旧)新田町指定天然記念物である「矢抜神社の山椿」の案内板がある。
 
 新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿
 指 定 平成十二年四月六日
 所在地 新田町下江田甲五〇〇
 この山椿は、樹齢三〇〇~四〇〇年位と推定される古木です。一号樹は目通り一五一センチメートル、二号樹は一三三センチメートルで、樹高は周辺の樹木に比べて高く伸びています。昔から自生して来た品種で、赤色の一重の花弁で、花芯が大きく五弁の花びらを持っています。花実ができ、秋になると三片に割れニ・三個の種子が落果して自然繁殖していく椿の原種です。今は山村地帯でしか見られない貴重なものです。なお、一号樹は、平成十三年一月に風雪のため幹の中ほどから折れてしまいました。
 神社がまつられているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。
 このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。
                                      案内板より引用
        
                          落ち着いた雰囲気の静かな社


参考資料
Wikipedia」「Enpedia」「境内案内板」等
 

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