古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

簗瀬神社

 秩父郡野上郷矢那瀬地区は大きく蛇行して流れる荒川沿いの河岸段丘に位置する集落で、地名は荒川の流れの速さを「矢の瀬」と表現したことに因むともいわれている。かつて荒川に沿って秩父往還道が走り、矢那瀬集落には宿駅が置かれていた。
 同時に
このあたりは県内屈指の養蚕地帯でもあったという。
【新選武蔵風土記稿】秩父郡之六 矢那瀬村
 
産物は烟草(今でいうタバコ)・絹を第一とし、農隙には男は薪を採、女は絹太織を製して資用に給せり、御打以来御料所にて、明暦元年伊奈半十郎検地し、貢税を定む。
 
秩父一帯では江戸期から養蚕が盛んだったが、後年単に生糸を産するだけでなく、絹織物の生産までを行うようになり、秩父銘仙の産地となったという。 
        
             ・所在地 埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬1380
             ・ご祭神 日本武尊 天之狭霧神
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 315日 秋祭り 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1329869,139.1415987,18z?hl=ja&entry=ttu  
 簗瀬神社は国道140号線を長瀞町方面に進み、波久礼駅前交差点を越えて暫く進むと右側に緑色の屋根のあるディサービスセンターがあり、そこのT字路を右折するとほぼ正面に
簗瀬神社の鳥居と社が見える。左隣に矢那瀬集落農業センターがあり、そこの駐車スペースを利用して参拝を行った。
        
                              簗瀬神社正面
       
                            鳥居の左側に設置されている案内板             
         
                     拝  殿
            拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもの 

 簗瀬神社御由来   長瀞町矢那瀬
1380
 ◇
割拝殿が関東では珍しい
 矢那瀬の地は
上郷・下郷に分かれ、当社は上郷の鎮守として祀られる。
 御祭神は日本武尊で尊の徳を称える里の人が弘安年中(12781288)に祀ると伝える。矢那瀬の地は北の大月山と南の金尾山が荒川岸まで迫り、また複雑な地形が濃霧を発生させる交通の難所であるため、正安年中(12991302)に天之狭霧神を併せ祀り「霧明神」とも「霧の宮」とも称した。
 元禄3年(1690)の棟札には「毘沙門天宮」と記され、社蔵されている。一間社流れ造の本殿は室町期の風を残すともいわれ、とりわけ拝殿は東西の割拝殿という極めて珍しい形式のもので、群馬県片品鎮座の武尊神社に同形式の拝殿がある。武尊神社の拝殿は同族や集落によって東西に分かれ祭祀を行う宮座によって生じた形式であることから、当社も古くは同様の祭祀組織のあったことが想像される。
 なお字北久保の地蔵堂には、室町時代の特徴を示す埼玉県指定有形文化財考古資料の「石幢」がある。                                   案内板より引用
 
   一間社流れ造の本殿(写真左・右)。その造りは室町期の風を残すともいわれている。
    
板張りの覆屋内には本殿を中心に左側に稲荷社、右側に三社神社が鎮座している。
         
 本殿の礎石・束石の周りのみならず、社殿の参道や階段等には緑泥石片岩が綺麗に敷き詰められている。この緑泥石片岩は三波川結晶片岩の薄く剥がれやすい特徴(片理:へんり)を利用してつくられており、樋口駅から北西約1500mのところに石材を採掘した「板石塔婆石材採掘遺跡」がある。ここの石材は「秩父青石」と呼ばれ、関東一帯で石皿や石斧、板碑として古くから使われてきたという。
       
                書家、
菅谷幽峯書きの             拝殿右側に鎮座する境内社
                  天手長男神の石碑

 
簗瀬神社の御祭神は日本武尊と共に正安年中(12991302天之狭霧神(あまのさぎりのかき)が祀られている。日本武尊は宝登山神社の御祭神でもあり、秩父地域にも白鳥伝説等ゆかりのある神であるが、天之狭霧神はあまりメジャーな神ではないので、改めて調べてみた。
天之狭霧神
古事記にのみ登場する神で、古事記ではイザナギとイザナミの孫にあたり、サギリとは霧のことで、霧に宿る神とされる。
【古事記 原文】
 此大山津見神、野椎神二神、因山野持別而、生神名、天之狹土神、(訓土云豆知。下效此)次國之狹土神、次天之狹霧神、次國之狹霧神、次天之闇戸神、次國之闇戸神、次大戸惑子神、(訓惑云麻刀比。下效此)次大戸惑女神。自天之狹土神至大戸惑女神、八神。
【現代語訳】
 
この大山津見(おおやまつみ)神と野椎(のづち)神の二柱の神が、山と野を分け持って、生んだ神の名は、天之狭土(あめのさづち)神、次に国之狭土(くにのさづち)神、次に天之狭霧(あめのさぎり)神、次に国之狭霧(くにのさぎり)神、次に天之闇戸(あめのくらど)神、次に国之闇戸(くにのくらど)神、次に大戸惑子(おおとまとひこ)神、次に大戸惑女(おおとまとひめ)神。天之狭土神より大戸惑女神まで合わせて八柱の神である。
                  
・古事記ではイザナギとイザナミの子とされる山の神「大山津見神」と野の神「鹿屋野比売神」との間に以下の四対八柱の神を生んでいて、その中の一柱である。
 父神である大山津見神縫い関して神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、は「大いなる山の神」という意味となる。その山と野の神である大山津見神と野椎神の二神が、山野に関係する8柱で対をなす4組の神々を生む。
・天之狭霧神、国之狭霧神は、それぞれ、あめのさぎりの神、くにのさぎりの神と読む。本居宣長は「さぎり」の「さ」を「坂」、「ぎり」を「限り」とし、これを「境界の神」としているが、ここでも「さ」を一般的な接頭辞として「霧の神」と取るのが妥当だと思われる。
*「狭霧」は現代でもそのまま使われる言葉(接頭辞「さ」+「霧」)
*話がややこしくなるが、
出雲の大国主の子孫の系譜に天狭霧神(アマノサギリ神)がいて、遠津待根神(女神)の親神として名前が挙がっている。これがイザナギとイザナミの孫として生まれた天之狭霧神かどうかは解明されていない。

 古来から矢那瀬地区周辺は山と川が複雑な地形をなしているため、濃霧がしばしば生じ、見通しが悪く、交通の難所の一つに数えられる程であったことから、災難除けとして正安年間に天之狭霧神を当社に併せ祀り、霧明神社と称したと伝えられる。
 

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