古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

畔吉諏訪神社

 上尾市・畔吉地域は、上尾市西部の大宮台地上に位置する。因みに「畔吉」は「あぜよし」と読み、なかなかの難解地名である。嘗ては江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する畔吉村、古くは南北朝期より見出せる畔吉郷もしくは畔牛郷(あぜうしごう)と称していて、また他にも徳星寺天正十九年文書に上足立郡「阿世吉郷」、井原文書には「畔谷瀬」とある。
 地名由来もハッキリとは分かっていないが、地形上の特徴から発生した名称である事には間違いないと考える。地域東側を江川の支流の逆川およびその谷戸を挟み中分・及び小敷谷地域、南側は丸山都市下水路(長堀)を挟み平方地域、西側は荒川を挟み比企郡川島町出丸中郷、北側を領家地域と隣接している。
 地域全域は市街化調整区域であるが、上尾駅からは
4 kmほど西に離れていて、徒歩圏ではないため、農地が多く宅地化は進んでいないようだ。荒川の流域沿いは荒川近郊緑地保全区域に指定されていて、自然が豊かな地域でもある
        
              
・所在地 埼玉県上尾市畔吉835
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧畔吉村鎮守・旧村社
              ・例祭等 例祭 217日 春祈祷 44日 祭礼 101415
                   お日待 1123 
                   *4月春祈祷…「源太・万作踊り」
                   *10月のお日待ち…「ささら獅子舞」
 今泉氷川神社から一旦「泉が丘通り」に戻り、そこを右折、600m程北上した十字路を左折する。通称「はなみずき通り」を1.2㎞程進み、「東武バス車庫前」交差点を左斜め方向に進路変更する。その後国道17号線を越えた300m先で、進行方向右手に畔吉諏訪神社ののぼり旗ポールが見えてくる。
 社の境内には「大石農民センター」があり、駐車スペースはあるようだが、ゲートが閉まっているので境内には入れない。但し、社の南側に「上尾丸山公園」があり、そこの北側駐車場に車を停めてから徒歩(約10分程)にて社に向かう。
        
                  畔吉諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 による「畔吉村」の解説によると、『平方(ひらかた)村の北に続き、集落は荒川東岸の台地上にある。荒川対岸は比企郡出丸中郷(現川島町)。康暦二年(一三八〇)八月二五日の足利氏満御判御教書(円覚寺文書)によれば、同月六日に武蔵国金陸寺に寄進された塩田帯刀左衛門尉跡の「足立郡畔牛郷内」などを同寺雑掌に打渡すよう山下四郎左衛門尉に命じている。塩田氏からの所領没収は同年の小山義政の乱にかかわるものか。金陸寺の所在地などは不詳。天正一七年(一五八九)八月二八日には、「畔吉之内徳正寺」の寺内および門前の諸役が太田氏房により免除され(「太田氏房印判状」徳星寺文書)、同一九年一一月の徳川家康朱印状(同文書)では、「武州上足立郡阿世吉郷之内参石」が徳星寺に寄進されている。
 なお足立系図(兵庫県足立九代次氏蔵)には足立遠元の第五子肥後守遠景に「号安須吉」の注があり、この「安須吉」を畔吉に比定する説もある』とあり、「畔吉」地名由来として新たに「足立系図」に載せている「安須吉」を畔吉に比定する説が紹介されている。ということは、足立遠元は平安末期の武将・官僚でもあり、その地名の淵源は平安時代まで遡ることになる。
        
   鳥居を過ぎてすぐ右側にある「畔吉ささら獅子舞」「畔吉諏訪神社大山石灯籠」の標柱と、
                          その間にある畔吉諏訪神社大山石灯籠。
               また標柱の左側には、畔吉諏訪神社大山石灯籠の案内板がある。
 上尾市指定有形民俗文化財 畔吉諏訪神社大山石灯籠
  諏訪神社 (大字畔吉835)
 上尾市やその周辺地域では、江戸時代から遠隔地の有名社寺を信仰する代参講が盛んに行われ。その中で特によく行われてきたものに大山講がある。大山講は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社を信仰する講として結成され、古くは大山石尊大権現と呼ばれたことから石尊講とも呼ばれる。
 大山山頂に大山阿夫利神社の本社があり、山開きの期間(七月二七日から八月一七日まで)のみ参拝登山ができるものとされてきた。大山灯籠は、それぞれの講の地元に、この山開きの期間に立てられるものであった。
 上尾市内の大山灯籠の多くは、木製の組立て式である。山開きの時期になると、地元の神社や集会施設、道端などに立てていた。周囲に竹を4本立て、これに注連縄を巡らせ、毎晩灯明をともすものであった。
 この大山石灯籠は、木製の灯籠ではなく石灯籠で常設されている。大山石灯籠は、市内では畔吉と領家の2か所にとどまる貴重な例である。この石灯籠でも、毎年七月下旬から1週間、大山灯籠行事を行っている。
 石灯籠の背面には、元治元(1864)年の紀念銘があり、正面には「大山石尊大権現」と大きく刻まれている。このほか、造立主体や製作石工も刻銘から明らかであり、上尾市域における大山信仰の状況を知るうえで貴重な文化財といえる。
                                      案内板より引用
        
          参道を挟んで左側には「
畔吉の万作踊り」の標柱がある。
  標柱の右側には、「畔吉の万作踊り」と「畔吉ささら獅子舞」の案内板が設置されている。
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉ささら獅子舞
  (保持団体)畔吉ささら獅子舞保存会
「畔吉ささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3人で舞う、三匹獅子と呼ばれる系統の風流系民俗芸能である。戦国時代に岩付(現在のさいたま市岩槻区)の殿様が見に来た獅子だったと伝わっている。
 獅子舞は、畔吉地区の鎮守である諏訪神社の例祭で悪疫退散・五穀豊穣などを願って奉納される。かつては八月二七日が例祭日であったが、現在は一〇月中旬の日曜日となっている。例祭では、諏訪神社のほか徳星寺でも1回奉納される。
 舞手の構成は、牝獅子と中獅子、王獅子の三人一組である。舞は、笛に合わせて進行し、舞手の獅子は腰に着けた太鼓を叩きながら舞い、花笠をかぶる岡崎が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、十二切といわれる一曲式が基本で、2時間弱の舞である。このほか、短縮版の三切、七切という演目もある。
 舞の中盤では歌が入り、後半には牝獅子隠しとなる。牝獅子隠しは、牝獅子が花笠の間に入って隠され、これを中獅子と王獅子が探し、牝獅子の奪い合いで争うが、和解するという内容である。
        
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉の万作踊り
  (保持団体)畔吉源太郎万作踊保存会
 万作とは、万作踊りと呼ばれる舞踊と、段物・芝居などといった演劇のことで、埼玉県の稲作地帯の代表的民俗芸能である。農民の豊年満作の娯楽芸能として、江戸の冠木などの演劇の影響を受けながら発達してきた。起源は明確ではないが、江戸時代末期に始められたものと考えられ、大正時代から昭和初期にかけて全盛を誇っていた。上尾市域は、県内でも特に万作が盛んに行われていた地域だった。
「畔吉の万作踊り」は、大正時代には既に行われており、昭和五五(1980)年頃からは、畔吉の鎮守である諏訪神社の春季例祭(四月の第1日曜日)に奉納されている。演目は、下妻踊り・手拭い踊り・銭輪踊り・伊勢音頭・口説きの5種類である。このうち基本となる演目は下妻踊りであり、採りものを持たずに踊る。銭輪踊りは、踊りの三番叟と呼ばれ、最初に踊るのはこの演目である。下妻踊り、手拭い踊り、銭輪踊りは、ほぼ同じ系統の歌で踊るが、伊勢音頭は、全国的に広く分布する伊勢音頭の歌で踊る。
                                      案内板より引用
        
                参道から見た境内の様子
          社の正面幅は狭いようだが、奥行がかなりあるようだ。
           また社殿は石垣等により高台上に鎮座している。
        
                      参道を進むと左側に神楽殿がある。
       10月中旬の日曜日にある例大祭に奉納される「畔吉ささら獅子舞」
               の舞台となっているのであろう。

 畔吉諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に土着・畔吉村の名主を勤めていた井原家が、石戸領の総鎮守諏訪神社を、井原家の氏神として勧請した。その後、寛保元年(1741)に時の当主井原弥市が徳星寺に社を寄附したという。以来畔吉地区の守護神として村民より崇敬されてきた。『新編武蔵風土記稿』には以下の記載がある。
『新編武蔵風土記稿 畔吉村』
「神社 氷川社
 長二尺、圖徑三寸許なるなて角の青石を神體とす、是雷斧雷槌の類なるべし、德星寺の持、村の鎭守なり、諏訪社 持同じ、」
「寺院 徳星寺
 天台宗、川田谷村泉福寺末、東高野山遍明院と號す、本尊阿弥陀を安ず、天正十九年寺領三石の御朱印を賜はれり、當寺は往古弘法大師の開闢せし地ゆへ東高野と唱へ、眞言古義の古刹なるよし、其後いつの頃か今の宗旨に改めたれど、山號は尚古のまゝが襲ひ用ひしといへり、されど舊記を失ひたれば、其詳なることは知らず、天正十七年太田氏房より出せし文書一通を藏す、其文左の如し、
 畔吉之内徳正寺寺門前共に任侘言、諸役免許可爲不入者也、仍如件、
 天正十七己丑八月廿八日 圓阿彌奉
 井原土佐守殿」
「舊家 彌市
 代々名主を勤む、先祖を井原土佐守政家と稱し、岩槻の十郎氏房に仕へしものなるが、落城の時打もらされ當所に來り住せりと云、されど德星寺に藏する文書によれば、落城以前よりこゝに居りしにや、系圖舊記等もなければ其詳なることを知らず、近村町谷村の民金右衛門も井原氏にて、先祖主税助へ與へし太田氏房等の文書数通を藏し、又與野町にも平八と云もの同氏にて舊家の由いへば、かたがた此邊に井原氏のひさしく住居せしことしるべきなり」
        
                    拝 殿
           諏訪神社という名称に似合う力強さのある社殿    
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 諏訪神社 上尾市畔吉八三五
 祭神…建御名方命
 畔吉は、古くは畦牛・阿世吉とも称した。康暦二年(一三八〇)の「鎌倉公方足利氏満御教書」(円覚寺文書)に「足立郡畦牛郷内」とあり、当地の開発が中世までさかのぼることをうかがわせる。
 創建年代は明らかでないが、口碑によれば、当社は元々、江戸期に名主を務めた井原家の氏神であったという。当村が属した石戸領の惣鎮守は川田谷村(桶川市川田谷)の諏訪神社であることから、その分霊を勧請したものとも考えられる。
『風土記稿』によれば、井原家の先祖は井原土佐守政家と名乗り、岩槻城主太田氏房に仕え、天正十八年(一五九〇)の落城に伴い、当地に逃れ土着したというが、徳星寺蔵の文書に落城前に居住していたとする記録もあり、土着の時期は判然としない。『郡村誌』によれば、当社は、寛保元年(一七四一)に時の当主井原弥市により徳星寺に附され、以来、徳星寺が別当となった徳星寺は、弘仁年間(八一〇-八二四)に弘法大師により開基されたとする古刹で、永禄六年(一五六三)に宗旨を真言宗から天台宗に改めた。
 神仏分離後、当社は無格社となり、明治十五年八月二十六日に本殿が再建された。明治二十二年に当村は大石村の大字となり、明治四十年四月二十五日に字中の村社氷川神社をはじめ同大字内の九社を合祀し、村社に昇格した。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の祈年祭、四月の春祈祷、十月のお日待ち、十一月の新嘗祭の年誤解である。そのうち、四月の春祈祷には「源太・万作踊り」が奉納され、十月の「お日待ち」には「ささら獅子舞」が奉納され、共に上尾市指定無形民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」「稲荷社」「八幡社」「水神様」「琴平社」「弁財社」を祀る。
                                      案内板より引用
 
  拝殿手前で参道左側に設置されている      拝殿手前で参道右側には力石がある。
   「諏訪神社々殿修復完成記念碑」    樹木で見えないが、4個綺麗に設置されている。
       
                                       本 殿
   素朴ながら豪壮さも感じさせる社殿であり、一際覆屋根の付いた本殿は重厚感の中に
        きめ細やかで精巧な彫刻が施され、一見の価値があると感じた。

 本殿は明治3年(明治15年再建)の造営依頼幾多の時代の変遷を経て地域の総守護神として広く崇敬されている。その後、明治末年には神社の合祀運動が国の指導で進められるが、当時大石村の大字となっていた畔吉地区は、一村一社にするというこの運動にはくみせず、地区内の神社9社を明治40(1907)年に合祀し、諏訪神社を創設する。鎮守の氷川社から社名を諏訪神社としたのは、それだけ地区民の崇敬が深かったためとみられる。諏訪神社は明治40年に八合神社などとともに村社になっているが、一村一社の国の指導にくみしなかったことは、氏子の深い信仰心と気概を示しているのであろう
        
            本殿前に設置されている合祀社を記した石碑
「五十年記念」と刻印され、その下には右から「諏訪神社」「氷川神社」「稲荷神社」「八雲神社」「八幡神社」「神明神社」「天満天神社」「白山神社」と記されている。
        
             社殿右側に並んで祀られている石祠群
     左から「八幡大神」が4基、その右並びには「水神宮」が2基祀られている。
       水神宮の右隣3基は不明。一番右側に祀られているのが「琴平神社」
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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