古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小新井熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町小新井98
             ・ご祭神 家津御子大神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神
             ・社 格 旧小新井鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春日待 415日 夏祭り 715
 埼玉県比企郡吉見町内の北部に位置する小新井地域は、田畑が大部分を占めている長閑な田園地帯である。但し地域南部には、「吉見町ふれあい広場」「陸上競技場」といった施設が設けられているほか、埼玉県道271号今泉東松山線を挟んですぐ南側には、「フレサよしみ」や「吉見町町民体育館」等もあり、町政としても、これらの公共施設が集積している地を地域拠点の一つとして位置づけ、町民の日常生活の利便性や地域交流の活性化を目指しているという。
 この「吉見町ふれあい広場」から北側を100m程進むと、進行方向斜め左側にこんもりした森が見られ、その中に小新井熊野神社は静かに鎮座している。道も社の先で行き止まりとなり、また駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う。
       
                 小新井熊野神社正面
『日本歴地地名大系』「小新井村」の解説
 旧荒川筋の河道跡を挟んで上細谷村の東に位置し、北は本沢村。集落は旧荒川の自然堤防上に発達する。古くは上細谷村と一村であったが、明暦年間(一六五五〜五八)に分村したといわれる(風土記稿)。元禄郷帳では高二〇一石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり、同藩領で幕末に至ったと考えられる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。
        
                       正面鳥居と境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小新井村』
 小新井村は元上細谷村の内より分村すと云、村名正保の改には見えず、程なく分ちしと見えて、元祿の國圖及鄕帳に始て見えたり、(中略)又新田は東の方一里許荒川の邊にあり、民戸はなし、爰も寛文八年同人檢して高入となれり、
 熊野社 村の鎭守なり、相傳寺持、
 相傳寺 新義眞言宗、今泉村金剛院門徒、不動を本尊とす、村内名主喜右衛門の先祖開基すと云、觀音堂
        
                    拝 殿
 熊野神社  吉見町小新井一七〇-一(小新井字屋敷)
 荒川と市野川の間の低地帯に位置する小新井は、もと上細谷の一部であった。上細谷から分村した年代は明らかではないが、検地の記録からは正保から元禄にあけてのころ(一六四四-一七〇四)と考えられている。
 当社は小新井の名主を務めた金子家(当主は典彦)の中興の祖とされる金子和索が、天文元年(一五三二)に氏神として紀伊国(現和歌山県)の熊野那智神社から勧請したものと伝えられ、以後、金子家の氏神として祀ってきたという。当社の境内が金子家に隣接しているのは、こうした経緯によっており、鎮座地の字名を「屋敷」というのも、金子家の屋敷があることにちなんだものである。
 社蔵の文書によれば、慶長五年(一六〇〇)、小新井が上細谷から分村したのをきっかけに、当社は小新井の鎮守として祀られるようになったもので、またこの時、金子家はそれまで同家の私有地であった境内九八坪を当社に寄進し、社殿を造営して「村の鎮守様」としたと伝える。その後、江戸時代の後期に社殿の造改築を行い、明治四年に村社となった。なお、江戸時代、当社は金子家の先祖が開基した相伝寺の持ちであったが、相伝寺は神仏分離によって廃寺となり、その跡地は集会所となっている。また、当社ははじめ地内の芋島にあったが、いつのころか現在の社地に移されたとの言い伝えもある。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            境内に設置されている「
御社殿造営記念碑」
 この
記念碑文には「當社は天文元年当時の名主金子家直が紀伊国熊野那智大社より勧請し慶長五年に小新井に寄進された 爾来字の鎮守として大切にされてきた」と載せている。「埼玉の神社」では天文元年に「金子和索」が社の創建に関わっていたとの記述であり、「金子家直」と名前が違っている。どちらかの記載ミス、または同一人物ではあるが、何時の頃か「改名」している可能性も捨てきれない。現状ではそれ以上の考察は難しかった。
 
  社殿左側に祀られている天満宮の石祠     境内右側隅には古く小さな石碑がある。

 この碑に刻まれている文字は古く見えづらい。但し所々「奉納」「敷石」「参」と見える事から、「埼玉の神社」に載せられている伊勢参宮記念敷石奉納碑であろうかと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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谷口稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町谷口99
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧谷口村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 418日 夏祭り 710日 秋祭り 1015
「道の駅いちごの里よしみ」の駐車場沿いにある「下細谷」交差点を東行し、埼玉県道27号東松山鴻巣線を荒川右岸方向に進む。650m程先の信号のある交差点を左折、暫く道なりに進むと、進行方向左手に谷口稲荷神社の重厚ある古びた石の鳥居が見えてくる。
        
                                
谷口稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「谷口村」の解説
 古名村・丸貫村の西に位置し、西は下細谷村。地内に天文一四年(一五四五)の板碑がある。田園簿では「矢口村」とみえ、田高一八〇石余・畑高四四石余、幕府領。日損水損場の注記がある。元禄郷帳では高三〇七石余。宝暦一三年(一七六三)下総国佐倉藩領となり、以降同藩領で幕末に至ったと思われる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。

『風土記稿 谷口村』の項には、「比企郡松山町より足立郡鴻巣宿への行路にかかれり」とあるように、谷口の集落は松山鴻巣道沿いにある。古くは「矢ノ口」と書き、更に当社の鎮座地付近を「矢筑(やづき 谷筑)と呼ぶことから、中世にはしばしば戦場となった所であったのではないかといわれている。
 一方、当社の南方一帯がかつて葦原であったことから、ここを「野の入口」あるいは「野の尽きる所」という意味で「やぐち」「やづき」と呼ぶようになったとも考えられている。
 
   歴史を感じる重厚な雰囲気が漂う鳥居     鳥居の社号額 「正一位稲荷大明神」
      この石製の社号額の額縁には、天空を舞う双竜が彫り込まれていて、
        この額を制作した職人のこだわりを感じる凝った造りである。
        
             長い参道の先で小塚上に社は鎮座している。
       
          石段付近に一際高く聳え立つイチョウの古木(写真左・右)
       
                                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町谷口五六四(矢口字谷筑)
 谷口の集落の中ほどに位置する当社の参道入り口には、古びた石の鳥居が立っている。この石鳥居には「正一位稲荷大明神」と刻まれた石製の社号額が掛かっており、その額縁に彫り込まれた天空を舞う双竜には力強さが感じられる。そこから、長い参道を歩いて行くと、正面が小塚の上に築かれた社殿である。小塚の周りには、銀杏・欅・杉などの古木が茂っているが、長年の洪水と風雪に耐え抜いてきたこれらの樹木は、当社の歴史と共にあると言っても過言ではない。
 当社の創建については、社殿に貞和元年(一三四五)勧請とあるものの、それ以外は不明であり、一説によれば金子仁蔵家の氏神が後年村持ちになったものともいわれている。金子家の屋敷跡は当社の南側である。また、現在のところ、鎮座地の谷口村の開発についても史料等がなく、明らかではない。それは荒川の度々の氾濫によって史料が流出したり、近村同様に村が荒廃した時期があったためと思われる。
『風土記稿』でも、当社については「稲荷社 村内の鎮守なり、村持」とあるだけで、別当は置かれていなかったものか記載がない。しかし、一間社流造りの本殿には数か所「卍」の紋が取り付けられていることから、当社の近くにある真言宗妙蓮寺が当社の祭祀に関与していたと推測される。ちなみに、本殿については、正保年間(一六四四〜四八)及び貞亨年間(一六八四〜八八)の造営記録を伝えている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
       
      石段下にある
阿夫利神社名の御神燈    塚上に祭られている石祠。詳細は不明。

 当社の祭典は、元旦祭・祈年祭(418日)・夏祭り(710日)・秋祭り(1015日)である。しかし祈年祭(通称春日待)と秋祭り(通称秋日待)は祭典と直会だけの祭りで、氏子を挙げて盛大に行うのは夏祭りである。
 夏祭りは、氏子の間では「芋っ葉灯籠」という。これは、当社の祭りの時期が近在よりも早く、まだ梅雨時期に当たる為雨天になる日が多く、祭りの前夜、氏子の誰もが里芋の葉を傘代わりに差して参詣に来ることからきた通称であるという。
 当日は祭典を執り行った後、集会所から万灯・獅子頭・お囃子連の順に列を組み、当社の入口に到着すると、獅子頭をかぶった者が「宮参り」と称して境内に摺りこみ、待ち受けた子供に対して囃し立てならが社前に至るという風習であるという。
        
                           
社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上銀谷神明社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町上銀谷2671
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧上銀谷村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り 1015
 大和田浅間神社参道入口がある道路を北西方向に450m程直進し、「東野第6公園」を過ぎた路地を左折、暫く進むと右手に上銀谷神明社の白い神明造りの鳥居と、その先に社叢林に囲まれて塚上に鎮座する上銀谷神明社が見えてくる。
        
                  
上銀谷神明社正面
『日本歴史地名大系』「上銀谷(かみしろがねや)村」の解説
 谷口村の東に位置し、東は大和田村。古くは南接する下銀谷村と一村で、銀谷村といい、銀屋とも記したが、貞享二年(一六八五)に二村となった。地内薬師堂には嘉暦三年(一三二八)・至徳三年(一三八六)の板碑がある。この薬師堂に安置する薬師如来石像の腹籠に納められている古杉薬師が「しろがね」であることが村名の起りという(以上「風土記稿」「吉見町史」など)。中世には大串郷のうちで推移した。永禄九年(一五六六)一〇月二四日、太田氏資は「大串之内銀屋不作、十七貫文之所」などを内山弥右衛門尉に与え(「太田氏資判物写」内山文書)、同一〇年一二月二三日には北条家が氏資の証文に任せて矢(弥)右衛門尉に同所などを安堵している(「北条家印判状写」同文書)。
        
              塚上に鎮座する
上銀谷神明社社殿
 地域名「銀谷」は、今では「ぎんや」と呼ばれているが、明治初年までは「しろがねや」と呼ばれ、その名は、当社の別当であった薬師寺の本尊に銀の胎内仏が納められていることに由来しているという。
 当社の境内は、上銀谷のほぼ中央にあり、社殿は塚上に建っている。荒川と市野川の間に位置するこの地域は、低地であるため、しばしば水害を被ってきたが、当社の社殿は塚の上にあるため大きな被害はなかった。それでも昭和13年の大水はすさまじく、氏子は自分の家の屋根を登って難を逃れた程であったが、この時は当社の社殿も半分くらいは水に漬かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上銀谷村』
 上銀谷村は昔上下の別なかりしを、貞享二年分村せりと、民戸十七、(中略)
 神明社 藥師寺の預る所にして、村の鎭守なり、
 藥師堂 浄土宗、川越蓮馨寺の末、無量山と號し、不動を本尊とす、
 藥師堂 腹籠に、行基の作佛を置り、傳へ云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て古杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分れて繁茂せり、

 神明社  吉見町上銀谷三三七-一(上銀谷字神明)
 社伝によれば、当社は、大同年間(八〇六〜一〇)に銀谷の村が始まって以来、その鎮守として崇敬されてきたという。また、氏子の間には、江綱の五太夫様の氏神を当地に勧請したものであるとの言い伝えもある。「五太夫様」という人物については、明らかではないが、戦国時代末期に江綱を開いた「江綱草分け七人衆」の一人、あるいは当時この地で活躍した伊勢の御師ではなかったかと考えられる。
 銀谷は、村の発展にともなって、貞享二年(一六八五)には上下二村に分かれたが、その際、当社は上銀谷の鎮守となり、下銀谷では稲荷社を鎮守として祀るようになった。『風土記稿』上銀谷村の項に「神明社 薬師堂の預かる所にして、村の鎮守なり」とあるのは、当時の状況を表したものである。なお、薬師堂は、霊亀年間(七一五〜一七)に行基が境内の古杉一幹を使ってその本尊を作ったことに始まると伝えられる浄土宗の寺院で、現在は薬師寺と称している。
 拝殿の前には、かつて大人ふた抱えほどもある黒松があり、当社の創建時からあるものといわれていた。この松は、古木である上に枝ぶりもよいので村人の自慢の一つとなっていたが、残念なことに松食い虫にやられてしまい、昭和五十年代にやむを得ず伐採してしまった。
 特に神木として注連縄を張ったり、特別な信仰があったわけではないが、長い間氏子に親しまれてきた樹木だけに惜しまれる。
                                  「埼玉の神社」より引用
*江綱草分け七人衆…江綱村の開発には「小高家文書」によると、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた太田氏や里見氏に与した野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農し、当村を開拓する際に勧請したともいう。
 当社の祭礼に関して、415日の春祭りでは、嘗て大正時代には拝殿の前で、神職の竹井家の夫人が春神楽を奉納していたが、昭和に入り、祭典と直会だけの祭りになっている。また1015日の秋祭りには、氏子各戸で「お日待」と言って餅や赤飯を作って祝う行事であったが、今は祭典を行うようになっている。
        
               拝殿上部に掲げてある
奉納板
 拝殿正面には、当社の簡単な由緒と年中行事及び「敬神生活の綱領」を記した板が掲げてある。氏子のだれかが奉納したものではなかろうか。

 嘗て昭和三十年代までは、当社の本殿は茅葺きであったという。そのため、屋根が傷つくと、氏子総出で西吉見の安楽寺周辺に映えている山茅を刈りに行き、屋根を葺き替えたという。『風土記稿』には「民戸十七」と載せており、その少ない戸数と人員で、長い間社の管理を行って来た。社の維持管理は、村内の諸役の一つで慣例的なものであるとはいえ、屋根の葺き替え等の諸事を長い間行ってきたことは、氏子の方々の崇敬の念と日頃の共助の心がけが厚い証拠でもあろう。
 上銀谷の人々は、全戸が薬師寺の檀家というわけではないが、誰もが当社を村の鎮守として信仰するのと同じように、薬師寺を村の寺として厚く信仰しており、新生児の宮参りをはじめとする人生の節目の参詣や月参りなどは、当社だけでなく、薬師寺にも参っているという。
        
                           石段下に祀られている石祠二基
               
左から稲荷大明神 稲荷大神
        
                石段下から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
                   
        

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大和田浅間神社

 浅間信仰とは、富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香【富士山記】には,875年(貞観17115日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上る様子を表現していると思われ、そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。
 後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。その後、近世に入り、そのなかから長谷川角行という行者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。
 長谷川角行が広めた富士講やその教義は、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。大和田地域に鎮座する浅間神社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つであるという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大和田338
             
・ご祭神 木花開耶姫命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 例祭 714
 大和田地域は吉見町の南東部に位置していて、東境は旧荒川と接している。この旧荒川は江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間荒川の流路であったという。この旧荒川は、現河道の右岸側に3 kmほどの旧河道が現在も埋め立てられず河跡湖や河川として残っていて、所在地から明秋湖とも、埼玉県道27号東松山鴻巣線を挟んで北から順に明秋・鎌虎・蓮沼とも呼ばれ釣り場として利用されている
 瀬替え以前は和田吉野川の流路であったともされ、周辺地域では河道が蛇行していたことから水害が頻発していた。そのため、明治後期になり洪水氾濫対策として旧河道を堰き止め、新たに現河道を掘削したという。
        
                 北方向に伸びる参道
 大和田稲荷神社から埼玉県道76号鴻巣川島線を500m程南下し、コンビニエンスのある十字路を右折し、すぐ先にあるY字路を右折すると、民家の間に大和田浅間神社の参道が僅かに見えてくる。但し、その道幅は狭く、分かりづらいので通り過ぎてしまう可能性も高いので、目視で注意深く確認する必要がある。
        
          北方向に伸びる参道は行き止まり、西に方向転換する。
       すぐ先には鳥居があり、若干の上り斜面の先に社殿が鎮座している。
        
                 大和田浅間神社鳥居
        
                    拝 殿
 浅間神社  吉見町大和田三三八(大和田字下西谷町)
 富士浅間信仰は、室町末期から江戸初期に長谷川角行という行者が現れて、その教義を整え、富士講を広めたことから、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。当社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つである。
 社伝によれば、創建は元禄二年(一六八九)のことで、駿河国の富士山本宮浅間神社からの勧請である。享保六年(一七二一)には村人一六戸によって社殿の再建が行われたという。
鎮座地は大字大和田の南西の外れにある。これは、氏子集落から見て富士山が南西の方角に望まれることにちなんでいる。
『風土記稿』大和田村の項には「稲荷雷電合社 小名堤根の鎮守なり、蚊斗谷村の界にあり、彼村大行院持、彼村民も産神とす。稲荷社、村の鎮守なり、大輪寺持。浅間社 同持」と当社を含む三社が載せられている。これに見える大輪寺は稲荷社の西側にあった真言宗の寺院(明治三十一年火災により焼失)で、「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。
明治四年の社格制定に際し、無格社となったが、幸いにも合祀されることなく今日に至っている。近年では、昭和六十二年に社殿の改築を行った。なお、当社が「上浅間」と呼ばれるのに対し、境内にある石祠は「下浅間」の名称で呼ばれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」の解説に出てくる長谷川角行(かくぎょう)は富士信仰の行者で、富士講の開祖。また、神道(しんとう)教団扶桑(ふそう)教および実行教の開祖。その生涯については不明な部分が多く、伝記では、大職冠藤原鎌足の子孫といわれ、天文(てんぶん)10年肥前長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれたという。俗名・長谷川左近藤原邦武。
 角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で45分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。
 
     社殿手前で左側にある石柱        境内の隅に祀られている浅元宮の石祠  
四方に文字が刻んであるが、内容までは分からず
        
 その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 正保3年(1646)、105歳で富士山中の人穴にて死去したとされる。
        
               社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」Wikipedia」等

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大和田稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野5-17-4
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧大和田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭330日 夏祭75日 秋祭1014 
 吉見町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し、田園地帯が周囲一面広がる中、この東野地域は田畑も見られるが、その大部分は住宅地となっていて、地域の南北を分断するように埼玉県道27号東松山鴻巣線が東西方向に走っている。因みにこの県道27号線を東行すると「御成橋」があるのだが、この橋には川幅日本一を示す標柱が橋の両端にあり、この橋から630m上流の地点の荒川の川幅は2.537mと川幅として日本一広いとの事だ。
 途中までの経路は、古名氷川神社を参照。この社の境内北側にある「古名集会所」付近の「古名」交差点を右折し、埼玉県道76号鴻巣川島線を400m程南下すると、進行方向右手に大和田稲荷神社の境内が見えてくる。
 社に西側隣にある「大和田集会所」と鳥居に若干の駐車スペースがあったので、その一角にと停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                               
大和田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「大和田村」の解説
 万光寺(まんこうじ)村の北にあり、北は古名(こみよう)村、西は上銀谷(かみしろがねや)村。東方を荒川が流れる。永享一〇年(一四三八)九月日の伝鎌倉公方御教書写(武州文書)に「吉見郡大和田村并菜田村」とみえ、当地などが岡義左衛門尉守吉に与えられている。田園簿では田高二九〇石余・畑高五五石余、幕府領、日損水損場との注記がある。「風土記稿」成立時には幕府領と旗本贄領の相給。幕末の改革組合取調書では旗本贄・筒井二家の相給。寛文一二年(一六七二)に東方、荒川堤外の新田を検地して高入れし、延宝六年(一六七八)には本検地が行われた。
 

鳥居の社号額には「正一位稲荷大明神」と刻印。   鳥居を過ぎた場所から境内を撮影

 大和田稲荷神社は、旧大和田村の名主を代々務めた「小沢家」が、一時的に住んでいた忍領上中条村から文禄年中(15921596)当地へ移住、その後、大和田村の鎮守として京都の伏見稲荷大社を勧請して創建、明治4年には村社に列格したという。
この「小沢家」は、元々武田家の家臣であったようだ。
・大輪寺碑
甲州武田氏の士で、三ツ亀甲を家紋とし、一時忍領上中条村に住し、文禄年中当地に移り住み、惣左衛門道繁・大輪寺開基、一子又左衛門・慶長十九年検地案内」
稲荷社文政十年敷石碑
平野時太郎道堅、道堅は小沢七代道孝二男・道高実弟也、平野名跡相続」
        
                        塚上に通じる石段手前にある文政十年敷石碑 
        
               塚上に鎮座する
大和田稲荷神社
『新編武蔵風土記稿 大和田村』
比企郡岩殿村農家に傳ふる永享十年鎌倉管領家より、鍛冶守吉へ吉見郡大和田村を賜ふ由の文書あり、
 稻荷社 村の總鎭守なり、大輪寺持、
 大輪寺 新義眞言宗、御所村息障院の門徒なり、本尊は不動を安ず、名主惣左衛門が先祖、小澤惣左衛門道繁開基す、

 稲荷神社  吉見町大和田六八四(大和田村字上西谷町)
 大和田村の名主を代々務めた小沢家(当主は一六代の幸男)は、横見郡二一か村の惣代として、また、荒川舟運の大和田寄場の大惣代として、他村の名主に比べて強い力があった。その先祖は、甲州(現山梨県)武田氏の家臣で、一時は忍領上中条村(現熊谷市上中条)に住んだが、文禄年中(一五九二〜九六)に当地に移り住んだといわれている。その後、小沢家を中心として当地の開墾が進められたものであろう。
 当社は、この小沢家が、当地に入植してきた時に祀った神社であると伝えており、天保五年(一八三四)に再建した本殿の御扉には、同家の家紋である「三つ亀甲」が彫り込まれている。更に、当社の南方約五〇メートルの所にあり、江戸時代に当社の別当であった真言宗の大輪寺も、同じく小沢家によって建立されたもので、『風土記稿』にも「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。なお、大輪寺は明治三十一年に焼失し、小規模な堂宇が再建され、その跡地は、大和田霊園として整備された。
 また、当社は、京都の伏見稲荷大社の分霊であるといわれ、本殿の中には、同社から拝受した「正一位稲荷大明神」の神璽を奉安しており、かつては宝暦十一年(一七六一)二月に同社から受けた分霊証書(前述の神璽と組になっていたと考えられる)もあったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
        
    

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