古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長谷八幡神社

 吉見町長谷地域は町の西端部に位置し、比企丘陵地に属する。この丘陵地一帯は県立比企丘陵自然公園に指定されており、吉見百穴や八丁湖周辺に散在する黒岩横穴墓群等、古墳時代を代表する貴重な史跡が近隣に存在する。因みに「長谷」と書いて「ながやつ」と読む。
 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられる。江戸期には村の鎮守として祀られ、八幡山と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代に関越自動車道建設のための採土により、境内地が崩壊してしまったため、昭和47年当地へ遷座したという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町長谷11852
             
・ご祭神 誉田別尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 祈年祭 415日、例祭 724日、秋祭り 1015
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かましめ頒布 1216

 長谷八幡神社は吉見町西部に位置し、近隣には東松山市東平地区の熊野神社が鎮座する。途中までの経路は東平熊野神社を参照。国道407号線を東松山市街地方向に進み、「東平」交差点を左折する。埼玉県道66号行田東松山線に合流後400m程先のコンビニエンスを越えたすぐ先の信号を右折し、道なりに直進する。暫く進んでいくと右側に「長谷工業団地」の工場が立ち並び、信号を過ぎたその先には「八幡公園」があり、その隣並びに長谷八幡神社が鎮座している。
 八幡公園には東側に駐車場があり、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始した。

かましめ(かまじめともいう)とは古来は竈〆と書き、年明けに新しい竃(かまど)の神様を迎えるために竃をしめ、一年働いた竃の神様を休ませるために行なっていたそうだが、現在は新年を迎えるためにお札や神棚周りを来年度のものに取り替える行事の事を指す。
 そこから、正月の歳神様(としがみさま)をお祀りするための神具一式を「かましめ」と呼ぶようになったという。
               
                                  長谷八幡神社正面

 社は道路に面しているが、道路から奥に入った場所に鎮座しており、鳥居手前左側には集会所もあって、そこには駐車スペースも若干確保されていた。
 但し参拝時間は丁度正午ごろで、鳥居に対して逆光状態となってしまった。
 
  鳥居を斜めから撮影。逆光状態は変わらず。   鳥居から参道を撮影。社殿は横を向いている。
        
 社殿は珍しく西向きである。境内は南北方向が長いため、鳥居を越えてから参道を進み、突き当たり付近を左方向直角に曲がると二の鳥居、社殿に到る。
               
                                鳥居から拝殿を望む。
               
                                 拝 殿

 八幡神社  吉見町長谷一二一二
 当社の創祀は古く、天慶年間(九三八-四七)に下野守藤原秀郷が村民らと共に応神天皇を祀って一社を建立したことに始まると伝えられている。
『風土記稿』には「八幡社 村の鎮守なり、長永寺の持、末社 稲荷社 諏訪社 浅間社」と載せている。これに見える長永寺は岩田山密教院と号する真言宗の寺院であったが、明治初年に廃寺となった。
 鎮座地は元来、八幡山と呼ぶ小高い山(標高七二メートル)の頂であった。参道は「男坂」と「女坂」があり、「男坂」が一一一段の石段を一直線に登り詰めるのに対し、「女坂」は緩やかな坂を登って行くものであった。
 しかし、昭和四十年代に入ると、関越自動車道久喜インター建設のための採土がこの山の周囲で行われたことから、参道の各所に崩れが生じ、参詣に支障を来すようになった。このために社殿等の移転を余儀なくされ、山麓に新たな社地を選定し、昭和四十七年四月十五日に遷座祭を執り行った。山頂にあった社殿をはじめ石造物などもすべて新たな社地にそのまま移し、更に参道の一一一段の石段は、神徳の更なる興隆を願って社殿の基礎に使用した。
 なお、かつての鎮座地である八幡山は既に跡形もなくなっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
鳥居の手前左側に鎮座している境内社、詳細不明。 社殿右側端にある御嶽山座王権現の石祠
 
   社殿右側にある石祠、石神社か?      石祠の右側に並ぶ清瀧辨財天、御神
                              七鬼神の石祠
               
      社殿左側には多くの石祠、石碑、そして奥には不動明王像が無造作に並ぶ。
               
                          社殿から一の鳥居方向を撮影。

 長谷八幡神社は、下野守藤原秀郷が天慶年間(938-947)に応神天皇を祀って創建したと伝えられ、由緒ある古社である。創建当時は「八幡山」と呼ばれる小丘に鎮座していたが、昭和40年代の自動車道開発の為、当地に移されたがため、社本来の姿を見ることができないのは非常に残念なことだ。
 現在の社殿も新たに改築され、八幡山」と呼ばれる小丘をイメージした高台上に鎮座させ、境内社・石祠・石碑等はその当時の物を移築したのであろう。当然境内も綺麗に整備したはずである。境内も太陽の光を燦燦と浴び、まさに「明るい社」といえ、鳥居・社号標柱等を立てることにより、社としての体裁は整えられた。
 ただ筆者が思うに、一千年以上の歴史のある社としての風格、重みは歴然としているようにも感じられた。そして在りし日の社は如何なるお姿だったのだろうかと参拝途中ふと脳裏をよぎったことも事実だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」等
        


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