古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下古寺天満天神社

 天満天神社が鎮座する下古寺という地域名は、元は「古寺」であり、その後「上古寺」「下古寺」と分かれた。この「古寺」という地域名も赴きある名前である。
「埼玉の神社」によれば、「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書』所収)には、竜王寺と当社の創建について次のように記されている。その昔、役小角が武蔵国を訪れた時、都幾山を開いたものの山中に水が一滴もなかったため、岩窟に籠もって水神にこの由を祈ったところ、八大竜王が現れて小角に五か所の霊水を賜った。そこで、小角は竜王の尊像を一刀三礼に彫刻し、岩窟の近くに竜王寺と号する一寺を建てたが、当時、この辺りには人家もなく、寺号を知る人も希であったため、ただ「都幾山の北に古寺がある」と伝えられるだけになってしまった。それが『古寺』の地域名の起こりという。
               
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町下古寺167
             
・ご祭神 菅原道真公、八大龍王
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例大祭 1015

 増尾白山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線を西方向に進み、700m程先にある「松郷峠入口」交差点を左折する。同県道273号西平小川線合流後、南方向に進路を取り槻川を越えて1.5㎞程進むと右側方向に微かに下古寺天満天神社の赤い鳥居が見えてくる。
 周囲には駐車場はない。通行に支障のない路肩に駐車する。周囲が田畑である舗装されていない道を徒歩にて鳥居方向に進む。
            
                   「古寺鍾乳洞」標柱 

 社に通じる道の入口には「埼玉県指定 古寺鍾乳洞 入口」という標柱がひっそりと建っている。「古寺鍾乳洞」は下古寺の槻川の支流で、金嶽川(かなたけがわ)左岸の山際にあり、総延長220m、高さは約 16m である。「新編武蔵風土記稿」にも「岩窟」と紹介される等江戸時代から「名所」と知られ一般開放され、埼玉県の天然記念物にも指定されてきた。とはいえ、1970年に観覧を中止して以来、閉鎖されたままで、地主によって入洞禁止の措置が取られているという。
               
                        舗装されていない農道を鳥居方向に進む。
      嘗ての日本の原風景を見ているような不思議な感覚を覚えながらの移動。
            その後土手のような場所があり、石段をのぼる。
 
             槻川の支流である金嶽川(写真左・右)
    清流で川魚が3月中旬であるにも関わらず、泳いでいるのが橋上からでも分かる。
      心が癒される一風景で、一昔前ならばどこにでもある風景だったのだろう。
               
                              下古寺天満天神社正面
 丘陵面に鎮座している社は、やはりこのアングルが一番似合う。最高の一枚が撮影できたと思う。
 
 意外と石段は急であり、手すり等もない。鳥居まで到着する(写真左)とその場は踊り場となっていて、その後更に石段が続く(同右)。社殿に通じる石段である。鳥居を過ぎると常緑樹が生い茂り、日中の参拝にも関わらずあたりはほの暗くなる。
                        
                鳥居の右側にある社号標柱
               
         石段を登ると拝殿側面に「桜林山」と書かれた扁額が見える。

『新編武蔵風土記稿』には「村の鎮守なり、別當梅松院、本山修驗、京都聖護院の末、梅林山龍王寺と號す、開山の僧を智海と云、本尊不動を安ず、智證大師の作と云、客殿の後に釋延救が千日の護摩を執行し、斷食して入定せしと云跡あり、又平村慈光寺の傳へには、此人慈光山にて入定せしといへり、猶慈光寺の條合せみるべし」と記載され、嘗て天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があったという。このお寺は「梅林山龍王寺」と号した。下古寺天満天神社はそのお寺が別当であり、それが扁額由来となっている。
               
                       拝 殿
        写真では右側に石段があり、登った先には削平した境内が広がる。
            拝殿は石段に対して横を向いた配置となっている。

 天満天神社(下古寺一六七)
 下古寺の天満天神社は、菅原道真公を祀ることから、学問を授け給う尊神として尊崇されており、特に入学・進学の際には天満宮に祈願礼拝すれば大願成就するといわれている。また、併せ祀られている八大龍王は、雨乞いに霊験があるとして信仰されてきた。
 この天満天神社のそばには、明治初年まで梅松院と称する本山派修験の寺院があった。今では寺は跡形もないが、寺伝の「比企郡古寺梅松院記」(『埼玉叢書」所収)によれば、梅松院は梅林山龍王寺と号し、水を得るため古寺鍾乳洞に籠って人大龍王の霊験を得た役行者が、自ら龍王の像を彫刻して祀った草庵に始まり、霊場としてしばしば行者の訪れるところとなっていたという。
 こうした行者の一人であった智海専戒という無筆の僧が、この地において天満天神から筆道を授かり、能書家となったことから、その思に報いんと一社を建立して八大龍王と共に天満天神を祀ったのが、天満天神社の創始とされる。智海はその後、松山城主上田能登守の嫡子上野介の書道の指南をするまでになり、文永五年(一二六八)二月十五日に没したと伝えられている。
                            「小川町の歴史別編民俗編」より引用
 
    境内に鎮座する境内社・八坂神社      同じく境内にある「道了大権現」の石碑


 今回の下古寺天満天神社の参拝が主で、事前に県指定文化財である「古寺鍾乳洞」を全く確認していなかったため、この鍾乳洞の場所が全く分からなかった。調べてみると鍾乳洞は神社の下側にあり、現在洞入口は鉄柵があって入れないようになっているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「国土地理院HP」等

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