古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

出丸下郷赤城神社

 川島町出丸下郷地域の東側には「旧荒川」と言われる細長い沼地が1kmほど続いている。この沼地は荒川の旧河道であり、昭和初期まで荒川が流れていた跡という。地図等を確認すると分かるが、嘗ての荒川が頻繁に蛇行を繰り返して流れていた頃の痕跡が色濃く残っている。旧河川の跡にしては意外と水量も豊富で、自然が色濃く残り、景観も良好である。この旧荒川が桶川市と川島町との行政界となっている。
 荒川と旧荒川との間にはホンダエアポートが存在する。ホンダエアポートは、軽飛行機専用の非公共用飛行場であり、運営管理は本田航空が行っている。元は熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の飛行訓練に使用された滑走路だったが、戦後は長らく荒れた状態で放置されていた。そこで、1964年(昭和39年)3月にホンダが航空産業への参入を目指し、株式会社ホンダエアポート設立したという。
 この熊谷陸軍飛行学校の本校は埼玉県大里郡三尻村に置かれたが、1945年(昭和20年)終戦前の418日に熊谷陸軍飛行学校令廃止となり、戦後は進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され、以後約13年間米陸軍キャンプとして利用された。1958年(昭和33年)、同キャンプは日本政府に返還され、同年8月、航空自衛隊熊谷基地(住所:埼玉県熊谷市拾六間892)が発足し現在にいたっている。
        
            
・所在地 埼玉県比企郡川島町出丸下郷55
            
・ご祭神 大己貴命/大穴牟遅神(推定) 豊城入彦命(推定)
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 
 出丸下郷赤城神社は川島町東南部荒川右岸にあり、出丸本地域に鎮座する若一王子社の北西方向で直線距離にして約1㎞先の場所に位置する。
 社の北には「埼玉防災航空センター」が見えるのみで、北西部にあるホンダエアポートは旧荒川土手に遮られていてため見ることはできない。それ以外は一面田畑が広がる長閑な地域であり、その物静かな風景の中にポツンと社の社叢が見えるという印象である。
        
                 
出丸下郷赤城神社遠景
『日本歴史地名大系』には出丸下郷の解説が載っていて「西谷(にしや)村の北東、荒川の右岸にあり、南は出丸本(いでまるほん)村、東は堤防・荒川を隔てて足立郡の諸村。中世伊豆丸(いずまる)郷の遺称地の一で、近世には出丸七ヵ村のうち。出丸中郷とともに出丸本村から分れたという(風土記稿)。
 田園簿では下郷とみえ、田高一一八石余・畑高一〇六石余・野高一三石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳でも下郷とあり、高三九八石余、反別は田二八町九反余・畑二九町九反余。ほかに開発地高六一石余(田四町四反余・畑四町六反余)があった」とある。

        
                標柱の北に駐車スペースがあり、その先に参道がある。
                               
 参道は当所北方向に伸びているが、鳥居付近で右側に直角に曲がる。社地の敷地の関係でこのような配置となっているのであろうが、他の社にも時折あるケースでもある。
        
        神明鳥居付近で右方向直角に曲がり、その参道を進むと拝殿が見えてくる。
        
                                       拝 殿
        
                拝殿手前には「赤城神社再建委員会」の碑が立っている。
 神域は旧吉野川に面し、河川東へ再度改修、元台地西岸足立台地は縄文弥生の村が栄、古代大和に属す。往昔岩出男姫神を祠、地名赤城方丈橋 (慈覚大師)川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造由 寿永年間(一一八二~五)兵乱社寺焼失、再建の鎮守十ヶ村、宝永六年(一七〇九)本社再建(棟札)神位宝永元文寬保寬延天明安政、元別当宝勝寺天保年間類焼故創立年月日未詳 明治四年村社、同七年拝殿再建、同丗一年尊像修復、大正元年神明宮合祀、戦後社有地八反余解放、昭和五十一年外宇改修、平成七年十一月廿五日時終戦五十年、不審火に側碑破壊遍く焼失、されど神殿の霊域灰燼の積中、事代主神像出現(大己貴命神子)神慮霊験を感得仮遷座、修、心痛二年氏子崇敬者数多の奉賛を得てご社殿は完成した。

 この碑によれば、嘗てこの地には「岩出男姫神」なる神の祠があり、慈覚大師や川田谷勅願院と共に天歷元年(九七四)当社修造したと記されている。が、慈覚大師が第3代天台座主円仁であるならば、延暦13年(794年)~ 貞観6114日(864224日)の人物であるため年代が合わないようにも見える。
 また「岩出男姫神」なる神とは如何なる神であったのであろうか。碑を見る限りにおいて、元々この土地の「産土神」であるようにも思えようが、不思議な一文だ。
        
                                      境内碑
 當社華表は明治廿三年の建設にして腐朽甚しく再建を企つる事多年なりしも明治四十年以來水災頻りに至り其機を失す今回氏子より金壹百六十五圓を醵出し鈴木周太朗氏より石材華表料金三百圓及基本財産中に金壱百三拾圓の寄附を得以て建設奉納せり尚川越町竹谷善吉氏の發意に因り字中井に八二番に鎮座せし子之権現社を遷して境内神社となし同氏〇〇も基本金貳百五十圓及祭禮幟一對並に同石〇を寄進さる仍て永く両氏の芳名を後毘に傳へ紀念となさんが爲め此碑を建設する所以なり     大正九年一月吉辰  赤城神社氏子中
 
    境内合祀社 稲荷社・天神宮        合祀社の並びに祀られている権現社
       
                                   境内の一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑」等
    

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