古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

渕名神社

 平安時代も終わりに近い12世紀初頭の天仁元年(1108)、上野国と信濃国境に聳え立つ浅間山の大噴火により、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。天仁大規模噴火ともいう。当時京の公卿であり、右大臣にまで昇進した藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である『中右記』(ちゅうゆうき)にもこの当時の様子が記されている。藤原宗忠は摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物でもあり、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料ともいえる。
 この日記によれば、天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。
 復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展したため、この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなったともいう。
 天仁大規模噴火は天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされていて、最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆されている。
 藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上渕名993
            
・ご祭神 保食命
            ・
社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 217日 春季例祭 4 3日 例大祭 1017
                 
神迎感謝祭 旧111
 国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に進み、群馬県道2号前橋館林線との交点である「上渕名上武道下」交差点を右折する。因みに上武道路は高架橋であるので、交差点の手前で左車線に移り、高架橋を下がり、少し進んだ「上渕名上武道下」の交差点を右方向に進む。
 県道合流後1㎞強程進むと、利根川支流である早川の西側に隣接している渕名神社に到着する。
        
                県道沿いに鎮座する
渕名神社
「渕名」の地名由来として、『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来たのが、「渕名」の地名由来との事だ。
        
                     道路に面して赤い鳥居、その先に石の鳥居がたつ。
    境内には銀杏の大木が茂り、字名「銀杏」もこれに由来したものといわれる。

 この社一帯は嘗て「淵名荘(ふちなのしょう)」と言われていた。この荘は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。
        
                                  石製の二の鳥居
 室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになったという。
        
                     拝 殿
 
 社殿手前左側には「
渕名神社社殿新築記念碑」があり(写真左)、同殿左側には旧社名である「熊野神社」の案内板(同右)が設置されている。

「淵名神社社殿新築記念碑」
 由緒
 当社は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に至って、豪族淵名大夫光行の篤い崇敬を受けて、その氏神として祭祀されたとも伝えられている。
 天下争乱の戦国時代に一時荒廃したが、郷民崇敬によって修復され、明治六年には、村社に列せられている。
 現在の社殿は熊野神社と称された時のもので、明治の頃に上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀した際に淵名神社と改称し「保食命」を主祭神とした。
 同時期、近傍に祭祀されていた「金山大権現」「赤城神社」「諏訪神社」「神明宮」「天満宮」「稲荷神社」なども合祀し、今に至る。
 境内には以前、樹齢三百余年以上あると思われる、見上げるばかりに大きな銀杏の古株が有り、字名を銀杏と称される程であった。しかも、この大銀杏の樹皮を産婦が用いると乳の出が良くなると伝えられ神社に祈願してその分与を乞う者も多かったという。

 拝殿東隣に設置されている案内板 
熊野神社」
 上淵名(いま淵名神社)祭神 須佐之男尊
 淵名神社になって「保食命」
1)奈良時代に創建されたと伝う。
 鎌倉時代に至り豪族淵名大夫光行の崇敬が篤く氏神として祭祀した。
 戦国時代に一時社殿が荒廃したが郷民の崇敬によって修復され古来より十二月二十九日に例祭が営まれた。
 明治に至るまでの境内に目通り十六尺の大銀杏があり婦人がこの樹皮を用いると乳がよく出るといわれて奉賓が盛んであった。今の此の地を字銀杏というのはその為である。
2)昔、上淵名の鎮守は飯玉大明神であった。
 村の東南方淵名から東新井に通じる道端にあったが明治に熊野神社に合祀して淵名神社と改めた。
 いま、淵名神社の御神体は飯玉大明神の御神体を納めるもので古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった。
 天保年間、村内にあった神社は村の西方に「金山大権現萬蔵」、東に「赤城神社」、もと長命寺前に「諏訪神社」、南方に「神明宮」、横町に「天神様萬蔵東」と「比丘尼塚」、阿弥陀山に「稲荷神社」があったが明治に淵名神社に合祀された。

「淵名神社社殿新築記念碑」と社殿東側の「案内板」には、創建等由来に多少の表現の違いがある。「淵名神社社殿新築記念碑」では上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀し、社号を淵名神社と改称、並びに「保食命」を主祭神とした際の経緯をサラッとに載せているのに対して、「案内板」のほうでは、「古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった」と、明治期の神社合祀時に御祭神の交代等に伴う熊野神社側氏子の不満を露骨に載せている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 
 社殿左側には「奉納奥社」との社号額が記されている鳥居が立ち(写真左)、その先には幾多の石祠・石碑等が立ち並ぶ(同右)。
 石祠・石碑群は左側から「二十三夜塔」「道祖神」「大黒天」「庚申塔」「猿田彦大神」「?」「?」「?」「飯玉神社」「富士浅間宮」「諏訪神社」「秋葉山神社」「?山神社」「?」「豊玉姫神」が祀られている。
        
       社の東側には南北に早川が流れ、長閑な農村風景が広がっている。
  よく見ると境内の東側隅には石祠がポツンと祀られていた。弁財天の祀る石祠である。
                  どのような経緯であの場所に祀られているのだろうか。


参考資料「中右記」「Wikipedia」「伊勢崎風土記」「境内案内板等」等
            

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