喜右衛門新田八幡神社
斎藤民部少輔盛秋は、越後の武将「上杉謙信公」の旧臣。謙信の関東出兵時、命により羽生城に派遣された。その長男内左衛門は天正年間(1580)社の別当である無量寺を創建したと伝えられ、次男喜右衛門は喜右衛門新田地域を開拓したという事で、名称の由来もそこからきている。
『新編武蔵風土記稿 喜右衛門新田村』
「当村は今泉村の民喜右衛門と云者開墾せりと。此喜右衛門は斎藤氏にて、今も子孫當村に住せり。先祖民部盛秋は上杉謙信に仕へ、後年浪士となりしに、御入國の後盛秋が長男は今泉村の名主となり、喜右衛門は彼二男にして、当村を開けり」
永禄12年(1569年)閏5月、武田信玄の関東出兵により謙信と北條氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領等の領有が認められたが、元亀2年(1571年)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北條間の抗争が再燃し、羽生領や深谷領は主戦場となった。
その後、羽生城は後北條氏の度重なる攻撃を受け、天正2年(1574)閏11月に落城する。落城後、斎藤家はその地において帰農した。盛秋の長男である内左衛門は今泉村の名主となり、長光寺を開基した。
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
「長光寺 開基は古へ名主を勤し内左衛門と云ものにて、寛永十年六月九日死す、此家今は廢せり。前村喜右衛門新田を開きし喜右衛門は、即ち此弟」
『埼玉苗字辞典』
「長光寺墓碑及び斎藤家過去帳 越賛道寿居士・斎藤民部少輔盛秋・元和元年七月十八日没。月山常光居士・斎藤内左衛門・寛永十年六月九日没。喜山宗悦居士・斎藤喜右衛門・寛永二十一年十一月十三日没」
戦国時代の武蔵国では、上杉氏と北条氏との間で抗争が繰り広げられる中、次第に地の利を得た後北條氏の勢力が大きくなる中、唯一上杉方の関東攻略拠点であったのが羽生城であった。その羽生城終焉の歴史をこの斎藤家は目撃しているわけで、その後の時代の移り変わりをどのように眺めていたのであろうか。
・所在地 埼玉県羽生市喜右衛門新田1498
・ご祭神 誉田別命
・社 格 旧喜右衛門新田村鎮守
・例祭等 春例大祭 3月25日 名越祭 6月30日 秋例大祭 10月14日
三田ヶ谷八幡神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を西行する。東北自動車道を下に見ながら高架橋を過ぎた直後の十字路を左折し、1㎞程南方向に進んだ先にある十字路をまた左方向に進むと、すぐ左側に喜右衛門新田八幡神社の鳥居が見えてくる。
周囲には適当な駐車スペースはないようで、路駐して急ぎ参拝を開始した。
喜右衛門新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「喜右衛門新田村」の解説
西は今泉村・前原村に続く。古くは今泉村の枝郷で、寛永六年(一六二九)の独立まで今泉新田と称していたという(風土記稿)。田園簿によると幕府領、田高二九三石余・畑高一五五石余、ほかに永二五〇文と鐚一貫五〇〇文の野銭があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本谷口領。
赤が基調の両部鳥居である二の鳥居
参道の左側手前に祀られている境内社・浅間神社
浅間神社に並列して祀られている境内社・弁天社
弁天社は往時は斎藤喜右衛門家で祀る社であったという。7月7日には「弁天様」と呼ばれる祭りがあり、この日は境内に掛け灯籠を飾り、社人が作った餅をまず弁天様に供え、その後祭礼を行う。終了後この餅を切り、護符と称して参詣者に配るという。
拝 殿
八幡神社(字神島)
喜右衛門新田は、寛永年間に今泉村の名主である斎藤民部少輔盛秋の次男喜右衛門が開拓した村で、市の東方に位置している。
当社の創建については、口碑もなく不詳であるが、『新編武蔵国風土記稿』には「八幡香取合社 村の鎮守とす、無量寺持」と記載されている。現在無量寺は当社の北北西の方向にあり、元は当社に隣接して建っていたが、焼失により現在地に移転したものといわれている。焼失年代は不明であるが、今なお神社の奥手を掘ると焼失の際の灰が出てくる。
祭神は誉田別命で、大正三年八月一四日に字神島の伊奈利神社を合祀している。本殿は一間社流造りで、内陣には五㎝程の神像(立像)四体が納められている。
境内は嘗て杉が鬱蒼と茂っており、その中に周囲が一丈五尺ほどの椎樫(しいかし)の木がご神木としてあったというが、杉は戦時中に陸軍に供出し、椎樫も枯損により昭和二三年に伐採してしまったため、往時の面影はない。(以下略)
「埼玉の神社」より引用
本 殿
また氏子内の習慣の一つに「虫追いの行事」がある。これは昭和10年ごろまで毎年7月23日に行われていたもので、各耕地ごとに萩を丸めて作った大きい松明を灯し、鉦・太鼓で囃子(はやし)ながら、耕地内を巡行するものであったようだ。
本殿の奥に祀られている境内社・香取神社
境内社である香取神社の中にある「天王様」と呼ばれる神興を担ぎ、氏子区内の各戸を巡行する行事があり、昭和10年頃までは大人(若衆)が担ぎ、上村上ノ落と呼ばれる用水に褌一つになって入り、神輿を揉んで回ることから「暴れ神輿」として知られており、天王様のない荻島地域へも毎年揉みに行っていたという。但し出征による若衆の数が減ったので、子供が神輿を担ぐようになったという。
社殿から見た境内の一風景
一の鳥居の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
「Wikipedia」等