古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

道地稲荷神社

 加須市旧騎西町は、県東部水田地帯の一画に在り、埼玉古墳群の地に近く、早くから開発されていた事が推測される。中世には武蔵七党の一派で「私市党」(キサイ又はシノ)の根拠地となった町であるが、戦乱に因り「野与党」の支配となり、「私市党」は衰えて、忍・熊谷方面にその勢力を留め、騎西町には、「私市城」と書く城名を残す城跡を留めている。
 ところで「野与党」も武蔵七党の一つで、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国埼玉郡(現・加須市付近)の野与庄を中心に勢力のあった武士団である。この党が播拠した地域は、武蔵国騎西郡と云われた、埼玉県東部地域で、北は埼玉郡の内、旧騎西町より南埼玉郡全域を含む八潮市迄の細長い挟狭な地域である。西側の境は、元荒川の上流、騎西町より・菖蒲町下栢間より分岐下流は、綾瀬川を境として東京都迄足立郡に接する。
 野与党系図には、騎西町の内・道智・道後・多賀谷・多名(種足)・高柳等の地名を苗字に冠した人々の名が出て来る。
 道智氏は、桓武平氏の始祖である「平高望」より6代目後裔である「野与基永」の次男頼意が道智氏を名乗ったといい、この道智頼意は、『東鑑』に「道智法花坊」という名称で登場している。
この氏の拠点は、騎西町大字道智中屋敷・稲荷宮と成就院付近と推測され、利根川の自然堤防上に位置し、後背地は耕地や住居に適した地形を供えている。道智氏の居住した痕跡は、「稲荷神社」や「成就院」があり、現在でも「中屋敬」「表屋敬」「裏屋敷」「鍛冶屋敷」と称する字があり、成就院には、鎌倉前期の寛元二(1244)年二月・鎌倉中期の弘長三(1263)年六月日期銘の板碑を見る事が出来る。
 因みに、道智法花坊(法華房)頼意と其の系の名に、道後(不明)・多賀谷(内多賀谷)・笠原(鴻巣市笠原)・道後氏(鴻巣市郷地)の名が見える。
        
            
・所在地 埼玉県加須市道地14753
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧道地村鎮守
            
・例祭等 春お日待 415日 天王様 77日・13日 
                 秋お日待 1015
 加須市道地地域は、騎西領用水左岸の自然堤防および流路跡に立地していて、騎西町場地域の北西、外田ヶ谷の東側にある。嘗ては「道智」とも書き、武蔵七党・野与党の道智氏の本拠地といわれている。
 途中までの経路は、内田ヶ谷多賀谷神社を参照。この社の西側で騎西領用水を越えた先にある「田ヶ谷小学校前」交差点を右折、旧国道122号線を北上し、130m程先にある十字路を右折すると、進行方向右手に道地稲荷神社が見えてくる。
        
                           道地稲荷神社正面 
          綺麗に整備された境内、及び参道の一の鳥居のすぐ先に見える二の鳥居
『新編武蔵風土記稿 道地村』
【東鑑】に道智次郎・同三郎太郎承久三年六月十四日宇治川合戰に打死と載せたるは、當村に住せし人にや、又遠藤氏の系圖にも、武藏國道智二郎と云名見ゆ、當國七黨系圖に道智法花坊とあり、此法花坊は當所に住せしものなるべし、
 道智氏の名は「吾妻鏡」建久元年(1190)一一月七日条に道智次郎、承久三年(1221)六月一八日条に三郎太郎、野与党系図(諸家系図纂)に頼意(道智法華房)とみえ、入洛した源頼朝に付き随っており、幕府御家人であった。承久の乱に際して、道智三郎太郎は六月一四日の宇治橋合戦で討死している(「吾妻鏡」同月一八日条)。
        
                          二の鳥居の先の境内の様子
 道地稲荷神社は、氏子の方々から「稲荷様」と称され、農家の守護神として信仰されている。特に養蚕が盛んなころは養蚕家から厚く信仰され、年三回の養蚕(春蚕・夏蚕・晩秋蚕)の掃き立てが始まる前に、お稲荷(とうか)様(陶製眷属像)を蚕が当たるようにと借り出し、蚕棚・神棚などで祀り、出荷のころに神社に神札とともに返納した。この行事は行田市利田(かがた)の稲荷神社に倣ったものであるが、養蚕が廃れるに従い消えていったという。
        
                    拝 殿
 稲荷神社  騎西町道地一五〇三(道地字稲荷(とうか)宮)
 当地は内田ヶ谷と境をなす騎西領用水の北に広がるこんもりとした台地で、道智とも書き武蔵七党野与党の流れをくむ道智氏の拠る所であった。道地は台地上に開けているため、灌漑用水は地内にあった溜め池を利用していることから、旱ばつ時には騎西領用水を水車でくみ上げねばならないという所もある。
 当社は社記によると、往古干損の憂いがあったため、村民たちで謀り、京都の伏見稲荷社より神霊を勧請し五穀豊穣を祈り祠を建立したことに始まるが、勧請の年月を今に伝えていない。『風土記稿』には、村の鎮守で、真言宗稲荷山成就院万福寺を別当としていたことが載る。
 明和五年九月覆屋を新たに造営し、明治二年正月別当成就院最後の奉仕として拝殿を再建している。
 大正四年、宮面の古伊奈利社が本殿へ、上内出の愛宕神社・鷲宮社・八坂社・天神社、天沼の大六天社が境内社として合祀された。このうち現在確認できるものは古伊奈利社・愛宕神社・大六天社、及び大六天社内に納められている八坂社(神輿)である。これ以外のものは社殿裏側にある一一社の石祠群に含まれている模様である。
 主祭神は倉稲魂命で、一間社流造りの本殿内には正一位稲荷大明神神璽二柱のほか、彩色された狐にまたがる茶枳尼天像を安置しており、このうち一つは合祀された宮面の古伊奈利社のものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿左側手前に祀られている稲荷大明神の石祠等  拝殿手前右側に設置されている案内板
        
                    本 殿
 氏子区域を細かく説明すると、上内出が一、二組。稲荷宮前、裏・中屋敷前、裏・下道地の計7組に分けられる。大正4年の神社合祀前は、愛宕社は上内出、大六天社は下道地のそれぞれの鎮守社であった。
 また、
この地は水の便に恵まれないため、旱ばつに遭うと必ず「雨乞い」が行われた。愛宕神社旧社地に弁才天が祀られている池があり、旧別当成就院にある「雨乞い石」と呼ばれる直径20㎝の丸石を借りて来て、この池の脇に置き、皆で池の水を掛けた。この行事も用水が整備されるにつれ行われなくなったという。

 この地は旱ばつで悩まされている地でありながら、同時に洪水多発地帯でもあったようだ。『加須インターネット博物館HP』には、この地域に残されている洪水に纏わる伝承を載せている。
 「明神様のお使い」
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したということです。
*この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。「暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」。
 
  社殿の右側に並んで祀られている境内社    
愛宕社・大六天社の並びに祀られている
     左から愛宕社・大六天社             弁天社の石祠
 天王様は末社八坂社(現在は神輿として境内社・大六天社内に納められている)の祭りであるが、氏子たちは本社の祭りとして認識しており、にぎやかに行われる。7日は、子供天王と称して子供が神輿を担ぎ地畿内を回る。13日には、この地に住む中年層によって結成される交友会によって担がれ、地域内を回る。この祭りは地域全体を挙げての祭りで、古くは芝居等も行われたが、現在はカラオケ大会に変わっている。 
       
                 静まり返っている境内
 この社の運営費用は昭和59年から各家一律の金額を納める方法となっているが、それ以前は、家の格などで金額を決めた時代の名残で、家ごとに違っていた。古くはこのほか神社持ちの田があり、これを貸し付けて小作料を神社の経費に充てていたが、戦後の農地解放で全て失った。また、戦後間もない時、国家神道的雰囲気に対する反発から社の運営に窮し、境内地の一部と林を伐採し、これを売却して急場をしのいだが、それ以来、鎮守の社(もり)の景観は一変してしまったという。
 嘗て豊かな鎮守の森に囲まれていたこの社の風景は如何ばかりであったろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
「加須インターネット博物館HP 

 

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中ノ目八幡神社

 当社の創建年代は不明ながら、社伝によると、旗本藤堂家の家臣の岡田氏が創建したと伝わっており、藤堂家の所領になったのが元禄年間(16881704)で、境内にある石灯籠に「享保十三戊申(1728年)」と刻まれていることから、1688年から1728年までの間に創建されたものと推測される。近くの天正寺が別当寺であった。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1909年(明治42年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。
        
            
・所在地 埼玉県加須市中ノ目4431
            ・
ご祭神 誉田別命
            
・社 格 旧中ノ目村鎮守・旧村社
            
・例祭等 祈年祭 224日 春祭り 414日 天王様 778
                 
例大祭 914日 秋祭り 1124
 中種足雷神社から一旦埼玉県道313号北根菖蒲線を西行し、「榎戸」交差点を右折、同県道38号加須鴻巣線を北上する。見沼代用水に架かる「榎戸橋」を越えた最初の信号のある十字路を左折、その後、550m程進んだ十字路を右折し、暫く進むと中ノ目八幡神社が左手に見えてくる。
        
                 中ノ目八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「中ノ目村」の解説
 見沼代用水左岸の自然堤防上に立地し、東は戸室(とむろ)村、西は上会下村(現川里村)。中ノ目は低湿地にある小島状の畑あるいは集落をさすという。検地は正保四年(一六四七)実施。検地帳(松永家文書)は九冊で次の耕地名が記載されている。川たな・上川たな・前川棚・下川棚・おし出・下押出・橋下・池ノ上・西うら・八まんうら・高根うら・砂原・三反地・五反地・六反地・竹のはな・堤下・みろく・神明脇・こしまき・藤ノ木・野中・雁ふち・戸室境・屋敷添。検地役人は国荷四郎右衛門などで、反別は上田一一町三反余・中田七町八反余・下田七町六反余、上畑九町二反余・中畑一〇町四反余・下畑一〇町六反余。
        
         鳥居のすぐ先で、写真一番左側に建つ享保十三年銘の石灯籠
        「享保十三年戌申霜月 武州騎西中之目村」と刻まれている。 
          まさにこの地域の歴史を証明する生き証人でもある。
       
                                       拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿 中ノ目村』
 八幡社 村の鎭守、天正寺持、
 天正寺 禪宗曹洞派、上会下村雲寺末、八幡山と號す、開山繁林長茂、元和七年三月朔日示寂、本尊藥師を安ず、もとは雲寺の隠居所なりしを、後一寺となりと、その年代は傳へず、

 八幡神社  騎西町中ノ目四三三(中ノ目字弥勒)
 当地は見沼代用水沿いに位置する。中ノ目は低湿地中の小島状の畑、あるいは集落を指すという。
 当社の創建は社記に「旗本藤堂肥後守の家臣であった岡田家が、故あってこの地に来り八幡様を祀り神社を建てたのが始まりである」と載せる。当地は元禄七年に藤堂肥後守の知行となっており、神社境内には「享保十三年戌申霜月」と刻む石灯籠が建っていることから、元禄から享保年間にかけての創建と思われる。
 別当は曹洞宗八幡山天正寺が務めた。天正寺は川里村大字上会下の雲祥寺の末寺で、もと雲祥寺の隠居所であった。
 神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年に村社になり、同四二年には押出の神明社・厳島社を合祀した。
 祭神は誉田別命である。一間社流造りの本殿内には二五.
五センチメートル八幡神座像を安置する。境内社は、当社で手習いをした子供による勧請の天神社、村内一同で火防盗賊除けのために勧請の三峰社、同じく村内一同で火防のために明治一〇年に創立した三宝荒神社と合祀社の神明社・厳島社の五柱である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
               境内に設置されている案内板
 案内版にも記述されているのだが、八幡様は古くから「花火が嫌いな神様」といわれ、他の所で打ち上げても当社では決して行ってはならないとの禁忌がある。伊勢参りの下山祝いには、その都度花火が打ち上げられたが、この時も神社から離れた田を使っている。この禁忌は、八幡様の神使である鳩を花火の音で驚かせてはならないとすることから起こったという。
        
             境内に祀られている合祀社、詳細は不明



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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中種足雷神社

 「種足」は、「たなだれ」と読み、昔は「種垂」と書いたようで、騎西城の出城であったといわれている歴史のある場所である。この地域には、江戸時代中期から230年以上にわたって継承・保存されてきた「ささら」(加須市指定無形民俗文化財)という伝統芸能がある
 このささら獅子舞は、社のある種足の中居耕地の人々によって伝承されてきたが、上・中・下の種足地区で構成される「ささら保存会」と、他の種足地域住民も携わる「雷神社敬神会」の二つの会が支えているという。この「雷神社敬神会」は年2回(4月・10月)それぞれ管理費・祭典費の名目で毎戸から一定額を集める。このうち6割を神社運営費に、4割を「ささら保存会運営費」に充てるそうだ。
 当たり前の事ではあるが、この地域に育った保護者や祖父母の方々にとっては、太鼓や笛などの祭囃子が体に刻まれた重要な伝統行事だったのであろう
 地域に根付いていたこのような伝統文化・行事には、常に後継者不足等の課題とその育成が付きまとう。江戸時代から続く長い伝統を受け継ぐことは、口で言うほど並大抵のことではないのだ。
        
           ・所在地 埼玉県加須市中種足1273
           ・ご祭神 別雷命
           ・社 格 旧上・中・下種足村総鎮守・旧村社
           ・例祭等 春祭り(例祭) 415日 夏祭り(小祭) 725
                
例大祭 1015
 鴻巣市新井稲荷神社から見沼代用水沿いに走る道路を東南方向に進む。途中埼玉県道313号北根菖蒲線となり(境天神社が鎮座する場所の南側にある「境」交差点から「境(東)」交差点までの区間は、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線との重複区間となる)、そのまま道なりに2㎞程進行した「ふるさと広場」という種足中学校跡地の野球場の先にある丁字路を右折すると中種足雷神社の鳥居が見えてくる。
「ふるさと広場」に駐車スペースが数十台分あり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  
中種足雷神社正面
『日本歴史地名大系』「中種足村」の解説
 上種足村の東にあり、集落は見沼代用水右岸の自然堤防上に立地する。東は下種足村、南には野通(やどおり)川左岸の低地が開け下種足村の飛地がある。同村内に三ヵ所、上種足村内に四ヵ所の飛地がある。江戸初期まで上・中・下の種足村と一村であったという(風土記稿)。永仁元年(一二九三)一二月一七日、武蔵国種垂(たなだれ)などが亡父光隆の譲状に任せ伊賀光清に安堵されている(「将軍家政所下文案」飯野八幡宮文書)。田園簿によれば田高二〇八石余・畑高二九六石余、川越藩と旗本京極領。ほかに龍昌(りゆうしよう)寺領二〇石。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二八〇石余(田方一一町六反余・畑方二九町五反余)と、ほかに新開分二二石余が川越藩領。
 
   鳥居左側に建つ社号標柱と庚申塔    鳥居の右側には猿田彦大神の石碑
        
      一の鳥居のすぐ先に二の鳥居があり、参道途中には2枚の案内板あり。
        
                  雷神社の案内板
 雷神社   例大祭 十月十五日
 当社は別雷命(わけいかづちのみこと)を主祭神とし、恵みの雨を降らせ、五穀豊穣をもたらす神として崇敬される。
 古老の伝えによると、昔、千坪余りの荒地に古木が林立し、たびたび雷が落ちたという。
 村人はそれを憂い、雷よけのために別雷命を勧請したところ、雷が落ちなくなった。それ以後、村の鎮守として崇めてきたという。
 当社の創建は明らかではないが、享保十九年 (一七三四)に、神祇管領から「正一位雷神宮」の神階を受けた旨の奉告祝詞がある。
 なお、明治から大正にかけて行われた神社の統廃合により、上・中・下種足の総ての社がここに祀られている。
 主な文化財
 雷神社獅子舞。(町指定無形民俗文化財)
 明治十三年・大正元年奉納の算額(町指定有形民俗文化財)(以下略)
       
                 雷神社獅子舞の案内板
 町指定無形民俗文化財     雷神社獅子舞
 雷神社獅子舞はささらともよばれ、 霊的な獅子のカで、悪霊・悪疫・害虫を退散させ、天下泰平・五穀豊穣を祈る舞である。
 その起源は定かではないが、獅子頭の内側に寛政六年(一七九四)塗り替えとあり、それ以前から獅子舞が演じられてい たことがわかる。
 獅子舞の行列は、東印寺から雷神社までの間を笛・太鼓の囃子により行進する。境内を太刀による居合で清め、六尺棒・薙刀などで演技を行い、獅子・花かぶり・万灯を配して十ニの曲目を演ずる。
 奉納日  四月上旬  七月上旬  十月十五日
 (以下略)
                                     各案内板より引用 
       
             参道左側には、土俵と神楽殿がある。
『加須インターネット博物館』には、当地の伝説として「流れ着いた獅子頭」が紹介されている。
「流れ着いた獅子頭」
むかしむかし、中種足(なかたなだれ)にそれはそれは広いナラ林がありました。夏になると、この林めがけて「ゴロゴロ、ピカピカ」と、すさまじい雷が落ち、村人はほとほと困り果てていました。
「こう毎日のように雷が落っこっちゃあ、おっかなくて仕事もできねぇ。なんかいい考えはなかんべか」
「どうだんべ、雷よけに雷様(らいじんさま)をおまつりしては…」
すぐに、ナラ林の中に雷神社(らいじんじゃ)を建てることにしました。神様は別雷命(わけいかづちのみこと)です。村人の願いが届いたのか、それからは不思議と雷も落ちなくなり、仕事も一段とはかどるようになりました。
それから何年かたった、ある年のことです。
大雨が続いて荒川の堤が切れ、このあたりが大洪水となりました。その時、八幡(上種足)の稲荷様に流れ着いたものがありました。枳立耕地(からたちごうち)の者が近づいてみると、なんと、それは木の箱でした。おっかなびっくりふたを開けると、獅子頭が入っていました。
「こりゃあ、俺らにゃあ使えねえ」そう言うなり、さっさと流してしまいました。
大水の流れに戻された木の箱は、今度は雷神社のナラ林にひっかかりました。これを見つけた中居耕地(なかいごうち)の者は、ふたを開けると、
「こりゃあ、ありがてえ獅子頭だ。雷神社におまつりすんべ」と、大事そうに神社へ運びました。
それからというもの、毎晩のようにササラ獅子舞の稽古が始まりました。
「早くうまくなって、雷神社の祭りにゃあササラをするべや」
「そうだそうだ。悪魔ばれぇ(祓い)のありがてぇ獅子だかんな」
こうして「中居のササラ」が舞われるようになりました。一方、枳立耕地ではそれ以来、どんな踊りも、やらなくなったということです。
 また、この土俵に関しては、当地では芝を「力士芝」と呼ぶ。これは大正期までササラを摺った後、芝を土俵にして草相撲が行われたことによる。勝ち抜き・一番勝負・五人抜きなどの形式で行われ、地元の力自慢の人たちが多数参加したという。
       
                    拝 殿
 雷神社  騎西町中種足一二六〇(中種足字七番耕地)
 種足は星川(見沼代用水)沿いに位置し、江戸初期に上・中・下の種足の三村に分村したという。
 当社の由緒は『明細帳』には「社ノ由来ヲ知ル二由ナシ然レドモ今古老ノ口碑二拠ル二昔当村二千坪有余ノ荒蕪地アリテ古木林立シケル二因リ落雷シバシバナルヲ憂ヒ雷除ノタメ該地二別雷命ヲ勧請ナシタリト爾後幸二落雷ノナキヲ以テ挙村灼ナ鎮守トシテ崇敬ナセリ是ヲ以テ明治六年中村社二申立済」とある。
 享保一九年の宗源祝詞と合祀された枳立耕地稲荷社の正徳五年の宗源宣旨及び宗源祝詞が現存する。祀職は同祝詞に「祠官大熊氏」と記され、当時から代々大熊氏が務めたと思われる。
 明治政府の政策により上・中・下の種足地内の神社二二社が、明治四五年から大正四年にかけて当社に合祀された。当時各社を、当社か枳立耕地の稲荷社かいずれかに合祀しようと協議が村内で持たれたが、資産の多いことを理由に当社が決定された。当地における神社合祀は徹底して行われ、社殿はことごとく取り壊された。その中で枳立耕地の稲荷社だけは雷神社より創建年代が古く、格が上であるとされていたため、最後まで氏子が難色を示し、社殿ごと合祀を条件に大正四年に実施された。
                                  「埼玉の神社」より引用 

       
                    本 殿 
       
             社殿の左側に祀られている境内社・稲荷社
 枳立耕地から当社境内に合祀された稲荷社で、覆屋の裏には、眷属の狐が出入りする穴があけられている。これは初午の膳や、お稲荷様(狐の子供)を出産するために雌狐が入って来る穴であるという。上種足地域には多くの稲荷社が祀られているようで、屋敷鎮守として祀っている稲荷社の社殿にも同様の穴が見られるとの事だ。また、前夜、各家の稲荷社の前では、狐を迎えるために火が燃やされ、翌朝母狐をいたわるために「すみつかれ」と赤飯を供える風習が今でも残っている。
 
  社殿裏手に祀られている末社・庚申塔等      境内社・稲荷社の左手に建つ出羽三山供養塔
社殿裏手に祀られているのは、左から「庚申塔」「愛宕大〇」「〇〇〇」「稲荷大明神」「天満宮」「金毘羅大明神・〇〇〇〇〇明神」「辨財天」「富士嶽神社」「辨財天」「八幡宮」「?」「三島大神」。
        
                  社殿からの一風景


*追伸 
「埼玉の神社」の社の配置図には雷神社と境内社・稲荷社の間に「力石」があるのだが、当日参拝時、該当場所には確認できなかった。但し、正面「一の鳥居」を越えた左手のコンクリート製の貯水槽脇にある石置き場(?)に一つ「力石」らしき大石があった。石の表面には、何かしら刻まれているようにも見えるのだが、そこの判別は難しかったので、写真のみ紹介する。
        

        


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

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日出安駒形神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市日出安9701
             
・ご祭神 大日孁貴神
             
・社 格 旧日出安村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 714日 例大祭 1015
 戸崎八坂神社から埼玉県道305号礼羽騎西線を南下して新川用水(騎西領用水)に達する丁字路を左折、用水沿いの道幅の狭い道を900m程東行し、路地を右折すると、日出安集会所とその東並びに日出安駒形神社が進行方向左手に見えてくる
 社の西側に隣接する日出安集会所には広い駐車スペースあり。
        
               日出安駒形神社正面一の鳥居
            鳥居の左側にある石碑は「伊勢参宮記念碑」
『日本歴史地名大系』「日出安村」の解説
 正能村・外川村の東にあり、集落は騎西領用水右岸の自然堤防上にほぼ東西に連なる。田園簿によれば田高一九五石余・畑高二九七石余、川越藩領。ほかに根古屋村金剛院領三〇石、保寧寺領一〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六一〇石余、反別は田方二五町余・畑方三六町余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに二四六石余があった。
 
   手入れの行き届いた参道の両側      朱を基調とした両部鳥居である二の鳥居 
      には赤松林が並ぶ。
 嘗て当社の別当は旧根古屋村金剛院。この金剛院は、新義真言宗にて、旧山城国(現京都府)醍醐報恩院の末山という。この醍醐寺は真言宗醍醐派、別名当山派といわれ、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されている修験道の一派であるため、金剛院が別当として管理していたこの社の鳥居が両部鳥居であるのも納得できよう。
『新編武蔵風土記稿 日出安村』
 駒形權現社 村の鎭守なり、根古屋村金剛院持、もと金剛院は當社の傍にありしが、文祿の頃根古屋村へ移れりと云、已に寺領も當村にあり、當社も慶安五年の御朱印を賜ふ、神體は古き木塊の如くにて詳にのべがたし
『新編武蔵風土記稿 根古屋村』
 金剛院 新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所藏せる古器蓋の裏に、文祿五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、

 二の鳥居の右側で、道路沿いには「天保九年銘日出安邑扶助田記念碑」があり、加須市指定史跡に指定されているが、丁度参拝時間がお昼過ぎの休憩時間で、何台もの業者のトラック等が道路沿いに駐車されていて、撮影が困難であった。案内板も設置されており、その内容はここに明記する。因みに『加須インターネット博物館HP』の「昔ばなし」の項には、【39 日出安村の「扶助田」】として昔話調で内容で紹介している。
 町指定史跡
 天保九年銘日出安邑扶助田記念碑
 碑面上部に「積金贖質田記」(金を積み、質田を贖う記)とあり、以下にその由来が漢文で記されている。天保九年(一八三八年)正月造立。
 この頃日出安村では質入や売却した田畑が数百畝にも及んだ。これを憂えた篤志家らは、質金を蓄え生活に困窮する村民に貸し与えた。また、村民も日々節約し農業に励み、数年後には田畑を買い戻すことができた。その為、天保六・七年は全国で凶作による食糧難に苦しんだが、ここでは村を逃げ出す者がいなかった。そして同九年、生活に余裕のある人々が私財を出し合い、五十畝の麦田を設けることとした。これを扶助田とし、その収入をもって困窮する者を救い、零落者(落ちぶれる者)が出ないことを目指した。
 なお、当碑の書と撰文は幸手宿の儒者、金子竹香である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 駒形神社  騎西町日出安九七〇(日出安字中耕地)
 日出安は騎西町の北部、新川用水(騎西領用水)右岸に位置する農業地帯である。当社の境内は、八二〇坪と広く、脇を新川用水が流れる静閑な地にあるため、氏子の憩いの場となっている。
 当社の創建については、口碑に「上杉謙信が根古屋城を攻める時、乗って来た馬が死んだため、その馬を悼んで祀ったもの」と伝え、『明細帳』には「往古陸前園胆沢郡水沢町鎮座駒形神社の分霊を祭ると古老の口碑に有せり」とある。なお、この社の祭神は、往古駒形神あるいは神馬ともいわれ、馬を保護し、その病を治し給うとして厚く信仰された。
 慶安五年には五石の朱印を受けている。
 現在、祀職は新槙家が二代にわたって務めているが、神仏分離以前は現在根古屋にある金剛院が別当を務めていた。金剛院は、かつては当社と境内を同じくしていたが、いかなる理由からか慶長年間に根古屋に移ったという。
 なお『明細帳』による祭神は大日孁貴神で、内陣には三本の幣束と一体の神像(石造の座像)とが納められている。明治四〇年八月八日に字新道下の神明社と字中の稲荷神社が合併を許可されているが、実際には合祀は行われなかった模様である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある社の扁額       拝殿手前に設置されている社の案内板
 
                                   本殿(写真左・右)
 当社には特別な信仰やご利益はないが、昔から鎮守様として祀られている。この駒形様は相撲が好きだといわれ、かつては八幡講相撲と称して七月一四日の夏祭りには草相撲が行われていた。この八幡講相撲は幕末か明治の初めになくなったというが、拝殿内にある安政四年に奉納された絵馬から当時の様子を偲ぶことができる。
        
             境内に祀られている石祠四基と奉納碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
                  
  

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