古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

弥兵衛鷲神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市弥兵衛476
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 誉田別命 素戔嗚命
             
・社 格 旧弥兵衛村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
「道の駅 童謡のふる里おおとね」の東側で、埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、「埼玉大橋」高架橋下の道路を利根川右岸土手沿いに500m程東行すると、進行方向右手に弥兵衛鷲神社が見えてくる。
        
                                   弥兵衛鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「弥兵衛村」の解説
 新川通(しんかわどおり)村の西に位置し、村の北東を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。村名は飯積(いいづみ)村(現北川辺町)の平井外記とその子弥兵衛が開発したことによるという(風土記稿)。また、貞享三年(一六八六)の利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には、飯積村名主善左衛門が六〇年以前田地を求めて引越し、弥兵衛村名主を勤めたとある。その後平井家が代々名主を勤めた。田園簿には弥兵衛新田とみえ田高八石余・畑高一八六石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)の向川辺領村々高書上帳(同文書)では幕府領。
          
            鳥居には藁で作られた大蛇が掛けられている。
      また社号額には「八幡社」「八坂大神社」「鷲神社」「愛宕神社」とある。
       
                    拝 殿
 鷲神社(てんのうさま)  大利根町弥兵衛四七六(弥兵衛字上分)
『風土記稿』に「彌兵衞村は鷲宮鄕と唱う、当村古へ平井外記と云者飯積村(現北川辺町飯積)より当所に来り開発し、其子弥兵衛もともに開発のことを司りしより村名となりし」とある。隣村の外記新田鷲神社社記に鷲宮大明神を勧請したものという。しかし明治四五年当社に合祀された八幡社の旧鎮座地は小字焼畑(やけっぱら)であり、その社記によると「景行天皇の代御宝別命、天皇の命により東国を治めるに当り、賊徒に対して火矢を射る、その時矢が当たり焼けたため地名をヤケッパラと呼ぶ」といい、口碑に「この附近は古くから開けた所で、八幡社も鷲神社も新田開発前に住んでいた者が祀った」ともいう。
 大正二年、当社は旧別当真言宗鷲宮山龍福院境内から八坂大神社の鎮座していた現在地へ遷座し、同時に八坂大神社を合併して村社となる。八坂大神社は「元文三年悪疫流行の時、村人が愛知の津島神社に祈祷し功験著しく、よって同社分霊を行い創祀す」と社記にある神社であり、古くは天王様と呼ばれ江戸中期作の神輿がある。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命・誉田別命・素戔嗚命で、ほかに愛宕社祭神火之夜芸速男神(ひのやきはやおのみこと)を祀るというが不明であり、焼原の八幡社の合祀社であったとも思える。境内末社は地租改正の折、同字内の愛宕社・浅間社・三峰社を合祀したという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

『加須市HP』や『埼玉苗字辞典』によると、この「平井外記」という人物は、正保四年(1647)没となっている。
 *平井家系譜「平井稲葉(稲泉道栄居士・文禄二年没)―伊豆(平安浄貞信士・慶長十三年没)―佐渡(源誉路安信士・寛永十七年没)―外記(信誉浄金信士・正保四年没)―太郎左衛門(全冬安永信士・宝永三年没)―四郎兵衛(元禄十四年没)―太兵衛(元文二年没)―庄兵衛(明和二年没)」
 平井家は代々摂津源氏頼光の輩下にあったが、頼光の玄孫三位頼政が宇治平等院で敗れてからは数代にわたって諸国を流浪し、ついに頼政を祀る古河に至り、北川辺飯積の地に帰農した。
 その後、平井外記は単に飯積にとどまらず、広く東方に開墾の鍬をふるい、飯積三軒・高野・大曾・前谷・駒場・外記新田等を豊穣な地として、北川辺領開発の租となった。
 多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救った。
 そのため家は取潰しとなり、外記自身は責を負って自刃した。時に正保41647年)年86日。農民たちは挙げて助命運動を行っていたが、辛うじて罪一等を減じて末の一女を恕されて平井家断絶の最悪の事態を避けることができた。
 平井外記は単に一族の祖、一村草創の人でなく、北川辺領開発の人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人であったという。
       
       拝殿正面に飾られている「雷電神社神璽」と「榛名神社御祈祷御札」 
 この地域には「講社」という各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講があり、「榛名」「三峰」「雷電」「御嶽」「富士」の各講がある。上記の榛名には毎年3月に代表して参拝する「代参講」が行われ、雷電には毎年2月下旬にと七月に「代参講」が行われる。

    社殿左側に祀られている仙元宮     仙元宮の右側隣に御嶽神社の石祠が祀らている。

 仙元宮の左側奥に祀られている稲荷大明神     社殿右側には天満宮が祀られている。
  稲荷大明神の左隣は三峰社であろうか。 

 当社の氏子区域は大字弥兵衛全域であり、これを西・東・前・横手・焼原の五耕地に分け、神社の仕事は一耕地一年交替で努め、これを黽番(かまばん)と呼ぶ。
 当社の大祭は、四月十五日の春祭りと十月十五日の秋祭りで、四月は豊作祈願、十月は収穫感謝であるという。当日は総代が祭典を奉仕し、集会所で直会を行う。
 また悪疫除けの行事として「天王様」があり、これには神輿が出る。因みに、天王様の日には、鳥居には藁で作られた大蛇を掛ける風習がある。七月一日に黽番は神輿を出して清掃・備品の点検・警察との打ち合わせを行い、同六日は幟立て、同七日は神輿に拝殿で祭り込みを行う。七日の晩から氏子がお参りをするため、総代がお祓いをする。同一五日夕刻に集合し御神酒を頂き、嘗ては耕地中を揉んだが、現在は境内で揉むという。翌日一六日には還御ノ儀(かんぎょのぎ)を行い、午後に幟倒しを行い天王様は終了するとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等    

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砂原鷲神社


        
              ・所在地 埼玉県加須市砂原447
              ・ご祭神 天穂日命
              ・社 格 不明
              ・例祭等 お獅子様 411日 春祭り 415日 秋祭り 1015
 北下新井地域にある大利根総合支所から埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、「北平野」交差点を右折、同県道345号砂原北大桑線に合流後350m程先にある「下総皖一生誕の地 童謡のふる里」の看板が設置されている十字路を右折する。暫く進むと、風景は一面見渡す限りの田畑風景に変わる。この一帯は「埼玉の神社」によると「当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われた」と載せているが、この風景を見ると成程と納得してしまうほどの豊かな穀物地帯が広がっている。
 埼玉県にもこのような場所があるのかと感慨に耽りながら車を更に走らせ、「稲荷木排水路」を抜けた直後の路地を右折、更に
500m程先の十字路を左折すると、背中を向けた砂原鷲神社社殿が右手に見えてくる。
        
                  砂原鷲神社正面
 加須市砂原地域は、利根川右岸に位置し、東西3.8㎞程・南北は最大でも1㎞程の、東西に長い利根川低地上に位置する地域である。因みに地域名「砂場」は、昔古利根川の砂が寄せた地を開発したことにちなむとされ、川筋に沿って砂山が続いたといわれる。
『新編武蔵風土記稿 砂原村』
「土人云往古利根川の砂寄たる地を開きしより此名ありと云、(中略)東西三十五町、南北五町許、(中略)村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」
この地域の東側には「十間新田」という字名もあり、「風土記稿」において、「村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」と載り、この十軒新田の地内に砂原鷲神社は鎮座している。
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町砂原四四七
 社記に「宝暦六年武蔵国南埼玉郡鷲神社の分霊を祀り耕地鎮守と称す」とある。
 口碑によると、当地は古くから人の住む所で、畑の中から土器の破片が出るという。また、江戸期には相当数の戸数があったといわれ、殊に当社の創立と伝える宝暦年間が最も多かったという。旧家の街道に建つ出羽三山登拝碑などの石碑類もこの年号が多い。
 しかし、その後、大利根地区で一番の低地のため、利根の乱流による水害が激しく、自然堤防付近への移転が計られ、江戸後期より明治初頭にかけて十軒余りに減少する。このことから当地は現在でも十軒と呼ばれる。また、一〇軒とは坂田・中島・羽鳥・田代・曽根・中沢・久保田・小野田・荻野・斎藤であるといい、当地は雁採場(がんとりば)といわれ、草分け坂田家はガンドン(雁殿)と呼ばれていたといわれる。
 当所は、古くは鷲宮神領であり、街道に建つ石碑などからも宝暦年中の勧請はうなずけるものがあり、祭神は天穂日命である。隣接する真言宗西浄寺が元は別当であったが、明治初期に消失したという。
 覆屋内に三殿があり、鷲神社を中央に、向かって右に安政五年六月配祀と伝える八坂神社を、左に宝暦七年駿河国浅間神社より分霊という浅間社を祀る。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                境内社・稲荷神社の石祠
 氏子区域は旧大利根町字十軒である。これを上組・前組・中川組・下組に分けられている。
 当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われ、また蓮田も作り、養蚕・川魚漁と裕福な地域となった。しかし、大雨が降ると地水が湧き、道路も水に浸かる時があり、用水路へ水車で水をはくほどであり、その生活には厳しいものがあったようだ。このために氏子は信心深く、毎月の一日・一五日の参詣を欠かす者はなかったという。
 また当所では、正月三が日は餅を食べない風習があり、これは三が日の餅は神様のものだからといい、昔は子供には三が日のうちに餅を食べると吹出物ができると教えたという。
 
社の北側に隣接している「十軒農村センター」    農村センターの敷地内にある庚申塔3基



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」等



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北下新井若宮八幡社

 松はマツ科の属の一つで、約100種が北半球の各地域に分布し、針葉樹で針のような形態の葉と、松かさ(松ぼっくり)とよばれる実がなるのが特徴である。人との関わりも深く、さまざまに利用されたり、文化や信仰の対象にもされている。
 他の樹木が生えないような岩や砂だらけの荒地でもよく育つ。霧に包まれた険しい岩山に生えるマツは仙人の住む世界(仙境)のような世界を演出し、特に中国の黄山や華山の光景は見事である。海岸地帯においても時に優先種となり、白い砂と青々としたマツの樹冠の対比の美しさは白砂青松などと呼ばれる。これは特に日本で親しまれており松島、天橋立、桂浜、虹ノ松原などが有名である。
 松の由来は、「(神を)待つ」、「(神を)祀る」や「(緑を)保つ」が転じて出来たものであるなど諸説ある。節操や長寿を象徴する木として尊ばれており、日本では「松竹梅」と呼ばれ、おめでたい樹とされた。魔除けや神が降りてくる樹としても珍重され、正月に家の門に飾る門松には神を出迎えるという意味があるという。
また、松は薬用として、特に松の皮や脂は、傷口を覆う止血に用いられた。そのため、日本の城で植えられる例が多い。
 このように松は日本人との繋がりが非常に深く、文化や信仰の対象にもされて、昔から親しみのある樹木である一方で、産土神の中には松が嫌いな神様がおられることも伝承・伝説の中で出てくることも事実である。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったとも、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたともいう。
 同じような伝説は、行田市の須賀熊野神社、鴻巣市の安養寺八幡神社にも伝承されていて、加須市北下新井地域に鎮座する若宮八幡社にも同様な伝承がある。偶然の産物ではない何かの事象を根拠に描かれているのであろう。勿論これは悠久の昔の神話世界の話ではなく、人間が織りなした生々しい事実・事件を題材にしたものであると考える。
        
             
・所在地 埼玉県加須市北下新井461
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧下新井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭 415日 秋祭り 1015
 加須市北下新井は、加須市大利根総合支所等の旧大利根町の公共施設が集まっている地域である。埼玉県道84号羽生栗橋線が地域内を東西方向に走っていて、加須市大利根総合支所から上記県道を1㎞程東行した先に北下新井若宮八幡社は鎮座している。
        
                北下新井若宮八幡社正面
            県道に沿って境内は広がり、社殿は東向き。
『日本歴史地名大系 』「下新井村」の解説
 平野村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。寛永八年(一六三一)の寄合帳(大塚家文書)では「武州騎東郡川辺之内下新井村」、同一八年の検地帳写(田代家文書)には「武蔵国騎東郡川辺之内下新井村」とみえる。田園簿によると田高二五五石余・畑高三四七石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領で続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。弘化元年(一八四四)より新田三石余が幕府領として加わる(「郡村誌」など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                 静かな境内の一風景
 元和年間(1615年〜1624年)の創建。嘗て利根川は当地の南側を流れていた為、度々洪水の被害に遭っていた。当社も水害から逃れるために盛土の上に建てられている。近くの龍蔵院が別当寺であったが、実務面の管理は当社の隣にあった龍蔵院の末寺の「寿福院」が行っていた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1911年(明治44年)の神社合祀により、周辺の7社が合祀された。
       
          参道左側で、手水舎の近くにあるご神木(写真左・右)  
    参道左側にある「改修記念碑」         ご神木の先にある手水舎
 改修記念碑
 本村民往古より摂津国高津宮祭神大鷦鷯尊(仁徳天皇)を信仰し、元和四年(1618)祠を創立。該神を分霊し勧請す。不老山若宮八幡と称す。
 例祭を毎歳四月十五日と定め以て五穀豊穣を祈る。しかし本村地は利根川と古利根川の間に位置し洪水氾濫幾度と知れず。文政十一年(1828)村民協力して現在地に築土し祠殿を再建するも、爾来尚数十年多発する水害の為稲熟は年毎に減り村民は疲弊を極む。天保九年(1838)から利根川の築提工事と中小河川の整備により、田数百町歩を得て排滞水、水防事業が亦緒につく。村民漸くにして愁眉を開き炊煙益々盛る。これ関係者の努力の致す処なれど、神徳に非ざれば何をもってここに至る。明治三十年(1897)八月村民相図り、社殿を大修理し以て祭典を挙げる。大正十二年(1923)九月一日関東大震災の為本社殿全壊、境内神社崩壊。被害箇所整理の後大正十四年春社総代、役員協議して再建に着手。大正十五年十月完了後吉日御遷宮祭典を挙げる。
 平成元年(1989
)、再建以来六十余年の歳月を経て本殿、境内社共に老朽化著しく、各役職、氏子の諸賢、対策協議会を結成す。(中略)御遷宮の祭典を挙行し、この事業を子々孫々に伝えんが為、奉賛者各位の芳名を記し、拠ってここに記念碑を建立す。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                 塚上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 下新井村』
 八幡社 村の鎭守なり、龍藏院持、下同じ、〇雷電社
 龍藏院 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、瑠璃光山世尊寺と號す、本尊藥師を安ず、〇地福院 同末、高應山師尊寺と號す、本尊彌陀を安ず、

 若宮八幡社  大利根町北下新井四二一(北下新井字砂場耕地)
 元来、利根川は、大利根町佐波付近から加須市樋遣川の地を南流し、当地の南を通り、鷲宮町方面へ流れていた。
 口碑によると、昔利根川の北岸に集落が形成されていたが、度重なる水害により人々は堤から離れて上の方に移り、字樽場の辺りに多く住むようになったという。往時の水害の様子を物語るものとして、地内には「お谷ガ池」が今に残る。
 当社も浸水から逃れるために盛り土の上に祀られている。その創立は社伝によると元和年間とされる。正徳四年神祇管領吉田兼敬より正一位の神位を受けた。
 別当は、真言宗竜藏院が務めていたが、直接の管理は当社に隣接する末寺の寿福院が当たっていた。明治初めの神仏分離により、寺の管理を離れ、明治五年に村社となり、同四四年には村内の七社の神社を合祀したが、このうち本田耕地の三峰神社はそのまま社殿が残された。
 社殿は、大正一二年の関東大震災によって全壊し、同一五年に再建して、現在に至っている。
 主祭神は誉田別命である。内陣には、騎乗の八幡大明神像を安置し、口碑にこの神像は松の葉によって傷めたため、目に傷があり、若宮八幡様は松が嫌いであるという。また、御一新の折の神社改めに際し、神像の没収を恐れた氏子は、一時これを隠したという。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 本殿。その左側奥には子安神社が祀られている。   本殿右側に祀られている稲荷神社。
       
      石段手前で、左側に祀られている熊野神社(写真左)・雷電神社(同右)
       
      力石も区画を設けて展示している。  力石の奥に祀られている弁天社
        
                  石段手前で、参道に対して右側に祀られている琴平神社

 ところで、北下新井若宮八幡社の春祭りで上演されるササラは、正式には「祐作流獅子舞」といい、近在に広く知られている。昔、下新井村は利根川の水害が多く、伝染病による死者が数多く出たため、悪病除けのササラを北川辺の向細間から習ったことに始まったという。
 演目は「ササラ八庭」と称し、「赤間」「平庭」「花がかり」「橋がかり」「綱がかり」「弓がかり」「笹がかり」「女獅子隠し」の八通りがあったが、現在は後継者育成により、祭りには三庭のみ演じられている。
 摺り手は樽場と砂場各耕地出身者が当たるのを慣例とし、特にこの二耕地は八幡様の宮元と呼ばれ、ササラの行事の一切を行っている。当日祭典終了後、境内でササラが上演され、その後字本田の三峰神社前で一庭摺る。また、三峰神社の行き帰りの途次、氏子から要望がああるときは、その家の前で悪病退散を祈って摺ることもあるという。
        
          境内に設置されている「北下新井のささら」の案内板
      加須市指定無形民俗文化財で、平成二七年九月八日に指定されている。 



参考資料「文化遺産データベース」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
加須市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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琴寄横沼神社

 瞽女(ごぜ)とは、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻陬の村々を唄をもって渡り歩いた日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」など、中世以降の貴族などに仕える女性の敬称である「御前」に由来する説と、中国王朝の宮廷に務めた盲目の音楽家である「瞽師」や「瞽官」の読みから転じた「瞽女(こじょ)」に由来する説がある。
 近世までほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人であるという。
 瞽女は将軍・大名に仕え、箏・三弦を教授するなどして定住する者もあったが、多くは仲間と共に門付けをしながら村々をめぐり歩くため、一年の多くを旅で過ごすことになる。娯楽らしいものにも乏しかった農民は、毎年のようにやってくる瞽女を親しみを込めて「ゴゼサ」「ゴゼンボ」と呼んで温かく迎えたのであった。テレビもラジオもない時代のため、宿泊先には歌謡を聞きに付近から人々が集まり、夜の更けるまで瞽女の唄を聞いて楽しんだのであった。瞽女も農民の好みに絶えず心をくだき、唄を通じて心のふれあいが生まれた。農民にとっては、瞽女の唄ばかりではなく旅の話を聞くことも楽しみであった。廻村した地域に関するたわいない話であっても、情報の少ない農民にとっては興味深かった。また、瞽女が人々の信仰の対象ともなっていたことも注目される。瞽女が貧者に善根を施して利益を与えることに加え、子育て、蚕の孵化(ふか)、稲・麦の発芽をうながす霊力や死者の霊を慰め供養する力などを有する聖なる来訪者として意識されていたためである。そのため彼女らに対し村入用で宿を提供し、手引人足が次村まで送り届けるというように、村全体で盲人を受け入れる体制が整えられていたという。
 加須市琴寄地域に鎮座する横沼神社は、1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1912年(明治45年)の神社合祀により、周辺の神社が合祀された。その中に「護世社(ごぜしゃ)」がある。「護世」は女性盲人芸能者「瞽女(ごぜ)」のことであり、利根川の洪水で琴を持った瞽女の遺体が岸辺に流れ着き(寄り)、彼女を手厚く葬ったことが当地の地名「琴寄」の由来であるという。「琴寄」という地域名には、その優雅な響きとは相反する悲しい「瞽女」の伝承・伝説が残されている。
        
              
・所在地 埼玉県加須市琴寄344
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧琴寄村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 415日 1015
 新井新田八幡神社から北上し、「間口」交差点を右折して国道125号栗橋大利根バイパスに合流後、旧栗橋町方向に東行する。その後、700m程先にある「豊野台工業団地」交差点を左折、そして1㎞程先にコンビニエンスがある交差点を右手前方向に進路変更し、そのまま道なりに暫く進むと琴寄横沼神社が左手に見えてくる。
 境内東側には社務所があり、そこには専用駐車場も確保されている。
       
                  
琴寄横沼神社正面
『日本歴史地名大系』 「琴寄村」の解説
 [現在地名]大利根町琴寄
 本村と新田が下新井村を挟んで離れており、本村は同村の南、新田は北東に位置し、本村の南西を古利根川が流れ、川沿いに堤がある。対岸の間口村との間に渡船場があった。村名は、昔利根川が満水したとき琴を抱いた瞽女が流れ寄り、この地で絶命、哀れに思った村人が厚く葬ったことに由来するという。この瞽女を祀ったと伝える護世(ごぜ)社が横沼神社に併祀されている(大利根町地名考)。
 田園簿によれば田高一一五石余・畑高六四五石余で、幕府領。このほか善定寺(ぜんじようじ)領七石がある。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(小林家文書)によると、検地奉行は上野前橋藩家臣。畑屋敷のみで都合一七三町一反余・高四八九石余。
        
                    境内の様子
 広い境内。そしてその奥には、塚とも古墳とも思え、洪水対策なのか小高い丘上に社は鎮座している。常緑樹は社を取り囲むように聳え立っているのだが、参拝時期は2月下旬の冬時期であり、もし紅葉の時期に参拝すれば、銀杏等が金色に染まりさぞ美しいのであろうと、その点は残念な感想。ともあれ、「村の鎮守様」の雰囲気を感じさせる荘厳さを持つ社
       
       社に向かう石段の手前左側に聳え立つイチョウのご神木(写真左・右)
        
              石段の右手にある古そうな灯籠と石祠 
          灯籠群の奥には「富士〇〇大神」と刻印された石碑が建つ。
        
                 石段上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 琴寄村』
 横根明神社 村の鎭守なり、祭神詳ならず、善定寺持、下二社持同じ、末社 稻荷 天王
 〇天神社 〇諏訪社 〇八幡社 眞福寺持 〇愛宕社 長樂院持 〇淺間社 地藏院持
 〇本護世明神社 祭神詳ならず、寶光院持、 〇湯殿權現社 長泉寺持、

 横沼神社(みょうじんさま) 大利根町琴寄三四四(琴寄字後川
 当社が鎮まる琴寄は、『大利根町誌』によると昔利根川が洪水の折、今はない後川に琴を胸に抱いた瞽女が命絶えて流れ着いたことに由来するという。
 社伝によると、往時、琴寄は鷲宮町の鷲宮神社の氏子であったが、人家が増えたため、元和年間に社を建てたのに始まると伝え、本来鷲宮神社と号すべきであったが、社殿の横に沼があったことから横沼神社の社名が付けられたという。『明細帳』に載せる祭神が天穂日命・武夷鳥命であることから、鷲宮神社の分霊を祀ったことを推察できるが、江戸期の祭神は『風土記稿』に「祭神詳ならず」とあり、その確証は得ない。
 同社名の神社として羽生市下村君の鷲神社は、『風土記稿』に「鷲明神横沼神合社」と載り、さらに「横沼明神は御諸別王の息女を祀る所といへど、是も定かなる拠をきかず」とあり、当社との関係は明らかではない。
 明治五年に村社となり、同四五年には字西後川耕地の護世社をはじめ、横沼・八幡・諏訪・天・雷電・浅間・湯殿・愛宕・塞の各社が合祀された。このうち護世社は、現在拝殿に祀られており、天正年間の創立と伝え、当地琴寄の地名の起こりとなった瞽女を手厚く葬った社といわれている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 氏子区域である琴寄地域は、琴寄本田と琴寄新田の大きく二つに分かれ、それぞれ地域も下新井地域を挟んで離れている。その中でまた小さく耕地が分かれており、その数はおおよそ10耕地である。当社に合祀された社は、本来各耕地ごとに祀られていた小さな祠であったという。
      
      社殿に向かって右側に祀られている   社殿に向かって左側に祀られている
          境内社・八坂神社          境内社・御嶽神社
       
             本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社
            稲荷神社の右隣にも稲荷神社の石祠が祀られている。
       
                 社殿から境内を眺める。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「多摩市デジタルアーカイブ」
    「Wikipedia」等
   

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阿佐間八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市阿佐間991
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧阿佐間村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 325日 春季例祭 415日 夏越大祓 715
                   宵宮祭(灯籠祭)914日 例大祭 915日 他
 間口八幡浅間神社から埼玉県道316号阿佐間幸手線を1㎞程西行し、同県道346号砂原北大桑線と合流する「阿佐間」交差点を南東方向に進むと、阿佐間八幡神社の正面鳥居に到着する。
        
                 阿佐間八幡神社正面
 鳥居を過ぎた社の参道西側には加須市公共施設『旧南保育所』があるのだが、この保育所は建物の老朽化を踏まえ、現在「民族資料保管庫」として使用しているという。今後は耐用年数等を考慮し、資料については移転させると共に、建物を解体し、売却を含めた利活用を検討する等の適切な処分を図るとの事だ。
 因みにこの建物の先には社の専用駐車スペースがあり、その一角に車を停めてから参拝を開始する。
 
      開放感ある参道の様子              神社の掲示板 
                      当月の行事等の連絡あり、参拝側には便利だ。
『日本歴史地名大系』 「阿佐間村」の解説
 [現在地名]大利根町阿佐間・豊野台
 間口村の西に位置し、北を古利根川、南を島川が流れ、古利根川沿いに堤防がある。松永新田に飛地がある(郡村誌)。田園簿には阿左間村とみえ、田高一〇七石余・畑高五一一石余、ほかに野金七両二分、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高四七八石余。
        
                手入れの行き届いた境内
「埼玉の神社」によると、阿佐間の地名の由来は、「マ」には沼地の意があり、「アサ」は浅い意があるところから、古利根川に沿う沼地、あるいは湿地にちなんで付けられたといわれる。また、村の開発にかかわった人々にちなみ、古くは「七軒百姓」とも称されたという。
 大利根町は、豊野・東・元和・原道の四地区からなり、阿佐間のある豊野地区のみ羽生領であり、他の三地区は向川辺領であった。豊野地区は、阿佐間・杓子木・生出・間口・北大桑・新井新田などからなり、他の地区で鷲神社を多く祀るのに比べ、当地区では八幡神社が多く目につく。このことは歴史的に川辺領と異なり羽生領の影響をうけていたことを思わせ、当地の八幡神社も七軒百姓と称された当時の帰農武士たちにより祀られたものと考えられるという。

 旧阿佐間村鎮守社で明治6年村社となった社。当地の信仰は篤く、日清・日露戦争時には、当地出身の出兵兵士は全員無事に帰還することができた為、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)には武運長久の神として厚い信仰を受けたという。
        
                               境内に設置されている案内板
        
                              拝 殿
『新編武蔵風土記稿 阿佐間村』
 八幡社 村の鎭守にて、金乘院のあづかる所なり、
 金乘院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺の末、星子阿彌陀寺と稱す、本尊不動、開山榮賢と云、貞享四年十二月二十七日示寂す、金毘羅社
 南藏院 当山派修驗にて、江戸青山鳳閣寺の配下、正当山と號す、本尊不動、

 阿佐間八幡神社 御由緒
 ○御縁起(歴史)
 創建年月日は定かでないが、承応二年(一六五四)には、村の鎮守とあり人々は八幡大神を阿佐間の守護神として崇め、八幡様に神恩感謝の誠を捧げ、折々のお祭りを厳粛に斎行してきた。尚江戸期には旗本松平家の知行地となっている
 その間、元禄五年三月十五日(一六九二)社殿老朽化により改築を代官松平主計頭に願い出ている。元禄十五年三月十五日(一七〇二)台風により社殿破損のため、松平主計頭金四両を寄進し修営。さらには、元禄九年九月十六日に新畑二反一畝三分を主計頭源昭利が寄進している
 人々の信仰厚く、享保三年十二月八日には、神祇神道管領卜部朝臣兼敬の名において「正一位八幡宮」の宗源宣旨がなされている
 氏子此を大いに慶び灯籠祭りをおこなった。
 それ以来九月十四日の「宵宮祭」には今日まで灯籠祭が続いている。
 更に文政三年(一八二〇)社殿改築。明治三年(一八七〇)社殿改築。その後一三○年を経て老朽化甚だしく、氏子全員の総意により、平成十五年十一月(二〇〇三)銅板葺の社殿に改築(日本建築工芸設計事務所監督)
 ○御祭神と御神徳
 八幡大神(誉田別尊)
 殖産興業の神。邪を祓い悪を正す神。母子神の大愛を垂れたもう神、武家の信仰厚く武神として崇められる。大東亜戦争中は武運長久を祈る人々が社頭に額ずいた。(以下略)
                                      案内板より引用

 
  社殿左側に祀られている境内社・金毘羅宮  社殿右側には左から(〇)、三笠山社・八海山社
                        ・御嶽山社、秋葉神社の三基の石祠あり
             
                  境内にあるご神木
        
             境内奥に祀られている境内社、合祀社
 左側の境内社は残念ながら読めない。合祀社は湯殿山神社・熊野山神社・白山神社の三社。
        
                社殿からの境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
 

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