古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

牛重天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市牛重3821
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧牛重村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 225日 例大祭 725日 秋祭り 1125
 日出安駒形神社の東側にある埼玉県道38号加須鴻巣線を南西方向に進み、騎西文化・学習センター内にある騎西城に一旦立ち寄る。史実の騎西城(私市城)は、土塁や塀を廻らした平屋の館であったようで、現在の広く騎西城として認知されている天守風の建物は、1974年(昭和49年)8月に建設された模擬天守であるといい、道路を挟んだ反対側には。土塁の一部が唯一の遺構として残されている。
        
                 旧騎西城の復元店主
 この城は戦国最強武将である上杉謙信が本拠地である越後国から関東へ侵攻した際に、本来の目的である松山城救出に間に合わず、その報復として永禄6年(15633月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城を攻め、助三郎は自害し、騎西城は落城したという。この騎西城は本丸を沼に囲まれた堅牢なお城で、北条氏対上杉氏の覇権争いの最前線の城でもあったため、激しい戦いの舞台となってしまった悲しい歴史があるのだが、現在は、綺麗な図書館や公園内に天守があり、加須市騎西地域のシンボルとして存在している。
        
               公園内に設置されている案内板
 騎西城の見学後、改めて牛重天神社に向かう。騎西城の交差点を南下し、すぐ先の丁字路を左折、そのまま1㎞程道なりに進むと進行方向右手に牛重天神社が見えてくる。
        
               像路沿いに鎮座する牛重天神社
『日本歴史地名大系 』「牛重村」の解説
 根古屋村の南東方にあり、南西方は備前堀川を隔てて広く鴻茎(こうぐき)村に対し、東は油井ヶ島沼を隔てて油井ヶ島村(現加須市)。田園簿によれば田高三二〇石余・畑高一一二石余、川越藩領。ほかに妙光寺領三〇石がある。寛文四年(一六四四)の河越領郷村高帳では高八一六石余、反別は田方五二町七反余・畑方三三町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに三一九石余があった。明和四年(一七六七)の川越藩主秋元氏の転封に伴って出羽山形藩領になったと考えられ、化政期には同藩領と根古屋村金剛院領、妙光寺領(風土記稿)。同藩領は天保一三年(一八四二)上知となり(秋元家譜)、幕末の改革組合取調書では幕府領と川越藩領・旗本領。
 天神社が鎮座する「牛重」は「うしがさね」と読む。その地名由来は不明となっていて、筆者としては大変興味深い。
「牛重」(うしがさね)という地名は『新編武蔵風土記稿』にも載っていて、江戸期からあるようだが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は埼玉県北部に鎮座する金鑽神社の「さな」の同類後であるならば、「鉄」つまり「製鉄」に関連する地名とも思える。加えて、牛重地域に隣接する「種足」地域という名称も、どことなく古代の製鉄のイメージがする地名なのだが、それらを証明するしっかりとした書物や資料はないので、あくまで筆者の推測にすぎない。
        
               参道を進む先に見える二の鳥居
 牛重天神社の創建年代は不明。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、そのころには既に存在していたものと推測される。隣の万福寺が別当寺であった。そのため、昭和後期の当社の氏子総代と万福寺の檀家総代は兼任している。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により、周辺の2社が合祀された。そのうちの一つの「浅間社」は、当社の隣にある日露戦争を記念する「日露戦役記念碑」がある塚の上にあった神社で、萬福寺の山号が「浅間山」であることからもわかるように、当社とともに萬福寺と密接なつながりがあった。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 牛重村』
 天神社 村の鎭守とす、〇第六天社 〇淺間社 三宇共に萬福寺持、
 萬福寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、淺間山と號す、開山空鑁天正十三年十月十八日寂す、本尊彌陀を安ず、 鐘樓。寛政八年の鑄造なり、十王堂

 天神社  騎西町牛重三八二(牛重字中前)
 当社は口碑によれば、天神様は学問の神様で菅公を祀り、向学心のあるものが祈れば必ずかなうという。また、五穀を守護する作神であるとともに、諸病平癒の御利益があるとも伝える。
 当地の江戸期における神社は『風土記稿』牛重村の項に「天神社 村の鎮守とす、第六天社 浅間社 三社共に万福寺持」と載せ、当社が村の鎮守として祀られていたことが知られる。往時、別当を務めた真言宗浅間山万福寺は、天正二年の創立である。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年、同字の大六天社・浅間社の二社が合祀された。現在、覆屋内の中央に菅原道真公を祀る天神社、右側に木花咲耶姫命を祀る浅間社、左側に面足命・惶根命を祀る大六天社を並祀している。
 このうち大六天社は天王様とも呼ばれ神輿を神座として安置し、心柱に白幣と人形の木片(一一センチメートル)を縛り付けている。同社は中組の小坂一家で祀っていたものであった。
 一方、浅祀社は当社境内に隣接して、現在の日露戦役記念碑のある塚上に南向きに建ち、参道は五〇Mほどもあったという。覆屋内には、弘化四年の「浅間講中出立の図」の大絵馬が掛かり、往時、浅間講が盛んに行われたことを物語っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿上部に掲げてある凝った扁額      拝殿前には一対の力石が置かれている。
        
               境内に設置されている案内板
 天神社  例大祭 七月二十五日
 当社は菅原道真を主祭神とし、学問の神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」には、当社は「新天神」と記されており、創建は江戸期以前と思われる。
 明治四十年には地内の大六天社・浅間社の二社が合祀されている。大六天社は中組の小坂一家で祀っていたもので、天王様とも呼ばれ、毎年夏祭りには神輿が担がれる。浅間社は本殿後方の塚上に鎮座していたが、現在は日露戦役記念碑が建立されている。
 本殿には弘化四年銘(一八四七)の大絵馬がある。これは本社である北野天満宮(現京都市)を参詣した時のもので、はるか彼方に霊峰富士を望み、馬に跨って社殿に向かう村人の姿が描かれている。
(以下略)
        
                    本 殿
        
              本殿の奥にある「日露戦役記念碑」
    「埼玉の神社」のよると、境内社・浅間社はこの記念碑のある塚上の一角で、
          南向きに祀られているようだが、今回確認はしなかった。
        
                                   社殿からの一風景
ところで、『新編武蔵風土記稿 牛重村』では、浅井長政の家臣であった黒川家の祖が、長政の嫡男・万福丸の菩提を弔うために当地にあった真言宗智山派である万福寺を創建したという。信憑性はとにかく、なかなかロマンある説話ではなかろうか。
『舊家者喜右衛門』
 黒川を氏とす、家系によるに祖先は村岡小五郎の後裔、會津新左衛門政義の嫡子にして、三郎左衛門忠重と云、忠重始て黒川姓を稱し、天文年中淺井備前守亮政に仕ふ、その子大助忠親の時、淺井家より藤丸の紋の陣羽織を興へし由、其子家忠淺井下野守久政備前守長政に仕へしが、久政長政信長の爲に生害せしかば、家忠も、薙染して僧となれり、又其子忠友は萬福丸を守護せしかども、萬福丸も又秀吉の爲に生害せられければ、これも出家せり、夫より家忠の二男忠晴より、この子實忠に至るまで、下野國にありしが、實忠の子忠好、天正年中故有て武州騎西に來り住す、夫より子孫連綿して今の喜右衛門に至れりと云、



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
Wikipedia」
    「境内案内板」等
        

拍手[0回]


日出安駒形神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市日出安9701
             
・ご祭神 大日孁貴神
             
・社 格 旧日出安村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 219日 夏祭り 714日 例大祭 1015
 戸崎八坂神社から埼玉県道305号礼羽騎西線を南下して新川用水(騎西領用水)に達する丁字路を左折、用水沿いの道幅の狭い道を900m程東行し、路地を右折すると、日出安集会所とその東並びに日出安駒形神社が進行方向左手に見えてくる
 社の西側に隣接する日出安集会所には広い駐車スペースあり。
        
               日出安駒形神社正面一の鳥居
            鳥居の左側にある石碑は「伊勢参宮記念碑」
『日本歴史地名大系』「日出安村」の解説
 正能村・外川村の東にあり、集落は騎西領用水右岸の自然堤防上にほぼ東西に連なる。田園簿によれば田高一九五石余・畑高二九七石余、川越藩領。ほかに根古屋村金剛院領三〇石、保寧寺領一〇石がある。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高六一〇石余、反別は田方二五町余・畑方三六町余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに二四六石余があった。
 
   手入れの行き届いた参道の両側      朱を基調とした両部鳥居である二の鳥居 
      には赤松林が並ぶ。
 嘗て当社の別当は旧根古屋村金剛院。この金剛院は、新義真言宗にて、旧山城国(現京都府)醍醐報恩院の末山という。この醍醐寺は真言宗醍醐派、別名当山派といわれ、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類されている修験道の一派であるため、金剛院が別当として管理していたこの社の鳥居が両部鳥居であるのも納得できよう。
『新編武蔵風土記稿 日出安村』
 駒形權現社 村の鎭守なり、根古屋村金剛院持、もと金剛院は當社の傍にありしが、文祿の頃根古屋村へ移れりと云、已に寺領も當村にあり、當社も慶安五年の御朱印を賜ふ、神體は古き木塊の如くにて詳にのべがたし
『新編武蔵風土記稿 根古屋村』
 金剛院 新義眞言宗にて、山城國醍醐報恩院の末山なり、神光山大日寺と號せり、慶安年中寺領二十五石の御朱印を賜はれり、當寺は私市城築營の頃、日出安村より引移せりとされど當寺に所藏せる古器蓋の裏に、文祿五年住僧私源の時引移せしとあるは、城築營後のことならん、弘源は騎西町場寶乗院の開山にして、慶長年中寂せり、

 二の鳥居の右側で、道路沿いには「天保九年銘日出安邑扶助田記念碑」があり、加須市指定史跡に指定されているが、丁度参拝時間がお昼過ぎの休憩時間で、何台もの業者のトラック等が道路沿いに駐車されていて、撮影が困難であった。案内板も設置されており、その内容はここに明記する。因みに『加須インターネット博物館HP』の「昔ばなし」の項には、【39 日出安村の「扶助田」】として昔話調で内容で紹介している。
 町指定史跡
 天保九年銘日出安邑扶助田記念碑
 碑面上部に「積金贖質田記」(金を積み、質田を贖う記)とあり、以下にその由来が漢文で記されている。天保九年(一八三八年)正月造立。
 この頃日出安村では質入や売却した田畑が数百畝にも及んだ。これを憂えた篤志家らは、質金を蓄え生活に困窮する村民に貸し与えた。また、村民も日々節約し農業に励み、数年後には田畑を買い戻すことができた。その為、天保六・七年は全国で凶作による食糧難に苦しんだが、ここでは村を逃げ出す者がいなかった。そして同九年、生活に余裕のある人々が私財を出し合い、五十畝の麦田を設けることとした。これを扶助田とし、その収入をもって困窮する者を救い、零落者(落ちぶれる者)が出ないことを目指した。
 なお、当碑の書と撰文は幸手宿の儒者、金子竹香である。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 駒形神社  騎西町日出安九七〇(日出安字中耕地)
 日出安は騎西町の北部、新川用水(騎西領用水)右岸に位置する農業地帯である。当社の境内は、八二〇坪と広く、脇を新川用水が流れる静閑な地にあるため、氏子の憩いの場となっている。
 当社の創建については、口碑に「上杉謙信が根古屋城を攻める時、乗って来た馬が死んだため、その馬を悼んで祀ったもの」と伝え、『明細帳』には「往古陸前園胆沢郡水沢町鎮座駒形神社の分霊を祭ると古老の口碑に有せり」とある。なお、この社の祭神は、往古駒形神あるいは神馬ともいわれ、馬を保護し、その病を治し給うとして厚く信仰された。
 慶安五年には五石の朱印を受けている。
 現在、祀職は新槙家が二代にわたって務めているが、神仏分離以前は現在根古屋にある金剛院が別当を務めていた。金剛院は、かつては当社と境内を同じくしていたが、いかなる理由からか慶長年間に根古屋に移ったという。
 なお『明細帳』による祭神は大日孁貴神で、内陣には三本の幣束と一体の神像(石造の座像)とが納められている。明治四〇年八月八日に字新道下の神明社と字中の稲荷神社が合併を許可されているが、実際には合祀は行われなかった模様である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿上部に掲げてある社の扁額       拝殿手前に設置されている社の案内板
 
                                   本殿(写真左・右)
 当社には特別な信仰やご利益はないが、昔から鎮守様として祀られている。この駒形様は相撲が好きだといわれ、かつては八幡講相撲と称して七月一四日の夏祭りには草相撲が行われていた。この八幡講相撲は幕末か明治の初めになくなったというが、拝殿内にある安政四年に奉納された絵馬から当時の様子を偲ぶことができる。
        
             境内に祀られている石祠四基と奉納碑


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
                  
  

拍手[0回]


正能諏訪神社

 玉敷神社は、埼玉県加須市騎西にある神社。式内社で、旧社格は県社。元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社的存在の神社である。
 社伝によれば、大宝3年(703年)、東山道鎮撫使・多次比真人三宅磨によって創建された。一説には、成務天皇6年、武蔵国造・兄多毛比命の創建ともいう。延喜式神名帳では「武蔵国埼玉郡 玉敷神社」と記載され、小社に列格している。江戸時代までは「勅願所玉敷神社、久伊豆大明神」と称し、旧埼玉郡(現南北両埼玉郡)の総鎮守、騎西領48箇村の氏神でもあって、広く地域の住民から「騎西の明神様」の名で親しまれ、深い信仰を受けていた。
 実は、この歴史ある社は当所からこの地に鎮座していたわけではなく、元は現在地より北方数百メートルの埼玉郡正能村(現:加須市正能)に鎮座していた。戦国時代の天正2年(1574)上杉謙信の関東出兵の際、兵火にかかり炎上、社殿をはじめ、古記録・宝物など悉く消失した。『新編武蔵風土記稿 正能村』の「小名」には、その時の歴史の痕跡がしっかりと残されている。
「宮内 騎西町場久伊豆社元當村にありし頃、供免地のありし所故此唱あり、今も久伊豆神社河野穩岐此地を持とす」
「一夜塚 永祿五年謙信騎西の城を攻陥せし時、一夜に築て士卒屯せし地なるゆえかく唱ふと、或は戰死の屍を埋めし塚とも云ふ、」
 その後、江戸時代に埼玉郡根古屋村(現:加須市根古屋)の騎西城大手門前に再建された後、寛永4年(1627年)ごろに現在地に遷座したという。

 正能諏訪神社は旧正能村の作神で、創建年代等は不詳であるが、信州の諏訪大社より勧請したと伝えられている。別当は幕末まで真言宗竜花院が務めていた。現社殿は江戸時代終りごろの嘉永3年(1850)に再建された。明治維新後の明治40年には字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀している。
 毎年7月27日の例祭に行われる「カマドッカエ」は、作神であるお諏訪様に鎌を奉納して五穀豊穣を祈る行事である。
        
              
・所在地 埼玉県加須市正能2001
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧正能村鎮守
              
・例祭等 春祭り 427日 例大祭(夏祭り) 727日 
                   秋祭り 
1027
 戸崎日吉社から一面長閑な田畑風景が続く農道を800m程東行し、埼玉県道305号礼羽騎西線に達する路地を右折、旧騎西町市街地方向に南下する。500m程進んだ先のコンビニエンスストアが見える交差点の先に十字路があり、そこを右折すると正能諏訪神社が見えてくる。
 社の境内東側には適度な駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
正能諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』「正能村」の解説
 騎西町場および外川村の北にあり、集落は騎西領用水に沿う自然堤防上に立地する。慶長七年(一六〇二)の正能村の年貢銭納状(正能家文書)がある。元和七年(一六二一)の武州崎西領正能村地詰帳(同文書)によれば検地役人は私市城主大久保家の家臣で、田方は一七町五反余であった。田園簿によれば田高・畑高ともに一八一石余、川越藩領。ほかに竜花寺(院)領二〇石があった。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高三九五石余、反別は田方一九町一反余・畑方一九町四反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によればほかに一六〇石余があった。検地は正保四年(一六四七)実施。
        
                    拝 殿
 諏訪神社  騎西町正能二〇〇(正能字当開戸)
 当地は新川用水に沿う集落で、かつてここには式内社の玉敷神社も久伊豆神社という社名で鎮座していたことがある。『風土記稿』には、小名宮内とあり、これは当地に久伊豆神社の供免地があったために付けられた名で、久伊豆社移転後もここは河野隠岐持ちであった。
当社の創建は明らかではないが、口碑によれば信州の諏訪大社より作神として勧請したと伝える。
 祭神は建御名方命であり、内陣には金幣を祀る。
 別当は、幕末まで真言宗竜花院が務めていたが、明治期に入り神仏分離となり、以来神職が奉仕するようになった。初め河野家が、次いで森野家が務め、現在は新横家が継いでいる。
 明治四〇年に字当開戸の久伊豆社と字大同の雷電社を合祀した。このうち、雷電社は現在も旧地に石宮が残っている。以前ここには松の大木が一本生えていたことから、この辺を一本木耕地と称し、雷が来る度に黒雲が松の上を覆い、よく雨を降らせたという。そのため、このあたりの地主三名は雷神に感謝し、明治一七年に石宮を建立している。
 当社境内には、明治から昭和にかけて奉納された伊勢太々講の記念物が多い。例えば、石灯龍・狛犬・社号標・玉垣などである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿向拝部、及び木鼻部の彫刻         境内には社の案内板も設置されている。

 当地は玉敷神社との結びつきが強い。これは「埼玉の神社」の興で挙げた通り久伊豆神社が奉遷されここに鎮座していたことと、玉敷神社の神楽師に正能の氏子が当たることになっていることを考えてもうかがうことができよう。現在、玉敷神社に所蔵されている文政五年の神道裁許状(神楽役)を見ると、中に神楽役の青木左近藤原貞勝・青木右門藤原保道・青木主馬藤原正直の三名が記されているが、いずれも正能の者と思われる・なお、現在の神楽師の中にも青木姓が多いとのことだ。
             
             境内にある丸正講先達富士登山成就記念碑
 丸正講先達富士登山成就記念碑は、丸正講の青木先達家(正能)が、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもので、市有形文化財に指定されている。
       
                   丸正講先達富士登山成就記念碑の案内板
 町指定有形文化財 
 丸正講先達富士登山成就記念碑
 江戸時代、富士山に集団で登拝する信仰が隆盛し、富士講(浅間講)と呼ばれた。この講は先達を中心に組織され、そのひとつが丸正講の青木先達家(正能・青木浩家)であった。
 青木先達家は、一行初山の行者名を名乗る半右衛門を講祖に、元禄十二年(一六九九)には富士登山三十三回の大願を成就、以後、二代誠行二山、三代三行鏡山、四代泰行清山と続き、五代正行信山、六代正行生山の頃には傘下に四、五千人を有する関東屈指の大講社となった。
 ここに造立する碑(嘉永五年(一八五二)十月二十六日銘・総高四一二センチメートル)は、五代目の富士登山四十五回と、初代から六代までの代々が三十三回の富士登山成就を記念したもの。台石には建碑に関係した村名や人名が刻まれ、その影響力は五十里(約二〇〇キロ)四方に及んだという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        
       境内には石碑等並んでいて、その中に「水天宮」が祀られている。

この水天宮に関しては、「加須インターネット博物館HP」の中の「昔ばなし」において「新川(にっかわ)べりの水天宮」として以下のように紹介している。
「新川(にっかわ)べりの水天宮」
正能・諏訪神社に水天宮があります。水天宮はお産の神様で妊娠すると、安産を願ってお参りをしました。水天宮は、むかしは龍花院の南、ちょうど鐘楼堂近くの新川べりにありました。この神様は、第2次世界大戦の後、ここへ引っ越してきました。
むかしは川で溺れる人や水の事故で亡くなることが多かったようです。特に水の犠牲<ぎせい>になった人を探すのは大変難しく、どうやっても見つからないことがありました。そんな時、有り難いおまじないがありました。水天宮のお札です。このお札をお盆にのせ、川上から流します。不思議なことに、人が沈んでいるところに来るとお盆がグルグル回りだしたといいます。
こうして何人もの人が見つけだされたということです。しかし、川の改修で水の事故も減り、このお札もいつしか使われなくなりました。
 諏訪神社の境内に立つ水天宮は、高さ約80センチほどの石の祠で、正面に「水天宮」と書かれている。江戸時代の安政2年(1855)、正能村の人たちによって建てられたとのことだ。


【戸崎八坂神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市正能88付近
              ・ご祭神 素盞鳴尊(推定)
              ・社格・例祭等 不明
正能諏訪神社のすぐ東側で、埼玉県道305号礼羽騎西線沿いにあるコンビニエンスの道を隔てた反対側に戸崎八坂社は鎮座している。江戸期には「牛頭天王社」として『新編武蔵風土記稿 戸崎村』に記載されていて、明治40年戸崎諏訪神社に合祀されたが、現在も元地(字下耕地)で祀られているという。
       
                  戸崎八坂神社拝殿
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
 諏訪社 村の鎭守なり 〇牛頭天王社 以上寶光寺持
 寶光寺 新義眞言宗、正能村龍花院末、諏訪山瑠璃院と號す、開山空鑁、本尊不動は智證大師の作、長二尺の坐像なり 薬師堂

「埼玉の神社」による戸崎八坂神社の由緒(戸崎諏訪神社項から)
 明治四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「玉敷神社HP」「埼玉の神社」
    「加須インターネット博物館HP」Wikipedia」「境内案内板」等
      

拍手[0回]


戸崎日吉社

 日吉社(さんのうさま)  騎西町戸崎一五二七(戸崎字名倉耕地)
 当地には古城跡があり、戸崎右馬允という者の居城であったという。現在も川下側に城の土手跡がある。
 低地のため古くはしばしば大水に見舞われたので、社地の隣に盛り土を行い、この上に馬を連れて避難したという。これを馬塚と呼んでいる。
『郡村誌』に「城跡に竜宝寺を創建す」とあり、城跡から当社を見ると鬼門に当たることから城守護の社として創建された可能性が高い。
 社蔵の『日吉社記録(弘化三年七月)』には「鎮守内に往古より社家有りしが先年消失し、以来利八という者、社を再建し跡を継ぐ。同時に三両の金を差し出し是を氏子に貸し付けて、利足分で今後の社修覆の足合とした云々」とある。この貸付制は現在まで行われ「人別(にんべつ)」と呼ばれている。
 また同書追録に「鎮守山王大権現を明治五年のころに日吉大神と改称する、祭神は国狭土之命也」とあり、更に合祀について「明治四十年神社合併のこと起り、当社を同字村社諏訪神社に合併せんとするも当社の鎮座地名倉は以前名倉村と称えた一村であり、他に移すことは許されないと陳情し合併を免かれし云々」と載せている。
 現在の本殿は、社記によると弘化三年の再建と思われる。内陣に束帯の神像三〇センチメートルを安置する。境内に神使石像(猿)がある。
                                   「埼玉の神社」より引用
       
              
・所在地 埼玉県加須市戸崎1527
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧戸崎村名倉耕地鎮守
              ・例祭等 春祭り 413日 夏祭り 718
                   例大祭 1028日 決算 12月中旬
       *「埼玉の神社」では、「秋祭り 10月15日」と記述されている。
 戸崎諏訪神社から北東方向で直線距離にして400m程の戸崎字名倉の地に は鎮座している。前項でも述べているが、この地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっていて、この地域中央部一部に民家が点在すると述べたその地こそ、名倉地区である。
        
                  戸崎日吉社正面
『埼玉苗字辞典』では、「埼玉郡戸崎村字名倉(騎西町)は古の村名で、『武蔵志』には、「羽生領太田庄名倉村山王社」と見え、騎西町場大英寺元禄十年碑に名倉村と載せているように、字名名倉は、元禄時期「名倉村」と一村を形成していたという。
 
鳥居近郊に並列して祀られている石碑、仏像等      鳥居の右脇に祀られている
 記念碑の左側二番目に天満宮の石祠あり    「水神」と刻まれた石碑が置かれている。
        
       鳥居から「名倉集会所」を右手に観ながら参道を進むと、突き当たり、
               直角右方向に方向転換し一対の石灯篭の先に社殿が見えてくる。
        
                「名倉集会所」付近に設置されている社の案内板
        
                    拝 殿
 日吉社 例大祭 十月二十八日
 当社は山王社とも呼ばれ、大山咋命を主祭神とする。特に安産の神として崇敬され、出産が近づくと、灯明 (ロウソク)の燃え残りをいただく信仰がある。陣痛が始まったときにこれを灯すと、火が消えるまでにお産が済むという。そのため、お産が軽く済むよう短いものが喜ばれるという。こうしたことから、当社は女性の神としての伝説が残されている。
 昔、社前に池があった頃、隣村の天王様(お神輿)
が村内に乗り込んできた。これに激怒した山王様は「女の領地に男の天王が足を踏み入れるとは何事だ、それを防がなかった村人も許さん」と村中に悪病を流行らせてしまった。困った村人は、翌年、またやってきた天王様を待ち受け、神輿もろとも境内の池に放りこみ、ようやく退散させたという。その後は山王様の怒りも解け、悪い病は消え去ったという。(以下略)
                                      案内板より引用
 
        拝殿の手前にある一対の「
神使石像(猿)」(写真左・右)

 ところで、「加須インターネット博物館」の中のコンテンツに加須市内にある「昔ばなし」が載っており、その中に当地に関わる昔話も掲載されている。

山王様(さんのうさま)と天王様(てんのうさま)」
戸崎の名倉耕地(ごうち)に「山王様」という神様がまつられています(日吉社)。お産にご利益があることから「女性の神様」としても知られています。
むかしむかしのことです。隣村で天王様のお祭りがありました。

「ワッショイ。ワッショイ」
威勢のいい掛け声と共に、神輿を担いだ若者たちがやって来ると、いつの間にか、わがもの顔で村中を練り歩き始めました。村人はあっけにとられ、ただ茫然と見ておりました。
それからしばらくたつと…原因不明の病気が村中に流行りました。村人はあれこれ噂しましたが、原因はさっぱりわかりませんでした。
そんなある日のことです。一人の村人が山王様にお参りすると、どこからともなく不思議な声が聞こえてきました。
「女の神が支配する土地に、男の神が勝手に入ってくるとは何事だ!それを防がなかった村人も許さん!」
原因不明の病気は山王様の祟りだったのです。村人は怒りを和らげようと、あれこれ行いましたが、なかなか山王様の怒りは治まりませんでした。そうこうするうち、また、次の年のお祭りが近づいてきました。
「また、隣村の天王様の神輿がやって来たらどうすんべ。向こうは大勢だしなあ」
「今年やっつけねえと、山王様がもっと怒るべ。みんなでやっつけるしかなかんべ」
そして、祭りの日になりました。村人は神輿が来るのを境内の池のそばで、じっと待っていました。
「ワッショイ。ワッショイ」

掛け声がだんだんと近づき、大きくなった瞬間、みんなで神輿めがけて一斉に飛びかかりました。突然の出来事に驚いた隣村の若者たちは慌てふためき、神輿もろとも池に放り込まれてしまいました。
「バンザーイ、バンザーイ」

一目散に逃げ帰る若者を前に、村人は大喜びしました。
それ以来、山王様の怒りは治まり、元の静かな村になったということです。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須インターネット博物館」等
       

拍手[0回]


戸崎諏訪神社

 諏訪神社  騎西町戸崎二三八八(戸崎字元屋敷)
 当地には『風土記稿』によると「城下」の小字があり、「城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」と載せる。更に『郡村誌』には、この城跡に竜宝寺を建立したとある。この城は、戸崎城あるいは名倉城と呼ばれたという。
 当社の創建も戸崎城に居た戸崎氏にかかわり、口碑によると同氏のゆかりの地である信濃国から一の宮の諏訪大社の分霊を受け祀ったことに始まるという。
 祭神は武御名方命であり、一間社流造りの本殿には束帯の諏訪明神座像を安置する。
 往時の別当は、真言宗諏訪山瑠璃院宝光寺で、当社のほかに字下耕地の牛頭天王社の別当も務めていた。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治五年村社となり、同四〇年には宮元屋敷の厳島社と字下耕地の八坂社を合祀した。現在この二社は境内末社として祀っているが、八坂社は元地にも祠が現存し、子供神輿が納められている。
「埼玉の神社」より引用
        
             
・所在地 埼玉県加須市戸崎2388
             ・ご祭神 武御名方命
             ・社 格 旧戸崎村鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春祭り 327日 八坂祭 711
                  例大祭 827日 秋祭り 1127
 加須市戸崎地域は、同市西部に位置し、見渡す限り平坦な地域で、地域南部と中央部一部には住宅や民家はあるが、それ以外は周囲一面豊かな水田地帯が広がっている農業地域である。
 あまりに平坦な穀倉地域ゆえに、平永稲荷神社から目視ができる程で、稲荷神社正面入り口に接する道路を650m程東行し、突き当たりの路地を右折すると、遠目ながら戸崎諏訪神社の境内遠景が見えてくる。
 但し、社に通じる道は、舗装はされているが、道幅は狭い。周囲にはこれといった参拝用の専用駐車場はないようなので、適当な場所に路駐して、急ぎ参拝を開始した。
        
                戸崎諏訪神社 境内遠景
『日本歴史地名大系』「戸崎村」の解説
 正能(しようのう)村の北にあり、集落は騎西領用水左岸の自然堤防上に立地する。鎌倉時代戸崎右馬允の居城があったと伝え(風土記稿)、竜宝(りゅうほう)寺は戸崎城跡に創建したという(郡村誌)。城下(しろした)・城付(しろつき)の小名がある。永正一一年(一五一四)七月一日の尊能証状写(武州文書)に「武州中崎西之内自戸崎郷下之事」とみえ、崎西(きさい)のうち戸崎郷より下の年行事職を大円坊に申付くべきことを弾正忠尊能が証している。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)一二月設楽甚三郎(貞代)は徳川氏から「戸崎村」で三三九石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。
       
               参道入口に建つ鳥居と社号標柱 
 当地は『吾妻鑑』や『新編武蔵風土記稿』に、鎌倉時代に戸崎右馬允国延の居城があった「戸崎城」があったと伝え、『郡村誌』によれば、社の西側近郊にある金桂山 龍寳寺(竜宝寺)が戸崎城跡に創建したという。 
吾妻鑑卷三
「寿永三年三月十八日、伊豆国に進発する頼朝の御前の射手に戸崎右馬允国延が定めらる」
吾妻鑑卷五
「文治元年十月二十四日、横山、西、小河、戸崎右馬允国延、河原、仙波等は頼朝の勝長寿院落慶供養に供奉す」
『新編武蔵風土記稿 戸崎村』
「小名 城下 城跡の形あり、廻りに土手とおぼしき跡見ゆ、戸崎右馬允といふものゝ居蹟なりと云ふ、」
郡村誌』
臨済宗竜宝寺。其城跡へ当寺を創建すと云」

   鳥居近くに建つ「耕地整理記念碑」    境内にある「県営埼玉型ほ場整備事業の竣工記念碑」
 記念碑文によると、戸崎地域周辺は平坦な水田地域で、農地自体は、昭和14年の耕地整理により整備されてはいるが、一反区画で整備されているほか、道路は狭く用排水路も土水路が残っていて、用排分離もされていないため、効率的な営農が行える状態ではなかったといい、そこで、平成26年度に戸崎地区周辺一帯の整備事業が行われたとの事だ。
 
     一の鳥居の先にある庚申塔       参道の先にある「社殿改築竣功記念碑」
 諏訪神社 社殿改築竣功記念碑
 碑文
 当神社は古来、戸崎の里の総鎮守としてこの地に鎮座し、武御名方命を祀る。村人の幸福と五穀豊穣を恵む、その神徳は遍く広く厚きものあり。
 明治四十年の頃、字元屋敷に在りし厳島神社、並びに字下耕地鎮座の八坂社を合祀し、爾来、里人いよいよ四季の祭りに努め来たりしが、平成七年五月一日の深更、不慮の火災起こりて社殿宝物等悉く烏有に帰す。村人の嘆き悲しみは極まれり。
 されども、やがて社殿再興の気運、氏子の間に高まり、明くる平成八年八月、重立つ人々信州諏訪大社に詣でて、分霊を奉裁し〇新社殿竣功を祝うに至りぬ。
 茲に新しき神殿造営の経緯を記し、村人の厚き敬神の心を書き留め、この里の末永き安寧と弥栄を祈念するものなり。
 平成八年(一九九六年)十月吉日(以下略)
                                     記念碑文より引用
        
     周囲一帯水田が広がっているとは思えない程、境内は社叢林が社を覆っている。
 参道は鳥居から進むが、境内社・八坂社が祀られている所から右側直角に曲がり、社殿に通じる。
        
                  境内社・八坂社
 当社の祭りの一つに、毎年711日に行われる八坂祭がある。この八坂祭は別名「天王様」とも呼ばれ、末社八坂社の祭りである。この日は大人神輿と子供神輿が練られ、村の厄払いが行われる。古くから天王様の風に当たると悪い病気にかからないといわれ、神輿が来ると氏子は沿道に出て拝むという。
「戸崎の村に過ぎたるものは天王様とお獅子様」といわれるほど、氏子は当地にある獅子を自慢する。普段、獅子は宝光寺薬師堂に奉安してあるが、五月一〇日には村の厄払いのため、これを出して氏子を回る。氏子の家に着くと、勢いをつけて座敷に上がり家を祓って風のごとく飛び出ていくもので、無病息災の意味も込められている。
 
社殿に通じる参道左側に並ぶ伊勢参宮記念碑等    参道右側に並列された奉納石燈籠等
        
                    拝 殿
 写真には見えずらいが、拝殿前にある賽銭箱に刻まれている神紋は「違い鎌」という。俗にいう鎌紋とは、農具として使われる鎌をモチーフとした家紋。鎌は諏訪明神の御神体で、祭具として崇められ、また豊穣を祈る意味を持つことから信仰的な意義により家紋となったという。
 
        拝殿に掲げてある扁額         社殿近くに設置されている掲示板
 諏訪神社  例大祭 八月二十八日
 当社は武御名方命を主祭神とし、五穀豊穣を司る神として崇敬される。創建は不詳であるが信州諏訪大社(現長野県)の分霊を祀ったものと思われる。平成七年五月一日深夜、火災により社殿を消失、翌八年に再建されている。
 古くは、地内の宝光寺の管理となっていたが、神仏分離により同寺を離れ、明治五年に村社となっている。また、同四〇年には厳島社と八坂社を合祀している。
 なお、当神社周辺は戸崎城の跡と伝えられ、明治時代の地図によれば土塁が廻っていたことがわかる。平成七年の試掘調査では、堀跡や土塁の痕跡が確認されている。また、平安時代の須恵器や土師器などが出土していることから、当時、ここに集落があったことがわかる。
加須市教育委員会

                                      掲示板より引用 
        
            社殿の東側に祀られている境内社・厳島社

 毎年8月27日に行われる例大祭(本祭り)は、作物の豊作を祈願する祭りで、「鎌どっかえ」と称する行事がある。祭りが近づくと、氏子は銘々で鎌に模して付木に篠の柄を付けたものを二本つくり、「諏訪神社」と書き、自分の名前を記す。当日、これを持って神社に参詣し、神前に供えて、他の鎌と取り換える。鎌は家に持ち帰られ、神棚に、また家によっては悪病除けのため玄関に供えるという。
 また、
当社の境内には道祖神があり、足の病気を治すご利益があるとされている。そのため、かつては草鞋が奉納されていたという。残念ながら境内を確認したが、それらしき祠等は確認できなかった。
        
              参道から入り口付近の鳥居を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「埼玉苗字辞典」「境内掲示板・記念碑文」等
 

拍手[0回]