古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平永白山神社及び平永稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永384
             
・ご祭神 菊理姫命 伊弉諾命 伊弉冉命
             
・社 格 旧明願寺村南明願寺耕地鎮守
             
・例祭等 夏祭 77日〜10
 平永天神社から一旦国道122号線に戻り、「平永」交差点を直進、700m程先で進行方向左手に平永白山神社は見えてくる。
 周辺には適当な駐車スペースは見当たらないので、偶々境内で除草作業をしている氏子らしき方の了解を頂き、社のすぐ北側に面している道路に路駐し、その後参拝を開始した。
        
                 
平永白山神社正面
 平永地域は、かつて江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』における「長ノ村」と「明願寺村」を合わせた地域で、明治8年に二村は合併し平永村となっあっという。平永天神社でも紹介したように、大きな集落は六つの耕地に分かれている。また、この六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。『新編武蔵風土記稿 明願寺村』の項には「今は村内を南北の二區に分ちて唱へり」と載せており、恐らくは南明願寺耕地・北明願寺耕地を指すのであろう。
        
                                        拝 殿
『新編武蔵風土記稿 明願寺村』
 白山社 金道院持、
 金道院 新義眞言宗蓮王山觀福寺と號す、大和國初瀨小池坊末、開山行皆元祿二年五月十八日寂す、本尊不動を安ぜり、
 社に関して「埼玉の神社」等に詳細な説明はなく、他の資料も決して多くはない。この神社の創建は明かではないが、口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを得て建てられたと伝えられている。                   
 
拝殿の右側奥に祀られている境内社・八坂神社         境内に設置されている
                         「八坂神社改築神輿修復記念碑」
               
八坂神社改築神輿修復記念碑
       
当地 南明願寺の地名は この地に住居を構えて中世に活躍した
             
武将 明願寺氏にちなんでつけられたものといわれている 彼の館
             の近くに白山神社(祭神 菊里媛命 伊弉諾命 伊弉冉命)が建立
             され氏子の崇敬の的になっている この神社の創建は明かではない
             が 口伝によると天正年中(一五七三)に領主木戸大隅守の許しを
             得て建てられたと伝えられている その後 寛永二年(一六二五)
             寛政十一年(一七九九) 昭和二十年(一九四五) 昭和四十五年
             (一九七〇)に改築が行われている
              この神社の境内社として八坂神社(祭神 素戔嗚命)がある 社
             伝によると元和年中(一六一五~二四)に愛知県津島市神明町に鎮
             座する津島神社より分祀したものであり その時に神輿が造られた
             ものと推測できる この社の夏祭は例年七月七日から四日間にわた
             って実施されていた なお 嘉永六年(一八五三)には改築された
             ことが棟木に記されてあった 年月を重ね 今日に至って八坂神社
             の社殿や神輿の損傷が甚しく神社としての尊厳を保つうえで改築や
             神輿の修復が必要であるとの声が高まり 氏子一同協議の結果早急
             に実施すべきであるとの決定をみた 氏子の積極的な協力により奉
             賛金として八百五拾八万円が集められた 神輿の修復は平成十年七
             月五日神輿匠師に依頼し 社殿の改築は平成十一年二月五日起工式
             を挙行した 大神等の神徳著く平成十一年七月三日には就航のはこ
             びとなり 来賓 役員 氏子等八十数名の参加のもと八坂神社遷座
             祭が盛大に執行された 式典終了後 神幸祭を実施 神輿は郷内を
             巡幸し氏子あげて神威の高揚につとめ郷土の発展と氏子の幸福を祈
             った
               この碑には 神社の由来及び記念事業の経過を記すとともに 氏
             子として常に神社の尊厳を保ち 敬神崇祖の心を養い 愛郷の情を
             もち地域づくりに精進する決意を碑と心に深く刻み 人生の歩みの
             
支えとするものである(以下略)
 この記念碑によると、当地の武将「
明願寺氏」の館跡が、この白山神社とその南側の金道院観福寺あたりに存在していたという。この明願寺氏は、鎌倉時代元寇で戦い討死したという。
 青石塔婆は、 鎌倉時代から室町時代にかけて死者への追善供養や、 生きているうちに自らの供養をする逆修供養などのために立てられた卒塔婆(ぞとうば)の一種で、 板碑とも呼ばれる。青石塔婆は、 荒川の上流域 (長瀞の周辺) で産出する緑泥片岩 (青石) を材料としている。
 青石塔婆のある金道院は、「高麗軍に対する西域防衛軍として出征し、 弘安4年の元寇海戦の夜襲で名誉の戦死を遂げた明願寺氏の館跡」と言い伝えられており、この大きな青石塔婆と関連があるという説がある
*残念ながら実見できず、「加須インターネット博物館」等にて案内板を確認できた。
 加須市指定有形文化財
 金道院の青石塔婆
 昭和三一年九月指定
 地上高二六〇センチメートル(枠線下端まで)、幅六一センチメートル、厚さ一〇センチメートルの市内で最大規模の青石塔婆である。これは過去に同寺東を流れる川に「やなぎばし」として架けられていたといわれている。そのためか表面の銘文が橋脚を支えるために一部削られている。
 山形の直下に二条線を配し、身部を二重の枠線で囲んでいる。上部に三弁宝珠を加え蓮座のうえに荘厳体でキリーク(阿弥陀如来の種子)を、中央下部に「弘安三年庚辰十二月時子剋敬白」、その両側には光明真言を彫る。弘安三年は一二八〇年。
 この周辺には多くの青石塔婆が出土していることから鎌倉時代には開発がされていたことがうかがえる。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
        
             社殿奥に並んで祀られている石祠四基
             左から(?)・産泰宮・天満宮・多聞天
        
               境内北側から社殿方向を撮影
【平永稲荷神社】
        
              ・所在地 埼玉県加須市平永1109
              ・ご祭神 稲荷神(推定)
              ・社 格 旧下ノ村新栄耕地鎮守(推定)
 国道122号線「平永」交差点を南方向に600m程進み、信号のある交差点を左折するとすぐ左手に平永稲荷神社に到着することができる。
        
                 平永稲荷神社正面
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下ノ村』
 天神社 村の鎮守とす 〇稲荷社 〇十六善神社 以上常泉院持
 常泉院 新義眞言宗、正能村龍花院末、松壑山眞如寺と號す、本尊不動を安ず、開山權大僧都秀宥、寬文二年六月廿二日寂す、
「埼玉の神社」において、平永地域の六耕地の中に各々鎮守社を祀り、本田耕地は天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北明願寺耕地は八幡社を祀っている。そのうちの新栄耕地がこの社が属する集落と思われる。
 また、七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
 
    鳥居のすぐ左側にある庚申塔        社殿の右側にあるご神木
                        根元には力石が置かれている。
       
                  社殿からの眺め 



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「
加須インターネット博物館」「境内記念碑文」等 
 

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平永天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市平永1197
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧下ノ村鎮守・旧村社
             
・例祭等 天神講 125日 春日待 415
 埼玉県道128号熊谷羽生線を「むさしの村」を越えて東行し、国道122号線との交点である「志多見」交差点を左折する。その後、国道122号線を750m程南下すると、進行方向右手に平永天神社が見えてくる。但し、この国道にはコンクリート製の中央分離帯があり、社に向かうため直接路地に移動することができないため、一旦通り過ぎてから、すぐ先にある「平永」交差点で右折し、迂回しながら社に向かうほかはないようだ。
 正面鳥居のすぐ左側に車両が数台駐車可能なスペースがあり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
        
                  平永天神社正面
『日本歴史地名大系 』「下之村」の解説
 明願寺(みようがんじ)村の西にある。羽生領に所属(風土記稿)。寛永二年(一六二五)七月水野清六郎(忠保)は、徳川氏から「下ノ村」で四五八石余を宛行われた(記録御用所本古文書)。田園簿によれば田高三二二石余・畑高二一八石余。旗本水野領と川越藩領とあるが、寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名はみえず、国立史料館本元禄郷帳では水野ほか旗本二家と同松平の相給。松平家は川越藩主松平家の分家で、「風土記稿」では水野・松平と旗本富永領。
        
                 
平永天神社二の鳥居
        
                    拝 殿
 天神社  加須市平永一一九七(平永字本田)
 当地は合ノ川右岸自然堤防の南側に開けた所である。地名の平永とは、江戸期の地頭松舎人・水野十郎・富主膳ら三人の姓名にちなんで呼ばれ始めたという。
 当社の創建は、社記に「館林城主榊原康政の家臣松崎勘兵衛なる者、当地に住いてありしが、学徳に勝れ誠実にしてよく人を導きたれば、城主榊原康政これをいたく愛でて所蔵せる後陽成院御筆菅公像の掛軸を賜う。下ノ村(現平永)の里人菅公及び勘兵衛の徳を慕い、元和元年天神社を創祀す。下って明和三年社殿を再建し松崎家より件の掛軸の奉納ありたり」とある。
『風土記稿』に「天神社 村の鎮守とす、常泉院持」とある。また、「奉新建天神社拝殿・明和三丙戌年四月吉祥日・羽生領下ノ村別当常泉院寄寿」の拝殿棟札がある。
 明治九年に村社となり、同三十四年には社殿を再建し、村の鎮守として崇敬されたが、昭和二〇年の敗戦から三〇年を経て、当社への信仰は薄れてしまった。そのため、昭和五〇年正月、氏子は神社護持を改めて決議し、「祭祀復興・神域浄化・月例奉仕」を掲げ、昭和五三年に社殿を再興するに至った。
 古くは天神座像を安置していたが、昭和二〇年ごろ見当たらなくなり、現在は「天保十二年極月再興」の墨書のある台座だけ残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
 氏子区域は、戦前は六耕地から成る平永全域であったが、現在は六耕地のうち本田耕地だけとなっている。ちなみに六耕地には各々鎮守社があり、本田耕地は当天神社、一丁畑耕地は地蔵尊、上平耕地は住吉社、新栄耕地は稲荷社、南明願寺耕地は白山社、北願寺耕地は八幡社を祀っている。このうち、現在も祭典が行われている神社は、当社と上平耕地の住吉社だけである。
 
  社殿の左側に祀られている浅間大神の石碑      社殿奥に祀られている境内社・稲荷神社。
                          並びに祀られている石祠は不明。
 
    駐車スペースの奥にある石碑類       並んで設置されている石碑二基
  左から本社建築之碑・石鳥居奉納之碑

 平永各耕地には石尊講があり、七月二〇日に講員は宿に集まり、庭に灯籠を立て、昼食は餡ころ餅、夕食は手打ちうどんを食べる風習がある。この日から八月三一日までは毎晩灯籠をつける。また、一〇年に一度は大山詣をする。
 七月一一日は常泉院の数珠を当社で回す百万遍があり、この日は大人も子供も集まる。
 七月七日は一丁畑にある八坂様の祭礼で、本田・上平・新栄・一丁畑で天王様を行い、耕地ごとに宿回りで餅を搗く。女天王であり神輿はなく、また、獅子は、天神様が嫌いだというため近づけないという。
        
                 社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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阿良川天神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市阿良川240
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧阿良川村鎮守
             
・例祭等 お元日 初天神日(春祭り天神) 125
 加須市志多見地域にある「むさしの村」南側に東西に流れる埼玉県道128号熊谷羽生線を行田方面に1㎞程西行し、十字路を左折する。会の川の南側を沿うように同県道128号線は走っているのだが、県道自体が自然堤防跡ではないかと思われる位に、南北の地との標高の差が特に南側面との標高差が45m程違って高い。現存している志多見砂丘と呼ばれる河畔砂丘の西端部に当たるのかもしれない。故に県道を左折直後、斜面を下るように進み、その後は周囲一面広がる水田地帯を眺めながら暫く南下すると、進行方向右手に阿良川天神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
        
                
阿良川天神社の正面鳥居                    
『日本歴史地名大系』 「阿良川村」の解説
 東は下之村、南東は道地村(現騎西町)、西は串作村など。当村の南西、串作村境から道地村境に至る長さ一・五キロ、幅平均一一メートル、堤敷一〇メートルほどの通称阿良川堤があった。寛永二年(一六二五)羽生領代官大河内金兵衛が、利根川・荒川からの水を防ぐ水除堤として築造したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九四)八月付棟札に神領として「志多見荒河(中略)此郷何三分一」とみえる。羽生領に所属(風土記稿)。
        
         正面鳥居の脇には「明治四十三年八月 洪水記念碑」が建っている。

『明治43年の大水害』は、1910年(明治43年)8月に東日本の115県を襲った大水害である。85日ごろから続いた梅雨前線による雨に、11日に日本列島に接近し房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、さらに14日に沼津付近に上陸し甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、関東各地に集中豪雨をもたらした。利根川、荒川、多摩川水系の広範囲にわたって河川が氾濫し各地で堤防が決壊、群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要、中条堤が決壊したため氾濫流は埼玉県を縦断東京府にまで達し関東平野一面が文字通り水浸しになり、関東だけで死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出約5000戸を数え、東京府だけでも約150万人が被災する大惨事となった。
        
            
周囲一帯田園風景の中にポツンと鎮座する社
 加須市は地形的に大部分が低地帯で、平坦面であるため、古くから「暴れ川」利根川や渡良瀬川、荒川など、河川と共に歴史を重ねてきた「水の町」で、過去、多くの水害に悩まされてきた。そのたびに民家は流失し、人畜の死傷も甚だしく、田畑等の損害も甚大であり、その惨状は筆紙に尽し難いほどであっろう。
 
参道途中、左側に祀られている庚申・道祖神の石碑   石碑の並びに祀られている石碑二基
  左から庚申塔・道祖神・道祖神・庚申塔        左から庚申塔・御嶽大神     
        
                    拝 殿
 天神社  加須市阿良川二四〇(阿良川字天神)
 往古、会ノ川が利根川の本流であったころは坂東太郎の名の通り流量も多く、そのため、流域では洪水による被害が頻繁に受けた。当地名もこのような利根川の様相に由来すると思われる。
 当社は弘安年間の創建と伝え、菅原道真公を祭神とし、内陣には天神座像を安置する。
『風土記稿』によると、江戸期は真言宗薬王山常徳寺が別当となり当社の管理に当たっていた。
 明治八年、上地から稲荷神社を合祀し、同四三年には千方の常徳寺裏にあった雷電神社を、翌四四年には同字の千方神社と同境内社の諏訪神社を合祀した。現在、旧雷電神社社殿に合祀社の四社が合殿として祀られている。
 昭和四一年、暴風雨により社殿が大破したため、同時に倒れた裏山の木を用いて、同四二年一一月氏子有志により再建された。
 戦前までは「天神様の分」と呼ばれた社領が二、三反ほどあり、名主であった福田家が管理をして、小作に貸し出し、その小作料を神社の費用に充てていたが、農地解放のため失った。以後、神社の運営に必要な費用は氏子全員で負担することとなり、年二回、祭礼前日の除草時に維持費として当番が集めている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿手前で向かって左側に祀られている     拝殿手前の向かって右側に一体だけある
     境内社・八坂社と神楽殿              牛の神使石像
       
                                      本 殿
 『新編武蔵風土記稿 阿良川村』には、北西串作村から阿良川村を経て東道地村に至る「堤」の存在を示す段があり、高さは「一丈」、つまり3m程の高さであったという。因みに『日本歴史地名大系』によるとこの堤は「阿良川堤」と表記されている。それでも、寛保28月(1742)未曾有の大洪水があり、利根川・荒川・入間川が氾濫し、堤防の決潰は広く96ヶ所に及び、その中の一つである加須市志多見の阿良川地内では、この堤約90mが決壊し、利根川を始めとする多くの諸河川の水が溢れ、被害は江戸までおよび、この地域でも洪水で多くの人が亡くなったという
『新編武蔵風土記稿 阿良川村』
堤 村の西南にあり、利根川本圍堤なり、高一丈、騎西・幸手二ケ領水溢の爲に設く、寛保二年洪水の時押破られしを、同時に京極佐渡守命を蒙りて修理せしと云。此堤は串作・道地の二村に續けり、

        
               本殿奥に祀られている合祀合殿
     中には雷電神社や稲荷神社・千方神社・諏訪神社の神名が記された碑あり。   
   拝殿の右側にある「富士講記念碑」    「富士講記念碑」の右側並びに祀られている
                         (?)・辨財天・辨才天の石碑三基
 氏子区域は旧阿良川村全域で、全戸が氏子となっていて、そのほとんどが農業に従事している関係から、榛名講・三峰講・石尊講が盛んに行われていた。但し現在榛名講は消滅し、三峰講の講員も天神耕地の者だけに限られるようになったという。
 氏子は「天神様」と呼び、単に「天神」又は「天満天神」と呼ぶこともある。また、近郊からは「阿良川の天神様」と呼ばれ、学問の神として信仰を集めている。
 また、
古くから洪水の度に疫病に襲われていたためか、当地では疫病除けの行事が盛んで、7月中には、11日から4日間も天王神輿の渡御が行われ、15日には下須戸地域の八坂神社からお水を受けて来る。これを「天王様の水」と称して、飲めば病気にならず、風呂に入れれば綺麗になるという。更に20日には疫病除けのため、百何遍を行っているという。
        
              社殿から境内、及び参道方向を撮影
                             


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
 

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旗井神社

 加須市旗井地域に鎮座する旗井神社の境内の一角に「愛染明王」像がある。この像は、多くの十九夜様、庚申様、馬頭観音等が並ぶ供養塔群の中央にあり、加須市の有形民俗文化財に指定されている。
 愛染明王は元来、インドの愛をつかさどる神で平安時代初期、遣唐使として海を渡った空海により真言密教とともに伝来した。この明王は愛欲煩悩を浄化し、解脱に導く「煩悩即菩薩」の神であり、そのお姿は、頭上に獅子の冠をかぶり、目は三眼、六本の手には弓矢などを持ち、忿怒の相をしている。鎌倉時代には、その様相から武士の信仰を集めたという。近世になると愛染の言葉「逢い初め(あいぞめ)」や「愛敬(あいぎょう)」に通じるとされ、男女の縁結び・恋愛成就の神として花柳界や芸能界の人々に信仰されるようになる。また、愛染が藍染に通じるとして、染物業者に信仰されたともいう。
 石仏の造立の目的は記されていないが、『武蔵国郡村誌』によれば、幕末期、この地は穀物の生産が主体であったが、副業として砂地を利用して藍葉の作付け、藍玉の生産が行われていた。また、利根川沿いに紺屋(こうや 染物業)が点在し、更に藍玉を取引する問屋もあったなど考えると藍作りの農家が守護神として造立したものと考えられている。
        
             
・所在地 埼玉県加須市旗井556
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧中新井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 11日 春季例大祭 415日 
                  秋季例祭 
1015
 旗井地域は東武日光線の栗橋駅に近接し、加須市における「生活拠点」の一つとしての位置つけとなっていて、公共交通によるアクセスの利便性が高く、周辺には商業施設、公共施設、医療・福祉・子育て支援施設などが充実した地域生活を支える拠点を形成している。
 途中までの経路は外記新田鷲神社及び旗井八幡神社を参照。埼玉県道60号羽生外野栗橋線を旗井八幡宮から更に東行すること1.3㎞程、東武日光線の踏切を越えるとすぐ左手に幡井神社の鳥居、及び社の境内が見えてくる。
        
                  幡井神社正面
      すぐ南側には踏切があり、車の往来もある為、鳥居からの撮影は断念。

『日本歴史地名大系』 「中新井村」の解説
 現大利根町の東端、利根川右岸に位置し、東は古利根川を挟んで葛飾郡栗橋宿(現栗橋町)、利根川を挟んで下総国葛飾郡中田宿(現茨城県古河市)、西は渡沼村・琴寄村、南は下新井村、北は中渡村。古利根川および利根川沿いに水除堤がある。上・中・下の新井村があったが、天正年間(一五七三〜九二)頃に上新井村(現北川辺町)は本郷村と改称、寛永年間(一六二四〜四四)の利根川掘割によって隔たり、領名も古河川辺領となった。中・下の新井村は向川辺領で、当村を含む一三村が同領(風土記稿)。田園簿によれば高三四六石余で皆畑、幕府領。
        
             境内に設置されている幡井神社の案内板
        
                    拝 殿
 旗井神社
 縁起 (歴史)
 平安時代、天喜年中(一〇五五))の創・祀にて、康平年中 (一〇六〇年頃)源義家が陸奥の豪族安倍氏鎮定(前九年の役)に向かう時、乗馬神前にて頻りに嘶き敢えて進まず、依って、下馬して旗を井の傍らに立てて馬に水を与え憩う。時に義家村老を召してその小祠の祭神を問いたるも知る者なし。 ここにおいて今より「天神」と崇めるべき旨を告ぐ。而して白旗を与え去る。故を以て「旗井天神」と称え、その旗を神宝となしたりと。
 後人、菅原道真公の像を安置し現在に至る。
 延宝五年(一六七七年)社殿を新築。寛延三年(一七五〇年))彩色修復。寛永六年(一八五三年)社殿改築。元和七年 (一六二一年)利根川東遷に伴い新川通り開削により、字堤外瀬合に移転。明治五年(一八七二年)村社に列格。明治四四年(一九一一年))利根川第三期改修により現在地 (旗井五五六番地)に移転改築し、旗井地区内の神社七社(水神社・男野明神社・女野明神社・大神社・日枝社・ 稲荷社・八幡社)を合祀の上、社名を「旗井神社」と改称。昭和五七年(一九八二年)本殿・幣殿・拝殿の屋根を銅板にて葺き替え。(以下略)
                                  「境内案内板」より引用

        
            社殿の左側に祀られている境内社・御嶽神社
 御嶽神社
 御祭神 大口真神(御神狗・おいぬさま)
 日本武尊が東征の際、御岳山の山中において狼に難を救われ、その際に「この山に留まり、地を守れ」と仰せられ、以来、御嶽大神とともに「おいぬさま」とあがめられ、病魔・盗難・火難除け等の諸災除けの神として関東一円の信仰を集めています。
 又、道中での難を救う神として、登山や旅行安全の神、「おいぬ」は「老いぬ」にも通じて、健康・長寿の神、戌は安産・多産な事から、安産・子授けの神としても多くの信仰を集めています。
                                      案内板より引用

        
        社殿奥に祀られている石碑・石祠。 石碑の間には力石もある。
        左から水天宮、(?)、御嶽神社・八海山神社・三笠山神社
       
          社殿左側にはご神木であるケヤキの大木が聳え立つ
          加須市保存樹木。幹回 290㎝ 指定番号 第95
 
     境内東側で道路沿いに並んで祀られている石碑・十九夜塔・馬頭観音・庚申塔等
          丁度真ん中付近に「愛染明王」祀られているいる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP」
    「広報かぞ」「境内案内板」等
 

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外記新田鷲神社及び旗井八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市外記新田14
             
・ご祭神 天日鷲命
             
・社 格 旧外記新田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春大祭 41日 秋大祭 1015
「道の駅 童謡のふる里おおとね」から一旦南下し、「砂原」交差点を左折する。埼玉県道60号羽生外野栗橋線合流後、3.6㎞程南東方向に進むと、道路沿い脇で、「外記新田集会所」の南側隣に外記新田鷲神社は鎮座している。
        
                 外記新田鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「外記新田」の解説
 中渡村の南西に位置する。江戸初期に飯積村(現北川辺町)の平井外記が開墾した地を子の弥兵衛に譲った後(弥兵衛村)、当村を開墾したため外記新田と称したという(風土記稿)。東の渡沼村との間に長沼がある。現新川通の法輪寺前にある地蔵尊の元禄三年(一六九〇)銘に外記村、元禄郷帳に外記新田村とあるが、「風土記稿」・天保郷帳で「外記新田」に復している。田園簿によれば田高五石余・畑高一三三石余で、幕府領。
 元禄郷帳では五六石余に石高が激減、幕末まで変わらず。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、のち上総久留里藩領となり、延享三年(一七四六)の久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、同藩領で幕末に至る(改革組合取調書など)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 外記新田村』
 平井外記前村開墾の後、其子彌兵衛に譲り、又當村を開きしをもて村名もかく唱へりと云、(中略)享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、
 沼 長沼と云、東の方渡沼村の境にありて、則兩村入會の持なり、古は大なる沼なりし由、今は 幅二間、長四百間に餘れり、
 神明社 〇鷲宮 村の鎭守なり、二社共に寶藏寺持、
 寶藏寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、日輪山寶光院と號す、本尊不動、


 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町外記新田一四(外記新田字横川)
 利根川中流域南岸の沖積平野部に展開するこの地は、古来、洪水に悩まされる低湿地であった。
 社記に「当所は葦の生い繁る低湿の地なりしが、天正年中飯積村(現北川辺町飯積)より、平井外記なる者八十余名を引き連れて入植し開発する所なり、よって地名を外記新田と名付く。其後江戸の繁栄につれて利根水運盛んとなり当所もまた栄えたり。古く当地方は鷲宮領に属す。これを以って寛永八年前耕地に鷲明神を勧請す、以後当村の開発進みて前耕地より離れて現在地に移住する者多く安永年中右鷲明神を分祀せり、これ当社の創(はじめ)なり」とある。
『風土記稿』に「鷲宮 村の鎮守なり、宝蔵寺持」とあり、別当が真言宗宝蔵寺であることが知られる。
 明治五年に村社となる。大正三年には同字の皇太神宮を合祀する。
 この皇太神宮を氏子は北晨様と呼ぶが、口碑によると北晨様は本殿への合祀を嫌だといって氏子内に病気をはやらせたので、本殿の右側に神社を造って祀った。しかしまだ病が続くので行者に観てもらった所、居候は嫌だと怒られたので、早速旧地に社を造って移したという。
 覆屋内に嘉永六丑年四月始五日銘の棟札を有する一間社流造りの本殿があり、向かって左に稲荷社、右に天明の飢饉のお祓い米を放出した黒田氏を祀る生祀黒田社(石祠)がある。
                                  「埼玉の神社」より引用


 外記新田鷲神社の本殿内には「生祀黒田社」の石祠が祀られているという。
『新編武蔵風土記稿 中渡村』には「享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、(中略)黒田権現社 寛政年中領主黒田大和守、村民を殊に撫育せしかば、報恩の為め崇め祀れりと云ふ」と載せている。大名と名主の身分上の違いはあれど、平井外記は多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救ったが故に家は取潰しとなり、外記自身も責を負って自刃した、いわば「義人」である。
『風土記稿』に載る「黒田豊前守」と「黒田大和守」は、それぞれ享保17年(1732年)、寛政年間(1789年〜1801年)時点での人物で、年代的には同一人物ではなさそうだが、親子の関係であったかもしれない。どちらにしても、徳川幕府の直轄地である「御料所」において、幕府より派遣された家臣・もしくは代官である黒田大和守は、中渡村で「生祀」として崇め祀られた。それに対して、平井外記は帰農して名主となっているとはいえ、北川辺領開発に貢献した人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人で、この功績は決して黒田大和守にも劣っていなかったはずであり、事実加須市飯積遍照寺にある「平井外記」の墓は加須市の市指定史跡となっている。
 
        
境内に祀られる石碑群  左から庚申塔(二基)   社殿右側に祀られている境内社
   六十六部供養塔・十九夜塔・地蔵尊           詳細は不明

 当所には425日にお囃子回りと呼ばれる行事があり、騎西の玉敷神社から獅子を借りて来て各戸を祓う。昔は若衆組が前日の午後3時ごろ当地を出発し、玉敷神社前の湯屋で湯に入り一杯やった。午前零時を過ぎると獅子を出してくれるので、これを借る。午前3時頃に当社に着き、太鼓を打って獅子の到着を報じる。夜明けに獅子回しの者3名が祓い・箱・刀の順番で家を祓って回る。その際には、土足で縁側から上がり座敷を通って玄関に出る順路があったらしい。



旗井八幡神社】
        
             ・所在地 埼玉県加須市旗井922付近
             ・ご祭神 誉田別命(応神天皇)(推定)
             ・社 格 旧渡沼村鎮守
             ・例祭等 不明
 外記新田鷲神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を450m程東行し、「東川用水路」手前にある路地を左折し暫く進むと、左手に旗井八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                  旗井八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「渡沼村」の解説
 中新井村の西に位置し、北を利根川が流れる。西の外記新田との境に長沼がある。地名は、沼が多く隣家へ行くにも沼を渡るような地であったことによるという(大利根町地名考)。田園簿では渡沼新田と記され、高一三九石余で皆畑、幕府領。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。八〇石余のまま幕末に至る(天保郷帳・旧高旧領取調帳など)。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)には幕府領(「向川辺領村々高書上帳」同文書)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
       「埼玉の神社」にもこの社に関する項はないため創立年代や由緒等の詳細は不明。

 現在では大字旗井に属している当地だが、『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては「渡沼村」という村として存在していた。

『新編武蔵風土記稿 渡沼村』
 渡沼村は江戸の行程、庄名檢地等前村に同じ、東は中新井村、南は琴寄村、西は外記新田、西北は中渡村なり、東西十一町餘、南北二町許、古は民戸も四十餘ありしが、天明六年洪水の時流失して、夫より田地も悉荒廢の地となり、今は僅に八軒なり、當村も古御料にて、今は一橋殿の領知なり、
 小名 前 裏
 沼 長沼と云、外記新田との境にあり、
 八幡社 村の鎭守なり、福壽院持、
 福壽院 新義眞言宗、琴寄村善定寺末、鳩峯山と號す、開山頼蹟寂年を傳へず、本尊彌陀を安ず、
   
 当地は、天明6年利根川水系で発生した大水害により、それまで40戸余りの民家もほとんど流失し、一帯は荒廃し、その後、『風土記稿』編集時の文化・文政年間(1810年〜1830年)時においても8軒ほどしか復興していない状況であったという。
 
 「渡沼集会所」の奥に集団で祀られている      子大権現と二十三夜塔の石碑
       庚申塔や地蔵尊等

 天明の洪水(てんめいのこうずい)とは、1786年(天明6年)に利根川水系で発生した大水害のことで、『徳川実紀』の中で、「これまでは寛保二年をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍」と言及する規模となった。
 利根川水系では、1783年に浅間山が大噴火を起こし、吾妻川を火砕流が流下した。大量の土砂がさらに下流の利根川本川に流れ出し、河床の上昇を招いた。これが3年後の水害の遠因となった。
17867月、関東地方は集中豪雨に見舞われた。利根川は羽根野(現茨城県利根町)地先で氾濫を起こし、江戸市中へ大量の濁流が流下した。「栗橋より南方海の如し」と伝えられるほどの惨状となった。本所周辺では最大で4.5m程度の水深となり、初日だけでも3641人が船などで救出されたという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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