古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

多門寺愛宕(阿多古)神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市多門寺578
              
・ご祭神 軻遇突智命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 多門寺の獅子舞 72324
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu
 北篠崎熊野白山合殿社から北西方向で東北自動車道脇の道路を700m程進むと、多門寺愛宕(阿多古)神社に到着。時間にして数分とかからない程近い。葛西用水路の北側に鎮座する
 社の正面入口隣に駐車スペースあり。
        
                            多門寺愛宕(阿多古)神社正面
『日本歴史地名大系』 「多門寺村」の解説
 [現在地名]加須市多門寺
 小浜(こばま)
村の東にあり、北を手子堀(てこぼり)川、南は会の川で限られる。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。田園簿によれば田高三一八石余・畑高三七〇石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本二家の相給。「風土記稿」成立時は旗本三家の相給で、幕末の改革組合取調書でも同じ三家の相給。
 多門寺の地名は、その昔、この地域に「多聞寺」と称する寺があったことから名付けられたが、この寺は、天生年間に大水に流されてしまい、現存はしていないという。
        
                     社の参道は長く、数多くの灯篭が奉納されている。
         ゆったりとした空間の中にも、厳粛な気持ちで参拝を行う。
        
                             朱を基調とした二の鳥居
        
                    二の鳥居の社号額には「「阿多古」と表記されている。
 全国に約900社を数える愛宕神社の総本社は、京都市右京区嵯峨愛宕町(旧山城国・旧丹波国の国境にある愛宕山山頂)に鎮座し、地元の人は「愛宕さん」と尊称されている。愛宕山は8世紀初頭の大宝年間に、修験道の開祖であるとされる役行者と加賀白山ゆかりの僧泰澄によって開かれたとの伝承を持つ霊仙であり、愛宕神社の主祭神は火の神である迦遇槌命を祭る。
 ところで、平安中期に記された『延喜式神名帳』には、「丹波国桑田郡阿多古神社」と記されていて、この愛宕神社の旧称は「阿多古神社」であった。
 この「愛宕・阿多古」の由来は幾つか説があるが、はっきりしたものはない。筆者が調べたものを紹介すると、以下のようだ。
愛宕の名は、その祭神迦具土(かぐつち)が生まれるにあたって母神(いざなみ)尊を焼き死なしめた「仇子(あだこ)」であったことにちなむと俗説されているが、むしろ基は「側面・背面」を意味する「アテ」に由来し、その神は境を守る神であったのではないかともいわれ、京都では王城鎮護のためにその西北の山上にまつられたものという説。
「愛宕」という地名は「愛宕」「阿多古」と書くことが多く、接頭語の「ア」と高(高所)を意味する「タコ」を表す地名ともいわれている。 そして「愛宕山」という場合は「阿多古」という神名にもとづくもので、愛宕神社という火の神、火伏の神を祭っていて、愛宕信仰による伝播地名の一つという説。
 
 二の鳥居の左側には「多門寺の獅子舞」の標柱(写真左)、拝殿手前にもその案内板がある(同右)。
 加須市指定無形民俗文化財 多門寺の獅子舞 昭和三四年六月指定
 江戸時代中期に愛宕神社の創立に端を発したと伝えられる。
 毎年七月二三日より二五日までの三日間行われ、二三日及び二四日は社殿前にて舞い、二五日は多門寺各戸を回っていたが、現在は二三日に近い土曜日に奉納を行い、二四日 に近い日曜日に各戸を回っている。
 能の演目は「雌獅子隠し」(初庭)「笹ぬき」(中庭 )「綱きり」(末庭 )がある。
 用具は獅子面三・花笠四・高張提灯二・万灯一・楽器は横笛四・太鼓三を使用し、五穀豊穣商売繁盛悪魔降伏を祈って獅子舞が行なわれる。
 獅子頭に宝暦三(一七五三) 「新熊」と称する塗師が塗替えたという記録があり、明治時代頃まではその子孫が多門寺にいたといわれている。
 平成二四年三月 加須市教育委員会
                                      案内板より引用
   
基壇下で参道の両側に配置された境内社。左側に御嶽神社(写真左)、右側に稲荷神社(同右)
        
                          石垣のような基壇上に鎮座する拝殿
「埼玉の神社」によれば、天正の末に古利根川の堤防が決壊し村中が濁流に押し流され荒廃した。文禄年中、上新郷川を塞ぎ、これより村内を開墾した。その折、現在愛宕山と称する古塚に慶長年中、愛宕神社を勧請し鎮守として祀ったという。
        
             社殿の左側に並列して祀られている境内社群
           左側から三峯神社・皇大神宮・金比羅宮・天神宮
 
          本 殿           社殿奥に祀られている浅間神社等の石祠
        
                           社殿から参道方向を撮影

 北篠崎熊野白山合殿社同様に、正面には東北自動車道の建築物が見える。しかし、二基の鳥居、及び幾多の鳥居が並ぶ参道と社叢林が一種の結界となっているようにも見え、その境内全体が別世界のような錯覚を参拝中覚えてしまう程趣ある社。境内も綺麗に手入れされていて、日頃の氏子・総代の方々の信仰心の賜物でもあろう。
 山岳の斜面に鎮座する社とは違った素敵な社に出会えた感謝の念を祈りながら、心穏やかに参拝を終了することができた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「高梁市HP
    「『国史大辞典』 1 国史大辞典編集委員会/編」「加須市HP」「Wikipedia」
    「加須インターネット博物館」「境内案内板等」等
 

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北篠崎熊野白山合殿社

『日本歴史地名大系』 「北篠崎村」の解説
 西は多門寺(たもんじ)村、北は手子堀(てこぼり)川を境とし、南は会の川を境に南篠崎村と対する。永禄三年(一五六〇)以前の一二月二七日付足利晴氏判物(鷲宮神社文書)に「太田之庄篠崎之郷」とみえ、同地は古河公方足利晴氏により鷲宮神社(現鷲宮町)に寄進されている。また、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)にも「卅八貫文 篠崎」とあり、「此物成永銭夏秋四十八貫 但是も年ニより申候」と注記される。文禄四年(一五九五)八月の同社修復に伴う棟札には神領のうちに「篠崎並尺子木北篠崎」とあり、「北篠崎」がみえるが、慶長一七年(一六一二)の関東八州真言宗連判留書案(醍醐寺文書)では「大田庄篠崎」とある。

        
              ・所在地 埼玉県加須市北篠崎172
              
・ご祭神 熊野神社家都御子命 熊野夫須美命 速玉男命
                   
白山神社…菊理媛命
                                      伊弉諾命 伊弉冉命               
              
・社 格 旧北篠崎村鎮守
              
・例祭等 不明 
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1285418,139.6284918,16z?hl=ja&entry=ttu

 国道125号線を加須市方向に進み、市街地内「三俣小学校入口」交差点を左折し、葛西用水路に架かる新造橋を越えた十字路を右折する。葛西用水路に沿って東方向に1.2㎞程進む。その後、東北自動車道の下を潜る道路を抜けてからすぐ先の丁字路を右折して暫く道なりに進むと、左手に北篠崎熊野白山合殿社の鳥居が見えてくる。
 後日地図を確認すると、「東北自動車道加須IC」のすぐ北側に位置する社。北に葛西用水路・南に会の川がどちらも東西に流れ、まさに合流するそのすぐ西側に鎮座する。水利に恵まれた田畑風景が広がる静かな農業地域でもある。
        
                
北篠崎熊野白山合殿社正面
 鳥居のすぐ南側には
東北自動車道が一種壁のように立ちふさがり、外界、特に西部や南部地域との交流を遮るように建てられているようにも見える。
 実際、この鳥居の前にある道路も車通りも少なく、民家も周辺に点在する閑散とした地域の中に、ひっそりと他佇む社といった印象。しかし筆者にとってこの雰囲気は決して嫌いなものではなく、嘗てどの村々にもあったような風景とも思え、一時代前の懐かしさも漂う、この感じが好きである。
 
 鳥居の左隣にある社号標柱(写真左)及び、鳥居の社号額(同右)には、「白山 熊野 両神社」と刻印されている。

 北篠崎熊野白山合殿社は羽生市小松に鎮座する「小松三神社」に関係する社である。
 嘗て元亀・天正年間(1570年〜1593年)に古利根川の堤防が、小松村(羽生市小松)で決壊した際に、小松三社のうち、熊野、白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀仏が当村古利根川堤に漂着し、村民はこれをかしこんで拾い上げ、以来村の鎮守として祀ったのが、熊野・白山神社の起源だという。

「埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父」
 熊野白山合殿社 加須市北篠崎172(北篠崎字本田)
 歴史
 社記によれば、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流された際、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した。 村人はこれを畏んで拾い上げ、以来鎮守として祀るという。
 別当は初め小松村の修験、次いで本村の真言宗医王寺が務めた。 金幣と本地仏二体は、江戸期、医王寺が管理するところであったが、その後、幣束は紛失し、現在は本地仏のみ当社に安置されている。
 社地は元禄十年検地水帳に免地八反弐畝七歩とある。
 祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・熊野夫須美命・速玉男命・家都御子命・菊理媛命である。
また、享保十五年正月二十八日に神祇管領卜部兼敬の宗源宣旨により正一位白山熊野大権現の神階を受けた。
        
             静寂の中にも歴史を感じさせてくれる社 

  参道右側には加須市の保存樹木に指定されている「イチョウ」が聳え立つ(写真左・右)。
  ・指定番号 99番 ・所在地 加須市北篠崎172(熊野白山合殿社)・種類 イチョウ
  ・幹の周囲 265㎝ ・指定年月日 平成27101
        
                     拝 殿
           石垣のような基壇上に鎮座する趣ある社殿である。

 戦国時代、羽生市役所の北方付近には、羽生城という蓮池に浮かぶ平城があり、広田直繁や木戸忠朝兄弟が城主を務めていた。この直繁・忠朝は関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵国で唯一の武将として知られている。
 
史実によると、戦国時代、伊豆国から台頭した後北条氏は、初代早雲・2代目氏綱・3代目氏康と代を重ねるにつれ、着実に関東一円をその勢力圏に属しそうな勢いで、武蔵国の武将の多くも後北条方に従属していく中で、羽生城城主広田直繁・河田谷(木戸)忠朝(後の埼玉郡・皿尾城城主)兄弟は、終始一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになる。
 というのも、小田原安楽寺に安置されている三宝荒神像には直繁と忠朝兄弟の連名で、
「武州太田庄小松末社三宝荒神、天文五年丙申願主直繁、忠朝」
と記されていることから、天文5年(1536年)の時点で直繁が羽生城主を務めていたと推測されている。
『鷲宮町史』では祖父の代から山内上杉氏の配下として活動していた直繁と忠朝の父・木戸範実も含め親子で入城したものとしており、上杉方には武蔵国へ勢力を拡大させようとする後北条氏に対抗するため、羽生城を拠点とする狙いがあったとしている。
 永禄十二年(1569)に越相同盟が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められる。翌年に直繁が上野国館林城主を拝領すると、忠朝が羽生城主にスライドした。この間、忠朝は名乗りを木戸姓に戻している。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した。
 

   社殿の左側に鎮座する境内社、石祠等     社殿奥に祀られている境内社・詳細不明
    詳細不明・琴平大神・堀田大権現
       
               社殿右側で、基壇下に祀られている境内社。御嶽社であろうか。

 元亀二年(1571)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、羽生城は再び対北条氏の最前線の城となった。天正元年(1573)、北条氏政が本格的に羽生城を攻撃すると、忠朝と子の重朝・範秀兄弟は城を固めつつ、謙信に援軍を要請した。
 翌二年(
1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した。両軍にらみ合いが続いたのち、謙信は四月にいったん帰国した。同年十月に再び来援したものの、現状では羽生城の維持が困難であることを覚り、閏十一月に羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れたという
        
                   境内の一風景
 社記では、元亀、天正年中大洪水の折、古利根川が小松村で切れ、小松村の小松三社(小松神社)のうち熊野・白山の両社が押し流され、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来が当村古利根川堤に漂着した、という記録は、史実における「天正二年(1574)二月、謙信は利根川対岸の上野国大輪(明和町)まで進軍したものの、増水した利根川を渡河することができず、物資の救援にも失敗した」事項かもしれない。
        
                       社殿から鳥居方向を撮影。
 東北自動車道の近代的な構造物が正面を通っている、この一見相いれないような新旧の対比が、逆に現代の日本そのものでもあるようにも見える。まあ日本という国柄は、国家の形成時点で、それら違和感あるものまで、全て包み込む豊かな包容力も持ち合わせた国でもあるのだろう。考えてみると、そのような不思議な国は、世界広しと言えど日本以外見当たらないようにも見える。

 最後に白山神社に纏わる面白い話を一つ紹介したいと思う。江戸時代の中期から後期にかけて「歯の神様」信仰が始まったと言われ、白山神社の中には、「歯の神様」として信仰を集める神社もたくさんあったという。
 一説によると、歯が悪くなると口が臭くなる。つまり、「歯が臭い」→「
(歯)+くさ(臭)」、そこから、白山神社が歯の神様になった、というダジャレのような説もある。北篠崎熊野白山合殿社もその一社といい、昭和の初めまでは常に神社に楊枝箱が置かれ、歯痛の者はここから楊枝を一本借りて虫歯に当て、治ればお礼に楊枝を倍返ししたという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父
    「加須市HP」「Wikipedia」等
 

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下崎八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下崎1251
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧下崎村下分鎮守
              
・例祭等 例大祭914
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1050109,139.5588474,17z?entry=ttu

 下崎氷川神社の正面入り口から南側に伸びる道路を進む。当初の目的は、この下崎氷川神社の社号標がない事、参道に真っ直ぐ伸びる道路の先に何かあるのではないかと思い、その道を南下したわけだが、結局のところ何もなく、丁字路に当たってしまった。あまり期待していたわけではなく、単にモヤモヤしていた事項が解決できたという事で、次の参拝場所へと気持ちの切り替えはできた。
 その丁字路を左折し、600m程進んだ場所に下崎八幡神社の鳥居が見えてくる。
 同じ「下崎」地域に鎮座している社故に、意外と近距離(上崎雷電神社と下崎氷川神社との距離程ではないが)で、道順も分かりやすい。
        
       加須市下崎地域のほぼ中央部で、田園地帯の中に鎮座する下崎八幡神社
『日本歴史地名大系』には「下崎村下分」の解説が載っている。
 [現在地名]騎西町下崎
 騎西町場(きさいまちば)の南に位置し、西は下崎村上分。もとは上分と一村で、正保四年(一六四七)の検地の際分村したという(風土記稿)。
 
現栃木県日光市輪王寺蔵の大般若経巻第一四九の応永三年(一三九六)付奥書に「武州崎西郡葛浜下崎郷光明寺」とみえる。田園簿では下崎村一村で高付され、田高六四七石余・畑高三八六石余、川越藩領。領主の変遷は騎西町場に同じ。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では下崎下分の高五一一石余、反別は田方三三町三反余・畑方二〇町六反余。
 
        鳥居の社号額                   境内に通じる南北に長い参道
『新編武蔵風土記稿 
下崎村上文条』
下崎村を上分・下分と分ちしこと、正保の圖(図)には見えず、元禄の圖に始て二村とす、正保四年檢(検)地のとき分村せしことと知らる」
*旧字体の変更は( )にて筆者対応。
        
 参道から境内に入るその入り口付近に祀られている「辨財天」の石碑、その左側には「安永五年銘(一七七六)」の力石が置かれている。
 下崎地域は北側に「備前用水」、南側には「騎西領中用水」がそれぞれ南東方向に流れ、地域の境となっている。いわば生を営むために必要な農業用用水が身近にある地域であり、水の神様である辨財天が祀られていることにも納得ができよう。
        
                     拝 殿 
 
      拝殿に掲げてある扁額。              本 殿
 扁額には三宝荒神、八幡社と記載されている。
 三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神である。
 不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、「かまど神」として祭られることが多く、これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであるという。
        
                境内に設置されている案内板
 八幡神社 例大祭九月十四日
 当社は誉田別命(応神天皇)を主祭神とし、武の神・生活上の守護神として崇敬される
 伝えによると、騎西城廃城の時、当地に土着した者が城内に祀る八幡宮と三宝荒神を移したことによるという。また一説には、正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀ったともいう。
 本殿には内陣に向かって右に三宝荒神、左に八幡神を奉安する。三宝荒神は三面六臂(三つの顔と六本の腕)の立像で、全身が赤く塗られている。一般的に荒神は台所に祀られ、火防の神として信仰される。また、八幡神は馬に跨がり、弓矢を持った姿となっている。
 なお、下崎には氷川神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分の二村に分かれていた名残りによるものである。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内版では「
正保四年(一六四七)に石清水八幡宮(現京都八幡市)の分霊を祀った」と記載されているが、この年は『新編武蔵風土記稿』によると、「正保四年檢(検)地のとき分村」と書かれており、分村した際に岩清水八幡宮の分霊を祀った可能性もあろう。
  
   社殿手前で、左手に鎮座する境内社。       社殿奥には稲荷社が祀られている。
        
                 社の正面入り口付近には趣のある「庚申塔」が祀られている。
    年始のしめ飾りも飾っていて、地域の方々の信仰の深さを物語っているようだ。
            筆者も社の参拝前には、手を合わせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等
    

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下崎氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市下崎17151
             
・ご祭神 素盞嗚命
             
・社 格 旧下崎村上分鎮守 
             
・例祭等 例大祭 十月九日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1083619,139.552614,17z?entry=ttu 

 上崎雷電神社から南西方向に目を移すと、こんもりとした林が見える。実はその辺りの一角に下崎氷川神社が鎮座する場所となる。直線距離にして230m程しか離れていないため、周囲は宅地化されていて現在は目立たないが、嘗てはお互い目視も出来る位の位置関係ではなかったろうか。 
       
                    こんもりとした社叢林の中に鎮座する下崎氷川神社
『日本歴史地名大系』 「下崎村上分」の解説
 [現在地名]騎西町下崎
 東は下崎村下分、西は上崎村。北東側を備前堀(びぜんぼり)川が流れる。正保四年(一六四七)の検地まで下分と一村であったという(風土記稿)。
 寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳によれば下崎上分の高五一二石余、反別は田方二九町九反余・畑方二五町二反余。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記によるとほかに一〇九石余があり、宝暦五年(一七五五)の下崎村上分明細帳(小池家文書)では田高三七五石余・畑高二四六石余、家数四九・人数二一九、馬九。
        
            社叢林の中でもひときわ目立つ赤い両部鳥居
 
  鳥居上部に掲げられている個性的な社号額  社は決して規模は大きくないが、社叢林に覆わ
                       た参道を進むと、神威的な神々しさを感じる。
        
                                       拝 殿
 
     社殿右側奥に祀られている石祠群        境内に設置されている案内板
         詳細不明
 氷川神社 例大祭 十月九日
 当社は素盞嗚命を主祭神とし、「おしかさま、おひかわさま」の名で親しまれている。氷川神社は概ね元荒川を東限、多摩川を西限とする区域に分布するが、当社が北限となる。伝えによると、当地は古くから米麦中心の豊かな農村であったため、五穀を守護し疫病を祓う神である氷川大明神を祀ったという。寛政五年(一七九三)に社殿を再建した棟札があることから、その創建はかなり古いものと思われる。
 古くは御神像が奉安されていたが、明治時代初めの神仏分離の際に、村内の民家に移された。 なお、下崎には八幡神社も村鎮守として祀られているが、これは江戸時代、当村が上分・下分 の二村に分かれていた名残りによるものである。  
加須市教育委員会
                                      案内板より引用
       
       社殿奥に聳え立つイチョウの巨木。注連縄等はついていないが、御神木と思われる。
      尚このイチョウの木は加須市保存樹木に平成18年9月29日に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「境内案内板」等



   

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上崎雷電神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市上崎24021
              
・ご祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)
              
・社 格 旧上崎村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1014
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1111209,139.5507081,17z?entry=ttu

 内田ヶ谷多賀谷神社から一旦西行し、埼玉県道308号内田ヶ谷鴻巣線に合流後、左折し南方向に進路をとる。1㎞程進んだ交差点を左折し、「KAZOヴィレッジ通り」を600m程進むと右手に上崎雷電神社ののぼり旗ポールが2基、そしてその奥には社号標柱、鳥居が見えてくる。
 実のところ、「KAZOヴィレッジ通り」沿いには、適当な駐車スペースはない。一旦南側に回り込むと、雷電神社社務所近くに専用駐車場があるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                     
KAZOヴィレッジ通り沿いに鎮座する上崎雷電神社
 加須市上崎地域は、嘗て旧
騎西町に属し、見沼代用水(星川)左岸に位置していて、集落は地域中央を東西に通るKAZOヴィレッジ通り沿いに多い。地形を確認すると、大宮台地に連なる埋没台地および自然堤防上にあるとのことだ。
 地域の大部分は広大な田園風景が広がる稲作地帯であるが、『田園簿』によれば「田高四二三石余・畑高六七五石余」であり、この地域も田地より畑地の方が多かったようだ。
                
                           青空に映える社号標柱
 上崎地域北西側には、騎西領用水(きさいりようようすい)が星川(見沼台用水)から分岐して流れている。この騎西領用水は、新川(につかわ)用水・中用水・南用水・五ノ神用水の総称。幹川水路である新川用水の名で称されることも多い。元圦は星川の上崎村(現加須市)地先に設けて、忍領地域の落水を取水するものであった。星川分水口に「上崎洗堰」があり、これより新川圦前までの三〇〇間余を新川溜井と称して、用水の一時貯溜を行っていた。
 上崎洗堰の設置時期は未詳であるが、延宝元年(一六七三)の訴訟文書(見沼土地改良区文書)などにより、近世初頭と思われる。この堰については上流忍領と下流騎西領との間でたびたび水論が起こっている(大熊家文書)。新川用水は、元和七年(一六二一)の上早見村地詰帳(野房家文書)や、寛永(一六二四―四四)初期と考えられる武州騎西城絵図(岩瀬家文書)などからみると、この頃にはすでに開削されていたと考えられる。

 なお『新編武蔵風土記稿 上崎村条』にもこの用水に関しての説明が載せられている。
「星川
村の南西を流る、幅十二間程、土橋一ヶ所あり、此川に樋を設け水を引分け、騎西領組合の用水とす、これを新川用水と云、その幅二間ばかり、樋の長さ十二間、公よりの修理にて組合の村々多し、又西の方に長八間の圦樋を設け、水を引分ち用水とす、是を九ヶ村用水と云、當村及上會下・中ノ目・戸室・竿莖・鴻莖・西谷・下崎村上下分皆組合なり」

        
                社号標柱の先にある一の鳥居     
                   参拝した時間帯は陽光がほぼ正面となる昼間時
       正面からの撮影をすると逆光となり、斜めからのアングルとなった。
        
                  静まり返った境内
  北風は冷たがったが、陽光が差し込む雲一つない晴天の中、気持ちよく参拝ができた。
        
       参道を進む途中、左側に「保存樹木」であるシイの大木が聳え立つ。
              加須市指定番号27号。幹周 252㎝。
        
                 参道の先にある二の鳥居
           二の鳥居の先には社殿はなく、住宅しか見えない。
                      社殿は二の鳥居を過ぎて右側に鎮座している。
        
                 社殿と二の鳥居の配置
        
                     拝 殿
        
                 拝殿右手にある案内板
 雷電神社 例大祭 十月十四日
 当社の創建は、上州板倉雷電社の分霊を祀ったことによるという。祭神は別雷命。恵みの雨をもたらす神として信仰され、現在も雨乞いに用いた池が残る。
 雷電様は相撲好きな神様としても有名。境内には「関東三十三高芝の一つ」と呼ばれた土俵も現存している。
 拝殿には明治二十四年奉納の、<利根川・新川・三間圦工事絵馬>がある。これは前年の大洪水 で被害を受けた諸河川の工事竣工を記念したもの。
 利根川に浮かぶ帆掛船、新川の作業に従事する女性たち、三間圦付近に置かれた宿所や監督所など、工事の様子が鳥瞰的に描かれている。
                                      案内板より引用

 また案内板に記されている加須有形民俗文化財(指定日 平成4316日)である「利根川・新川・三間圦工事絵馬」は、『加須インターネット博物館』において、以下のように説明がされている。
「利根川・新川・三間圦工事絵馬
明治(めいじ) 23(1890) 洪水(こうずい)で被害を受けた河川の工事竣工(しゅんこう)を記念して奉納されました。
工事の様子が鳥瞰的(ちょうかんてき)(=鳥が上空から見おろすように全体を広く見渡すこと)
に描かれています。
        
     拝殿上部に掲げてある扁額と、その周りには多数の奉納額が展示されている。
    地域の方々のこの社に対する崇高の思いがこの奉納された額の多さに現れている。
   
 社殿左側奥に祀られている「浅間神社」と      社殿右側には「元文五年(1740)と刻まれ
    その左側にある詳細不明な石碑       た「辨財天供養」の石碑がある。

 上崎雷電神社から西方向に約700m行った場所に「臨済宗円覚寺派 大光山龍興寺」がある。上崎雷電神社とは直接関係はないが、上崎地域の歴史を語る上において、この寺の存在抜きには語れない。
龍興寺にある案内板によると、大同年中(約一二〇〇年前)天祐和尚によって開かれたという。古くから足利氏と関係が深く、境内には足利持氏とその子春王安王の供養塔(県指定史跡)が現存していて、足利氏ゆかりのものも多く伝わっていたらしかったが、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺安堵状(町指定有形文化財)が残っているのみであるという。
       
             社殿右側奥に聳え立つ
「保存樹木」であるイチョウの大木
                         加須市指定番号26号。幹周 305㎝

『新編武藏風土記稿 埼玉郡上崎村』にはこの寺に関しての記載がある。
「龍興寺 禪宗臨濟派相模國鐮倉圓覺寺末大光山と號す、延寶六年住僧大澄が書しものに、大同元年天祐草創の地なりとあれど、上りたる世の事なれば、いかん共云がたし、中興開山曇芳は、永享八年九月七日寂せり、此僧は鐮倉管領持氏の伯父なりと云傳ふ、本尊釋迦、毘首羯磨の作、座像にて長七寸五分、又持氏春王安王の墓三墓たてり、持氏法名長春院陽山繼公、永享十一年二月十日、春王は花山院春嶽香公、嘉吉元年四月日、安王は太山院天嶽雲公、嘉吉元年四月と彫たるよし、今は文字も減して、そのさま古きものには論なかるべし、【足利治亂記】をするに、永享年中持氏京都に叛き相州早川尻の戰ひにうち負け、永安寺に入て自害す、幼子春王・安王は下野國結城が許に逃れ、日光山に隱れ居けるが捕はれとなり、京へ送られける塗中、美濃國垂井の金蓮寺にて自害し、骸は高野山ヘ送るとみえたり、又【鐮倉九代記】には金蓮寺に葬しよし載す、今按に當寺古河公方政氏・義氏寄附の文書も藏すれば、成氏のとき父供養のために築し墓なるべし、」

 足利持氏は「第4代鎌倉公方」である。この「鎌倉公方」とは、史実によると、1333年(元弘312月建武政権下で足利直義が〈関東十ヵ国〉(相模,武蔵,上野,下野,上総,下総,安房,常陸,伊豆,甲斐)の支配をゆだねられ後醍醐天皇の皇子成良親王を「鎌倉将軍府」に任命して鎌倉に入ったことにはじまる。その後室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を押さえるために次男の基氏を「鎌倉公方」としてその本拠地を「鎌倉府」と称し、関東八か国(武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸・上野・下野)と伊豆・甲斐を合わせた一〇か国を統括した。一時的は陸奥・出羽も含む奥州をも支配した時期もあった。
 1336年(延元1・建武311月京都に幕府を開き、その嫡子義詮を鎌倉にとどめ,これを〈鎌倉御所(鎌倉公方)〉とし,そのもとに「関東管領」を配置して東国の政治一般にあたらせた。その政治組織を鎌倉府といい,あたかも小幕府の観をなした。
 以後その子孫(氏満(うじみつ)、満兼(みつかね)、持氏(もちうじ))がこの職を世襲した。
 歴代の公方とも将軍への対抗意識が強く、また鎌倉府の領国に対する主要な権限を幕府直轄の機関である「関東管領」に握られていたため、その争奪をめぐってしばしば争いを繰り返していた。持氏の代になり、当初「上杉禅秀の乱」では幕府は持氏を援助したが,乱後幕府と持氏の間が不和となり、1428年足利義教が将軍となってからは京・鎌倉間の対立はいっそう激化した。鎌倉府内部でも幕府との協調を説く関東管領上杉憲実(のりざね)と持氏の不和が顕在化し,永享の乱が勃発し、1439年持氏は自害,鎌倉公方は滅亡する。

 龍興寺中興の祖となる第3世曇芳和尚はその足利持氏の伯父という。伯父とは父母の兄や弟、また父母の姉妹の夫で、父母の兄には「伯父」という。持氏の父親である満兼には兄がいたのであろうか。どの文面にもそれらしい人物はいない。それとも母親とされる「一色氏」の義兄であろうか。
 どちらにしても埼玉県指定史跡として「足利持氏、及びその子春王安王の供養塔」が現存しており、持氏の子孫である足利政氏・義氏からの寺安堵状も残っているのであることからも、何かしら鎌倉公方・足利氏と関係した人物がいたことは確かであろう。

 この龍興寺は臨済宗鎌倉円覚寺末寺という。この円覚寺は、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建したといい、北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されていた。
 しかしその後の鎌倉幕府の滅亡から、建武の新政を経て南北朝時代に移ると、新しく鎌倉を掌握した鎌倉公方・足利氏はこの寺を支援するようになる。このお寺のあちこちには足利氏の「丸に二引き両」の家紋があり、鎌倉公方との繋がりが深かった何よりの証拠ではなかろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「百科事典マイペディア」「改訂新版 世界大百科事典」「加須インターネット博物館」
    「境内案内板」等

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