古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

道目鷲神社

 加須市道目は「どうめ」と読む。この地域は『新編武蔵風土記稿 道目村』によると、古は「堂免(どうめん)村」と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝えているが、この「どうめん」は全国的に散在し「道面、堂免、百目」などの文字が当てられ、元々川辺に多い地名といい、水の「ざわめき→どうめき→どうめん」へ転訛(てんか)したものとされている。
『日本歴史地名大系』においても当地域は、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤があると載せている。実際地図を確認すると南西方向に走る道路は、如何にも古利根川の流路跡をそのまま利用した道のようにも見え、本来の意味は「水の音」に関連した地名であったのではないかと考えられる。

        
             
・所在地 埼玉県加須市道目324
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 大己貴命
             
・社 格 旧道目村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋の例祭 1015
 北平野稲荷神社が鎮座する埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、600m程先にある道幅の狭い路地を斜め右前方向に進路変更、暫く道なりに進むと進行方向左手に道目鷲神社の社号標柱とその先には石製の鳥居が見えてくる
 
         
道目鷲神社正面          入口から中に入った先に石製の鳥居が建つ。
『日本歴史地名大系』 「道目村」の解説
 細間村の南に位置し、南西を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。古は堂免村と書き、村内薬師堂免除の地であったと伝える(風土記稿)。寛永六年(一六二九)の検地帳(針谷家文書)では「武州喜東郡古河内道免村」、同一八年の検地帳(同文書)には「武州騎西之郡古河川辺内道免村」と記され、田園簿には道目村とみえる。
 寛永六年の検地奉行は八木三郎兵衛ほか、同一八年は中江作左衛門らであった。田園簿によると田高二二五石余・畑高二七八石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。
        
                   境内の様子
       旧大利根地域の社の多くが、河川対策により塚上に鎮座している。
『新編武蔵風土記稿 道目村』
 道目村は古は堂免村と書き、村内藥師堂免除の地なりしと、土人の口碑にのこれり、されど正保のものには今の如く道目村と載たり、
 古利根川 村の西界を流る、川幅六間許、水除の堤あり、
 鷲明神社 村の鎭守にして、寛文元年の勸請なり、千手院持、〇靑龍權現 持同じ、〇天神社 醫王寺持
 醫王寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、瑠璃山と號す、開山宥道寛文三年三月五日寂す、本尊大日を安ぜり、金毘羅社
 藥師堂 坐像にて長六寸、運慶の作、村名の條に載たる土人の口碑によれば、この藥師堂免除の地なりしや、慥なる傳へはなし、 〇千手院 同末、慈雲山と號す、本尊千手觀音を安ぜり、
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町道目三二四(道目字中)
 当社の鎮まる道目は、この地にある薬師堂がその昔年貢の免除地であったため「堂免」といわれ、これが転訛して現地名になるという。
 社記は、当社の創建を、口碑とことわり「足利氏の一族であった小野田氏が、応仁の乱を逃れて当村に居住して以来村の長となり本村を束ねる。同家次郎左衛門の時に屋敷の神として鷲明神を勧請する。その後村も整い初め延徳三年春、村人が懇願して同社を村の鎮守とする。下って寛文元丑年中現在地に社殿を造営する。」と記している。
『風土記稿』に「鷲明神社 村の鎮守にして、寛文元年の勧請なり、千手院持」とあり、別当千手院は真言宗である。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命・大己貴命であり、現在の一間社流造りの本殿は明治一五年の再建である。
 明治六年に村社となり、大正二年一〇月には同字の愛宕神社を本殿に合祀する。しかし、合祀に伴い口にするのも恐ろしい凶事が起こり、直ちに旧社に移すという。昭和三年、正式に合祀を中止している。
 境内末社に御嶽神社・稲荷社があるが由緒は不詳である。ほかに明治二八年銘の不二道孝心講建立の石碑浅間宮、通称庚申様と呼ばれる文政七年銘の石碑甲子祭神がある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                    本 殿
 鷲神社を氏神としていた足利氏の一族小野田家とその家士たちが祀り始めたという歴史があり、氏神の古い形である当社への信仰は厚い。終戦の混乱期も含めて現在まで、一日・一五日氏子による境内清掃が行われている。
 例祭は415日に行われる春祭りと呼ばれる。お供えの鏡餅の上は神職に渡し、下は氏子の戸数に切り分けて護符として配られる。秋の例祭は1015日で、春祭り同様である。この祭りの前日は宵祭りとして古くは餅を焼いたという。
 
     本殿左手奥に祀られている       本殿右手奥に祀られている浅間宮の石碑
境内社・稲荷神社(左)、甲子祭神(右)石碑
        
                社殿から見る境内の一風景
 参道左側には社務所兼道目中集会所がある。
この社務所は祭りはもちろん、各講社の集まり、村の寄り合いに用いられ、神社で決めたからという信仰が今でも生きているという。
 道目地域は、上耕地・中耕地・下耕地の3区域に分かれ、鷲神社が鎮座する区域は中耕地ある。道目の各耕地に庚申講があり、1215日には中耕地の五つの講が社務所に集まり、会食をする大庚(おおがのえ)がある。
 また4月と9月の2回社務所で安産を祈願する子安講があり、十九夜様の軸を掛け、神灯を上げて祈る。職工組合による太子講が春に行われほか、榛名講・不二道孝心講・雷電講・秋葉講・赤城講・三峰講・鬼鎮講などがある。このうち不二道孝心講は、嘗て正月に銚子へ初日の出を拝みに出かけるのが恒例であったが、今は行っていないという。
 
 参道に対して向かって右側の狛犬の奥には    社入り口の右側には「伊勢講記念碑」
    力石と思える大石がある。          の石碑が設置されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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北平野稲荷神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市北平野366
              
・ご祭神 稲荷神
              
・社 格 旧北野村鎮守
              
・例祭等 3月初午 天王祭 715
 北平野地域は加須市東部に位置し、北は稲荷木排水路、南は中川の間にあり、地域内の大部分は田畑などで占められている豊かな穀物地帯である。それでいて、地域南部には埼玉県道84号羽生栗橋線や同県道346号砂原北大桑線などの道路が通っていて、交通の便も何気に良い場所でもある。
 国道125号栗橋大利根バイパスを旧栗橋町方向に進み、「加須IC東産業団地」交差点を左折する。埼玉県道346号線に合流後、北行し中川に架かる水門橋を越え、1.5㎞程先にある「北平野」交差点を左折、同県道84号線を西行すること300m程で北平野稲荷神社に到着することができる。因みに地図を確認すると、北平野集会所の隣に鎮座している。
        
                 北平野稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「平野村」の解説
 道目村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。田園簿によると田高一三七石余・畑高一三九石余、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領として続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                   境内の様子
 北平野地域は化政期には平野村と称していて、この村は更に上・下・新田の三耕地に分かれており、神社や寺は上耕地に集中している。江戸時代化政期頃、56戸程で米麦を中心に大豆なども生産していた。現在全戸数は71戸を数えるが、氏子は古くからこの地に生活している65戸で、近年は兼業農家が増加しているという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 平野村』
古利根川 村の南を流る、幅三間餘、川より一町餘隔てゝ水除堤あり、
稻荷社 村の鎭守なり、蓮華院持、
蓮華院 新義眞言宗、南篠崎村普門寺末、安養山と號す、開山玄譽延寶九年七月寂せり、本尊不動、


 稲荷神社  大利根町北平野三六六(北平野字上)
 明治一二年まで平野村と呼ばれ、その名の通り利根川右岸に広がる平野であり、元亀・天正年間の開拓と伝える。集落は古利根川の自然堤防上に点在し、社も集落の中心部から西方に走る県道羽生栗橋線に近く鎮座している。
『明細帳』によると、当社は天正五年四月一五日山城国伏見稲荷社からの分霊を祀ったのに始まり、五穀の豊穣を祈り、村人が長く信仰してきたものという。
 元禄元年一二月一五日、本社と拝殿が再建され、正徳五年一一月二八日、京都吉田家より正一位の神階を受ける。その後、天明五年に一間社流造りの本社を再建して現在に至っている。
『風土記稿』によると、往時の別当は真言宗蓮華院が務めていた。
 現在の社殿の構造は間口三間半・奥行四間半の中に稲荷神社本殿と、その右側に八坂社と神輿、左側に浅間社が並び祀られている。八坂社は大正初期のころ蓮華院墓地近くから移されたものと伝えられるが、浅間社については明らかではない。
 境内には末社として天神社が祀られ、『明細帳』によれば寛政三年三月二五日に創建とある。このほか、八坂社は寛保三年六月一五日、雷電社は正徳三年二月二〇日、八幡社は天保三年八月一五日、厳島社は享保一二年五月五日の創建と載るが、現在境内には見当たらない。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
              
                    拝殿の手前に聳え立つイチョウの御神木
   加須市保護樹木 平成27101日 イチョウ  幹の周囲 450㎝ 指定番号 97

 当社の祭礼は、3月初午と7月に行われる天王祭の2回。3月初午は、前日から世話人や当番耕地の人々が社に集まり、境内の清掃や祭りの準備を行う。当日は総代・世話人・区長などの参列により祭典が執行され、その後、集会所で直会が行われる。
 3月初午には、風呂を立ててはならないとする禁忌があるほか、スミツカリを作りツトッコ(藁苞 わらづと)に入れて神前に供える風習があった。また、スミツカリを食べると風邪にかからないといわれていた。
 因みにスミツカリとは、大根を専用のおろし器でおろして、節分のときの大豆をつぶして一緒に煮る栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理で、2月の初午(はつうま)の日によくつくるという。
 また、稲荷様の眷属は「お稲荷様(おとかさま)」と呼ばれ、以前は陶製の白狐が奉納されており、狐は犬が嫌いであるとのことから、この北平野地域の人々は犬を飼うことを遠慮していたともいう。
        
                境内に安置されている力石

 大正初めに当社に合祀された八坂社は、現在も社が残り、7月の天王祭は初午よりも賑やかに祭りが行われる。天王祭は、77日に準備が行われ、神職により神輿への神霊遷しが行われる。以前、神輿には大人と子供の二基があったが、大人神輿は傷みが激しく、渡御は行わなくなった。子供神輿の渡御は15日に行われ、夕刻に子供たちは集まり、神輿を担ぎ出す。現在は県道を進むことができないため、町道を進み蓮華院近くのお仮屋と称する広場(以前はここにお仮屋を建てていたが、今は略して名称のみ残っている)に行き、お仮屋で暫く休息したのち社に還るとの事だ。
 
  本殿奥に祀られている末社石祠と勝軍地蔵      勝軍地蔵の右隣に並んで祀られている天神社

 有形民俗文化財 勝軍地蔵の石仏
 指定年月日 昭和六十一年十二月八日指定
 所 在 地 加須市北平野三六六番地
 所有者等  稲荷神社
 造 立 年 享保十一年(一七二六)
 勝軍地蔵は、地蔵信仰の一形態で、悪業煩悩の軍に勝つという意味のお地蔵様であり、また火伏せの神(火防神)として愛宕信仰の対象ともされてきました。
 中世その姿から武士の信仰厚く、特に足利将軍家の尊崇厚かったといわれています。
 この地方で建てられた勝軍地蔵は、主として愛宕信仰として、火伏せの神「愛宕様」と呼ばれる信仰からと思われます。当町内で唯一の勝軍地蔵です。
 愛宕信仰の歴史を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日
                                      案内板より引用
        
           社殿奥で、県道寄りに祀られている浅間大神の石碑



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP
    「世界大百科事典(旧版)」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
 

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弥兵衛鷲神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市弥兵衛476
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命 誉田別命 素戔嗚命
             
・社 格 旧弥兵衛村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 4月15日 秋祭り 10月15日
「道の駅 童謡のふる里おおとね」の東側で、埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、「埼玉大橋」高架橋下の道路を利根川右岸土手沿いに500m程東行すると、進行方向右手に弥兵衛鷲神社が見えてくる。
        
                                   弥兵衛鷲神社正面
『日本歴史地名大系』「弥兵衛村」の解説
 新川通(しんかわどおり)村の西に位置し、村の北東を利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。村名は飯積(いいづみ)村(現北川辺町)の平井外記とその子弥兵衛が開発したことによるという(風土記稿)。また、貞享三年(一六八六)の利根川通関所之外脇渡場改覚(竹橋余筆)には、飯積村名主善左衛門が六〇年以前田地を求めて引越し、弥兵衛村名主を勤めたとある。その後平井家が代々名主を勤めた。田園簿には弥兵衛新田とみえ田高八石余・畑高一八六石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳でも幕府領。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)の向川辺領村々高書上帳(同文書)では幕府領。
          
            鳥居には藁で作られた大蛇が掛けられている。
      また社号額には「八幡社」「八坂大神社」「鷲神社」「愛宕神社」とある。
       
                    拝 殿
 鷲神社(てんのうさま)  大利根町弥兵衛四七六(弥兵衛字上分)
『風土記稿』に「彌兵衞村は鷲宮鄕と唱う、当村古へ平井外記と云者飯積村(現北川辺町飯積)より当所に来り開発し、其子弥兵衛もともに開発のことを司りしより村名となりし」とある。隣村の外記新田鷲神社社記に鷲宮大明神を勧請したものという。しかし明治四五年当社に合祀された八幡社の旧鎮座地は小字焼畑(やけっぱら)であり、その社記によると「景行天皇の代御宝別命、天皇の命により東国を治めるに当り、賊徒に対して火矢を射る、その時矢が当たり焼けたため地名をヤケッパラと呼ぶ」といい、口碑に「この附近は古くから開けた所で、八幡社も鷲神社も新田開発前に住んでいた者が祀った」ともいう。
 大正二年、当社は旧別当真言宗鷲宮山龍福院境内から八坂大神社の鎮座していた現在地へ遷座し、同時に八坂大神社を合併して村社となる。八坂大神社は「元文三年悪疫流行の時、村人が愛知の津島神社に祈祷し功験著しく、よって同社分霊を行い創祀す」と社記にある神社であり、古くは天王様と呼ばれ江戸中期作の神輿がある。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命・誉田別命・素戔嗚命で、ほかに愛宕社祭神火之夜芸速男神(ひのやきはやおのみこと)を祀るというが不明であり、焼原の八幡社の合祀社であったとも思える。境内末社は地租改正の折、同字内の愛宕社・浅間社・三峰社を合祀したという。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 

『加須市HP』や『埼玉苗字辞典』によると、この「平井外記」という人物は、正保四年(1647)没となっている。
 *平井家系譜「平井稲葉(稲泉道栄居士・文禄二年没)―伊豆(平安浄貞信士・慶長十三年没)―佐渡(源誉路安信士・寛永十七年没)―外記(信誉浄金信士・正保四年没)―太郎左衛門(全冬安永信士・宝永三年没)―四郎兵衛(元禄十四年没)―太兵衛(元文二年没)―庄兵衛(明和二年没)」
 平井家は代々摂津源氏頼光の輩下にあったが、頼光の玄孫三位頼政が宇治平等院で敗れてからは数代にわたって諸国を流浪し、ついに頼政を祀る古河に至り、北川辺飯積の地に帰農した。
 その後、平井外記は単に飯積にとどまらず、広く東方に開墾の鍬をふるい、飯積三軒・高野・大曾・前谷・駒場・外記新田等を豊穣な地として、北川辺領開発の租となった。
 多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救った。
 そのため家は取潰しとなり、外記自身は責を負って自刃した。時に正保41647年)年86日。農民たちは挙げて助命運動を行っていたが、辛うじて罪一等を減じて末の一女を恕されて平井家断絶の最悪の事態を避けることができた。
 平井外記は単に一族の祖、一村草創の人でなく、北川辺領開発の人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人であったという。
       
       拝殿正面に飾られている「雷電神社神璽」と「榛名神社御祈祷御札」 
 この地域には「講社」という各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講があり、「榛名」「三峰」「雷電」「御嶽」「富士」の各講がある。上記の榛名には毎年3月に代表して参拝する「代参講」が行われ、雷電には毎年2月下旬にと七月に「代参講」が行われる。

    社殿左側に祀られている仙元宮     仙元宮の右側隣に御嶽神社の石祠が祀らている。

 仙元宮の左側奥に祀られている稲荷大明神     社殿右側には天満宮が祀られている。
  稲荷大明神の左隣は三峰社であろうか。 

 当社の氏子区域は大字弥兵衛全域であり、これを西・東・前・横手・焼原の五耕地に分け、神社の仕事は一耕地一年交替で努め、これを黽番(かまばん)と呼ぶ。
 当社の大祭は、四月十五日の春祭りと十月十五日の秋祭りで、四月は豊作祈願、十月は収穫感謝であるという。当日は総代が祭典を奉仕し、集会所で直会を行う。
 また悪疫除けの行事として「天王様」があり、これには神輿が出る。因みに、天王様の日には、鳥居には藁で作られた大蛇を掛ける風習がある。七月一日に黽番は神輿を出して清掃・備品の点検・警察との打ち合わせを行い、同六日は幟立て、同七日は神輿に拝殿で祭り込みを行う。七日の晩から氏子がお参りをするため、総代がお祓いをする。同一五日夕刻に集合し御神酒を頂き、嘗ては耕地中を揉んだが、現在は境内で揉むという。翌日一六日には還御ノ儀(かんぎょのぎ)を行い、午後に幟倒しを行い天王様は終了するとの事だ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須市HP」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等    

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砂原鷲神社


        
              ・所在地 埼玉県加須市砂原447
              ・ご祭神 天穂日命
              ・社 格 不明
              ・例祭等 お獅子様 411日 春祭り 415日 秋祭り 1015
 北下新井地域にある大利根総合支所から埼玉県道84号羽生栗橋線を西行し、「北平野」交差点を右折、同県道345号砂原北大桑線に合流後350m程先にある「下総皖一生誕の地 童謡のふる里」の看板が設置されている十字路を右折する。暫く進むと、風景は一面見渡す限りの田畑風景に変わる。この一帯は「埼玉の神社」によると「当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われた」と載せているが、この風景を見ると成程と納得してしまうほどの豊かな穀物地帯が広がっている。
 埼玉県にもこのような場所があるのかと感慨に耽りながら車を更に走らせ、「稲荷木排水路」を抜けた直後の路地を右折、更に
500m程先の十字路を左折すると、背中を向けた砂原鷲神社社殿が右手に見えてくる。
        
                  砂原鷲神社正面
 加須市砂原地域は、利根川右岸に位置し、東西3.8㎞程・南北は最大でも1㎞程の、東西に長い利根川低地上に位置する地域である。因みに地域名「砂場」は、昔古利根川の砂が寄せた地を開発したことにちなむとされ、川筋に沿って砂山が続いたといわれる。
『新編武蔵風土記稿 砂原村』
「土人云往古利根川の砂寄たる地を開きしより此名ありと云、(中略)東西三十五町、南北五町許、(中略)村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」
この地域の東側には「十間新田」という字名もあり、「風土記稿」において、「村の西古利根川の跡に持添の新田あり、十間新田と云」と載り、この十軒新田の地内に砂原鷲神社は鎮座している。
        
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町砂原四四七
 社記に「宝暦六年武蔵国南埼玉郡鷲神社の分霊を祀り耕地鎮守と称す」とある。
 口碑によると、当地は古くから人の住む所で、畑の中から土器の破片が出るという。また、江戸期には相当数の戸数があったといわれ、殊に当社の創立と伝える宝暦年間が最も多かったという。旧家の街道に建つ出羽三山登拝碑などの石碑類もこの年号が多い。
 しかし、その後、大利根地区で一番の低地のため、利根の乱流による水害が激しく、自然堤防付近への移転が計られ、江戸後期より明治初頭にかけて十軒余りに減少する。このことから当地は現在でも十軒と呼ばれる。また、一〇軒とは坂田・中島・羽鳥・田代・曽根・中沢・久保田・小野田・荻野・斎藤であるといい、当地は雁採場(がんとりば)といわれ、草分け坂田家はガンドン(雁殿)と呼ばれていたといわれる。
 当所は、古くは鷲宮神領であり、街道に建つ石碑などからも宝暦年中の勧請はうなずけるものがあり、祭神は天穂日命である。隣接する真言宗西浄寺が元は別当であったが、明治初期に消失したという。
 覆屋内に三殿があり、鷲神社を中央に、向かって右に安政五年六月配祀と伝える八坂神社を、左に宝暦七年駿河国浅間神社より分霊という浅間社を祀る。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                境内社・稲荷神社の石祠
 氏子区域は旧大利根町字十軒である。これを上組・前組・中川組・下組に分けられている。
 当地は古来、洪水地帯であったが、大正三年河川改修・耕地整理が行われ、以来北埼玉一の米の宝庫と謳われ、また蓮田も作り、養蚕・川魚漁と裕福な地域となった。しかし、大雨が降ると地水が湧き、道路も水に浸かる時があり、用水路へ水車で水をはくほどであり、その生活には厳しいものがあったようだ。このために氏子は信心深く、毎月の一日・一五日の参詣を欠かす者はなかったという。
 また当所では、正月三が日は餅を食べない風習があり、これは三が日の餅は神様のものだからといい、昔は子供には三が日のうちに餅を食べると吹出物ができると教えたという。
 
社の北側に隣接している「十軒農村センター」    農村センターの敷地内にある庚申塔3基



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」等



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北下新井若宮八幡社

 松はマツ科の属の一つで、約100種が北半球の各地域に分布し、針葉樹で針のような形態の葉と、松かさ(松ぼっくり)とよばれる実がなるのが特徴である。人との関わりも深く、さまざまに利用されたり、文化や信仰の対象にもされている。
 他の樹木が生えないような岩や砂だらけの荒地でもよく育つ。霧に包まれた険しい岩山に生えるマツは仙人の住む世界(仙境)のような世界を演出し、特に中国の黄山や華山の光景は見事である。海岸地帯においても時に優先種となり、白い砂と青々としたマツの樹冠の対比の美しさは白砂青松などと呼ばれる。これは特に日本で親しまれており松島、天橋立、桂浜、虹ノ松原などが有名である。
 松の由来は、「(神を)待つ」、「(神を)祀る」や「(緑を)保つ」が転じて出来たものであるなど諸説ある。節操や長寿を象徴する木として尊ばれており、日本では「松竹梅」と呼ばれ、おめでたい樹とされた。魔除けや神が降りてくる樹としても珍重され、正月に家の門に飾る門松には神を出迎えるという意味があるという。
また、松は薬用として、特に松の皮や脂は、傷口を覆う止血に用いられた。そのため、日本の城で植えられる例が多い。
 このように松は日本人との繋がりが非常に深く、文化や信仰の対象にもされて、昔から親しみのある樹木である一方で、産土神の中には松が嫌いな神様がおられることも伝承・伝説の中で出てくることも事実である。
 熊谷市旧妻沼町の聖天様は伝承・伝説では松嫌いで有名な寺院だ。その昔、聖天様は松の葉で目をつつかれたとか、松葉の燻しにあったという理由で、とても毛嫌いしている。ゆえに、正月に門松を立てることはないし、松の木を植えない家もある。松平伊豆守と知恵比べをして負けたことから松嫌いになったとも、または群馬県太田市の呑龍様との喧嘩中に、聖天様は松葉で目をつつかれたともいう。
 同じような伝説は、行田市の須賀熊野神社、鴻巣市の安養寺八幡神社にも伝承されていて、加須市北下新井地域に鎮座する若宮八幡社にも同様な伝承がある。偶然の産物ではない何かの事象を根拠に描かれているのであろう。勿論これは悠久の昔の神話世界の話ではなく、人間が織りなした生々しい事実・事件を題材にしたものであると考える。
        
             
・所在地 埼玉県加須市北下新井461
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧下新井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭 415日 秋祭り 1015
 加須市北下新井は、加須市大利根総合支所等の旧大利根町の公共施設が集まっている地域である。埼玉県道84号羽生栗橋線が地域内を東西方向に走っていて、加須市大利根総合支所から上記県道を1㎞程東行した先に北下新井若宮八幡社は鎮座している。
        
                北下新井若宮八幡社正面
            県道に沿って境内は広がり、社殿は東向き。
『日本歴史地名大系 』「下新井村」の解説
 平野村の東に位置し、南を古利根川が流れ、川沿いに水除堤がある。寛永八年(一六三一)の寄合帳(大塚家文書)では「武州騎東郡川辺之内下新井村」、同一八年の検地帳写(田代家文書)には「武蔵国騎東郡川辺之内下新井村」とみえる。田園簿によると田高二五五石余・畑高三四七石余で、幕府領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土井領で、幕末まで同領で続いたと考えられる(天保三年「向川辺領村々高書上帳」小林家文書、改革組合取調書など)。弘化元年(一八四四)より新田三石余が幕府領として加わる(「郡村誌」など)。助郷は中田宿(現茨城県古河市)・栗橋宿(現栗橋町)へ出役(天保一〇年「栗橋中田両宿助郷帳」小林家文書)。
        
                 静かな境内の一風景
 元和年間(1615年〜1624年)の創建。嘗て利根川は当地の南側を流れていた為、度々洪水の被害に遭っていた。当社も水害から逃れるために盛土の上に建てられている。近くの龍蔵院が別当寺であったが、実務面の管理は当社の隣にあった龍蔵院の末寺の「寿福院」が行っていた。
 1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1911年(明治44年)の神社合祀により、周辺の7社が合祀された。
       
          参道左側で、手水舎の近くにあるご神木(写真左・右)  
    参道左側にある「改修記念碑」         ご神木の先にある手水舎
 改修記念碑
 本村民往古より摂津国高津宮祭神大鷦鷯尊(仁徳天皇)を信仰し、元和四年(1618)祠を創立。該神を分霊し勧請す。不老山若宮八幡と称す。
 例祭を毎歳四月十五日と定め以て五穀豊穣を祈る。しかし本村地は利根川と古利根川の間に位置し洪水氾濫幾度と知れず。文政十一年(1828)村民協力して現在地に築土し祠殿を再建するも、爾来尚数十年多発する水害の為稲熟は年毎に減り村民は疲弊を極む。天保九年(1838)から利根川の築提工事と中小河川の整備により、田数百町歩を得て排滞水、水防事業が亦緒につく。村民漸くにして愁眉を開き炊煙益々盛る。これ関係者の努力の致す処なれど、神徳に非ざれば何をもってここに至る。明治三十年(1897)八月村民相図り、社殿を大修理し以て祭典を挙げる。大正十二年(1923)九月一日関東大震災の為本社殿全壊、境内神社崩壊。被害箇所整理の後大正十四年春社総代、役員協議して再建に着手。大正十五年十月完了後吉日御遷宮祭典を挙げる。
 平成元年(1989
)、再建以来六十余年の歳月を経て本殿、境内社共に老朽化著しく、各役職、氏子の諸賢、対策協議会を結成す。(中略)御遷宮の祭典を挙行し、この事業を子々孫々に伝えんが為、奉賛者各位の芳名を記し、拠ってここに記念碑を建立す。(以下略)
                                     記念碑文より引用

        
                 塚上に鎮座する社殿
『新編武蔵風土記稿 下新井村』
 八幡社 村の鎭守なり、龍藏院持、下同じ、〇雷電社
 龍藏院 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、瑠璃光山世尊寺と號す、本尊藥師を安ず、〇地福院 同末、高應山師尊寺と號す、本尊彌陀を安ず、

 若宮八幡社  大利根町北下新井四二一(北下新井字砂場耕地)
 元来、利根川は、大利根町佐波付近から加須市樋遣川の地を南流し、当地の南を通り、鷲宮町方面へ流れていた。
 口碑によると、昔利根川の北岸に集落が形成されていたが、度重なる水害により人々は堤から離れて上の方に移り、字樽場の辺りに多く住むようになったという。往時の水害の様子を物語るものとして、地内には「お谷ガ池」が今に残る。
 当社も浸水から逃れるために盛り土の上に祀られている。その創立は社伝によると元和年間とされる。正徳四年神祇管領吉田兼敬より正一位の神位を受けた。
 別当は、真言宗竜藏院が務めていたが、直接の管理は当社に隣接する末寺の寿福院が当たっていた。明治初めの神仏分離により、寺の管理を離れ、明治五年に村社となり、同四四年には村内の七社の神社を合祀したが、このうち本田耕地の三峰神社はそのまま社殿が残された。
 社殿は、大正一二年の関東大震災によって全壊し、同一五年に再建して、現在に至っている。
 主祭神は誉田別命である。内陣には、騎乗の八幡大明神像を安置し、口碑にこの神像は松の葉によって傷めたため、目に傷があり、若宮八幡様は松が嫌いであるという。また、御一新の折の神社改めに際し、神像の没収を恐れた氏子は、一時これを隠したという。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 本殿。その左側奥には子安神社が祀られている。   本殿右側に祀られている稲荷神社。
       
      石段手前で、左側に祀られている熊野神社(写真左)・雷電神社(同右)
       
      力石も区画を設けて展示している。  力石の奥に祀られている弁天社
        
                  石段手前で、参道に対して右側に祀られている琴平神社

 ところで、北下新井若宮八幡社の春祭りで上演されるササラは、正式には「祐作流獅子舞」といい、近在に広く知られている。昔、下新井村は利根川の水害が多く、伝染病による死者が数多く出たため、悪病除けのササラを北川辺の向細間から習ったことに始まったという。
 演目は「ササラ八庭」と称し、「赤間」「平庭」「花がかり」「橋がかり」「綱がかり」「弓がかり」「笹がかり」「女獅子隠し」の八通りがあったが、現在は後継者育成により、祭りには三庭のみ演じられている。
 摺り手は樽場と砂場各耕地出身者が当たるのを慣例とし、特にこの二耕地は八幡様の宮元と呼ばれ、ササラの行事の一切を行っている。当日祭典終了後、境内でササラが上演され、その後字本田の三峰神社前で一庭摺る。また、三峰神社の行き帰りの途次、氏子から要望がああるときは、その家の前で悪病退散を祈って摺ることもあるという。
        
          境内に設置されている「北下新井のささら」の案内板
      加須市指定無形民俗文化財で、平成二七年九月八日に指定されている。 



参考資料「文化遺産データベース」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
加須市HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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