古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

間口八幡浅間神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市間口479
              
・ご祭神 誉多別命 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧間口村鎮守・旧村社
              
・例祭等 雹祈祷 325日 春祭り 415日 秋祭り 915
                   
夏祭り 77日に近い日曜日 及び15
 新井新田八幡神社から一旦北上してから国道125号線に合流、「間口」交差点をそのまま直進し北上する。400m程進んだ「間口八幡神社」交差点を左折すると、進行方向左手に間口八幡浅間神社の広い境内と塚上に鎮座している社殿が見えてくる。
 社の境内北側には、駐車可能なスペースもあり、その一角に停めてから参拝を開始した。
        
                          間口八幡浅間神社正面 
『日本歴史地名大系』 「間口村」の解説
 琴寄(ことより)村と古利根川を隔てて南に位置。古利根川沿いに堤防があり、南西は島川が流れる。天正一三年(一五八五)正月一四日の北条家印判状写(相州文書)に「まくち御領分之由候」とみえ、一色中務大輔に利根川の東に在陣中は船渡しを停止し、船を引上げ、船橋は一ヵ所のみとするよう命じている。間口が一色氏領分の重要地点であったことがわかる。
 当村を含む七村が羽生領(風土記稿)。田園簿によると田高一五石余・畑高五六九石余で、幕府領。このほか野銭永七貫七五〇文。元禄郷帳では高四〇一石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本渥美・細井の相給。
        
                   境内の様子
               境内は思った以上に広いながら、綺麗に手入れされている。 
 現在、社の氏子区域は間口全域で、蟹穴・新田・本田の三耕地からなっている。古くは米麦を中心として豆類・綿・藍などが生産されたが、米の生産調整政策により蔬菜・いちご等への作付け転換が進められたという。
        
                              参道左側にある手水舎
『新編武藏風土記稿 間口村』
 八幡淺間合社 村の鎭守にて東曜寺の持、
 東曜寺 新義眞言宗、下總國葛飾郡前林村東光寺末、八幡山神功院と云、本尊不動、開山宥秀は寬永十九年三月二十六日寂す、古へ東照宮此邊御遊覽獵のとき、當寺ヘ渡御ありし頃、來秀漬菜を差上げしに御意に叶ひ、戲に漬菜坊と呼せられしより、遂に自らの坊號となれりと云、其正しきことを知らず、此僧の肖像を堂中に安ず、鐘樓 享保七年新鑄の鐘をかく、阿彌陀堂、

       
                               塚上に鎮座する拝殿
 八幡浅間神社  大利根町間口四七九(間口字道南)
 当地は、武蔵七党の一つ児玉党の流れをくむ修理亮という者が帰農して開いたといわれ、大鹿姓を名乗り、江戸期に入ると代々名主を務める家となった。
 当社は、阿佐間との村境、間口の一番上に当たる字道南に鎮座する。道南は、氏子集落の西方に当たり、社殿は集落を見守るように東向きに建てられている。
『明細帳』には「往古ヨリ二社合殿、明治六年中村社ニ申立済」と載せ、八幡社と浅間社がいつ合殿になったか伝えていないが、境内にある力石には「奉納八幡 浅間宮」と並記され、更に「元禄十六年正月吉日武州埼玉郡羽生領間口村」とあることから、江戸中期には既に合殿であったことが知られる。祭神は、誉多別命・木花咲耶姫命の二柱である。
 社殿内に並記される本殿は二社共に一間社流造りの同寸法であり、同時に造られたものとみられる。享保一六年二月一三年両社とも吉田家から宣旨により正一位の神位を受けている。
 往時、別当職を村内の八幡山神功院東曜寺が務めていたが、明治初めの神仏分離により東曜寺から離れ、大字阿佐間の旧修験南蔵院が復飾して神職となり南條を名乗り奉仕する。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
    石段左側に置いてある力石               本 殿
僅かに「奉納 浅間 八幡社 元禄十六」と読める。       塚下から撮影
        
            社殿の左側に祀られている境内社・八坂神社
 八坂神社の中には立派な神輿が安置されている。この神輿は、77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りの際に使用される神輿であろう。
 当社の祭事は年七回行われているが、その中で最大の賑わいをみせるのが77日に近い日曜日、及び15日に行われる夏祭りである。
 夏祭りは2回に分けて行われ、まず7日に近い日曜日には子供神輿が練られるが、近年の子供の減少により、農業用トラクターに神輿を載せて、これに子供たちとPTAが付く形に変わっている。 順路は、社⇒蟹穴地区⇒新田地区⇒本田地区(地域境に行く)⇒社となる。
 2回目の15日には、大人神輿が練られる。当日午前中に気も市が神霊遷(みたまうつし)が行われ、午後から子供神輿と同じ順路を渡御する。途中、各耕地に設けられた神酒所、地域の有力者の家に寄り、酒のふるまいをうけ、午後9時ごろ社に還御するという。
        
              本殿の右側奥に祀られている合祀社
            左側から浅間社2社・稲荷社2社祀られている。
        
                社殿から参道方向を撮影
    社は当地域の西側端部に鎮座し、集落を見守るように東向きに建てられている




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
            


 
                       

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新井新田八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市新井新田38
              
・ご祭神 誉田別命
              
・社 格 旧新井新田村鎮守
              
・例祭等 雹祈祷 3月25日
 北大桑香取神社から「北大桑観音通り」を1㎞程東行し、「北大桑(新井)」交差点を左折する。進行方向右手にある真言宗智山派の大願寺を眺めながら、更に北上し、中川に架かる豊野橋を渡り終えた直後の丁字路を右折すると、大きな工場の間に挟まれて、住宅街からもポツンの取り残されたように新井新田八幡神社は鎮座している。
        
                 
新井新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「新井新田」の解説
 [現在地名]大利根町新井新田・豊野台
 北大桑村の東に位置し、中央を島川が流れる。元禄郷帳では新井新田村とみえる。北大桑村新井の住民による開拓と伝える(大利根町地名考)。田園簿によると皆畑で一五三石余、ほかに野銭永三〇〇文、幕府領。寛文四年(一六六四)の羽生中高辻之覚(松村家文書)によると承応年間(一六五二―五五)の検地高一三〇石余。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。
        
                    拝 殿
 八幡神社  大利根町新井新田三八(新井新田字八幡脇)
 当地は利根川中流域右岸に位置し、中央を島川が流れる。新井新田の地名の由来は、近世初期に北大桑村新井の住民が開発したことによるという。当社の創立も村の開発にかかわると思われる。
 祭神は誉田別命である。二間社流造りの本殿内の一方には、高さ六二センチメートルの金幣を祀り、「八幡大神寄進北新井新田村旦中別當間口村東星寺宝永二乙酉天九月吉日」と記す。なお、祭神が一柱であるのに対して、本殿がなぜ二間社となっているかは不詳である。
『風土記稿』新井新田の項には「八幡社 村の鎮守なり、間口村東曜寺持、天神社 北大桑村大願寺持」とある。当社の別当を務めた真言宗八幡山弥陀院東曜寺は、古くは八幡山神功院東星寺と称しており、元亀元年の創立と伝える。また、天神社は北耕地の耕地鎮守として現在も祀られ、別当を務めた真言宗大願寺は江戸末期から明治初期にかけて当時の住職が大酒を飲み、放蕩をして多額の借金をつくったため寺から追い出され、無住になったので、その後、檀家であった当地はすべて神葬祭に改め、現在に至っている。
 祀職は神仏分離以降、南條家で代々努めている。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
 社殿の右側に祀られている境内社・稲荷社   境内に建つ「八幡神社新築記念碑」等の石碑
                        力石のような石も2個並んで置いてある。
        
               正面鳥居付近から見る社の一風景
 当社は新井新田の鎮守として厚く信仰されている。古くは「八幡八社参り」と称して大利根地区にある八幡社を八社参拝して回るとご利益があるとされ、毎月一日・一五日はよく行われたという。
 当社の拝殿は、宿としての役割も兼ね備えており、11日の元日には毎戸一名が拝殿に集まり、区長の年頭の挨拶に始まる新年会が催される。また325日には雹祈祷(ひょうぎとう)と称して、農家の組合総会を兼ね、また時には「榛名講」の代参のくじ引き等も行れたり、種々の話合いがされたという
 また、西隣の北大桑地域で行われる「天王様」(77日・15日)に当地の子供たちも参加し、はやり病を防ぐとして、子供神輿が練られているとのことだ。当地の開発には
近世初期に北大桑村新井の住民が関わったといい、現在でも交流は続いているのであろう。

            社の北側の東西に走る道路の向かい側には、
       幾多の庚申塚を含む石碑や供養塔等が並んである。(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等
  

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北大桑香取神社

 中川は埼玉県と東京都の東部、関東平野の中部を流れる川。全長 84km。埼玉県羽生市北方の利根川から分流し、南東流して幸手市付近から南流、松伏町で古利根川、吉川市で元荒川と合流する。その後、東京都に入って、新中川放水路を分けてのち、中川放水路となって東京湾に注ぐ。嘗ての利根川の流路で、上流部は島川、中流部は庄内古川、下流部は古利根川の流路にもあたっている。古くから氾濫を繰返し、江戸時代以降たびたび改修されたという。
『日本歴史地名大系  北大桑村の解説』によると、この島川は、現在の中川の最上流部にあたり、明治年間からの改修により、庄内古川とともに下流の古利根川に結び付けられて中川に統合された。江戸時代には羽生領(現加須市・羽生市・騎西町・大利根町辺り)の悪水落を水源とし(風土記稿)、北大桑村道橋(現大利根町)から川口村(現加須市)で浅間川(古利根川)に合し、八甫村(現鷲宮町)、狐塚村(現栗橋町)、高須賀村・権現堂村(現幸手市)で利根川(権現堂川)へ合流する区間を島川(島川堀)とよんだ(寛政一〇年「羽生領用水組合御普請箇所記」見沼土地改良区文書)。
 天正九年〜一五年(一五八一〜八七)頃に比定される六月三日付北条氏照書状写(武州文書)には、北条氏が直接支配する八甫の上流へ上る商船が三〇艘にも及んでいることが記されており、戦国期には島川筋が主要な水運路として利用されていたことがわかる。近世初頭の利根川改修では、文禄三年(一五九四)に会の川が締切られたと伝えられ、浅間川から島川筋は利根川の主流となったとの事だ。
 加須市北大桑地域は、東北自動車道加須ICの東側に位置し、北側に嘗ての島川と呼ばれた中川が北側に流れ、南は葛西用水路を境としてその北岸にある東西に長い地域である。
        
             ・所在地 埼玉県加須市北大桑808 
             ・ご祭神 経津主神
             
・社 格 旧北大桑村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道125号線を久喜市旧栗橋町方向に進み、東北自動車道加須ICの先にある「北大桑(西)」交差点を右折する。通称「北大桑観音通り」を道なりに東行すること600m程で「北大桑」交差点に達し、正面左手にコンビニエンスが見え、そのすぐ東側隣に北大桑香取神社の境内及び社殿が見えてくる。
        
          
「北大桑観音通り」沿いに鎮座する北大桑香取神社
『日本歴史地名大系』 「北大桑村」の解説
 杓子木村の南に位置し、南は南大桑村(現加須市)。北を島川が流れ、南の村境を葛西か用水が流れる。また日光道中の迂回路である日光御廻道が通る。中世には大桑として史料に表れ、南北に分村していないことがわかる。天正八年(一五八〇)と推定される三月二一日の足利義氏印判状写(喜連川家文書案)に「大桑郷」がみえ、古河公方足利義氏は北条氏照に対し、同郷など五郷から古河への人足徴発を命じている。同一八年六月五日の北条家印判状(鷲宮神社文書)、年欠五月三日の鷲宮神領書上(旧鷲宮神社文書)、現鷲宮町鷲宮神社の文禄四年(一五九五)八月の棟札により鷲宮神領であったことがわかり、北条家印判状には「拾貫文 大桑之内」、鷲宮神領書上には「拾貫文 本郷香雲院領大桑郷之内 此物成五貫文」、棟札には「大桑村」と記されている。
        
                  静まり返った境内
 北大桑香取神社の創建年代は不明である。ただ当社で所蔵されている金幣に「元禄十二己卯(1699年)」と記載されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。隣にあった「金剛院」が別当寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1872年(明治5年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられた。なお、明治末期の神社合祀政策について、当社では特に周辺神社の合祀は行われていない。
 また
当社には江戸時代の仏師円空が彫ったという「円空仏」を3体所蔵している。
 
    参道左側に祀られている琴平社      拝殿に通じる石段の手前にある案内板
 有形文化財 絵画   香取神社の絵馬
  指定年月日  昭和六十一年十二月八日指定
  所 在 地  加須市北大桑八〇八番地
  所有者  等   香取神社
    制 作 年   延亨三年(一七四六)
 絵馬は「神仏に祈願または恩返しのしるしとして奉納する絵の額」といわれ、生馬に代えて奉納されたものですが、江戸時代になると単に祈願の目的だけでなく、芸術品としての奉納が盛んになりました。
 この絵馬が描かれた延亨三年(一七四六)は、江戸時代第九代徳川家重のころで、奉納の目的は不明ですが、当時の風俗がよく描かれており、絵師の名も判明しています。
 作者絵情斎は三同曾信などとも呼ばれ、一六八〇年加須市川口に生れ、一七五五年死亡、江戸で制作活動に従事した浮世絵師です。
 江戸時代の風俗を知る貴重な資料として指定しました。
 昭和六十三年三月三十一日 加須市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                    拝 殿
 香取神社 大利根町北大桑八〇八
『風土記稿』島川の項に、羽生領内の悪水を利根川に流す島川に、逆流を防ぐ門樋がある様子が記してある。これが当地の事であり「古く水溢の患多き所」ともある。同書に「香取社 村の鎮守なり、金剛院持、金剛院 本山修験幸手不動院配下音羽山と云」とある。
 当社の創立は不詳であるが、内陣に安置する金幣(九四センチメートル)に「香取大明神(梵字)奉寄進元禄十二己卯ノ十二月吉日 羽生領大桑村并生出村 阿左間村惣氏子」の銘がある。これは当社が往時この辺一帯の総鎮守であった事を伝えている。このほか円空仏三体を安置する。当社の参道脇に神霊社(かんれいしゃ)と称する小祠がある。これは昔、旅の浪人がこの地に来て村人を助けて種々の事業を進め、一応仕事が済んだ時、村人が鳩首してこの者を長く村内に留めて置けば、いずれこの村を牛耳られることになる。皆で謀って殺そうと折を見ていると、浪人が金剛院への年始の帰りで足元がおぼつかない、これを襲い、武槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺害したが、以来この地は眼病の者が多く、このため小祠を祀りその霊を慰めたものという。 
 当社の祭神は経津主命である。別当金剛院は当社の裏にあったが、明治期に退転したといわれ、現在は建物もない。
 末社に琴平神社があるが由緒不詳である。このほか、境内には村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等一〇社ほどがある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿上部に掲げてある扁額             本 殿
        
             社殿の左側手前にある石祠等がある。
「埼玉の神社」に記してある「村内より集めたという石祠、天満宮・多賀大明神等10社」なのであろう。
        
              本殿の右側奥に祀られている浅間社

 当社の氏子は北大桑全域を一応氏子としていが、これは明治五年村社となって以降である。本来の氏子は北大桑・中組である。というのも、当地は各耕地に鎮守があり、それぞれに祭りを行っている。八ッ島は大日社・弁天社を、芝は八幡社、保谷は八幡社、北は山王社、台は権現社、新井が八幡社を祀る。当社は中組が祀っている社である。
 当所は明治期に合祀が行われなかったところである。ゆえに、付近の耕地鎮守を含めて、古くからの祭りの形態を色よく残しているといえる。これにより氏子は元旦祭をお正月様、春秋の祭礼をお日待と呼んでいる。各家ではあんびん餅を作り、赤飯を蒸して祝うが、氏子は祭礼だといって神社に参詣はしない。参詣は竈番が代表して行っている。毎月一日・一五日の早朝も竈番は祭礼と同様に神前に灯明をともし太鼓を打ち参拝を行っている。
             
              境内に一際目立つイチョウの御神木
        
                石段上から正面参道を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
  

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柏戸出流神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市柏戸874
             
・ご祭神 不明
             
・社 格 上柏戸村鎮守
             
・例祭等 春祭り 36日 土用干し 724日 秋祭り 101
 向古河鷲神社から埼玉県道368号飯積向古河線を北上し、「三国橋」交差点を直進する。道路は栃木県道・群馬県道・埼玉県道・茨城県道9号佐野古河線に変更となり、渡良瀬川の堤防沿いに1.4㎞程進む。その後「柏戸」Y字路である交差点を左斜め方向に進路を変え、通称「わたらせ通り」を900m程西行すると、右側に「上柏戸集会所」が見え、その手前に柏戸出流神社の朱の鳥居が見えてくる。但し、社の鳥居は「わたらせ通り」沿いではなく、やや奥側に立っていて、その手前には民家もある為、よく確認しなければ通り過ぎてしまうので注意は必要だ。なお、上柏戸集会所に駐車スペースあるので、その点は一安心だ。
        
                  柏戸出流神社正面
『日本歴史地名大系』 「柏戸村」の解説
 東は向古河(むこうこが)村、北は渡良瀬川を境に下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、下総国葛飾郡悪戸(あくと)新田、古河城下船渡町(現茨城県古河市)。中山道と日光道中を結ぶ脇往還が通る(風土記稿)。「カシワ」には砂丘、自然堤防の意があり、「戸」は津の意とみられることから、村名は渡良瀬川の自然堤防に位置したことによるとされる(埼玉県地名誌)。天正一一年(一五八三)の八月八日付の足利義氏遺臣等連署状写(喜連川家文書案)によると、二〇年来の大洪水で、関宿(現千葉県関宿町)・高柳(現栗橋町)とともに柏戸の堤も決壊している。
        
                鳥居の手前にある庚申塔
        
          参道の先に拝殿が見える。左側の建物は上柏戸集会所
『新編武蔵風土記稿 柏戸村』
「出流權現社 祭神詳ならず、柳生村南藏院持、」
『新編武蔵風土記稿 柳生村』
「南藏院 本山派修驗、葛飾郡幸手不動院配下、權現山藥師寺と号す、開祖は足利義氏の臣杉山大膳なり、この日と永正中修驗となり、當所に住し、名を快昌と改め、大永元年寂せりと、」
        
                    拝 殿
 当地は武蔵・下野両国境沿いに位置する。古くから古河公方足利氏に仕えた根岸・出井・橋本の各氏が居住していたが、足利氏の衰弱と共に足利氏に仕えていた武士たちが続々と帰農し、この地を開発したという。
『風土記稿』柏戸村の項に「鷲明神社 村内の鎭守なり、万治二年勧請せりと云、延命寺持、下二社同じ、山王社 八幡社 慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり、出流權現社 祭神詳ならず柳生村南藏院持、太神宮 村民持」と載せる。山王社・太神宮は、創立年代は不詳であるが、出流権現社は正徳二年の勧請で、正徳六年に神祇管領から宗源宣旨を受けていて、これを御神体として本殿内に所蔵している。
 上柏戸の出流神社では、春祭り(三月六日)・土用干し(七月二四日)・秋祭り(一〇月一日)の三回、更に中柏戸の八幡神社、下柏戸の日枝神社でもそれぞれに祭りを行っており、当地の神社信仰の厚さがうかがえる。
 七月二四日の「土用干し」には、午前十一時過ぎから上柏戸の各戸一名ずつが神社に集まる。正午きっかりに拝殿に一同が座り、宮世話人が本殿の扉を開け、「これから御神体の虫干しをします」と言い、宗源宣旨を出して拝殿に広げる。行事に先立ち宮世話人は、出流沼で体を清めるのが仕来りであったが、現在は略されている。宗源宣旨の虫干しを行った後、宮世話人が、これを広げたまま持ち、「出流様の御神体を頂く」と称して、参列者の頭上を祓う。終わると銀杏の葉を入れて、再び本殿を納めるという。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                       本 殿
           本殿の左側に祀られている境内社の詳細は不明
        
 大相撲界に昭和3040年代の高度経済成長期、相撲黄金時代を支えた「柏鵬時代」を知っている方はいるであろうか。横綱大鵬と並び称された第47代横綱柏戸の四股名は、18世紀後半、安永年間に活躍した幕内力士「柏戸村右衛門」にそのルーツがある。
 初代柏戸は元文31738)年柏戸村の出井(いでい)家に生まれ、縁あって騎西出身の伊勢ノ海が創立した伊勢ノ海部屋に入門しました。宝暦81758)年、19歳で初土俵を踏み、幕内上位になるにおよんで故郷の地名にちなみ「柏戸村右衛門」と改名した。

*参考資料 古河志・柏戸村条
「相撲力士柏戸村右衛門、初は出井清次郎と云。村民出井新内なる者の弟也。宝暦中、伊勢海五太夫弟子となし柏戸村右衛門と改め称せしむ。天明元年伊勢海没し、嗣て伊勢海村右衛門と号し、寛政八年五月二十日五十九歳にして没せり。弟子某を柏戸勘太夫と名のらしむ。その弟子を柏戸宗五郎と云ふ、今存在する是也。此村右衛門出生の家、今柏戸村の農民たり」

        
                  社殿からの一風景 
 最高位は前頭(まえがしら)三枚目であったといわれていて、後に弟子の三代目柏戸が大関に進んだことから、「柏戸」は格式ある四股名として後代に受け継がれることとなった。
 天明
31783)年に三代目伊勢ノ海を襲名し、その後、毎場所のように差添(さしぞえ)や勧進元(かんじんもと)を務め、当時の相撲界の隆盛に貢献した。また「決まり手」を定めるなど、さまざまなルールを確立したことで、相撲が広く普及する基礎を築いたという。
 因みに、第69代横綱で歴代最多45回の幕内優勝を誇る白鵬の四股名は、1961年九州場所で横綱に同時昇進した大鵬と柏戸が競い合った「柏鵬時代」に由来する。「柔の大鵬、剛の柏戸」と呼ばれた両横綱の融合した力士になるように願いを込め、当初は「柏鵬」という案も浮上したが、色白だったこともあり「白鵬」に落ち着いたという。



柏戸八幡宮
        
               ・所在地 埼玉県加須市柏戸
               ・ご祭神 誉田別命(推定)
               ・社格・例祭等 不詳
 柏戸出流神社から直線距離にして700m程南東方向に柏戸八幡宮は位置していて、南北に通る埼玉県道46号加須北川辺線のすぐ西側の田畑地域の中、車幅が車両一台しか通れない農道沿いにポツンと鎮座している。
「埼玉の神社」にも説明等なく、『新編武蔵風土記稿 柏戸村』には「慶長十五年鎌倉八幡を移し祀れり」と簡潔に載せている程度である。
        
                  柏戸八幡宮正面
        
                                       拝 殿
       
                           社殿手前で参道左側に並ぶ石仏群
 石仏群の右隣には「〇〇太神宮」の石碑が祀られ、その脇に葉「中柏戸村」と刻まれている。
         その右隣には「八幡大〇」と刻まれている石碑も祀られている。
       
                                   柏戸八幡宮遠景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「広報かぞ」
    「Wikipedia」等 

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向古河鷲神社

 北川辺町は、埼玉県北東端で、埼玉県内で唯一町全域が利根川の左岸(北側)にあり、一説には「北川辺」の名称も「利根川の北の川辺の町」の意味で名づけられたとされる。現在は加須市の北部を占める地域であり、群馬、栃木、茨城の3県と隣接している。
 実は、江戸初期までは埼玉県本体と陸続きであったが、利根川の瀬替え(1621)によって孤立化してしまった歴史的な経緯がある地でもある。また利根川、渡良瀬川に挟まれた沖積低地に位置しており、度重なる水害に悩まされてきた。
 現在、埼玉県の他の自治体とは利根川で隔てられており、電話の単位料金区域 MA は埼玉県内ではなく茨城県古河市と同一の古河MAに属する。但し古河MAは茨城県内区域ではなく、NTT栃木支店の管轄内で栃木県内区域でもある。
 ところで、向古河地域は「古河」の名称がつく地であるのだが、行政区域上は埼玉県に属していて、この地の由来は「古河の対岸に当たる地」との事のようだ。
 室町時代後期、古河公方の直参で、鎌倉から成氏に従って古河に来た人達を称して「十人士」というのだが、この人達が居住していたのが向古河地域であり、まさに古河公方の膝下という土地柄でもあり、享徳の乱勃発時、武蔵国や上野国等から襲撃する関東管領上杉勢から主君を護る最後の砦でもあった。
 電話の単位料金区域のみならず、茨城県古河市とは渡良瀬川を隔てて地理的にも近く、同市との結びつきは古くから盛んであったのだろう。

        
             
・所在地 埼玉県加須市向古河4861
             
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
             
・社 格 旧向古河村鎮守
             
・例祭等 春祭り 415日 夏祭り(子笹流獅子舞) 724
                  秋祭り 1015日 新嘗祭 1123日 大祓 12月下旬
 駒場鷲神社から北東方向に通じる埼玉県道368号飯積向古河線を1.2㎞細進むと、渡良瀬川の堤防前に達し、そのまま道なりに500m程北上する。進行方向右手には上記河川の堤防が延々と続き、目を左側に転ずれば、「加須市立北川辺東小学校」の綺麗な校舎を眺めながら、土手よりも遙かに標高の低い場所ながら多くの民家が軒を連ねる風景に、現在の長閑な風景を愛でる一方、過去に自然災害、特に水害の多かったこの地域に住んでいた先人の方々の苦労に思いを巡らせたものだった。
 そんな取り留めのない思いを巡らせながら車を進行させると、信号のない丁字路に達するので、そこを左折すると、すぐ右手に向古河鷲神社が見えてくる。因みにこの丁字路を直進すると「三国橋」交差点があり、その橋を渡ると茨城県古河市となる。まさに県境に鎮座する地域、及び社である。
        
        すぐ東側は県道が南北に通り、渡良瀬川の堤防が間近に見える。
  また社に参拝するためには、すぐ先にある路地を右折して、少し下りなければならない。
       
                向古河鷲神社 境内の様子
 鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町向古河四八六-一(向古河字帳免)
 渡良瀬川右岸に位置する当地が「むこうこが」、あるいは「むかいこが」とも呼ばれるのは、古河の対岸に当たることによる。古くは当村から古河城下の渡船場を結ぶ船があり、古河との強い結び付きは、交通手段の変わった今日まで続いている。向古河では、磯・松橋・小堀・稲葉・荒井・池田・秋山・桜井・永島・君塚の十家を十人士と呼ぶ。いずれも元は古河公方成氏の家臣で鎌倉から成氏に従って古河に来た人たちで、古河城の対岸向古河に住んでいたが、古河公方の威勢が衰えるとともに当地に土着し百姓になったと伝える。
 当社の創立は『風土記稿』に「村の鎮守なり、万治二年の頃勧請と云、真光寺持」とあり、同村に鎮座の天神社は「文明の頃古河城鎮護のため、京都北野を写して勧請すと云伝ふ」と記す。天満社は、その昔、古河城構築の際、度々堤が切れ、いたずらに月日を費やし、困難を極めたことから城主自ら天満社と正観音の霊に祈願したところ、霊験により流水が穏やかになり、程なく竣工したため、城主が二神を敬い天神社と正観音を祀ったと伝える。
 なお、別当で、この正観音を境内の観音堂に祀る真言宗正観山真光寺は、古河公方成氏の開基といわれ、古河徳星寺の末社であったが、明治期に廃寺となっている。
 明治五年には前記の天神社ほか六社が当社に合祀され、同時に河川改修により、当社を字北通から現在地に移転した。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                    拝 殿
 当社は向古河の鎮守として、明神様・お鳥様と呼ばれ、子育て・安産の神として、氏子はもとより古河・野木(茨城県)・藤岡(群馬)方面からの参拝が見られたという。参拝する女性たちは、元を半紙で包み麻で結わえた髪の毛を拝殿の格子に下げて祈願し、願いがかなうと礼参りとして鶏を描いた絵馬を上げたという。また、祈願の方法の一つとして特に体の弱い子供は、「麻のように丈夫に育つように」と麻を神社から借り、これを子供の首に掛け自然に切れて落ちるまで首輪としたという風習もあったらしい。
また、当地方は渡良瀬川からの出水が度重なるため、稲藁が取りにくく、藁不足であった。そのため、社前の注連縄に苦労し、神前に上げられる髪の毛をお祈りの込められた「霊力の籠るもの」として注連縄を作り、鳥居に掛けた。この風習は昭和一〇年まで続けられたといい、その後麻に変えられ、更に昭和四〇年からは藁繩を注連縄としている。
        
                 境内に設置されている「
指定有形文化財 板絵着色手習図」
 指定有形文化財 板絵着色手習図
 種別番号  絵画 第五・六号
 指定年月日 昭和五十八年三月二十一日
 管理者   向古河鷲神社氏子
 第五号は、たて一一○センチ、よこ一二二センチ。右端に観音坐像がまつられているので、真光寺の観音堂に掲げられていた絵馬であることがわかる。絵師は不明であるが、個々の人物を写実的にとらえ、全体的には遠近法を用いて、繊細な筆の運びで秀れた描画としている。歴史的資料として貴重であるだけでなく、美術的にも高く評価されている。
 第六号は、たて一一○センチ、よこ一三八センチ。部屋に梅が飾られ、襖に梅の老木が描かれているので、天満宮に掲げられた絵馬であることがわかる。嘉永四(1851)年、一亀斎直照の筆になるもので、おちついた環境を示し、その中で腰をすえて手習をしているという図柄である。ただひとり両手を挙げてあくびをしている筆子が、かえってその静かな雰囲気を強調していておもしろい。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                県道沿いから本殿を撮影
 当社の行事は年間6回行われ、7月の夏祭りが最大の行事である。この行事は合祀社八坂社のもので、天王宮耕地が中心となり行われる。祭り当日には、子笹流と伝えられるササラ(獅子舞)と大杉囃子が、それぞれ道中を組んで当社に集まり、神前に奉納した後、各戸を回り、庭先で行うため、終了するのは夜中になったという。
 
 二の鳥居の先にある手水舎の右側にある力石   一の鳥居の右側で、遊具の近くにある庚申塔 

 庚申塔の右側にある「史蹟万葉古河埜」の碑     「万葉遺跡 古河渡」の案内板
 史蹟万葉古河埜渡
 麻久良我乃許我能和多利乃可良可治乃(まくらがのこがのわたりのからかちの)
 於登太可思母奈宿莫敝兒由恵爾(おとたかしもなねなへこゆゑに) 

 万葉遺跡 古河渡
 万葉時代が編まれた古代、古河から行田にかけて水郷の地でした
 この付近には、古河の渡しがあったといわれ、万葉集に「古河渡」を歌った歌二首が収載されています。
 まくらがの古河の渡りのから梶の
     音高しもな寝なへ子ゆえに
 (古河の渡しに響き渡る梶の音の高さのようにうわさが高いわけがわからない。
 あの人とは何の関わりもないのだから)
 逢はずして行かば惜しけむまくらがの
     古河こぐ船に君も逢はぬかも
 (逢わないまま別れてしまうのは惜しいものです。
 
古河をこぐ舟で逢えたらいいのですが)                碑文・案内板より引用
        
                                境内の一風景
 氏子の間では、昭和年代まで、作神として群馬県板倉町の雷電神社が信仰され、雷電神社日参講がある。これには雷電神社日参講と書かれた幟旗があり、代参当番に当たった二名が早朝神社二参拝し、帰ってくると旗を家の前に立てて置き、夕刻に次の当番の家に渡す。この地は雷電神社が近く、二時間程で往復ができるため、このような参拝の方法をとり、田畑の雷除けをしていたという。

『日本歴史地名大系』「向古河村」の解説
 現北川辺町の北東部、渡良瀬川右岸に位置し、北東は同川を隔てて下総国古河城下船渡町・同国葛飾郡悪戸新田(現茨城県古河市)に対する。同川の船渡しで古河城下日光道中に通じる道があった。南は駒場村、西は柏戸村、北西は同川を隔てて下野国都賀郡下宮村(現栃木県藤岡町)。「頼印大僧正行状絵詞」に至徳三年(一三八六)一一月一〇日のこととして「向イ古河」から出火し、烈しい川風のため、鎌倉公方足利氏満の居所に炎がかかったという。「松陰私語」によると、文明一〇年(一四七八)七月二三日、古河公方足利成氏が成田(現熊谷市)から古河へ帰城の途中「向古河観音堂」で休息している。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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