古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

内田ヶ谷多賀谷神社

 多賀谷氏は道智氏の一族で、武蔵七党のひとつ野与党に属し、道智頼基の子・光基(みつもと)を祖とし、武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷の地頭職として赴任し、本拠地としていた。周辺には、寄居・タテヤマ(館山か)などの、館跡に関する地名が残っている。
 1190年(建久元年)117日、源頼朝上洛の際の先陣の髄兵の中に多賀谷小三郎の名があり、『吾妻鏡』にも御弓始の射手として多賀谷の名が散見される
 吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に多加谷小三郎」
 卷二十一「建暦三年五月二日、和田の乱、北条方たかへの左近は討死す」
 卷三十二「嘉禎四年二月十七日、多賀谷太郎兵衛尉、多賀谷右衛門尉」
 卷四十一「建長三年正月十日、多賀谷弥五郎重茂」
 卷四十六「建長八年正月十三日、多賀谷弥五郎景茂」
 元々、多賀谷郷一帯は小山氏の領の一部であったが、小山義政の乱で功のあった結城氏にこの地が恩賞として与えられるに及び、多賀谷氏は結城氏の家人となり、氏家の代に常陸国下妻へ移住。1440年(永享12年)に勃発した結城合戦では、氏家は落城寸前の結城城から結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)を抱いて脱出して佐竹氏を頼り、後年、結城家の再興に尽くした。
1454年(享徳3年)の享徳の乱では、鎌倉公方足利成氏の命により関東管領上杉憲忠を襲撃。憲忠の首級をあげ、その功により下妻三十三郷を与えられ、「金子に多賀谷という名字と多賀谷の紋(瓜に一文字)を下された」と記していて、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。だが、氏家の弟で結城成朝より1字を受けた多賀谷高経(朝経)が成朝を暗殺したと伝えられる(『結城家之記』『水谷家譜』東大史料本ほか)など、その後は結城氏からの自立を図り、佐竹氏との同盟を強め、反北条氏の立場を鮮明にしてゆく。
 重経の代に最盛期を迎え、領地を20万石にまで拡大。1590年(天正18年)の小田原征伐に参戦して豊臣秀吉から領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参加しなかったため、領地の一部を没収1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいては、家康の再三の出陣要請にも応じず、会津征伐に向かう徳川家康の小山本陣へ夜襲をかけようとした事が露見し、改易された。重経は流浪の末、死去し、その後。多賀谷氏は没落していく。
 ともあれ、戦国時代には20万石の大名として常陸国下妻城主として君臨していた多賀谷氏の故郷が、武蔵国埼玉郡内「田ヶ谷(多賀谷)」地域であったというのも興味深い事である。
        
             
・所在地 埼玉県加須市内田ヶ谷676
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 例大祭 1013
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1176611,139.5456808,16z?entry=ttu

 外田ヶ谷久伊豆神社の南側正面である一の鳥居が接している埼玉県道148号騎西鴻巣線を1.8㎞程東行し、「田ヶ谷小学校前」交差点を右折する。「内田ヶ谷集会所」が左手に見えるすぐ先の丁字路を左折し、左方向に大きく迂回するように進むと民家の間から内田ヶ谷多賀谷神社が見えてくる。
社には専用駐車スペースがないようなので、近場の路肩に停めてから急ぎ参拝を行う。
        
           新川用水(騎西領用水)のすぐ南側に鎮座する社
『日本歴史地名大系』 「内田ヶ谷村」の解説
[現在地名]騎西町内田ヶ谷
正能(しようのう)村・騎西町場(きさいまちば)の西にあり、西は騎西領用水を隔てて外田ヶ谷や村。集落は同用水南岸に沿う自然堤防上に立地する。嘗ては外田ヶ谷村と一村であったが、騎西領本囲いの堤を築いた時、堤防の内となった地域を内田ヶ谷と称した(風土記稿)。
円福寺記録(内閣文庫蔵)に収める多賀谷譜によると、騎西庄多賀谷郷は多賀谷氏の本拠で、字中郷(なかごう)の新義真言宗大福だいふく寺一帯は室町時代の多賀谷館跡と伝える(風土記稿)。
 
     鳥居の上部に掲げてある社号額        鳥居を過ぎてすぐ左側に鎮座する
                             境内社・八坂社
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』には「多賀谷氏」に関して意外と詳しく載せている。長い文章であるので、文脈ごとに最初は「原文」、そして後に現代語での筆者の拙い解説ではあるが載せたいと思う。尚旧漢字も幾つかある為、これも現代漢字に変換して解説を行う。
『新編武蔵風土記稿 内田ヶ谷村条』
=原文=
古は西庄多ヶ谷郷と唱へ多賀谷氏住せしと云、多賀谷記を按るに、武蔵国埼玉郡多賀谷郷の住人、左衛門尉家政は、金子十郎家忠が二男なり、仁元年頼經の随兵たり、其子彌五郎重茂頼嗣に仕へ、建長三年弓始を勤め、其子五郎景茂宗親王に仕へ、康元元年弓始に景茂其器に撰れ、其子彦太郎家經、其子五郎政忠、其子彦太郎家茂相續す」
=現代語訳=
 嘗てこの地は西庄多ヶ谷郷と言い、多賀谷氏が地頭職として赴任して以来、代々この地に住んでいた。多賀谷記という書物では、多賀谷左衛門尉家政は桓武平氏村山党の金子十郎家忠の次男であるともいう。この多賀谷家政は暦仁元年(1238)時の鎌倉将軍である九条頼経(摂家将軍・在位12261244)の随兵として仕えていた。その子彌五郎重茂は鎌倉第5代将軍である九条頼嗣(摂家将軍・在位12441252)に仕え、建長三年(1251)御弓始の射手を勤めた。その子五郎景茂は鎌倉第6代将軍・宗親王(後嵯峨天皇第一皇子・在位12521266)に仕え、康元元年(1256)御弓始の射手に選ばれている。その子供である彦太郎家經から五郎政忠、彦太郎家茂と一族は代々相続されてきた。
*筆者の調べたところ、「吾妻鑑」では嘉禎4年(1238217日九条頼経の随兵として、多賀谷太郎兵衛尉(第21番)、多賀谷右衛門尉(第26番)の名前が出ていて、その2人の内のどちらかではなかろうか。因みに「嘉禎4年」は1123日に「暦仁元年」と改元されているので、そこから上記のミスがあったのだろう。
=原文=
其子彌五郎政朝、下總結城左衛門尉滿廣の子、原五郎光義を聟(娘むすめの夫おっと)となし、家を繼しむ、光義古郷忘れ難く、結城に歸りしかば、嫡子彦四郎氏家を始め、家臣随ひ来ると載たれば、此頃まで當所に住せしなるべし、又村内大福寺の記に、多賀谷氏下妻へ移し時、館蹟へ建立と云事見えたれど、同書に據ば光義當所を去し後、彦四郎氏家一旦常陸に趣き、後寛正年中下妻城を取立住せしとあれば、寺傳こゝより下妻へ移りしといふは誤りなり、その寺の條下に辨せり、且家政重茂等がことは【東鑑】に載する所も多賀谷記と符合せり、又當國七黨系圖野與黨に、道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など云人見ゆ、道地村と云るは、隣村なれば是等の人々も當所に住せしこと知るべし、又外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕へしものなり、其家傳に多賀谷氏の先、頼朝に仕へて、安藝(芸)国藻刈城を賜はり、遥の後宮内少輔武重が時、毛利氏に仕ふと云のみにて、其詳なることは知らず
=現代語訳=
 多賀谷彦太郎家茂の子である彌五郎政朝の代に、下総国・結城左衛門尉滿広の子である原五郎光義を聟(むこ)として向かい入れ、多賀谷氏を相続させたが、光義は故郷である結城、下妻が忘れられず、嫡子彦四郎氏家を始め、一族・家臣も従えて帰ってしまった。尚、光義がこの地から離れた後に、彦四郎氏家は一旦常陸国に赴き、その後寛正年中(14601466)に下妻城に戻ったというが、村内の大福寺の記録には、光義と一緒に彦四郎氏家は下妻へ移ったというが、それは誤りである。
 多賀谷彦太郎家茂以下の事項は「吾妻鑑」にも記載されているので、多賀谷記は信頼できる資料である。また「武蔵七党系図」には道地法花坊・多賀谷次郎光基・同彌三郎某・同三郎重基・同四郎久基など人名が載っている。
*武蔵七党系図
「野与六郎基永―道智法華坊頼意―平太郎頼基―多賀谷二郎光基―弥三郎□□、弟に三郎重基、四郎久基、五郎重光、六郎時員」
 内田ヶ谷村の隣村に「道地村」があるのも、多賀谷氏に関連した地名であろう。また外田ヶ谷村名主太四郎の先祖は、多賀谷氏に仕えていて、その後その一族は安芸国藻刈城を賜り、その後宮内少輔武重の時に毛利氏に仕えたというが、詳しいことは分からない。
=原文=
「當(当)村もとは内外の分ちなかりしが、騎西領本圍(囲)の堤を築し時、堤の内を内田ヶ谷と云ひ、堤の外を牛之助新田と云いが、後は外田ヶ谷と唱へ、二村に分てり」
=現代語訳=
 この村は嘗ては同じ「田ヶ谷村」であったが、騎西領本囲堤を築く際に、堤内を内田ヶ谷と言い、その外側を牛之助新田、その後外田ヶ谷と唱え、二村に分かれた。
        
                                      拝 殿
        
                 拝殿に掲げてある案内板
 多賀谷神社 例大祭 十月十三日
 当社の創建は古く、約五百年前、多賀谷光義が稲荷明神を郭内に勧請したことによるという。光義は敬神の念厚く、その際、牛頭天王・熊野社・弁天社などの社も祀ったと伝えられる。五穀豊穣と福寿に霊験あらたかなことから「福寿稲荷」とも呼ばれた。
 大正四年、これらを合祀したことにより「多賀谷神社」と改称した。主祭神は倉稲魂命で、農業の守り神として崇敬される。
 当社は、かつて米麦の収穫期にコメバツ・ムギバツ(米麦の初穂)と呼ばれる氏子の物納により維持された。現在は米代・麦代として現金を集め、その費用に充てている。
                                      案内板より引用
 
 社殿左側手前に祀られている境内社・天神社     境内東側隅に祀られている石祠。
        
                                   境内の一風景
 多賀谷神社の案内板にある「合祀前の鎮座地」を現在の地図で照合・確認すると、東西の範囲は西側端にある多賀谷神社(元稲荷社)から東側は大福寺を越えて、今の「内田ヶ谷地蔵尊」あたりまでの約1㎞まで。南北に関して北側は新川用水(騎西領用水)、南側は「備前堀用水」の左岸あたりの数百m程と推測されるので、東西に長いかなり大規模な鎮座地であったと思われる。


 ところで、関ヶ原の戦い以後の多賀谷氏は、どうなったのであろうか。佐竹氏から重経の養子となった宣家は、関が原の戦い後、佐竹氏に戻り、兄佐竹義宣の秋田転封に従い檜山城主となり、その後、宣家は出羽亀田藩岩城氏の家督を相続して亀田藩主を継いだ。
 一方、重経の実子・三経は結城秀康(松平秀康)の家臣となり、秀康の越前転封に従って越前松平氏の有力家臣となって、越前丸岡・三国で32千石を領した。三経の一族は1616年(元和2年)三経の子・泰経の死によって断絶したとされるが、血統は存続したという。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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外田ヶ谷久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市外田ケ谷7441
              
・ご祭神 大已貴命
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 どんど焼き 114日 例大祭 121
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1211753,139.530692,17z?entry=ttu

 加須市外田ヶ谷地域は同市西部に位置し、嘗ては旧騎西町に属していた。この社は外田ケ谷地域の北西部で、南東方向から南方向に流れが大きく蛇行する見沼代用水及び騎西領用水の左岸に鎮座している。道路端から続く社の参道が長く、嘗てはさぞ広大な社地を有していたものと思われる。周囲は道路側を除いて田園地帯が広がる中に社は静かに佇んでいる。
       
 経路途中は行田市・関根神社を参照。「関根集落センター」から見沼大用水左岸に沿って伸びる道を東行し、埼玉県道32号鴻巣羽生線との交点を直進する。その後大きく右カーブする先に同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着するので、そこは左折すると、すぐ左手に外田ヶ谷久伊豆神社の一の鳥居が見えてくる。
 但し鳥居周辺には適当な駐車スペースはないので、同県道148号騎西鴻巣線と交わる丁字路に到着する手前の細い道を左折し、社の北側回り込む先にある広い空間に駐車してから、参拝を行う。
        
                           県道沿いに建つ一の鳥居と社号標柱
 駐車した場所から100m程南側に一の鳥居があり、そこまで一旦回り込む必要があるのが意外と面倒であるが、そこは社への挨拶は基本であるため、その労力は惜しずに行う。それにしても一地域の社としては、意外と長い参道である。
        
               一の鳥居を越えた辺りで撮影
               遠くに二の鳥居が見えてくる。
『日本歴史地名大系』 「外田ヶ谷村」の解説
 [現在地名]騎西町外田ヶ谷
 内田ヶ谷や村の西にあり、見沼代用水および騎西領用水の左岸に位置する。田園簿によれば田高五六石余・畑高四三五石余、川越藩領。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本四家の相給。明和七年(一七七〇)と推定されるが幕府領分が川越藩領となり、文政四年(一八二一)上知(松平藩日記)。化政期には同藩領と前記旗本四家領(風土記稿)。幕末の改革組合取調書では旗本五家(前記四家を含む)の相給。検地は正保四年(一六四七)、のち元禄八年(一六九五)平岡次郎右衛門が実施した。

        
                          朱色が特徴的な両部鳥居形式の二の鳥居
 
    二の鳥居上部に掲げてある扁額     二の鳥居から暫く歩くと三の鳥居に達する。

 地域に根を下ろしたまさに「鎮守様」。参道を進みながら思う、この第一印象がピッタリな社である。市街地の社は参道は短いか、参道自体ほとんどない所もあり、「鎮守様」感が損なわれているケースが多々見られる。この社は宅地化された塀や垣根を除くと、囲いのない参道が一本伸びているのみ。その素朴さが却って参道の先にある境内や社殿に対しての、神聖性を徐々に押し上げるような効果があるように、筆者は勝手に解釈してしまうのだ。
 行政区画上、何処までが神社の管理区域なのかも見た目漠然としているので、その事も気になってしまう所ではあるが、その点は優秀な自治体の区域割がしっかりとなされているだろうから、心配しなくても良いだろう。
        
                                  三の鳥居
 三の鳥居を過ぎると、その先は境内となる。左手には社叢林が生い茂り、右手は田園風景に交じり、空間が広がる。左手の社叢林の手前には石碑や記念碑、境内社が並び、右手には、奉納碑や参拝記念碑等が十基整然と並んでいる。       
        
               参道左手に設置されている案内板
 久伊豆神社 例大祭 十二月一日
 当社の創建は不詳であるが、昔、鎮守が無いのを憂えた村人が、騎西・玉敷神社の分霊を祀ったことによるという。主祭神は大己貴命で、福徳を授ける神として崇敬され、明神様、くいず様とも呼ばれる。
 一月十四日には、どんど焼きが行われる。これは正月の餅焼きともいわれ、作物の豊穣を祈る行事である。
*明神様のお使い
 明治四十三年の夏。この地方一帯を大水が襲いました。外田ヶ谷は周りが堤で囲まれていたため、入り込んだ水はたちまち村内に溢れました。
 手を拱いているうちにも水嵩はどんどんと増し、押し入れの中程まで達したときです。突然現われた一匹の大蛇。濁流にもまれながらも、頭を出して南の方へと泳いでいきます。
 ちょうど三間樋あたりでしょうか。堤を数回横切ると、遠くへ消え去ってしまいました。
 後には幾条かの切れ目が生じ、水は堤の外へと流れ出しました。やがて轟音と共 に堤は切れ、水はみるみる引いていきました。
 おかげで村は、大きな被害から免れることが出来ました。村人はこの大蛇こそ明神様のお使いと、深く感謝したと いうことです。
                                      案内板より引用

この昔話は外田ヶ谷地域に伝わるものだが、隣の道地(どうち)地域には、この昔話の続きがある。
暫くして、道地の愛宕様(あたごさま・現在は稲荷神社に合併)の沼に、どうした訳かこの大蛇が棲みついてしまいまった。祟りを恐れた村人は、毎日酒や米をお供えして、やっとのことで沼から出ていってもらったということだ」
                          加須インターネット博物館HPより引用
        
                       参道の長さに比べて小規模でコンパクトな拝殿
 石灯篭の基礎部分は石で補強され、高くなっている。社が鎮座しているこの地は自然堤防上にあるようで、北側の水田地帯よりは12m程高いとはいえ、それでも標高は17m程。見沼台用水が西側近郊に流れていたりして、案内板にも記されている「明治43年の大洪水」以外にも、今まで数多くの水難に見舞われていて、その対策でこのように高くなっているのであろう。
 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
『新編武藏風土記稿 埼玉郡外田ヶ谷村条』には、この社に関して以下の記載がある。

「久伊豆社
 騎西町塲久伊豆の社を勸請して村の鎭守とす、寶正寺持、按に【式神社考】に多氣比賣神社今屬、埼玉郡在西領外田ヶ谷村、祭神栲幡千々命と載たれど騎西町塲より寫せしものにて、本社あらざる事
論なし」

 栲幡千々命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神で、『古事記』では万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫、一書では栲幡千千媛万媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天万栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)、火之戸幡姫児千千姫命(ほのとばたひめこちぢひめのみこと)と表記される「天津神」である。
 葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する女神で、『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んでいる。
 
 『新編武蔵風土記稿』は、江戸幕府直轄の教学機関である「昌平坂学問所地理局」による事業(林述斎・間宮士信ら)で編纂され、1810年(文化7年)に起稿し、1830年(文政13年)に完成した。
 この風土記稿の成立過程において、まず地誌取調書上を武蔵国の各村に提出させたうえ、実際、編集者が実地に出向いて調査したという。調査内容は、自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗など、土地・地域についての全ての事柄にわたる。
『新編武蔵風土記稿』の編集者は、当時の俊才・英才が集うまさにエリート集団であったのであろう。そのエリート集団が、現在「多氣比賣神社」に属し、ご祭神は栲幡千々命と【式神社考】という書物に載せているが、これは「騎西町塲村」に鎮座する社のより「写し」であるので、外田ヶ谷久伊豆神社の御祭神ではないと考察している。
 当時のエリート集団は、ただ室内に籠り、書物に目を通して誤字・脱字等のチェック、記録するのみの集団ではない。実際に現地に赴き、その地の書物を現場で確認するような人々であったのだろう。
江戸幕府直轄の教学機関としてのプライドが成せる責任ある事業だったのであろうし、妥協を許さない、凄まじいほどの知識に対する探究心がこの一文に現れている。
 
社殿左側手前には「社殿修理記念碑」「庚申塚」が並ぶ(写真左)。またその右並びには神橋が設置されていて、その先には「辨財天」の石碑がある(同右)。因みに手前の神橋には「辨天橋」と刻まれている。
 
「辨天橋」の右並びには境内社が鎮座する。左側から境内社・八幡神社、愛宕神社(写真左)、その右側には詳細不明な境内社(同右側)が祀られている。
        
         社殿奥には御嶽神社・氷川神社と刻まれている石碑がある。
       
        社殿右側には敷石奉納碑や伊勢参拝記念碑等が整然と並んでいる。
 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「加須インターネット博物館」
    「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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串作諏訪神社

『日本歴史地名大系』 「串作(くしつくり)村」の解説
 [現在地名]加須市串作
 北は会(あいの)川を境とし、南東は阿良川(あらかわ)村。羽生領に所属(風土記稿)。田園簿では田高一六四石余・畑高四三七石余、ほかに野銭永三二文があり、川越藩領。

 元禄七年(一六九四)には幕府領で高七一六石余(「御検地之節日記」東京都河井家文書)。元禄郷帳では高五三七石余。旗本深尾・藤方・戸田の三給(国立史料館本元禄郷帳)。この三家の相給で幕末まで続いたとみられる(改革組合取調書など)。
        
              
・所在地 埼玉県加須市串作8701
              
・ご祭神 武御名方命 倉稲魂命 市杵島命 少彦名命
              
・社 格 旧串作村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 827
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1360975,139.5237987,17z?entry=ttu

 加須市串作地域。「串作」と書いて、漢字の訓読み通り「くしつくり」と読む。この地域は加須市西端部に位置し、すぐ北側は会(あいの)川を境として羽生市川崎地域、西隣は行田市真名板地域であり、近辺に「羽生イオン」がなければ、何の変哲もない水田等の農地が大部分を占める中、地域の西側で自然堤防上に形成した集落が固まって存在する、閑静な地域である。現在は田園風景が広がる稲作地帯であるが、17世紀半ばに編纂された《武蔵田園簿》によると、田高一六四石余・畑高四三七石余と、田地より畑地の方が遙かに多かったようだ。
 
串作(くしつくり)の地名由来に関して、しっかりと記載されている資料がない。また同じ地名も少ないので、「串」のつく地名がある、数ある信頼し得るHPを参照し、それを総合して解釈すると、以下のようになる。
串(くし)」とは砂丘や小丘の高まりを意味する言葉であり、長く連なった丘状地形との記載が多い。川の流れによって出来た堤防がこの地に連なっていたことから付いた地名という。また「串」は物を連ねる棒のことで、アイヌ語のクシは「越える」、琉球語のクシも「越えること」、朝鮮語のクシは「岬」のこと(民俗地名語彙辞典)』
        
                  串作諏訪神社正面
 串作諏訪神社への途中経路は真名板高山古墳を参照。埼玉県道128号熊谷羽生線を加須市方向に進み、「真名板」交差点を右折、県道32号鴻巣羽生線合流後650m程南下する。「薬師堂前」交差点を左折後、700m程先の十字路を右折し暫く進むと左手に串作諏訪神社の境内が見えてくる。
 境内南側には駐車可能な駐車スペース(数台分)もあり、そこに停めてから参拝を行った。       
        
         鳥居の手前で参道右側に祀られている「塞神」の石碑と「力石」
 力石 (ちからいし)
 力石は、重さ200㎏近いものもあるように、大きくて重い石です。「源義家の腰掛石」や「武蔵弁慶がちぎって投げた石」など、武勇に優れた英雄に因む伝説があります。
 江戸時代頃から神社などの祭礼の場で、若衆たちの娯楽として肩に担ぎ上げたり、頭上に差し上げたりする力試しが親しまれるようになりました。そして、代々、力石を神社に奉納することが習わしとなったとも言われています。
 ここ、諏訪神社の祭礼の折にも、先人たちによる力試しの催しが行われていたようです。
 令和元年五月 串作諏訪神社
                                      説明板より引用
        
                          青空に映える白色の明神鳥居
 鳥居を過ぎて暫く参道を真っ直ぐ進むが、途中から右側直角に曲がる形式となっていて、境内は右方向に広がり、社殿も右側に建っている。
 真っ直ぐ進む参道途中には、幾多の石碑、境内社等が設置・祀られている。          
   鳥居の先で参道左側に設置されている      参道右側にある境内社、詳細不明。
         「
串作諏訪神社御造営の碑」      字北の頭殿社・字須崎の厳島社であろうか。
 
  「串作諏訪神社御造営の碑」の並びに           参道が右方向に曲がる先にある
祀られている境内社。左側八坂社・右側産泰大神        境内社・稲荷社
        
                     拝 殿
 当神社の由緒は不詳ですが、古くから串作の鎮守として祀られており、「風土記稿」 にも「諏訪社 村の鎮守なり」と記載されています。
 明治以前は、真言宗観音寺の持ちでしたが神仏分離によりその管理を離れ、明治五年に村社となり、同四十一年八月二十二日に字内野の稲荷社、字北の頭殿社、字須崎の厳島社を合祀し、更に、戦後になって、字東の八坂神社も合祀しています。
 主祭神は武御名方命で、大国主神さまの次男にあたられる神さまで、狩猟・農業の神さまとして信仰される一方、ことに武勇にすぐれた神さまとしても知られ、戦国時代に武田氏の守護神として、武士の尊崇もことのほか厚かったようです。
 現在の本殿及び旧拝殿は、明治十九年九月二十七日に建造されたもので、本殿を除く拝殿、覆屋は近年老朽化が甚だしく、年々営繕を繰り返してまいりましたが、その限界となり、有志の方々より改築の議がおこり、この地に生まれ育った大竹榮一氏より崇敬の念厚く、多額の浄財の寄進の申し出があり、一気に社殿御造営への気運が高まり、この度の施工をみたのであります。
 平成二十三年八月二十四日に奉祝祭を斎行し、ご神徳を仰ぎ、神威を昂揚し崇敬の誠を碑に刻み弥栄を記念するものであります。
平成二十三年八月吉日
                            「串作諏訪神社御造営の碑」より引用

        
                      社殿全体を撮影。右側が本殿部。
       
    社殿左側にはこのような大木が聳え立つ(写真左・右)。周りを網で覆っている。
                 ご神木の類であろうか。


 ところで「串」のつく地名に関して雑学を幾つか紹介しよう。この「串」のつく地名は、特に西日本の海岸に多ようだ。「串」地名が「岬」の地名に多いのは、朝鮮語の「コス」(岬の意味)から来ているという説がある。また海岸の崩壊地関係の「串」地名も多数存在し、斜面の傾斜地や海岸段丘崖を背にした小低地に多く見られるとの事だ。
 
  大木の北側近辺に祀る「辨才天」等の石碑       境内北側隅には「二十二夜塔」
      左側に石碑は不明          ・菩薩様像等が並んで祀られている。
        
                        手入れも行き届いている綺麗な社

「串」と「櫛」は同じ語源ともいう。櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(くすし)」や「聖(くしび)」との音の共通性から呪力を持つものとして扱われた。語の読みからは「苦死」に通じるため、贈り物にするときは、忌み言葉として「かんざし」と呼んだそうだ。
『古事記』には、伊邪那岐命が、妻の伊邪那美命が差し向けた追っ手(黄泉醜女)から逃れるために、櫛の歯を後ろに投げ捨てたところ筍に変わり、黄泉醜女がそれを食べている間に逃げることができたという記述がある。同じく『古事記』で大蛇を退治しに出向く須佐之男命は櫛名田比売を櫛に変えて自分の髪に挿した。
「串」というと美味しい食べ物を連想するほど串料理を連想するが、「串」の歴史も古く、神事を行う場所で、木竹などの串に玉がついたものをお供えしていたことから「玉串」と呼ばれ、神事のお供え串があったという。現在では榊や竹に麻や木綿、紙などをつけたものになっているが、「玉串礼拝」とも呼ばれ、礼拝する者の敬意や、神威を受ける為に祈りを込めて捧げるものとして、特別な意味を持つという。

 地名一つとってもその由来には幾つもの説があり、そこには淵源とした歴史の深さを感じる。少しの時間で全てを証明すること自体が無理なのであろう。その限られた時間の中で考察する楽しみもあるのだが。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「クニの部屋 -北武蔵の風土記-
    「四万十川地名辞典」「境内碑文・説明板」等

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上樋遣川御室社

 樋遣川古墳群(ひやりかわこふんぐん)は、埼玉県加須市にある古墳群である。新編武蔵風土記稿の樋遣川村の項に、「穴咋塚、諸塚、石子塚、稲荷塚、浅間塚、宝塚、宮西塚。以上の塚を樋遣川の七塚という」とある。 河川の氾濫や開墾などで現在、ほとんどの古墳は削平されているが、 諸塚古墳、浅間塚古墳、 稲荷塚古墳の3基の円墳が残っているのみであるが、1956年(昭和31年)416日、諸塚古墳・浅間塚古墳・稲荷塚古墳の3基が市史跡に指定。1976年(昭和51年)101日、県の重要遺跡に指定されている。
その中で直径約40m、高さ約5mの円墳で、樋遣川古墳群の中で最大規模を誇る諸塚古墳があり、墳頂部には御室別王を祀った御室社が鎮座している。
・所在地   埼玉県加須市上樋遣川4396
・御祭神   三諸別王(みもろわけおう)
・社  挌   旧村社
・例  祭   315日春祭・731日夏越大祓・1115日秋祭
       
 上樋遣川御室社は埼玉県道46号(加須北川辺線)を北川辺方面に道なりに北上し、樋遣川交差点先の押ボタン式の信号前方にある斜め右側方向に進む道路を右折し、2番目のT字路を左折、そのまま5分程進むと正面左側に上樋遣川御室社の社叢が見えてくる。
 神社に隣接している綺麗に舗装された駐車場に車を停めて参拝を行った。
      
         参道前にある社号標      静かな佇まいのある参道を進む
 上樋遣川御室社のご祭神である御諸別王(みもろわけのおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖。『日本書紀』では「御諸別王」、他文献では「大御諸別命」「御諸別命」「弥母里別命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇
568月条によると、任地に赴く前に亡くなった父の彦狭島王に代わり、東国統治を命じられ善政をしいたという。蝦夷の騒動に対しても速やかに平定したことや、子孫は東国にある旨が記載されている。
 『日本書紀』崇神天皇段では上毛野君・下毛野君の祖として豊城入彦命の記載があるが東国には至っておらず、孫の彦狭島王も都督に任じられたが赴任途上で亡くなっている。東国に赴いたのは御諸別王が最初であり、御諸別王が実質的な毛野氏族の祖といえる。
 また
新編武蔵風土記稿や武蔵国郡村誌には、樋遣川の由来について記されている。古くからこの村は穴咋村(あなくい)と称していた。景行天皇(古代の天皇で実在は不明。ヤマトタケルの父)の時代、天皇の命を受けた御室別命(みむろわけのみこと)が東国を治めるさいにこの地の賊徒を退治するために、火やり(ヒヤリ)を放ち、一面が火の海に化したことから、以後、樋遣川と呼ばれるようになったとある。
       
            参道に掲げている「御室塚古墳」の説明板
       
                 「御室社」説明板
      
         比較的長い参道の先に鳥居があり、その先には神門もある。
       
              古墳上に鎮座する上樋遣川御室社
                 このアングルも美しい
 系図を調べると、
彦狭島王(ひこさしまおう)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)である。豊城入彦命(崇神天皇皇子)の孫で、御諸別王の父である。『日本書紀』では「彦狭島王」、他文献では「彦狭島命」とも表記される。
『日本書紀』景行天皇552月条によると、彦狭島王は東山道十五国都督に任じられたが、春日の穴咋邑(アナクヒノムラ)に至り病死した。東国の百姓はこれを悲しみ、その遺骸を盗み上野国に葬ったという。同書景行天皇568月条には、子の御諸別王が彦狭島王に代わって東国を治め、その子孫が東国にいるとある。
『先代旧事本紀』「国造本紀」上毛野国造条では、崇神天皇年間に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時、国造に封ぜられたとしている。
 また『日本書紀』等では豊城入彦命の子として八綱田命があり、彦狭島王の父とされるが、御諸別王の活動年代を考えると実際には八綱田命と彦狭島王が同一人物であったとも言われている。八綱田命は『日本書紀』には「上毛野君遠祖」とあるのみで系譜の記載はないが、『新撰姓氏録』によると豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子であるといい、また彦狭島王の父とされる。『日本書紀』垂仁天皇510月条によると、八綱田は狭穂彦王の反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城の攻撃を命じられた。八綱田は稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。この功により「倭日向武日向彦八綱田」の号が授けられたという。
 同時に日本書紀』崇神天皇段には、豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖であり、三輪山に登って東に向かい槍や刀を振り回す夢を見たと記されている。三輪山の位置する大和国城上郡には式内大社として神坐日向神社が記載されていることから、「倭日向建日向」の名はヤマト王権の東国経営に従った上毛野氏の任務を象徴するものと解されている。
       
                     拝  殿
              
                    本  殿
 ところで『日本書紀』景行天皇552月「彦狭島王は東山道十五国都督に任じられた」との記述がある。「東山道」とは古代官道の一つで、
従来説によれば、「五畿七道」の「畿」とは帝都の意味であり、帝都周辺を「畿内」その周辺五ヵ国を「五畿」とし、畿内周辺国を「近畿」とし、「七道」とは、東日本の太平洋側を「東海道」、日本海側を「北陸道」「山陰道」、中央山間部から東北を「東山道」、畿内から南西を「山陽道」、四国を「南海道」、九州を「西海道」としている。東山道は『日本書紀』天武天皇一四年七月辛未条の詔は「東山道は美濃より以東」と記載されている。令制施行と同時期に範囲が確定したとされ、『延喜式』民部省式上巻では近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の8国を東山道としている。(宝亀二年(七七一)までは東山道であった武蔵国を加えると9か国)
 しかし『日本書紀』での記述でこの「東山道」が「十五國」だといっている。それ故か「東方諸国を示す語として用いられたもので、古道そのものを意味してはいない」との苦し紛れな解釈を持ち出す学者の方までいるとの事だ。

 更に
『日本書紀』景行天皇552月条の文面には、記述自体に(?)と思われる部分もあり、原文と現代語訳に分けて記載する。
【原文】
十二月、從東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。五十四年秋九月辛卯朔己酉、自伊勢還、於倭居纏向宮。五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五国都督、是豊城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東国百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野国。
【現代語訳】
(即位53年)12月に東国(アズマ)より帰ってきて伊勢にいました。これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます。即位54年の秋919日。伊勢から倭(ヤマト)に帰って纒向宮(マキムクノミヤ)にいました。
即位55年の春25日。彦狹嶋王(ヒサシマノミコ)に東山道(ヤマノミチ)の十五国の都督が参拝しました。(彦狹嶋王は)豊城命(トヨキノミコト=崇神天皇の子で垂仁天皇の兄)の孫ですが、春日の穴咋村(アナクイノムラ=奈良市古市)に到着して、病に伏し亡くなってしまいました。この時、東国の百姓はその王が到着しないことを悲しんで、密かに王の尸(カバネ=遺体)を盗んで上野国に葬りました。

 豊城命の孫にあたる彦狹嶋王が東国の15国を統治することになったが、その道程で病死した。その病死した肢体を(百姓が)盗んで上野国へと持って行って葬った・・・・
 ありうることであろうか。第一に東國の百姓が、会ったこともない未知の人物である彦狹嶋王の遺体を盗み上野國に葬ったというのは実に奇妙な話である。
 第二に百歩譲って盗まれた側の対応がお粗末である。彦狹嶋王が率いていた軍兵のすべてが盗まれた側も全く気付かず、そのまま放置するであろうか。大和王権に繋がる貴種であることは間違いない。ところが気づいたとしても、取り戻したことや、その後の顛末等も含め、国史である「日本書紀」の文面からは何も対応した形跡が見られない。日本書紀は天武天皇の命により、30年余の年月を経て編纂された国史であり、その文章自体、一文・一字にも何度も編集され完成された書物である。それ故にこの文面には疑問が残る。
     
       神門脇に佇む八幡・雷社        拝殿脇には祠あり
             
              参道を進む途中にある八坂神社
 羽生市下村君地区には「おかえり」といわれる里帰りの神事が古くから伝えられている。羽生の鷲宮神社で明治40年頃まで行われていたという。その神事において誰が里帰りをしていたかというと、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の三世孫で、彦狭島王の子であり毛野氏の祖である「御諸別王」(みもろわけのおう)の娘と言い伝えられている。どこへ帰っていたかというと、加須の樋遣川(ひやりかわ)にある「御室社」だった。先頭に神主、姫の代わりの神輿をかつぎ、御鏡と赤飯を乗せた馬を引き、鷲宮神社から御室神社へ里帰りをしたという。
「御室社」が鎮座する墳丘は諸塚古墳、別名御室塚とも言われているが、この古墳には明治34年、内務省が上毛野国造・御諸別王(豊城入彦命の曾孫)陵墓伝説地として調査したことがあるというから決してこの伝承、伝説が眉唾ものではないということが、時の為政者の調査によって逆に証明されたようなものだと思われる。
 陵墓候補地として、年代的には一致しないとの見解もあるようで、群馬県内にも御諸別王の墳墓と伝承される古墳は複数存在し、現在では、御諸別王の陵墓ではなく、この地の有力者の墳墓と考えられているようだ。だが少なくともこの樋遣川から下村君一帯のどかな田園風景の中に佇む古墳群には、そんな古代ロマンがあふれているということだ。
          
       庚申塚の隣には男根の形をした石棒もあり。安産の神様として、
           近郷近在の人々から信仰されているという。
       
          静寂の中にも厳かに鎮座するイメージが似合う社
 利根川の堤防を除いては、平坦地の多い当地だが、この神社は、小高い塚の上に鎮座している。伝承・伝説の真偽はさておき、風格のある社である事は確かである。


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麦倉八坂神社

 旧埼玉県北埼玉郡北川辺町は埼玉県北東端部にかつて存在していた町で、人口は2010年時点で約1万3000人。この北川辺町は埼玉県で唯一町全体が利根川の左岸に位置し、地形上、西側の群馬県とは陸続きで、北側の栃木県とは渡瀬遊水地を、また東側の茨城県とは渡良瀬川を通じて接している。
 この地域は、渡良瀬川と利根川の合流地点西側にあり、別名「水輪のまち」とも言われ、国土交通省が認定している「水の郷百選」に指定されている。ちなみに「水の郷」とは水環境保全の重要性について広く国民にPRし、水を守り、水を活かした地域づくりを推進するため、地域固有の水をめぐる歴史・文化や優れた水環境の保持・保全に 努め、水と人との密接なつながりを形成し、水を活かしたまちづくりに優れた成果を上げている107地域のことをいう。
 この旧北川辺町麦倉地区には麦倉八坂神社が鎮座している。
所在地   埼玉県加須市麦倉2552
御祭神   素戔嗚命
社  挌   旧村社
例  祭   不明

        
 麦倉八坂神社は「道の駅 おおとね」から埼玉県道46号加須北川辺線を北上し、利根川に架かっている埼玉大橋を越えると左手側にこの社の社叢が見えてくる。ちなみにこの「麦倉」という地名の由来は、、『新編武蔵風土記稿』によれば明応年間(1492~1500)で、古河公方足利成氏の家臣石川権頭義俊がこの地に陣屋を構えたという。その末裔が、代々この陣屋に住み百人余名の武士が詰めていたと伝わる。それ以前はこの地を倚井(よりい)と呼んでいたが、明応元年(1492)に麦倉と呼ぶようになったという。
           
                           八坂神社正面参道
            
                              二の鳥居

 社殿の手前左側には多数の石祠とその中央には巨大な古木が存在する。写真左側には勝軍地蔵と青面金剛の石祠があり、巨木を挟んでその並びには(写真右)また青面金剛の石祠と出羽三山石碑、そして伊勢太廟参拝碑があり、この伊勢太廟参拝碑は加須市有形文化財(昭和57年12月7日)に指定されている。
                  
            
                              拝    殿
 
         拝殿に掲げてある「八坂神社」の額                  本    殿
            
鈴木弘覚翁碑
 鈴木弘覚、三重県三重郡菰野町に生まれ、長ずるに及んで京都に遊び、頼山陽・支峰・広瀬淡窓に学んで勤王の志士と交わり、尊皇攘夷をはかり、追われました。後に栃木県の庚申山にこもり、戒行に専念していましたが、縁あって北川辺(旧利島村内野)の薬師堂に住みました。道場を開いて青少年に手習を教え、特に養蚕を奨励し、実習地を設け、桑を栽培したり、優良な種子を配布して農事改良に一生を尽くした。明治26年12月23日病没、享年72歳。同28年11月村民相謀って詳伝を刻んだ記念碑を建て、その遺徳を敬慕しました。書は明治の書家渡辺沙鴎である。
           
                             八坂神社遠景

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