古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

伊賀袋浅間神社

 下河辺 行平(しもこうべ ゆきひら)は、 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。記録は十分ではないが、『吾妻鏡』などの記述で、その行跡を知ることができる。
 下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門。下河辺行義の代に源頼政の支援の下に下河辺荘が成立して、嫡流の小山氏から自立した勢力となった。頼政敗死以後、行平は源頼朝の信頼を得ることで、引き続き下河辺荘を維持した。
 行平は下河辺荘の荘司であった。下河辺荘は、かつての渡良瀬川下流にあたる太日川と旧利根川(現在の江戸川と中川)に沿って広がる荘園であった。その領域は当時の下総国葛飾郡にまたがり、平坦で低地が多かった。八条院領の寄進系荘園だったが、頼朝からも改めて安堵された。
 治承4(1180)年、以仁王と源頼政の挙兵を源頼朝に伝え、頼朝の挙兵に参加。その軍功で下河辺荘を安堵され、以後有力御家人となった。頼朝の信任が厚く、養和1(1181)年、頼朝の寝所近辺祗候衆のひとりに選ばれ、鶴岡若宮上棟の際には頼朝の命を狙った男を捕らえ、その功により貢馬を免除された。平家追討・奥州合戦では、その武勇を示した。弓芸に秀で,流鏑馬・弓始・鹿狩りなどで何度も射手を勤め,のち頼家の弓の師範となった。建久6(1195)年、源家門葉に準ぜられたが、畠山重忠の乱(1205)以後の動向は不明である。
        
              
・所在地 埼玉県加須市伊賀袋47
              ・ご祭神 木花咲耶姫命
              
・社 格 旧村社
              ・例祭等 例祭(夏祭り) 71
 加須市・伊賀袋地域は、渡良瀬旧川の屈曲した所の右岸内域に位置する。この地域は、蛇行する渡良瀬旧川の内側にあるため、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになり、田畑耕作地として最適な地であるという。
 駒場鷲神社から埼玉県道368号飯積向古河線を北東方面に500m程進み、用水路を過ぎた十字路を右折する。そのまま道なりに600m程進むと、民家が建ち並ぶ一角に伊賀袋浅間神社が右手方向に見えてくる。
        
             自然堤防上に鎮座する伊賀袋浅間神社
『日本歴史地名大系 』「伊賀袋村」の解説
 下総国葛飾郡に属する。渡良瀬川が屈曲した所の右岸に位置し、渡良瀬川を隔てて北は向古河(むこうこが)村、東は下総国葛飾郡新久田(あらくだ)村・立崎(たつさき)村(現茨城県古河市)。地名は渡良瀬川の屈曲した低地にあったことによるという。
 天正一八年(一五九〇)九月二〇日、豊臣秀吉が古河公方足利義氏の女氏姫に宛行った三三二石のうちに「こがの内いかふくろ」四四石三斗があった(「豊臣秀吉印判状」喜連川文書)。慶長五年(一六〇〇)五月二日、氏姫は当地「ふしやま」(浅間神社か)の別当に向古河真光寺を補任している(「足利氏姫補任状写」武州文書)。「寛文朱印留」に村名がみえ、元禄郷帳では高八四石余。天保五年(一八三四)には六六石余の前々改出新田を加えて一五一石余(「御領分郷村高帳」茨城県蔭山家文書)。

 慶長5年(1600年)に古河公方足利家の氏姫により、渡良瀬川対岸にある伊賀袋村の浅間神社別当寺に任じられた「向古河真光寺」は古河公方ゆかりの寺院である。新義真言宗の寺院であり、「正観山薬法院慈眼坊」とも号し、隣接する茨城県古河市徳星寺の末寺で、「真光院」とも呼ばれた。残念ながら現在は廃寺で、寺跡は加須市の指定文化財(史跡)になっている。
 創建の経緯は不明だが、『古河志』に引用されている寺記『武州埼玉郡真光院来由記』によれば、戦国時代の文明年間(1469年〜1486年)、古河公方足利氏出身の万慶により中興した。『古河志』には里俗の伝承として、当寺の本堂・客殿は公方の居所にあった建物の一部を移したとも紹介されている。なお『新編武蔵風土記稿』によれば、文明年間の僧・万慶は中興ではなく開山とされている。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
 浅間神社  北川辺町伊賀袋四七(伊賀袋字浅間前)
 伊賀袋は、渡良瀬川の蛇行により形成された袋状の地形にちなむ地名であるといわれ、地味豊かで耕地に適しているため、古代より人が居住したと伝える。
 建治年間、上野国より江田伊賀守政氏の一族が移り住み、神職として人々を指導し開発に努力したので伊賀守の「伊賀」を冠して伊賀袋と称するようになったといわれ、慶長五年の『鴻巣御所足利義氏女証状』に「いがふくろ」とあるのが初見であり、古くは古賀藩領に属している。
 当社は村の見渡せる自然堤防上に鎮座する。社伝によれば、建久四年五月征夷大将軍源頼朝が富士の裾野で催した大巻狩りに加わった頼朝の臣、下河辺の荘司下河辺行平が最初の古河城主となった際、駿河国の一の宮富士浅間大神の分霊をこの地に勧請したものと伝え、以来領主をはじめ住民の崇敬きわめて篤く、隆盛をみたという。
 明治十四年六月に瓦葺本殿を再建する。明治二十八年に村社となり同三十九年には八幡・香取両社を合祀した。昭和五〇年、本殿を改築し藁葺きの拝殿を銅板葺きに改めた。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
        
                    本 殿 
 祭神は「木花咲耶姫命」を祀り、氏子からは浅間様(せんげんさま)と呼ばれており、特に女性の信者が多かったという。嘗て奉納絵馬には女性名で大願成就と書かれた小絵馬が多く見られた。口碑には「湯を浴びて体を休められるのが一番の御利益であった」とあり、きびしい当時の生活の中で当社にある籠もり堂の「神湯(しんとう)」と呼ばれる湯殿に入浴して祈願すると、難病もたちまち全快するという神威は有難いものであったであろう。
 ある年、古河公方の奥方が病気平癒祈願成就のため神田を寄進したと伝えられ、この神湯に浴して治癒したといわれている。この籠もり堂では自炊しながらお籠りをしたもので、炊事場に諸道具が備えられており、大正の頃まではにぎわったという。現在は改築され、集会所として氏子に利用されているとの事だ。
 
 社殿の左側に祀られている境内社と石碑二基   境内左側奥に祀られている境内社と石祠二基
  境内社は不明。一番右側の石碑は大六天   左から三峯神社・下浅間社、石祠二基は大六天

  左から元禄15年(17029月造立の庚申塔                青面金剛と第六天
 観音像・庚申供養塔。一番右側の石碑は不詳。 この社には「第(大)六天の石碑や石祠が多い。
                
   石段下に設置されている「富士浅間神社の由緒と伊賀袋の起源と変遷」の石碑
「富士浅間神社の由緒と伊賀袋の起源と変遷」
祭神 木花咲耶姫命
当社は一一三三(建久四)年五月 征夷大将軍源頼朝が富士の裾野に大巻狩りを催した時 これに参加した頼朝の股肱の臣 下河辺の荘司 最初の古河城主 下河辺行平が駿河国の一の宮 富士浅間大神の分霊をこの地に勧請したものと伝えられる ここは渡良瀬川の自然堤防上にあり 清流に青松の影をうつして風光明媚 神社を祀るに相応しい所である 爾来 領主をはじめ 住民の崇敬きわめて篤く 隆盛をきわめた
一三三八(建武四)年 新田義重の孫 江田氏の祖 三河守賴氏より五代の裔 伊賀守政氏が足利尊氏との戦いに敗れてこの地に亡命 浅間神社に仮寓し 後に神官となって土着し 代々開発に努力した それまでは 単に「袋」と呼んでいた地名に 伊賀守の名を冠して「伊賀袋」と呼称するようになった 「袋」とは 河川の屈曲して流れる所に造成された袋状の台地で 地味豊かにして農耕に適しているため 古代より人の住居したところである 因みに当地からは 古墳時代初期の 和泉式土器が出土している
一四五五(康正元)年 足利成氏が古河公方となると 浅間神社は公方関基の向古河村 真光寺の管轄となった ある年 公方の奥方が病気になった時 平癒祈願成就のため 公方より神田を寄進された。同社には古來籠り堂に神湯の設備があって これに浴して祈願すると 難病も忽ち全快するといわれ 参籠者の絶えることがなかったという 夏と秋の大祭には参拝者に神酒や甘酒を饗し 芝居や相撲などを催して賑った これまでにいくたびか社殿の新改築が行われたと思われるが その記録をとどめない 一八八一(明治十四)年六月 瓦葺きの本殿を新築して面目を一新し 同二十八年に村社に昇格した さらに三十九年に 八幡・香取の両神が合祀された
このたび氏子多年の念願がかなって 本殿を改築し 茅葺の拝殿をとりこわして新築し 共に銅版葺きにしたので 威容ととのい 境内の老松古柏のなかに一段と尊厳をそなえた
伊賀袋村は 古くは下河辺荘といわれ 下総国西葛飾郡に属し古河藩領であったが 明治四年の廃藩置県後茨城県となり 同二十一年 猿島郡新郷村大字伊賀袋となった 大正初期まで神社の裏に渡し場があり 古河へ通ずる主要な場所であった またこの辺りから河流が左折するので急流となり遡航する高瀬舟の船頭達に「おせんげんの難所」といわれて警戒されていた 当地は河川に接しているため 堤防の決潰によりたびたび水害を蒙った
大正初年 河川改修により川の西側となり 昭和五年七月県境変更 埼玉県北埼玉郡川辺村に編入された 昭和三十年耕地整理を実施し 同年の町村合併で利島村と合併 北川辺村となり 同四十六年 町制施行で北川辺町となって現在に至る
ここに社殿の新築を記念して その由來を碑に誌し 社前に奉納して 永く後世に伝えんとする所以である(以下略)
                                       碑文より引用
        
              境内に一際目立つ大松の見事な枝ぶり
  奥に「伊賀袋自治会集会所」が見え、その左側に「観音」「不動」の小さいお堂がある。

 祭礼の中に「霜月十五日」と呼ばれる祭りがある。その名の通り古くは11月であったが、現在は12月15日が祭日である。これは新嘗祭であり、今では「甘酒祭り」の名で通っている。
 氏子から集まられた新米で甘酒が作られ、祭り当日に参拝者に振る舞われる。これは古くから伝わる行事で、一説には御神酒の飲めない女性に勧めたのが始まりといわれている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内石碑文」等


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駒場鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市駒場24
              ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              ・社 格 旧駒場村鎮守
              ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り(新嘗祭) 1123
 旧北川辺町・駒場地域は、渡良瀬川が蛇行した末にできた三日月湖のような「渡良瀬旧川」の西側に位置していて、平均標高11m12m程、集落は平均標高よりやや高い14m程の旧川の堤上に点在している。この地域には飛び地が存在していて、地域の南東方向にあり、前谷地域と本郷地域の間に字三軒家(さんげんや)と称している場所で、丁度、渡良瀬旧川の南東端部の南側に東西650m程、南北330m程の張り出し部のある四角形の形状をした地である。
 また、この地域は平均標高でもわかるように、水害による田畑などの損失が頻繁な地域であり、『田園簿』では「水損場」と記されている。
        
                  駒場鷲神社正面
 栄八幡宮の南側に面している東西に延びている農道を800m程東行すると、正面やや左手に駒場鷲神社が見えてくる。社の東側には駒場集会所があり、そこには若干の駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                 駒場鷲神社 境内の様子
 一見、高台の上に社は鎮座しているように見えるが、入口から下がる石段があり、その先に一の鳥居があり、参道を進んだ先に二の鳥居、そして上り階段上に社殿がある。右隣には埼玉県道368号飯積向古河線が通っているが、その県道との標高差は全くない。つまり、県道の下に社殿を抜かした境内が存在しているという不思議な位置関係なのである。
 推測するに、この県道自体が渡良瀬旧川の堤上に出来ているのであり、その県道の両脇の場所が一段低くなっているのも当然のことといえよう。
        
                    拝 殿
『新編武藏風土記稿 駒場村』
 鷲明神社 村の鎭守にして萬治二年勸請と云、光明院持、

 鷲神社(みょうじんさま) 北川辺町駒場二四(駒場字大道東)
 当地は東境に旧渡良瀬川が流れ、この堤上に点在する集落で、大字伊賀袋と本郷に挟まれ、東南部に飛び地(字駒場三軒)を持ち、古くは牧場があった所と伝えられる。
『風土記稿』によると元亀年中、高橋右近、左近という二名の者が移住してこの土地を開き、右近は農家となり大いに栄えたという。
 当社は『明細帳』によると、村の開発から九〇年ほど下った万治二年に北葛飾郡鷲ノ宮の鷲神社より勧請とあるが、一間社流造りの本殿に祀られる幣帛には「文禄元壬辰年九月」の墨書があり、『明細帳』より七〇年さかのぼる。さらに墨書には「別当宝蔵山光明院」とあるが、この寺は文禄元年起立と『風土記稿』に見え、当社はその時期が同一である。なお、光明院は明治の初めに廃寺となっている。
 祭神は天穂日命・武夷鳥命の二柱であり、明治期の合祀は行われていない。
 境内末社には、天明四年氏子鈴木某が祀ったという疱瘡神社が本殿右側にある。飛び地境内末社には、前述の若宮八幡社と下総古河藩士が祀った神社の一つといわれる大六天神社がある。
*平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   社殿石段下にある「駒場鷲神社改築・   記念碑の左隣にある「十九夜供養塔」二基と 
     大六天神社新築記念碑」        延宝八年正月と刻印された「庚申塔」
        
            社殿右隣に祀られている境内社・
疱瘡神社
 当社の氏子たちは鷲宮町(現久喜市鷲宮)の鷲宮神社を本社と意識しており、四月一〇日の春祭りのときには、当番が鷲宮まで出掛け、神前へ玉串を奉奠(典)するとともに、各耕地分の神札を受けてくることを習わしとしているという。
 
また、飛び地境内末社の若宮八幡社は、三軒耕地の六戸が社を護り、四月一五日に祭りを行っている。
        
                一段低くなっている境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」標高、緯度と経度を調べる地図」等
 

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栄鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市栄2167
              
・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
              
・社 格 旧大曾村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭(大杉囃子) 415
 麦倉八坂神社から利根川に沿って走る埼玉県道368号飯積向古河線を程東行する。進行方向右手には利根川の土手が延々と続き、対して左手は民家が点々と見える以外は長閑な田畑風景が広がる里風景を眺めながら、1.2㎞程行った先の十字路を左折し、北上する。暫く進むと進行方向右手前方に、田畑風景の中にポツンとこんもりとした栄鷲神社の社叢林が見えてくる。
 正面鳥居の向かい側に専用駐車スペースあり。
        
                  
栄鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「大曾村(おおぞむら)」の解説
 利根川左岸に位置し、東は前谷村と飯積村の飛地高野新田、南は利根川を隔てて弥兵衛村(現大利根町)。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一一月七日条に、当日入洛した将軍源頼朝の随兵としてみえる大曾四郎を当地出身の武士とする説(風土記稿)がある。田園簿では水損場と記され、田高七五石余・畑高六二石余であるが、明和九年(一七七二)七八石余が高入れされており、新田が開発されていた(「古河御領分村高米大豆御上納高」田口家文書)。
        
             社は標高12m程の低地上に鎮座している。
      水害を避けるためなのだろうかか、小高い盛り土の上に建てられている。
 加須市栄地域は、明治98月に嘗ての前谷村と大曽村が合併したときに定められた名称であり、現在の「栄東」は旧前谷村、「栄西」が旧大曽村にあたり、旧大曾村鎮守であった栄鷲神社は別名栄西鷲神社とも称していて、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。
        
         鳥居の右側に設置されている「渡良瀨川重助裏護岸工之図」
 加須市指定文化財 渡良瀨川重助裏護岸工之図
 種番号 歴史資料第四号
 指定年月日 昭和五十六年三月九日
 管理者 栄西・鷲神社
 縦九一・三センチ、横一三六・五センチ。露月樓穣窓の筆になる絵馬である。現在の旧川が「く」の字形にまがった地点における護岸工事を描いたもので、右下の紅白の内務省旗をかかげたところで二人の監督官と三十人の工夫が土俵・石・その他の資材を積んだ舟を左右に動かして水制工事を進めている。河道には通運丸・高瀬舟・渡舟が描かれ、小段を石で強化した堤防上の馬踏には道が通じ通行人が描かれ、堤防に膚接して並ぶ農家のたたずまいにも注目に値するものがあり、遠景に富士山を配して方角を表わしている。写実的筆致で保存状態も良い(以下略)
                                      案内板より引用

 当地は古くから水場で村人は最近まで洪水に苦しめられていた。拝殿に掲げる明治一八年の「渡良瀬川字重助裏護岸工事之図」を見ると、何百人もの人夫が護岸工事に携わり、帆掛け船や外輸船の姿もあることから、これが大工事であったことと、当時の水害がいかに大きなものであったかを知ることができよう。
       
                    拝 殿
 鷲神社(みょうじんさま)  北川辺町栄二一六七(栄字西沼田耕地)
 栄の地は南に利根川が流れ、集落部は東西に分かれている。これは明治九年、大曾村・前谷村二ヶ村が合併した経緯による。
 当社は大曾分に鎮座し、社記は、この地が再開発される江戸初期、万治九年に北葛飾郡鷲宮村(現鷲宮町)の鷲宮神社から勧請し、宝暦一四年に社殿を再建したと伝えている。また一説に大曾の地は度重なる出水により荒地となっていたものを、足利からこの地に隠棲した多田某が草分けとなって開拓し、元和元年古河領(現横山町)雀宮神社を勧請して鷲神社を称したとも伝えている。なお、『風土記稿』には万治二年の勧請で、万松寺持と記している。
 万松寺は慶長元年の開基で、境内の老松に大鷲が飛来したことを伝え大鷲山大曾院と号し、曹洞宗である。
 明治五年に村社となり、同一六年には本殿・拝殿の改築を行い、近くは昭和三三年に氏子一同の寄進により改築を行っている。
 祭神は天穂日命と武夷鳥命の二柱である。境内には旧村内から集められたと思われる弁財天・稲荷社・天満宮の石祠と大杉大明神石祠が祀られている。 

 神仏分離により、万松寺の手を離れた当社は、大字飯積の本山派修験金剛院が服飾して神職となって奉仕し、今日に至っている。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えず記載する。
                                  「埼玉の神社」より引用
 例祭は四月一五日。例祭前日をイバン(宵祭り)と呼び、疫神除けとして拝殿に集まり、御神酒を飲みながら過ごす習慣が昭和二四年ころまで行われていたという。
一五日当日は午前中に祭典が執行され、午後一時ころから神輿がでる。神輿は氏子の青壮年や篤信家に担がれ氏子中を回る。神幸にはお囃子が付き、笛・太鼓・鼓・鉦の音に合わせ一四、五曲囃される。道中「サギリ」「ヤギリ」と呼ぶ曲があり、俗に『大杉囃子』と呼ばれている。神輿は氏子の各家の玄関口に仮安置され、お供えがあげられ、囃子が行われたという。
 
拝殿左側には正一位稲荷神社・伊勢太々御神楽碑    拝殿右側に祀られている石祠二基
         の石祠・石碑あり               天満宮・大杉大明神
 旧別当万松寺境内には薬師堂がある。この縁日は四月八日で、近郷からの参詣客でにぎわっていた。薬師堂には井戸があり、昔、老婆が重い眼病にかかり苦しんでいたため、薬師を熱心に信仰したところ、ある晩、薬師の井戸水で目を洗えば治ると夢に出て、翌日僧侶から水を分けてもらい目を洗ったところ、立ち所に治り、以来眼病の霊水として広く知られるところになり、薬師堂はにぎわったと伝えている。
 当地は、度重なる水害で古い記録類に欠けるが、嘉永元年銘のある当社にかかわるといわれる随身画像軸が、萩原家に保管されているという。
        
                   栄鷲神社遠景


【栄八幡宮】
        
              ・所在地 埼玉県加須市栄3324
              ・ご祭神 誉田別命(推定)
              ・社格・例祭等 不詳
 栄鷲神社から南東方向で、直線距離にして350m程に栄八幡宮が鎮座している。
 但し、「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」にも解説等全くなく、残念ながら、創立年代・由緒等不明である。
        
                   栄八幡宮正面
 
   拝殿手前左側にある「青面金剛像」     青面金剛像」の右側に並ぶ菩薩像等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等
   

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小野袋鷲神社


        
               
・所在地 埼玉県加須市小野袋518
               ・ご祭神 天穂日命 武夷鳥命
               ・社 格 旧小野袋村鎮守
               ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1123
 小野袋八幡神社の東側に北西から南東方向に通る市道162号線は通称「わたらせ通り」といわれていて、起点は、板倉町の行政界である柳生字下宿24906地先で、終点は県道佐野古河線に合流する柏戸交差点までの3㎞程の市道である。
 この「わたらせ通り」を東武日光線「柳生」駅方向に進行し、「小野袋」交差点を右折、200m程進んだ十字路を左折する。一面広がる田畑風景を愛でながら300m程進むと左手に小野袋鷲神社とすっかり葉を枯らしたイチョウの大木が2本見えてくる。
 東側並びには小野袋集会所があり、駐車スペースはあるようなのだが、今回正面鳥居の南側にある車道とは別の路駐可能な空間があり、そこに停めてから参拝を開始する。
        
                  小野袋鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「小野袋村」の解説
 柏戸村の西にあり、北は渡良瀬川を隔てて下野国都賀(つが)郡下宮村(現栃木県藤岡町)、間の川跡を境に上野国邑楽郡海老瀬村(現群馬県板倉町)。「袋」に低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置したことに由来するという。田園簿では水損場と記され、田高一四二石余・畑高三一六石余、宝暦一一年(一七六一)には前々古新田改出高九二石余が加わり高五五二石余となる。同年の反別は田方三二町五反余・畑方六九町四反余(「村鑑帳」田口家文書)、安政三年(一八五六)には下田三二町三反余・下々田二反余、中畑一四町八反余・下畑四〇町九反余・下々畑一町二反余、屋敷三町九反余・葭畑五反余(「辰年貢割付状」同文書)。
        
       小野袋鷲神社は天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したという。
        
           正面の鳥居左側にある「
愛染明王像塔」の案内板
 加須市指定有形文化財 愛染明王像塔
   昭和五六年三月 指定
 像容は通形で、右に「造立者為妙色増長民屋豊穣」左には「寛政五丑十一月吉日願主当村中」と彫られている。
 この愛染明王像塔は二十六夜待供養のために造立されたものである。塔頂に笠付きであった痕跡をのこしている。愛染明王を刻むものは全国的にみてもその分布がかなり限られており、独尊として造立されたのは江戸時代中期に始まって文政頃に終わっているようである。愛染明王像塔の独尊としての希少価値と、二十六夜待の講中が小野袋にあったことを伝えるものとして重要である。
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
 鷲神社  北川辺町小野袋五一八(小野袋字中通)
 小野袋は、北川辺町の最北で、栃木県藤岡町の下宮、群馬県板倉町の間々田に接する。長禄三年古河公方足利成氏と上杉教房両軍の戦場とまり、当社の西には、この時の戦死者を葬ったと伝える御檀塚(おだんづか)が残る。御檀塚にかかわる言い伝えに「小野袋の集落が滅びる時には御檀塚を掘ってみろ」がある。
 鷲神社は、天正八年の創立と伝え、鷲宮町の鷲宮神社から分霊したとされ、寛保元年社殿再建、宝暦一四年拝殿再建と伝えるが、昭和五八年火災により焼失したため、現在社歴に関する記録は失われてしまった。なお、社殿は昭和五九年に再建されている。
『風土記稿』には、「鷲明神社 村の鎮守なり、来福寺持」とあり、真言宗豊山派薬王院来福寺が江戸時代は管理していたことがわかる。祭神は天穂日命・武夷鳥命である。社殿は入母屋造り瓦葺き平入りで、内陣には白幣を祀る。
 境内は一九一坪で、戦前まで境内南に二畝ほどの神田があり、当番が耕地に当たり、取れた米で九月一五日の大祭に供える甘酒を作っていた。また、境内には、明治の神仏分離の際、村内から集められたといわれる庚申塔四基と町指定文化財の愛染明王像がある。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
             
境内西端に並ぶ庚申塔と愛染明王像塔
          左から二番目が愛染明王像塔で、それ以外は庚申塔
 当社の祭りは、元旦祭・春祭り・秋祭り・新嘗祭の四回で、このほか、七月と一二月に人形を焼く大祓が行われる。
 元旦祭は、一日に早朝氏子が参集し、祭典のあと御神酒を頂き、神礼を受ける。
春祭りは、旧暦三月一五日に行っていたが、現在は新暦の四月一五日である。祭典は総代・区長の参列により行われる。
 秋祭りは、旧暦九月一五日であったが、現在は新暦の一〇月一五日である。一四日に当番が掃除を行う。昔はこの日の夜、当番が神社にお籠りをしたといわれ、一五日朝、氏子が赤飯・里芋の煮っころがしを神社に持参し、お籠りをした者がこれを頂く。一五日は朝、幟を立て、祭典を行う。戦前までは、神田でとれた米で当番が甘酒を作り参拝者に配ったことにより、この祭りを「甘酒祭り」とも呼んだ。この日の午後には、拝殿にお囃子の道具や幟を並べ、次の当番に道具確認の上、申し送りをした。これが済むと、区長が酒五升、現当番が各自で祭礼料理を持ち寄り、次の当番の者に振る舞うという。
 新嘗祭は、一一月二三日であり、総代・区長の参列により祭典が行われる。
        
                          長閑な田畑風景が広がる小野袋地域


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内案内板」等

 

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小野袋八幡神社

 加須市小野袋。この地域名に「袋」が付く場合、低地・低湿地の意もあることから、村名は蛇行した河川の湾曲した低地に位置し、堤防決壊や越水が起こった場合に浸水しやすい土地のことを表すという。
 俗に「災害地名(さいがいちめい)」とは、現地で起こった自然災害が由来とされる地名のことであるのだが、過去の災害の経験を後世に伝える史料のひとつとしてしばしば評価される。特に、古来の地名には、その土地の特徴や大災害の歴史が秘められていることが多いとの事だ。
 但し、災害を思い起こさせる地名は、現代では良しとされないため、明るい意味の文字を用いた地名に変更されたケースも少なからず存在するし、また、物理的な実体を持つものではないゆえに、先人の経験を正確に伝えているとは言い難い場合があるため、その取扱には繊細な注意が必要であるとする意見も現実にはある。
 日本は火山や地震等の自然災害の頻発国である。災害が起きてから自然と生活環境を考えるのではなく、日頃から自分の暮らす地域の地名、土地柄および過去の災害などに注意を払うことで、突発的な災害に対応するための策を講じるきっかけになると考えられる。
 日頃の防災意識として、「土地の名前がもつ意味」を時には深く考えることも必要ではなかろうか。
        
             
・所在地 埼玉県加須市小野袋1653
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 春祭り 324日 夏祭り 715日 十五夜祭り 旧915
 鎮座地である小野袋地域は、旧北川辺町の最北部で、嘗ての武蔵・下野国両国境沿いに位置する。栃木県道群馬県道埼玉県道茨城県道9号・佐野古河線沿いにある「道の駅かぞわたらせ」から北西方向で直線距離500m程の谷田川右岸に小野袋八幡神社は鎮座している。 
        
                                                      小野袋八幡神社正面
 
       
            入り口付近にある青面金剛像                  朱色が基調な両部鳥居の二の鳥居
        
                    拝 殿
 八幡神社  北川辺町小野袋一六五三(小野袋字八幡前)
 鎮座地である小野袋は、下野・武蔵両国境沿いに位置する。
 当社の創立は『明細帳』に「天正年間ノ創立ニシテ誉田別命ヲ祭ル寛永六年二至リ社殿ヲ再建ス村内上耕地ハ同社ヲシテ鎮守ト称ス」とある。また、口碑には「天正年間、豊後国の宇佐八幡から分霊を受けて、谷田川を隔て対岸の現在の板倉町大字峰に祀ったのが始まりであり、その後水害により当地に社殿が流れ着きこの地に祀るようになった」とあり、旧社地と思われる「宇佐下」の地名が今に残る。
 社殿造営の変遷は『八幡宮改築記念碑』に「神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年九月奉造となる爾来三百年氏子を守護し、又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す」とある。内陣には三九センチメートルの騎乗の八幡明神像を安置する。
 神仏分離以前の別当は真言宗八幡山瑠璃光院戒含寺が務めたが、明治期に廃寺となっている。旧寺地は当社境内の南東の一角に当たり、境内には法印権大僧都淳澄の墓石が残る。
 *平成の大合併の為、現在の住所は違うが、敢えて文面は変えずに記載している。
                                   「埼玉の神社」を引用
 
  社殿左側に祀られている境内社・浅間社       社殿右側奥に祀られている
勝軍地蔵や石碑
 この勝軍地蔵は昭和5939日指定の加須市有形民俗文化財で、その右隣に並ぶ石碑は榛名神社・稲荷大明神。
             
             境内に設置されている「八幡宮改築記念」
 八幡宮改築記念
 神社造営は名主小衛門の発心と戒含寺住職淳澄の指導に依り延宝五年(1677)九月奉造となる。
 爾来三百年氏子を守護し又氏子の奉仕管理に依り永続せるも木造建物の命数尽き、大東亜戦終戦後の混乱に加えて経済的変化と思想の激動期を迎え再建も困難なりしが鎮守の荒廃も著しく、有志相諮り氏子の協讃を得て昭和三十五年(1960)度より耕地収入の全部と個人の寄附に依り改築に努力せり。以来四年間氏子の崇高なる敬神と郷土関係者の協力に依り改築竣工す。
                                     記念碑文より引用

 記念碑に載せられている「名主小衛門」は地元の旧家である田口家である。
 この地域には、開発当時より今に至るまで代々居住している旧家がいて、それぞれ田口家・岡田家・飯島家といい、この旧家が中心として地域の行事等を仕切っていた。
「埼玉の神社」によると、当地の行事は、主に村の旧家の人たちによって行われる旧暦915日の「十五夜の祭り」は別名「本家祭り」ともいうが、その代表的な行事であるという。
 この行事は、旧家である田口家三軒・岡田家・飯島家の当主五人だけが祭典に参加するのを習わしとしている。田口家三軒のうち二件はそれぞれの屋号を「本家」「オカシラ」と呼び、もう一軒は本家の位牌があることから本家から隠居をして分かれた家であると思われる。このうち本家の田口直哉家が、かつて名主を務めた家柄である。また、岡田家・飯島家も屋号を「本家」と呼び、それぞれ村の開発にかかわった家柄であると思われる。
       
                        小野袋八幡神社の並びに建つ「藤畑集会所」
 本家祭りは共同体としての村社会を再確認する場であると共に、旧家である五人が氏神の祭祀権を有し、村の開発にかかわった先祖を偲び、共同体の目的を想起させる役割をも果たしている。このような行事は古い祭りの祖型を残すものとして貴重であり、これと似た性格の行事は近隣の「柳生地域」の本家祭りも同様な形態をしているので興味深い。       
 
     「藤畑集会所」の南側にある戒含寺       戒含寺の前に「木造阿弥陀如来坐像」の案内板                                            
 加須市指定有形文化財 木造阿弥陀如来坐像
 昭和五三年三月 指定
 寄木造り・彫眼・白毫肉髻共に木製嵌入・像高二四センチメートル
 通肩の納衣を着け、上品下生印を結ぶ阿弥陀像である。頭部螺髪は彫出しであるが浅い。
面部は前後二枚矧合わせ、彫りは秀れている。体躯部は前後三枚の矧合わせで、手先・裾先は別に寄せている。体躯部に内刳は見られない。衣文部は全体的に彫りが甘いが秀れた面部などの彫りから推して江戸時代以前の作と考えられる。手首先、特に右手印相は後補のものと思われる。
 平成二四年三月
                                       案内板より引用



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内記念碑文」等

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