古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

徳川町東照宮

 東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社であり、全国には同名たる社は100社以上が現存する。そんな中太田市にある〝東照宮〟といえば「世良田東照宮」が有名であるが、その社の近郊で字徳川町にも東照宮が存在する。それが徳川町東照宮である。
「徳川家発祥の地」でもあり、東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣数十か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典によくすることができたようだ。
        
              
・所在地 群馬県太田市徳川町387-1
              ・ご祭神 徳川家康公
              
・社 格 旧村社
              ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2545814,139.2795782,17z?hl=ja&entry=ttu
 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、利根川を越えて群馬県道298号平塚亀岡線が合流する「境平塚交差点」を右折する。県道を東行する事1㎞程、早川を越えた最初の十字路を左折、その後100m程先の十字路を再度右折すると進行方向左側に徳川町東照宮の鳥居が見えてくる。地図を確認すると南北に走る群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を中心線とすると西側に鎮座する平塚赤城神社の反対側に位置するようだ。
 社の東側に隣接する「徳川会館」には広大な駐車場があり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  徳川町東照宮正面
 世良田東照宮に比べると、規模は小さく、絢爛豪華とはいいがたい。地域に根を下ろした素朴な社といったような第一印象。
       
 神社入口を挟んで左側に「徳川義季公館址」碑(写真左)、右側には、「東照宮」の社号標柱(同右)が設置されている。
 太田市は“太田市徳川町”の地名にもある通り、戦乱の世を治めた300年の太平の世の礎を築いた徳川家康公が「わが遠祖は、上野国新田の一族徳川氏である」として、徳川郷を祖先の地としている。
 徳川氏の祖は上野国新田郡一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされていて、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となった。
 新田義重は、仁安三年(1168年)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲る。新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(現在の群馬県太田市尾島町)に住んで徳川(または得川)を称し、徳川義季と名乗り、これが徳川氏発祥の始まりと言われている。
 その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、のち三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗る。
        
                            徳川町東照宮 鳥居
 また江戸時代に成立した「藩翰譜」によると、ルーツは三河国(愛知県)の庄屋である松平太郎左衛門信重に婿養子に入った、時宗の遊行僧と伝えられる『徳阿弥』である。彼は得川氏(世良田氏)の末裔を自称し、諸国を流浪するなか大浜称名寺で開かれた連歌会での出会いが信重の養子に入るきっかけと伝えられ、そこで還俗して松平親氏と名のったという。
 真偽はさておき、その松平親氏の9代目の子孫である松平家康は、後に再び徳川氏を名乗り徳川家康となったという。
        
                     拝 殿
 徳川町東照宮 由緒
 徳川氏始祖得川義季(世良田義季)公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなります。
 得川郷(徳川郷)の新田氏家臣である生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをしました。
 その時に親氏の領地を預けられたことで、以後生田家が徳川郷主となります。親氏はその後、三河国の松平郷(現 愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点としました。また、松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られています。
 天正十九年(1591年)、徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現 埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられる。 同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけられました。
 寛永二十一年(1644年)世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立しました。これが徳川東照宮の始まりといわれています。この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可されました。祭祀は正田家が執り行っていました。
 その後、明治五年(1872年)に邸内社であった東照宮の社地を徳川郷に寄進され、村社に列せられた。明治四十年(1907年)十一月六日、郷内四社各末社が合祀されたことにより、徳川郷の鎮守として改めて崇敬されるようになりました。
 大正三年(1924
年)六月三日、徳川郷内の医王山永徳寺より「権現堂」を移築、それを拝殿とし現在に至ります。
       
              本殿奥に聳え立つ巨木・老木(写真左・右)。ご神木だろうか。
        
              社殿左側に並び祀られている石祠群

 由緒に記されている「正田氏」は、上野国(現在の群馬県)に多く存在する。「源姓新田氏流正田氏」ともいわれ、当初は「生田・庄田・勝田・松田」と称していたという。
・新田族譜
「新田義重‐額田五郎経義(住武州額田)‐額田弥三郎氏綱‐額戸三郎太郎政氏‐氏長‐経長‐政長‐掃部助政忠(従義貞)。政氏の弟生田弥三郎時綱‐彦三郎政綱‐三郎隆氏(庄田祖)。政綱の弟彦五郎頼持‐松田彦次郎政頼‐松田与‐政重(延文四年新田義興に従ひ矢口討死」
永禄二年新田家臣祖裔記
「鶴生田孫三郎時経の息庄田彦三郎政綱、同舎弟勝田彦五郎頼持息男彦五郎政頼と云ふ、義貞公一方の大将分の人也。其末葉徳川に住す、当時正田対馬介・勝田刑部介・庄田寅之介、皆鶴生田の裔也、鶴生田は額田殿御家の分れなりと云伝」
新田文庫
「天正二年新田治部大輔の奏者正田対馬守」
新田家臣祖裔記補
「正田新四郎繁補、舎弟与三郎繁道、元亀元年七月室町殿御治世之時、大館左衛門佐昭虎(将軍家奉行)書翰以、当金山之城へ差越候なり」
金山太田誌
「天正十一年金山籠城。譜代之臣正田平左衛門、庄田新四郎」
        
                   拝殿からの風景
「金山太田誌」に記されている「正田平左衛門」は、榛沢郡新開郷(現在の深谷市新開地域)を所領していた由良氏の家臣で、当時深谷上杉氏と度々紛争を起こしていたという。この正田氏の後裔に関わるのだろうか、深谷市にも「正田」姓は多く存在する。
金山太田誌
「正田平左衛門は、元来桐生重綱之臣降参之者」
新田正伝或問
「永禄五壬午年三月武州横瀬七郷深谷より掠取由、正田平左衛門方より金山へ注進あり、手勢実城衆(金山城)百余騎馳向、新田方勝利也、是を小阿瀬合戦と云。此正田平左衛門は、去る天文十五年那波合戦の節も一番槍を勤む。横瀬・新開・古市・大塚・中瀬・高島、右七ヶ村の掟を被仰付也。今度亦無比類高名と云」
新田一門史
「新田荘那波城にいた正田平左衛門は、天正八年七月七日没す。天正十一年の金山籠城記の平左衛門は息子である、落城後に高島村へ土着する。子孫は現当主正田隆平なり、分家太郎兵衛は慶安四年生にして、子孫は現当主正田善衛なり。家紋は蔦」
        
        徳川町東照宮入り口付近に設置されている「尾島かるた」の看板
 尾島かるた 
 と・徳川氏  発祥の地   尾島町
 江戸幕府の将軍家徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれます。新田義重(よししげ)の子の義季(よしすえ)は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏(ちかうじ)が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。
                                      案内板より引用


参考資料「世良田東照宮HP」「
太田市観光物産協会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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