古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小見久伊豆神社

 小見久伊豆神社は、旧小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当をつとめていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位区伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われている。明治6年に村社に列格、明治43年には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているのだが、現在は「小見集会所」と繋がっているような造りとなっていて、小ぢんまりとした社となっている。
        
               
・所在地 埼玉県行田市小見935
               
・ご祭神 大己貴命 事代主命
               
・社 格 旧小見村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例祭 1015
 国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折すると右側に真観寺、及びその本堂の裏山のような形で現存する全長112mの小見真観寺古墳が見え、県道を挟んで北側には推定墳長約60mの前方後円墳である虚空蔵山古墳がある。この虚空蔵山古墳の100m程先にある丁字路を左折し、暫く進むと正面に小見久伊豆神社が見えてくる
        
                 
小見久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「小見村」の解説
 北は星川を隔てて荒木村、東も見沼代用水を境に同村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高六七〇石余。田園簿によれば田高二六〇石余・畑高四〇九石余で、旗本四家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで続く。国立史料館本元禄郷帳ではほかに真観しんかん寺領がある。城付谷郷組に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人七八・水呑一、家内人数四八〇(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には本人八二(忍領石高社寺人別帳)。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小見村』
「土人の說に當所は昔小見信濃守登吉が領知なりしゆへ、後に村の名に唱へしといへり、彼登吉は成田氏の家人にして、百貫文を所務せしこと其家の分限帳に載せ、近き世の人なれば、此人當村に住せしをもて、却て在名を氏となせしも知べからず、又同書に小見源左衛門
・小見源蔵と名を記す、是も登吉が一族なるべし」

『新編武蔵風土記稿 小見村』に記載されている「小見・麻績(おみ)」氏は、日本の氏族の一つで、平姓小見氏(小海氏)、源姓麻績氏(小見氏)、藤原姓小見氏(麻績)等の一派があり、そのうち武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏は、藤原姓小見(麻績)氏の出といわれている。この氏族は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族であり、戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まりという。
・田原族譜「佐野越前守成綱(正和五年卒)―小見左衛門尉是綱―小見左衛門佐盛綱―小見小太郎左京進義綱―小見左京大夫行綱―小見左衛門佐行清―小見三郎行秀(武蔵守、武州小見城主)―小見出羽守秀政―小見下総守正国―小見左兵衛門伊勢守行国(弟池林三郎行久、其弟池上四郎行家)―小見越後守行春、弟佐山二郎行武(後安芸、佐山城主)、其弟鯉塚右京大夫行氏(伊賀介、鯉塚城主)、其弟箱田左門行吉(安房守、藤岡住)。出羽守秀政の弟若小国伊豆守秀房―砂永右京助政行(武州成田住)―砂永大膳吉行(入道一徳)」
 
 参道左側に祭られている境内社。詳細不明。  その右側並びには「久伊豆神社改築碑」あり。

 この境内社に関しては、明治43年217日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているので、その合祀社であるか、同2年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めた境内末社ではなかろうか。
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  埼玉県行田市小見九三五
 当社は小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当を務めていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位久伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われる。
 文化十年の奉納額に「武蔵なる小見邨の鎮守、本地は馬頭観世音にして毎歳祭礼七月十九日也とききぬ、御口は本迹無二の誓約ならめと仰ぎ奉り得る、久伊豆の大明神も水草の外に余念の無き馬頭尊、癸酉夏六月廿四日、密宗八十二翁道本」と記してあるほか、専蔵院時代の記録はない
 明治九年一月の「久伊豆営繕常備金貸付帳・第十四区小見村」をはじめとして文書十数点を蔵する
 明治六年に村社となり、同四十三年二月十七日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀する
 本殿は一間社流造りであり、祭神は大己貴命・事代主命である。境内末社は、明治二年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めたものという
 大正十二年、関東大震災により拝殿全壊、同十四年再建する
 社有地は山林四畝十五歩を残し、明治期合併により得た土地は農地解放により失っている
                                   「埼玉の神社」より引用

        
                   社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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真名板久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市真名板1312
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧上下真名板村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 1015
 行田市・真名板地域は同市東端部に位置していて、西で下須戸・藤間・小針、南で関根、北で羽生市下新郷、東で加須市串作・阿良川・外田ヶ谷に接する。埼玉県道32号鴻巣羽生線が縦断し、北端の概ね羽生市との境界線上を埼玉県道128号熊谷羽生線が通過していて、西端で見沼代用水に接している。
 真名板高山古墳から南北に通じる埼玉県道32号鴻巣羽生線を隔てて北西方向で、目視でも確認できるくらい、近距離に鎮座している。周囲は一面広々とした田畑風景の中に、ポツンと社叢林が見えるので分かりやすい。
        
                 
真名板久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「真名板村」の解説
 西は藤間村、北は下新郷村(現羽生市)、東は串作(くしつくり)村(現加須市)。薬師堂境内に真名板高山古墳があり、墳丘には「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)一月九日および同四年一月六日の弓始の条にみえる真板次郎、同五郎次郎の館跡土塁が一部残るという。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領分役高一一六石余、旗本領分役高四〇〇石余。

「真名板」という地域名は難解地名の一つといわれていて、調理で食材を切る際に台として用いる「まな板」を連想させる名前であるため、料理用具に関連する地名かとも思える。但し、『新編武蔵風土記稿』にもこの地名があるため、この地名は少なくとも江戸時代以前からあったと考えられる。また、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、「吾妻鑑」にも鎌倉幕府の御的始に十一回出場の弓の名手と云われた「真板五郎次郎経朝」が登場する
吾妻鑑巻三十五「真板五郎次郎経朝」
・ 〃 
巻四十二「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」
 尚、現行田市真名板地域には、新義真言宗花蔵院という寺院があって、明治時代に廃寺となっているのだが、吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑がある。
 この「真板」氏は「まないた」氏とも読み、「真名板」とも表記する。
        
                                   参道の様子
 さて、この「真名板」地名由来として、地形に関係しているという説がある。つまり、「まな」=「まな+ご(真+砂)」という意味で、小石や砂利を指しているという。この地域の北側には古利根川(会の川)が流れていて、河川が運んできた小石や砂利が地形を形成し、そこから名前がおこったと考えられるとの事だ。
 考えてみると、近くにある真名板高山古墳は、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3m埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約910m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明している。
「真名板」地名も当然地形を表す地名という事になろう。

    参道右側にある伊勢参宮記念碑       参道左側にも伊勢参宮記念碑が建つ。
  その左側には
辨才天の石祠が祭られている。   この社には伊勢参拝記念碑が多くある。
       
                                       拝 殿
 久伊豆神社  行田市真名板一三一二
 当社の由緒は不詳である。境内近くに真名氏の館跡と伝える花蔵院通称薬師堂があるが、社より寺の方が古いかもしれぬと氏子は言う。正式には真言宗薬王山花蔵院と称し、現在は曹洞宗全龍寺が管理している。「風土記稿」によると花蔵院が当社の別当であった。なお、明治年間に花蔵院が焼け、関係文書も焼失したので、近世以前の事が全く不明となってしまった。
「明細帳」によると、主祭神は大己貴命であり、明治四年に村社となり、同四一年に上・下耕地の八坂社、三ツ家の浅間社を合祀している。しかし、この合祀では、下耕地の八坂社は移転せず、浅間社は薬師堂隣接の高山古墳上に移されている。また、上耕地の八坂社は境内に合祀され、現在の社号標傍らに移されていたが、老朽化のため昭和二〇年に取り壊された。
 社殿は明治二〇年に焼失し、その五か月後に仮殿を設け、同二八年に再建された。なお口碑によるとこの時、拝殿は他村より購入し、解体して運んできたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
       
                                       本 殿
       
                                  社殿からの一風景
       
                               社から見た真名板高山古墳


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「Wikipedia」等

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藤間神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市藤間453
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧藤間村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り(日待)4月14日 八坂祭 7月7日
                   燈篭祭り 10月14日 
 藤間地域は、行田市東端部に位置し、西で下須戸・小針、東・南・北で真名板に接する概ね見沼代用水の左岸にあたるが、小針との間に相互に対岸飛地がある。また、同地域北端付近を埼玉県道128号熊谷羽生線が東西方向に走っている。
 途中までの経路は関根神社を参照。関根神社の東側隣にある「関根農村センター」から南北に通る道路を1.3㎞程北上すると、進行方向左手に藤間神社が見えてくる。但し社のすぐ南側で道路沿いには民家があり、街路樹等に囲まれている為、社を見過ごすかもしれないので注意は必要だ。
 また、社周辺には適当な駐車場はないため、一旦300m程北側にある「藤間会館」の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                                   藤間神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「藤間村」の解説
見沼代用水の東岸、下須戸村の南、小針村の東にあたる。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高一〇九石余。田園簿によると田高六〇石・畑高四九石、旗本加藤領。国立史料館本元禄郷帳、「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書でも同家領で、同家領として推移したと考えられる。
 
         
「大弁才天女像」                  鳥居の左隣にある「青面金剛像」
  奥州金華山と書かれ、明和八年(1771)建立
              
                参道途中の巨木の根元にも「
青面金剛像」が祭られている。
            当地の人々の信仰心の高さを物語る文化財だ。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 藤間村』
 稻荷社 村の鎭守なり、眞名板村花藏院持、
 雷電社 持同じ、
 *眞名板村花藏院 新義眞言宗、上ノ村一乗院末、薬王山と号す、本尊不動を安ず、
 薬師堂 此堂の傍に親鸞上人の弟子、沙弥西念と云ものゝ建しと云碑あり、

 藤間神社  行田市藤間四五三
 藤間の地理は見沼代用水(星川)をはじめ数本の用水が北西より南東へ貫流し、雨量が多い時には溢水に遭うほどの低地であるが、平素は「藤間さんまで米の飯、小針はヤキビン(余り飯にうどん粉・味噌を加え焼いたもの)砂ヤキビン云々」と言われるほど肥沃な土地である。
 古く、当地には五ノ口の稲荷神社(当社)と一ノ口の雷電神社の二社があり、「風土記稿」によると、両社とも江戸期には真名板村の真言宗花蔵院が管理しており、稲荷神社が村の鎮守として信仰されていた。祭りは、稲荷神社が二月初午、雷電神社が七月二五日となっていた。
 明治初めの神仏分離により、寺の管理を離れた両社は、稲荷神社が無格社、雷電神社が村社と格付けられた。
 明治四〇年には、稲荷神社境内の右側に雷電神社を合祀するとともに、雷電神社末社の浅間社・塞神社を境内に合祀した。これにより旧来の社名稲荷神社を地名から藤間神社と改めた。祭神は倉稲魂命である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿の右並びに祀られている雷電社      社殿奥に祭られている仙元大菩薩の石碑
 当社は藤間神社となった今でも「稲荷様」の名で親しまれている。現在の祭りでは、4月14日は「日待」と称する春祭りがあり、14日早朝、総代が神社の扉を開いて太鼓を打ち、祭りを氏子に知らせる。神前に酒を供えて祭典があり、終わると拝殿で直会が開かれる。
 10月14日は「灯籠」と呼ばれ、前日の13日に境内に灯篭の準備や飾りつけがなされる。大正末期までは「藤間遊楽団」が組織され、境内には舞台を掛け、万作踊りや芝居を奉納したようだ。この遊楽団は、加須の串作・羽生の新郷、行田の須戸と各地に招かれ芝居を演じていたという。
        
                   境内の一風景
『行田の神々24 藤間神社(藤間) 第58話』
 藤間地区の見沼代用水沿いに鎮座しています。かつては、村内に稲荷神社、雷電神社がありましたが、明治四〇年に稲荷神社境内に雷電神社が合祀され、社名も稲荷神社から地名をとり藤間神社に改めたといいます。祭神は「倉稲魂」が祭られています。
 この神は「倉稲魂」と書いてウカノミタマと読むことが『日本書紀』にあり、『古事記』の『宇迦之御魂神』と同一神でスサノオノミコトの子として出てきます。
 ウカノミタマというあまり馴染みのない名前の神様に思えますが、実は五穀豊穣、商売繁盛の神様として全国で最も多く祭られている稲荷社に主祭神として祭られている神様で、私たちにとって身近な神様です。
「倉稲魂」は、倉と稲魂(いなたま)とに漢字を分けて考えると理解しやすく、倉の中に祭られる稲魂の意であり、稲魂は稲霊(いなだま)で稲の穀霊を神格化したものといわれます。
 弥生時代から穂刈りをした稲を鼠などの害から守るために高床式の倉庫に保存していました。そうした風景を重ねると理解しやすい神名といえます。
 平成十年は天候不順のためか、米作りもやや不作でした。弥生時代の米作りが確認された星宮の小敷田遺跡の発見により、埼玉県において最も古い米作りの伝統を持つことが明らかになった行田の米作りです。新たな年を迎え、今年は実り豊かな年でありますよう期待しています。

 
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
行田の神々24」等

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山田八坂神社


        
              
・所在地 埼玉県秩父市山田1591
              
・ご祭神 素戔嗚尊 (社格 不明)
              
・例祭等 例大祭 7月第3日曜日
 栃谷八坂神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南西方向に600m程進むと、「八坂神社」Y字路の交差点があり、交差点の北側に山田八坂神社は鎮座している。因みにこのY字路を右折すると聖神社が鎮座する黒谷方面に達する。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。また、地形を確認すると、秩父大宮から来ると社の前で「わかされ(分岐点)」となっており、左が黒谷方面、右が皆野町三沢方面となり、社は交通の要衝地に鎮座しているもいえる。
        
                                   山田八坂神社正面
 嘗てこの地域に武蔵七党・丹党が入植し、在名である「山田」を称し、その後も子孫世々ここに居住したという。
『武蔵七党系図(冑山本)』
白鳥七郎基政―山田八郎政成(岩田、井戸)―五郎直家―丹五郎直時・弟六郎直綱―時員」
『新編武蔵風土記稿 山田村』
往古丹黨山田八郎政成この地に住し、在名を稱し、子孫世々こゝに居れり、今もその舊跡のこれり、村名の名義これによるなるべし(中略)
 屋敷跡五ヶ所 一は小名向殿にあり、山田志摩守居住せし所なり、東西二町許、南北一町餘、東は山、南西は道を隔て畑なり、北は木戸原澤を構へり、東よりに山神社あり、一は小名向木戸にあり、遠山山城守居住せし所なり、其の地は三四十間四方許にて、字を内手と云ふ、神明の小社あり、此邊を向城門と云へるは、山田志摩守が門に對せし所なれば、かくは名づけり、
『秩父風土記』
「山田村小名山田下郷、山田志摩守・丹ノ党」
        
                                       拝 殿
        
                              境内に設置されている案内板
 八坂神社 御由緒  秩父市山田一五九-一
 ◇疫病祓いの天王樣
 鎮座地は山田地区の中でも北に当たり、栃谷と境を接する桑原沢にあり、当社の近くには、横瀬川と定峰川が流れている。また、この地は当社の前で道がわかされ(分岐点)となっており、西側が皆野方面、東側が小川方面である。
 当社の創建は、口碑によると、村にはやり病が起こった時、これを鎮めるため京都の八坂神社を勧請したものという。なお、社地には、疫病を外へ追いやることから村のはずれのわかされが選ばれ、以来、毎年賑やかに例大祭 (夏祭り)が執り行われている。また、例大祭に高らかに打ち上げられる花火は「木原の花火」と呼ばれ、昭和初年までは、氏子が手作りの花火を奉納し、互いに腕を競ったという。
 祭神は、素盞鳴尊で、社記によると、当社の神は勇猛で情けが厚く、疫病の地域への侵入を防ぐと共に地域外へ追い払う御利益があるという。
 社殿は、平入りの入母屋造りで、その中に白木の本殿と神輿が納められている。神輿は大正期の製作で、一時期、飾り置きの時代もあったが、再び大祭での巡行が行われている。(以下略)
                                      案内板より引用

 案内板に載せられている「原の花火」は、当社の例祭として7月21日に行われるお祇園の進上花火で、近在でも特に有名であったという。「東西、東西、ここに砲発火述の玉名は、『黄煙遊竜十段四方引き』この玉製造人は山田の八兵衛、これを八坂神社に奉納す」などと口上があり、高らかに花火が打ち上げられたとの事だ。
 
 拝殿向拝部等には精巧な彫刻が施されている。   拝殿手前道路側には境内社が祀られている。
                            但し、詳細は不明。

 当地では、村鎮守のほかに各地域持ちの社が多数あり、恒持神社宮司の坂本氏が出社して祭典を行っている。
「山田の春祭り」と呼ばれ、秩父地方で最初に山車の出る、恒持神社の例大祭は、秩父路に春を告げるお祭りともいわれている。午前11時前に恒持神社に3台の山車(笠鉾1台・屋台2台)が集合し、その後祭典が行われる。午後になると各山車が御旅所へ出発し、午後3時ごろ御旅所である八坂神社で祭典が行わるという。
 この神社はグーグルマップでは「八坂神社(恒持神社 御旅所)」と記載されているが、この「山田の春祭り」に関係していることもあるであろう。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等


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栃谷八坂神社

 修験道とは、日本古来の山岳信仰と仏教の密教的信仰が結びつき、さらに神道儀礼なども取り入れた宗教である。その行者である修験者は、山野に臥し苦修練業(くしゅれんぎょうして)呪術を体得した者である。従って修験は山岳地帯を中心に発達したが、関東平野に展開する武蔵国では平地に寺院を構えていた点に特色がある。彼らは中世から近世にかけて村落に定着し、神社の勧請(かんじょう)や民間信仰に深く関係したため、里修験・里山伏などと呼ばれた。
 その流派は、中世には本山派(天台系)と当山派(真言系)に大きく二分され、並び称されるようになったが、いち早く室町時代に地方の修験を掌握し、全国的な勢力を確立したのは本山派で、このことは、武蔵国も同様で、早くから展開し盛行したのは本山派の修験寺院であった。
 秩父地域でも当山派に比べ、本山派の里修験の坊数が圧倒的に多いことがわかっていて、数でみると,当山派の7坊,羽黒派の3坊に対して、本山派は40坊を数える。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市栃谷404
             
・ご祭神 伊弉諾命 素戔嗚尊 建御名方神 崇徳天皇
             
・社 格 旧栃谷村鎮守 旧村社
             
・例祭等 例大祭 七月最終日曜日
 皆野町三沢八幡大神社から埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を南下すること2㎞程、進行方向右手に「秩父三十四ヶ所観音霊場札所一番 四萬部寺」の駐車場が見え、そこを通り過ぎた直後のY字路を右折すると、すぐ右側に栃谷八坂神社が見えてくる。地図を確認すると四萬部寺とは隣接している位置関係にあるといえよう。
 社の西側近隣に「栃谷集会所」があるが、正面駐車スペースにはロープが敷かれているため駐車不可能。そのため、社の正面鳥居前の僅かな路肩に急遽路駐して急ぎ参拝を開始する。
        
                  栃谷八坂神社正面
『日本歴史地名大系 』「栃谷村」の解説
 山田村の北に位置し、東は定峰村、北は三沢村(現皆野町)。川越秩父道が通る。かつて栃の木の多かったことが村名の起りと伝え、橡谷とも記した(風土記稿)。田園簿によれば高一三八石余、此永二七貫七六〇文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同藩領で幕末に至った。元禄郷帳では高二四七石余、寛文三年・同七年・同九年と新田検地が行われ、享保二〇年(一七三五)には定峰村入山続きの二四町二反余の地が開かれ高入れされている(風土記稿)。天明六年(一七八六)の秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田四町四反余・畑六四町五反余。
 
鳥居を過ぎた先の石段手前で左側に設置された       綺麗に整備された石段を上り終えた先に
   栃谷の笠鉾三基の有形文化財指定碑          正面に社殿が鎮座している。

 当社の大祭は、創建当時は6月25日であったと伝えられるが、その後、長い間旧暦の正月7日に行われるようになり、更に、大正期に現在の7月30日(最終日曜日)に変更された。
 大祭は俗に「栃谷の祇園」と呼ばれ、多数の参詣者でにぎわうという。祭礼の中心は上郷・中郷・下郷の三基の笠鉾の引き回しである。各組ごとに飾り花が違い、上郷は梅、中郷は桜、下郷は桃で笠鉾を飾る。依代(よりしろ)としては、上郷は幣束、中・下郷はお天道様を立て、万灯には「八坂神社」「産業振興」「五穀豊穣」など、その年の祈願文が書かれる。
 笠鉾は当日の午前8時ごろに各組の笠鉾蔵を出発し、札所一番の下の辻に三基が出会う。ここで神職のお祓いを受けた後、各組の笠鉾に神職・総代が乗り込み、上郷の笠鉾を先頭に秩父囃子の調べにのって栃谷八坂神社に向かう。午前11時、曳き付けと称して笠鉾が神社境内に並び、祭典が執行され、午後からは舞台で歌舞伎芝居が上演される。夕闇の中、笠鉾のボンボリに一斉に灯がともされ、露店の裸電球にも灯が入れられるころ、にぎわいは最高潮に達する。夜9時になると、花火が打ち上げられる中。笠鉾は再び札所一番の辻へ曳き返され、祭りは終焉を迎えるという。
 栃谷の笠鉾三基は、昭和59年6月27日、秩父市指定有形民俗文化財に指定されている。
        
                    拝 殿
             見晴らしの良い高台に鎮座している社殿
   この辺りは如何にも山国の秩父の雰囲気が感じられる長閑で美しい風景が広がっている。
        
                         境内に設置されている案内板
 八坂神社御由緒   秩父市栃谷四〇四
 ◇修験が祀った栃谷を護る天王様
 社記によると、当社は、元は榛名神社と称し、神亀元年(七二四)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の森谷某が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まるという。その後、歳月を経るとともに里人の信仰は益々厚くなり、氏子繁栄・五穀豊穣の守護神として仰がれて来た。更に一千有余年の歳月を経た寛政二年(一七九〇)のころ、参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、山上の榛名神社には伊弉諾尊のみを残し、素戔嗚尊並びに境内末社をこの地に遷座し、末社琴平神社を新たに加え、「天王社」と称するようになったという。
 明治四年に村社となり、社号を八坂神社と改めた。また、同四〇年(一九〇七)には、旧社地に残した字曾根坂の榛名神社をはじめ、字腰の山ノ神社・字島府の諏訪神社・字越腰山の琴平社などを合祀した。
 例大祭は、「栃谷の祇園」とも呼ばれており、三基の笠鉾が曳き回され、多くの参詣者で賑わいをみせている。(以下略)
 
   社殿手前左側にある石製五重塔        石製五重塔の右隣に祀られている磐座
   
      社殿の左側隣に祀られている境内社・稲荷 秋葉社(写真左・同右)
 
      社殿の右側隣に祀られている境内社・三社社 天神社 琴平社(写真左・同右)

 ところで、秩父地域における本山派の里修験は、おおよそ越生(硯・越生町)の山本坊・秩父大宮(硯・秩父市)の今宮坊・三峰山観音院の3坊の先達の配下となっていた。先達は,本山の聖護院と霞内に居住する里修験との取り次ぎ役であり,霞内の里修験から上納金などを取り立てる権利をもっていた。
 因みに本山派修験における霞とは、個々の山伏の活動圏(縄張り)を「霞」と称し、その上に地方行政上の一〜二郡ごとに郡内の霞を統括する有力な山伏を年行事として聖護院門跡が補任した。「年行事」山伏は、郡内の山伏を形式的に支配するのみならず、彼等が熊野先達として民間に檀家を持っていた関係上、その檀家相互の契約得分についても管理権を持っており、当該地域において絶大な支配権を握っていた。年行事以下の山伏の霞の範囲は基本的に聖護院門跡によって定められ、奏者が伝える御教書形式で代々安堵されていた。
このような地方組織の掌握に努めたことから勢力拡大が進展したが、これに圧迫された真言宗系の当山派との対立が深まっていく。
 慶長年間に袈裟を巡って本山派と当山派が対立を起こすと、慶長18年(1613年)に江戸幕府から聖護院と当山派が本寺と仰ぐ三宝院に対して修験道法度が出され、一派による独占は否定され、両派間のルールが定められた。これは「霞」に対する規制をかけたもので、本山派には不利であったが、それでも江戸時代を通じて本山派の方が優勢の状態が続き、法頭とされた聖護院の下に院家-先達-年行事-直末院-准年行事-同行といった序列が整備されたという。
        
             高台に鎮座する社殿より石段下の様子
             鳥居のほぼ正面の先には武甲山が見える。

 社記によると、当社は神亀元年(724)、橡谷村開発の成功を祈って、修験の「森谷某」が村の西北の嶺に祠を建て、伊弉諾尊尊・建速素戔嗚尊の二柱を祀ったことに始まったという。その後、寛政2年(1790)参詣者の増加に伴い、山上の傾斜地にある従来の境内では狭く、混雑をきたすところから、修験の「森谷栄長」が村の中央の字嶋府杉の嶺と称する地を選んで祠を建立し、建速素戔嗚尊と境内末社を当地に遷座、末社琴平神社を新たに祀り天王社と称したという。
 創建時期とされる神亀元年(
724)の真偽はともかく、この森谷家はこの栃谷地域に代々土着していた一族であることは間違いない。そして、どの時代においても「修験」と明記されていて、この地の有力な山伏(霞)であったのであろう。
 というのも、「埼玉の神社」において、森谷家は、『新編武蔵風土記稿』に載る本山派修験大宮郷今宮坊配下の大宝院において、神仏分離まで当社の祭祀を続けたと伝えられ、現在でもその跡地には法印屋敷と呼ばれる地名が残っている。なお、当社には、享保四年・宝暦七年・天明元年の聖護院発給による院号・着衣の許状八通が所蔵されという。
        
                         社の西側にある栃谷八坂神社舞台
 栃谷八坂神社舞台 (国)登録有形文化財 令和2910日登録
 この建物は、地芝居(農村歌舞伎)のための舞台で、八坂神社境内西側の広場に建っており、棟札から明治32年の建築であることが読み取れる。建物は、寄棟造桟瓦葺の平屋建、正面は出桁造とし、差物を通して全面開放が可能である。舞台は前二間を表、奥三間を裏とし、裏には可動式の二重舞台を備えている。二重舞台は土台下端に車輪が設けられ、中央は前後、両脇は左右に動くようになっている。また、舞台両側面の框(かまち)には下座(本芸座・仮芸座)を設けるための枘穴(ほぞあな)
が確認できる。様々な舞台設定・演出を可能とする二重舞台や、他の舞台に見られない豪華な彫刻が施されている下座の意匠など、市内に現存する数少ない歌舞伎舞台の一つとして、地域の地芝居舞台の変遷を追う上で貴重な存在である。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「秩父市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
            

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