古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

伊勢崎神社

 律令時代、概ね広瀬川を挟んで東の「佐位(さい)郡」と西の「那波(なわ)郡」に分かれ、藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。藤原系渕名氏は、兼行の直系の子孫で下野国足利に勢力を持つ俊綱.忠綱父子が寿永内乱期に滅亡すると、鎌倉幕府の役人で京都から派遣された中原氏が渕名氏を継承する。一方、兼行の別の子孫は那波郡に勢力を持ち那波氏を称していたが源平合戦時、那波弘澄(広純)が源義仲に与して一族は衰亡し、中原氏の一族・大江広元が那波氏を継承した。伊勢崎市堀口町には「那波城跡」があり、鎌倉時代から戦国時代にかけて大江系那波氏の居城となる
 伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれた。戦国時代には大江系那波氏の末裔・那波宗俊が崖上に「赤石城」を築く。1560年上杉謙信が三国峠を越えて上野国に進出すると、宗俊は北条氏に従って抵抗するが、赤石城は落城、本拠の那波城は囲まれて降伏する
 因みに赤石城には那波氏の一族である「赤石氏」も存在していた。赤石城落城後、一族は近村の飯土井村赤石城(現前橋市飯土井町)へ移った
 赤石城攻略の手柄により謙信から那波氏の旧領を与えられた上野国の戦国大名・由良成繁は、日頃から信仰していた伊勢神宮の御加護と考え、伊勢神宮に那波郡の一部を寄進し、赤石城内には「伊勢宮」を勧請する。やがて庶民の信仰の利便のため伊勢宮が城外に移されると、人々が集まって門前町を形成し「伊勢の前(さき)」と呼ばれて現在の「伊勢崎」の由来となったという。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市本町211
             
・ご祭神 保食神 他27
             
・社 格 旧県社 創建 建保元年(1213
             
・例祭等 上州焼き饅祭 111日 春季例祭 415
                  
例大祭 1017日 ゑびす講祭 1119
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.3204857,139.1880026,14z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号バイパス線を伊勢崎市方向に進路を取り、「上渕名上武道下」交差点を左折する。
但しこの付近の国道は高架橋となっているので、数百メートル手前で一旦高架橋から分かれる道に移動し、下った先の上記の交差点を左折しなければならないので、そこは注意が必要だ。交差点を左折後、群馬県道2号前橋舘林線に合流し、道なりに4㎞程進む「本町二丁目」交差点先の十字路を左折すると、すぐ右側に伊勢崎神社の正面鳥居が見えてくる。
 伊勢崎神社の正面鳥居前に10台程の専用スペースがあり、参拝は非常に楽である。街中にある社で社格は旧県社。
        
                                 伊勢崎神社正面
        
          正面鳥居の左側に設置されている「伊勢崎神社御由緒」
「伊勢崎神社御由緒」
 順徳天皇の御代の健保元年(一、二一三年)、三浦介義澄の創立したものと伝えられています。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が稲荷神社をはじめ町内数社を合祀し、伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(一、八四八年)の創建であり、幣殿並びに拝殿は昭和十一年(一、九三六)に造営されたものです。彫刻の緻密にして壮麗なことは氏子の誇りです
 御祭神 保食命(宇氣母智命)
 御神徳

 保食命は食物を初めとして産業を司る神で、人の生活上欠くことの出来ない神様です。記紀神話において、身体から食物や獣を生み出す記述があるように、物の成り出ずる力を備えています。
「衣食足りて礼節を知る」の通りで、一定の財産を持つことは人生においてとても大切なことです。家内安全・五穀豊穣・商売繁盛の神様として親しまれています。
                                      案内板より引用
「伊勢崎案内記」には、当神社に関して簡潔ではあるが以下の記載がある。
「伊勢崎町字裏町に在り祭神は宇気母智神保食命なり建保元癸酉年九月三浦之輔義澄の勸請せるものなりと云ふ古來より伊勢崎町の總鎮守なり」
        
                                 参道正面・境内の様子
 街中に鎮座しているためか、「伊勢崎神社の境内地は約700坪」と当社HPに記載されているように、「旧県社」の格式として社の規模は決して大きくはない。
 但し境内は程よく手入れもされていて、神楽殿や境内社、石祠・石碑等も決められた場所におさめられている。平日に参拝したわけであるが、参拝中も多くの参拝客がお参りしていて、地域の方々に親しまれている立派な社と言う印象を受けた。
       
            参道正面左側に聳え立つご神木(写真左・右)
 現在伊勢崎神社が鎮座している地域名は「本町」であるが、嘗てこの地は「赤石」と称していた。この伊勢崎市の中心付近は、広瀬川が伊勢崎台地を侵食して崖を形成し、その崖が関東ローム層の赤土であったので、享徳四年正木文書に「上州赤石郷」の記載があり、中世においては「赤石郷」と呼ばれていた。
 伊勢崎神社の西側には広瀬川が南北に流れているが、その左岸堤防付近には「赤石稲荷」という小さい社が鎮座している。どうやら調べて見ると「金蔵院古墳(赤石山古墳、伊勢崎町第1号古墳)・径25m、高さ2.7mの円墳」上にある社という事だ。
 伊勢崎発祥の地『赤石』の名前を冠にした「赤石稲荷」。「赤石」という地域名はないようだが、このように伊勢崎神社周辺には「赤石」由来の社や建物等が散在しているのも面白い。
 
正面鳥居を過ぎ、すぐ参道左手に神楽殿がある。    神楽殿の並びにある手水舎。

 神楽殿と手水舎の間のスペースに祀られている   手水舎の奥には芭蕉句碑と銅製の御神燈。
        境内社・稲荷神社。          御神燈の下には石祠群が置かれている。
       
                                     芭蕉句碑 
               芭蕉句碑には「よく見れば薺花咲く垣根哉」の句が彫られている。
        
                     拝 殿
 伊勢崎神社
 伊勢崎神社は、群馬県伊勢崎市本町にある神社で、旧社名は飯福神社(いいふくじんじゃ)、通称は「いいふくさま」。旧社格は県社である。
 創建は建保元年(鎌倉時代)、三浦義澄(三浦介義澄)によるものと伝えられている。鎌倉時代末期の元徳元年(1329)に、国司である新田義貞が現在の地に移し、社殿を修理して、八坂神・稲荷神・菅原神の3神を合祀したという。地元・赤石城(伊勢崎城)城主からの信仰篤く、後に上杉謙信(輝虎)や由良信濃守成繁といった武将らも崇敬していたという。
 当初、境内地を含む地域一帯は赤石と呼ばれていたが、元亀年間(15701573年)に伊勢神宮(三重県伊勢市)の分霊を勧請合祀以来、伊勢崎の地名の由来になっている。その後江戸時代以降、当地の領主が代々、社殿の修繕や祭典執行を担い、明和9年には吉田家から正一位に叙されている。(中略)
 1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。1926年(大正15年)、近くにあった稲荷神社など数社が合併し、社名を飯福神社から伊勢崎神社へと改称。1941年(昭和16年)には社格が県社に列した。

 境内には明治9年(1876)に楊州庵半海社中が建立した「よく見れは薺花さく垣根哉」の芭蕉句碑がある。
                     「群馬県:歴史・観光・見所」「Wikipedia
」より引用

 伊勢崎神社は1873年(明治6年)に社格が村社に列し、1906年(明治39年)には神饌幣帛料供進神社の指定を受けている。同時期近郊の社である「下渕名大国神社」「倭文神社」「火雷神社」等は既に「郷社」であり、由緒も歴史も深く、格式も遙かにこの三社の方が高かったにも関わらず、最終的にこの三社は郷社で止まり、伊勢崎神社は1941年(昭和16年)に郷社を飛び越えて一気に県社に格上げされている。
        
                        拝殿上部に奉納されている木製のプロペラ
 この昇格の背景には何があったのであろうか。拝殿正面入口の上部には、戦時中、中島飛行機(富士重工業の前身)の社員が奉納した木製のプロペラが現在でもあるが、そのことと何か関連性があるのであろうか。
        
          
        
         建物全体に精巧な彫刻が施されていて見ごたえのある本殿
 伊勢崎神社の本殿は江戸時代後期の嘉永元年(1848)に再建されたもので、一間社、流造り、銅板葺き、建物全体に精巧な彫刻が施され特に壁面には中国の故事と思われる透かし彫りが見られる。因みに拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅瓦棒葺き、正面千鳥破風、平入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付き、外壁は真壁造り横板張り。幣殿は両下造(本殿と拝殿を切妻屋根で接続)、銅瓦棒葺、桁行1間、張間1間。
        
                 本殿裏にある西の鳥居

 伊勢崎市といえば、「織物」で有名な地だ。特に銘仙(めいせん)は、平織した絣の絹織物で、鮮やかで大胆な色遣いや柄行きが特徴の、独特の先染め織物である。
 本来は、上物の絹織物には不向きな、屑繭や玉繭(2頭以上の蚕が1つの繭を作ったもの)から引いた太めの絹糸を緯糸に使って密に織ったものを指し、絹ものとしては丈夫で安価でもあった。幕末以降の輸出用生糸増産で大量の規格外繭が生じた関東の養蚕・絹織物地帯で多くつくられ、銘仙の着物が大正から昭和初期にかけて大流行した。伊勢崎、秩父に始まり、これに、足利、八王子、桐生を加えた5か所が五大産地とされている。
 元々は、主に関東や中部地方の養蚕農家が、売り物にはならない手紬糸を使用して自家用に作っていた紬の一種であった。江戸時代中期頃から存在したが、当時は「太織り(ふとり)」「目千(めせん)」などと呼ばれ、柄は単純な縞模様がほとんどで、色も地味なものであったという。
 明治になって身分制度が改まり、一般庶民に課せられていた衣料素材の制限がなくなると、庶民の絹に対する憧れも相まって、日常着においても絹物が主流となった。また、女性の社会進出が進んだものの、服装においてはまだ和装が圧倒的に主流であり、社会の洋風化に追いついていなかった。このため、女学生や職業婦人などの外出着や生活着として、洋服に見劣りしない、洋風感覚を取り入れた着物である銘仙が広く受け入れられることとなった。
 当初は平仮名の「めいせん」であったが、1897年、東京三越での販売にあたって「各産地で銘々責任をもって撰定した品」ということで「銘撰」の字を当て、その後、「銘々凡俗を超越したもの」との意味で「仙」の字が当てられて「銘仙」となったという。
「伊勢崎銘仙」は五大産地の中では最大の生産量をもち、銘仙の中では高価な部類に入る。併用絣の技法を用いた、鮮やかな多色遣いによる手の込んだ柄が代表的で、1950年代には、一反の中に24色の糸を使用したものもあったようだ。1975年に伝統的工芸品に指定されている。
 大正から昭和初期にかけて、銘仙生産量は全国の半分を占めるまでに至り、伊勢崎銘仙の黄金期と呼ばれるまでとなったが、戦後、生活様式の欧米化により和装から洋装へと変化していく中で、需要が減退し徐々に売り上げや生産量が減少し、その生産者も減っていくことになる。
 時代の流れで和装から洋装が主流となる中でも、織物工業組合(織物協同組合)主導のもと新技術の開発や後継者問題に取り組むなど銘仙文化を継承していく活動が行われ、その活動の功績により、伝統工芸品としての高い評価を受けながら伊勢崎銘仙は現在に至っている。
 織物工業組合(織物協同組合)のもと、銘仙文化の承継活動が行われてきたが、生産者の高齢化や後継者問題は困難を極め、銘仙の新たな製造については現在危機的状況にある。毎年「いせさき銘仙の日」のイベントでは、現存する銘仙を着用したファッションショーの開催や、銘仙の生地を再利用して手さげ袋や名刺入れなどの小物に加工して販売しているという。
 伊勢崎神社の御朱印帳やお守り袋と御内符(おんないふ:神様の御利益があるお札)、御朱印の用紙にもこの伊勢崎銘仙を使用している。大切な地域の宝物であり、後世に残してほしいものだ。


参考資料「伊勢崎風土記」「伊勢崎案内記」「伊勢崎市役所公式HP」「群馬県:歴史・観光・見所」
    「伊勢崎神社HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
      

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