古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新田大根神社


           
            
・所在地 群馬県太田市新田大根町407
            
・ご祭神 宇迦之御魂神
            
・社 格 旧大根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭 43日 秋祭(大祭) 1118
                *参拝日 2023726
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3168428,139.2795175,16z?hl=ja&entry=ttu

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占めている。因みに「大根」と書いて「おおね」と読む。この大根という地名由来としては、中世・新田庄に属していた頃は「嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「あふねの郷 田三町二反四十五たい 畠八反 在家一う」、西迎(さいごう)寺(現長野県下水内郡豊田村)の延慶三年(一三一〇)四月二〇日の阿弥陀仏像背銘には「上野国新田庄青根郷 大檀那義季・見阿」とあり、当時は「青根」「あふね」「相根」等表記されていたようだ。
 また「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に記す宇治川の合戦で負傷した上野武士の一人に青根三郎の名がみえる。
        
 新田上江田勝神社の東側に群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通っているが、「やすらぎ団地」交差点を左折し、上記県道沿いを暫く北上する。1.5㎞程先の丁字路を左折すると進行方向左手に「ほたるの里公園」が見えるが、その公園を直進した400m程先に新田大根神社の境内が見えてくる。
       
           拝殿前に真っ直ぐに伸びる欅のご神木(写真左・右)
        
              境内に設置されているご神木の案内板
 大根神社の大欅の由来
 大根神社の大欅は神社本殿に向かって左前に在り、樹齢は定かではないが、古老の口述に依ると、三十年以前にこの大欅を買いつけに来た業者の説によれば、当時でも推定三百年は経過しているとのことであった。
 現在、根回り八・五メートル、目通り五・五メートル、主幹は真っ直ぐに伸び、太い枝は三、四本であったが、一本は落雷によって落下したしたものの樹勢は益々旺盛で、春の芽吹きの頃、幹に耳をつけると大量の水を吸い上げる音が聴きとれるとの言い伝えもあります。
 大根神社は、大根、大の六〇〇戸の住民の守り本尊としての氏神であり、その社の御神木である 大欅は戦時中、大欅の長寿に肖りたいとの思いから、召集され戦地に赴く兵士が秘かに欅の皮を剥がし、軍服に忍ばせて出征したとの話題も伝えられています。
 平成十七年 三月 新田町観光協会
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 
  境内に並んで設置されている「
皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」(写真左)と、「大根神社改築記念碑」(同右)。皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」記念碑によるこの社の由来としては、創立は不詳ではあるが、創建は古く秋葉様又は稲荷神社と称して、新田公一族である綿打太郎為氏以下氏義氏頼等の崇敬厚いお宮であると伝えられ、新田氏衰退後も大根村の鎮守様として地域の住民を始め多くの人々の崇敬をうけてきたという。
 明治四十一年十月二十六日、許可を得て本社境内の末社秋葉社及び字矢太神の無格社、矢神社、字一丁畑無格社雷電神社同境内末社稲荷神社、諏訪神社、字大宮村社、赤城神社を合併して村社大根神社と改称した。
 大正四年八月二十四日更に許可を得て同村大字大上ノ町村社赤城神社、境内末社秋葉社、大山祇社を合併して大根、大、両地区の鎮守となる。
 大正七年十月十八日(明治三十九年勅令第九十六号)神饌幣帛料供進神社として指定されている。

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占める。その扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ、矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っている。
 現在、周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点が、またこの湧水点の南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)がある。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができ、この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な紅藻類が生息している。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の姿になったと考えられていろという。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができる。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれている。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に石田川の水が利用されたことが分かる。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたことを証明する貴重な史跡である。
 矢太神水源は平成12111日国の指定史跡[遺跡地]に指定されている。


参考資料「
日本歴史地名大系」「太田市公式HP」「おおた観光サイト」「境内案内板・碑文」等
 

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赤堀町八幡宮


        
              
・所在地 群馬県太田市新田赤堀町341
              
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭1015日 中祭1115日 小祭415
                  (15日に一番近い日曜日とする)
                  *参拝日 2023年7月23日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2907735,139.2926919,17z?entry=ttu 

 中江田町矢抜神社から一旦南下し、群馬県道312号太田境東線に合流後左折する。この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれ、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことであり、その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。街道は西国の諸大名の日光参拝にも利用され、賑わうこととなったという。
 県道合流後、暫く東行し、「新田木崎町」交差点を左折する。同県道311号新田上江田尾島線を道沿いに北西方向に1.4㎞程進んだ丁字路を右折すると、ほぼ正面に赤堀町八幡宮の社号標柱が見えてくる。
        
                  赤堀町八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「赤堀村」の解説
 木崎台地の北東部を占め、西は上江田(かみえだ)村、南は中江田村、南東は木崎村、北東は反町(そりまち)村。北西から南東に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山(あかがね)街道が走る。
 中世には新田庄下江田村に属し、新田世良田家から岩松家に相伝された。正和二年(一三一三)一二月二一日付の妙阿売券(新田氏根本史料)によると、「新田庄下江田村赤堀」内の在家一宇・田三町四反小が一七〇貫文で、江田頼有の孫岩松政経の妻妙阿の手から由良景長妻紀氏に売却されている。売却された田・在家には同月日付の坪付注文(同書)が残されており、「木崎境 きさきさかい」「つかた」「ふけた」「はらつくり」等がみえる。この地は、のちに紀氏の父で娘の名字を借りて買得したという大谷道海によって、長楽寺(現尾島町)の三尊・本尊に寄進された(嘉暦三年一一月八日「大谷道海寄進状案」長楽寺文書)。
        
        道路沿いにある社号標に対して左方向に向いている鳥居、及び参道
 現在の群馬県道311号新田上江田尾島線は、江戸時代『銅山街道(あかがねかいどう)』と呼称されていた。この街道は、下野国(栃木県)足尾銅山から渡良瀬川沿いの渓谷を下り、上野国(群馬県)笠懸野(大間々扇状地)を経て、利根川沿いの河岸までを結ぶ街道である。
 道筋は現在の国道122号・群馬県道69号大間々世良田線・群馬県道311号新田上江田尾島線に相当しており、水沼(黒保根町水沼)で根利道(群馬県道62号沼田大間々線・群馬県道257号根利八木原大間々線)と、深沢(大間々町上神梅)で大胡道(群馬県道333号上神梅大胡線)と、木崎(新田木崎町)で日光例幣使街道(群馬県道312号太田境東線)と接続していた。
 幕府直営の足尾銅山で精錬された御用銅を江戸へ運ぶために整備された街道である。慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見、幕府直轄機関である「銅山奉行」を設け、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わり、延宝・天和年間(1673年〜1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれたという。
        
                          境内の様子。参道右手にある「赤堀会館」
 
境内左手に設置されている「赤堀獅子舞」案内板       拝殿左手に鎮座する
                            境内社・
八坂神社、菅原神社
 新田町指定重要無形文化財 赤堀獅子舞
 指定  平成九年三月三十一日
 所在地 新田町赤堀三四二
 赤堀獅子舞は、およそ三百年前の元禄年間に成立したと伝えられている。法眼(ほうがん)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)と呼ばれる三頭の獅子が笛と唄に合わせて勇壮に舞う姿は、本物の獅子の動きを思わせるものである。昔から塗り替えることをいましめられている三体の獅子頭は、それぞれ異なった表情に作られている。
「法眼」は長(おさ)としての風格を持ち、「雌獅子」は優しさ、気品を、「雄獅子」は雄としての荒々しさを持っている。この特徴は舞の中でも表現され、おそれ、おののきや雌をいたわる優しい仕草も見られる。これは他の獅子舞には見られない特徴であり、専門家の間でも高く評価されている。
 毎年、十月中旬の秋祭に赤堀八幡宮で実施されている。
平成十二年三月 新田町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                          社殿右側に設置されている案内板
赤堀八幡宮
一、御祭神 品陀和気命(応神天皇)
  南無八幡大菩薩とも呼ばれる源氏の神。武家の崇敬弓矢の神
一、御神徳 五穀豊穣 天下泰平 四海静穏 家内安全等
一、例 祭 大祭十月十五日、中祭十一月十五日、小祭四月十五日
      (各十五日に一番近い日曜日とする)
御由緒
建久年中(一一九〇~一一九八年)京都の石清水八幡宮より、新田義貞が勧請した。
別当瑠璃山大方坊薬王寺(大方坊四三九番地に二反壱畝廿九歩の土地を保有、現在は上江田分)は、新田氏族江田兵部大輔行義公(一三三〇年代活躍。鎌倉攻めに参戦している)江田郷(赤堀は江田郷の内)に住し、これを管理する新田氏累代の崇敬社となった。本村の乾の方向(北西)にあったが、安永年間(一七七二~一七八〇年)の間に廃絶し、その後現在の地に建立された。天明四年(一七八四年)名主
役場で火災が発生し一社の記録が焼失したが、獅子頭のみ焼失をまぬがれた。(中略)
木崎の村々の出現と変遷
嘉暦三年(一三二八年大谷道海寄進状)長楽寺三尊本尊に寄進の中に(下江田村内赤堀在家壱間等)新田義貞根本資料のなかに正和二年(一三一三年)の売券があるが、ここでは年号の下限が参考になるので省略した。ここでは赤堀は村として独立していない。日記の中では村になっている何時頃からか。   「長楽寺永禄日記」より
旧別当瑠璃山大方坊薬王寺と末社八社
行義公は赤堀本郷地区を中心として村づくりをするための礎として建立した。南無八幡大菩薩(仏に救われたいと言う願いをかける)武運長久、息災延命、天長、地久、安穏等を願い新田氏族江田、赤堀領民が神仏を信仰することにより、救われたいという願いをかけるとともに領主領民が一体となってこの地の繁栄、無事で長続きするよう願い建立したのではないか。
                              平成二十六年十月吉日 宮田晃和
                                      案内板より引用
   
         
           本 殿                                 社殿右手に鎮座する           
                             境内社・塞神社・神明宮・石神社
        
                                社殿から見た境内の一風景


参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「境内案内板」等

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上江田町勝神社

「江田郷」は新田庄内の郷の一で、現在の上江田・中江田・下江田一帯の南北に長い地域であった。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)で、新田義重から庶子の義季の母に譲った空閑郷々一九ヵ郷のうちに「えたかみしも」とみえる。
新田義季(にったよしすえ)は平安時代末期から鎌倉時代初期頃にかけての武士・御家人。得川氏・世良田氏の祖。のちに徳川家康が清和源氏を僭称する際に松平氏の遠祖とみなされる。新田義重の四男として誕生。新田義兼の同母弟といい、新田一門でも地位はかなり高かったと言い、父・義重からは上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られ、世良田郷の地頭となった。これにより世良田と称したともいわれる。また新田郡得川郷を領有して、得川四郎を称したとされる。
 世良田郷を支配する新田氏流世良田氏の一族に江田行義を輩出する。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされている。
 上江田地域には、鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)が住んでいた「江田館跡」があり、昭和22年に県史跡第1号として指定、さらに平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されていて、ほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡という。この江田館跡」の北側近くに旧村社である上江田町勝神社は鎮座している。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田上江田町1070
             
・ご祭神 (主)長佐男命 
                  (配)火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神 

                     
建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
                     ・社 格 旧村社
             ・例祭等 不明
                          *追伸 参拝日 2023年7月26日
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2988606,139.2872972,17z?entry=ttu

 中江田町矢抜神社の西側には群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通り、その県道を2.2㎞程北上する。「やすらぎ団地」交差点の一本手前の丁字路を左折して、350m程道なりに直進すると進行方向右手に上江田町勝神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「勝」と書いて「すぐる」と読む。変わった社名だ。
 社の西側隣には「すぐる公園」があり、駐車スペースもしっかりと完備されているので、そこの一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                 上江田町勝神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「上江田村」の解説
 [現在地名]新田町上江田
木崎台地の北端部とその周囲の沖積地にあり、西境を石田川が南流する。北は金井村、東は赤堀村、南は中江田村・高尾村、西は上田中村。銅山(あかがね)街道が南北に走り、当村中央で東南へ折れ木崎宿方向へ向かう。元禄(一六八八―一七〇四)以前は真っすぐ南下しており、両経路の分岐点には、承応年間(一六五二―五五)頃とみられる安山岩製三面六臂の青面金剛像の庚申塔が立つ。
仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一として「えたかみしも」とみえ、庶子らいわう(義季)の母に譲られている。建治三年(一二七七)一二月二三日の尼浄院寄進状案(同文書)には「上江た」とみえる。新田義重の根本私領の一つで、世良田家流に伝領されていった(→江田郷)。世良田頼氏の一子満氏、世良田義有の子行義はともに江田氏を名乗った。
 *一九ヵ郷…「上江田・下江田・田中・小角(こすみ)・出塚(いでづか)・粕川・多古宇(高尾・たこう)」等。
        
                 南北に長い舗装されていない参道 
              参道の両側には桜の木々が数多く並ぶ。 
 上江田町勝神社の南側には「江田館跡」があり、「太田市HP・新田荘の成立と発展」には以下の記載がある。
 木崎台地の西端部に立地しています。新田荘を代表する館跡で、昭和22年に県史跡第1号として指定されましたが、平成12年に新田荘遺跡として国史跡に指定されました。 堀之内と呼ばれる部分は、東西約80m、南北約100mの方形で、堀がほぼ全周し、この内側には土塁が巡らされています。南辺と東辺の二ヵ所では堀が切れ、虎口(こぐち)が造られています。堀の東辺と西辺には、「折れ」があります。周囲には黒沢屋敷、毛呂屋敷、柿沼屋敷と呼ばれる曲輪があり、戦国時代に城郭化されたと推定されます。築造年を示す史料はありませんが、反町館跡と同様、鎌倉時代から南北朝時代の築造と推定されています。鎌倉攻めに従軍した江田行義(えだゆきよし)の館であったと伝えられ、その後戦国時代には金山城主横瀬(よこぜ)氏の家来・矢内四郎左衛門(やないしろうざえもん)が館を拡張して住んだと伝えられています。北側の土塁には、「義貞(ぎていさま)様」と呼ばれるお宮があります。この時代の平城は通常堀が埋められたり、中に建物が入ったりして形が変えられてしまいますが、江田館跡はほぼ築造された当時の姿をとどめている貴重な館跡です。 
        
    参道途中右手の林に隠れて「村社勝神社合併」及び「新築落成記念碑」がある。
        
                                       拝 殿 
        
                  拝殿に掲げてある「勝神社の由来」と記してある案内板
 勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
 記
 伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
 当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
 今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。(以下略)。
                                      案内板より引用

 案内板に登場する「河野通信」は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての伊予国の武将で、伊予国(愛媛県)の在庁として有力な武士団を構成した。源頼朝をはじめとする反平家勢力が挙兵した治承・寿永内乱の際は,いちはやく源氏方に立ち、その功績によって鎌倉殿源頼朝に直接臣従を許され,所領を安堵された。文治5(1189)の奥州合戦に従軍、正治1(1199)の梶原景時排斥に参加するなど鎌倉に常駐。その奉公を賞されて,建仁3(1203)伊予への帰国に際し、守護に属さず国内の近親・郎従を統率する権限を与えられている。
 更に北条時政の婿となり、幕府の権威を背景として伊予国内に勢力を拡大したが、承久の乱で京方に立ったため奥州平泉に流され、配所で没したという。
 
      境内社・柊稲荷神社             境内社・八坂神社
        
            柊稲荷神社の並びに祀られている石祠群等。中央の石塔は「大山祇神」 

「勝神社の由来」に新田家と直接関係のない河野通信の事を記しているのであろう。確かに新田義重と河野通信は同じ年代に生きた者同士ではあるが、四国・伊予国と関東・武蔵国とはかけ離れた場所に位置し、両者の関わったエピソード等も筆者が調べた限りにおいて皆無だった。
 だからといって新田家と伊予国には、特別な関係が存在することも確かであったようだ。
 元弘の乱において北条家が滅亡し、後醍醐天皇を中心とする「建武の新政」が3年程で挫折し、足利尊氏を中心とする「武家方・北朝」と、天皇新政を維持しようとする「宮方・吉野朝」が60年間、熾烈を極める戦いを各地で行う南北朝時代初期、宮方の中心人物の一人であった新田義貞の元には伊予国・河野一族から土居通増・得能通綱が共に摂津等の各地で足利の大軍と戦っている。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 新田義貞戦死後、新田家は弟義助を中心として一時的に越前国を掌握したが、其の後室町幕府軍に敗れて越前から退いた。吉野の後村上天皇の行宮に参内した後、中国・四国方面の総大将に任命されて伊予国に赴く。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様で、義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、新田氏族である大館氏明を前衛として、伊予の土居氏・得能氏を指導する。一時は勢力をふるい、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとした直後、伊予国府で突如発病し、志半ばで病没した。
 義助か亡くなると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ1342(興国3)年9月、氏明は戦死をとげた。
        
                                  社殿からの風景
 新田義助の子義治は、里見氏の所領がある越後波多岐荘や妻有荘に向かい、義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するようになるが、その後の詳しい消息は不明である。伝承では山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したともいい、義治を祀った「新田神社」もあるそうだ。

 南北朝時代、多くの新田氏族は北は青森、南は九州鹿児島と、日本各地に赴き、転戦を重ねていた。筆者の勝手な推測ではあるが、その一族のだれかが伊予国で河野氏との接点を持ち、故郷の新田庄に帰還した際にその話を持ち込み、武士としても縁起の良い「勝」を冠した社を建てたのではなかろうか。

 因みに新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。 


参考資料「日本歴史地名大系」愛媛県生涯学習センター 双海町誌」「Wikipedia」
    「太田市HP・新田荘の成立と発展」「境内案内板」等
   

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中江田町矢抜神社


        
             
・所在地 群馬県太田市新田中江田町1134
             
・ご祭神 経津主命 猿田彦命 埴山姫命 倉稲魂命 鎌倉権五郎景政
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2811831,139.2870552,18z?entry=ttu

 新田下江田矢抜神社が鎮座する下江田地域から北側に接して中江田地域があり、同名の社が鎮座する。上記神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を左折する。現在この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれているが、この県道を600m程進むと、進行方向右手に中江田町矢抜神社の社号標、その奥に木製の鳥居が見える。
        
          県道沿いにある社号標柱と、その奥に建つ一の鳥居
    写真では分かりずらいが、鳥居の正面には、自然石の庚申塔が祀られている。
              *追伸 参拝日 2023年7月26日
 日本歴史地名大系 「中江田村」の解説
 [現在地名]新田町中江田
 南西境を石田川が流れ、東は木崎村、南は下江田村、北は上江田村、西は高尾村。村域は木崎台地の南西部とその南西方の沖積地帯を占め、中央を東西に日光例幣使街道が走る。
 中世には新田庄に属し、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「えたかみしも」とみえる。当村は下江田郷に含まれたらしく、文亀三年(一五〇三)頃同郷から分れたとも伝えられる。
 近世は寛永三年(一六二六)阿部忠秋領となり、阿部氏の転封・加増に伴い同一二年下野壬生藩領、同一六年武蔵忍藩領となる。
        
 一の鳥居から北上すると広い境内が見え、その正面には赤を基調とする二の鳥居が見える。

 新田下江田矢抜神社内にある「新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿」の案内板によれば、
「このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられ」
たという。
        
       陽光が差し込む境内に対して、社殿奥には緑豊かな社叢林が広がる。
この社叢林の中に「矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)」といわれる古墳時代の円墳が存在している。
        
                     拝 殿
        
          拝殿向拝部及び木鼻部には精巧な彫刻が施されている。
   
     拝殿前に設置されている案内板             本 殿
 惣鎮守矢抜大明神神宮建立
 神亀5甲子年4月朔日(奈良時代 聖武天皇の時代)
 中江田村森下(現在の粕場 東武線のところ)
 万治元年(1658年)929日 中江田村と
 下江田村の分村により中枝村宿通り(当時)
 に転祭されたとある

 初代宮司 江田和泉守氏清より始まり
 現在 第49世代宮司

 矢抜さま 昔をしのぶ 神楽殿
 平安時代の武将、「平 景正」が戦いで矢が目にさ
 さり引き抜いてまで奮闘した伝説があります
 中江田の人々はこの偉業をたたえて「矢抜神社」
 と命名したと伝えられています
                                      案内板より引用
 中江田町矢抜神社のご祭神の一柱に「鎌倉権五郎景政( 景正)がいる。この人物に関しては、既に「上奈良豊布都神社」「高本高城神社」でも紹介しているが、平安時代後期の実在した武将であり、祖先は桓武平氏の流れであったという。
 父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。居館は藤沢市村岡東とも、鎌倉市由比ガ浜ともいわれる。また『尊卑分脈』による系譜では、景正を平高望の末子良茂もしくは次男良兼の4世孫とし、大庭景義・景親・梶原景時らはいずれも景政の3世孫とする。他方、鎌倉時代末期に成立した『桓武平氏諸流系図』による系譜では、景正は良文の系統とし、大庭景親・梶原景時らは景正の叔父(あるいは従兄弟)の系統とする。
 16歳の頃、後三年の役(永保3年〈1083年〉〜寛治元年〈1087年〉)に従軍した景正が、右目を射られながらも奮闘した逸話が「奥州後三年記」に残されている。
 鎌倉市坂の下に,彼をまつる御霊神社があり,〈権五郎さん〉の通称で親しまれているが,奥羽地方には,目を負傷した景政が戦場からの帰途に霊泉に浴してその矢傷を治したという,いわゆる〈片目清水〉の伝説を伝えるところが多く,また景政を神としてまつる風習が広くおこなわれている。柳田国男が説いた〈目一つ五郎〉の信仰で,〈五郎〉を〈御霊〉に付会したものだが,《吾妻鏡》によると,1185年(文治1)の夏から秋にかけて,鎌倉の御霊神社にしきりに神異があったことが記されており,その託宣が人々に崇められていたことが知られている。
 中江田町地域に鎮座するこの社の案内板には、伝説に関して、その奮闘ぶりを讃え「矢を抜く」⇒「矢抜」と命名したとのことだが、この人物は後に「御霊信仰」の神、または「一つ目信仰・古代鍛冶集団」の神とも併せ持つ神と変貌してもいる。この事項は良く知ってご祭神としているのであろうか。
        
        社殿奥には小高い丘上となっていて、そこには幾多の石祠が祀られている。
 
    拝殿手前で左側にある神楽殿       境内にある「合祀記念」の石碑
                    合祀記念
             嚮者官發合祀之令也中江田郷當合祀者有
             五社迺請宮得其聽許而合祀於村社矢抜神
             社祭神經津主命猿田彦命埴山姫命倉稲魂
             命鎌倉權五郎景政而茲謹記其年月社號神
             名永傳于後記曰明治四十一年八月二十四
             日無格社諏訪神社祭神建御名方神境内末
             社秋葉神社祭神火産霊命無格社嚴島神社
             祭神市寸島比賣命境内末社愛宕神社祭神
             火産霊命無格社淺間神社祭神木花之佐久
               夜毘賣命宇迦之御魂命(以下略


参考資料「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」
    「新田下江田矢抜神社内・新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿の案内板」等

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大間々町塩原貴船神社

 みどり市(みどりし)は、群馬県東部(東毛地域)に位置する市で、2006年(平成18年)327日に、新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村の21村が合併し発足し、平成の大合併において群馬県で新たに誕生した唯一の市である。また群馬県初のひらがな名の市でもある。
 地形は南北に長く、北部には足尾山地が連なり、その山塊に源をもつ渡良瀬川が市の北東から南東にかけて流れている。東町地区の主な地域はこの渡良瀬川に沿うように形成されていて、上流部には草木ダムが豊富な水をたたえ、首都圏に水を供給する役割を担っている。中部から南部にかけての地域は、渡良瀬川の清流がつくりだした「大間々扇状地」により形成されている。
 この大間々扇状地は、足尾山地に源を有する渡良瀬川が赤城山の南東部の麓で関東平野に達し、桐生市から伊勢崎市や太田市に達する地域に土砂を堆積して形成されている。
 扇頂部はみどり市大間々町付近。この旧大間々町(おおまままち)は源を日光の山並みに発する渡良瀬川が、赤城山の東麓をとおり関東平野に出て作った扇状地の要に位置する。
 大間々(おおまま)の「まま」とは、切り立った傾斜地崖「まま」のことで、町の面積の70パーセントが緑におおわれた緑豊かな場所である。嘗ては、足尾銅山から発掘された銅を運ぶ銅山街道(あかがねかいどう)の宿場町として、また絹や農作物の市場として栄えた町であるという。
 旧大間々町北部の塩原地域に鎮座する貴船神社は京都・貴船神社の分霊を祀ったとされ、例年県内一の20万人もの初詣参拝者が訪れるという信仰篤い社でもある。
        
            
・所在地 群馬県みどり市大間々町塩原785
            
・ご祭神 高龗神 大山祇神 大穴牟遅神
            
・社 格 不明
            
・例祭等 節分祭 21日-3日 例大祭 51
                 秋祭 
101日 他
 筆者が在住する埼玉県熊谷市からは、国道17号バイパス「西別府」交差点先の上武道路に合流し、利根川を越え群馬県に入り、伊勢崎方面に向かう。17㎞程進んだ「流通団地前」交差点を右折し、栃木県道・群馬県道39号足利伊勢崎線沿いに東行する。その後「流通団地東」交差点を左折、今度は群馬県道291号境木島大間々線を大間々町方面に北上し、国道122号線と交わる丁字路を左折、渡良瀬川を越えた直後の群馬県道257号線との交点にある丁字路を左折し、3㎞程同県道に沿って進むと大間々町塩原貴船神社正面に到着する。自宅からこの社まで40㎞程、途中でいくつか別件にて寄り道をしたが、1時間30分位で到着することができる。
        
                 大間々町塩原貴船神社正面
 参拝当日は残念ながら雨交じりの天候で、平日の為、他の参拝客は全くなし。雨の影響からか足尾山系には霧も発生していたが、
それが不思議と紅葉時期とのコントラストに絶妙に合い、また社周辺の鬱蒼たる森の目の前に立った時、自分の存在の小ささを実感したと共に、何万年という途方もない月日を通して熟成されて到達した日本人独自の「天地自然の法則」、つまり大自然を畏れ謹み崇めて神としてきた考え方に深く共感する次第だ。
 当たり前のことだが、人間は水がなくては一日たりとも生きられない。本来その水を育むものは豊かな緑、森林であり、日本の神様は「清浄」を最高としている。その清浄をもたらす根源は水である。
 その水の神様として高龗神を祀っている大間々町塩原地域に鎮座する貴船神社にやっと参拝することができた。感激もひとしおだ。
        
              大間々町塩原貴船神社 正面一の鳥居
       鳥居は石段に達するまでに3基見え、自然と厳かな気持ちにさせてくれる。
 当社は大間々町の中心から足尾街道の対岸を渡良瀬川に沿って遡上した地にある古生層の断崖上に鎮座し、赤城山の雄姿を仰ぐこともできるという。
 社伝によれば、天暦10年(956年)に関東地方が干魃に襲われた際、山城国の貴船神社(現在の京都府京都市左京区鎮座の貴船神社)から神霊を勧請して降雨と五穀豊穣を祈願したところ霊験著しく甘雨を得たため、渡良瀬川流域の山地に祀ったのが創まりで、江戸時代の寛文8年(1668年)に現在地に遷座したという。        
        
      参道を進む途中、左側には環境庁・群馬県が設置している社の案内板がある。
    社の創建に関して、国家省庁や、地方自治体のお墨付き頂いた看板にも見える。
          
                  案内板の左側には鳥居があり、その先には手水舎がある。
    この手水舎の奥から、斜面上に祭られている境内社群に向かう道があるようだが、
              正面参道に戻り、参拝を改めて行う。
        
                          石段の様子
 石段の真ん中付近には4基目の鳥居があり、そこを越えるともうすぐ境内が見えてくる。この石段の両脇にも豊かな木々が生い茂げり、森の中で浄化された空気を体いっぱいに吸いこむと、体の隅々まで清められたかのようなすがすがしさに包まれるような気持ちになるから不思議である。
        
                     拝 殿
               
                                         案内板
(但しこちらは入り口付近に設置されている案内板。境内にもあるが、内容はほぼ同じなのでこちらを紹介する)
 貴船神社由緒
 ●創立
 平安時代の天暦十(九五六)年、東国(関東地方)がひどい干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神が、古来より祈雨・止雨祈願の神として信仰されてきた高おかみ大神で、その分霊を奉り降雨と五穀豊穣を祈願したところ、それがかなえられたので、関東平野の最北端、渡良瀬川流域の山地に祭られ、現在地に建立されたのは、江戸時代の寛文8(一六六八)年といわれています。
 ●御祭神
 御祭神は高龗大神のほか、大山祇大神、大穴牟遅大神が合わせてまつられています。
 高龗大神(たかおかみのおおかみ)
水の神さまで国土を永遠に湿潤にして草木の生育をたすけ、人々の生活を豊かにする。雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められてきた。
 大山祇大神(おおやまづみのおおかみ)
 山々の精霊を統括支配し、五穀豊穣をもたらす神。
 大穴牟遅大神(おおなむちのおおかみ)

 国土を治め、守護し、人々の病めるのを治し、不幸を救う神。
 外数神

 ●御神徳
 貴船大神は、関東地方を干ばつから守り、古くから水の神さまとして信仰されてきました。人類をはじめ地上に生育する全ての生物は一として水の恩恵を受けないものはありません。ですから貴船大神を崇敬し、その御神徳に浴すことは、衣食住の安全、即ち生活の保証を得ることになり、家内安全、商売繁盛、水の浄化力から厄除の神、また水の力は願い事を成就させるとして心願成就の神、そして交通安全の守護神として篤く崇敬されています。
 ●貴船信仰
 貴船の神は開運の神・心願成就の神として信仰されています。貴船神社の「きふね」は、昔は「気生根」とかかれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰です。水神の鎮まる貴船神社に参拝すると、気力が生じて願い事を成就できることから縁結び、恋愛成就の神としても知られています。 このように貴船の神は、衣食住の源である水を司る神、その水の源である雨をもたらす神として、また開運・心願成就の神として人々の崇敬をうけてきました。
                                      案内板より引用


      拝殿に掲げてある扁額         境内には小さいながらも手水舎あり。
        
              貴船神社境内から石段を下るその一風景
        
     石段には踊り場が数カ所あり、その右手の先には境内社群が祀られている。
   赤い鳥居の先には境内社があり、その周りにも古そうな石祠が並んで祀られている。             

 案内板の記載によると、昔「貴船」は「気生根(きふね)」と書かれ、水は気の生ずる根源であり、生命の原動力である気が蘇ると元気が出て運が開け、願い事を成就できるという信仰であるという。そのことから、縁結びや開運、心願成就の神様としても広く信仰されている。
人が事成す時は、やはり「気」は必要なのだ。そのことを改めて感じさせてくれたことに対して感謝をしながら、この厳かな雰囲気の社参拝を終えることができた。


参考資料「みどり市HP」「旧大間々町HP」「貴船神社公式HP」「
Wikipedia」
 

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