古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

萱野白山神社


        
             
・所在地 群馬県県邑楽郡千代田町萱野1195
             
・ご祭神 菊理比咩神 伊邪那美命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭り 720
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2056524,139.4619043,15.75z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を直進する。1㎞程先には「ジョイフル本田千代田店」の大型ショッピングモールがあり、そのショッピングモールの真ん中付近にある丁字路を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。昔からある長閑な住宅街のようで、どことなく筆者の幼少期を思い出すセンチメンタルな感傷に浸りながらも、周囲の安全を確認し運転をしていると、進行方向右手に萱野白山神社の鳥居が見えてくる。ナビを利用しているが、移動するにも意外と簡単に到着ができ、ブログにも説明しやすい場所である。
 鳥居の左側には適当な駐車スペースがあり、そこの一角に停めて貰い、参拝を開始した。
        
                  
萱野白山神社正面
 手前の鳥居には「白山社」、奥の鳥居には「雷電社」の社号額。この萱野白山神社は、本殿と共に雷電神社も一緒に祀られているが、その合祀時期は不明との事。

『日本歴史地名大系』「萱野村」の解説
東は上中森村、西は赤岩村・木崎村、南は上五箇(かみごか)村・瀬戸井村・赤岩村、北は野辺村(現館林市)・木崎村。小泉城(現大泉町)の冨岡氏の所領を示す天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)に「館林領之内」として萱野がある。近世は初め館林藩領。寛永九年(一六三二)に村の一部を分離し、野辺村としたという(邑楽郡町村誌材料)。寛文郷帳に田方六五九石八斗余・畑方二六二石三斗余とあり、田方に「水損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)では高一千一一四石三斗余、田五二町九反余・畑五五町五反余である。
『千代田村の民俗HP』による「萱野村」の解説
名称 称呼ノ起因不詳 建置已来上中森村卜称ス
所属 上古不詳 中古ヨリ邑楽郡赤岩郷二属シ佐貫荘二隸ス 寛文元年ヨリ館林領卜云フ明治元年九月岩鼻県ノ管轄二属シ仝四年二月館林藩ノ管轄二属シ仝年七月館林県トナル 仝年十一月栃木県ノ管轄ニー属ス 仝五年四月第七拾区ニ属シ須賀村御用取扱所ニ属ス 仝六年三月第八大区八小区トナリ御用取扱所故ノ如シ 仝年八月第拾一大区八小区二編シ御用取扱所仝上 仝九年四月十日第四大区十二小区ニ編シ須賀村御用取扱所ヲ区務所卜改メ仝村ニ置ク 仝年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ第二十三大区八小区二編シ区務所故ノ如シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属シ郡区編制ノ令ニ拠リ上五箇上中森下中森ノ三ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ本村ニ置ク 仝十三年十二月分離独立シテ戸長役場ヲ本村
二置ク 仝十七年七月一日上五箇上中森萱野木崎瀬戸井ノ五ケ村ヲ連合シテ戸長役場ヲ上五箇村ニ置ク
管轄 往昔不詳 寛文元年ヨリ天和二年迄館林城主宰相右馬ノ守綱吉之レヲ管ス 後五分シテ其ーハ前橋城主松平大和守之ヲ領ス 其四ハ旗下青山三之助 山'岡十兵衛 三浦甚橘 小出静五郎四氏ノ採地ニ属ス
明治元年九月岩鼻県管轄ノ分館林藩ニ属シ 仝年七月廃藩置県前橋藩ノ所管モ併セテ館林県ノ管轄トナリ 仝九年八月九日更ニ群馬県ノ管轄ニ帰シ 仝十一年十二月邑楽郡役所ノ管理ニ属ス
        
                落ち着いた雰囲気の境内
        
                    拝 殿
 白山神社
 社格 村社明治五年十一月ヨリ村社二列ス。創建年月 不詳。
 祭神はククリ姫神。御神体はとぐろを巻いた蛇を手の平にのせている。七月二十日に夏祭りをする。獅子がでて盛んであった。獅子は厄神除けといわれている。村中の若い衆によって行われたが、獅子、ササラなどみな役割がきまっていた。七月十九日の午後と二十日は神前で獅子舞をし、二十一日は個別の家を回って、病んでいる人のわるい所をかんで厄神除けをした。
 むかし、御神木の杉があって、その皮をかじると虫歯によくきいた。不思議と痛みがとれたものである。
 白山様には雷電神社も合祀されているが、合祀の年月は不詳。千代田村は全区、瀬戸井の南室神官がとりしきっている。
                               『千代田村の民俗HP』より引用

        
                           境内に設置されている「芭蕉句碑」
社殿右側に祀られている境内社・富士浅間神社     墳頂に鎮座する富士浅間神社
富士浅間神社の手前には多くの石碑が祀られている。左側から、「高尾山」「?」「?」「小御嶽石尊大権現」「富士登山真願成就碑」「宇佐八幡大神。湯殿神社・若宮八幡大神」「五社神」等。
 
 境内社・富士浅間神社の手前にある庚申塔等  道路側にも庚申塔や境内社・八坂神社が鎮座



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田村の民俗HP」等

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古海長良神社

『日本歴史地名大系 』「古海原前古墳群」の解説
 利根川左岸の後背湿地に囲まれた邑楽台地の南辺西寄りに立地する。東西約八〇〇メートル、南北約五〇〇メートルで、標高二五―三〇メートルの範囲に二六基の小型墳が分布するが、大半はすでに消滅している。昭和五九年(一九八四)から一号墳と二号墳が、道路新設に伴って発掘調査された。一号墳は墳丘の大部分が削られて墳形や規模は不明であるが、現墳丘高約三・三メートル、径約三〇メートルほどである。埋葬施設は墳頂直下に上下に重なって四基検出されている。
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や規模は小さいながらも古墳が数多く存在しており、発掘調査の結果、その遺跡や古墳からは埴輪(はにわ)や土器、石器、大刀(たち)、鏡などの埋蔵文化財が数多く出土していて、古海原前(こかいはらまえ)1号古墳や古海松塚11号古墳は群馬県指定史跡に指定されている。
古海地域東側にある「古海原前(こかいはらまえ)1号古墳」は、5世紀後半に造られた帆立貝式古墳で、四重に重なった埋葬施設が検出された。埋葬施設からは、副葬品として、捩文環式環頭大刀(ねじもんかんしきかんとうたち)と呼ばれる直刀、同向式画文帯神獣鏡(どうこうしきがもんたいしんじゅうきょう)と呼ばれる鏡、鉄製の馬具・轡(くつわ)、鉄鏃(てつぞく)、玉(ぎょく)類、供献土器(きょうけんどき)類などが出土している。
古海松塚11号古墳は、帆立貝式古墳で、円筒埴輪、人物埴輪、馬形埴輪、大刀形埴輪、須恵器甕(すえきかめ)、高坏(たかつき)などが出土した。出土遺物の特徴から、5世紀後半のものと考えられている。人物、馬形埴輪については、東日本でも最も古い段階の人物、馬形埴輪に位置付けられており、群馬県内では最古に属しているという。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡大泉町大字古海2209
            
・ご祭神 藤原長良公(推定)
            
・社 格 不明
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2310908,139.4098957,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 舞木長良神社から栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を大泉町方向に2.5㎞程進行し、「新福寺」交差点を左折する。群馬県道314号古戸舘林線にかわり、その県道を道なりに900m程進むと、進行方向右手に高徳寺が、そしてその寺に隣接するように古海長良神社が見えてくる。
 古海長良神社のすぐ左側には「古海西公民館」もあり、駐車スペースも十二分にある。
        
                  
古海長良神社正面
 古海長良神社の一の鳥居に掲げてある社号額には「贈正一位 太政大臣 長良大明神」と物々しい神階で表記されていて、規模は小さいながらも格式のある社なのであろう。
        
                  参道正面先の高台上に社殿は鎮座している。
 群馬県邑楽郡大泉町古海地域、また珍しい地域名で、「古海」と書いて「こかい」と読む。埼玉県道ように群馬県も「海なし県」であるのも関わらず、地域名が「海」が付く。いつものように『日本歴史地名大系 』で調べてみると「南を利根川が流れ、東は舞木村・新福寺(しんぷくじ)村(現千代田町)、西は仙石(せんごく)村、南は武蔵国幡羅郡善ヶ島村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は吉田村と接する。天正一二年(一五八四)と思われる六月二日の北条氏直書状(大藤文書)に「自新田古海へ相動候」とあり、大藤式部丞が北条氏にくみして当地域で戦っている。同年七月二三日には同人宛に「館林古海」での働きに対し北条氏直感状(同文書)が出されている。近世は初め館林藩領。寛文郷帳では田方四六石二斗余・畑方六三二石四斗余で、田方に「田方水旱両損」と注記される。寛文地方要録(館林市立図書館蔵)に高七九二石七斗余、田二町七反余・畑七一町一反余とある。慶安三年(一六五〇)のほか度々小規模の検地が行われ、延宝八年(一六八〇)の村高は八二七石四斗余」と「古海村」の解説がされているが、残念ながら「古海」の地名由来までは分からず、他の資料等確認しても同様であった。
          
 群馬県大泉町・古海地域には、遺跡や古墳が数多く存在している。この社も高台上に鎮座しているのだが、現在は土塁・塚としての分類となっているようだ。
        
                    拝 殿
                            古海長良神社の由緒等は不明。
 盛夏の暑い中での参拝であるのだが、石段上の境内は鬱蒼とした森に囲まれているためか、暑さはしのげる。昼間の参拝にも関わらず境内はほの暗い。さすがにこの天候故、日中散歩をする近所の方も全く出会わず、社周辺は人気は全くなし。
 県道沿いに鎮座していて、車の往来も適度にあるのだが、境内に入ると車のエンジン音もほとんど聞こえなくなる。いつも思う事だが、森に囲まれている社は、我々一般の日々の喧騒とは無縁な、不思議な余韻に満ちた空間とも言えよう。
        
                                        本 殿
 
  拝殿に通じる石段左側に祀られている      社殿左側に祀られている境内社三基
  「猿田彦大神」、その隣の石祠は不明          どれも詳細は不明
       
                 境内の周囲には豊かな樹木に覆われている。
        その中でも社殿奥に聳え立つ巨木は、一際目立つ(写真左・右)
        
                         石段上部から鳥居方向を撮影
      境内はほうき等により掃き清められ、こじんまりながら纏まっている社だ。 
 
 古海長良神社の東側に隣接して、高徳寺がある。太平記でおなじみの児島高徳を開祖として開山されという。規模といい、嘗ては古海長良神社の別当的な寺院であったのではなかろうか。
        
             
高野山真言宗・醫王山延命院高徳寺正面
        
              入口付近に設置されている案内板 
 児島高徳公と高徳寺
 この高徳寺は後醍醐・後村上・長慶天皇と南朝三代の天皇に仕えた児島高徳(剃髪して志純義晴)を開祖として開山されました。
 児島高徳は一三一一年備前国児島の尊瀧院(岡山県)で生まれて一三三二年後醍醐天皇が隠岐へ流される時 院ノ庄の御館の庭で「天莫空勾践・時非無范蠡」という十字の詩を書いて自ら范蠡を以て任ずるの意を奏上しました。その後新田義貞の傘下で戦い義貞死後は義貞の弟脇屋義助に従って四国征伐に赴き、義助の死後はその子義治を擁して京都で再挙を計画したが功ならず、正平七年(一三七三年)攝津の天王寺に行宮せられた後村上に召されて「関東に下って兵を集めよ」との勅命をうけて新田氏・宇都宮氏・小山氏などの協力で兵一万人を京都へ向かわせるなど、新田氏との関係が深かった。
 この上州へ建徳二年(一三七一年)新田庄御滞在中の宗良親王の許へ使いしたつを契機として、この地古海に隠棲して軍口守護神であった摩担利尊像を安置し、宗良親王に仕えたり、南朝の再興にも苦慮した。十一年…永徳二年十一月二十四日(一三八二年)享年七十二でこの寺で永眠されました。
 昭和五十五年七月一日 文岡野鉄次郎
                                      案内板より引用

 児島 高徳(こじま たかのり)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。現在の岡山県倉敷市にあたる備前国児島郡林村出身。和田備後守範長の子。三宅備後三郎と称し備前(現岡山県)に住したという。元弘(げんこう)の変(1331)に際し後醍醐天皇に応じ備前に挙兵した。乱後隠岐(おき)に配流される天皇を途中で奪おうとして失敗、のち天皇が伯耆国・船上山(せんじょうさん・現鳥取県琴浦町)に脱出するや、一族を率い馳せ参じた。建武政権崩壊後も南朝側として行動し、1343年(興国4・康永212月には、丹波守護代荻野朝忠(おぎのともただ)と共謀し挙兵せんとしたが成功せず、ついで脇屋義治(わきやよしはる・新田義貞の弟脇屋義助の子)を大将としてひそかに入洛し足利尊氏らを討とうとしたが露見、義治とともに信濃に逃れた。これ以後その活動がみえなくなる。但し、これらの事跡は『太平記』にしかみえず、その実在が問題とされている。
 
        高徳寺境内           高徳寺と古海長良神社の間にある七母殿

 この人物は謎が多い。意外と歴史通の方々には認知度の高い人物であるにも関わらず、まず生没年がはっきりと分かっていない。一応、高徳の子孫の所蔵する『三宅氏正伝記』には、正和元年(1312年)生誕、弘和二年(1382年)十一月二十四日、上野国邑楽郡古海村に於いて没したと記されている。享年は七十二。この『三宅氏正伝記』は、高徳の研究に於いて重要、且つ貴重な資料とされる家伝書であるが、これらが正確かといえば、資料自体の正当性の点から疑問符が残るため、やはり生没年は不詳とせざるを得ないという。
 新田荘がある群馬県東毛地方では、高徳が晩年に古海太郎広房という武将を頼ってこの地に移り住み、出家して備後三郎入道志純義晴と名乗り、建徳2年(1371年)から弘和2年(1382年)に没するまでを過ごしたと伝えられている。また、群馬県大泉町古海には、高徳のものとされる墓や住んでいたとされる寺(高徳寺)、高徳を祀る神社(児島神社)などがある。
 古海長良神社から100m程南方ににある「児島高徳墳墓」は、昭和541130日に、大泉町指定史跡に指定されている。



参考資料「日本歴史地名大系」「大泉町HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」
    「高徳寺掲示板」等
  

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舞木長良神社

『日本歴史地名大系』「舞木(まいぎ)村」の解説
 [現在地名]千代田町舞木
 南を利根川が流れ、東は赤岩村、西は古海(こかい)村(現大泉町)、南は武蔵国幡羅郡葛和田(くずわだ)村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は新福寺(しんぷくじ)村・福島(ふくじま)村。貞観年中(八五九〜八七七)舞木氏の所領に由来する村名とされる(邑楽郡町村誌材料)。地元の伝承によれば、舞木村はもと中島村といい、貞観年中藤原長良がこの地に本拠を定め、武蔵国羽生(現埼玉県羽生市)の猪熊森高を討った際、春日社前で榊に祈り、帰陣の時にこの榊が空に舞上がり、中島に落ちたので舞木村と改めたという。応安七年(一三七四)下野小俣(現栃木県足利市)の鶏足(けいそく)寺二九世尊誉は「舞木駒形堂」で仏事を行っている。
『日本歴史地名大系』での、地元の伝承によれば、舞木長良神社の地域名「舞木(まえぎ)」の由来が伝わっている。貞観年間(85977年)に藤原長良が武蔵国羽生の猪熊森高を攻める際、春日社前で榊に四垂を掛け戦勝祈願を行った。その後、猪熊との戦いに勝利し再度訪れた時、榊が空中に舞い上がり隣地の中島村に落ちた。そこで中島村を舞木村と改めたという。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町舞木267
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.2138679,139.4306178,16z?hl=ja&entry=ttu
 瀬戸井長良神社から利根川沿いに通じる栃木県道・群馬県道足利千代田線を2㎞程西行すると、三叉路となるので、そこを左斜め方向に200m程も直進すると右手側に舞木長良神社の大きな朱塗りの鳥居が見えて来る。すぐ南側は利根川の堤防が東西に広がる地だ。
        
                  
舞木長良神社正面
 舞木長良神社北東方向近郊には「舞木城址」があり、現在は小さな公園になっていて、その遺構等は全くみえない。昭和44年までは小学校があったようだ。住宅地の中にポツンとあるので、あまり目立たないが、その公園内には「藤原秀郷公誕生之地」と刻まれた石碑がある。
 舞木城址 所在地 千代田町舞木五一
 舞木城は、面積およそ三ヘクタール、周囲に土居と溝〇をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年中(九三一〜九三七)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八〜一五三一)まで秀郷の子孫が居城していたという。また舘林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって舘林城(尾曳城)を築いたと記され、舞木と舘林とのつながりを浮き彫りにしている。
 この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。(千代田町教育委員会より掲示)

また
『千代田町HP』には藤原秀郷に関して以下の内容を紹介している。
 藤原秀郷
 平安中期東国の豪族藤原秀郷(俵藤太)(たわらのとうた)は、藤原北家房前の子左大臣魚名(さだいじんおうな)(川辺大臣)より三代下った村雄(むらお)(下野権大掾河内守)(しもつけごんだいじょうかわちのかみ)の子で、出生は舞木・赤岩他多説がある。
 成人して弓の名人となりその豪勇伝説はあちこちに残っている。主なものは、「三上山の百足(むかで)退治」と、「平将門(たいらのまさかど)の乱」の平定(天慶三年)である。
 その功により下野国押領使から從四位下野守(じゅうしいしもつけのかみ)(武蔵守も兼務)に任官し、功田も賜った。又、築城にも才能を発揮し、下野国唐沢山城が有名である。
 当地の伝承は「赤城山の百足退治」と舞木城の築城である。舞木城址は永楽小学校の敷地として六十年間使用された後、現在は「俵団地」としてその名を留め、一角に顕彰碑が建っている。秀郷の子孫は各地に亘り分布しているが、当地でも「秀郷流」を名乗ってその拡大をはかり、先の「小黒磨流」と複雑に絡み合いながら佐貫荘を維持した。
 藤原秀郷に関して幾多の伝承・伝説があるため、逆に史実としての人物像がかすんでしまっているのも確かで、謎の多き人物であることには違いない。この舞木の地が秀郷生誕の地であることも決して否定はしないが、客観的な事実として受け止めるには、まだ十二分な照明はされていないように見える。但し秀郷の子孫である藤原秀郷流の佐貫氏やその一族である舞木氏がこの地に存在していたことは、事実である。
        
                   境内の様子
 藤原秀郷流佐貫氏一族に舞木氏がいた。上野国邑楽郡佐貫庄舞木村(千代田町)より起ったという。元々佐貫荘(現・群馬県館林市周辺)は、藤原秀郷流の佐貫氏が拠った土地であったが、室町時代以降は佐貫氏庶流である舞木氏が支配しており、15世紀前半には舞木駿河守持広が登場する。この舞木駿河守持広は岩松満純(持国の伯父)の追討では、被官の赤井若狭守とともに参加し、永享の乱で活躍した。
『国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙』
 応永二十三年(1417)千葉介兼胤岩松治部大輔入道天用両人は禅秀のむこなれば不及申、渋河左馬助舞木太郎児玉党には大類・倉賀野・丹党の者ども其外荏原蓮沼別府玉井瀬山甕尻、甲州には武田安芸入道信満には禅秀の舅なれば最前に来る(中略」 
 応永二十四年(
1418
)卯月二十八日、禅秀聟岩松入道天用は禅秀が残党を集め上野国岩松に蜂起しけるを舞木宮内丞馳向合戦してこと/\く追散しお天用を生捕にして鎌倉へ奉りければ五月十三日瀧口へ引出首をはねられけり
 その後、永享12年(1440年)結城合戦では結城方にくみし、山内上杉家の家宰・長尾忠政(忠綱の子)により謀殺され舞木氏は没落、代わって上野赤井氏の赤井照光が舞木佐貫一族を打倒し庄頭の地位を得る。しかし舞木氏は決して滅亡したわけでなく、足利鑁阿寺文書にも「弘治二年(1556)舞木兵庫太夫景隆花押。永禄三年(1560)舞木兵庫太夫定綱花押」等の書状が今でも残っている。
        
                    拝 殿
       瀬戸井長良神社と同じく、拝殿は利根川に対して正面を向いている。
 瀬戸井長良神社の項において、説明を既にしているが、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来である。
 舞木長良神社もこの「十八長良」の一社と推測され、瀬戸井長良神社から勧請して、当地に鎮座したと考えられる。
        
                    本 殿
        
   拝殿左側前方には不思議な巨石があり、その巨石の奥には境内社二社が祀られている。
 この巨石は元からここにあった物であろうか。かなりの大きさだ。ご神体ともいえそうな貫禄ある外観だ。奥に祀られている境内社は、左側は不明。右の境内合祀社は 左から水天宮・戸隠神社。
        
                                 社殿左側に並ぶ石碑群
 左から金刀比羅宮・庚申供養塔・道祖神・不明・不明・雷電宮・不明・石仏・権現・弁財天。実は後列にも石祠三基あるのだが、この石祠の詳細は不明。
 権現と弁財天の間には「権現・弁財天の遷宮 舞木権現地区の区画整理にともない、町田〇宅(舞木二一四)に奉られていた権現・弁財天を長良神社境内に移転した。平成十六年九月吉日 権現地区 氏子一同」と刻まれている石碑がある。
              
      社殿の右手には石碑が六基あり、一番左側には「神域整飾記念碑」がある。
                  「神域整飾記念碑」
           千古の歴史とともに奉安しこの地に鎮座まします長
          良明神は盛運なり このたび利根川改修に当り〇舞木
          地先利根堤防の拡張が計画され昭和四十八年三月神域
          の整備を計ることとなった 神殿並びに境内の整飾と
          〇か活用について神社総代等鳩首協議を重ねた結果永
          く祀る歴史の尊厳を基調とし恵まれた環境を考慮し境
          内を将来に託す子供達の良き運動の場とすることに決
          した 国の補償費四百万円をあて昭和四十八年十月着
          工同五十年十月完工〇此の間工事の掌に当る一同の献
          身的奉仕による計画実践督励によって社殿神徳の高揚
          に努めここに斯くの如く感性を見たのである 壮麗な
          る社殿と明るく崇高なこの神域こそ利根河畔に当村氏
             の生活の拠点たることを念じて之を記す
                   江沢卓郎撰並書
       
        左側三番目にある大黒天の線刻画碑   右端の石碑は御嶽山大神御璽
        
    石碑群の右手には祭祀用の用具がある殿であり、中に神興舎が保管されている。



参考資料「国立国会図書館デジタルコレクション 鎌倉大草紙」「日本歴史地名大系」
    「千代田町HP」「埼玉苗字辞典」「舞木城址 案内板」「Wikipedia」「境内石碑文」等
    

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瀬戸井長良神社

 藤原長良(ふじわら ながら/ながよし)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言、贈正一位、太政大臣。
 家督は同母で次男の良房が継いでいるとはいえ、名門藤原北家の長男という毛並の良さからか、高潔な人柄で、心が広く情け深い一方で度量もあった。弟達に官途で先を越されたが、何のわだかまりもなく、兄弟への友愛は非常に深かった。士大夫に対しても常に寛容をもって接し、貴賎に関係なく人々に慕われた。仁明天皇の崩御時には、父母のごとく哀泣し続け、肉食を断って冥福を祈念したという。
 不思議な事に、藤原長良は、加賀権守(834年)、相模(権)守(843年)、讃岐守(846年)、伊勢守(850年)と幾多の国守に任命されているが、上野国の国主を務めたという事実は無く、またその国守に任命されている場所も、ほとんどが西日本であり、唯一相模(権)守のみ。またこの翌年承和11年(844年)に従四位上・参議に叙任され、公卿となっているので、たとえ相模国に赴任したとしても、せいぜい1年程度しかいなかったことになろう。
『日本歴史地名大系 』には「長良神社」の解説を載せている。
 瀬戸井(せどい)の西端、字宮下(みやした)にあり、祭神は藤原長良。この地方がしばしば乱れたとき、藤原長良が鎮撫したという。帰京して没したが、その恩徳を慕い神として祀るようになった。当社は貞観一一年(八六九)邑楽郡赤岩(あかいわ)城主赤井良遠が勧請し、社殿を造営、遷宮の式を行い郡中総鎮守としたのが祭祀の始まりといわれる。
 長良神社は邑楽・新田両郡一帯に二八社存在しているが、長柄(ながら)神社と同一とみる、つまり長良は長柄の誤りとする説もある。
『日本歴史地名大系 』によると、「東国平治の為、当地に下向し、衆庶を憐み仁恵を施し 任満ちて帰京」したとするが、現実の史実にそのような官歴はない。何とも不思議な社である。
        
            
・所在地 群馬県邑楽郡千代田町瀬戸井7971
            
・ご祭神 天照皇大神 藤原長良公
            
・社 格 旧佐貫荘宮付十二ヶ村総鎮守邑楽郡長良社本宮・旧郷社
            
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.203088,139.4433439,16.25z?hl=ja&entry=ttu
 行田市の「利根大堰」を北上し、群馬県に入り「上中森」交差点を左折する。栃木県道・群馬県道38号足利千代田線を2.3㎞西行すると、県道から少し離れた奥に見える社叢林と共に瀬戸井長良神社の石製の鳥居が見えてくる。
 正直一見派手さはない。しかしながら旧郷社の格式が示すように、県道から見ても社叢林は奥まで広がり、社全体の規模は大きく感じる。周囲には社の看板があるわけでもなく、時にお約束事ではないが、登り旗等で意識的に自らの存在をアピールする様子もない。それでいてその地にしっかりと根付いているような風格や存在感を漂わせているような重厚感ある社である。
        
                                 瀬戸井長良神社正面
      鳥居の右側に社号標柱が建ち、その手前には「猿田彦太神」の石碑がある。
         社殿は南向きで、鳥居の目の前には利根川の堤防が見える。
『日本歴史地名大系 』「瀬戸井村」の解説
 南に利根川が流れ、東は上五箇(かみごか)村、西は赤岩村、南は武蔵国埼玉郡酒巻村・北河原村(現埼玉県行田市)、北は赤岩村・萱野(かやの)村。休泊(きゆうはく)堀の用水が赤岩村から当村の中央を東流して上五箇村に入る。「吾妻鏡」に記す宇治橋渡河にみえる藤原秀郷の後裔佐貫広綱の子瀬戸井五郎が当村に住したと伝える。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)は、小泉城(現大泉町)の城主冨岡氏の所領を示しており、そのなかに「館林領之内」として瀬戸井がみえる。近世は初め館林藩領。正保元年(一六四四)から寛文元年(一六六一)までの大給松平氏が藩主の期間は幕府領。
        
                               真っ直ぐな参道が続く。
     以前の参道の両側には桜並木となっていたようだが、今は伐採された模様。
千代田町 HP」には、藤原北家房前の子真楯(またて)の孫冬嗣(ふゆつぐ)の嫡男長良について、千代田町にはこんな伝承がある。赤岩の東隣、瀬戸井北の大沼に大蛇が棲んでいて、利根川に水を呑みに現れたり、ときどき娘を攫ったりして村人を苦しめていた。「都から長良様という偉いお方が桐生にお出でになっていなさる。」と、人伝てに聞いた里人は、長良に大蛇退治を頼みこんだ。長良は、御殿女中(ごてんじょちゅう)で弓の名手のおさよ殿に大蛇の両目を射させ、なおも抵抗する大蛇を刀で十八切りにし、頭を瀬戸井に、その他を近郷に分け与えた。これに感激した里人は長良様を祀(まつ)るようになった。「十八長良」の由来であるという。
        
       拝殿までの参道左側には途中三本の脇道があり、境内社や石碑等が祀られている。
 一番手前の脇道に祀られている「御嶽三柱大神」、その両側にはそれぞれ「豊斟渟尊・国狭槌尊」「天御中主神」の石碑が祀られている。
「御嶽三柱大神」なる神はともかく、天之御中主神・豊斟渟尊・国狭槌尊は日本神話における「天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に生まれた別天津神(ことあまつかみ)、並びに神代七代のうちの二柱の神である。
 
 その先に祀られている境内社。詳細不明。   一番先に祀られている「千勝大神」の石柱
本来は二社あったのであろうが、今は右側のみ。
 
   境内社・石碑等の先にある神楽殿         境内に設置されている由緒板
        
                                   拝 殿
                  主 神 天照大神
                  御祭神 藤原長良公
          藤原長良嘗て東国平治の為め 当地に下向あり 衆庶を
         憐み仁恵を施し 任満ちて帰京後薨去し 貞観十一月三月
         十八日大和国春日神社の末社に列祀す 時に上野の住人赤
         井良遠なる者 長良公の餘徳を慕い之を本国に勧請せんと
         浴し 其の旨を奏聞しけるに叡感浅からず 即ち上野国佐
         貫荘本村に社殿造営の勅許あり 因りて翌年九月九日遷宮
         式を行なう 爾来佐貫荘の人民一向に信仰して宮附十二ヶ
          村の総鎮主とす 其の後文明年間より分社するもの多く
                             之を邑楽郡長良社の本宮と稱する
                            「境内 由緒板より引用」

        
                         拝殿向排部に精巧に施されている彫刻
 
         本 殿           本殿奥にポツンと祀られている一基の石祠
        
                  社殿からの一風景
 群馬県千代田町瀬戸井地域に鎮座している長良神社は、邑楽郡下や一部旧新田郡下に分布する長良神社の中心的な存在で、嘗ては旧佐貫荘十二ヶ村の総鎮守であったという。長良神社はご祭神を藤原長良公としており、冒頭に述べたように、東国平治のためにこの地域に来て善政をしたので、土地の人々はその徳を慕って、既に春日神社の本社として列祀されていた長良公の霊を、ここ瀬戸井に分祀したものという。
 しかしそもそも東国とは無縁な藤原北家の長男が、この地に祀られていること自体、歴史的な事実ではないことであるので、実際は別の伝承が根底に隠されている可能性が高い。
「長良」は「長柄(ながら)」と同名ともいう。奈良市御所市名柄の旧名は大和国葛上郡長柄庄といい、同じ「長柄」を共有していて、『延喜式神明帳』に葛上郡長柄神社を載せている。『姓氏録・大和国神別』には「長柄首、天乃八重事代主神の後なり」と記載がされていて、ここのご祭神は「事代主神」である。事代主命の子孫が大和国葛上郡吐田郷長柄(現 奈良県御所市長柄)に移り住み、氏神として式内長柄明神を祀ったと云う。
 ところで、群馬県邑楽郡邑楽町には「長柄神社」が鎮座している。この社は、事代主命を祭神といるのだが、社伝によると、長柄一族が1400年前の飛鳥時代に利根川北岸の邑楽郡西南部に長柄郷を開発し、氏神の長柄明神を祭り草創したのがこの長柄神社という。
 この長柄神社には「長柄神社由緒」が設置されている。内容は以下の通りだ。
「長柄神社由緒」
当社は千四百年前、大和から邑楽郡に来て長柄郷を開発した長柄氏が始祖事代主命を祭神として草創しました。上野国神名帳に「正一位 長柄明神」と記された邑楽郡一ノ宮がこの社です。元慶五年(881
)に藤原長良公を合祀し、近郷の首社として崇拝され(以下略)
        
            利根川の度重なる洪水被害から身を挺して人々を守ろうと
          あえて河川堤防のすぐ北側に鎮座しているようにも見える。

 利根川中流域沿いに数十社点在する長良神社。鎮座地域が限定されているこの社は埼玉県元荒川左岸に鎮座している「久伊豆神社」と同様に、ある特定の一族で信奉されたお社である可能性が高い。そう考えると、事代主命の子孫である「長柄氏」の渡来地を「長柄」「長良」「永良」と称し、社をつくり、祖神の事代主命を祀った。
 本来は「長柄氏」のいずれかがこの地域に善政をした事項、恐らく利根川治水関係で業績を上げた人物と思われる(瀬戸井北の大沼の大蛇伝承を参照)が、時代が下るにつれて、年代が比較的近く、また藤原北家という毛並の良さも手伝って、いつの間にか「藤原長良公」が鎮撫したと書き換えられたのではなかろうか。
 何となく、この邑楽町の長柄神社由緒に記されている内容のほうが、筆者にはよりリアルに感じるのだが、如何であろうか。



参考資料「日本歴史地名大系」「千代田町 HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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小泉稲荷神社


        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市小泉町231
              
・ご祭神 稲魂命(宇迦之御魂命) 大己貴命
              
・社 格 旧小泉村鎮守
              
・例祭等 月次例大祭 415日 中祭 121日 他
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3385264,139.2549405,17z?hl=ja&entry=ttu
 下渕名大国神社から国道17号上部バイパスを伊勢崎方向に進行し、4.4㎞程先の「あずま跨道橋」交差点を右折する。群馬県道68号桐生伊勢崎線を北東方向に1.3㎞進むと、「小泉稲荷神社」の立看板のある変則的な十字路があり、そこを右折、その後早川に架かる朱色の「小泉稲荷橋」を渡るすぐ先に有名な小泉稲荷神社の大鳥居が見えてくる。
        
              小泉稲荷神社に通じる巨大な一の鳥居
       回りに大きな建物等がないため、鳥居の大きさがひときわ目立つ。
                
高さは22.17m。竣工は昭和56
                この大鳥居から東方向に500m程先に小泉稲荷神社が鎮座する。
『日本歴史地名大系』「小泉村」の解説
 利根川右岸で、北は下之宮(しものみや)村、南は沼之上(ぬまのうえ)村・飯倉(いいぐら)村、東の利根川対岸は柴(しば)町(現伊勢崎市)。下之宮村境に矢や川の旧河川敷が低地をなす。
 正保五年(一六四八)前橋藩によって検地が行われ、反別合計一九町余(小泉村誌)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方二六石余・畑方八八石余。近世後期の御改革組合村高帳では旗本戸田領、家数一六。前掲村誌によると天明三年(一七八三)浅間焼けによる降灰は七、八寸に及び、水田三町歩が利根川を流下した泥土で埋没したと伝える。この泥入りで沼之上村との境界が不明となり、両村の村方三役が立会いで境界を定めた(「取替議定書」高橋文書)。

        
                          東向きの小泉稲荷神社正面鳥居
   この鳥居に対して横向きに奉納・寄進した大小300基もの鳥居が参列に並んでいる。
 嘗て京都の伏見稲荷神社に参拝したことがあったが、そこには不思議な美しさと神聖性が辺りを包んでいたように感じたが、この社はやや窮屈そうな印象は正直ぬぐえない。
        
         東向きの正面鳥居に対してズラリと並んだ南向きの鳥居群
       
                        濃密な鳥居のトンネル
          奥行きもあるため、鳥居の先がここからでは見えない。
       
           鳥居のトンネルを抜けると正面に拝殿が見える。
             
      境内には「拝殿屋根改修記念碑」があり、社の由緒等が記されている。
 拝殿屋根改修記念碑
 幾百年の歴史を胸に社前にぬかづくとき、なぜか心の安のやすらぎを感じる小泉稲荷神社
 御祭神稲魂命(うかのみたまにみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする小泉稲荷神社は、人皇十二代崇神天皇の御代に豊城入彦命が東夷征討の際、案内の武臣が勅命によって山城国伏見稲荷大明神の御分霊を奉紀し住民の安穏と五穀豊穣を祈願し崇敬の道を教えるため創建されたと伝えられている
 其の後、慶長五年(1600年)この地の領主久永源兵衛は崇敬の念が篤く社殿を修理し敬神の範を示したために領民からは氏神としたと云われる。特に江戸時代末期の祭礼日には近郷近在の参詣人で非常に賑わったと云われている。
 明治・大正時代を経て昭和初期社殿を改築する。その後、昭和三十六年四月社殿運営の奉賛会を組織し崇敬者の多数の御協賛により現在の社殿を造営する。以来、稲荷大明神の御神威益々輝き、霊験あらたかな御神徳を仰ぎ、幸福を願う崇敬者は現在数十万人にも及ぶ賑わしさになる。
 社前には二百数十基にも及ぶ鳥居が奉納されている。尚崇敬者の真心を顕現し小泉稲荷神社の神域の基礎と神威の象徴を明らかにするため大鳥居建設奉賛会を組織し、万余人に及ぶ崇敬者の御協賛をいただき昭和五十六年四月高さ二十二・一七メートルの大鳥居を竣工する。
 平成十七年十二月に拝殿屋根改修を行う。

 小泉稲荷神社の創建は、崇神天皇の時代に、毛の国開拓の祖神とされる豊城入彦命が、東夷征討の折に山城国伏見稲荷の分霊を祀って創建したものと伝えられている。但し伏見稲荷大社の創建時期は和銅年間(708年〜715年)といわれているので、「崇神天皇」の御代とは年代は会わないが、それだけ歴史も古く由緒もあったのであろう。
 平安時代には、耶無陀羅寺という阿弥陀寺の境内社になっていたという。その後、安土桃山時代の慶長5年(1600年)、当地の領主である久永源兵衛に篤く崇敬された。
 大正2年に大東神社に合祀されたが、後に戻されて氏子の管理となる。
 現在は、大東神社とともに国定赤城神社の兼務社。
        
                     拝 殿
 
              拝殿の扁額                 本 殿
「拝殿屋根改修記念碑」に記載されている「久永重勝(ひさなが しげかつ)」は、戦国時代から江戸時代初期の武将。別名  源五・源六・源兵衛。
 久永氏は石見国久永を名字の地とする賀茂氏(賀茂吉備麻呂)の末裔を称する一族で、祖父重吉の代に三河国額田郡に移って松平氏・徳川氏に仕えた。
 徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)長篠の戦いに従軍。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは敵兵2人を射殺す武功を上げ、家康より葵紋入りの矢筒と弓立を拝領し、遠江国榛原郡に200石を与えられた。天正18年(1590年)小田原征伐、天正19年(1591年)九戸政実の乱での陸奥岩出山城出張、文禄元年(1592年)肥前名護屋城出張に従う。名護屋城出張の際には自ら銀鞘の佩刀で出仕したために家康の感心を買い、兵糧300俵を賜っている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにも従軍。
 慶長8年(1603年)からは徳川秀忠に属し、武蔵国児玉郡に550石を与えられる。のち弓頭となり、同心10人足軽50人を預けられ、所領も武蔵・上野・常陸に52百石を与えられた(ただし、内2千石は同心足軽の知行)。慶長10年(1605年)秀忠の上洛に随行。慶長14年(1609年)武者船没収が発令されると、九鬼守隆・向井忠勝とともに淡路国へ出張している。慶長16年(1611年)常陸・下野に群盗が蜂起すると、服部保正・細井勝久と共にその鎮撫を命じられ、案内人を催してこれらを鎮定した。のち下野大光院の普請奉行となる。慶長19年(1614年)大坂冬の陣のために出陣し、休戦後の大坂城総堀埋め立ての奉行となる。慶長20年(1615年)夏の陣にも出陣。家督は子の重知が継いだ。
 
   社殿左側奥に祀られている白狐納所     本殿奥には奥宮が鎮座。平成2210月に新築

 小泉稲荷神社の南西部は、東小保方町地域があるが、その地域に鎮座する大東神社境内周辺は嘗て「旗本久永氏陣屋跡」と云われている。現在の東小保方地区は江戸時代には東小保方村と呼ばれ、徳川家の旗本久永源兵衛重勝の領地であった。久永氏は石見国(島根県)の出身であり、埼玉や茨木にも領地が点在する禄高三二○○石の旗本である。
 東小保方村は石高が1182石の村であり、久永氏は村の支配のためにこの地に陣屋を設けました。陣屋は東西75m、南北120mの大きさで、濠や土居が構えられていた。濠はその後拡張されて池となってしまい、現在では南池の南端と西池の東端にわずかに当時の面影が残されているのみであるという。
 南面には正門を有し、更に南へと通路が続いて細長い大手枡形となり、南端には木戸が設けられていたものと思われ、この形は陣屋特有のものであり、県内でも吉井や岩鼻の陣屋がこれと同じ形になっている。
 明治維新後陣屋は廃され、一時期小保方小学校として使われると共に、大正2年には周辺の神社を合祀した大東神社がおかれ今日に至っているという。
        
                          元小泉神社の奉納手洗盤
        
             伊勢崎市指定重要文化財 元小泉神社奉納手洗盤
 この手洗盤は江戸時代末期の元治元年(1864)、現在地より約二百メートル西にあった稲荷社の御宝前に奉納されたものです。その後大正二年にこの稲荷社が大東神社に合祀された時に、手洗盤も大東神社に移されてしまいました。以後長い間大東神社に置かれていましたが、昭和六三年、関係者の協力により現在地へ移転されたものです。
 手洗盤の正面には、旗本久永領陣屋元役人清水氏の時に近郷の香具師の張元(伊勢崎の銭屋、境の不流一家、赤堀の小松屋)が世話人となって奉納された事が記されており、残り三面には願主の田村丹治良・惣治良をはじめとする小泉・大原等近村の百姓約百名の献金者の名前が記されています。
 江戸末期において商業資本が農村地域に浸透しつつあった事とあわせて、現世利益の稲荷信仰の歴史をみる上で大変貴重なものです。(以下略)
                                      案内板より引用
 
                現在の手水舎(写真左・右)
        
           駐車スペース角に並んで祀られている石祠・石碑群
 境内の目立たない場所にひっそりと祀られているわけではないが、何となく丁重な扱いを受けてないような気がする。筆者としては、むしろこちらのほうが、地域に密着した歴史をもつ大切な宝物ではなかろうか、とふと感じた次第だ。


参考資料「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・記念碑文」等
    

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