古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新田下江田矢抜神社


        
               
・所在地 群馬県太田市新田下江田町500
               ・ご祭神 經津主命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 4月 春祭り 11月 秋祭り
 埼玉県熊谷市西別府の上武インターチェンジ(深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に向かう。利根川を越え、暫く道なりに4km程直進し、「尾島第二工業団地」交差点を右折すると、すぐ北側正面に新田下江田矢抜神社の赤い鳥居が見えてくる。
 社の南側には利根川支流である石田川が流れ、西側には広大な田園風景が広がる静かな場所に鎮座する。まさに村の鎮守様といったような第一印象。
        
                 新田下江田矢抜神社正面
 今回全く事前準備等なく参拝したので、この社に関する予備知識なし。なんでも「二ツ塚古墳」と呼ばれる古墳墳頂に鎮座しているようだが、実見してもその実態はよくわからなかった。

    鳥居上部に掲げてある社号額         緑の社叢に囲まれた境内と参道 
 この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだが、南北朝の戦いで新田氏が敗れたため、足利氏によって分割されてしまったという。
 江田氏は上野国新田郡世良田郷を支配する清和源氏新田氏流世良田氏一族。この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだ。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞の一族で家臣である江田行義(えだ ゆきよし)はこの地に領地を持っていた。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)で世良田有氏の子。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされる。しかし史料上では江田氏の極楽寺坂における活躍の様子は確認できず、実際は江田氏の本家筋にあたる世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。建武政権では、武者所三番頭人を務めた。
        
                    拝 殿
 建武2年(1335年)に足利尊氏が政権から離反すると、義貞に従い足利氏一派の追討にあたり、新田軍の中核として活躍した。延元元年(1336年)3月に尊氏が九州へ逃れた際には、病気の義貞に代わり大舘氏明と共に中国地方平定のために出陣し、播磨国室山で赤松則村を撃破する軍功を挙げた。しかし同年5月の湊川の戦いで再挙した足利軍の前に敗れた[2]。同年10月、比叡山で後醍醐天皇が義貞を見捨てて下山し、尊氏と和睦しようとした際は、新田一族内に主戦論を唱える者が多い中、大舘氏明と並ぶ数少ない和平派となり後醍醐天皇に従った。北陸に向かった義貞とは袂を分かち、以降は南朝方として丹波高山寺城を拠点に奮戦する。
 後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
        
                         拝殿の右側には案内板が設置されている。
 矢抜神社傳導板
 一、立地由来
 万治一年(一六五八年)中江田、下江田に分社され、
 太田市新田下江田町本郷甲五〇〇番地に鎮座する。
 二、祭神 經津主命(フツヌシノミコト)
 三、鎮座する祈願神
 1 本殿
 2 お手長様(火伏せの神)
 3 伊佐須美様(稲作の神)
 4 おしら様(養蚕の神)
 5 諏訪様(当地開拓の神)
 6 秋葉様(防火・火難除けの神)
 四、年中まつりごとの行事
 1月 氏子本殿参拝 
 2月 風祭り 宮司来社(世話人選任 若1年・本4年)
 3月 お手長様拝礼 山刈り(郭順)
 4月 春祭り 宮司来社(区長・世話人)
 7月 御諏訪様拝礼
 11月 秋葉様拝礼
 11月 秋祭り 宮司来社(区長・世話人)
 12月 大祓い式 宮司来社(古神札・幣束・お焚きあげ・世話人)
 12月 鳥居しめ縄(飾り 世話人)
                                       案内板より引用


 案内板にも記載されているが、境内には多数の境内社が「祈願神」として祀られている。
 
       境内社・諏訪社               境内社・秋葉社
 
      境内社・おしら様          境内社・お手長様、奥には伊佐須美様

 社殿左側には(旧)新田町指定天然記念物である「矢抜神社の山椿」の案内板がある。
 
 新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿
 指 定 平成十二年四月六日
 所在地 新田町下江田甲五〇〇
 この山椿は、樹齢三〇〇~四〇〇年位と推定される古木です。一号樹は目通り一五一センチメートル、二号樹は一三三センチメートルで、樹高は周辺の樹木に比べて高く伸びています。昔から自生して来た品種で、赤色の一重の花弁で、花芯が大きく五弁の花びらを持っています。花実ができ、秋になると三片に割れニ・三個の種子が落果して自然繁殖していく椿の原種です。今は山村地帯でしか見られない貴重なものです。なお、一号樹は、平成十三年一月に風雪のため幹の中ほどから折れてしまいました。
 神社がまつられているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。
 このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。
                                      案内板より引用
        
                          落ち着いた雰囲気の静かな社


参考資料
Wikipedia」「Enpedia」「境内案内板」等
 

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岩松八幡宮

 源 義国(みなもと よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将で、源義家の三男。新田・足利両氏の祖であり、足利尊氏と新田義貞は遠孫に当たる。母は藤原有綱の娘だが、母親の家系は学者として朝廷に仕えた中級貴族であり、従って、生まれたのは京都であるが、いつの頃からか東国に下向したらしい。源頼信-源頼義-源義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。但し長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、久安6(1150),参内する途中で藤原実能と争い恥辱を受けたとして義国の郎従が実能邸を焼き払った事件により、勅勘をこうむり,下野国(栃木県)足利に下る。当然義家からは後継者から外されていった。
 その後叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、上野国の隣国である下野国にも着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、「荒加賀入道」と言われた。
 ところで義国は犬間郷(現在の尾島町岩松)に館を構え、そのとき鬼門よけとして伏見稲荷の分霊を祭ったのが、冠稲荷なのだそうだ。後に仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により八幡宮において元服し、昌純と名乗ったとの記述もみられるところから、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
        
             
・所在地 群馬県太田市岩松町2511
             
・ご祭神 誉田別命
             
・社 格 旧郷社 新田総鎮守
             
・例祭等 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2529731,139.3322813,17z?hl=ja&entry=ttu

 堀口賀茂神社から直線距離で800m程北東方向先に鎮座する岩松八幡宮。西側には「いぬま公園」が隣接しているが、その公園以外は田畑風景が続く長閑な地域にポツンと社は立っている。
 駐車スペースはないようなので、西隣にある公園の駐車場(4、5台駐車可能)をお借りしてから参拝を開始する。
        
                              岩松八幡宮正面
        
       鳥居の手前には狛犬があるが、岩塊の頂きに狛犬が設置されている。

        
               朱色の鳥居が鮮やかに映える。
        鳥居の社号額には「新田総鎮守 岩松八幡宮」と記されている。
 この鳥居はよく見ると通常の「両部鳥居」とは違う。「両部鳥居」とは、左右2本の主柱の前後を袖柱(そでばじら)が支える仕組みとなっていて、主柱は上部で大貫(おおぬき)を通して繋ぎ、その上に大鳥居の屋根下の棟にあたる笠木(かさぎ)・島木(しまぎ)が置かれている構造。しかし岩松八幡宮の鳥居をよく見ると袖柱が前方一対どちらもなく、後ろ側のみで支える構造となっている。このような両部鳥居は初めて見た。
        
              拝殿の手前に設置されている案内板

 岩松八幡宮  所在地 太田市岩松町二五一番地一
 誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられた。
 創建は仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。
 八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
 正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られる。また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれる。なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社がある。
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
 岩松氏(いわまつし)は、日本の氏族で本姓は源氏。その家系は清和源氏のうち河内源氏の棟梁であった鎮守府将軍源義家の子、義国を祖とする「足利氏」の支流である。
 岩松氏は元々足利義兼の庶長子の足利義純を祖とする。義純は大伯父新田義重に養育されたといい、その子新田義兼の女を妻とした。が、後に畠山重忠の未亡人(北条時政女)を娶って源朝臣畠山氏の祖となり、先妻である新田義兼の女との間に生まれた子たちは義絶された。
 義絶され新田氏に残った子・岩松時兼・田中時朝兄弟が、新田義兼がその妻(新田尼)に譲った所領の一部(新田荘岩松郷など)を譲られたことにより家を興す。こうしたことから、岩松氏は母系である「新田氏」を以って祖と仰いできた。但し、父系は足利氏を祖とし、室町時代には足利氏の天下となったことから新田の血筋を誇りとしながら、対外的には足利氏の一門としての格式を誇った。
 このように父系を清和源氏足利氏、母系を清和源氏新田氏に持つ岩松氏は、『尊卑分脈』によれば、清和源氏足利氏の一族とされるが、通常新田岩松氏と称され、両方の血を受け継ぐという微妙な立ち位置にいたのに加え、新田氏4代目当主である政義が、その家督相続をした段階では少年であったが為に、祖母である新田尼は所領の大部分を岩松時兼に相続させてしまう。岩松氏は新田氏一族でありながら、その創立時点から新田氏本宗家との因縁があった。また新田一族で本宗家に近い大館氏の大館宗氏と用水争いを起こした際に、惣領の新田基氏・朝氏父子の裁定に従わないなど、新田本宗家に対しある程度の自立性を持っていたようである。
        
                                   本 殿
   赤い透塀(すかしべい)の隙間から見える本殿は拝殿と独立していて門も設置されている。

 その後鎌倉時代末期には、本宗家の新田義貞の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加したが、倒幕後は新田氏と共に京都には行かず、当地に残り足利氏に従った。経家は、建武の新政で飛騨守に任ぜられ、北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜り、鎌倉将軍府執権の足利直義の指揮下にあって、関東経営に当たった。建武三年(1335)中先代の乱の際、鎌倉に迫った北条時行軍を迎撃するが惨敗し討死、岩松一族は宮方と武家方とに内部分裂を起こしたが、その岩松氏本家を継いだ岩松直国は足利方の立場を堅持し続ける

 結果として岩松氏は、成立の経緯から、新田一族と足利一族の立場を使い分け、鎌倉時代、南北朝時代以降新田氏本宗家が没落する中でたくみに世の中を渡りきり、新田荘を中心に上野国に栄えた。
 
社殿の左側に祀られている「衡立岐大神」の石祠。       本殿奥に鎮座する境内社。
 八衢比賣命と八衢比許命の名も刻まれている。          詳細不明

 この衡立岐大神とは「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」と云われ、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
 神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。
        
         社殿の左側手前に鎮座する社あり。摂社・新田神社だろうか。

 

参考資料「おおた観光サイトHP」「WEB GUNMA」「Wikipedia」等
   

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尾島雷電神社


        
              
・所在地 群馬県太田市尾島町1691
              
・ご祭神 大雷命(おほいかづちのみこと)(推定)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 えびす講 1119日・20
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 阿久津稲荷神社のすぐ西側にある「尾島一丁目」交差点を右折すると、すぐ西側に雷電神社が見えてくる。互いに近距離に鎮座しているので、分かりやすい。
 駐車スペースも社の南側に「尾島一丁目会館」があり、そこの一角をお借りして、尾島雷電神社・阿久津稲荷神社両社を参拝した。
        
                             尾島雷電神社 二の鳥居正面
   実のところ、
一の鳥居は県道354号線に面していて、交通量も多く、結局撮影できず。
 一の鳥居から北方向に参道が続き、その先に二の鳥居がある。二の鳥居から先が境内となる。
 
   街中にありながら境内は比較的広い。   
境内参道の右側には「猿田彦大神」等の石碑がある。
     石碑の奥には嘗て巨木・大木があったのだろうか。その切株が残っている。
        
                                      拝 殿
 太田市・新田郡(につたごおり)尾島地区は人口約1万4千数百人ほどの小さな町であるが、自然や歴史・文化の香りが今でも残る地域でもある。
 町の南部を利根川が流れ、北には上毛三山の赤城・榛名・妙義の山々に囲まれている為、冬は上州名物空っ風が吹き、夏は雷が度々発生するという地形的な特徴がある。
 古くは12世紀に新田氏の始祖である義重の子義季がこの地を領有し、徳川姓を名乗ったことから「徳川氏発祥の地」と呼ばれ、時の徳川幕府の厚い庇護を受けて来た。その後、幕府の破滅により経済基盤を失い、地域自体は衰退するが、今なお往時を偲ばせる貴重な文化財や史跡等が町のあちこちに点在している。
 また江戸時代、津軽藩の飛び地がこの地域にあったことから、現在、友好都市である弘前市の協力のもと、毎年8月の1415日に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
        
                    本殿覆堂
 
    絢爛豪華な本殿彫刻。どうやら彩色修復の作業が行われているようだ。

 雷電神社(らいでんじんじゃ)は、北関東地方を中心に日本全国に点在する神社。一様に雷除けの神とされるが、祭神や由緒は必ずしも一定ではない。
 群馬県邑楽郡板倉町板倉には、旧社格は郷社で、関東地方の「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格とされている板倉雷電神社が鎮座している。主な祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神。
 板倉雷電神社の影響を受けているかどうかは不明だが、本殿等の彫刻の豪華さはずば抜けているように感じるのは、筆者の思い過ごしだろうか。
 とはいえ、残念ながら尾島雷電神社の由緒等は不明。雷除けの神を祀っていて、本殿は寛政10年(1798)に建築されたものとのことというが、どのような経緯で、このような素晴らしい彫刻を施した社が建てられたか、知っている方がいたらお教え願いたい
 現在は冠稲荷神社の兼務社であり、そちらのHPを見ると、毎年1119日・20日に「えびす講」なる祭事が行われるという。
        
                                   境内の一風景

 えびす講とは、年中行事としてえびすを祀る庶民信仰であり、神無月(旧暦10月)に出雲に赴かない「留守神」とされたえびす神(夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須)ないしかまど神を祀り、1年の無事を感謝し、豊作や大漁あるいは商売繁盛を祈願する出雲系関連の祭事である。当社では釣竿の飾り、「お宝」の頒布や、熊手、福笹の頒布などを行っているという。


参考資料「
太田市観光物産協会HP」「旧尾島町HP」「冠稲荷神社HP」「Wikipedia」
 


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阿久津稲荷神社

 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日 昭和50108
       合併に伴い、平成17328日に改めて新市の文化財として指定されました。
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
 この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています。

                                     太田市HPより引用
        
               
・所在地 群馬県太田市阿久津町1021
               ・ご祭神 稲倉魂命 八意思兼命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 「阿久津の獅子舞」11月18日・19日
      地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2586497,139.3262426,19z?hl=ja&entry=ttu

 堀口賀茂神社から一旦埼玉県道・群馬県道276号新堀尾島線に合流し、旧尾島町市街地方向に北上する。県道142号綿貫篠塚線との交点にある「尾島一丁目」交差点を右折するとすぐ左側に阿久津稲荷神社が見えてくる。
 県道沿いに鎮座する社で、交通量も多く、更に鳥居が道路並びにあるため、アングル的に県道に入って撮影しなければ、正面撮影はできないため、そこは断念した。
 東隣には、新四国88ヵ所霊場の第1番札所である正光寺があり、そこの駐車スペースを利用して参拝を開始した。
              
                 鳥居の傍に立つ社号標柱
 鎮座地名は「阿久津」。この阿久津という地名を調べてみると、川沿いなどの「低湿地」を古代日本語では「あくつ」と呼び地名になったとされ、地形が大きく関連していると云われる。川沿いの場所は低い地なので、川が洪水を引き起こすと”あくつ”に豊富な水が供給されるため、作物の栽培に適地とされたため、集落が形成されたとされる
 この「あくつ」は漢字に代えると「悪+戸」⇒「悪+津」⇒「阿久津」に時代が下るにつれて変換される地域が多いが、「圷」の一文字で「あくつ」と表記され、現在も残されている地域(茨城県を中心に多く存在)もある。この「悪戸」は洪水が起きやすい「悪い土地」という意味が語源とされ、実際悪戸という地名が嘗てあった地は、蛇行する川の周辺を指す地域がほぼ全てである。
 関東地方の北部では、窪地のことを「あくつ」といい、これに由来する名字で、「阿久津」「安久津」「圷」「堆」などと書かれる場合もある。
 
街中に鎮座しているためか、境内の規模は決して   短い参道の左側に設置された石碑等。
大きくはなく、鳥居を越えるとすぐ拝殿が見える。
        
                     拝 殿
        
           境内に設置されている「阿久津の獅子舞」の案内板
 阿久津の獅子舞 市指定重要無形民俗文化財
 指定年月日   昭和50108
 阿久津稲荷神社の創建については、明らかではありませんが、かつては阿久津荒久の「元地」というところにありました。しかし、度重なる洪水のため元和の頃に阿久津村が数戸を残して荒久から現在地に移転をした際に、隣接する正光寺とともに現在地へ移されたと伝えられています。
この獅子舞の起源は、江戸時代初期から行われていたのではないかといわれています。当初は、毎年111819日の両日、稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納されています。
 夜、社殿の前庭にかがり火を焚き、三頭の獅子が五穀豊穣、悪疫退散を祈りながら舞います。笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら舞う姿は、勇壮です。
 獅子舞を演じる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていましたが、最近はそうした制約はゆるめられています(以下略)。
                                      案内板より引用

        
               拝殿部の彫刻は「明治の左甚五郎」と称された高澤改之助のもの。
            逆光の為、上手く撮影できなかったのが残念。
 
                 「向拝木鼻」の龍(写真左・右)
 
                     精巧に彫刻された「海老虹梁」部位(写真左・右)
        
                     本 殿
                本殿彫師は「武州玉井村」出身の小林丑五郎正路、他三名。
 残念ながら筆者は江戸時代における寺社の彫刻技術に関してあまり詳しくないが、目の前の現物を実見すると、やはりすごい迫力と技術力の高さを感じる。
 日本人は昔から箸を使ったり、漢字を書いたり、生活の中で手先を使う等が多く、その生活スタイルが日々定着しているからこそ、他の民族より手先が器用で繊細な作業もできると云われてきた。
 日本は「ものつくり大国・技術大国」といわれている。この世界に誇る日本の技術は一朝一夕に築かれたものではない。蓄積された日本人の持つ美意識、忍耐力、手先の器用さ、そしてきめ細やかな配慮等、長い歴史の中で育んできた国民性があるからこそ成し得た最高の技術は、日本の強みでありアイデンティティでもあると思う。
 この素晴らしい彫刻技術を見ていると、世界の趨勢が「AIロボット」が作り出す超合理化された社会に変革しようとする流れに対して、それでも変えてはいけないものもある!と無言で語り掛けてくるようにも思えた。
        
                          県道沿いに鎮座する
阿久津稲荷神社


参考資料「太田市HP」「太田市観光協会HP」「Wikipedia」等

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堀口賀茂神社

 堀口氏(ほりぐちし)は、上野国新田郡堀口郷を本貫地とした武家。本姓は源氏。家系は河内源氏・源義家の三男である源義国の子、源義重を祖とする新田氏の支流の一族。
 上野国新田郡堀口郷(現在の群馬県太田市堀口)、武蔵国(現在の埼玉県ときがわ町)の豪族として活躍した。新田氏
4代当主の新田政義の三男・堀口家貞(孫次郎家員)が新田荘堀口郷を分割拝領し、堀口氏を興したのが始まりとされる。
 家貞の嫡男貞義が堀口郷を相続し、庶子の貞政が一井郷(太田市新田市野井)を相続し、一井氏(いちのいし)と称した。一井貞政の姉は江戸泰重の正室で、江戸長門の生母となった。貞義の養女が新田義貞の生母との説もある。家貞の末子の貞昭は矢島氏(尾島氏)と称したという。貞義の生母は評定衆も務めた伊具流北条有時の娘といわれており、本宗家が失脚した後に何らかの伝手を掴んだと思われる。その甲斐があり、新田本宗家が無位無官であるのに対して貞義は従四位下美濃守にまで昇進している。
元弘
3年(1333年)、貞義の嫡子貞満は、本宗家の義貞(親族系譜では一世代下だが同年代)の挙兵にも参加し、鎌倉攻略で活躍している。戦後の論功で貞満は父と同じ美濃守に補任された。その後も一貫して義貞の重臣として活躍し、延元元年(1336年)に、後醍醐天皇一向が比叡山で足利尊氏に包囲され、義貞に無断で尊氏と和睦をして比叡山を下山しようとした。その時、貞満は強引に後醍醐帝の輿を止めて「当家累年の忠義を捨てられ、京都に臨幸なさるべきにて候はば、義貞始め一族五十余人の首をはねて、お出であるべし」と直訴した話は『太平記』で有名な一節である。その後、義貞に従って、次子の貞祐らとともに越前及び美濃各地で戦い、延元3/建武5年(1338年)に美濃郡上郡尾根徳山から越前に進軍中に没した。貞満亡き後堀口家は貞祐が家督を継ぎ、北朝方との戦いを継続したが、次第にその勢力は弱まり弱体化していったという。
 それでも現在では、群馬県太田市付近から旧鎌倉街道沿いの埼玉県熊谷市、ときがわ町(旧たまがわ村)、東松山市付近にその子孫が居住し、地元の名士等となっているという。
 群馬県太田市堀口町地域には、堀口館跡があり、それを示す木柱が早川の堤防脇に立てられている。堀口賀茂神社のすぐ西側にその館跡はある。
        
              
・所在地 群馬県太田市堀口町甲111
              
・ご祭神 賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
              
・社 格 不明
              
・例祭等 秋季大祭 111415

         地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2501948,139.3269856,16z?hl=ja&entry=ttu
 前小屋菅原神社から北東方向に進む農道を道なりに900m程進路をとる。早川に架かる「不動橋」を越えた最初の信号のある変則的な十字路を右折、群馬県道275号新堀尾島線に合流し、早川の土手沿いに500m程進んだT字路を左折する。すると「おじま史跡めぐりコース 賀茂神社」と表示された看板が見えるのでそこを左方向に進路を変え、暫くその同じ看板がもう一カ所あるのでそこを看板通りに進むと堀口賀茂神社に到着できる。
        
                  堀口賀茂神社正面
 堀口町地域の集落内に鎮座しているが、同時に利根川支流・早川の土手もすぐ近くにあり、街中も至って静かな地域である。新田氏族である堀口氏が居を構えた「堀口館跡」もすぐ近郊に所在する歴史的にも古く由緒ある地でもある。
        
                     拝 殿
 境内に設置されている案内板によると、賀茂神社の祭神は別雷命で、新田義重が久安年中(1150年頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられている。また「堀口館跡」にある案内板でも『上野国史によれば「堀口村、大舘宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」とし、村内に貞氏の居館があったことを示している。貞氏については、それを家貞とし、大舘宗氏の叔父とする別説もあるが、いずれも貞満をその孫としている点では一致している。
堀口郷は新田義兼が鎌倉幕府から元久2(1205)に地頭職として所領を安堵された、新田庄内12か郷の一つであり。のち建保3(1215)義兼後家により、その孫岩松時兼に譲られた上堀口郷を除いては、代々新田宗家に伝えられ、貞氏(家貞)がここに居住して堀口氏の祖となった』と記されている。
 この地域に賀茂神社を勧請すること自体、新田氏にとっても特別な地であったのではなかろうか。
 
         拝殿の扁額           拝殿の左側に聳え立つ巨木。
                         ご神木のようにも見える。
        
                      巨木の幹付近に設置されている案内板
 太田市指定重要無形文化財 堀口の獅子舞
 指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 所在地   太田市堀口町甲一一一番地
 賀茂神社の祭神は別雷命で、新田義重が久安年中(1150年頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられている。堀口の獅子舞の起源は不明であるが、太鼓の胴内部の墨書銘に、「元禄七年(1694)獅子舞がしばらく中断されていたが再興する」という意味のことが記されていることから、江戸時代初期の頃より伝承されていたものと考えられる。
 近年に至っては、昭和二十一年秋の奉納舞を最後に三十年間とだえていたが、昭和五十二年秋関係者によって復活された。村では、永くこれを伝承するために獅子舞保存会をつくり、町指定重要文化財として後世に伝えることになった。
 獅子舞は、「牡獅子」「牝獅子」「ほうがん」の三頭であり、三頭が一組になって舞う。舞の種目は、「ひらにわ」「ぼんでん」「牝獅子がくし」である。
 舞の奉納は、毎年十一月十四日夜、賀茂神社の社前で行われる。赤々と庭燎(にわび)がたかれ、多数の観衆に囲まれ、笛の音に合わせ、紺地白ぬきの三角ちらし模様のたっつけ袴、白足袋姿の獅子っ子が、腰太鼓を打ちながら五穀豊穣、悪疫退散など、村人の願いをこめて舞う姿は勇壮で神秘的であり、村祭りの伝統を守る貴重な民族遺産である。
                                      案内板より引用

 
 
 本殿右面には風雪除けなのか板壁が設置されていて、外側からは内部は撮影が難しいため、左側からの撮影となる。但し左側のみの撮影ながら本殿の彫刻は精巧で精密に拵えられている。彫刻の墨書銘には「上野国勢多郡田面村 彫刻師深澤軍八規武門人大塚三郎次」とあり、大工は林兵庫正清一派の石原長八、彫刻は深澤軍八規武(初代石原吟八門人)の一派によるものと分かるようだ。
 調べてみると彫刻師・深澤軍八則武は初代・石原吟八郎義武の門人の一人で、関口文治郎・前原藤次郎・石原常八雅詖らと並ぶ主要門人でありながら、この人物の墨書や刻銘が残された彫刻は非常に少ないため、謎多き幻の名工とも呼ばれる人物といわれている。
 
 社殿奥には多くの境内社等が祀られている。    本殿裏に並ぶ末社群。石碑には道祖神や、
        詳細は不明。        大杉大明神と水神宮と表記されているものもある。
        
 境内道路沿いには、「庚申塔」「御嶽山・八海山・三笠山」「二十二夜塔」等が並んでいる。


参考資料「太田市HP」「太田市観光協会HP」「Wikipedia」等



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