古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三波川惣社姥神社及び三波川琴平神社

 三波川(さんばがわ)は、群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
 上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
 三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
 嘗てこの地域は古墳時代、神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれていて、昔から発達していた地域でもある。また平安時代には、三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残っているロマン溢れる地域でもある。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市三波川114
              
・ご祭神 石凝姥命
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
 国道462号線沿いに鎮座している鬼石神社。一旦国道に合流後、南方向に進路を取り、群馬県道177号会場鬼石線.との交点である「三杉町」交差点を右折する。県道とはいっても決して道幅は広い道路ではない。「三杉町」交差点から県道合流後、暫くの間は民家も立ち並ぶ中で走行しているが、そのうちに山道の中での道路の両側、特に進行方向右側は急傾斜の斜面が続き、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板も見える地域。時折民家が進行方向左側にポツポツと見える中で心寂しさも過る中で車を県道に交わる交差点から800m程進むと、辺りは明るく開け、民家が立ち並ぶ場所に到達し、その右側高台上に三波川惣社姥神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「姥神社」は漢字通り「うばじんじゃ」と読む。
        
              県道沿いに鎮座する三波川惣社姥神社
『日本歴史地名大系』には 「三波川村」の解説が載せられている。
 [現在地名]鬼石町三波川
 東御荷鉾(ひがしみかぼ)山(一二四六メートル)の東、神流川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山村・多胡郡上日野(かみひの)村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺(じようぼうじ)村・鬼石村、南は甘楽郡譲原(ゆずりはら)村・保美濃山(ほみのやま)村・坂原(さかはら)村、西は同郡柏木村(現万場町)と接する。地質は大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。
 天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷之百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷(きただに)と称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻(ことつじ)の知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。
 戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪(みのわ)城(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)。

「日本歴史地名大系」に記されている「飯塚氏」や「根岸氏」は嘗て「北谷衆」とよばれる土豪であり、児玉郡御嶽城主長井政実の家臣でもあった。
「飯塚氏」
 〇飯塚馨文書
天正六年二月十二日、琴辻一貫五百文赦免手形、飯塚弾正忠殿、政実花押(長井)」
「天正六年七月一日、知行方、本領北谷・武州安保等を宛行う、飯塚和泉守殿、政実花押」
「天正十三年三月二十一日、御蔵銭五貫文を預け漆を調進させる、北谷衆飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門、北条氏邦朱印」
「根岸氏」
三波川飯塚文書
「天正十三年三月二十一日、北条氏邦は、北谷衆に御蔵銭五貫文を預け置き、その代物として漆を調進せよと命ず。北谷飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門・北谷衆中」
       
                           石段上には新しい神明鳥居が立つ。
       
                                      拝 殿
        創建等は不明。但し大同年間(80610年)の創建とも云われる由緒正しい社。
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 三波川惣社姥神社のご祭神は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)。通常伊斯許理度売命と表記されることが多い神である。この神は、日本神話に登場する天津神系の女神で、作鏡連(かがみづくりのむらじら)の祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊(いしこりとべ)命と表記されている。
 日本神話において、太陽神である天照大御神が建速須佐之男命の度重なる乱暴(田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らす等)に怒り、天岩戸に引き篭り、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談する。その際に神々がとった行動の一つとして、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(石凝姥命)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせたという。

               本殿内部を撮影(写真左・右)

 拝殿手前左側に祀られている境内社・石祠群  正面鳥居の右側に祀られている「道祖神」等

 伊斯許理度売命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)の神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説があり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。 
       
                                 拝殿からの一風景

 三波川惣社姥神社から県道を5㎞程西行すると、「三波川琴平神社」に到着する。同じ三波川地域に鎮座する社でもあり、実のところこの社を散策するのが今回の目的の一つでもあった。
 しかし、昨今の「クマ出没」件数の多さ、加えて怪我・死亡事故等のテレビ等の報道もあり、現実この県道を走らせている途中にも「クマ出没 注意」との看板も設置されており、今回は遠目からの撮影にて終了させて頂いた。
 また残念なことにインターネット等で紹介されていた「アーチ形の赤い橋」は既に撤去・解体されていた。写真でも分かる通り、端を設置した際の基礎部分だけが残り、在りし日の情景を思いふけるのみである。
        
               三波川琴平神社を対岸より撮影。



参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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鬼石神社

  藤岡市鬼石町区域は市の南部に位置し、東西に約10.7km、南北約5.3km、面積は約52.5k㎡で、その8割程度が山林に覆われている。地形は、西端部にある東御荷鉾山を頂点とした褶曲山地であり、この谷間を三波川が流れている。 また、西は神流町、東と南は神流川を県境として埼玉県と接し、清流と緑の山並みに囲まれ、潤いと安らぎのある豊かな自然に抱かれた地域である。200611日に藤岡市へ編入された為消滅した
 古くは尾西と称した。「上毛風土記」「上野志」には鬼子の名も見られる。
 この地域名の語源は諸説あり、「昔々、御荷鉾山に住んでいた鬼が人里へ下りてきては田畑を荒らし、人々に危害を加えていた。困り果てた村人は、旅の途中で立ち寄った弘法大師に退治を懇願。大師が読経し護摩をたくと、鬼はたまらず大きな石を投げ捨てて逃げ去った。その石の落ちた場所が鬼石町と伝えられ、石は鬼石神社のご神体として、今も町民の信仰を集めている」
『上野国志』では「昔弘法大師が御荷鉾山に住む鬼を調伏した折鬼の持っていた石を放り投げ、その石の落ちた場所が鬼石であると伝える。また一説には古来御荷鉾山から山中・三波川・鬼石・秩父にかけて鬼の太鼓ばちと呼ばれた石棒などの石器の用材が産出され、鬼石がその製造地・集散地であったことによるともいわれる」
 またアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説などがある。
        
             ・所在地 群馬県藤岡市鬼石7221
             ・ご祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 夏祭 71415日に近い土日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点までは前項「浄法寺丹生神社」と同じだが、この交差点を左折する。
 交差点は左折するが、道路は国道462号線のまま旧鬼石町方向に進路をとる。この国道は通称「十石峠街道」ともいい、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流する街道である。
 十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約
1,500㎏)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われている。
        
                   鬼石神社正面
 神流川の流れを左手に見ながら南北に通じる国道462号線を暫く進むが、「諏訪」Y字路の交差点で右方向に変わり、神流川と離れる。ここから旧鬼石町市街地内に入る。「諏訪」交差点から南に行くこと500m程で右手の高台上に鬼石神社の赤い鳥居が僅かに見えてくる。
 境内に入る為には、一旦正面鳥居の石段附近を過ぎてからすぐ先にあるT字路を右折して、鬼石神社の裏手に回り、社殿と神楽殿の間に数台分の駐車スペースが確保されているので、そこに移動してから参拝を開始した。
        
           鬼石町市街地を見守るような西側高台に鎮座する社
『日本歴史地名大系 』「鬼石村」の解説
 [現在地名]鬼石町鬼石
 北は浄法寺(じようぼうじ)村、西は概して山地で三波川(さんばがわ)村に隣接。東と南とは神流川を隔てて武蔵国渡瀬(わたらせ)村と上・下の阿久原(あぐはら)村(ともに現埼玉県児玉郡神泉村)に相対する。東部を南北に十石(じつこく)街道が通じ、南部で武州側・山中谷(さんちゆうやつ)・三波川村の三方面に分岐する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎「七拾貫文 鬼石」とある。同六年五月一〇日に武田信玄との申合せによって「鬼石村」は北条氏から安保氏に与えられる(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。その後、高山氏に与えられたらしく、検討の余地があるとされる元亀元年(一五七〇)一二月二七日の武田信玄判物写(「高山系図」所収)で鬼石の替地として若田(わかた)郷(現高崎市)を高山山城守に与えている。「甲陽軍鑑」伝本には「おにのつら」「鬼面」とも記している。また年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)には「おにす」とある。
 地形を確認すると、上流域にある神流湖からの神流川の流路が東方向から北方向に変わり、神川町上阿久原地域の北端で再度真東方向に変えながら、左方向に大きくカーブするように突出部を形成する、その左岸にできた河岸低地と低地西側にある高台の間に鬼石市街地は形成されている。
 旧十石峠街道沿いには大きな伝統的な商家建物や、土蔵造りの商家建物も見られ、古い町並みが今なお残る懐かしい地域でもある。
        
                                  創建時期 不明
            御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命の3柱
 江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
 鬼石神社の御祭神筆頭である「磐筒男命」は「イワツツノオ(イハツツノヲ)」と読み、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。      
        
                                  拝殿に掲げてある扁額
        
                 拝殿向拝部の龍の彫刻
 
    向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
        
            拝殿左側には御神木の切り株が残っている。
 樹齢
500年と思われる程の径幅が大きな大杉があったそうだが、平成259月の台風18号の際の強風で倒木したそうだ。但しその際に、本殿や南側に祀られている境内社群には一切被害が及ばない場所に倒れていたという。ご神木が自らの意思で安全な場所に倒木したのであろうか。
        
  ご神体は鬼が御荷鉾山から投げたといわれる「鬼石」と呼ばれる石が本殿床下にある。
 本殿を左方向からぐるっと回る。すると「鬼石」の名前の由来となった石が本殿の床下にあるという札が貼ってある。但し遠間から見る為筆者には暗くてよく見えなかった。

 鬼石町北西部には古くから地元の方々の信仰の山である「御荷鉾山(みかぼやま)」が聳え立つ。通常は西御荷鉾山(1,287m)と東御荷鉾山(1,246m)の二峰を指すが、東西の御荷鉾山とその間にある標高1191mのオドケ山を加えて総称することがある。その三つの峰「三株」「三ヶ舞」が「みかぼ」山の由来という説もあるらしい。また日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、この山を越えるとき、鉾を担われた伝説から、この字が当てられたともいう。古来より地元の人々の信仰の山で毎年428日の山神祭には神流町・万場を挙げて賑やかに山登りが行われている。
 西御荷鉾山の山頂付近は大の字に刈り込まれている。これは昔麓の村で疫病が流行し、西御荷鉾山の不動尊に平癒祈願したところ疫病が治まったため、大願成就を記念してかり出されたとのこと。
 東西の御荷鉾山の間の峠を投げ石峠といい、麓の町を鬼石という。昔、御荷鉾山に棲んでいた鬼を弘法大師(空海)が退治したとき、鬼が石を投げて逃げた。この石を投げたところを投げ石峠と呼び、石が落ちたところを鬼石と呼ぶようになったという。
 なお、弘法大師が登場しない伝承もあり、この場合鬼は御荷鉾山を一晩で富士山より高くしようとし、それに失敗して石を投げることとなっている。

境内は社殿から左方向、つまり南側に敷地が広がり、そこには幾多の境内社が祀られている。
 
 拝殿左側に祀られている境内社・石祠等(写真左・右)右側の写真の石祠・石碑は八坂神社。
        
                        境内一番南側に祀られている境内社 
       神明調の社殿造りであることから「護国神社」の類かもしれない。 
        
                        社殿左側奥に祀られている境内社・合祀社
                     中央に神明宮(春日大神・天照皇大神・八幡大神)
                   中央左隣に琴平神社・天満宮・神虫除神社・疱瘡神社
                  中央右側隣が稲荷神社・秋葉神社・猿田彦神社・三峰神社
 
       境内社・五角注の社日神          拝殿右側に祀られている境内社
        
                                       神楽殿
 拝殿前方右手には神楽殿がある。毎年7月の中旬に開催される夏祭りは、勇壮な屋台囃子と屋台巡行で知られ、「関東一の祭り囃子」と言われている。
 鬼石夏祭りの始まりは、江戸時代の後期、当時は、「鬼石祇園祭り」の名称で、花車と言われる万灯型の笠鉾3台が、揃って鬼石神社に登上したそうだ。文政7年の棟札が鬼石神社に残されている。
 明治18年以降、人形が飾られる形の組み立て式の山車が引き出されるようになり、昭和になると屋根つきの屋台が作られ、昭和45年に相生町が屋根つきを新造して5台となり、現在の姿になった。昭和50年に祇園祭の名称が、宗教色があるとの理由で「鬼石夏祭り」に変更された。
 5台の屋台によるお囃子は、関東一と言われている。また、勇壮な新田坂(シンデンザカ)の駆け上がりは、祭りの見どころの一つとなっている。地区ごとに独自の調子を持つお囃子と、屋台の屋根に若者が上がり、高速で引き回す勇壮な姿には大きな拍手と歓声が寄せられる。また、二日目の本祭りの夜には、おまつり広場で笛や太鼓の技とお囃子の音色を競い合う「寄り合い」が行われる。「寄り合い」」では、各町内で受け継がれてきた独自のお囃子の打ち回しの後、5町一斉の乱れ打ちが行われ、お祭りが最高潮を迎える。
 尚4月の第2日曜日に鬼石神社太々神楽が奉納される。
        
            正面鳥居から参道、及び町市街地方向を望む。


参考資料 「上野国志」「日本歴史地名大系」「藤岡市鬼石商工会HP」「Wikipedia」等

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浄法寺丹生神社

 上野国神名帳(こうずけのくにじんみようちよう)は、上野国(現在の群馬県)が奉幣していた国内の神社を書上げた登録簿で、国内神名帳の一つ。貫前神社(富岡市)の一宮本、総社神社(前橋市)の総社本、「群書類従」所収本などの写本が伝わる。いずれの写本も上野国内の鎮守、各郡ごとの神名の二部より構成されているが、神名表記や神社数、郡の配列など多少の出入りが認められる。総社本は奥書によると、永仁六年一二月二五日に神主赤石氏中清が「正本の如く」筆写した写本を、貞和四年・弘治三年に二度にわたり写し直したものである。総社本にのみ浅間大明神が書上げられた背景には、おそらく写本成立直前に起こった弘安四年の浅間山噴火の影響があったに相違ない。同本を例にとると、郡別記載部には、碓氷一五、片岡一四、甘楽三二、多胡二五、緑埜一七、那波一八、群馬東郡一四五、同西郡一六九、吾妻一三、利根二一、勢多二三、佐位一二、新田一五、山田一二、邑楽一五の計五四六社(神社名を記したもの二四一社)が確定されている。
 その上野国神名帳・緑埜(緑野)郡十七社の中に「従三位 丹生大明神」と記されていて、これが当社・浄法寺丹生神社といわれている。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市浄法寺1259
             
・ご祭神 高龗神 罔象女神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭(太々神楽) 49日に近い日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点を右折する。群馬県道・埼玉県道13 前橋長瀞線合流後600m程北上すると進行方向左側に「広厳山般若浄土院浄法寺」「佛教大師金色尊像」の看板が見え、そこから更に100m程行った十字路を左折すると、左側に浄法寺丹生神社の正面鳥居が左手に見えてくる。
 社の東側には道路を挟んで「藤岡市第七十五区平公民館」があり、駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                          浄法寺丹生神社 正面鳥居と社号標柱
                  珍しい北向きの社
『日本歴史地名大系 』には「浄法寺村」の解説が載っている。
 [現在地名]鬼石町浄法寺
 東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿(しんしゆく)村(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美(ほみ)村(現藤岡市)、西は高山(たかやま)村(現同上)・三波川(さんばがわ)村など、南は鬼石村と接する。東部を十石(じつこく)街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。
 応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王(みようおう)院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井は現吉井町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。

 朱を基調とする木製の両部鳥居が2基参道に並び(写真左・右)、氏子の方々奉納と思われ燈篭も数多く設置されている。参道の回りにある植樹も綺麗に剪定されて、日頃から地域の方々がこの歴史あるお社を如何に大事にしているのがこの雰囲気でも伝わってくる。
       
                     拝 殿                      
         御祭神は神川町・上阿久原丹生神社と同じく高龗神 罔象女神。
         「上野国神明帳」に記載がある由緒正しい社であるが、創建等の詳細は不明

Wikipedia」にはこの社に関して以下の説明を載せている
 丹生神社(藤岡市浄法寺)
 丹生神社(にうじんじゃ)は、群馬県藤岡市の神流川沿いにある神社。祭神は高龗神、罔象女神の二神。旧社格は村社。
 平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載される古社である。
 浄法寺の開祖「最澄」が当時の比叡山に倣い、丹生都比売神を祀ったことが起源とされている。
 浄法寺の字塩、八塩地区よりに鉱水が出ている所があった。神流川沿いは鉱石が採れる地域で、当社以外の丹生神社も多数存在する。社名の起源は、『丹』が土または鉱石、『丹生』が鉱石が取れる場所の意味とされている。
 上毛野君稚子は、当社に戦勝祈願後、天智天皇2
年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した。なお、魚籃観音は、近世に盗難にあい、現存していない。
        
                                  拝殿上部の扁額
Wikipedia」での説明の中に登場している「上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)」は、飛鳥時代の地方豪族であるが、その当時、皇族以外滅多に名乗れない「君」の称号を受けていることから、国内でもかなり有力な勢力であったことは確かである。
 この人物が登場する時代は、国内外でかなりの激動の時代であった。
 大陸では長らく混迷を極めていた分割時代は「隋」国によって統一され、其の後「唐」国に取って変わる。「隋」時代から半島計略は行われていたが、「唐」国もその方針は継続され、高句麗征伐を行ったが、そこは失敗したため、矛先を半島内部に変える。当時朝鮮半島は「新羅・百済・高句麗」の3国がしのぎを削って争っていたが、その3国でも「新羅」国は最も弱小であった。そこで新羅国は唐国と同盟し、自ら臣下となることにより、唐国の援助を受けてから次第に強大となり、ついに660年百済国を滅ぼした。
 百済国と同盟関係にあった当時の倭国(日本国)は、百済国再興を目指す元有力貴族である「鬼室福信」からの要請を受けて、当時倭国内に人質としている豊璋(ほうしょう)王子と5,000名の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送り、その後王位につけた。
 そして天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間での戦争がおきる。
 当時倭国軍3派の中の主勢力である第2派に属し、その中でも前軍という、まさにこの軍団の主力を担っていた人物が上毛野君稚子であった。
 
社殿右手奥に祀られている境内社・天照皇大神宮  天照皇大神宮の並びに祀られている境内社
 大神宮の左側奥にも石祠があるが詳細は不明   群と、その間にある「丹生神社改築記念碑」
       
             社殿の傍に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                       神楽殿
『日本書紀』巻第二十七
「天智天皇2年(663年)3月 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ おみ
かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ」
 と記されていて、その後6月にはこの倭の軍団は「新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る」功績をあげている。
 但し当初の勝利もつかの間、2か月後の828日まずは海上戦である「白村江」での戦いにおいて「百済遺民・倭国」の連合軍は「唐・新羅連合軍」に完敗し、その前後にあった陸上戦もまた唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、ここに半島での戦いは幕を閉じる。

 上毛野君稚子はこの一連の戦いでの詳細な記録はないので、どのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、残念ながら不明である。それならば「Wikipedia」に記されている「当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した」というが、この説文の真偽の程はともかくとして、上毛野君稚子がなぜわざわざこの地に「魚籃観音」を奉納する理由があったのであろうか。
 少なくとも上毛野君稚子が、この地域に何かしら関係する人物である可能性を暗に仄めかしているようにも思えるのだが…。しかし現時点でこれ以上の勝手な考察は控えたいと思う。



参考資料「日本書紀」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
 

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渕名神社

 平安時代も終わりに近い12世紀初頭の天仁元年(1108)、上野国と信濃国境に聳え立つ浅間山の大噴火により、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。天仁大規模噴火ともいう。当時京の公卿であり、右大臣にまで昇進した藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である『中右記』(ちゅうゆうき)にもこの当時の様子が記されている。藤原宗忠は摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物でもあり、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料ともいえる。
 この日記によれば、天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。
 復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展したため、この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなったともいう。
 天仁大規模噴火は天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされていて、最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆されている。
 藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上渕名993
            
・ご祭神 保食命
            ・
社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 217日 春季例祭 4 3日 例大祭 1017
                 
神迎感謝祭 旧111
 国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に進み、群馬県道2号前橋館林線との交点である「上渕名上武道下」交差点を右折する。因みに上武道路は高架橋であるので、交差点の手前で左車線に移り、高架橋を下がり、少し進んだ「上渕名上武道下」の交差点を右方向に進む。
 県道合流後1㎞強程進むと、利根川支流である早川の西側に隣接している渕名神社に到着する。
        
                県道沿いに鎮座する
渕名神社
「渕名」の地名由来として、『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来たのが、「渕名」の地名由来との事だ。
        
                     道路に面して赤い鳥居、その先に石の鳥居がたつ。
    境内には銀杏の大木が茂り、字名「銀杏」もこれに由来したものといわれる。

 この社一帯は嘗て「淵名荘(ふちなのしょう)」と言われていた。この荘は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。
        
                                  石製の二の鳥居
 室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになったという。
        
                     拝 殿
 
 社殿手前左側には「
渕名神社社殿新築記念碑」があり(写真左)、同殿左側には旧社名である「熊野神社」の案内板(同右)が設置されている。

「淵名神社社殿新築記念碑」
 由緒
 当社は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に至って、豪族淵名大夫光行の篤い崇敬を受けて、その氏神として祭祀されたとも伝えられている。
 天下争乱の戦国時代に一時荒廃したが、郷民崇敬によって修復され、明治六年には、村社に列せられている。
 現在の社殿は熊野神社と称された時のもので、明治の頃に上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀した際に淵名神社と改称し「保食命」を主祭神とした。
 同時期、近傍に祭祀されていた「金山大権現」「赤城神社」「諏訪神社」「神明宮」「天満宮」「稲荷神社」なども合祀し、今に至る。
 境内には以前、樹齢三百余年以上あると思われる、見上げるばかりに大きな銀杏の古株が有り、字名を銀杏と称される程であった。しかも、この大銀杏の樹皮を産婦が用いると乳の出が良くなると伝えられ神社に祈願してその分与を乞う者も多かったという。

 拝殿東隣に設置されている案内板 
熊野神社」
 上淵名(いま淵名神社)祭神 須佐之男尊
 淵名神社になって「保食命」
1)奈良時代に創建されたと伝う。
 鎌倉時代に至り豪族淵名大夫光行の崇敬が篤く氏神として祭祀した。
 戦国時代に一時社殿が荒廃したが郷民の崇敬によって修復され古来より十二月二十九日に例祭が営まれた。
 明治に至るまでの境内に目通り十六尺の大銀杏があり婦人がこの樹皮を用いると乳がよく出るといわれて奉賓が盛んであった。今の此の地を字銀杏というのはその為である。
2)昔、上淵名の鎮守は飯玉大明神であった。
 村の東南方淵名から東新井に通じる道端にあったが明治に熊野神社に合祀して淵名神社と改めた。
 いま、淵名神社の御神体は飯玉大明神の御神体を納めるもので古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった。
 天保年間、村内にあった神社は村の西方に「金山大権現萬蔵」、東に「赤城神社」、もと長命寺前に「諏訪神社」、南方に「神明宮」、横町に「天神様萬蔵東」と「比丘尼塚」、阿弥陀山に「稲荷神社」があったが明治に淵名神社に合祀された。

「淵名神社社殿新築記念碑」と社殿東側の「案内板」には、創建等由来に多少の表現の違いがある。「淵名神社社殿新築記念碑」では上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀し、社号を淵名神社と改称、並びに「保食命」を主祭神とした際の経緯をサラッとに載せているのに対して、「案内板」のほうでは、「古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった」と、明治期の神社合祀時に御祭神の交代等に伴う熊野神社側氏子の不満を露骨に載せている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 
 社殿左側には「奉納奥社」との社号額が記されている鳥居が立ち(写真左)、その先には幾多の石祠・石碑等が立ち並ぶ(同右)。
 石祠・石碑群は左側から「二十三夜塔」「道祖神」「大黒天」「庚申塔」「猿田彦大神」「?」「?」「?」「飯玉神社」「富士浅間宮」「諏訪神社」「秋葉山神社」「?山神社」「?」「豊玉姫神」が祀られている。
        
       社の東側には南北に早川が流れ、長閑な農村風景が広がっている。
  よく見ると境内の東側隅には石祠がポツンと祀られていた。弁財天の祀る石祠である。
                  どのような経緯であの場所に祀られているのだろうか。


参考資料「中右記」「Wikipedia」「伊勢崎風土記」「境内案内板等」等
            

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貴先神社

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り、柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。現在群馬県高崎市から伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」又は「例幣使街道」と呼ばれている。
 その街道沿いには15カ所もの宿場町が存在していて、6番目の宿が「木崎宿」である。この宿場町は、木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いにあり、地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされ、飯売女を置いた旅篭屋が多くできていたという。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後から木崎に年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれている。越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活を強いられ、彼女たちはこの寂しさから、故郷や家族を忍び、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われている。
 その後八木宿(栃木県足利市)で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられている。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれていて、木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められている。
 なお平成17328日、合併に伴いに改めて新市の指定重要無形民俗文化財として指定されている。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田木崎町甲637
             
・ご祭神 須勢理比売命
             
・社 格 旧木崎宿総鎮守 旧村社
             
・例祭等
 新田下江田矢抜神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を右折する。この県道は嘗て旧日光例幣使街道であったのだが、その道路を東行し、県道332号桐生新田木崎線が合流する交差点から少し南下した所に貴先神社は鎮座する。
        
                   貴先神社正面
 
          一の鳥居                               参道の様子
 境内は鬱蒼とする大木で覆われ、境内社や石祠、石碑、石灯籠等も数多く建立されていて、社の規模はやや小さいものの境内は落ち着いた雰囲気になっている。(*但し社殿裏手にある社務所や公園等を境内として含むのであればかなりの広さともいえよう)
        
                  拝殿前の二の鳥居
        
                      拝 殿
 貴先神社のご祭神は須勢理比売命(すせりびめのみこと)である。この神は、『古事記』『出雲国風土記』等に見える女神で、『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。但し『日本書紀』にはみえない。
 誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり国津神である大国主神の正妻。
 根国(ねのくに・地底の国)にきた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の前身)と結ばれ、夫が父から課せられる難題を解決するのをたすけ、父の宝物をもって夫に背負われて根国を脱出した。大己貴神は、須勢理毘売命を妻にして初めて大国主命(おおくにぬしのみこと・葦原中国の支配者)となることから、巫女(みこ)王的本質をもつといえる。
        
                                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
                          木鼻部左右の彫刻も見事である(写真左・右)
 ところで大国主神は先に結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて木俣神を置いて実家に帰ってしまった。
 また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した八千矛神は大倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく鎮座することとなったという。
 スセリビメの持つ激情は、神話において根の国における自分の父の試練を受ける夫の危機を救うことに対して大いに発揮されるが、一方で夫の妻問いの相手である沼河比売に対して激しく嫉妬することによっても発揮される。この嫉妬の激しさは女神の偉大な権威を証明するものだという説がある。
 また「須勢理」は「進む」の「すす」、「荒ぶ」の「すさ」と同根で勢いのままに事を行うこと、「命」が着かないことを巫女性の表れと解し、「勢いに乗って性行が進み高ぶる巫女」と考えられる。
        
              本殿裏側の破風部位の彫刻もまた見事 
 
          境内に祀られている幾多の石祠・石碑等(写真左・右)

 太田市新田木崎地域に鎮座する貴先神社は、古くから木崎宿の総鎮守として信仰を集めてきた神社である。須勢理比売命は大国主命の后(きさき)だった事から貴先(きさき)という社名になったと云われ、貴先から木崎という地名が生まれたという。また木崎宿は飯盛女の多い宿とされ、総鎮守である貴先神社は彼女達から信仰の対象になっていたという。
        
                  境内社・八坂神社
        
       八坂神社拝殿上部に掲げてある扁額。扁額周辺にも精巧な彫刻が施してある。
        
 八坂神社の右隣に祀られている境内社。但し覆屋内には立派な本殿があり、狐像も見えるので、稲荷社の可能性もある。

 貴先神社の社殿裏手に当たる北西側には、社務所や公園が併設され、子供達の遊び場・遊具もあり、敷地内は綺麗に整備されている。その一角に「新田の名木」と記されている案内板がある。
        
                                       新田の名木
                             樹木名 ヒヨクヒバ(比翼檜葉)
                             所在地 貴先神社境内
                             樹 齢 二~三〇〇年
                             目通り 三.七メートル
 一般的には「イトヒバ」と呼ばれ、わが国では本州の東北中部以南、四国、九州まで植栽し、樹形は楕円形。日当たりのよい場所で、土壌は乾湿中庸な肥沃土を好む。生長はやや遅いが萌芽力があり、刈込みに耐える。潮害にやや弱く、煙害には中程度。
 比翼とは二羽の鳥が互いにその翼をならべることの意がある。(以下略)
       
                
新田の名木(写真左・右)


参考資料「太田市HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「日本歴史地名大系 木崎宿」
    「Wikipedia」等


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