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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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倭文神社

 倭文神社が鎮座する伊勢崎市(いせさきし)は、群馬県の東南部に位置し、市の北部に一部丘陵地があるほか、ほぼ平坦地である。市の南部には利根川が流れ、その支流である広瀬川、粕川、早川などの河川や池沼がある。道路交通網では、北部を横断する北関東自動車道、国道50号、また、市の東北部を通過する国道17号(上武道路)や南部を横断する国道354号、中央部を縦断する国道462号などが整備されており、さらに、鉄道網では、JR両毛線、東武伊勢崎線が結節する交流拠点として更なる発展が期待されている。
 2005年(平成17年)1月1日に行われた1市2町1村の合併によって人口が20万人を突破し、2007年(平成19年)4月1日に東に隣接する太田市とともに特例市に移行した。不思議な事に この市の人口は現在でも増加傾向にあり、群馬県内でも屈指の人口増加が持続する地域であるそうだ。子どもが増えている一方で、高齢化も緩やかに進んでいる。また、就業者は、サービス業の従事者が増加している。

 伊勢崎市の地名の由来は、1561年(永禄4年)に由良成繁が赤石城を攻め落とし、赤石郷の一部を伊勢神宮に寄進して、伊勢宮を守護神として奉った。以来、「伊勢の前(いせのさき)」と呼ばれるようになり、転じて「伊勢の崎」、「伊勢崎」となったとされる。
所在地    群馬県伊勢崎市東上之宮町380
主祭神    天羽槌雄命         
         (配祀)倉稻魂命 菅原道真 豊受姫命 木花咲耶姫命
             大己貴命 大山祇命 誉田別命 素盞嗚命 菊理姫命
社  挌    上野国延喜式内社 九の宮  旧郷社、那波郡鎮座 
例  祭   
4月16日 春季例大祭  10月17日 秋 祭 

          
 倭文神社は、伊勢崎市の南西3㎞ほどの利根川と廣瀬川の間に挟まれた地形で、周辺はさほど多くの民家はなく、田園地帯の中に鎮座している。駐車場は境内裏側に数台停められるところがある。意味深にも利根川の対岸に下の宮という地があり、そこには式内社である火雷神社が鎮座している。
 「倭文」と書いて「しとり」と読む。創立年代・由来は一切不詳だが、一説には、垂仁天皇の御宇3年という。社名から倭文部の創祀した神社と思われ。祭神、天羽槌雄命は、倭文部の遠祖で、織物の神。伊勢崎市は周辺の桐生市も含め古くから織物の里として栄えている関係もあるのだろうか。
               
                    正面入口から入ると朱の両部鳥居がある。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に 倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって 上野国の九之宮とも称された由緒ある社だ。倭文氏の氏神を祀った神社なので、奈良県葛城市に鎮座する「葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎしとりにいますあめのはいかずちのみことじんじゃ)」が本家の神社のようだ。

倭文神社略由緒
鎮座地    伊勢崎市東上之宮町380番地
延喜式内  上野十二社 九之宮
主祭神    天羽槌雄命
配祀神      倉稻魂命 木花咲耶姫命 譽田別命  菅原道眞命 大己貴命 素盞嗚命
               
豐受姫命 大山祇命 菊理姫命
 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第11代垂仁天皇の御宇3年と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録)その後、延長5年(927)に撰集された『延喜式』神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、『従一位倭文大明神』とあって上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光のれ慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約80年を経て、享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治13年10月24四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正14年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。
                                                           案内板より引用
                               
                              拝    殿
                               
                              本    殿
 倭文神社はその後戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、 元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、 別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。
 以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)9月には、御朱印地十石を賜わり、 安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。享保12年(1727)8月には、八代将軍吉宗から 社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内から浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。 しかし、この社殿も慶応2年(1866)11月9日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。現在の社殿はその後、明治13年10月24日(上棟)に再建されたものである。
              
倭文神社

伊勢崎市指定重要無形民俗文化財
倭文神社の田遊び
平成19年8月17日指定
 倭文(しどり)神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し.鳥居と拝殿の間を三往復します。
 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
 この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。
御神歌
 工ートウ、工ートウ
 まえだの鷺が御代田にぎろり
 ぎろぎろめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 工ートウ、工ートウ
 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者
 つじゅう十石ざらり
 ざらざらめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

  平成20年3月1日     伊勢崎市教育委員会
                                                          案内板より引用

 拝殿を左手方向に進むと巨大な岩が祀られている。       拝殿の西側には神楽殿がある。
          磐座の類であろう。

 境内右側には道路沿いに鳥居があり(写真左)、そこからも出入りができる。ただ鳥居近くに社日があったが見落とした為、撮影できなかった。少々残念。またこの鳥居を入るとすぐ右側に石祠群があり、左から少彦名神、道祖神、双体道祖神、道祖神が並んでいる。

 また社殿の奥にも多数の境内社が存在する。
        
         熊野社           市杵嶋社、八幡社、天満社         八坂社等 境内社

  ところで、この倭文神社から真南に約1㎞位、利根川を挟んで式内社、火雷神社が鎮座している。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は「天津甕星」とも言い、星の神という。
 群馬県利根川中流域の川を挟んで南北に僅か1km程の狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。
    



 


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火雷神社

 群馬県佐波郡玉村町は群馬県南部に位置し、南を烏川で画され、町の北部を利根川が流れ、町の南東で合流する。また町内の地形は平坦なので、赤城山、榛名山、妙義山を一望できる自然環境の豊かな地域でもある。
 
東京から100km圏内という位置にあり 東は伊勢崎市、西は高崎市、南は藤岡市、高崎市、上里町、北は前橋市にそれぞれ接していて全域が標高は57m~72m位の平野部であるが、南部の烏川流域が沖積低地であるのに対し、北部の利根川流域は洪積台地である。町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町であった下新田地区である。人口は県内の町村としては大泉町に次ぐ37,092人(2013年5月推計)であるそうだ。

 玉村町の歴史は古く、小泉大塚越遺跡3号古墳は全長72mの大型の前方後円墳で6世紀後半には大きな権力を持つ豪族が存在していた証明であり、他の古墳からは人面付円筒埴輪や日本最大級の馬形埴輪などが発見され他地域と異なる独自性も垣間見れる。律令制度の中で玉村町でも多くの荘園が存在し、中でも玉村御厨は、伊勢神宮の荘園(神領)として125町あり毎年30反の麻布を献上していたそうだ。
所在地    群馬県佐波郡玉村町下之宮524-1
御祭神    火雷命 (配祀)那波八郎 保食命 菅原道真
社  挌    上野国延喜式内社 八の宮  旧郷社 
例  祭    4月3日 例大祭
      
 火雷神社は群馬県佐波郡唯一の町玉村町に鎮座する。玉村町役場から東側にあり、伊勢崎市との境を流れる利根川西岸の「下之宮」にある。この社は参道のすぐ西側は住宅街で、神社の目安となる鳥居は参道の途中にある為神社を見つけるのに苦労する。鳥居の代わりに火雷神社の社号標があり北方向に向かうと火雷神社拝殿がある。駐車場は神社の西側にあるらしいがそこに駐車せずに、社号標の先の空間に駐車し参拝を行った。

    火雷神社の社号標と正面に見える鳥居          参道の途中にある新しそうな鳥居

火雷神社
  この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をまつってある。
 景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦15年(796)官社となり、延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神とかかれている。
 鎌倉時代の始め、建久2年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治5年(1872)郷社となった。現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)-火雷神社に伝わる祭りで、貞観4年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦10月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。
                                                                                                                                 案内板より引用

  利根川の対岸に上の宮という地があり、そこには式内社・倭文神社が鎮座している。近世以前の利根川は、現在の広瀬川を流れていたらしく、当時は、上之宮(倭文神社)と下之宮(当社)は、ちょうど1km離れた南北に位置していた。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は正式名「天津甕星」とも言い、星の神という。狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。この玉村町利根川流域には古代日本の謎が縮図となって存在している。


 境内に入ると左側には社務所があり、その隣に神楽殿(写真左)、そしてその右側には合祀された蚕霊神社(同右)が並んである。
 私事で恐縮だが、筆者の母方の実家は玉村町とそう離れていない利根川南岸の埼玉県深谷市横瀬地区で農家を行っているが、その昔カイコ(蚕)を家の中で育てていたことをふと思い出した。当時は恐らくこの地域一帯では蚕が盛んだったのだろう。この蚕霊神社は弘化二年(1845)正月に村民により常陸国豊浦(茨城県神栖町日川)から那波郡下之宮村字屋敷間に勧請されたが、明治四十一年(1908)7月13日に合祀されたという。御祭神は保食命。
           
                             拝    殿
 火雷神社は天文年間(1532年~1555年頃)現今の地に神社を遷したと言われているが、それ以前の鎮座地は不詳という。
           
           
                              本    殿
 参道の途中にある案内板には、景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、 平安時代の延暦15年(796)官社となり、 延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神と記載されている。
           
                  拝殿側面に掲げている火雷神社略記の案内板

延喜式内上野十二社火雷神社略記
鎮座地  群馬県佐波郡玉村町大字下之宮五二四番地
社名   火雷神社
祭神   火雷神(主祭神)
配祀神 保食命   菅原道真命 那波八郎命
      火産霊命  大物主命  建御名方命
      誉田別命  素盞鳴命  高淤賀美命
      宇迦御魂命 大日孁貴命 少彦名命
由緒
 当社は第十代崇神天皇元年創立東国大都督御諸別王の尊信あり。
 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列させられ官幣に預る。村上天皇天暦二年(948)五月、三条天皇長和年中(1012~1016)又国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く広大な社殿を造営奉り四季の祭典を興し寶作無窮国家安泰を祈らる。後、現在に改む。新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
 後村上天皇康永二年(1343)神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり。明治五年(1872)七月郷社に列せさる。当社に古式神事あり。清和天皇貞観四年(862)より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行ふ。燈火を用いず微声を以って祝詞を奉す。
 翌十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入を厳禁。過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起すと云う。
 而して此の神事中は村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。古より傳へて那波の御神事と云う。
祭日
 四月三日  例祭(年一回大祭)
 十月十七日 小祭
                                                            案内板より引用

                       拝殿左側にずらりと並ぶ末社群

                                                                                                         

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山名八幡宮

  源氏は不思議な一族である。元々源氏は一族同士の繋がりが平氏ほど強くなく、独自裁量の傾向が強い一族で、それは山名義範も例外でなかった。この山名義範は新田庶流の中で新田義重(源義重)から何故か冷遇されたようで、所領も他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかった。(しかしこの山名郷を含む佐野地方は古来より文化が栄えた地であり、また丘陵地でもある要害の地でもあったので決して冷遇されたとは思わないのだが)その為か総領である新田義重はもちろんのこと、その一族同士の連携も古文書を見る限り全くなく、独自の動きをとることが多かった。それが結果的に功を奏することにつながった。
 例えば、平家打倒のため、源頼朝が伊豆で挙兵した際、父の義重が寺尾城(高崎市寺尾町)に立てこもって、頼朝の召集に応じない中、新田一族の中で一番早く源平合戦に参戦し、義経のもと一の谷の合戦で功績をあげた。その結果、伊豆守に任じられ幕府内での地位を強固にしたのである。義範以降の山名一族も南北朝争乱における新田義貞と足利尊氏の対立に際して、早くから、同じく新田宗家の新田義貞に従わず、足利尊氏につき従い、山名時氏の時期において山陰を中心に最盛期11か国の守護職を補任され、当時全国でも66か国であったので「6分の1殿」と呼ばれたという。明徳の乱(1392年)によって当時の総領山名氏清は戦死し、一時的に没落の目に陥ったが、その後また復権し、戦国時代の幕開けといわれている、応仁の乱(1467年)の西軍の大将、山名宗全(山名持豊)の登場に至ると山名氏の全盛期を築き上げた。
 現在の社殿は本殿・弊殿・拝殿からなる権現造りで、三手先の軒や腰部の彫刻がすばらしく、本殿は銅板葺きの三間社流造りで、彩色した彫刻が施されて、拝殿部分は、何故か後に建替えられている。また境内には、随身門・神楽殿などが存在する。

所在地  群馬県高崎市山名町1581
御祭神  玉依比売命、応神天皇、神功皇后
社  挌  旧郷社
由  来  当社は宇佐八幡宮を勧請し文治年中, 鎌倉時代に
       新田(山名)義範が社殿を 造営したと伝えられる
例  祭  10月15日 神輿渡御獅子舞  10月15日、16日 秋季例大祭

                         
 山名八幡宮は、群馬県高崎市山名町に鎮座する。八高線群馬藤岡駅西口方面を基点として西進し藤岡消防署交差点を右折、群馬県道30号寺尾藤岡線を寺尾方面に真っ直ぐ進む。途中上落合交差点を右折し北上、鏑川橋を過ぎてしばらく進むと山名町地区になり、上信電鉄山名駅の先のすぐ左側に山名八幡宮の鳥居が見え、大きな両部鳥居と社号標が立っている。
 駐車場は、鳥居をくぐった所に『第一駐車場』、第一駐車場の先に『第二駐車場』があり、今回は社殿の近くにある第二駐車場に停め参拝を行う。
                
                                               群馬県道30号線に面している大鳥居

  まず境内入口から西へ進むと、参道脇に「太刀割石」が見える。慶長五年(1600年)、馬庭念流中興の祖・樋口定次が天真流村上天流と試合と試合をするにあたり当社に参籠し、満願の日に枇杷(びわ)の木剣で断ち割ったという石という。
                       太刀割石の案内板                           太刀割石

 
当社参道を上信電鉄の線路が横切っているので線路の下をくぐって進むと神門があり、神門の奥が境内になる。残念なことにデジカメの画像が悪く、掲載できないのが残念だ。また参道右手に手水舎があり、鮮やかな朱の鳥居が立っている。鳥居の脇にはいくつかの境内社や神馬像、ムクやケヤキなどの立派な御神木が存在する。
                         
琴平・八坂社                          上の妻戀稲荷神社
                                   
                                                               参道の神馬像
  この神馬像は山名八幡宮の社殿を造営した新田義範氏の子孫である山名氏の末裔(全国山名氏一族会)が奉納したもので、神馬は西国を向いている。山名氏は全国、特に中国地方などの西国に拠点を移した山名一族であったが、室町幕府成立以降も山名郷は所領のまま残していた。そして、遠く離れた西国の地で、山名八幡宮の維持管理を自ら行っていた。全国の山名一族にとって、一族発祥の地、山名八幡宮は心の拠り所を保証する精神的に重要な場所だったのである。

山名宗全と山名八幡宮

 応仁の乱の西軍の指揮を執った山名宗全の祖が当社を造営した山名義範である。義範は新田氏の祖、新田義重の子でこの山名郷に入り山名氏の祖先となった。史書(吾妻鏡)には随所に名が記され、源頼朝の配下として活躍した。この神馬像は全国の山名氏の末裔が奉納したもので神馬は西国を向いている。                                
                                                            案内板より引用

            社殿前の鳥居                       石の階段上に拝殿がある

 鳥居をくぐり階段を上ると当社の社殿が目の前にある。社殿は、入母屋造の拝殿と流造の本殿が連結した権現造で、奥の本殿は十八世紀の建造だそうで、蜃・象鼻・鳳凰・龍・獏・唐獅子などの神獣の彫刻が施されており、平成になって極彩色に塗りあげられたそうで規模が大きく美しく豪華だ。同じ群馬県に鎮座する雷電神社は黒が基調とした本殿で男性的な感じに対して山名八幡宮は基調は白で、優雅で女性的な趣がある。
 また社殿に置かれていたチラシには、夜、美しくライトアップされた当社本殿の写真が載っている。

            
                              山名八幡宮 本殿。拝殿、幣殿共に高崎市指定重要文化財
                                
                     本殿後方の中門には裏神様を祀られているそうで、獅子頭が置かれている。

山名八幡宮      
山名八幡宮の歴史と伝承
 うしろに八幡山を配したこのあたりは古くから開けた所で、歴史をさかのぼれば縄文時代にまで人々の暮らしの跡をたずねることができる。
社伝によればこの社は源氏の一族、新田氏の祖義重の子義範が山名城にあって安元年中(一一七五~一一七七)に、豊前の国(大分県)の宇佐八幡を勧請して、社殿を造営し、武神として崇敬したのを始めとしている。
御祭神
 玉依比売命、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)の三柱を祭神として祀り、古くから安産や子育ての守護神として、また養蚕や商売繁昌の神として有名であり近郷の人々の尊敬を長年月にわたって集めている。創建以来、八百余年の歳月は誇らしい歴史の重みとともに多くの伝承に彩られて人々の心のふる里となっている。
天国(あまくに)の宝剣
 山名城主、新田義範が当社創建の時に奉納したと伝えられる両刃の直刀で鎌倉末期のもの。
安産と子育ての神
 後醍醐天皇の孫、尹良親王が山名城に滞在の折り、城主世良田政義の娘が親王の子を懐妊し、当社に安産を祈願されたところ無事に男子が誕生、良王(よしゆき)君と名付けたという。以来、当社を安産と子育ての神として称えられるようになったとの伝承がある。
例祭
 毎年四月十五・十六日と十月十五・十六日のお祭りは多くの参詣人で賑わう。露店も立ち並び安産や子育てを願い、養蚕や、商売繁昌を祈る人々が獅子頭や、虫切り鎌、農具などを買い求めて季節の風物詩となっている。
神輿の渡御
 例大祭の際に山名町の中程にある石の標識、「八幡宮御旅所」と彫られている場所まで神輿を奉じ古式ゆかしくおごそかに列を連ねて行進する。
系図
 古い歴史を物語る山名氏の系図 山名宗全(持豊)は九代目で西国の十一ケ国の守護、応仁の乱の西軍の総大将。
乗鞍
 宝暦二年(一七五二)九月、前橋藩主、酒井雅楽頭(うたのかみ)より二町七反一畝七歩の神領と現在社宝の一つとなっている乗鞍一具の寄進を受けた。
大刀割りの石
 慶長五年(一六〇〇)三月、馬庭念流中興の祖といわれる樋口定次が天真流、村上天流と試合をするにあたって当社に神助を祈願して参籠し、満願の日に社前の大石を打ち割ったといわれ、その後見事に烏川畔において天流を破った。この大石は参道に今も置かれている。
祭日
 一月一日~七日初詣、一月十五日初市、二月節分ついな式、四月十五・十六日春季例祭、四月二十八日養蚕市、六月三十日大祓、十月十五・十六日秋季例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月一日神むかえ、大晦日二年参り(以下中略)
                                                      『平成祭データ』より引用
            
                                                  社殿前の階段から鳥居を撮影

 この山名八幡宮が鎮座する高崎市山名町から吉井町にかけての山名丘陵を古くは佐野山と呼ばれていた。この佐野山は「さのやま」ではなく「さゐやま」と言う。山名八幡宮を基点として北西方向に山名丘陵は広がり、その丘陵地には上野三碑と言われる「多胡碑」「山ノ上碑」そして「金井沢碑」がこの狭い地域に集中的に存在している。この山名郷周辺は群馬県内では先進地区で、古来より開発され発展した地域であった。

 上野国13郡のうち、この地域に群馬郡、多胡郡、甘楽郡3郡が建設されたのは偶然ではない。都から伸びる大動脈ともいえる幹線の「東山道」は信濃の上田から佐久を抜けて碓氷峠を通って上野国の群馬郡に置かれた国衙へと通じていた。その後、主要幹線は「新田郡」へ到って、南下して武蔵国の府中へ向かう支道であった東山道武蔵路と、北上して下野国の足利へ向かう本線に分れた。この山名地域はその東山道の丘陵地と平野部とのいわば境界線に位置する、地形的に見ても非常に重要な地域であったと思われる。


         拝殿の右側にある神楽殿          社殿、神楽殿の右手には厳島神社等、境内社
                                              が存在する。

 また山名町周辺は群馬県においても古墳の集中するいわば古墳の宝庫でもある。群馬県の古墳の分布図を見ると、大体において太田市地域、佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部、藤岡市周辺地域の3か所が古墳の集中箇所である。そして4世紀末、5世紀初頭はこの前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方、5世紀初頭には藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)が出現し、そして6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)と山名丘陵地のそれぞれ東側、南側の平野部に大型古墳はそれぞれ分布され、不思議なトライアングルを形成している。またこの二つの勢力が東山道の磯部、吉井地域との交易をするためにはどうしても通らなければならない交通の要地がこの山名地域なのである。このことからみてもこの山名地区の重要性が見えてくる。

 古代毛野国の「へその地」ともいえる要衝の地がこの「山名」地区であり、この地の重要性を歴史の神が我々に教えんがため後世に山名宋全という「山名地区出身」の人物を応仁の乱の主役の一人として登場させたようにも思えるが・・・・穿った考え方だろうか。
 

 


                                                                                   

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大胡神社

三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の間には御神幸という御神体が往復する伝統行事が毎年4月と12月に行われている。途中、大胡神社と柏倉町のお輿懸(阿久沢一家)の2ヶ所で休憩するという。三夜沢赤城神社と二宮赤城神社は南北に位置し、この大胡神社は三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の丁度中間に鎮座する地形上の特徴があり、赤城大明神の里宮として、嘗ては近戸明神と称された社である。
 この「近戸」は赤城神という古代の国造の祖神に対して「地形上に近い場所に寄り添うように鎮座」する家来的な神であり、もう一つの意味として護衛、道案内的な神でもある。

所在地     群馬県前橋市河原町638
御祭神     大己貴命、豊城入彦命
社  格     旧郷社
例  祭     5月3日春季例大祭 太々神楽(前橋市の重要無形民俗文化財)
                 
 大胡神社は前橋市旧大胡町に鎮座している。二宮赤城神社から群馬県道74号伊勢崎大胡線を旧大胡町方向へと北上して40号藤岡大胡線に合流し、そして16号大胡赤城線を荒砥川沿いにしばらく北上すると、左側の小高い丘に社は鎮座している。社の向かい側には幼稚園がある。駐車場はあるそうだが近辺を探しても見当たらなかったので、大胡神社の入口脇に停め、急ぎ参拝を行った。
 後日案内板等で知ったことだが、この社は大胡城北端の堀切に囲まれた近戸曲輪にある。城主大胡常陸介高繁が、天正17年(1589年)三夜沢赤城神社より勧請し、大胡城の守り神とした。毎年5月3日の祭典に太々神楽(市指定重要無形民俗文化財)が奉納される。また、大正4年の算額(市指定重要文化財)とムクロジ(市指定天然記念物)の神木がある。明治42年(1909)旧町内の22社を合祀したという。

   参道の階段下脇にあった猿田彦大神の石碑          階段を上がると一の鳥居がある。
                                 
                                                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
                       
                              拝    殿
                           拝殿前には前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」がある。

前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」      指定年月日 平成20年3月19日
 
このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根回りは非常に大きく50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
 ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。
                                                                                                                           境内案内板より引用

                  拝殿の右側にある神楽殿               社殿の右奥にある神興庫の類だろうか。

  5月3日の春の例大祭に奉納される太々神楽は前橋市の重要無形民俗文化財になっている。もとは足軽町に伝えられていたが、明治の神社合祀で足軽町神明社の神楽殿が当社に移転されたそうだ。この舞は、大胡神社の春の祭典の時、大胡神社の神楽殿に奉納される。この神楽は、数百年前の伝統に支えられ、厳しい時代でも中断することなく続けられている。今、舞は12座踊られている。また、お面の数が多いのも特色である。春の祭りは、その年の農業がうまくいくように五穀豊穣(ごこくほうじょう)を神に願い、秋の祭りは五穀の豊かな実りを神に感謝してきたと伝えられている。かつては河原浜地区と足軽町地区で交互に奉納していたが、現在は足軽町地区の太々神楽保存会によって奉納される。
 里神楽として農家の長男に受け継がれてきたらしい。秋の収穫の後、神楽の道具を大八車に積み、沼田方面まで赴き、舞を奉納したこともあったといわれている。

 また神楽殿には大正4年(1915年)11月10日に大原福太郎によって奉納された和算の算額(前橋市重要文化財)がある。和算の算額の奉納はしばしば見られるものだが、和算が明治期に衰退した関係で、大正期の算額は全国的にもむしろ珍しく、県内では唯一のものだそうだ。
                                
                             本    殿
                  
                          瑞垣内部から本殿撮影

大胡神社 由緒
 
大胡神社の由緒を示す一つの古文書がある。「一筆致啓上侯 御堅固之段珍重 奉存侯然者其地 赤城大明神当城之 鎮守ニ近戸大明神と 奉祭度侯間其元 父子之中此方江 引越神祭奉 頼侯万事家来 (折紙)口上申入侯謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿」
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいとの内容である。天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが、近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻って改めて赤城信仰を考える時に、三夜沢赤城神社ということになったのであろう。祭神は大巳貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらに前橋市堀之下町の熊野神社その他まで合祀せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
  祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神となり農耕の豊作であるよう祈念したのである。太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)産泰神社にも指導し同社の神楽復興に助力した。明治四十二年六月に近戸明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味する。参道も東側にあったが、昭和十八年に現状のような南参道に付け替たのである。
                                                                                                                           平成データより引用

 また本殿奥には多数の境内社、末社、石祠が並んでいる。前橋市堀之下町の熊野神社など、総数二十二社にも及ぶ多くの神社を合祀したため、現在の祭神も四十五柱、相殿八柱となったらしい。『平成祭データ』には三十一柱の名が記されている。この石祠類の詳細は残念ながら解らない。

                      社殿の奥に並んで鎮座している境内社、末社、石祠類。詳細不明。

 大胡神社は南口の入口から参道正面も含め、社殿の回りが鬱蒼とした木々に覆われている。ただ社殿の隣の神楽殿の前には広い空間があり、その場所のみは太々神楽の関係だろうが日当たりが良い。今まで多数の神社を見てきたが、参道から見て社殿と神楽殿がほぼ並んで建っているいる配置も珍しく、社殿は緑が多いので日陰部分が多いのに対して、神楽殿は広い空間が前にあり、社殿の陰に対して神楽殿の陽の、その色彩のコントラストの違いが印象に残った参拝だった。
 ただ参拝時間が短く、ゆっくりできなかったことが非常に残念。後で知ったことだが、駐車場は逆方向(北側)にあったらしく、事前の計画の必要性をまた感じた。
                                                                                                
                                                                                                  


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二宮赤城神社

 二宮赤城神社は、群馬県前橋市二之宮町にある神社。 式内社(名神大社)論社、上野国二宮論社。旧社格は郷社。 関東地方を中心として全国 に約300社ある赤城神社の本宮と推測されるうちの一社である。この社は赤城山麓真南に位置し、赤城山の稜線がよく見える絶好の位置に鎮座している。この地域は古くから開けていた場所で、この社の東北方には4基の前方後円墳からなる大室古墳群が残っており、赤城神と関係の深い上毛野氏の中心地と推測される。赤城神社は上野国二宮であるが、当地の地名も二之宮という。現在、赤城神社の本社は、三夜沢赤城神社というのが主流であるが、少なくともある時期、上野一宮が貫前神社となり、赤城神社が二宮として定められた頃、赤城神社の本社は当社であったのかもしれない。
 
万葉集には、赤城山を詠んだ歌が存在するが、当時はこの「赤城山」という名前では詠まれたものはなく、「3412 賀美都家野 久路保乃祢呂乃 久受葉我多 可奈師家兒良尓 伊夜射可里久母
 (かみつけの くろほのねろの くずはがた かなしけこらに いやざかりくも)」とあり、この
「くろほのねろ」が赤城山をさすものとされ、赤城山連峰の「黒檜山」に比定されているといわれている。赤城山の本当の名前、また何時、現代の名称に変わったのか、不思議な疑問がまた一つ増えてしまった。
所在地   群馬県前橋市二之宮町866
御祭神   大己貴命 多紀理比売命 多岐津比売命 市岐嶋毘売命
        天忍穗耳命 天之笠早命 熊野久須毘命 活津日子根命
        天津日子根命・和久産巣日命・大物主命 建御名方命                                               
社  格   式内社(名神大)論社、上野国二宮論社、旧郷社
由  緒   履中天皇御宇の創祀
        承和6年(839)6月従五位下「続日本後紀」
         貞観9年(867)6月20日正五位下「三大実録」
         同11年12月15日正五位上、同16年3月14日従四位下
             元慶4年(880)5月25日従四位上
        康和5年(1103)6月神事に穢れがあり中祓
        永承4年(1049)神仏習合の勅願神社 建久5年(1194)修築
例  祭   4月15日 例祭

                        
  二宮赤城神社は国道17号バイパス上武線の二宮赤城神社前交差点を右折し、そのまま北上すると国道50号線の二宮町の間に鎮座している。この前橋市二宮町は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されている。また赤城山山頂の赤城神社の里宮とも言われている。
 この社には神仏習合の神社の名残りが多数あって、境内には宝塔、参道には鐘楼などがあるし、周囲には、古墳や遺跡の多い場所だ。現代に至るまでの歴史の遺構が何かしらの型で残っていて、色々な意味において興味が尽きない面白い社だ。
 

               南向きにある朱塗りの一の鳥居               鳥居を過ぎるとすぐ右側にある鐘楼

          昼間でもほの暗い参道          隋神門の先で左側には案内板が設置されていた。

二宮赤城神社
 
当社は、第十代崇神天皇の皇子「豊城入彦命」「大己貴尊」を始めとし、数柱の神々を祭神とし、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の時代に創建されたと伝へられる古社である。特に、古代豊城入彦命を始とした毛野氏の子孫上毛野氏と深い縁のあった社とも伝へられている。
 平安朝初期の第五四代仁明天皇の承和六年(八二九)に従五位下に叙されて官社となり、続いて昇叙を経、第六〇代醍醐天皇の延長五年(九二七)に制定された「延喜式」内、上野国十二社中の名神大社とされた。第六八代後一條天皇の長元々年(一〇二八)頃の上野国の国司文書中に、正一位赤城大明神、上野国神名帳には、上野国二宮赤城大明神などの神位、神階が記録されている古名社であった。第七〇代後冷泉天皇の永承四年(一〇四九)には、日本全国の諸社中から五五社が選ばれ、神仏習合の勅願神社となり、当社もその一社として、社域内に造塔の折、心礎(根巻石)内に仏舎利(釋迦尊の骨片、現存)が奉納されていたのである。
 鎌倉時代には征夷大将軍源頼朝の崇敬を受け、建久五年(一一九四)当社などの修築を、守護職安達盛長に命じ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成らが修築を奉行したり、百石を寄進したと云う記録も見られる。戦国時代に小田原城主北條氏政の軍勢に依って、数多くの建物は打壊され、壊滅的被害を受け、宝物類も多く失ない衰微した。天正十八年(一五九〇)北條氏滅亡後、領主として大胡城へ入城した牧野駿河守忠成、康成父子を始めその後厩橋藩主となった酒井氏歴代、江戸時代幕府の天領代官藩主松平氏歴代さらに住民に篤く尊崇されてきた、そして赤城南麓地帯の連神社の中心的役割を果していた。
                                                            案内板より引用

       神代橋を渡り、正面には随神門               門の手前、右側にある社日
           
                              拝    殿
                                     
                                 
 随神門を過ぎると広い境内が広がり、社殿を中心として、その周囲には数多くの境内社、石祠等がある。社殿の左側には藁葺の神輿倉があり(写真上段左)、嘗ての十二天社といい、仏教のいう十二天を祀っていた場所だったが、明治時代の神仏分離政策により、現代は神興庫として使用されているという。また社殿右側には、演舞台(同右)、そして新しい神楽殿(下段)が並んであった。
 当神社には、太々神楽・雅楽・式三番叟が伝えられ、演じられ奉納されている。この式三番叟は、農村歌舞伎・地芝居・神楽が融合したもので、神社の古式神事と結びつく貴重なものであり、市の重要無形民俗文化財に指定されている。当社には、享徳2年(1453)神社再興の際に作られたと推定される納曽利面があり、県の重文に指定されている。舞楽の面で、納曽利には陵王が舞われる。陵王は竜王と解され、雨乞いでよく舞われる舞楽である。 
           
                              本    殿
 二宮赤城神社のの創建は不詳だが、社伝では垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられている。建久5年(1194)には源頼朝が社殿を再建し、社領100石が寄進され社運が隆盛した。戦国時代の永禄年間(1558~70)小田原北条氏の兵火に見舞わられ、社殿をはじめ社宝、記録等が焼失したが、その後領主となった牧野氏や前橋藩主・酒井氏、松平氏に庇護され再び隆盛した。本殿の妻壁の架構も複雑に構成され、二重虹梁下の彫物も独特の意匠となっている。

 二宮赤城神社 由緒
 創立年代は不詳。
 社伝では人皇11代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れていて共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共に栄えた証であります。
 赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和6年(839)で、上野国無位赤城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。
 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。
 又、次のような伝説も有ります。
 あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。
 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。
 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。
 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神です。
 そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、崇敬が厚かったことを物語っています。
                                        
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
      

          拝殿右側にある日枝社          日枝社の右手にある赤城神社の文化財案内板
                                
        本殿右奥の林の中に、鎌倉時代のものと推定される、舎利孔をもつ塔心礎がある。

                
  本殿後方右側、日枝神社の裏手には道祖神や石祠が祀られ、鳥居の奥には秋葉神社が祀られている(写真上段左)。秋葉神社は俗にいう「火伏せの神」といい、広く信仰された秋葉大権現(現在の静岡県浜松市に本宮をもつ秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ないという。 
 また社殿の左側後方には「宝塔」があり(写真上段右)、南北朝期のものと推定され、この地方に広く分布し赤城塔と呼ばれていて、天台宗の法華経信仰によるものと考えられているそうだ。社殿の両サイドには多くの祠がビッシリと並んでいる(写真下段)。二宮町周辺の神々をこの地に集めた結果なのだろうが、やはり実際に見ると群馬県にはこのような社が多く、その数の多さに驚く。 
                            

 ところで、二宮赤城神社の御神幸という伝統行事が毎年4月、12月の上旬の初辰日に行われている。この御神幸というのは、二宮赤城神社と三夜沢赤城神社の間を御神体が往復する行事で、二宮赤城神社独特の神事であるらしい。御神体(神輿)は、神鉾・神衣(かむみそ)といい、娘神である二宮が、父神である三夜沢赤城神社へ衣替えのため渡御するという伝承で、古くは神衣祭(かむみそさい)と呼ばれていたが、現在は御神幸またはオノボリと呼ばれている。

 当日、氏子総代が集まり祭典を行い道中の無事を祈る。以前は拝殿から神輿を三夜沢までの12kmを徒歩で担いだ。現在は車を使用している。途中、大胡神社(旧近戸神社)と柏倉町の「お輿懸(阿久沢一家)の2箇所で休憩し、接待を受ける。この神事は、山宮と里宮の関係を示す行事で、古代の信仰を考える上で重要である行事であるという。



                    



 


 

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