古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鬼石神社

  藤岡市鬼石町区域は市の南部に位置し、東西に約10.7km、南北約5.3km、面積は約52.5k㎡で、その8割程度が山林に覆われている。地形は、西端部にある東御荷鉾山を頂点とした褶曲山地であり、この谷間を三波川が流れている。 また、西は神流町、東と南は神流川を県境として埼玉県と接し、清流と緑の山並みに囲まれ、潤いと安らぎのある豊かな自然に抱かれた地域である。200611日に藤岡市へ編入された為消滅した
 古くは尾西と称した。「上毛風土記」「上野志」には鬼子の名も見られる。
 この地域名の語源は諸説あり、「昔々、御荷鉾山に住んでいた鬼が人里へ下りてきては田畑を荒らし、人々に危害を加えていた。困り果てた村人は、旅の途中で立ち寄った弘法大師に退治を懇願。大師が読経し護摩をたくと、鬼はたまらず大きな石を投げ捨てて逃げ去った。その石の落ちた場所が鬼石町と伝えられ、石は鬼石神社のご神体として、今も町民の信仰を集めている」
『上野国志』では「昔弘法大師が御荷鉾山に住む鬼を調伏した折鬼の持っていた石を放り投げ、その石の落ちた場所が鬼石であると伝える。また一説には古来御荷鉾山から山中・三波川・鬼石・秩父にかけて鬼の太鼓ばちと呼ばれた石棒などの石器の用材が産出され、鬼石がその製造地・集散地であったことによるともいわれる」
 またアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説などがある。
        
             ・所在地 群馬県藤岡市鬼石7221
             ・ご祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 夏祭 71415日に近い土日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点までは前項「浄法寺丹生神社」と同じだが、この交差点を左折する。
 交差点は左折するが、道路は国道462号線のまま旧鬼石町方向に進路をとる。この国道は通称「十石峠街道」ともいい、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流する街道である。
 十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約
1,500㎏)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われている。
        
                   鬼石神社正面
 神流川の流れを左手に見ながら南北に通じる国道462号線を暫く進むが、「諏訪」Y字路の交差点で右方向に変わり、神流川と離れる。ここから旧鬼石町市街地内に入る。「諏訪」交差点から南に行くこと500m程で右手の高台上に鬼石神社の赤い鳥居が僅かに見えてくる。
 境内に入る為には、一旦正面鳥居の石段附近を過ぎてからすぐ先にあるT字路を右折して、鬼石神社の裏手に回り、社殿と神楽殿の間に数台分の駐車スペースが確保されているので、そこに移動してから参拝を開始した。
        
           鬼石町市街地を見守るような西側高台に鎮座する社
『日本歴史地名大系 』「鬼石村」の解説
 [現在地名]鬼石町鬼石
 北は浄法寺(じようぼうじ)村、西は概して山地で三波川(さんばがわ)村に隣接。東と南とは神流川を隔てて武蔵国渡瀬(わたらせ)村と上・下の阿久原(あぐはら)村(ともに現埼玉県児玉郡神泉村)に相対する。東部を南北に十石(じつこく)街道が通じ、南部で武州側・山中谷(さんちゆうやつ)・三波川村の三方面に分岐する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎「七拾貫文 鬼石」とある。同六年五月一〇日に武田信玄との申合せによって「鬼石村」は北条氏から安保氏に与えられる(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。その後、高山氏に与えられたらしく、検討の余地があるとされる元亀元年(一五七〇)一二月二七日の武田信玄判物写(「高山系図」所収)で鬼石の替地として若田(わかた)郷(現高崎市)を高山山城守に与えている。「甲陽軍鑑」伝本には「おにのつら」「鬼面」とも記している。また年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)には「おにす」とある。
 地形を確認すると、上流域にある神流湖からの神流川の流路が東方向から北方向に変わり、神川町上阿久原地域の北端で再度真東方向に変えながら、左方向に大きくカーブするように突出部を形成する、その左岸にできた河岸低地と低地西側にある高台の間に鬼石市街地は形成されている。
 旧十石峠街道沿いには大きな伝統的な商家建物や、土蔵造りの商家建物も見られ、古い町並みが今なお残る懐かしい地域でもある。
        
                                  創建時期 不明
            御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命の3柱
 江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
 鬼石神社の御祭神筆頭である「磐筒男命」は「イワツツノオ(イハツツノヲ)」と読み、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。      
        
                                  拝殿に掲げてある扁額
        
                 拝殿向拝部の龍の彫刻
 
    向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
        
            拝殿左側には御神木の切り株が残っている。
 樹齢
500年と思われる程の径幅が大きな大杉があったそうだが、平成259月の台風18号の際の強風で倒木したそうだ。但しその際に、本殿や南側に祀られている境内社群には一切被害が及ばない場所に倒れていたという。ご神木が自らの意思で安全な場所に倒木したのであろうか。
        
  ご神体は鬼が御荷鉾山から投げたといわれる「鬼石」と呼ばれる石が本殿床下にある。
 本殿を左方向からぐるっと回る。すると「鬼石」の名前の由来となった石が本殿の床下にあるという札が貼ってある。但し遠間から見る為筆者には暗くてよく見えなかった。

 鬼石町北西部には古くから地元の方々の信仰の山である「御荷鉾山(みかぼやま)」が聳え立つ。通常は西御荷鉾山(1,287m)と東御荷鉾山(1,246m)の二峰を指すが、東西の御荷鉾山とその間にある標高1191mのオドケ山を加えて総称することがある。その三つの峰「三株」「三ヶ舞」が「みかぼ」山の由来という説もあるらしい。また日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、この山を越えるとき、鉾を担われた伝説から、この字が当てられたともいう。古来より地元の人々の信仰の山で毎年428日の山神祭には神流町・万場を挙げて賑やかに山登りが行われている。
 西御荷鉾山の山頂付近は大の字に刈り込まれている。これは昔麓の村で疫病が流行し、西御荷鉾山の不動尊に平癒祈願したところ疫病が治まったため、大願成就を記念してかり出されたとのこと。
 東西の御荷鉾山の間の峠を投げ石峠といい、麓の町を鬼石という。昔、御荷鉾山に棲んでいた鬼を弘法大師(空海)が退治したとき、鬼が石を投げて逃げた。この石を投げたところを投げ石峠と呼び、石が落ちたところを鬼石と呼ぶようになったという。
 なお、弘法大師が登場しない伝承もあり、この場合鬼は御荷鉾山を一晩で富士山より高くしようとし、それに失敗して石を投げることとなっている。

境内は社殿から左方向、つまり南側に敷地が広がり、そこには幾多の境内社が祀られている。
 
 拝殿左側に祀られている境内社・石祠等(写真左・右)右側の写真の石祠・石碑は八坂神社。
        
                        境内一番南側に祀られている境内社 
       神明調の社殿造りであることから「護国神社」の類かもしれない。 
        
                        社殿左側奥に祀られている境内社・合祀社
                     中央に神明宮(春日大神・天照皇大神・八幡大神)
                   中央左隣に琴平神社・天満宮・神虫除神社・疱瘡神社
                  中央右側隣が稲荷神社・秋葉神社・猿田彦神社・三峰神社
 
       境内社・五角注の社日神          拝殿右側に祀られている境内社
        
                                       神楽殿
 拝殿前方右手には神楽殿がある。毎年7月の中旬に開催される夏祭りは、勇壮な屋台囃子と屋台巡行で知られ、「関東一の祭り囃子」と言われている。
 鬼石夏祭りの始まりは、江戸時代の後期、当時は、「鬼石祇園祭り」の名称で、花車と言われる万灯型の笠鉾3台が、揃って鬼石神社に登上したそうだ。文政7年の棟札が鬼石神社に残されている。
 明治18年以降、人形が飾られる形の組み立て式の山車が引き出されるようになり、昭和になると屋根つきの屋台が作られ、昭和45年に相生町が屋根つきを新造して5台となり、現在の姿になった。昭和50年に祇園祭の名称が、宗教色があるとの理由で「鬼石夏祭り」に変更された。
 5台の屋台によるお囃子は、関東一と言われている。また、勇壮な新田坂(シンデンザカ)の駆け上がりは、祭りの見どころの一つとなっている。地区ごとに独自の調子を持つお囃子と、屋台の屋根に若者が上がり、高速で引き回す勇壮な姿には大きな拍手と歓声が寄せられる。また、二日目の本祭りの夜には、おまつり広場で笛や太鼓の技とお囃子の音色を競い合う「寄り合い」が行われる。「寄り合い」」では、各町内で受け継がれてきた独自のお囃子の打ち回しの後、5町一斉の乱れ打ちが行われ、お祭りが最高潮を迎える。
 尚4月の第2日曜日に鬼石神社太々神楽が奉納される。
        
            正面鳥居から参道、及び町市街地方向を望む。


参考資料 「上野国志」「日本歴史地名大系」「藤岡市鬼石商工会HP」「Wikipedia」等

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浄法寺丹生神社

 上野国神名帳(こうずけのくにじんみようちよう)は、上野国(現在の群馬県)が奉幣していた国内の神社を書上げた登録簿で、国内神名帳の一つ。貫前神社(富岡市)の一宮本、総社神社(前橋市)の総社本、「群書類従」所収本などの写本が伝わる。いずれの写本も上野国内の鎮守、各郡ごとの神名の二部より構成されているが、神名表記や神社数、郡の配列など多少の出入りが認められる。総社本は奥書によると、永仁六年一二月二五日に神主赤石氏中清が「正本の如く」筆写した写本を、貞和四年・弘治三年に二度にわたり写し直したものである。総社本にのみ浅間大明神が書上げられた背景には、おそらく写本成立直前に起こった弘安四年の浅間山噴火の影響があったに相違ない。同本を例にとると、郡別記載部には、碓氷一五、片岡一四、甘楽三二、多胡二五、緑埜一七、那波一八、群馬東郡一四五、同西郡一六九、吾妻一三、利根二一、勢多二三、佐位一二、新田一五、山田一二、邑楽一五の計五四六社(神社名を記したもの二四一社)が確定されている。
 その上野国神名帳・緑埜(緑野)郡十七社の中に「従三位 丹生大明神」と記されていて、これが当社・浄法寺丹生神社といわれている。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市浄法寺1259
             
・ご祭神 高龗神 罔象女神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭(太々神楽) 49日に近い日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点を右折する。群馬県道・埼玉県道13 前橋長瀞線合流後600m程北上すると進行方向左側に「広厳山般若浄土院浄法寺」「佛教大師金色尊像」の看板が見え、そこから更に100m程行った十字路を左折すると、左側に浄法寺丹生神社の正面鳥居が左手に見えてくる。
 社の東側には道路を挟んで「藤岡市第七十五区平公民館」があり、駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                          浄法寺丹生神社 正面鳥居と社号標柱
                  珍しい北向きの社
『日本歴史地名大系 』には「浄法寺村」の解説が載っている。
 [現在地名]鬼石町浄法寺
 東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿(しんしゆく)村(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美(ほみ)村(現藤岡市)、西は高山(たかやま)村(現同上)・三波川(さんばがわ)村など、南は鬼石村と接する。東部を十石(じつこく)街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。
 応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王(みようおう)院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井は現吉井町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。

 朱を基調とする木製の両部鳥居が2基参道に並び(写真左・右)、氏子の方々奉納と思われ燈篭も数多く設置されている。参道の回りにある植樹も綺麗に剪定されて、日頃から地域の方々がこの歴史あるお社を如何に大事にしているのがこの雰囲気でも伝わってくる。
       
                     拝 殿                      
         御祭神は神川町・上阿久原丹生神社と同じく高龗神 罔象女神。
         「上野国神明帳」に記載がある由緒正しい社であるが、創建等の詳細は不明

Wikipedia」にはこの社に関して以下の説明を載せている
 丹生神社(藤岡市浄法寺)
 丹生神社(にうじんじゃ)は、群馬県藤岡市の神流川沿いにある神社。祭神は高龗神、罔象女神の二神。旧社格は村社。
 平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載される古社である。
 浄法寺の開祖「最澄」が当時の比叡山に倣い、丹生都比売神を祀ったことが起源とされている。
 浄法寺の字塩、八塩地区よりに鉱水が出ている所があった。神流川沿いは鉱石が採れる地域で、当社以外の丹生神社も多数存在する。社名の起源は、『丹』が土または鉱石、『丹生』が鉱石が取れる場所の意味とされている。
 上毛野君稚子は、当社に戦勝祈願後、天智天皇2
年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した。なお、魚籃観音は、近世に盗難にあい、現存していない。
        
                                  拝殿上部の扁額
Wikipedia」での説明の中に登場している「上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)」は、飛鳥時代の地方豪族であるが、その当時、皇族以外滅多に名乗れない「君」の称号を受けていることから、国内でもかなり有力な勢力であったことは確かである。
 この人物が登場する時代は、国内外でかなりの激動の時代であった。
 大陸では長らく混迷を極めていた分割時代は「隋」国によって統一され、其の後「唐」国に取って変わる。「隋」時代から半島計略は行われていたが、「唐」国もその方針は継続され、高句麗征伐を行ったが、そこは失敗したため、矛先を半島内部に変える。当時朝鮮半島は「新羅・百済・高句麗」の3国がしのぎを削って争っていたが、その3国でも「新羅」国は最も弱小であった。そこで新羅国は唐国と同盟し、自ら臣下となることにより、唐国の援助を受けてから次第に強大となり、ついに660年百済国を滅ぼした。
 百済国と同盟関係にあった当時の倭国(日本国)は、百済国再興を目指す元有力貴族である「鬼室福信」からの要請を受けて、当時倭国内に人質としている豊璋(ほうしょう)王子と5,000名の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送り、その後王位につけた。
 そして天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間での戦争がおきる。
 当時倭国軍3派の中の主勢力である第2派に属し、その中でも前軍という、まさにこの軍団の主力を担っていた人物が上毛野君稚子であった。
 
社殿右手奥に祀られている境内社・天照皇大神宮  天照皇大神宮の並びに祀られている境内社
 大神宮の左側奥にも石祠があるが詳細は不明   群と、その間にある「丹生神社改築記念碑」
       
             社殿の傍に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                       神楽殿
『日本書紀』巻第二十七
「天智天皇2年(663年)3月 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ おみ
かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ」
 と記されていて、その後6月にはこの倭の軍団は「新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る」功績をあげている。
 但し当初の勝利もつかの間、2か月後の828日まずは海上戦である「白村江」での戦いにおいて「百済遺民・倭国」の連合軍は「唐・新羅連合軍」に完敗し、その前後にあった陸上戦もまた唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、ここに半島での戦いは幕を閉じる。

 上毛野君稚子はこの一連の戦いでの詳細な記録はないので、どのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、残念ながら不明である。それならば「Wikipedia」に記されている「当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した」というが、この説文の真偽の程はともかくとして、上毛野君稚子がなぜわざわざこの地に「魚籃観音」を奉納する理由があったのであろうか。
 少なくとも上毛野君稚子が、この地域に何かしら関係する人物である可能性を暗に仄めかしているようにも思えるのだが…。しかし現時点でこれ以上の勝手な考察は控えたいと思う。



参考資料「日本書紀」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
 

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渕名神社

 平安時代も終わりに近い12世紀初頭の天仁元年(1108)、上野国と信濃国境に聳え立つ浅間山の大噴火により、上野国一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。天仁大規模噴火ともいう。当時京の公卿であり、右大臣にまで昇進した藤原宗忠が寛治元年(1087年)から保延4年(1138年)まで書いた日記である『中右記』(ちゅうゆうき)にもこの当時の様子が記されている。藤原宗忠は摂関政治から院政への過渡期の公卿として、その時代の動きや自身の身辺での出来事、また、重要な人物との接触や、その活動についての自身の意見や評価を日記として残し、その時代をつかむ上で重要な史料を後世に提供した重要人物でもあり、『中右記』は平安時代後期の趨勢を知る上で貴重な史料ともいえる。
 この日記によれば、天仁元年95日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年721日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている。
 復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展したため、この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなったともいう。
 天仁大規模噴火は天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされていて、最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆されている。
 藤原秀郷の子孫で佐位郡に勢力を持つ渕名太夫兼行(ふちなたゆうかねゆき)は、1108年の浅間山の大噴火で荒廃した土地を再開発して「渕名荘」が成立した。
        
            
・所在地 群馬県伊勢崎市境上渕名993
            
・ご祭神 保食命
            ・
社 格 旧村社
            
・例祭等 祈年祭 217日 春季例祭 4 3日 例大祭 1017
                 
神迎感謝祭 旧111
 国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に進み、群馬県道2号前橋館林線との交点である「上渕名上武道下」交差点を右折する。因みに上武道路は高架橋であるので、交差点の手前で左車線に移り、高架橋を下がり、少し進んだ「上渕名上武道下」の交差点を右方向に進む。
 県道合流後1㎞強程進むと、利根川支流である早川の西側に隣接している渕名神社に到着する。
        
                県道沿いに鎮座する
渕名神社
「渕名」の地名由来として、『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来たのが、「渕名」の地名由来との事だ。
        
                     道路に面して赤い鳥居、その先に石の鳥居がたつ。
    境内には銀杏の大木が茂り、字名「銀杏」もこれに由来したものといわれる。

 この社一帯は嘗て「淵名荘(ふちなのしょう)」と言われていた。この荘は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名で呼ばれており、彼もしくはその子孫である藤姓足利氏が開発に関わったとみられている。また、付近にある女堀(未完成)の開削にも関わったとする見方がある。足利氏の没落後、中原季時や北条実時(金沢実時)が地頭を務めたが、霜月騒動を機に支配権が金沢家から北条得宗家に移った。得宗家は被官の黒沼氏を淵名荘に派遣したが、西隣の新田荘を支配する新田氏と境相論を起こしている。後に両者は協調に転じるが、元弘3/正慶2年(1333年)に新田義貞が黒沼彦四郎を処刑したことを機にこの関係に終止符を打った。
        
                                  石製の二の鳥居
 室町時代に入ると、室町幕府によって領家職が走湯山密厳院に寄進されるが、現地の武士である大島氏(新田氏系)や赤堀氏(藤姓足利氏系)、守護の上杉氏などの勢力が強く、本家である仁和寺・領家である密厳院の上級支配権は有名無実と化していった。なお、同荘に属する赤石郷が戦国時代に由良成繁によって伊勢神宮に寄進され、後に「伊勢崎」と呼ばれるようになったという。
        
                     拝 殿
 
 社殿手前左側には「
渕名神社社殿新築記念碑」があり(写真左)、同殿左側には旧社名である「熊野神社」の案内板(同右)が設置されている。

「淵名神社社殿新築記念碑」
 由緒
 当社は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に至って、豪族淵名大夫光行の篤い崇敬を受けて、その氏神として祭祀されたとも伝えられている。
 天下争乱の戦国時代に一時荒廃したが、郷民崇敬によって修復され、明治六年には、村社に列せられている。
 現在の社殿は熊野神社と称された時のもので、明治の頃に上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀した際に淵名神社と改称し「保食命」を主祭神とした。
 同時期、近傍に祭祀されていた「金山大権現」「赤城神社」「諏訪神社」「神明宮」「天満宮」「稲荷神社」なども合祀し、今に至る。
 境内には以前、樹齢三百余年以上あると思われる、見上げるばかりに大きな銀杏の古株が有り、字名を銀杏と称される程であった。しかも、この大銀杏の樹皮を産婦が用いると乳の出が良くなると伝えられ神社に祈願してその分与を乞う者も多かったという。

 拝殿東隣に設置されている案内板 
熊野神社」
 上淵名(いま淵名神社)祭神 須佐之男尊
 淵名神社になって「保食命」
1)奈良時代に創建されたと伝う。
 鎌倉時代に至り豪族淵名大夫光行の崇敬が篤く氏神として祭祀した。
 戦国時代に一時社殿が荒廃したが郷民の崇敬によって修復され古来より十二月二十九日に例祭が営まれた。
 明治に至るまでの境内に目通り十六尺の大銀杏があり婦人がこの樹皮を用いると乳がよく出るといわれて奉賓が盛んであった。今の此の地を字銀杏というのはその為である。
2)昔、上淵名の鎮守は飯玉大明神であった。
 村の東南方淵名から東新井に通じる道端にあったが明治に熊野神社に合祀して淵名神社と改めた。
 いま、淵名神社の御神体は飯玉大明神の御神体を納めるもので古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった。
 天保年間、村内にあった神社は村の西方に「金山大権現萬蔵」、東に「赤城神社」、もと長命寺前に「諏訪神社」、南方に「神明宮」、横町に「天神様萬蔵東」と「比丘尼塚」、阿弥陀山に「稲荷神社」があったが明治に淵名神社に合祀された。

「淵名神社社殿新築記念碑」と社殿東側の「案内板」には、創建等由来に多少の表現の違いがある。「淵名神社社殿新築記念碑」では上淵名の鎮守である飯玉大明神を合祀し、社号を淵名神社と改称、並びに「保食命」を主祭神とした際の経緯をサラッとに載せているのに対して、「案内板」のほうでは、「古来からあった熊野神社の御神体はこの時放り出されてしまい大家が店子に追い出された形となった」と、明治期の神社合祀時に御祭神の交代等に伴う熊野神社側氏子の不満を露骨に載せている。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 
 社殿左側には「奉納奥社」との社号額が記されている鳥居が立ち(写真左)、その先には幾多の石祠・石碑等が立ち並ぶ(同右)。
 石祠・石碑群は左側から「二十三夜塔」「道祖神」「大黒天」「庚申塔」「猿田彦大神」「?」「?」「?」「飯玉神社」「富士浅間宮」「諏訪神社」「秋葉山神社」「?山神社」「?」「豊玉姫神」が祀られている。
        
       社の東側には南北に早川が流れ、長閑な農村風景が広がっている。
  よく見ると境内の東側隅には石祠がポツンと祀られていた。弁財天の祀る石祠である。
                  どのような経緯であの場所に祀られているのだろうか。


参考資料「中右記」「Wikipedia」「伊勢崎風土記」「境内案内板等」等
            

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貴先神社

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。
 中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り、柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。現在群馬県高崎市から伊勢崎市、太田市、栃木県足利市、佐野市、栃木市、鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」又は「例幣使街道」と呼ばれている。
 その街道沿いには15カ所もの宿場町が存在していて、6番目の宿が「木崎宿」である。この宿場町は、木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いにあり、地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされ、飯売女を置いた旅篭屋が多くできていたという。
 宿場で唄われた木崎音頭(木崎節)は、越後から木崎に年季奉公にきた飯売女が伝えたといわれている。越後から多くの子女が奉公という名目で身売りされ飯盛女として苛酷な生活を強いられ、彼女たちはこの寂しさから、故郷や家族を忍び、宴席で子供の頃覚えた歌を歌ったのが木崎節の始まりと言われている。
 その後八木宿(栃木県足利市)で生まれた堀込源太は木崎節を風土に合わせた威勢のよい節に替えて、生地の八木をとって八木節としたと伝えられている。源太は「源太一座」を組織し、周辺各地で興業し好評を博したといわれていて、木崎節が八木節の元唄であることは、多くの民謡研究家にも認められている。
 なお平成17328日、合併に伴いに改めて新市の指定重要無形民俗文化財として指定されている。
        
             
・所在地 群馬県太田市新田木崎町甲637
             
・ご祭神 須勢理比売命
             
・社 格 旧木崎宿総鎮守 旧村社
             
・例祭等
 新田下江田矢抜神社とその東側にある最勝寺の間の道路を北上し、東武伊勢崎線、国道354号新田太田バイパスを越えた群馬県道312号太田境東線との交点である十字路を右折する。この県道は嘗て旧日光例幣使街道であったのだが、その道路を東行し、県道332号桐生新田木崎線が合流する交差点から少し南下した所に貴先神社は鎮座する。
        
                   貴先神社正面
 
          一の鳥居                               参道の様子
 境内は鬱蒼とする大木で覆われ、境内社や石祠、石碑、石灯籠等も数多く建立されていて、社の規模はやや小さいものの境内は落ち着いた雰囲気になっている。(*但し社殿裏手にある社務所や公園等を境内として含むのであればかなりの広さともいえよう)
        
                  拝殿前の二の鳥居
        
                      拝 殿
 貴先神社のご祭神は須勢理比売命(すせりびめのみこと)である。この神は、『古事記』『出雲国風土記』等に見える女神で、『古事記』では須勢理毘売命、須勢理毘売、須世理毘売、また『出雲国風土記』では和加須世理比売命(わかすせりひめ)と表記されている。但し『日本書紀』にはみえない。
 誕生までの経緯は不明であるが、須佐之男命の娘であり国津神である大国主神の正妻。
 根国(ねのくに・地底の国)にきた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の前身)と結ばれ、夫が父から課せられる難題を解決するのをたすけ、父の宝物をもって夫に背負われて根国を脱出した。大己貴神は、須勢理毘売命を妻にして初めて大国主命(おおくにぬしのみこと・葦原中国の支配者)となることから、巫女(みこ)王的本質をもつといえる。
        
                                 拝殿向拝部の精巧な彫刻
                          木鼻部左右の彫刻も見事である(写真左・右)
 ところで大国主神は先に結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて木俣神を置いて実家に帰ってしまった。
 また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬し、困惑した八千矛神は大倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく鎮座することとなったという。
 スセリビメの持つ激情は、神話において根の国における自分の父の試練を受ける夫の危機を救うことに対して大いに発揮されるが、一方で夫の妻問いの相手である沼河比売に対して激しく嫉妬することによっても発揮される。この嫉妬の激しさは女神の偉大な権威を証明するものだという説がある。
 また「須勢理」は「進む」の「すす」、「荒ぶ」の「すさ」と同根で勢いのままに事を行うこと、「命」が着かないことを巫女性の表れと解し、「勢いに乗って性行が進み高ぶる巫女」と考えられる。
        
              本殿裏側の破風部位の彫刻もまた見事 
 
          境内に祀られている幾多の石祠・石碑等(写真左・右)

 太田市新田木崎地域に鎮座する貴先神社は、古くから木崎宿の総鎮守として信仰を集めてきた神社である。須勢理比売命は大国主命の后(きさき)だった事から貴先(きさき)という社名になったと云われ、貴先から木崎という地名が生まれたという。また木崎宿は飯盛女の多い宿とされ、総鎮守である貴先神社は彼女達から信仰の対象になっていたという。
        
                  境内社・八坂神社
        
       八坂神社拝殿上部に掲げてある扁額。扁額周辺にも精巧な彫刻が施してある。
        
 八坂神社の右隣に祀られている境内社。但し覆屋内には立派な本殿があり、狐像も見えるので、稲荷社の可能性もある。

 貴先神社の社殿裏手に当たる北西側には、社務所や公園が併設され、子供達の遊び場・遊具もあり、敷地内は綺麗に整備されている。その一角に「新田の名木」と記されている案内板がある。
        
                                       新田の名木
                             樹木名 ヒヨクヒバ(比翼檜葉)
                             所在地 貴先神社境内
                             樹 齢 二~三〇〇年
                             目通り 三.七メートル
 一般的には「イトヒバ」と呼ばれ、わが国では本州の東北中部以南、四国、九州まで植栽し、樹形は楕円形。日当たりのよい場所で、土壌は乾湿中庸な肥沃土を好む。生長はやや遅いが萌芽力があり、刈込みに耐える。潮害にやや弱く、煙害には中程度。
 比翼とは二羽の鳥が互いにその翼をならべることの意がある。(以下略)
       
                
新田の名木(写真左・右)


参考資料「太田市HP」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「日本歴史地名大系 木崎宿」
    「Wikipedia」等


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新田下江田矢抜神社


        
               
・所在地 群馬県太田市新田下江田町500
               ・ご祭神 經津主命
               ・社 格 旧村社
               ・例祭等 4月 春祭り 11月 秋祭り
 埼玉県熊谷市西別府の上武インターチェンジ(深谷バイパス分岐)から群馬県前橋市田口町に至る国道17号バイパスである上武道路を伊勢崎方向に向かう。利根川を越え、暫く道なりに4km程直進し、「尾島第二工業団地」交差点を右折すると、すぐ北側正面に新田下江田矢抜神社の赤い鳥居が見えてくる。
 社の南側には利根川支流である石田川が流れ、西側には広大な田園風景が広がる静かな場所に鎮座する。まさに村の鎮守様といったような第一印象。
        
                 新田下江田矢抜神社正面
 今回全く事前準備等なく参拝したので、この社に関する予備知識なし。なんでも「二ツ塚古墳」と呼ばれる古墳墳頂に鎮座しているようだが、実見してもその実態はよくわからなかった。

    鳥居上部に掲げてある社号額         緑の社叢に囲まれた境内と参道 
 この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだが、南北朝の戦いで新田氏が敗れたため、足利氏によって分割されてしまったという。
 江田氏は上野国新田郡世良田郷を支配する清和源氏新田氏流世良田氏一族。この地域は、新田氏の一族の江田氏の領地で、その頃は江田郷と呼ばれたそうだ。
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した新田義貞の一族で家臣である江田行義(えだ ゆきよし)はこの地に領地を持っていた。官途は修理亮・兵部少輔(大輔とも)で世良田有氏の子。『太平記』によれば元弘3年(1333年)5月、惣領家の新田義貞の挙兵に従い、鎌倉の戦いにおいて同族の大舘宗氏と共に極楽寺坂方面の大将を務めたとされる。しかし史料上では江田氏の極楽寺坂における活躍の様子は確認できず、実際は江田氏の本家筋にあたる世良田満義が大将を務めていたという指摘がある。建武政権では、武者所三番頭人を務めた。
        
                    拝 殿
 建武2年(1335年)に足利尊氏が政権から離反すると、義貞に従い足利氏一派の追討にあたり、新田軍の中核として活躍した。延元元年(1336年)3月に尊氏が九州へ逃れた際には、病気の義貞に代わり大舘氏明と共に中国地方平定のために出陣し、播磨国室山で赤松則村を撃破する軍功を挙げた。しかし同年5月の湊川の戦いで再挙した足利軍の前に敗れた[2]。同年10月、比叡山で後醍醐天皇が義貞を見捨てて下山し、尊氏と和睦しようとした際は、新田一族内に主戦論を唱える者が多い中、大舘氏明と並ぶ数少ない和平派となり後醍醐天皇に従った。北陸に向かった義貞とは袂を分かち、以降は南朝方として丹波高山寺城を拠点に奮戦する。
 後に北陸にまで落ちた新田義貞が、延元3/建武5年(1338年)に越前国で活動している際に丹波国で活動していた江田と連携して上洛しようとしたという話があるため、この時までは江田も存命していたのがわかっている。しかし、その後の行方は不明であり、『太平記』にも登場しない。
        
                         拝殿の右側には案内板が設置されている。
 矢抜神社傳導板
 一、立地由来
 万治一年(一六五八年)中江田、下江田に分社され、
 太田市新田下江田町本郷甲五〇〇番地に鎮座する。
 二、祭神 經津主命(フツヌシノミコト)
 三、鎮座する祈願神
 1 本殿
 2 お手長様(火伏せの神)
 3 伊佐須美様(稲作の神)
 4 おしら様(養蚕の神)
 5 諏訪様(当地開拓の神)
 6 秋葉様(防火・火難除けの神)
 四、年中まつりごとの行事
 1月 氏子本殿参拝 
 2月 風祭り 宮司来社(世話人選任 若1年・本4年)
 3月 お手長様拝礼 山刈り(郭順)
 4月 春祭り 宮司来社(区長・世話人)
 7月 御諏訪様拝礼
 11月 秋葉様拝礼
 11月 秋祭り 宮司来社(区長・世話人)
 12月 大祓い式 宮司来社(古神札・幣束・お焚きあげ・世話人)
 12月 鳥居しめ縄(飾り 世話人)
                                       案内板より引用


 案内板にも記載されているが、境内には多数の境内社が「祈願神」として祀られている。
 
       境内社・諏訪社               境内社・秋葉社
 
      境内社・おしら様          境内社・お手長様、奥には伊佐須美様

 社殿左側には(旧)新田町指定天然記念物である「矢抜神社の山椿」の案内板がある。
 
 新田町指定天然記念物 矢抜神社の山椿
 指 定 平成十二年四月六日
 所在地 新田町下江田甲五〇〇
 この山椿は、樹齢三〇〇~四〇〇年位と推定される古木です。一号樹は目通り一五一センチメートル、二号樹は一三三センチメートルで、樹高は周辺の樹木に比べて高く伸びています。昔から自生して来た品種で、赤色の一重の花弁で、花芯が大きく五弁の花びらを持っています。花実ができ、秋になると三片に割れニ・三個の種子が落果して自然繁殖していく椿の原種です。今は山村地帯でしか見られない貴重なものです。なお、一号樹は、平成十三年一月に風雪のため幹の中ほどから折れてしまいました。
 神社がまつられているところは、二ツ塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、すでに原形は失われていますが、周濠を思わせる痕跡もあり、埴輪片や土器も出土しています。
 このあたりは中世新田氏の一族江田氏の所領で、江田郷と称した地でした。その後、南北朝の争乱で新田氏が敗れたため足利氏の支配に移り江田郷も分割され、当時中江田村森下にまつられていた矢抜神社を分社し、中江田と下江田の現在地へ勧請してまつったと伝えられています。
                                      案内板より引用
        
                          落ち着いた雰囲気の静かな社


参考資料
Wikipedia」「Enpedia」「境内案内板」等
 

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