古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

前小屋菅原神社


        
             
・所在地 群馬県太田市前小屋町1937-1
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2457939,139.3109235,16z?hl=ja&entry=ttu

 大館八幡宮から北上し、一旦群馬県道298号平塚亀岡線に合流後、進路を東方向にとる。2㎞程進んだ「亀岡町」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道275号由良深谷線を南下し、早川を越えると南東方向に進む農道があり、そこを左折し、道なりに進むと正面に前小屋菅原神社が見えてくる。早川を越えて農道に入るとそこは一面農地が広がる中、社の社叢林がポツンと見えてくるので、ある意味目印となり間違えることはほぼない。
 残念なことに大館八幡宮同様、適当な駐車スペースがないため、適度な路肩に停めてから急ぎ参拝を開始した。
        
                                   前小屋菅原神社正面
 菅原神社のある前小屋町地域は、古来利根川の乱流地域にあって、度重なる洪水に苦しめられていた。そこで、村人たちは水難をよけるために京都北野天満宮を勧請し、菅原神社を村の鎮守として奉祀したと伝えられている。
 地形を見ても、東西にゆったりと流れる大河・利根川と、その支流である早川が蛇行しながら南東方向に流れ合流するその合流地点の西側に前小屋町地域はある。地域全体の標高も33m34m程しかなく、利根川の乱流地域であったことは頷ける地形だ。
        
                               参道正面に神明系の鳥居あり。
    よく見ると鳥居に掛けられた額は、珍しいことに丸型で、初めて見る形式である。
        
                     拝 殿
        
           境内に掲げてある「前小屋菅原神社の絵馬」の案内板
 指定重要有形民俗文化財
 前小屋菅原神社の絵馬   指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 菅原神社の祭神は、菅原道真公で、京都の北野天満宮を勧請したものである。指定の絵馬は四十一面ある。絵馬は、祈願または報謝のために社寺に奉納する額で、古くは馬を献じていたが次第に木馬、紙馬などに代用され、平安時代から馬を描いた額に代り、のちには馬以外の絵も描くようになった。
当 社の絵馬は、寛保二年(一七四二)奉納のものが一番古く、寛保が二面、延享・宝暦・安永・天明・文化が各一、文政五、天保十、元治一、慶応二、明治以後大正までが十六面となっている。
 画題は、菅原道真に関するものが十九面で、他は「宇治川の先陣争い」「頼光の酒呑童子退治」「韓信股くぐり」など教訓的なものがある。
 いずれも願主の願いが強くこめられており、天神様にふさわしい画材が多くみられる。
 奉納者は個人が一番多く、次いで連名のもの、また惣村中・下島(前小屋の小字名)中など、地域を単位としたものもある。村内関係のものばかりでなく、山田郡大間々町在住者のものもある。
 画家については、不明のものが多いが、岩松満次郎道純(太田市下田島)、金井烏州(境町島村)、島山盧景(押切)、江森天渕・天寿父子(深谷市)、倉上黒渓(前小屋)などの名が見られる。
 大型のものが多く、最大のものは縦一八三㎝・横一八三㎝で、一辺が一〇〇㎝以上のものいが十二面ある。一社にこれほど多数の絵馬が保存されていることはまれであり、民間信仰のあらわれを示すものとして貴重な民俗資料である。昭和五十五年三月
                                      案内板より引用


 案内板に記されている「岩松満次郎道純」「金井烏州」「江森天渕・天寿父子」に関して、調べてみた。
岩松満次郎道純 寛政9年(1798130日)~嘉永7年(1854813日)
 江戸時代後期の交代寄合旗本。岩松氏の当主。幼名は左男寿丸、通称は岩松満次郎、兵部、主税。上野国新田郡下田嶋領主・岩松徳純の長男。
 
上野新田郡(現 群馬県太田市細谷町)の冠稲荷神社に道純が描いた墨絵が残されている。
金井烏州(かない うじゅう)寛政8年(1796年)~安政4年(185728日)
 江戸時代後期の画家で勤皇家でもある。毎年のように萬古を訪ねた春木南湖に画の手解きを受け、江戸に出てからは谷文晁に師事した。烏洲の号は、故郷の島村が利根川へと流れ込む烏川の洲にあったことにちなむ。江戸南画壇の一人として名を成し、障壁画の製作にも携る。
江森天淵(えもりてんえん) 1857(安政4)年―1921(大正10)年
 榛沢郡用土村(現在の寄居町用土)に朝比奈錦香(あさひなきんこう)の次男として、生まれる。家業の医学には関心がなく、幼い頃から父に絵を学び、山水画を得意とする福島柳圃(ふくしまりゅうほ)を師事する。師の柳圃の流れを継ぐ、山水画と花鳥画を得意とし、濃墨で険しい深山の風景を描く一方で、軽妙な筆で民衆の暮らしを伝える作品も描いている。明治431910)年、日本美術協会から多年にわたる優作出品により、功労者として表彰されている。
江森天壽(えもりてんじゅ)1887(明治20)年―1925(大正14)年
 幼少の頃から父の手ほどきを受け、絵手本の模写を通して日本画を学び、画才を発揮する。天壽は目に映る自然の全てに対し、何も逃すまいとする視線を投げ掛け、その描線はまるでおのずと動く筆に身を委ねることを楽しんでいるかのような画風であるという。大正131924)年、皇太子殿下(昭和天皇)のご慶事に際しては、埼玉県の委嘱を受けて『菊花(きくか)』、『桐(きり)』を制作し、埼玉県大里郡教育会から宮中に献上される栄誉を与えられた。大正141925)年218日、天壽はこれから円熟期に向かって大きく期待されていた矢先に、39歳の若さで亡くなる。
島山盧景と倉上黒渓の二人は調べたが分からなかった。
 
           本 殿               社殿左側裏手に末社殿が鎮座
 末社殿の内部には何基もの神様の名が明記された木札がある。中央に天照皇大神宮が祀られ、左から稲荷神社・蚕影神社・天照皇大神宮・六社神社・大杉神社等の名前も見える。
        
      社の南側は一面平地が広がり、その先には利根川がゆったりと流れている。
        
                   社の遠景を撮影


参考資料「太田市HP」「深谷市HP・広報ふかや20162月号」「Wikipedia」「現地案内板」等
 

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大舘八幡宮

 新田氏は、清和源氏の一流河内源氏の源義家の孫新田義重を祖とし、上野国新田荘を本貫地とした。
 開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男といわれる源義国で、義国は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、異母兄の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承し、また義国と義重は渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(現在の群馬県太田市周辺)を開発した。
 保元2年(1157年)平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。その後義重は周囲の藤姓足利氏や秩父党、源義賢と対立するが、甥である足利義兼や源義朝と連携し、それらに対抗する。特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に清和源氏嫡宗家と関係を強めている。しかし、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近、平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられた。本貫地の新田荘も旧新田郡全域(現在の太田市南西部を含む)に広げ、源義国以来の八幡荘と新田荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固めた。
 治承・寿永の乱となり、頼朝が鎌倉を本拠にすると一族の中には、甥・足利義兼や、子である山名義範、孫の里見義成など、参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。その参陣の遅さから、頼朝の勘気を被ったと伝えられている。鎌倉時代を通して新田家は冷遇され、弱体化することになる。
 このような新田家にとっては逆境のさなか4代目当主の新田政義の次男である新田家氏は、「大舘郷」に居住し、自ら「大舘二郎家氏」と称した。これが大舘氏の始まりである。
        
              
・所在地 群馬県太田市大舘町1078
              
・ご祭神 誉田別命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2527463,139.2932815,16z?hl=ja&entry=ttu

 徳川町東照宮から一旦群馬県道298号平塚亀岡線まで戻り、県道を1.2㎞程東行する。進行方向右手に東揚寺が見えるので、南方向へ向うと早川左岸の北側に大舘八幡宮の鬱蒼とした社叢林が見えてくる。
 周辺に適当な駐車スペースはないため、対向車両の迷惑にならない場所に路駐して急ぎ参拝を開始した。
 因みに新田一族の大舘氏は群馬県の地名(新田荘の郷名)に由来するため、秋田県の大館(おおだて)とは関係がない。そのため、姓の読み方も、「オオタチ・オオダチ」と読むのが正しいそうだ。
        
                   大舘八幡宮正面
 
大舘氏(おおだちし)は、日本の姓氏のひとつ。大館氏とも表記し、部首を「舌」ではなく「」と書く場合もある。また「おおだて」と読む場合もある
 新田政義の次男大舘家氏を祖とし、本姓は河内源氏(清和源氏義家流)。4代の新田政義は上野国新田郡(新田荘)大舘郷(おおたちごう)に住み大舘二郎(次郎)を名乗った。家紋は大中黒、酢漿草(かたばみ)が基本であるが、このほかに、二引両や三巴、笹竜胆などを使う家系もある。
        
                                     二の鳥居
     洪水対策の為か、鳥居の基礎部分にはコンクリートの補強がなされている。

 南北朝時代には、家氏の子宗氏が元弘3年(1333年)に新田義貞の鎌倉攻めに右軍大将として子の氏明・幸氏・氏兼らと参加した。しかし宗氏は極楽寺坂で戦死している(東勝寺合戦)。現在、鎌倉稲村ヶ崎に大舘宗氏主従11人塚が建立され、その事績を残している。
 
嫡系を継いだ氏明は建武3年(1336年)525日の湊川の戦いにおいても脇屋義助とともに和田岬(兵庫県神戸市兵庫区)に布陣して戦う。その後は義貞の元を離れ一時足利方に降伏していたが、逃れて南朝方として活動し伊予国守護となる。134293日に北朝方の細川頼春の攻勢のため世田城で自害した。
        
                二の鳥居の社号額には手の込んだ精密な彫刻が施してある。

 南北朝時代以降、本貫の地の上野新田荘は足利氏の支配下にあり、父系が足利・母系が新田の岩松氏が直接支配することになる。しかし、それ以降もこの系統の大舘氏は16世紀初頭にいたるまで、新田荘の大舘郷を所領としている。現在、新田荘の大舘氏の居館跡は大舘館跡として城碑が立つ。ただし遺構はほぼ消滅している。
 室町幕府滅亡とともに大舘氏も没落した。ただし足利義昭に仕えた大舘晴忠(晴光の甥)は同じ奉公衆の大草公重の娘を正室としており、公重に男子が無かったため、晴忠と公重の娘との間の子たる公継・公信・高正は、大草氏を継いで旗本として江戸幕府に仕えた。このため血筋は江戸時代も続いている。
 
 二の鳥居を過ぎてからは社叢林に囲まれた参道を暫く進む(写真左・右)。薄暗い参道を進むと、一対の灯篭が2基見える。どちらも洪水対策で基礎部分がコンクリート製でかなり補強されている。
        
                                  拝殿付近の様子
        
                            拝殿の手前に設置されている案内板
 大舘八幡宮
 大舘字吹上に鎮座、創建年代は不明であるが、大舘は平安時代末期からの文書に出てくる古い地名であり、新田義貞の曾祖父、政氏の弟にあたる、大舘家氏がこの地に勧請したと伝えられる。
祭神は誉田別命(応神天皇)で、源氏の守護神とされ、新田荘各地に勧請されたが、現在は地名などとしてのこるものが多く社として現存するのは郡内でも数社である。
 瓦葺の覆屋がかけてあり、本殿は軒唐破風檜皮葺の荘重なものである。
 文禄三年(1594)から大舘村外七ヶ村、二千石の上州の飛地を領した弘前藩の記録によると、弘前より分家した黒石二代、津軽信敏が天和二年(1682)に、上州大舘に八幡の祠を建つとある。また村内には、八幡の神像を軸装としたものが伝えられており、その記銘に「天和三歴(1683)癸亥八月十五日、領主津軽藤原朝臣信敏、上州新田荘大舘八幡宮奉再興」とあることからして、三百年の星霜をたどることができるとすれば、本殿は信敏再建のものと思われる。
                                      案内板より引用


 案内板で登場する「津軽信敏」は、陸奥国弘前藩4代藩主である「津軽信政」の後見役でもあり、弘前藩の分家である陸奥国黒石領5000石の初代当主である英邁で名高い津軽信英の長男である。父信英の死後寛文3年(1663年)1月、15歳で家督を継ぎ2代当主となる(当時の黒石領主は交代寄合の旗本)。
 津軽信英が津軽藩から分れ、5000石が与えられたが、「津軽黒石周辺で2000石、平内周辺に1000石、津軽家の上野国飛び地領2000石」という内訳で、この「上野国飛び地領2000石」が上州大館である。
        
                          拝殿向拝部等の細やかな彫刻。
 極彩色の施された神獣の彫刻。今はかなりくすんでしまっているが、嘗ては綺麗に彩られていたのであろう。彩色はそれ程昔に施されたものではないだろう。というのも以前社の彩色等に詳しい人から聞いたことがあるが、囲い等ない状態で数十年も経過すると彩色はほぼ落ちてなくなるという。
 
 社殿の左側奥に小高い塚がある。古墳らしい。    塚の周辺に祀られている石祠と
   その頂に石尊大権現等の石碑がある。        弁財天と刻印された石碑
        
                       本殿裏に祀られている石祠群
    
「大舘御前(おおたちごぜん)」は石田三成の三女で、名は辰姫(たつひめ)、あるいは辰子(たつこ)。荘厳院(しょうごんいん)という。豊臣秀吉の死後に秀吉の正室・高台院の養女となる。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで父・三成が徳川家康に敗れる。その直後に豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたという。
 慶長15年(1610年)ごろ、信枚に嫁ぐ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に家康は養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる。辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘に移され、大舘御前と称された。その後も、信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)11日、信枚の長男・平蔵(のちの信義)が誕生する。

 因みに辰姫が大舘の地で信義を産んだ縁により、群馬県尾島町(現在の太田市)では昭和61年(1986年)の尾島まつりに津軽特産のねぷたが登場。現在は毎年8月に「尾島ねぷた祭り」が開催されている。


参考資料「太田市HP」「太田市観光物産協会HP」「Wikipedia」「現地案内板」等

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徳川町東照宮

 東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社であり、全国には同名たる社は100社以上が現存する。そんな中太田市にある〝東照宮〟といえば「世良田東照宮」が有名であるが、その社の近郊で字徳川町にも東照宮が存在する。それが徳川町東照宮である。
「徳川家発祥の地」でもあり、東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣数十か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典によくすることができたようだ。
        
              
・所在地 群馬県太田市徳川町387-1
              ・ご祭神 徳川家康公
              
・社 格 旧村社
              ・例祭等 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2545814,139.2795782,17z?hl=ja&entry=ttu
 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、利根川を越えて群馬県道298号平塚亀岡線が合流する「境平塚交差点」を右折する。県道を東行する事1㎞程、早川を越えた最初の十字路を左折、その後100m程先の十字路を再度右折すると進行方向左側に徳川町東照宮の鳥居が見えてくる。地図を確認すると南北に走る群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を中心線とすると西側に鎮座する平塚赤城神社の反対側に位置するようだ。
 社の東側に隣接する「徳川会館」には広大な駐車場があり、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                  徳川町東照宮正面
 世良田東照宮に比べると、規模は小さく、絢爛豪華とはいいがたい。地域に根を下ろした素朴な社といったような第一印象。
       
 神社入口を挟んで左側に「徳川義季公館址」碑(写真左)、右側には、「東照宮」の社号標柱(同右)が設置されている。
 太田市は“太田市徳川町”の地名にもある通り、戦乱の世を治めた300年の太平の世の礎を築いた徳川家康公が「わが遠祖は、上野国新田の一族徳川氏である」として、徳川郷を祖先の地としている。
 徳川氏の祖は上野国新田郡一円を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされていて、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となった。
 新田義重は、仁安三年(1168年)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲る。新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(現在の群馬県太田市尾島町)に住んで徳川(または得川)を称し、徳川義季と名乗り、これが徳川氏発祥の始まりと言われている。
 その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、のち三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗る。
        
                            徳川町東照宮 鳥居
 また江戸時代に成立した「藩翰譜」によると、ルーツは三河国(愛知県)の庄屋である松平太郎左衛門信重に婿養子に入った、時宗の遊行僧と伝えられる『徳阿弥』である。彼は得川氏(世良田氏)の末裔を自称し、諸国を流浪するなか大浜称名寺で開かれた連歌会での出会いが信重の養子に入るきっかけと伝えられ、そこで還俗して松平親氏と名のったという。
 真偽はさておき、その松平親氏の9代目の子孫である松平家康は、後に再び徳川氏を名乗り徳川家康となったという。
        
                     拝 殿
 徳川町東照宮 由緒
 徳川氏始祖得川義季(世良田義季)公から八代目である親氏公は、南北朝の戦いで室町幕府による新田氏残党追捕の幕命により新田之庄を出国せざるをえなくなります。
 得川郷(徳川郷)の新田氏家臣である生田隼人は、親氏公の出国時に銭一貫文と品物を餞別とし、郷内の百姓とともに中瀬(現 埼玉県深谷市)までお見送りをしました。
 その時に親氏の領地を預けられたことで、以後生田家が徳川郷主となります。親氏はその後、三河国の松平郷(現 愛知県豊田市松平町)に流れ着き、松平親氏として、そこを拠点としました。また、松平親氏は八幡神社松平東照宮に徳川家康とともに祀られています。
 天正十九年(1591年)、徳川郷主生田家十六代生田義豊は、武州川越(現 埼玉県川越市)で徳川家康に拝謁し、「新田徳川系図」の提出と生田姓から正田姓への改めを命じられる。 同年十一月には、家康公より徳川郷へ三百石の御朱印を寄進、正田家に徳川遠祖の御館跡を子孫末代まで居屋敷として所持してよいと仰せつけられました。
 寛永二十一年(1644年)世良田東照宮勧請にともない、十八代正田義長は邸内に私的な東照宮を建立しました。これが徳川東照宮の始まりといわれています。この正田邸内に建立された東照宮への参拝は四月十七日と正月のみ庶民に許可されました。祭祀は正田家が執り行っていました。
 その後、明治五年(1872年)に邸内社であった東照宮の社地を徳川郷に寄進され、村社に列せられた。明治四十年(1907年)十一月六日、郷内四社各末社が合祀されたことにより、徳川郷の鎮守として改めて崇敬されるようになりました。
 大正三年(1924
年)六月三日、徳川郷内の医王山永徳寺より「権現堂」を移築、それを拝殿とし現在に至ります。
       
              本殿奥に聳え立つ巨木・老木(写真左・右)。ご神木だろうか。
        
              社殿左側に並び祀られている石祠群

 由緒に記されている「正田氏」は、上野国(現在の群馬県)に多く存在する。「源姓新田氏流正田氏」ともいわれ、当初は「生田・庄田・勝田・松田」と称していたという。
・新田族譜
「新田義重‐額田五郎経義(住武州額田)‐額田弥三郎氏綱‐額戸三郎太郎政氏‐氏長‐経長‐政長‐掃部助政忠(従義貞)。政氏の弟生田弥三郎時綱‐彦三郎政綱‐三郎隆氏(庄田祖)。政綱の弟彦五郎頼持‐松田彦次郎政頼‐松田与‐政重(延文四年新田義興に従ひ矢口討死」
永禄二年新田家臣祖裔記
「鶴生田孫三郎時経の息庄田彦三郎政綱、同舎弟勝田彦五郎頼持息男彦五郎政頼と云ふ、義貞公一方の大将分の人也。其末葉徳川に住す、当時正田対馬介・勝田刑部介・庄田寅之介、皆鶴生田の裔也、鶴生田は額田殿御家の分れなりと云伝」
新田文庫
「天正二年新田治部大輔の奏者正田対馬守」
新田家臣祖裔記補
「正田新四郎繁補、舎弟与三郎繁道、元亀元年七月室町殿御治世之時、大館左衛門佐昭虎(将軍家奉行)書翰以、当金山之城へ差越候なり」
金山太田誌
「天正十一年金山籠城。譜代之臣正田平左衛門、庄田新四郎」
        
                   拝殿からの風景
「金山太田誌」に記されている「正田平左衛門」は、榛沢郡新開郷(現在の深谷市新開地域)を所領していた由良氏の家臣で、当時深谷上杉氏と度々紛争を起こしていたという。この正田氏の後裔に関わるのだろうか、深谷市にも「正田」姓は多く存在する。
金山太田誌
「正田平左衛門は、元来桐生重綱之臣降参之者」
新田正伝或問
「永禄五壬午年三月武州横瀬七郷深谷より掠取由、正田平左衛門方より金山へ注進あり、手勢実城衆(金山城)百余騎馳向、新田方勝利也、是を小阿瀬合戦と云。此正田平左衛門は、去る天文十五年那波合戦の節も一番槍を勤む。横瀬・新開・古市・大塚・中瀬・高島、右七ヶ村の掟を被仰付也。今度亦無比類高名と云」
新田一門史
「新田荘那波城にいた正田平左衛門は、天正八年七月七日没す。天正十一年の金山籠城記の平左衛門は息子である、落城後に高島村へ土着する。子孫は現当主正田隆平なり、分家太郎兵衛は慶安四年生にして、子孫は現当主正田善衛なり。家紋は蔦」
        
        徳川町東照宮入り口付近に設置されている「尾島かるた」の看板
 尾島かるた 
 と・徳川氏  発祥の地   尾島町
 江戸幕府の将軍家徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれます。新田義重(よししげ)の子の義季(よしすえ)は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏(ちかうじ)が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。
                                      案内板より引用


参考資料「世良田東照宮HP」「
太田市観光物産協会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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境平塚赤城神社

 境平塚地域に鎮座する赤城神社の本殿は、嘉永6(1853)に再建されたものであり、彫物化した部材を用い、部材間の羽目板に彫物を飾り、軸部に地紋彫を施すなど、彫物装飾を多用しており、関東地域の近世神社建築にみられる特色を示している。
 しかし、これほど精巧で緻密に彫物装飾を多用しているにも関わらず、赤城神社本殿に関する詳細な報告は存在していなかった。一方、武蔵国羽生領本川俣村(埼玉県羽生市)に居住する大工三村家には三村家が関わった社寺建築に関する造営関係文書が残り、その中に赤城神社本殿に関係するものがある。
「三村家文書」による赤城神社本殿に関する造営関係文書によると、武蔵国羽生領本川俣村の大工三村正利が赤城神社本殿の再建に関わったことは明らかであり、工事における中心的存在であったことが伺える。 三村正利は、嘉永48月に赤城神社本殿の規模や形式、仕様を定めていた。そして、設計、計画を行い、工事に用いる材木の木品、寸法、員数を定め、屋根下地までの建築工事を担っていた。さらに、彫物の仕様を考慮した上で、主導的に設計、計画、工事を進めていた。
 関東地域の近世神社建築は、彫物装飾を多用する特色がある。赤城神社本殿においては、部材自体を彫物にする、羽目板に彫物を飾る、という表現手法を用いており、中には、それらを一体化した表現手法もみられる。そして、それら彫物装飾は大工三村正利の裁量によって規画化されていた。彫物装飾を多用する建築を実現する背景には、彫物師弥勒寺音次郎・音八父子の高度な技術力があったことが挙げられる。但し、彫物を製作するのは彫物師であるが、その前提には大工の卓越した技能があったといえる。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境平塚1206-1
             
・ご祭神 大己貴命 豊城入彦命
             
・社 格 不明
             
・例祭等 春祭 47日 大祓 630日 夏祭 77(お川入)
                  
秋祭 113日 大祓 1231
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2576734,139.2675199,16z?hl=ja&entry=ttu

 群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上し、利根川を越えて群馬県道298号平塚亀岡線の合流する「境平塚交差点」手前の十字路を左折する。600m程進んだ先、正面に境平塚赤城神社の社叢が見えてくる。駐車スペースは社の南側の正面鳥居傍に設置されている。または隣接して「平塚会館」があり、そこの駐車場もお借りできそうである。
        
                             境平塚赤城神社正面
                開放的な社の空間が広がる。
 伊勢崎市平塚地域は利根川左岸で河成低地、又は沖積平野に属する地域であり、地図を確認すると境米岡神社の真南にあり、直線距離にして1㎞にも満たない場所に境平塚赤城神社は鎮座している。
 赤城神社が鎮座する境平塚地域を含めた旧境町東地域(米岡・栄・女塚・三ツ木・西今井・上矢島)の歴史は古く、鎌倉時代に広瀬川の舟運交通が始まる時期から渡船場付近に発達した集落で、江戸時代になると日光例幣使街道柴宿と木崎宿の間の宿として問屋場が置かれた。経済交流の場として六斎市が開かれ、街道沿いに町並みが形成された。
 江戸中期からは元船の上流までの遡航が困難となり、小舟による中継河岸として年貢米や荷物の輸送を行い、最盛期には河岸問屋が11軒にも及び、現在も北清・京屋などの当時の屋号が残されている。
 境町は江戸末期から明治にかけて糸の集散で栄え、取扱は上州一と称された。明治以降は、商人や職人が定住して商業が活況を呈して伊勢崎銘仙の生産地となったという。
        
              入り口付近に設置されている案内板

 伊勢崎市指定重要文化財 平塚赤城神社本殿 昭和42210日指定
 平塚赤城神社は拝殿及び本殿からなり、本殿は拝殿から離れて、その後ろに少し高い石壇を築き、大谷石の玉垣をめぐらした中に鎮まる。玉垣の中に切石の段を設けて、そこに高く浜床を置いて建てられている。造りは一間社流造銅板葺(いっけんしゃながれづくりどうばんぶき)で玉垣の頭と浜床が同じくらいの高さなので、社殿が周囲からよく見えて、大変見栄えのよい立派なものである。
 正面向拝右側勾欄親柱の擬宝珠に
 永禄十二巳年再建寛文四辰年中興
 再建立嘉永六丑年九月吉日

 と、本殿唯一の銘文があるところから、嘉永六年(1853)に本殿が造営されたと考えられる。造営は専門学者によれば、笠間稲荷本殿等の造営で知られる名工弥勒寺音次郎・音八父子の手になるものと考えられている。
 特に赤城神社のすばらしさは彫刻技術の見事さであり、向拝の八方にらみの龍や脇障子西側の羽目板に見られる赤壁高士舟遊・腰組の唐児彫り等、名工の名に恥じない見事な彫刻が随所に見受けられる。
 また、赤城神社は県内でも例の無い「お川入れ行事」という、御神体を利根の流れで洗い浄める行事が伝わっていることでも有名である。例祭は毎年七月七日である。
 昭和五十八年三月三十一日 伊勢崎市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                 平塚赤城神社正面鳥居
 案内板に記載されている弥勒寺音次郎[寛政9(1797)-明治2(1869)]は、長沼村(群馬県伊勢崎市)の渡辺源蔵(生没年不詳)17)の子に生まれ、大工業を営む小林新七 [天保9(1838)没、享年54の弟子であったとされ、文政年間に小林家に婿入りし、小林新七の没後に弥勒寺姓に改めたとされる。彫物の技量を備え、多くの弟子がいたようである。弥勒寺音八[文政4(1821)-明治20]は、弥勒寺音次郎の長男に生まれ、大工を継いだが、彫物に専念したという。
        
                                      拝 殿
 境平塚赤城神社のご神体は、平塚渋沢氏の祖である渋沢隼人が旧宮城村三夜沢(現前橋市)の赤城神社から分祀し寄進したと伝えられているが詳細は不明である。現在伝えられるご神体は、本地仏(ほんじぶつ)虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)の懸仏で、戦国時代の「永禄十三年(1570年)八月十五日」(注:この年423日に元亀元年と改元)と銘がある。他に磐筒之男(いわつつのおの)(みこと)、経津(ふつぬし)主命(のみこと)、大己(おおあな)(むちの)(みこと)、菅原道真(すがわらみちざね)(こう)など七神が祀られている。
 *お川入り神事
 城神社の夏例祭と一緒に毎年77日に「お川入れの神事」が執り行われている。昔は真夜中に行われていたが、今は夕方に行われている。ご神体の懸仏を頭上に戴いた惣代長を先頭に、白装束の惣代達と世話人の代表の行列が利根川へと向かい、川瀬に設けられたしめ縄を張った4本の竹の祭壇中でご神体が素早く洗い浄められる。江戸時代から続くこの神事は、通船業が盛んだった平塚河岸の人達の安全と息災を祈願する伝統行事として連綿として受け継がれている。
            
            境内には「赤城神社由緒記」の石碑がある。
 赤城神社由緒記
 一 鎌倉時代(11901332)末新田氏家臣渋沢氏は氏神に赤城大明神を奉祀
 一 南北朝時代(13391392)渋沢氏は南朝を奉じて破れ新田一族と共に利根郡老神に隠逸
 一 南北朝合一(1392)後渋沢氏は帰郷の途次大洞の赤城神社に祈念平塚に勧請
 一 応永八年(1408)正月七日関東管領足利満兼畑一町歩寄進
 一 赤城神社と尊崇した新田岩松氏の中黒紋を赤城神社紋とす
 一 永禄十二年(1569)渋沢氏社殿を造営翌十三年(1570)八月十五日御神体本地虚空蔵菩薩を安置
 一 寛文四年(1664)社殿を改築
 一 嘉永六年(1852)下淵名弥勒寺音次郎音八父子現在の本殿を造営
 一 明治十四年(1881)浅草水倉清右衛門拝殿を造営
 一 大正元年(1912)利根川大改修明神より現在地社宮司稲荷へ遷座
 一 昭和四十三年(1967)二月十日本殿を境町重要文化財に指定

 一 祭神は大己貴命・豊城入彦命(以下略)
                                      石碑碑文より引用

        
        
           下淵名の名工 弥勒寺音次郎・音八親子による嘉永六年(1853)改築の本殿
 
   拝殿の左側に鎮座する境内社、詳細不明     拝殿裏手に祀られている幾多の石祠等
       
                           社殿右側に鎮座する社宮司稲荷社
 御札が貼ってあり、よく見ると「養蚕安全」のお札があった。稲荷が養蚕守護として祈願を集めていた地域なので、ここも養蚕地帯だったのだろうか。
 利根川右岸には深谷市町田八幡神社境内にも社宮司稲荷神社が祀られ、上手計地域にも同名の社が鎮座していて、関連性が伺われる。
 但し「社宮司」は「シャグジ」とも読める為、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰である「ミシャグジ信仰」の別名とも考えられる。その信仰の実態はまだ解釈が様々で「石神・石棒信仰」とも「塞の神=境の神」「鹿の胎児・酒の神」、また「ミシャグジ」自体「神」として見るのではなく、「生命力を励起するパワーのようなもの」、「空からやってくる(…)大気(空気・空)に充満するエネルギー」として解釈する説もあるようで、正体不明な信仰形態でもある。
       
       社殿裏手にも参道と鳥居があり、鳥居の先はおそらく赤城山だろう。 


参考資料「伊勢崎市HP」「日本建築学会技術報告集 第26巻 第63号」「Wikipedia」
    「境内案内板・石碑文」等       


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境米岡神社

 群馬県旧境町は文字通り「境」の町、上州群馬県と武州埼玉県との県境を、坂東太郎の異名をもつ大河『利根川』で接し、その利根川を跨いで、境町の南端・島村地区が埼玉県深谷・本庄市と隣接していた
 中でも境米岡地域周辺の歴史は古く、発祥は出土した土器等から縄文・弥生時代といわれている。市指定史跡である「北米岡縄文文化遺跡」は,境東小学校の南側一帯、利根川の自然堤防上の低い台地に広がる縄文後期から晩期の遺跡であり、日本最大の岩版(国指定重要文化財)が発見されたことで知られ、昭和16(1941)から発掘調査が行われてきた。岩版の発見や土偶などの出土により、祭祀的性格の濃い遺跡と考えられる。また土器に関して南関東地方と同様な型式に混在しながら後期中葉以降、東北地方の土器が見られることから、利根川沿岸で活発な交流があったことが伺えるという
 時代は下り、室町から戦国時代頃には、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったと思われる。 慶安4(1651)には、佐位郡境村を境町と改名し、日光例幣使街道の宿場町として栄えたという。200511日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
        
             
・所在地 群馬県伊勢崎市境米岡149
             
・主祭神 櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)
                  
合祀 譽田別命、豐城入彦命、大日命、五十猛神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭 43日 秋祭 113
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2658726,139.2642971,16z?hl=ja&entry=ttu

 境米岡地域は伊勢崎市東南端部に位置する。途中までの経路は世良田東照宮を参照。群馬県道・埼玉県道14号線を北上し、「世良田」交差点を左折する。群馬県道142号綿貫篠塚線に合流後850m程直進し「境女塚」交差点を左折。その後350m進むと道路は突当たりとなるので、そこのT字路を右折し、暫く進むと進行方向右手に境米岡神社の裏手に到着する。ありがたいことに駐車スペースもその付近に設置されている。その後鳥居のある南側正面に徒歩で回り込んでから参拝を開始した。
        
             社叢林に囲まれた中に鎮座する境米岡神社
 太田市との東側境界には北西方向から南東方向に流れる利根川支流の早川があり、社の正面鳥居がある南側から東方向に進むと早川に架かる橋があり、その橋の名前は「熊野橋」といい、文字通り嘗て境米岡神社が呼称していた社名がその由来となっているのだろう。林の中に神社は鎮座していて、ゆったりとした気持ちで参拝を行うことができた。
        
                   朱が基調の鳥居
 創建年代は不詳ながら、元は熊野神社で地元の方々からは「おくまんさま」と言われ親しまれているようだ。由来等案内板もないので推測しかないが、前橋市千代田地域に鎮座する熊野神社の案内板には「出雲国八束熊野より分社されたと伝えられていますが、その歴史は定かでありません。この地域一帯は「熊野の杜」と云われ、うっそうとした木立ちにつつまれた神域でありました。江戸時代以降は町の発展と共に現在のような鎮守としての神社になったと考えられます。熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集め「恩熊野様」と唱えて崇拝しました。これが子供たちには「おくまんさま」と聞こえたのでしょう、以後、当熊野神社は「おくまんさま」と称せられ親しみ愛されています」と記載されているが、この境米岡神社も同様な経緯で「おくまんさま」と呼ばれているのだろう。
        
            手入れを綺麗にされている参道の先に拝殿がある。
 南側に広がる農地より一段高い位置に鎮座しているようで、米岡地域附近の地形は標高42m程で、近くを流れる利根川や支流である広瀬川の度重なる氾濫により、岸を洗われ、東西約1㎞の自然にできた堤防のような低い台地上で形成されている。
        
                                 拝 殿
 明治40(1907)、神明宮及び末社三社、字新屋の赤城神社及び末社三社、字庚塚の八幡宮及び末社二社、熊野神社の末社四社を合祀して米岡神社と改称した。「島村の伊三郎」がこの社の近くで国定忠次らに殺された、という歴史の痕跡もある場所だそうである。現在は世良田八坂神社の兼務社となっている。
 
      拝殿に掲げている扁額               本 殿

 境米岡神社の朱祭神は「櫛御氣野命(くしみけぬのみこと)」という。この神は島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社の御祭神である「素戔嗚尊」の別名であると云い、「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」という長たらしい名称を頂いた神様でもある。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」とのことだ。
 尚、紀伊国の熊野三山(熊野国造奉斎社)も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。
        
        拝殿・幣殿・本殿の造りが一目瞭然と分かる権現造りの形式。
    拝殿、本殿が若干規模は小さいが、それ以上に幣殿がしっかりと造られている。
        
                  本殿の後ろ側には幾多の石祠等が整然と祀られている。

 境米岡神社から西へ、徒歩数分の場所には「米岡の姥石」と云われる新田義貞に纏わる伝説の石がある。後で調べてみると、どうやらこの石の起源はかなり古く、「北米岡縄文文化遺跡」と同時代辺りの祭祀的性格の濃い縄文時代から崇拝されてきたご神体とも云われている。
*残念ながらこの石を知ったのは参拝後、編集中でもあり、実物は実見していない。

 米岡の姥石 市指定重要文化財 平成161126日指定
「甘酒婆さん」と通称される約1メートルの輝石安山岩の自然石で、新田義貞挙兵の際、小休止の軍勢に甘酒をふるまっていた老婆が武将の馬に蹴られ、死んで石になったという。百日咳を癒すご利益があるとされ、治るとお礼に甘酒を供えた。この姥石周辺から石製模造品が出土していることから、古代の磐座(いわくら)
と考えられている。
        
                                本殿の奥にある「神興舎」


参考資料「財団法人 群馬県埋蔵文化財調査事業団」「伊勢崎市HP」「世良田八坂神社HP
    「前橋市千代田 熊野神社案内板」「Wikipedia」等


 

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