古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

美茂呂町飯福神社

 伊勢崎市美茂呂町地域に鎮座する飯福神社の主祭神は保食神(うけもちのかみ)という。この保食神は不思議な神で、日本全国の神社に祀られている神では、おそらく断トツの一位ではないかとも言われ、嘗ては民衆の中でも第一に崇められ、今でも社の末社や石祠の中に必ず祀れている神でもありながら、その割には正体が不明な神でもある。
 筆者も漠然と保食神=稲荷神と認識していたのであるが、実際に調べてみると中々興味深い神である。
 この神は、日本神話に登場する神であり、『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容から、穀物・農業を司る女神と考えられる。
『日本書紀』では、天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったという。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。
この説話は食物起源神話であり、東南アジアを中心に世界各地に見られる「ハイヌウェレ神話」型の説話である。この「ハイヌウェレ神話」とは世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものであるという。
『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっている。よって、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもある。また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
        
              
・所在地 群馬県伊勢崎市美茂呂町3412
              
・ご祭神 保食神
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 春季例祭 223日 例大祭 1017
                   
秋季例祭・新嘗祭 1123
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3049217,139.2043629,18z?hl=ja&entry=ttu

 
美茂呂町飯福神社は伊勢崎市美茂呂町地域の北東端部に位置し、茂呂郵便局の南、茂呂小学校の西側に鎮座している。途中までの経路は、下渕名大国神社を参照。国道17号上武バイパス、大国神社東交差点を西方向、つまり左折して群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に入りそのまままっすぐ4㎞程進む。群馬県道293号香林羽黒線との交点である十字路を左折し300m程北上、その後十字路を左折する。「茂呂町二丁目」交差点を過ぎた先にT字路があり、そこには「飯福神社」の看板が見えるので、そこを左折するとすぐ右手に参拝者専用駐車場があり、その先に社の鳥居が見えてくる。
        
                 美茂呂町飯福神社正面
 美茂呂町区は伊勢崎市茂呂地区のほぼ中心に位置し、古く(江戸時代以前)から住居が点在していた記録がある。退魔寺は応安4年(1371)に当時の茂呂城主によって建立された寺が始まりである。美茂呂町区は茂呂地区でも唯一区内に、神社(飯福神社)と寺(退魔寺・茂呂城址跡)があることから、古くより地区の中心であったものと思われる。また、行政の中心である伊勢崎市役所から1.2Km圏内にあり、区内に国道354号線、国道462号線が通り、近隣都市とのアクセスも良く、住民にとっては住みやすい地区となっているという
        
                 二の鳥居から拝殿を望む。
        一の鳥居を過ぎて、進んでいくと真っ赤な二の鳥居が右側に見える。
 標高54m程の住宅街が社の周囲を囲む中で、社周辺は平均標高が58m60m程の一段高い場所にあり、周囲を社叢林に囲まれている中、地味で華やかさはないが、地域の方々を見守るように穏やかに鎮座しているといった第一印象を受けた。
 規模は決して大きくはない社だが、境内は綺麗に清掃されている。宮司のみならず氏子の皆さんの努力の賜物なのだろう。嘗て古き良き時代には、村の鎮守様として多くの人々より、崇め祭られたことだろうと、筆者の勝手な妄想を抱く程気持ち良さを感じる神社。

        
                                  拝 殿
 拝殿手前右側にはこの神社のマスコットキャラクターである「めしふくろう像」が設置されている。「飯福」が「めしふく」とも読めることから、このキャラクターが生まれたようだ。目の前で見ると不思議と気持ちがほっこりとする。
 
           扁 額                 拝殿内部
        
                                 美茂呂町飯福神社案内板
 飯福神社
 鎮座地 伊勢崎市大字茂呂三、四一二番地
 祭神  主祭神 保食命
         配祀神 大物主命 誉田別命 火産霊命 倉稲魂命 菅原道真命  菊理姫命 最上命
 由緒
 当社の創建年代は明らかでないが、伝承によれば、建武年間(一三三四~三六)に宗良(むねなが)親王が父君後醍醐天皇の命を受け征東将軍となって東国に赴いたが、御子の尹良(ただなが)親王薨去(こうきょ)後は新田一族を率いて王事を尽くしていた。
 その宗良・尹良両親王の御息所にちなんで、ここに「位々登美(いいとみ)」の御神霊を奉祀した事が始まりとされている。その後は那波氏によって再建されたが、正親町(おおぎまち)天皇の御代の永禄五年(一五六二)、北条氏の兵乱に遭って社殿は悉く破損した。しかし、由良氏によって修理がなされ、天正年間(一五七三~九二)には、竹姫公の采邑(さいゆう)となった。
江戸時代に至ると、伊勢崎城主酒井日向守忠能によって修理が加えられ、明治維新以来は氏子の経営するところとなった。
 明治七年、村社に列せられ、同四十年九月十七日、境内末社の愛宕神社・秋葉神社・菅原神社、字堤の飯福神社・同境内末社の琴平神社・八幡神社、及び字宮上の秋葉神社、字白山の白山神社・同境内末社の菅原神社・疱瘡(ほうそう)社を合祀して今に至る。
 境内には、大正十四年建立の「古銭発見碑」があり、以前は桜の名所でもあった境内地を氏子たちは「カミノヤマ」(上之山)と称している。
境内末社 榛名神社 埴安姫命
     赤城神社 大己貴命
     加茂神社 別雷命
                                      案内板より引用
        
            本殿。周りには多くの石祠が祀られている。

 社殿を囲むように多くの境内社・末社・石祠等が境内に祀られている。
 
 社殿左側には縁結びの白山比咩神社を祀る。     社殿左奥に境内社・大国神社
        
                  伊勢崎市指定重要有形民俗文化財「茂呂の屋台」案内板
 伊勢崎市指定重要有形民俗文化財
 茂呂の屋台  平成二十二年十月一日指定
 旧茂呂村に伝わる五基の屋台は、幕末期から明治期に降雨を祈願し、また報祭のために製作された。
 屋台は正面一間側面二間の木造軸組に唐破風屋根または切妻屋根をもち、祭りのたびに組立・解体された。特徴としては、高欄を背面三方に廻し飾舞台とし、後室は囃子場としての演奏空間となっている。
屋台の上部は密度の高い彫刻で飾り、制作に関与した大工や彫刻師が判明する屋台も認められる。特に鬼板(おにいた)や懸魚(けぎょ)の彫刻には、水を司ると考えられる龍などを刻み、雨乞いとの関連が視覚的にも強調されている。
毎年九月の「飯福神社秋祭り」では、茂呂地区五町内の屋台囃子が共演される。
                                      案内板より引用


 美茂呂町の屋台囃子は、伊勢崎市域をはじめ、群馬県から埼玉県北部地域に広く分布する参手鼓と呼ばれる演目を基本とする祭り囃子である。この屋台囃子は、旧茂呂村の堀組と呼ばれる地域の有志が伝承してきたもので、現在は美茂呂町屋台囃子保存会を組織している。7月の茂呂地区納涼祭、水神宮祭、8月のいせさきまつり、9月の飯福神社秋祭りで演じており、世良田八坂神社の祇園祭(太田市)にも参加し演奏している。屋台は、嘉永7(1854)に制作されたものを所有している。
       
                   社殿右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
   ご神木周辺に祀られている石祠等          庚申塔等にも注連縄が巻かれているいる。      



参考資料「飯福神社HP」「伊勢崎市HP」「伊勢崎市美茂呂町自治会HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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藤岡富士浅間神社


        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡1152
              
・ご祭神 木花開耶姫命
              
・社 格 
              
・例 祭 例大祭 41
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2563401,139.068042,15z?hl=ja&entry=ttu

 中栗須神明宮の南側に鎮座する。群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線を上越自動車道・藤岡IC方向に北上し、「七丁目」交差点を左折、その後すぐ先にある「古桜」交差点を右折し直進すると、 道路沿い左側に藤岡富士浅間神社の大きな社号標柱、広大な駐車場があり、その参道の奥の高台上に社は鎮座している。
        
                 
藤岡富士浅間神社正面 
 藤岡市藤岡地域に鎮座。全国約1,300社といわれる浅間信仰の神社の1つで、木花開耶姫之命を主祭神とし、安産と子育てのご利益があるとされる。
『日本歴史地名大系』には藤岡町(現藤岡市藤岡)に関して以下の解説がされている。
「東は小林村など、西は上・中・下大塚村など、南は矢場村など、北は中栗須村などと接し、町央を東西に下仁田道、南北に十石街道が通る。近世には両道が交差する交通の要衝にあり、継場、日野絹の集散市場として賑った。享和三年(一八〇三)の富士浅間神社縁起書によると、文応元年(一二六〇)日蓮が常が岡鮭塚に経を納め、富士山の分霊を勧請し鎮守として以来富士岡(ふじおか)と称したという。「続太平記」には永享の乱に、上杉憲実が平井ひらい城攻めにあたり、藤岡などに陣を張ったとあり、「鎌倉物語」などによると当時の藤岡城主有田定景は足利持氏の遺児永寿王丸をのがしたという」
 
 境内は広く整備もされている。また長く伸びる参道(写真左・右)は石製の鳥居まで約100m程続く。
       
 道路沿いにある鳥居を過ぎると、天高く伸びそうな巨木がお出迎えしてくれる(写真左・右)。
                  「孤高」という表現が似合う趣のある大木。

 参道途中には3枚の案内板が設置されており、右から「富士浅間神社 祭礼絵巻」「富士浅間神社具足4種」が案内され、夫々重要文化財に指定されている。もう1枚は社の案内板である。
        
一番右側には「市指定重要文化財 富士浅間神社祭礼絵巻」の標橋や、及び案内板である。藤岡富士浅間神社には、神輿をかつぐ行列が描かれている絵巻物が宝物として伝わっている。菊川英山という浮世絵師が描いている。絵巻は四mという長さで、行列の人数は357人。藤岡市指定重要文化財として、藤岡歴史館に保存されている。
        
 真ん中には「富士浅間神社具足4種」の案内板がある。市指定重要文化財で指定日平成21625日。富士浅間神社に伝世したもので、当世具足(とうせいぐそく)3点・鎖具足1点からなる。その造作は簡素・実戦的であり、上級武士の着用と見られるものである。製作上の特徴から、ほぼ同時期の所産と考えられるもので、近世の江戸前期に位置づけられる。
 これらの具足がどのような経緯で寄進されたのかは今後の課題であるが、全体に保存状態が良く、本県並びに藤岡市周辺地域の歴史的な美術工芸資料として貴重な資料である。
朱漆塗切付碁石頭伊予札二枚胴具足
朱漆塗桶側四枚胴具足
黒漆塗切付小札二枚胴具足
鎖具足
        
        一番左側には「富士浅間神社 由緒」の案内板が設置されている。
 富士浅間神社 由緒
 ご神徳 安産 子育て
 当社のご祭神は、富士山をご神体とする木花開耶姫命である。天照大神の孫の夫人であり、海の幸の神、山の幸の神らの母親である。火を放った産屋で無事に子を産んだ言い伝えにより、子授け、安産、子育ての守り神として古くから信仰を集めてきた。
富士山は日本一美しい山だが、かつて火山としてたびたび噴火を繰り返していた。その激しい噴火を鎮め、同時の新しい生命を生み出す神として、火中で無事に子を産んだという言い伝えから木花開耶姫命をご祭神としている。女性の守護神、子授け、安産、子育ての神と言われる理由である。
 当神社の設立年は不詳だが、当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け、平安時代の主要な神社である従五位上郡御玉明神の一社として藤岡の地の守護神としたのが始めと伝えられている。1274(文永11)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻るときに、この地を訪れ八軸の経を納め、同時に富士信仰の厚かった上人は、そのご祭神である木花開耶姫命の御霊を当神社に移し、以来社名を富士浅間神社と改め当地の守り神として広く信仰を集めてきた。
 1590(天正18)藤岡の領主となった芦田康貞が、藤岡城を築くに当り、北面の守護として当神社の社殿を大規模に拡張・改築し、神官広瀬清源を奈良の吉野より招き宮司とした。江戸時代には庶民の間で冨士講が盛んに組織され、多くの人が当神社を中心にして富士山詣でを行った。「藤岡」の地名は当神社の社名に由来し、「富士岡」が変じて定まったといわれている。
                                      案内板より引用
        
                   石製の大鳥居
         参道は当所西方向に進むが、この鳥居からは北側に変わる。
 
 鳥居の南側には重厚感のある神楽殿がある(写真左)。南向きに鎮座する拝殿に奉納する舞をお見せできる絶好の場所にあるようだ。また鳥居の西側には神興庫であろうか(同右)。
 
 鳥居前にて一礼を済ませた後、鳥居の先で、左側にある手水舎にてお清めをする(写真左)。よく見ると手水舎の奥にかなり古い形態の手水舎があった(同右)。今回はそこでお清めはしなかったが、奥にある手水舎も使用できるとの事で、次回参拝の際にはぜひお清めしようと思った。
 
 参道を進むときから気が付いていたが、石垣に似た高台上に社殿は鎮座している。広々として開放的な境内と相まって、まるでお城と勘違いしてしまう位の規模である(写真左)。鳥居を過ぎて石段を登り、その頂上部に社殿が見える(同右)。
 実はこの社が古墳の上に建てられているといわれていて、案内板にも「由緒書の途中に「当地を治めた古代の有力者を祀る墳墓に祠を設け…」と載っている。「藤岡町1号墳」とも呼ばれていて、南北40m、東西44m、高さ5mの円墳。前方後円墳という説もあるそうである。
        
                     拝 殿
 藤岡富士浅間神社のご祭神である「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」は、日本神話に登場する女神である。父神は大山津見神、母神は鹿屋野比売神(野椎神)。一般的にこの「木花之佐久夜毘売」は『竹取物語』の主人公「かぐや姫」のモデルともされ、桜の美しさとやがて散る儚さを象徴する美しい女神といわれている。アマテラス大神の孫ニニギ尊と結婚。子授け安産、農業や漁業のご利益があり、酒造業の守護神としても信仰されている。
 実はこの女神、別名も多く、『古事記』では本名を「神阿多都比売(かみあたつひめ)」「木花之佐久夜毘売」、『日本書紀』では「神吾田鹿姫(かみあたつひめ)」「神吾田鹿葦津姫(かむあたかあしつひめ)」「木花咲夜姫」、『播磨国風土記』では「許乃波奈佐久夜比売命(このはなのさくやひめ)」と表記され、また「豊吾田津媛命・木華開耶姫・木花之開耶姫・木花開耶媛命・神阿多都比売・神吾田津姫・神吾田鹿葦津姫・鹿葦津姫・桜大刀自神・身島姫神・酒解子神」等とも言われている。
 現在富士山を神体山とする富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社にこの女神は主祭神として祀られているが、歴史的に見ると、古代や中世には富士山の祭神(権現)を木花之佐久夜毘売とする文献は見当たらないとされ、近世に林羅山が元和2年(1616年)の『丙辰紀行』で諸説の中から三島神社の祭神が父神の大山祇神であり、三島と富士が父子関係にあるとする伝承を重視し、これを前提に「富士の大神をば木花開耶姫」と神話解釈を行ったことで権威をもつようになったといわれている。因みに富士講では富士の祭神を仙元大日神としており、仙元大日神の子孫が木花之佐久夜毘売と結婚したとしている。
         
                                   本 殿
 浅間大神は、木花咲耶姫命のことだとされるのが一般的である。浅間神社の祭神が木花之佐久夜毘売となった経緯としては、木花之佐久夜毘売の出産に関わりがあるとされ、火中出産から「火の神」とされることがある。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされている。しかし、いつ頃から富士山の神が木花開耶姫命とされるようになったかは明らかではない。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もある。
 富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていた。そのため噴火を抑えるために、火の神または水徳の神であるとされた木花咲耶姫を神体として勧請された浅間神社も多い。

浅間神社の語源については諸説ある。
「あさま」は火山を示す古語であるとする説。
「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体の神であるとして祀ったとする説。
「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に習合した結果といわれている。
「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説。
坂上田村麻呂が富士山本宮浅間大社を現在地に遷宮した時、新しい社号を求めた。この時、浅間大社の湧玉池の周りに桜が多く自生していた。そのため同じく桜と関係の深い伊勢の皇大神宮の摂社である朝熊神社を勧請した。この朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説。
        
      社の西側は正面参道とは違った、本来のお社の風景が広がっているようだ。
 
    社殿西側に祀られている境内社          境内社・秋葉神社か
         詳細不明

 木花之佐久夜毘売の本名は「神阿多都比売(かみあたつひめ)」という。「阿多」は実は地域名で、鹿児島県南さつま市から野間半島にわたる地域、また薩摩国(鹿児島県西部)にちなむ名といわれ、「鹿葦」も薩摩の地名という。ということは、原義としての「神阿多都比売」とは「阿多の都」の姫という意味となり、現在の鹿児島、つまり薩摩地域の姫様という意味になるかもしれない。

 また神名は一般的には「植物」と関連づけられているそうだ。神阿多都比売の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、木花之佐久夜毘売の神名の「木花」は木花知流比売と同様「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば 「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売」となるとされる。
       
                                 境内の一風景
 桜は春を象徴する花として日本人には馴染みが深く、春本番を告げる役割を果たす。桜の開花予報、開花速報はメディアを賑わすなど、話題・関心の対象としては他の植物を圧倒する。入学式を演出する春の花として多くの学校に植えられている。
 日本人はまた「花見」を好む民族だ。但しこの「花見」の起源に関して調べてみると、奈良時代には貴族が「梅」を好み、花鑑賞をしていたようだ。現代では花見と言えば桜を指すが、当時は中国から伝来した「梅」の花が主流だった。これは、決して桜が好まれていなかったわけではなく、当時の日本人にとって桜が神聖な木として扱われていたがためである。実際、「万葉集」には桜を詠んだ歌も残されており、古代神話以前から桜は神の宿る木として信仰の対象ともなっている。
 桜の人気は平安時代から始まる。説話集『沙石集』(弘安6年(1283年))によると、一条天皇の中宮、藤原彰子(紫式部らの主君)が奈良の興福寺の東円堂にあった八重桜の評判を聞き、皇居の庭に植え替えようと桜を荷車で運び出そうとしたところ、興福寺の僧が「命にかけても運ばせぬ」と行く手をさえぎった。彰子は、僧たちの桜を愛でる心に感じ入って断念し、毎年春に「花の守」を遣わし、宿直をして桜を守るよう命じたという。

 昔も今も理屈抜きに日本人は「桜」が好きな民族である。故に木花之佐久夜毘売は「桜の神」であり、身の心も美しい人なのであったのだろう。色々書いたが結論はそういう事に帰するのだ。


参考資料「富士浅間神社HP」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等

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中栗須神明宮

 その昔、ここ中栗須の神明宮は、高山御厨(たかやまのみくりや)の北の中心地であり、現在でも藤岡市役所は、この中栗須地域に所在している。高山御厨は、源義朝の父、為義が伊勢神宮に寄進した荘園であるといい、御厨の司(現在の長官)は、秩父平氏の高山党、小林党であった。
秩父氏流栗須氏
 小林系図「秩父権守重綱―高山三郎重遠―栗須四郎有重―小林二郎重兼」
 この御厨(ミクリヤ)という言葉から「栗須」という地名が生まれたとも言われているという。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市中栗須615-1
              ・ご祭神 大日孁命(天照大神)
              ・社 格 旧郷社
              ・例祭等 春季例祭 47日(太々神楽奉納) 
                   秋季例祭 
1017日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2657913,139.0748173,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線で本庄市児玉町から藤岡市方向に進み、神流川を過ぎた「本郷」交差点を右折する。上越自動車道・藤岡IC方向に北上、道路は群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線となり、そのまま道なりに進むと、「中栗須」交差点の先で、道路沿い左側に中栗須神明宮の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居と二の鳥居の間には「中栗須公会堂」があり、そこには十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                                       南向きの中栗須神明宮正面
 中栗須神明宮は藤岡市中栗須地域北部に鎮座する。実のところ、今回の参拝は全くの偶然で、本来の目的は「道の駅 ららん藤岡」に家族で遊びに行った際に、偶々道路沿いに鎮座しているこの社を見かけて、買い物を済ませた後に参拝したというのが実情だ。ともあれ、期待はしなかった分、旧郷社としての風格もあり、思いのほか広大な境内であるので、これも神様のお導きかと感謝している次第である。
            
           社号標柱とその奥には「猿田彦大神」の石碑もある。
「神明宮」は天照大神または伊勢内外宮の神を祀る神社。神明宮・神明神社・太神宮・伊勢宮(いせみや)等ともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至ったという。
        
                    一の鳥居
『日本歴史地名大系』には「中栗須村」の解説が以下のように記載されている。
[現在地名]藤岡市中栗須
下栗須村の西、南は藤岡町、西は上栗須村と接し、北部を温井ぬくい川が東北流する。一帯は一二世紀前半に成立した高山たかやま御厨に属し、栗須郷と称された。天正一四年(一五八六)正月の神明宮造営勧進帳(佐々木文書)の表紙に「中栗須村」とあり、勧化者には「中栗須郷」と冠している。なお徳治三年(一三〇八)二月七日の関東下知状(東京国立博物館蔵)にみえる「高山御厨北方内大塚中□□□預所」の「中□□□」は、中栗須郷に推定されている。寛文郷帳では田方六七石六斗余・畑方三六四石一斗余、幕府領・旗本小西領・前橋藩領・旗本志賀領の四給。元禄郷帳では志賀領が幕府領となり三給。後期の御改革組合村高帳では旗本岩本・小西領・幕府領の三給、家数八三
        
  一の鳥居から二の鳥居に通じる参道は長く、その途中左側には「中栗須公会堂」がある。
        
「神明宮」という名称であるので、一の鳥居と三の鳥居が神明鳥居であるのは当然であるが、一と二の鳥居の途中には小さな堀川と神橋があり、その先に明神鳥居が立っていて、社号額も「諏訪大明神」とある。
        
                         三の鳥居 これより広い境内が広がる。
 交通量の多い県道沿いに鎮座していて、参道沿いにも細い道路があり、また三の鳥居前には参道に対して横切る道路も通り、周囲の道路事情も考慮しながら参拝を行う。
        
                    境内の様子
        
                     神楽殿
 この神楽殿では、毎年1016日、現在は第3週の土曜日に、御食御酒神事(みけみきしんじ)が行なわれる。その年の初穂を大神に供え、報恩感謝を申し上げる祭典。 神明宮の秋祭りは1017日で、この神事は16日の深夜に 宵祭(よいまち)として行う。 16日は午後7時からの獅子舞奉納に始まり、午後10時から拝殿において神事が始まる。 先ずふかしたモチ米の米飯75膳を桑の枝を箸でカワラケに盛りつけて神前に供え、その後境内末社をお祓いしながら回って紙の上にもった米飯を順に供える。 続いてふかしたウルチ米の米飯75膳を先ほどと同じようにして供え、境内末社も回るので、計150膳を神前に供えることになる。 それが終わると宮司の祝詞奏上、参列者による玉串奉奠をもって神事が終わる。 以前は75膳ずつに盛り分けた供物を参詣者に分けて大いに賑わっていたが、戦後は人出が少なくなり、厳粛な神事は氏子の積極的な協力を得て続いているという。
        
                                      拝 殿
 
          扁 額                 扁額の右並びに設置されている「神明宮」由緒
 神明宮由緒
 祭神 大日孁命(天照大神)
 本宮は、後鳥羽天皇建久三年九月十七日(一一九二年)右大将源頼朝公の発願により碓氷郡磯部領主佐々木三郎成綱が命を受けて勧請し創建された。
 天正十年(一五八二年)小田原の北条氏と厩林の滝川一益との神流川合戦に於いて兵火にかかり社頭が炎上した。
 その後三年を経て天正十三年七ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石 中)の氏子経の力により社殿が再建された。
 明治四年(一八七一年)第十五大区の郷社とされる。
 明治十三年九ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石・森・中・上戸塚・下戸塚)の氏子により広く寄付金が募られ拝殿が建築された。
 昭和二十九年瓦葺に修復され現在に至る(以下略)。
                                      案内板より引用

        
                             神明宮らしい本殿
 
    境内には「御神木」の看板がある巨木・老木が樹勢良く聳え立つ(写真左・右)。
 
 社殿の奥には数多くの石祠が祀られている(写真左・右)。詳細は不明ながら、中栗須(なかくりす)郷・下ノ郷(下栗須)・岡ノ郷・立石郷・森ノ郷・中村郷・上ノ郷(上栗須)の七郷の鎮守社であるとの事で、七郷内の神様をこの社にお移しされたのであろう。
 
 社殿奥(北側)には裏へ抜ける参道もあり、石段が設置されている(写真左)。その参道左側には芭蕉句碑が建っている(同右)。

 むすふよりはや歯にひゝく清水かな はせを翁

 現在水は枯れているが、元々池があったところらしい。明治2年(1869)に建立されたという。


参考資料「群馬県神社庁HP」「世界大百科事典」「日本歴史地名大系」「境内案内板」等


 

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上州藤岡諏訪神社

 藤岡市は群馬県の南西部に位置し、東は埼玉県上里町・神川町、西は高崎市・甘楽町・下仁田町、南は神流町・埼玉県秩父市、北は高崎市・玉村町と隣接。総面積は180.29平方キロメートル。鮎川(あいがわ)や神流川(かんながわ)が運んできた土砂が堆積してできた扇状地で、真ん中に庚申山丘陵 (独立丘陵) が分布していて、緑と清流に恵まれた山紫水明な地である。
歴史は古く、古墳時代の史跡も多く発見されている。室町時代には関東管領職にあった上杉憲実が平井城を築城した。江戸時代は日野絹の集散地として栄え、明治以降は高山社に代表される養蚕業の先進地、また木材の集積地として発達してきた。
 明治22年の町村合併の際に、藤岡町と小林村が合併してできた「藤岡町」が基になっていて、その後昭和29年、藤岡町と神流村・小野村・美土里村・美九里村の隣接14カ村が合併して市制を施行、翌年には平井・日野両村を編入、平成1811日に鬼石町と合併し、現在の藤岡市となっている。
 この「ふじおか」という地名の由来には諸説あるが、日蓮上人が大きく関わっているとされている。日蓮上人は、流刑地である佐渡に向かう途中、この地に立ち寄り地元の名士であった長谷川長源の屋敷に宿泊した。文応11年(1274年)、日蓮上人が佐渡から京に帰る際、再びこの地に立ち寄ると、長源の屋敷は「長源寺」というお寺に変わっていて、その立派さに感激した日蓮上人は、当時の常が岡 鮭塚(ときがおか さけづか)に八軸の経をおさめ、富士山の分霊を呼び奉った。このことから、「富士岡」(ふじおか)と呼ばれるようになったと言われている。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡495
              
・ご祭神 健御名方神 八坂刀売神
              
・社 格 不明
              
・例 祭 諏訪神社春季例大祭 48日 夏越大祓 630日 
                   
諏訪神社秋季例祭 1017日 年越大祓 1231
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2403546,139.0810539,17z?hl=ja&entry=ttu

 本郷土師神社から十石街道を1.5㎞程北上すると藤岡市街地内に鎮座する上州諏訪神社。訪問時間は夕方で車両の交通量も多い時間帯であり、十石街道自体は決して道幅が広い道路ではないので、進行方向に対して右側に鎮座している社の専用駐車場に入る際に対向車両の関係で少し手間取ったが、街中にありながら境内は広く、駐車スペースも完備されている。後日確認すると藤岡市では一番大きな社であるそうだ。
 但し当日参拝場所が多く、当初本郷土師神社で終了する予定であったこと、偶々藤岡市市街地に立ち寄ったところ、この社を確認したが、残念ながらカメラの容量が残り少なく、撮影できる枚数が少なくなっている。心配しながらも参拝を行った。
            
                十石街道沿いに社は鎮座していて、社号標柱が目印となる。
    古くから「お諏訪様」と呼ばれ、氏子九ヶ町の氏神として信仰されてきたという。
        
                    参道の様子
 境内は広く、整然としている。周囲の手入れも行き届いていて、気持ちよく参拝ができた。
        
        鳥居を過ぎると正面に石段が見え、その高台上に社殿が見える。
            どうやらこの社は社殿が西向きであるようだ。
       
               参道右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
     ご神木の右並びにある神楽殿           石段の手前で左側に「由緒」と記
                           した石碑がある。
        
                     拝 殿
 拝殿左右にある天水桶が大釜の形状になっているのが面白い。またその前の狛犬の形が変だと思ったら「狛虎」と呼んでいるようだ。

 歴史・由緒
 およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神として、明神の荒魂と和魂をそれぞれにお鎮めし、上、下の2社としてお祀りされていました。
 永享3年(1431年)、有田大舎人小属定景が常岡城に居城するにあたり、諏訪大社の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、2社を崇敬祭祀していました。
 永禄9年(1566年)、芦田下野守信守が藤岡城に居城するにあたり、同年727日、信濃国一之宮諏訪大社の上社、下社から剣一口、鏡一面を請い受け、神霊として南山に上社、当社(現在の諏訪神社の場所)に下社を奉斉しました。
 天正18年(1590)、信守の孫、右衛門大夫康貞が居城するや、祖父の発祀せる上社、下社を以て牙城の守護となし、社殿を造営し祭田を寄進して別当をも定めました。
 慶長5年(1600年)、芦田氏故あって藤岡城を廃されたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続しました。芦田氏奉斉依頼、御神威は四方に輝き、藤岡領すなわち、当所他17ヶ村の総鎮守として崇拝せられてきました。
 しかし、明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、当町を除く他の17ヶ村は氏子と称せず信徒として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としました。
 明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されました。
また、明治元年(1866年)~明治34年(1901年)12月迄、当社はその地域の名から、「高山神社」という社名でした。
                              「上州藤岡諏訪神社HP」より引用

        
                           本殿より社殿全体を撮影
               現在の本殿、幣殿、拝殿及び神楽殿は、嘉永3年(1850)の建立
        
          社殿の左奥に水天宮を祀る池があり、朱塗りの太鼓橋が景観的に美しい。

 太鼓橋を渡った奥には「高山長五郎功徳碑」がある。養蚕改良高山社を創始した高山長五郎の生前の功徳を伝えるために明治24年に建てられた。その左には、「町田菊次郎頌徳碑」がある。高山長五郎亡き後、養蚕改良高山社の二代目社長として高山社の名声を高めた町田菊次郎の功労をたたえたものだ。いずれも市指定重要文化財になっている。
        
                       本殿の奥に境内社が並んで鎮座している。
       左から「三峯社」・「阿夫利社、大神宮、豊受社」・「稲荷神社」
         
                  社殿から参道を撮影

 上州藤岡諏訪神社の鳥居近くにある一対の石燈籠は、天保2年(1831)三井越後屋から奉納されたもので、中段には三井の紋がある。手水舎は、安政4年(1857)、三井八郎右衛門から奉納されたものだ。「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」によると、「藤岡の絹市は京都や江戸、大阪から多くの商人が集まり、東西の動堂町(ゆるぎどうちょう)通りと南北の笛木町(ふえきちょう)通りが交替で、上州最多の12回の市が立ちました。」と書かれているので、江戸時代の豪商三井家と藤岡地域は深い関係があったようだ。


 乗数藤岡諏訪神社の社殿南側には、鳥居のある立派な境内社である・八坂神社、大國神社、天満宮など多くの末社が鎮座している。残念ながらカメラの容量の関係で、大国神社しか撮影できなかった。
 
               境内社・大国神社(写真左・右)


参考資料「上州藤岡諏訪神社HP」「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」
    「藤岡市公式HP」「藤岡市役所 企画部 地域づくり課」「Wikipedia」等
 

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本郷土師神社

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時に、野見宿禰(のみのすくね)が出雲から300人余りの土師部(はじべ)を呼び、土で人馬やいろいろな器物を作り殉死を防いだことが記載されています。これが埴輪起源説と伝えられています。現在、「野見」や「土師」と呼ばれる地域には埴輪を焼いた窯が多数確認されています。10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されています。おそらく野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座する地域が土師郷と推定されます。祭神は野見宿禰(のみのすくね)で、上野国神名帳に正五位上土師大明神とあります。
 境内には市指定の土師の辻
(相撲壇)や歌碑「土師の杜」等があり、参道の脇には欅や杉の大木がそびえています。春祭りに太々神楽、秋祭りに獅子舞が奉納されます。また、平成13年に花馬、平成14年に流鏑馬が復活しました。
 *藤岡市公式HPより引用
        
               
・所在地 群馬県藤岡市本郷164
               
・ご祭神 野見宿禰
               
・社 格 旧郷社
               
・例 祭 秋祭り 10月第3日曜日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.229473,139.0754979,16z?hl=ja&entry=ttu

 本郷椿社神社から北方向に十石街道沿いを1.3㎞程進むと本郷土師神社に到着できる。地図を確認すると、小林風天神社と本郷椿社神社との丁度中間に位置するようである。社の東には、埼玉県との県境の神流川が流れていて、肥土廣野大神社の西側、直線距離にして1㎞程しか離れていない。この肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという経緯がある。肥土廣野大神社のご祭神は野見宿禰の先祖と云われている天穂日命で、本郷土師神社と文化圏を共有する社と言えそうであり、古代の土師部の集団である出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考えられている。
 というのも10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されている。因みにここでは「波爾之(はにし)」と註していて、嘗て「土師」は「波爾之」とも呼ばれていた。考察するに、おそらく野見宿禰をご祭神とする土師神社が鎮座する地域の多くは土師郷と推定されているのであろう。
        
               十石街道沿いにある朱の両部鳥居
 この社は「土師」と書いているので、「はじ」または「はに」と読むとばかり思っていたが、当社は「どし」と読むそうだ。古代の外来語起源の語であるかもしれない。地形や川の流れとの相対的位置関係等から見て,土師神社お鎮座地一帯には,古代においては,埴輪窯や関連施設等が存在した可能性が高い。土師神社の北東約150mのところには,本郷埴輪窯址の遺跡がある。
        
                                  長く続く参道
 100m程は有りそうな砂の参道。馬場になっているようで、流鏑馬などの神事が行われるらしい。
        
      参道を進むと右手に「土師の辻(相撲辻)」と呼ばれる相撲の土俵がある。

 土師の辻 
 所在地 藤岡市本郷一六四  
 所有者 土師神社
相撲辻とは、屋外で行った相撲の土俵とその場所を意味している。土檀(土俵)は伏せたすり鉢状で、高さ一六〇センチ、上円部径四九五センチ、基底部一三〇〇センチ、傾斜二二度、斜長四五〇センチを測る。
「日本三辻の一」と称される。他の二辻は摂津国(大阪)住吉神社と能登国(石川)
羽咋神社である。
明治以降は使用されていないが、それ以前は出世力士が披露相撲を行うのが例で勧進相撲が奉納されたが、幕内力士でなければ相撲檀に上がれなかった。
                                      案内板より引用
 
   参道を進むと正面に割拝殿があり。         割拝殿内部(天井部撮影)
        
                               参道左手にある神楽殿
 10月に行われる土師神社の秋祭りでは、地元では有名な伝統芸能が披露されている。古くから執り行われていた「獅子舞、花馬、流鏑馬」の伝統芸能で、一時期は継ぐ者がおらず、長らく中止となっていたが、それを平成13年ごろに復活させ、現在まで大切に守り継いでいるという。
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿手前左側には「相撲額」も設置
  「正五位上土師明神」と記されている。
 相撲額
 所在地 藤岡市本郷下郷一六四
 所有者 土師神社
 土師神社祭神野見宿禰は相撲の神様と仰がれていた。
 この境内にある相撲辻は日本三辻の一つと称され、古来出世力士はこの辻で披露相撲を行った。又勧進相撲も行われたがその折、祭神にお礼と相撲の上達を祈願して相撲額を奉納された。
 この相撲額はこれらを証するもので、文化史の上からも貴重である。
                                      案内板より引用
       
                   社殿の奥に聳え立つご神木(写真左・右)
         
                     本 殿

 土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の後裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったと言われている。
 この天穂日命は天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱であり、天孫の父である天忍穂耳尊とは兄弟である。『古事記』『日本書紀』では、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかったという。一方、出雲の豪族である出雲国造が朝廷に参内して披露する『出雲国造神賀詞』の中では、きちんと任務を果たし、子の天夷鳥命らを天降らせたりして、大国主神に国を譲らせるのに功があったことになっている。また『日本書紀』でも一書(別伝)では、国譲りののちのこととして、大国主神を祭る神として指名されたりしている。
 天穂日命は天津神の中でも毛並の良い直系統に当たる神でありながら、上記のような二面性が生じている原因について確固たる説はないが、その背景となる状況を推測するならば、おそらくこの神は、元来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、記紀神話ができ上がっていく過程で出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し、膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになった可能性も否定できない。

             境内に祀られている石祠群(写真左・右)
       
                      社殿北側にも朱の鳥居が設置されている。


*本郷土師神社の北方150m程、十石街道沿いに「本郷埴輪窯址」がある。
       
 本郷埴輪窯址  国指定史跡
 指定日  昭和191113
 所在地  藤岡市本郷
 県内の埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られています。藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点があります。このうち本郷埴輪窯については、明治39(1906)に柴田常恵氏により発見されました。そのあとの発掘調査により、5世紀後半から6世紀末まで操業していたことが確認されています。
 この窯址は昭和1819(19431944)に発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査されました。このうち、もっとも依存状態が良かった1基が覆屋で保護され、見学することができます。
 窯の構造は全長約10メートル、幅1.8メートルの大型の登り窯で、窯の中から多くの埴輪が出土しています。
                                   
藤岡市公式HPより引用

なお文化庁はこの窯跡について、次のように解説している。

「丘陵の東南面傾斜地に營まれたるものにして二箇所ありて孰れも登窯の形式を示せり一は前部と後部との二分に分たれ前部は喇叭口状に擴がれり、後部は約30度の傾斜をなし長さ約135寸幅約4尺を有し略々圓筒状をなせる如く側壁及底床は堅緻なる粘土を以て構成せられたり、前部は長さ約18尺幅約6尺を有し約10度の傾斜をなし後部に近き区域は焚口部をなせるものと認められ埴輪馬を初め各種の形象埴輪破片等散乱せり、一は其の北方約13尺の位置に位し略々同様なる形式を示し後部の長さ約16尺幅約5尺あり前部の区域より埴輪圓筒破片、埴輪馬破片、埴輪武器破片等出土せり。 我国に於ける上代埴輪窯の構造を示すものとして価値あるものとす。」
                          「文化庁 文化遺産オンライン」より引用



参考資料「文化庁 文化遺産オンライン」藤岡市公式HP」「日本歴史地名大系」
    Wikipedia」等

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